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 出家、日本をゆく(ブログ日記) 
11月28日(月)

とある場所で、法事をつとめる機会をいただいた。

関わる方々あることなので、詳細は語らないが、

法事(=仏事・葬儀関連の儀式)には、いくつかの欠かせない要素があると感じた。

故人と、ご遺族と、その方々のご先祖と、仏法、そして仏者(僧侶)の働き、である。

たとえば、お墓の前では、ご先祖への礼拝が欠かせないはずだ。
墓とは、先祖方々との法縁の象徴だろうと思うからだ。

経を納めるにも、ひとつひとつ、たしかな意味を示す必要がある。

でないと、墓前のご遺族は、心で何をしたらいいかわからない。
生者の心がさまよっては、法事という大切な儀式を完結することはできない。

そういう、たしかな意味を示し、ひとつの時間(とき)を創るのが、
導師(=道を引く師)としての仏者のつとめであろう。

その席では、不思議な感慨を体験した。

わが命には、

仏法――それも2500年を超える歴史の縦軸と、
日本からインドなど海外にもつながる独自の横軸をもつ思想がある。

過去の人生に刻み込まれた数々の出会いと別離へのさまざまな想いがある。

故人とご遺族に差し向けるべきたしかな思いがある。

その心を背に、経という一事に集中するとどうなるか・・・

たしかに空気が変わるのである。

私は、仏者として、かたちだけの経は読まない。

必要とされたその場所では、全身全霊をこめて差し上げる。

故人に生者がなにを捧げるべきか、なにを語りかけるべきかも、
きちんとお伝えする。

その儀が終わったあと、なんというか、

2500年余の仏法に基づくはるかなる法縁(つながり)の中に、
故人がきっちりと抱かれた、

そのような感慨をもった。

こういう働きこそが、仏者の仕事であり、
仏教だからこそできる葬儀、死者の見送り方なのか、とはじめて感じた。

なんとも尊いことだ・・・ひとつの命をまっとうされた故人も、

その故人とつながり思いを寄せて集うご遺族も、

また彼岸と此岸(しがん)に位置する双(ふた)つの方々を橋渡す仏者の役目も、

2500年の悠久なるときを超えて広がり息づく仏法という命脈も。

それらが精妙に結び合わさった場が、
仏教に基づく葬儀なのである(であるべきである)。

目に見えぬ、広大無辺のつながりを感じているか。

そのつながりの中で、ひとつの関わりをとり結ぶことの奇跡を想えるか。

ひとつの命を弔う式が、ほんとうの意味を持つか否かは、
そういう深い部分できまる。

終わったあと、なんともいえぬこの世界の豊穣を見た。
故人もまた、つながっている。

この命が日ごろ伝えていた

「仏教だからこそできる、ほんとうにありがたいと思える葬儀を」

という言葉の中の一部を、

期せずしてご遺族からいただいた。

仏法の花がひとつ開いた日、と伝えよう。

帰り道に見た、秋色の山々のせつなき美しさと、
車内から見えた、赤やけの輪郭に映える富士山とに、
この命は慰撫された。

ひなやかな日本の風景と、日本ならではの法縁(つながり)とを、いただいた日だった。

仏法は、どこまでも深い魅力を湛えて、ときの流れの中で異なる光を放ってみせる。

その法脈(はるかなるつながり)に帰依した故人も、ご遺族も、この命もまた、
幸い哉(かな)である。


日本も、インドも、この命にはどちらも等距離だ。

生者にとっての確かな意味を創りだし、
故人と生者とをとり結びひとつの法脈に位置づけるはたらきを、

これからも誠意をこめて、つとめさせていただこう。

等距離の真ん中にはなにがあるのか(どこから出ているのか)、と聞かれた。

即座に出てきたのは、「死」だった。

仏者の真ん中には、死がある。

その瞬間に、何を念じ、何をもって心満たすかを、この命は悟っている。

だから、どこまでも、こころひとつで赴ける。

願わくば、すべての命が幸福を成(じょう)ぜんことを。
深謝合掌。

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 出家、日本をゆく(ブログ日記) 
11月26日(土)

