仏教講座スケジュール

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インド帰郷5 道の孤独

12月27日

◇チェンナイ郊外の村を訪問。この村には1万3千人の村人が住み、そのうち十分の一が仏教徒。熱心に活動しているのは6家族。

彼らが新しい土地を買って、簡素なビハールと僧侶滞在用のクティ(ちっちゃな家)を作った。僧侶はいない。残りの敷地は緑ぼうぼうの更地のまま。

協会の理事長さんほか主要メンバーと会う。みなでビハール最初のプージャ(供養式)をやる。座り方からガイドする。

それからダンマトーク。彼らは仏教の話を聞く機会がほとんどないので、五戒文(殺生しない、盗みをしない、といった仏教徒の基本ルール)を唱えるくらししか知らない。“マインドフルネス”の話をしても、ポカンとしている。

どんな状況にあっても、ものごとを正しく理解できれば、心の葛藤は消える。信じるのではなく、正しく理解しようと務めること。理解の先に悟りEnlightenmentがある。ブッダはそういう道を示した人。理解を育てる基本の方法がマインドフルネス――といった話をする。


◇ちなみにこの地で仏教を語ると、いろんな反応が返ってくる。たいがいの場所では好評。みな嬉しそうな顔で見送ってくれる。

ただ複雑な反応が返ってくることもある。ある村で話したときは、村人の老父のひとりが、「なんで地元の言葉(マラティ語)で話をするんだ(英語なんか話して)」とクレームがあった。

彼らからすると、村に坊主が訪れたことなど一度もない。仏教の作法なんか知らない。せっかく集まったのに英語で話されるなんて……ということらしい(通訳してもらっているのだけど(^^;))。

なるほどな~と思った。彼らの心情は理解できる。たしかに好感をもてる外国人というのは、現地の言葉を話せる人(山形弁を話すアメリカ人とか)。心情はどこの地でも同じである。

「気持ちはわかります  I understand your feeling.. ただ私がマラティ語で話せるようになるにはとても時間がかかります。まずはこの出会いをエンジョイするよう心がけてみませんか。坊さんが初めてきたということ、こうしてお互いに出会えたことって面白いことだと思わない? 出会ったことをまずは楽しみましょう Let's just enjoy seeing each other」という話をする。

あとで聞くと、小難しい反応をしたのは一部の老父たちで、子供や女性たちらほかの人々には好評だったらしい。ラケシュがいうには、あの村には教育も普及していなくて、人々の意識は古いまま。でも初めてお坊さんの話を聞いて、みななにかを考える。あのお坊さんは何を伝えようとしたのか、って。それがすごく大事だ、と言う。

「メッタ (マイトリ、いつくしみ)」 という言葉も、村人ははじめて聞いたという。


あの村の何人かでも、また今日訪ねたこの地でけなげに頑張る村少数派の仏教徒たちも、
この新しい言葉を覚えて、それを日頃の心のよりどころにしてくれたら、と想う。

こういう仕事が坊さんの仕事。地味な仕事だけど、人の心に小さな花を咲かせることができるかもしれない仕事。


◇インドの地は言語もバラバラ、人々もバラバラ。ひとに譲るより自分を優先させる、都合の悪いこと(ゴミやミステイク)は適当にほっぽり出すという、(正直あまりにひどいと思ってしまう(笑))文化がある。

田舎の村にいけば、合理とは無縁の、因襲と盲信の中に眠るように生きている人々がいる。彼らにとってはラーマやクリシュナといった神々は“実在”する存在であって、カーストも輪廻も、当たり前の真理として脳裏にこびりついている。

文字も読めない人々がたくさんいるのである。本を読んで考える、という営みからはるかに遠い意識を生きている。

こうした現実が2500年以上昔からきっと変わらず続いている。それを想うと、ブッダという人は、この地で何を感じていたのか、という疑問が自然にわいてくる。ブッダがたどり着いた理解というのは、インドの人々からはあまりにかけ離れていただろう。そのことはブッダも承知であっただろう。だから仏典にあるとおり、伝道を最初はためらったのかもしれない。

インドの現状と比較して、仏典に残るブッダの思想はあまりに合理的で澄みきっている――。

人々は、ブッダのことばを理解していたのか。仏典のエピソードをみると、仏弟子や人々が理解できなかった(反応さえしなかった)話というのもたくさんある。ブッダは教えをあまさず説いたが、人々は理解できなかった――そういう場面がおそらく無数にあったのだろうと思われる。

ブッダは自分の理解が人々にも同じように理解されるだろうとは到底考えなかっただろう。自分亡きあと、人々は、この盲信の眠りのなかにただ戻るだけ――そう知っていたのだろうと思う。

それでも、伝えるべきもの、ダンマを伝える。伝えるべき真理はそれ以外にないから。

伝えたあとでそれがどうなるか、人々がどう受けとめるかは、自分が計らえるもの(領域)ではない。

そういう諦念(あきらめ)があったのではないか、と思える。


たどりついた真理以外に自分が伝えるべきものはない。だから、ただ伝える――。


孤独な人だったのだろうと想う。


インド帰郷4 ホーム

12月24日

午後2時発の予定が、堂々の6時間遅れでナグプールからチェンナイへ。

チェンナイに着いたのが午後2時(つまりは所要18時間)。お迎えの男2人と一緒に乗り換えてさらに1時間。そこにもお迎えの男たちが2人ほどいて、総勢6人(ワスが同伴)で目的の会場へ。

今日はもうひとつカレッジの学生たちとのミーティングが予定されていたのだが、列車が遅れたため、二つめの予定のみ。大きな会場を借りきってのセレモニー(日本でいうなら法要)。

ダンマトークをと言われたので、つい最近まで地球を周回していた日本人宇宙飛行士の話をする。彼は高度4百キロ(!)もの上空で時速2万キロを超える速度で地球をわずか90分で回りながら、数百を数える難しいミッションを数ヶ月かけてクリアする。

彼が宇宙で使命を果たせるのはなぜか。個人の能力の高さはもちろんだが、何よりの理由は、還る場所――地球――があるから、とはいえないか。

還る場所があるから、どこまでも自由に進める。難しい作業に集中できる。

彼はどこに還るべきか、どうやって戻るべきかを熟知している。その上での至難の芸当である。

我々にとってのダンマとはそういうもの――戻るべき場所。我々のホーム。

ホームを失ってはいけない。損ねてはいけない。もし失ってしまったら、この過酷な世界の中で我々は再び迷子になってしまう。ブッダやババサブが現れなかった頃の暗黒の社会へと戻ってしまう。

今日のセレモニーは、いわば我々の帰還する場所――ダンマ――を確かめ合う場所。我々はつねに、ダンマに沿って生きているか、ダンマに基づいて活動しているかをチェックしなければいけない。

ダンマさえ足元にあれば、我々はどこまでも自由に活動していい。我々の活動の目的は、インド社会の苦しみをダンマを駆使して解消すること。そのためならどのような方法をとってもよいのだ。ダンマに基づくかぎり。人々の苦悩の解消に役立つかぎり――。

そんな話をした。チェンナイはタミル語という、ヒンディーとはまったく違う言語・異なる文字を使う人々の街。同伴のワスさえ言葉がわからず狼狽していたくらい。この地ではヒンディーより英語のほうが通じるのである。

そのあと、主催者の家で食事。食べ物もナグプールとは違う。ライスを蒸しパンみたいに丸めたもの。家の女の子たちが覗きにくる。インドの子どもたちの瞳は、宝石が三つくらい入っているかのようにきらきらしている(☆▽☆)。

帰りの夜は、初めて出会った篤実なインド仏教徒たちと電車に乗ってガタコト――。なんだかこの三年半もずっとインドでこのような活動をしていたような気になる。たぶん、十年、数十年とこの地で活動していれば、それこそあっという間に一生を終えてしまうだろう。それくらい変化に富んだ濃密な時間がここにはある。

駅舎に泊まる。インドは空気も水もはっきり言って清潔とは対極にあるし(というか衛生観念というものがシャットダウンしている感がある(笑))、言語も食べ物も州・地方によってまったく異質になる。


「この地で生きていくのは大変だな~」というのが実感(笑)。


佐々井師はこの苛烈な土地で46年も生きてきたというのか。驚く以外にない。

インド帰郷3 希望の水

12月23日

◇ナグプールマップを作るために、市内を回る。トラの保護地区の森をドライブしていると、目の前に血まみれの老婦が倒れている。家族らしき女性はパニック状態。助手席に座っていた私に「バンテジー!(お坊さん!)」

ただちにメンバーたちと老婦を抱え上げてバンの後部席へ。ディパックが冷静沈着に老婦を抱きとめ、「バイ?バイ?(お義母さん)」と泣き叫ぶ女性を同乗させて急遽発進。日本のような救急体制はこの地にはない。ラケシュが車を運転。バンに乗っていたワスほか二人は車を降りてバイクで後に続く。流れるような連携。誰が何を語るまでもなく、みな何をすべきか知っている。

あとで友たちがいうには、家族が路上で助けを求めても、ドライバーたちは警察沙汰を恐れて止まってくれなかったそうだ。坊さん(つまり私)が乗っている車なら助けてくれるだろうと思ったという。警察も坊さんが乗っている車に目をつけはしない。僧であることが意外なところで役に立った様子である。

病院に運び込む。脳挫傷で、意外な重症らしい。老婦は車内で吐いてしまって、抱きとめていたディパックのワイシャツとズボンは血と吐瀉物で汚れてしまった。それでもディパックはイヤな顔ひとつしない。このチームは尊敬すべき仲間たちで作られている。新しい服一式をディパックにプレゼントした。


◇日本ポリグル社からいただいた水質浄化剤を、いくつかの場所でデモンストレーション。反響が大きい。インド全土で水の汚染が問題になっている。“ポリグル”は、池・川・井戸の水を汲み上げて、浄化剤(粉末)を攪拌するだけで汚染物質が凝固、沈殿するという画期的なもの。浮遊物が舞う水がみるみる透明になっていくのをみて、みな笑い出す。この浄化技術は、これまでの濾過という浄化法とは、原理・発想がまったく違う。私が飲んで見せるまでもなく、みなためらいなく飲み干す。

水の汚染で困っている人々に優先的に頒布する、利益が上がる段階になったら、何割かを地域改善に役立てる、利益の活かし方としてコミュニティ全体のインフラ整備・保険・基金などに当てる、あるいは社会活動を頑張っている篤志の団体・個人を表彰する、奨学金にあてる、といった方向性を話し合う。

この幸運を次の善き価値の創造へ――この地の団結力と技術力と正しい動機をもってすれば、かなりの成果が見込めるだろう。

ポリグル社のバングラデシュでの活動を特集したテレビ番組をみな熱心に見ている。「ポリグル」「オダセンセイ」を覚えてもらった。

いくつかのハードルがある。ひとつは政府の認可(ISI)を得ること。これは可能らしい。もうひとつの壁は、「市場で売る」こと。インドの飲料水市場は、ヴァイシャ(商人)カーストで寡占されている。上位カーストの事業に割り込もうとすれば必ず妨害されるという(このあたりはほかの国とは違う事情がある)。

まずはウダサ村からスタート。近郊村落での頒布。地域限定で売ることは難しくない。もし「売る」ことが難しい状況であれば組合形式にして会費を集めるという形ではどうかという話。いろんなやり方があるだろう。「ステップ・バイ・ステップ」で状況を変えていけばいい、という話。


すべては「オダセンセイ」が来てからの話。この新しい水プロジェクトは、インド社会に大きな慈雨をもたらす可能性を秘めている。成功を願う。

インド帰郷2 「たこやき、知ってる?」

12月20日

◇朝、学校 (GenuineDhammaScholarConvent の子どもたちにあいさつ。3歳から5歳半。総勢110名。

みな近郊村落の子どもたちで、家庭は裕福ではない。月の授業料は100ルピー(160円)。その額も払えない家庭もあるという。朝8時から昼すぎまで授業。全部英語。

“Do you understand English?” (英語はわかる?) と聞くと、”Yes!” と元気な声が返ってくる。

“Do you like school?” (学校は好き?) “Yes!”

“Are you hungry?”  (お腹すいた?) “No!”(おおっ、分かっている!)


日本から持ってきた“うまい棒”を配る。

“Japanese school kids like this snack very much. Do you want to try it?”

(日本の学校の子どもたちが大好きなスナックです。食べてみたい?)

“Yes!”

3種類の味がある。

“Do you know cheese?” (これはチーズ味。知ってる?) “Yes!”

“Do you know Takoyaki?” (たこやき、知ってる?)  “No!”

“Do you know Mentaiko?” (明太子、知ってる?)  “No!”(そりゃそうでしょ(笑))

“Do you wanna try?”(食べてみたい?) “Yes!”

インドの村には学校がないところもたくさんあるし、あっても公立校の教育レベルは相当低い。だから裕福な家庭の子供たちは私立に通う。ただ村落の子どもたちは親が貧しくてその機会はない。だから友たちは自分たちで幼稚園を作ってしまったのである。

土地を購入できれば、小学校、中学校と建設する予定。すでに市内には、大学生・卒業生のための寄宿寮ができている。もちろん今は大赤字。メンバーたち(ワスやラケシュ)はみな農家。維持費のけっこうな額を自腹で払っている。それが喜びなのだという。

12月21日

◇インドが面白いのは、人のキャラクターが“読めない”こと。

見るからに極悪人らしき目つきの悪いヒゲもじゃの中年男が、全インドに名の知れ渡った人気俳優だったりする。

今朝会った“おっさん”は、ステテコ姿で目の前であくびをし鼻くそをほじりながらワスと私と話をしていた。実は彼は、インド初の仏教チャンネルの創始者である。今や全インドで放映されていて、テレビチャンネルをひねれば仏教関連の番組が見られる。

商業コマーシャルは入れずに、寄付を募る。そのため赤字が続いている。どうすればいいと思うかと聞くので、ダンマワーク(いうなれば社会事業)をしている企業を宣伝すればよいのではないかと伝える。売り方の問題。「私もそう考えていた」とうなずく。