ときどき公園で幼稚園児をみかける。
近くの保母さんが連れてくるのだ。

カゴの中に小さなからだを4,5入れて、保母さんが押して運ぶ。
うずくまる子も、カゴから外を眺めている子も、お喋りに夢中な子もいる。

歩いて移動する園児たちもいる。

保母さんと手をつなぎ、もう一方の手を、またべつのちっちゃな手と結ぶ。

そうやってつながって、公園まで移動する。

お父さんお母さんは、忙しく働いている時間だろう。
保母さんたちに大切な命を託して、その間に生活の糧を集める。

あのひとりの園児は、父母の愛情と、保母さんの愛情と、
ほかのお友だちの園児たちの手でつながっている。

たくさんの手とつながって、ちっちゃな命が運ばれている。

もし、あの中のひとりが、
「ぼくはひとりで生きてる」「だれの助けもいらない」「だれの世話にもなってない」

と考えているとしたら、それはとてつもなく罪なかんちがいだろう。

自分ひとりが苦しんでいる、と思うのもかんちがいだし、

自分はひとよりすぐれているはずだ、より多くのものを手に入れて当然だ、
と考えるのも、かんちがいでしかない。

不意に、あの園児のなかに、かつての自分を置いてみた。

自分ひとりで生きているようなかんちがいで固まった子ども。

なんと罪な、おろかな命であったか、と思う。

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 出家、日本をゆく(ブログ日記) 
11月22日(月)

お寄せいただいた感想から――

「龍瞬先生は、日常生活の身近な問題に即して易しく具体的にお話くださるので、分かりやすいです。
ユーモアある楽しい法話の中にも、眼の奥の鋭さも感じ、ブログを拝見しても小説みたいな様々なご経験をなされているのだなあと思いました。

宗教の方は、祈りなさい、信じなさい、とよく言いますが、そこまでの境地に達してない人にしては、その言葉で壁が出来てしまう気がします。
龍瞬先生はそういう類の言葉を一切言わないので、哲学だか心理学だか分からないのがいいです。」

感想・おたよりは、いつもありがたいものです。お声頂いたことに感謝します。

なるべく間口を広く、オープンにというのが、私の流儀。

信じるか信じないかの択一を迫るのは、
自分の妄想を受け入れるかどうかという選択の押しつけと同じ。

宗教は、基本的に、第三者がたしかめようのないこと、
つまりは妄想を信じさせようという無理をもっている。

ブッダの教えは、その妄想(貪り・怒りと並ぶ三毒のひとつ)から抜け出す「方法」を説いたもの。

だから、もともとのブッダの教えは宗教ではない、というのが私の理解です。

信じようが信じまいが、大事なのは、
おのおのが現実の人生をよりよき方向に運んでいく合理的方法だろうと思う。

その方法として、ひとによっては仏教が、ひとによっては他の信仰が、
ひとによってはただの世俗的生き方があるというだけ。

選択は、ひとそれぞれでよいと思っています。

「信じる」というのは、そのひとが、自分の心のよりどころ、生き方の軸・前提として、
ひとつの思想・思考をすえおく、ということ。

ただそれは、自分にとっての真実にはなっても、
それがそのまま他者にとっての真実になるわけではない。

そこを勘違いして、

「これこそが絶対究極の真理だ(みんな信じろ)」

と信じ込んでしまうと、独りよがりな発想のおしつけがはじまる。

その道は死んでもとるまい、と思う。

わたしは、ただ自分なりのやりかたで、ひとを愛したい(思いやりたい)。

ゴータマ・ブッダは、いっさい押しつけない人だった。
それぞれの自由な信仰を認めて、ただ自らが見出した
悟りなる心的境地への到達方法を説いた。

そのゴータマの流儀を分かち合いたいと願う。

私はみんなに伝えたい。

自分にとっての真実を大切にしてほしい。

自分なりのベストを尽くして、これが真実だ、という道(生き方)を見つけてほしい。

真実にたどりつけば、迷いはなくなる。
あとは、一本道を、命つづくかぎり歩きつづけるだけだ。

心をひらいて、その真実をまっとうしよう。

私が伝えたいのは、そういう道(生き方)です。

ちなみに、私にとっての真実とは、慈しみの一点。

いつくしみと愛情を、いきとし生けるものに――

人生はそれだけで明るく輝ける。

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 出家、日本をゆく(ブログ日記) 
11月18日(金)
巣鴨の学習会は、奈良時代の行基を終えた。

70,80代の方々が、すばらしい笑顔をみせてくださる。この場所をはじめてよかったと思う。

行基といえば、奈良・大阪のため池づくりや、東大寺の大仏づくりの貢献者として知られる。

当時民衆の支持をえていた行基が、大仏づくりの資金・労働力を集めることに貢献した、
だから「大僧正」という、仏教界トップの地位についたのだというのが定説。

だが、行基は30代後半から、道場、布施屋(庶民の救済施設)、灌漑事業に邁進した。

その活動の大義は、慈悲の実践――民衆の利益になることをカタチにする、
という明確なものだった。
民衆には、過去の罪業を浄化し、よき来世を期待するには、
施しをすることだと説いた。