その日の夕刻には、ワスと私は、その仏教チャンネル(The Lord Buddha TV)のスタジオにいた。番組に出演することになっちゃったのである(笑)。台本もインタビュアーの英語もいい加減で、このあたりはインド的(笑)。途中ひとが入ってきたり、誰かのモバイルが鳴り出したりとこのあたりはもっとインド的(^□^;)。

「ババサブ(アンベドカル博士)の著作『ブッダとそのダンマ』の印象は?」

「あなたの僧侶としての活動の目的は何か?」

「仏教が滅びたインドでこれから仏教を広めていくにはどうすればいいと思うか?」

といった質問に答える。

最後に「日本語でインドの人たちにメッセージを」。

(何言ったか忘れた(笑)。ブッダテレビ見てね、という内容だったか(笑)) 


◇そのあと、最初(6年前)にインドに滞在したときに出会った人の家を訪問。

あの頃は、私はこの先の人生をこの地で生きていくのだと覚悟を決めていた。当時の自身のひたむきさ・仏教という新しい道への信頼を思い出した。嫁に行く女性のつつましい心境とはこういうものかと感じたものである(笑)。


インド社会は変わらないし、インドの人々も変わらない。

平気でウソをつく・だますしょうもない人間もいるが、この地で私が知る仏教徒の人々はみなとにかく敬虔で、情熱的で、ひとを信じる。


ただ、大きく変わってしまっていた関係もある。 
ひとは、うつくしく年をとるのは難しいものらしい。


インド帰郷1 奇跡の中へ

12月18日
バンコクからカルカッタへ。

カルカッタのアウラ駅から、ラケシュに電話を入れる。声を発せば、すぐに“ジャイビーム”の声が返ってくる。変わらぬ澄んだ声である。このあまりに広い世界の中でこれほどに誠実な友情をみつけるのは果てしなくむずかしい。インドで彼らに巡り逢えただけで、私の人生はめったにない奇跡を得たといえるのかもしれない。

カルカッタから18時間(夜9時55分発→翌日午後4時着)かけて、いよいよナグプールに到着。

GDI(GenuineDhammaInternational:私たちの組織)のメンバーが駅で迎えてくれた。3年半ぶりである。

ナグプールの街はほとんど変わっていなかった。駅前のオレンジ市場も、甚だ煤けた外気も、まったく気遣いというものに無縁に見える不躾なインド人のふるまいも(容赦なくホーンを鳴らし、啖を吐き捨て、埃の舞う中に料理を晒し……)。


車に乗って、最初に向かったのが警察署。警察署長が仏教徒で、メンバーの友だち。ふっくら顔の人のよさそうなおじさん。

(ちなみに後日会った州政府の役人たち(女性含む)も、みな人当たりがすこぶるよい。あとで聞いた話だと、みなマハール・カーストという不可触民出身だから偉ぶらないのだという。バラモンカーストの横柄さはこの南部マハーラシュトラ州ではほとんどみられない。この州の9割以上はマハールだそうだ。)


そのあと、GDIの学生寮へ。生活しているのは大学院生。法律専攻も文学や福祉専攻者もいる。大学講師をやっている男性が寮生の勉強を見ている。「1日13時間の勉強が義務」と壁紙に。朝3時半にはみな起きる。

「集中力を上げるにはどうすればいいか」「ひと前で緊張してしまうのだがどうすればいいか」といった質問が。

気づきMindfulnessの力を上げる、ひとに話そうとする(ひとを見る)のではなく、自分の内に向かって語りかけるようにする、といった話をする (このあたりは、日本での経験が役立ったか(笑))。

とにかく、みな敬虔・まじめ。この寮にいる青年たちは、郊外の貧しい村落出身者で、この寮がなければ学業を遂げることができないという。この寮の生活費は無料。建物のオーナーが全額支援している。そういう篤志家はこの地にはわんさかいる。


そのあとさらに、GDIのセンターへ。これまた3階建ての瀟洒な建物。こっちは公務員試験をめざす20代前半の女性たちが一緒に暮らしている。彼女たちも無料。けっこうな額をGDIのメンバーが負担している。最年長者のワスが言うに、

「今支援することで彼らは社会のリーダーになれる。そしたら、支援した分は十分返ってくる」という。

日本人が泊まれる部屋もある。GDIを最初に作ったウダサ村にもゲストハウスを建設中。


そして3年半ぶりに、ウダサ村へ。ここが私の第二の故郷(出家した身にすれば第一の故郷かもしれない)。3年半前はただの平屋だった建物が、110人の子供たちを抱える英語学校に変わっている。さらに6500平方ftの土地を借金してまで購入するという。

「今買っておけば、次の世代が使ってくれる」と40歳のワス。
「フォロワーはいらない。社会のリーダーを育てたい」
「ババサブ(アンベドカル博士)のおかげで法律はできている。あとはそれを執行する上層の公務員を育てたい」という。

なんというか、鋼(はがね)入りの情熱なのである。


想像以上に、メンバーの活動は先に進んでいた。土地購入にあと20万ルピー(32万円)足りないという。「トライ、トライ、トライ(とにかくがんばる)」と笑っている。日本から持ってきた寄付金は15万円。1年カンパを募ってけっこう集まったと思っていたが、こっちに来てみると……(笑)。


とにかく、動きが大きい。速い。これがインドの友たちである。20年前にババサブの本を読んで、弟ラケシュたちを教育し始めた最年長者のワスは、時間があるといろんな場所に出かけて人に会いネットワークを広げている(その活気あるつながりぶりはフェイスブックの比ではない(笑))。ラケシュはウダサ村の自治会長として広い人脈と影響力を持っている。その親友のディパックは、独学でカレッジに進み法律を学んだ。佐々井師の秘書を務めたこともある。

彼らを中心として、ナグプールにはインド社会の改善をめざす仏教徒たちの幅広いネットワークがある。弁護士も会計士も州政府の高官も警察署長も医師の青年団も学校・研究所・大学の経営者もいる。

ナグプールに身を投じれば、瞬く間に、彼らとつながっていることを知る。彼らはダンマを求めている。

ダンマ(法・真理。仏教の別称)とは、彼らにとって、インド社会を効果的に変えるための知慧であり、心の支柱である。

この命に求められている役割は、ダンマを語る口であり、ダンマを実践する身である。

かっちりとこの身がピースとして埋まるのを知る。


これが龍の街ナグプールでの初日である。


※“うまい棒”は学校の子供たち(3歳から5歳)に無事配布。喜んでました。○○さん、とってもありがとう(^▽^)9

※この地と日本とがちがうのは、人々の社会改善への情熱と行動力かもしれない。たとえばナグプール市役所の福祉課長の女性は、二人の知的障害児を抱えたことをきっかけに自分で障害児用の福祉施設を立ち上げた。さらに古代のナーランダ大学のような仏教の総合大学を作りたいと語っていた。おそらく世の中をよくするため、人生に意味を持たせるために、やれることはたくさんあるはずなのだろう。それを見つけようとするか、行動しようとするか、という発想(生き方)の問題ではないか。

情熱と想像力と行動と――この地で出会う人々にはその三つがある。日本人は、できることを始めるより、できないことを数えたててフタをしてしまう発想に慣れているのかもしれない。

行ってきます!!!!!!と来年の興道の里

12月14日
◇最初に、来春の興道の里のスケジュールから――

●2月2日(土) 午後6時~8時半 
年初めダンマライブ 龍瞬、インドをゆく~インド再訪の報告会(スライドショー)と原始仏教のお話(ブッダに学ぶ新しい世の中の作りかた) 

★参加費無料!
せっかくの帰国後第一弾のライブなので、参加費は無料とします。みなさんお気軽にご参加ください。もちろんカンパ大歓迎です。

●2月9日(土) 午後6時~8時半 
仏教のきほんを学ぶ講座・改訂版 
昨年実施したシリーズ講座(全6回)を、部分的に内容を改めてお届けします。前回出られなかった人・改めて学びたい人向け。

※全4回の日程  2月9日、23日、3月9日、23日  いずれも土曜日 午後6時から
※参加費 一括6000円 単回1700円

●2月13日(水) 午後7時~9時  
仏教のきほんを学ぶ講座 

土曜の講座に出られない人向けに、平日夜に開講します。仏教の全体像と、実用的な部分を学びたい人にオススメのシリーズ講座。仏教の本質・基本を、わかりやすい言葉で学べます。

※全6回の日程  2月13日、20日、3月6日、13日、27日、4月3日 いずれも水曜 午後7時から
※参加費 一括8500円 単回1700円

※4月からは月に2回のペースで、通年の仏教講座を実施する予定です。仏教をこれからの生活の指針として役立てたい人、この場所で新しいヨコのつながりを育てたい人はぜひご参加ください。

◇ブログ日記――出家、日本をゆく

12月14日
いよいよ、インドに向けて出立の日となった。

午前は、NHK学園の講座。お昼に生徒さんがお茶会を設けてくれた。

「先生はまだ若いから、私のケーキも食べてください」とお二人に言われた。ひとりは糖尿病。糖分は控えねばならないからという(ならばなぜケーキセットを頼むのか……)。

ひとつは残して二つ食べたが、あとで気持ちが悪くなった(@△@;)。

楽しいサークルと化しつつある。仏教を通すことで、子供からシニアの人まで、幅広い関係を作り出せる。“これこれ(^w^)”という感じ。
この道(仏教)は、私がやっとこさたどりついた理想の職業である。

それからゴロゴロとキャリーバッグを転がして成田空港へ向かう。

今回の、インドナグプールへのお土産は、

①大阪ポリグル社からいただいた、水浄化剤10キロ!
これはすごいのである。
これだけで4万リットルの飲み水が作れるらしい。

インド現地の人々が、これを見たらなんと反応するだろう???

この成果をさずかっただけでも、この二年間日本で地道に活動していた(生きてきた)意味はあったというべきである(-人-)カンシャ。


②一年で集まったカンパ○○○○円!!!!
こりゃまたありがたい話である。

この一年、教室で募っていたカンパをまるごとインドに持って帰るのである。

小さな額からまとまった額まで、さまざまな人がご善意を授けてくださった。

それを持って帰れる。みんなに書いてもらった色紙の寄せ書きとともに。


③“うまい棒”3連発!!!!
こりゃ~ありがたいのか、今もってナゾ(?)の部分がなくもないのであるが(笑)、

里人(教室に来てくれているひと)のおひとりが、
至急宅配で送ってくれたものである。

中身は、「たこやき味」「チーズ味」「めんたい味」の3種類――。

……はて、インドの子らはどう反応するのか???

まあ、食べさせてみっぺえ、という感じで、バッグに詰め込んでゴロゴロ――。

(成田空港にボブ・サップがいた)


ということで、日本に渡って2年目にして、ついに、ようやく、
インド再訪のときが来たのでありました!


インド・ナグプール(龍宮城)で何を見るのか――?


時間をみつけてブログで報告したいと思ってます(どうなるかわからないけど)。

ともあれ、今回のインド再訪にご協力くださったみなさん、
ほんとうにどうもありがとうでした!

では、行ってまいります!!!


(かなりタイムラグあります。もうインドに着いてますから(笑))

クリスマス前夜祭PART2

12月13日

8日の第2部は、神楽坂から四ツ谷に移動して、ワークショップ。

前半は、講座で学んだ仏教的な考えを活かして、

日常的な“問い”をみなで話し合うグループディスカッション。

「思いやりとお節介のちがいは?」

「別れようとする相手を引き留めようとすることは正しいか? 
 引き留めるとしたら、どうするのが正しいか?」

「善と偽善とをどう見分けるか?」

「我欲と慈しみは両立しない。それはなぜか?」


といった問いを、グループで考える。

一見むずかしく聞こえるけど、
グループでとりくむと、それなりに糸口がみつかって、話が進んでいく。

仏教を学ぶと、それなりの答えがすっと出てくるようにもなる。

逆に言えば、こういう問いに答えを出せるようになるのが、仏教を学ぶ目的のひとつだといえるのではないか。 “智慧”をみがくのが仏教である。

(ちなみにたとえば、善か偽善かは“相手の反応によって決まる”。相手(関わり)次第。いくら自分が善(よかれ)と思っても、相手にとってはいい迷惑・ただのお節介ということもある。他方、自分の中に打算・計算があって、一面偽善にみえても、相手がそれを必要としてくれているのなら、それはやはり善ということになる。すべてを自分の立場で決める必要はないという話。相手にゆだねればいいという話。)


後半は、寄せられた“マイテーマ”(自分自身の課題・悩み)をグループで語り合う。

ふだんは、講座・法話という形で、仏教を一方的に話す時間が多いのだが、

今回は、ほとんど参加者の語り合いで進んだ。

答えがまとまったら、発表してもらう。いろんな体験・意見が出てきたことを知る。

私自身、すごく勉強になった。みな、いい体験をしてる。真実をもってる。楽しかった!

終わって、みなで記念撮影。


転職した人、今夜誕生日だった人がいる。

ほんとは、時間のなかでお祝いしたかった。


参加者のひとりが、クッキーを差し入れに持ってきてくれた。
お手製のクリスマスツリーも(仏教なのにいいのかって? いいんです、愛があれば(笑))。


そのあとは、わらわらと歩いて近くのファミレスで懇親会。

いつの間にか、友だちが増えたな~という印象。

今年何がしあわせだったかって、やっぱりこういう親しい関わりが増えたこと。


この場所は、友情を育てる場所なんだな、と感じた。


お互いに顔も名前も覚えて、この場所に来れば何かしらの発見と再会と親睦とがあって、という場所。

宗教としての仏教ではなく。

きちんと日々をまともに生きるための心の態度・考え方を学ぶ場所。


来年は、月に一、二度のシリーズ講座をつくる予定。

定期的にワークショップも開こう。

たまには、近郊にドライブに行くのもよいかもしれない(やっぱ実現したいのは、里山ツアー(*^^*))。


今夜で、今年の興道の里はほんとにおしまい。また来年。 


今年出会った人たちが、よいお年を迎えられますように。 
また来年、変わらず、よき友として再会できますように――。

みんな、みんな、ありがとう。

よい年越しを! (その前によきクリスマスを!――いいんです、愛があれば) 