布施といっても、民衆から坊主へという、今に残る"坊主に都合よきこじつけ"ではない。
あくまで、民衆から民衆へという、善意の橋渡しである。

だからこそ、民衆はよろこんで行基の事業を手伝った。
平城京東の山ろくには、行基の説法を聞きに、ときに万をこす民衆が集まったという。

その行基が、ほんとうに、大仏づくりなる酔狂なプロジェクトに身を投じたのか?
というのが、私のすなおな疑問だった。

過重な租税と労役にあえぐ当時の民衆にとって、
聖武天皇がうたう国分寺の建立、度重なる遷都、そして大仏づくりは、

苦しい負担にさらなる重石を課すようなものだ。行基はほんとうに動いたのか?

おそらく、聖武天皇は、行基の名を利用したのだと思う。

「あの行基も協力した国家的大事業だ、民衆も協力せよ」という権力者らしい演出。

大仏づくりの掛け声からわずか2年での「大僧正」。だが、鋳造すらはじまっておらず、
大仏づくりは、その翌年いったん頓挫している。
「大僧正」に任じられたとき、行基は78歳で、逝去まで4年足らずの老年である。

続日本書記には「勧誘す」とある。「誘」は、当時は「あざむく」の意。
最初に行基を弾圧したときにつかった言葉そのままである。

行基の活動は変わらなかったのではないか。

それを「勧進」(支援)と読み替えたのは誰だったか。歴史学者の読みちがいか。

ほかの史書には、行基が大仏づくりにかかわったという記述はない。

行基が大仏づくりに貢献、という図式は、あまりに権力者に都合がよく、
また激しく道を求めた行基に不自然なのである。

権力者の思惑は、いつの時代も似ている。
聖武天皇には、民衆にとってのアイコン(聖者)である行基の名を利用して、
大仏づくりを推し進めようという意図があった――。

そんなことを感じるのは、行基と、インドで活動する佐々井秀嶺師が重なってみえるからだ。

佐々井師もまた、自分なりの菩薩道をはげしく追求し、インド民衆の支持をえてきた。
その名が大きくなればなるほど、その名を利用したがる政治家もでてきた。

行基も、佐々井師も、正真の出家である。

私は、佐々井師の活動をこの目で見てきている。その体験から想うのだが、

行基は、おそらく、聖武天皇の思いつきに飛びつくことはなかったと思う。

仏教を、歴史としてとらえては、ただの知識として素通りしてしまう。
ナン年に、誰ソレが、こんなことをしました(ふーん)、で終わってしまう。

しかし、「真実の道を生きる」という出家の目でとらえると、
歴史としての仏教は、ちがう見え方をしてくる。

知識も、伝統も、誰かに都合のよい思いこみにすぎないことが、ままある。
日本仏教には、なおさらかんちがいの部分が大きい。

だから、私はこう伝えている。

いっさいの思いこみをすてよう――。

今感じているこころを軸にすえて、

自分ならばどう動くか。どう考えるか。
自分にとってほんとうに必要なものか。ほんとうに役立つものか。

自分にとっての現実(リアルなこの人生)をこそ、学びの道の出発点にすえるべきだと思う。

自らのしあわせに必要なこととそうでないことの区別がつくだけでも、
人生はがらりと変わる。

自分にとっての真実か否か、の区別がつけられるようになることも、
ブディズムを学ぶ功徳(メリット)だ。

20日、23日の道場もまた、そういう心の眼を開くためにある。

道を求めるひとよ、神楽坂で会いましょう。

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11月23日(水) 入門・座禅エクササイズ 特製ハンドブックつき

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 出家、日本をゆく(ブログ日記) 
11月14日(月)