龍宮城まで、あと1日――。


クリスマス前夜祭PART1

12月9日

年内ラストの講座が8日に終了。

午後は、クリスマス映画を見ながら、“愛”の意味について考えた。

アメリカ映画『NOEL』のワンシーン。

主人公は、独身の中年女性(スーザン・サランドン)。

かつては結婚して子供もいたのだけど、その子を病気で失ってしまった。そして離婚。

あとは心閉ざして、ただ痴呆症の母親を介護するだけの孤独な日々。

その母親の隣の病室に、寝たきりの末期の男性患者がいた。

見舞う人は誰ひとりとしていない。薄暗い病棟にひとりきり。

その姿を見た女性は、思わずひとこと“I love you”とつぶやく。


女性には、クリスマスイブなのに、一緒にすごせる伴侶も友人もいない。母親には表情すらない。

氷が浮かぶ河のほとりにたたずんで、じっと凍てつく水面を見つめていた。


「何してるんだい?」と、不意に隣から声がする。


いつの間にか、男が立っている(ロビン・ウィリアムズ)。

さっきの病室にいた。孤独な男性患者の親戚だという。
 

“I love you”の言葉に愛を感じたという。


元神父だというその男性は、いつしか神が信じられなくなって神父をやめてしまった。と同時に信仰も失ってしまった。あとは独りきり――。

きみが飛び降り自殺でもするのかと思った、と笑う男。

男は女をお茶に誘う。せっかくのクリスマスイブだから。ひとりでいるのはあまりに寂しいから。

女は、自分のアパートに男を招く。一晩語り合う。


クリスマスの朝、男はおもむろに不思議なことを言いだす。

「昨日、きみの母親と話しをした」

「お母さんは、きみに自分の人生を生きてもらいたがっている」


もちろん、痴呆が進む母親に言葉が話せるはずもない。

女は男に不信を抱いて部屋から追い出してしまう。


ところが、ベッドに、男が置いていった十字架のネックレスがあった。

女はそれを返そうと、病室に向かう。あの孤独な男性患者の親戚だと言っていたから。

ところが、病院にいって看護師に聞くと、そんな人はいないという。

男性患者に身寄りはいない、と。


そんなはずはない。昨夜の男はそう言っていた。


その男の名を看護師に告げると、「その人ならあの患者さんです」

信じられない思いで、暗がりの中の患者をみつめると、たしかにあの男である。


昨夜、あまりに孤独に見えて思わず“I love you”と発したその相手。

それが昨日氷の川のほとりに現れたあの男だった――。


男は、死を待つばかりの病室で、不意に“I love you”の声を聞いた。

それに心動かされて、クリスマスイブの夜に女のもとに現れた。 


もはや言葉を発せない母親の心情を伝えるために――。


女は、真相を知って、患者の手を握り締める。「あなただったのね」

「もう無理しなくてもいいの」


クリスマスイブの夜に、女性は独りきりだった。

男の患者も独りで寝たきりだった。

表情をなくした母親もまた独りきりだった。


女性にとって、母親の言葉を告げに現れた男は、孤独を溶かす天使だったであろう。

男の患者にとって、ひとことの“I love you”は、天国に迎えられる前のこの上なくあたたかな贈り言葉になっただろう。

痴呆の母親にとっても、自分の思いが娘に伝わったというのは、これ以上ないクリスマスプレゼントになったことだろう。


ひとは孤独である。

でも相手の孤独に思いをやるだけで、その孤独は氷解して、あたたかな喜びに変わる。

人々がクリスマスに期待しているのは、そういう、通じ合える奇跡 なのかもしれないと思う。


一年に一度、そういう奇跡が不意にかなう夜がある。

それがクリスマスイブ――。


もしひとが、この冷たい冬の夜の孤独に思いを贈って、

心が通じ合うことの暖かさ・喜びというものを思い出せるとすれば、

それは悪くない習慣である。


仏教にはクリスマスはないけれど、

しかしクリスマスを“追い出す”こともあるまいと思う。


この星には、幸せを感じさせる上質の文化・物語がたくさんある。

どうせなら、たっぷりと、この暖かい冬の奇跡を味わってみるのはどうだろう。

通じ合うこと・思いを寄せ合うことの暖かさを思い出そうではないか。


クリスマスには、この世に無数ある寂しさに想いを贈ろう。

そして、あなたが幸せでありますように、と街を行き交う人々に想いを贈ろう。

それだけでも、こころあたたまる気がする。


友よ、みな――

12月2日
月に二度の代々木での炊き出し説法の日。

めっきり寒くなった。
午前に会場にいくと、顔なじみになったホームレスのみなが待っている。
ひとりひとりと挨拶して立ち話。

何人かが、賽銭を入れるちっちゃな筒を、私のほうに「チャリチャリ」と振って鳴らしてみせる。

この炊き出しの会は、とある仏教団体が主宰している。

災害救助・支援にとても熱心な団体で、
今回のアメリカ・サンディ台風の被害支援を日本でも募っている。

前回、ホームレスの人たちに、賽銭筒として使えるお汁粉の缶を配給したのだ。
彼らはその缶におカネを入れて持ってきてくれたのだ。
それを私に見せてくれた。にんまりしている。

いつも手話で「オンナ、好き」を繰り返す男性(言葉を話せない)は、今日はエスキモーみたいなフードつきの防寒着でいる。

私のほうをみて、いつものように、嬉しそうに、小指を立て、両手で輪っか(ハートマーク)を作って、「オンナ、好き」 を繰り返す。

何ヶ月か前に、彼と最初に会ったときは、意味がわからなかった。
手話が分かる人に意味を聞いた。

「バッカじゃないの!」とこのときは笑った。

彼は、ほんとうに人なつこい、目尻の下がった笑い顔を見せる。

今では、私も、彼にあわせて、「オンナ、好き」の手話をやる(おいおい)。
彼とのあいさつになってしまったのである。

他に、スマホを何台も持ち歩いている(私よりカネ持ち?)沖縄出身の男性。

昔の『週刊プロレス』の編集長に髪型が似ていて(わかんないか。頭頂部の髪がなくて、耳からの毛が長い)、「よっ、編集長!」と声をかけるとあいさつを返してくれるようになった男性。

最初の日は、背中のナマズの入れ墨をこれ見よがしに見せ、トランクス一枚で肩で風を切って歩いて見せて、他のホームレスにケンカを売りつけたかなり問題児の男性。

彼とはその日、つきっきりで話を聞いて、それ以来友だちになった。

二回目に彼が来たときは、いでたちをすっかりきれいに整えて、「こないだは失礼しやしたぁ」と笑顔で言ってきた。
「そのほうがむっちゃ男前やで(^▽^)」と私も関西弁で返した。

ほかに、「出家したいんです」と一年前に言ってきた初老の男性がいた。

「もう出家してんじゃん。出家って、英語の辞書ひいたらホームレスだよ」と返した。

彼は、仏縁あって、今は韓国の寺の寺男(使用人)をしているらしい。

いろんな人生を垣間見る。
毎回、200人から250人のホームレスが集まる。

最近はみな、いい笑顔を見せてくれるようになった。

スタッフの人が、私のインド行きを伝えてくれた。

マイクで、
「あと2週間で、くさなぎさんはインドに旅行します」
と言う。

ほかのスタッフが小声で、「(旅行じゃない)修行!」「仕事!」とあわてて言う。
その声が聞こえて、ホームレスの皆が笑う。

私の番になって、マイクを手に取り、

「とつぜん“旅行”することになったくさなぎ龍瞬です」

と言うと、大笑い。

「冷たさが応える季節になった。 
でも、この冷たさは、必ず終わりがくる。
寒い、寒いと言っているうちに、必ずあたたかい春が来る。
それを待とう。それはひとつの希望になる。

生きることの希望って何だろう?

仏教では、ふたつの希望がある。

ひとつは、よろこび(快・楽)を追求すること。

これは、大きなよろこびでなくてもいい。
今日これから食べるカレーのあったかさを、あったかいな、おいしいな、と感じること。それもよろこび。

自販機のとり忘れたお釣りを見つけるのも、よろこび(笑)。
そのときは「シメシメ」ではなくて、「(忘れてくれた人に)ありがとう」と感謝しよう(笑)。

この炊き出しも、ちっちゃなよろこびにしてもらうために、毎回やってる。

ほんとは、“熱燗(あつかん)”でもふるまいたい。冬の熱燗をみなで飲むのって、希望だと思わない?(拍手)。

でも、仏教ではお酒は禁物。私はお坊さんだから、熱燗はあげられない。お話だけ(笑)。

ちっちゃなよろこびを大切にすることと、

もうひとつの希望は、今ある苦しみのおしまいを迎えること。

人生に起きるどんな苦しみにも、必ず終わりがくる。
仏教には八つの苦しみがあるって、前回話をした。
どの苦しみも、死んだあとには持っていけない。
つまりは、生きている間だけ。必ず終わりがくる。

だから、苦しくなったら、「いずれ終わる」と思ってみよう。
この冬の冷たさも、必ず春の暖かさにとって代わるときがくる。そのときを待とう。

今日、ここに来たときに、賽銭筒を振って鳴らしてくれた人が何人かいた。
すっごくうれしかった。誇りに思った。

私は、この場所で善き友に恵まれました!

では、みんな、おいしいカレー食べてください。私は旅行に行ってきます!」 (爆笑&拍手)


カレーの配給のときも、ポケットから賽銭筒を取り出しておいていく人が何人もいた。
「わずかで申しわけないけんど」と、チャリンチャリンと落としていってくれる人もいた。

「ありがとう。うけとりました――」

正直、ここまでたくさんのホームレスの人が、サンディ台風のために布施を入れてくれるとは思わなかった。 

心が育ってる、と感じた。

食事後に、手塚治虫に似た鼻の大きな男性がやってきて、
「よいお年を」とハグ(抱擁)。

あるご夫妻は、生活保護を受けて大久保にアパートがあるのだけど、その部屋が自分たちのゴミで埋まってしまって、そこから「避難して」公園で野宿をしているというよくわからない二人。

夫の男性は、裸足にサンダル履き。「冷たくない?」とやらかいほっぺをさすってあげるとニコニコする。

妻の女性は、兵庫の山奥の両親が最近つづけて亡くなって、かなりこたえてしまって、郷里に戻るべきかどうか悩んでいるという。

「戻りたくて、戻れるなら、戻るのがいちばんじゃないですか」と言うと、
「そう思います」という。

二人して何度も何度も振り返っておじぎの挨拶して去って行った。

「また来年ね」

「インドは暖(あった)かい? いいよね~。来年待ってるからね」

とみな声をかけて去っていく。

今日の炊き出しは、いつにもまして笑いが多かった。
彼らは友として私と向き合ってくれる。
私もまた彼らを友として関わってきた。

一年やってきた。たしかに友情が育っているように思う。


夜は、引っ越しグッズの買い出しの続き。
この気分をたとえるに、新婚の嫁さんが買い物に行く心境か(ちがうか)。

俗の言葉を借りれば、ルン♪という感じである(すなおに楽しいといえ)。


今日出会ったホームレスのみなの顔を思い浮かべる。

新しく始まったこの暮らしが失われたらと想像してみる。 

もし私があの公園で今夜野宿するとしたら?

念を入れて、冷気を呼吸する鼻先の感覚に集中してみる。


今一瞬。何ももたぬ無の心に還る――。


仏道というのは、どんな状況であっても現実をもって満たされていなければならない。

その意味で、
いかなる執着も手放せる心を覚えておかなければいけない。


ご苦労なことだと思われるだろうか――。

ただ、この心はつねに保っておかなくちゃいけないのだ。

それが仏者の流儀である。

なぜか。

いろんな境遇に道を通じておくためである。 

友よ、みな幸せであれ。


シリーズ講座第1期修了

12月2日
◇10月から始まった“仏教のきほんを学ぶ講座”がついに修了。

あっという間だった。充実していた。濃密な(過ぎる?)関わりがあった。

それまでの単発の講座とちがって、みな腰をすえて向き合ってくれたのではないか。

単発だと、はじめての人もベテランの人もいるし、いきおいライトな雰囲気で突き進むことになる。

それはそれでよいのだけど、単発ではどうしても、知識が定着しない、継続性がない、という弱点がある。

その点、シリーズ講座では、継続性を前提に話ができる。
一度扱った内容について、メールの感想などをふまえて、次の回でさらにつっこんだ話ができる。

参加者同士の面識もできて、自然に親しくなった人たちもいる。

そして何より今回、扱う中身が、かなりバラエティに富み、しかもクオリティが高く、
その内容をみなが真剣に受けとめてくれたのを感じている。

最後の回は、内容がかなりバラエティに富んでいた。ほんとは、2、3回にわけてじっくりとりくむべきレベルの内容なのだろうが、そのなかでもポイントをしぼって紹介した。

(今回のシリーズは、いうなれば下地塗りの段階だ。ここから今後通ってきてくれる人たちとは、じっくりと本塗り・重ね塗りの講義をやっていきたいと思う。)

◇たとえば、こんな内容――

○「正しい生活」をつくるには、何が必要か。

たしかな方向性をもつこと――二分すれば、快(よろこび)を追求するか、今の不快(満たされなさ)を解消することをめざすか。 どちらも人生のテーマになりうる。

小さな喜びを意識して追求すること。
スケジューリングなど生活に“秩序”を意識してもりこむこと、
よき友(関わり)を大切にすること――。


○仕事については、“正しい動機” が何よりも大切になること。

関わる人への貢献。貢献を歓びにできること。

○ミスしたときの“謝罪”というのは、

①「わかります」(事実を理解していることを伝える) 
     ↓
②「すみません」(相手への迷惑への共感(慈悲喜捨の悲)

という順序で組み立てること。

理解のない「すみません」は意味がないし、
理解を促さずにただ自尊感情だけで「あやまれ」というのも正しくない、という話。


○最後は、期せずしてシリーズのまとめみたいな話になった。

仏教とは、あたりまえの現実をあたりまえに生きていくための智慧 にほかならないこと。

もし心に痛みがあるのなら、その痛みをなくする方法(考え方)を学ぶこと。

考え方を学んで、実践して、なんどもなんども振り返り、考えこみ、

その痛みのもととなっている出来事(たとえば過去)を思い出しても、心がいっさい反応せず、自分があたかも“別人”になったかのように、一切の出来事から切り離され、自由になって、今日一日によろこびを感じられる心にかわること――。