先週月曜は、代々木の炊き出しに参加させていただいた。
仏法を伝える時間もさずかった(ご縁頂いた方々に感謝申し上げます)。

礼節として、地べたにはだしで立つ。

出家は英語で「ホームレス」。似たようなもの。
ただちがうのは、この道の先を知っていることではないか。

それは慈しみ――自他ともに等しい幸せを願うこころ。
幸せでありますように。

インドにはホームレスがたくさんいる。しかも堂々としてる(笑)。

ここは日本だが、世俗的な価値観は、出家との関わりに意味を持たない。

善き友として、あたらしい道をゆこうぞ、という話。

亡くなったホームレスの人を見送る儀式(葬儀)も受け持とう。

ある男性は、尼さんに書いてもらったという「秘伝仏教ノート」と中村元氏の本を持っていた。

八正道の意味とか、五戒と十戒のちがいとか、よく知ってる。
悟りをめざして修行するつもりなのだという。
堅く握手(^-^)V。

20代前半の若いホームレスもいた。大阪から出てきて、東京での冬は初めてだという。

さっそく炊き出しの前に合掌して「ありがとう」と言う人が出てきたそうだ。
よき兆しである。

けっこういい笑顔をする人が多い。
この関わりを続けていきたいと思う。

その翌日から、これまたご縁あって、被災地・宮城へ。

失われたこの場所から建て直さねばならぬ、リアルな生活感。

ありのままを見、理解し、自らのはたらきを考え、ただ実行する。

仏教はいらない。論ずることもいらない。

3・11後の身の処し方など、自ら動くつもりがないのなら、語るだけ罪ではないか。

言葉は、つねに「自らの善きはたらき」(何のためにどう動くのかという問い)とセットで発することだ。
実際の動きの先を、言葉で走らないこと。

はたらきとは、水のようなものだ。

水は、乾いた場所に、空いた場所に、流れて、潤す。

どんな場所にあってもいいから、
ただ、水のように、自然に働ける身でいることだ、と思う。

帰った今朝、家なき老父が街路の草を摘んでいるのを見た。
(ブログで紹介した、ふた月前の驟雨の朝に雑草を摘まんでいたのと同じひと)

どんな思いで摘んでいるのか知る由もない。ただうけとめるだけである。

あるがままを、ただ見る。

そして、今いる場所で、己の働き(役割)を果たす。

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ブログ日記 11月5日 * * * * * * * * 

「禅病」という言葉をはじめて聞いた。

どういう病気かわからないけど、
もしかしたら、「妄想に気づかなくなる状態」?

想像や考えごとをどんどん膨らませてしまって、
それを追いかけることに執着したり、
妄想そのものを真実だと思い込むようになったり?

たしかに、教室で感想を聞いてみると、たまに、

「おへそのあたりからビーム(光線)が出るようになりました」とか、

「だから日本の教育はよくならないのだと分かりました!」

という人がいる(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。

正しい方法を伝えているつもりだが、
そのまま受け取ってくれる人ばかりとはかぎらない(--;)。

何を伝えても、ああではないか、こういうことではないか、と考えをめぐらせて、質問ばかりして、
目の前の気づきに取り組めない人もいる。

座禅という「ありのままを理解する」方法を、正しく実践するにはどうするか?

「いわれたとおりやってみる」

しかない。

「禅病におちいらないようにするには、よき師にめぐりあうしかないのか?」

といった質問もあった。

たしかに、道を正しく示せる人と出会えれば幸運だろうと思う。

自分を客観的に見てくれる人。そして、必要以上の判断をおしつけない人。

道のよき案内人というのは、

そのひとの心の状態を正しく理解し、
的確な方法を示せる人だろうと思う。

プラス愛情・情熱があれば、すばらしい。
(この命もそういう役割が果たせるように努めたい)

示した道(方法)を実践できるかは、ひとえに、受け取る人にかかっている。

昨日のエクササイズには、きちんと学べる人たちが来ていたように思う。

ひとつの物事に真摯にとりくむ姿は、それだけで尊く美しく映るものだ。

もうひとつ、座禅のあやうさについて。

ほんとの座禅は、一般の人がイメージする「安らぎ」とか「リラックス」とは正反対。

日ごろの私たちの心は、妄想漬けの状態だ。なかば眠っているに等しい。

その状態から抜け出すには、それなりの努力がいる。

すべり台を下から上る大変さをイメージしてもらえればいい。気合がいる。

忙しく気づいて、雑念を振り落とす。

テキパキ、チャッチャッと心の状態に気づいて枝払いする感じ。

とにかく、ただ座ってるだけなら、眠ってるのと同じ。ほんとの座禅は、忙しいのです。

そのかわり、ちゃんとやれば、シャキッと心がめざめる。

生きてるぞ!という実感もわく。

少しでも、日常の半睡状態から抜け出した体験を味わってほしいと思います。ゼンゼン違うから(笑)。