この人生で抱えこんだ苦しみ・課題というのは、
必ずこの人生の中で解決できる。

それこそが仏教における“希望”だ。

あたりまえをあたりまえに生きて、
この与えられた人生、この自分というものを、さいごまで生き抜くこと。まっとうすること。

それは勝利とか敗北とか、成功とか失敗とか、特別とか凡庸とか、
そういう価値判断をいっさい超えているものである。

人生とは、いのちとは、本来、そういうものなのだ。

忘れてしまったのは、人間の中にわずらい(煩悩)をためこんでしまったからである。


ひとは、本来の姿に戻ればいい。

今さずかっているこの暮らしを、この命を、感謝して、肯定して、

ひととのつながりを味わい楽しみ、

季節の移ろいや、景色の変化や、
世の中にあふれるさまざまな動きのなかに、
自身にとっての小さなよろこびを見出して、

ただ日々を生きる――。

そういう、あるがままの日々をもって満たされるための 仏教 なのである。

この時代、この世界にあって、さずかった命をさいごまでまっとうすること。

それ以上に尊いことはない。

もしその途中で、苦難や喪失、疑問や課題に直面したら、
そのときは、けっして妄想や快楽にたよることなく、

正しく考えて、うけとめて、のりこえていくことだ。

(講座のなかであつかったけど、Dukkha:みたされなさ というのは、正しい理解のしかたと考え方によってはじめて解消できる。快楽・よろこびというのは、別の領域のものとして活かすものだと思う。)

のりこえて、心の自由を取り戻すことに、よろこび がある。そういうよろこびをめざせばいい。

それこそが 希望 なのではないか。


○私(くさなぎ龍瞬)は、仏者として何を信じているのか――

現実のなかに生まれた苦しみは、かならず乗り越えることができる。

かならず心は自由をとりもどせる。


その可能性を、私は 信じて いる。


その可能性を理解してほしくて、仏教を伝えている。

この場所で説く仏教とは、そういうものだ。希望にみちた仏教 である。


◇次回12月8日の午後の部と夜の部が、2012年総集編。年内ラスト。

内容はちがうので、2コマ参加していただくことも可能です。たっぷりお楽しみください。

そのあと、私はインド・ナグプールへ。

2月、3月に、今回の“仏教のきほんを学ぶ講座”PART2をやります。今回参加できなかった人はぜひどうぞ。

4月から、月に1度か2度の“仏教の本質を学ぶシリーズ講座”を実施。これは一年にわたるロングの講座です。

今回の6回というのは、やっぱり短すぎました(そもそも仏教は2500年以上の歴史があるのです)。

お稽古事でも、数カ月でモノになることはありえないよね。腰をすえてじっくり学ぶことで、心ははじめて育つ。

志(こころざし)ある方は、ぜひ通ってきてください。


めっきり寒くなりました。鼻とのどにお気をつけください。


新居用のグッズを100円ショップでお買い物したのが妙に楽しかったくさなぎ龍瞬でした♪


生きててよかった――

11月28日
近頃うれしかったこと

◇事務所兼用の新居に引っ越したこと。

帰ってきたときは、宿なし・文無し・仕事なしの正体不明の坊主。
(マジで今の部屋見つからなかったら、どこに行くつもりだったんだろう(^△^;))。

今回は、この二年でさずかった“仏縁”で、不動産の契約にまでこぎつけた。

背中をぐいと押してくれる人が、今年夏以降に出現して、
そのおかげで、
この定職なし・身寄りなしの出家僧でも新居を借りることができたのです。

借りたあとの感想:

「生きてきてよかった――(2年)(;´Д`。)」


◇会長先生とのご縁をいただいて、インドに日本の水浄化技術を紹介できる可能性が生まれたことも、奇跡みたいにすごいこと。

かつて池の水に触れることも許されなかった人たちが、自分たちで飲み水を作れるようになるかもしれないのです。

今、現地では、井戸水が濁ってしまって飲めなくなってる。

彼らが澄明な水を飲める日がもうすぐ来るかもしれない――夢にも見ない話。

きれいな水を彼らが飲み干せる幸せをみたい。

(あんまり先を語ることは仏道にそぐわない(夢を逃しちゃう)気がするので、
この話題はもう少し先に進んでから具体的に伝えさせていただきます。
まずは会長先生にお会いできたことに感謝です(礼)。)


◇三重松阪に向かう新幹線の中で、澄みとおる青空に白く雪の映える富士山を見た。

山野を大きくまたがる鮮やかな七色の橋を見た。


◇私は、これまでの人生で、ひとと関わるなかで生きていくこと、

つながりを広げていくことをあまり体験していない。


一番の理由は、自分はなにものなのか、がわからなかったこと。生き方を知らなかったこと。


ようやく仏道という生き方に立つことができて、

この先をひととの出会い・つながりのなかで伸ばしていこう(伸ばしていっていい)という思いが持てるようになった、気がする。

正直、戸惑いもあるのだけど……(笑)。

仏者としてなら、ひととともに生きていってよい。生きていける。

私はようやく自分の生き方、自分自身のありかたにゴーサインを出せるようになったのかもしれない。


◇都内の劇団さんの劇場を下見にいった。

これも、最近出会った人とのご縁で運ばれた話。

この場所で、坐禅をやるのか、トークライブをやるのか、その他の集会をさせていただくのか。


駅でわかれて、階段をのぼる。

ちょうど夕刻で、ホームに差し込む光を感じた。

西をみやると、均質のあかねに塗られた富士山が、肩に白い夕日をとまらせて座っていた。


このとき、この場所の一点からだけ見える美がある。

一歩でも位置をずらせば見えない美が、この世界にはある。

そして、一歩でも道を踏み外せばけして出会えない美しい人たちも。


それ以上は言葉にならない。 
最近は、言葉にならないものをたくさん感じている。

いろんなものが動いている。


ふたたびインドへ

11月12日
いよいよインドゆきが確定した――。

12月半ばから年明けの中旬まで、インドに行ってきます!

今回の目的は、前回訪れたときに共同で立ち上げたNGOの活動に加わること。

具体的には、幼稚園の経営と、今準備中の小学校立ち上げに立ち会うこと。

そして、深刻な問題になっている水の汚染について、実態を知ること。

他にもいくつか、大切なミッション(使命)がある。


帰国して2年たって、急きょインド帰り(ナグプール=竜宮城帰り)が実現した。
 

これまでは、三つの難題にひとりで直面していたように思う。

ひとつは、寺・宗派・仏教内のあらゆる伝統に属さない、ひとり立つ出家僧として生きていく難しさ。

帰国した時は、「野垂れ死にするかもしれない」 と覚悟していた。


もうひとつは、仏教によって身を立てていくことの難しさ。

どこに場所を見つけて、どうやって人さまにこの仏教を伝えていけばいいのか、

それで生活していけるのか、というところが難題だった。

(ちなみに私は、伝統仏教が語る “お布施” という概念に同意しない。

布施というのは、慈しみの心に基づいて差し出すことを意味する。
だから、葬儀や法事といった“カタチ”の見返りとして受け取るこれまでの風習は「布施」と呼ぶにふさわしくない。

僧であれ、仕事人であれ、自然界の生き物であれ、
何かを差し出して、何かを受け取り、それで命を支え合っていくのが摂理である。

その意味で、差し出す側に たしかな意味の見えない これまでの「布施」のあり方は、筋が通らない、と私は考えている。)


あくまで何かひとさまの役に立って、その対価として何かを受け取ってこの身を養う。それが原則。

見えなかったのは、「自分にとってのこの仏教が日本の人々の役に立てるのか」 という点。

2年がたって、ようやく、どうやらすこしはお役に立てるらしい、というところが見えてきたように思う。


三つめの難点は、日本での活動や、インドでの活動を続けていくための経済的な余力である。

活動を広げていくにも
(もちろんその目的は、まだ出会えていない、それでいて何か新しい生き方・発想を必要としている人たちにめぐりあうためである)、

インドに渡って、彼らのために、彼らとともに、働きを尽くすにも、

経済的な元手がいる。でも、その部分をどうやってまかなうのか。

この部分は、今なおクリアしきれていない。

だから、当然、インドに渡るのは当分先だと思っていた。

急きょ実現することになったのは、やはりひとさまとの出会いがあり、かの人たちの善意のおかげ・たまもの。

背中をぐいと押されて、日本を旅立つ感じ (^ー^*))))。


かの地に渡れば、私はいそがしく働こう。

現地の水汚染は、急きょ浮上した深刻なテーマ。

かの地に、日本の水の浄化装置を導入して、彼らが自分の手で飲める水を作れて、それを飲み干せるときが来たら――と夢想する。

飲める水を飲めることほど、人間が幸せを感じる瞬間はないのではないか。

その歓びにかがやく顔を見てみたいと思う。

すぐの実現は難しいけど、きっと実現できる。

あきらめないで少しずつ前に進んで行きたい。


今回は、滞在は長くないが、いくつもの重要なテーマを持っている。

現地でどのような出来事に向き合うことになるのか――このブログで報告したいと思います。


この命は、自分ひとりのものではなく。

ひとが生きるのは、自分ひとりのためではなく、
誰かとのつながりの中で、たしかな役割を果たすためにあるように私は思う。

お役に立てますように――。


 

あなたの“マイテーマ”募集!

10月28日
興道の里の仏教講座は、12月8日(土)がラストです――。

当日は、打ち上げも兼ねて、ワークショップを開催します。

そこでみなさんにお知らせです――。

あなたの 「マイテーマ」 をお寄せいただけませんか?

○今直面している自分自身の課題、悩みごと。

○友だちや家族・近所の人や職場の人たちが困っていること。
 「なんかしてあげたいけど、どうしてあげたらいいか分からない」こと。

○みんなと話し合いたい、みなの意見を聞きたいこと。

こうしたテーマについて、メールで送って下さい。形式・分量は自由。

ワークショップでとりあげたいと思います。

☆コンセプトは、「仏教の愛と智慧を使って人生の課題を解く」 です。

今年も、いろんなテーマで仏教を学んできました、

10月から始まった 「仏教のきほんを学ぶ講座」 にもさまざまな人たちが来てくれています。
(こないだの和室での講座も、熱く、あたたかく、ほんとの寺子屋っぽくてよかった(^^*))

その仏教の智慧(≒効果的な思考法)をつかって、日常にある課題・悩みなどを考えてみたいのです。

当日は、いくつか ワーク を設定して、チーム(グループ)ごとに取り組みます。
発表もしてもらいます。

せっかく仏教を学んでいるのだから、知識としてアタマに詰め込むだけでなく、実際につかってみようではないですか。

つかってはじめて身につく・わかる部分がある――これは習い事だけではなく、仏教も同じです。

☆当日にやるメニューとしては、

①仏教講座のおさらいワーク ~テキストに出てきた「問い」を考える

(例)Q思いやりとおせっかいはどこが違うか?  Q善と偽善の見分け方  
などエピソードをふまえて。

②新聞の人生相談~著名回答者の回答VSブッダの回答

③「そうはいっても」コーナー ~ブッダの教えに一般人目線でツッコむ

「ハードル高すぎ」と感じる部分、
「聞いた時はなるほどと思うが、“ん、待てよ?”と思う部分」 など。

☆「マイテーマ」については、
ぜひ、みなさんの日ごろの仕事・日常のシーン(場面)などをリアルにお伝えください。

当日、みんなで取り組ませていただきます。回答もお送りします。

この講座が、年内ラスト。
打ち上げもかねたスペシャルな企画にしたいと思いますので、ぜひご協力下さい。

当日の参加者も募集します。メールでご連絡くださいね。
くさなぎ龍瞬でした

この道の先 (iPS細胞と仏教?)

10月21日
●週末に、教室でいただいた“月謝”などを整理した。

今やっているいくつかの場所では、参加費とか月謝という形で、みなさんからいただくものがある。

こうしてみんなから受け取れるものがあるから、この命はつないでいける。

もしどこからも何も入ってこなかったら、この命は絶えるしかない。

言うなれば、この命は、こうして授かるつながりによって、生かされているのである。

なんともありがたいな~~~~~~~~~~~~~~~~という感じなのである。

ひとりひとりの顔を思い浮かべて感謝合掌するのである。

高齢の方々もたくさんいる。

ひとりひとりにもっと愛をあげたい。もっと愛せないものか――という思いが自然ににじんでくる。

●(笑)そういえば、昨年の秋頃、旧知の女性友だち(既婚で子供もいる)に、
インド向けのスピーチを録画してもらったことがあった。

午前から新宿を一緒に歩きまわって、ビデオを撮ってくれた。

午後別れる時に、あんまりにありがたかったものだから、こう言ってみた――。

「私が坊さんではなくて、あなたが結婚していなかったら、チューしてあげたいくらいヾ(@^∇^@)ノ♪」

すると、彼女は真顔で言った。

「いりません、そんなの」

――冗談なのに、なぜかさみしい坊主かな (TwT。)*‘゜*・~(龍瞬・心の一句)

●日曜の座禅エクササイズには、岡山県から男性が来ていた。

お盆にたまたま地元の書店で、私の雑念本を見つけたそうな。

「本を読む前と、読んだ後とでは、心の状態がまったく変わった」そうな。

それまではいろいろな大変なことがあって、自分の人生を降りることさえ考えたことがあったという。

でも、ブディズムは、そういう過去をみない。

過去になにがあっても、日が変われば、人間は生まれ変わっている。

(無常という真理は、人間が想像する以上にすさまじく早いスピードで起きている。真相は、瞬間瞬間で、心は死んで生まれての繰り返しといってよい)

もし、ひとが変われない、同じ人生がずっとつづく、と感じているとしたら、それは本当は錯覚だ。

それは自らの執着が作り出している錯覚。あるいは、自分の肉親などとの“つながり”を生き続ける中で生まれる “自我の再生” である。

もしそれまでの心の反応をいさぎよく捨てる道を選び、関わりから抜け出し、新しい世界・つながりに向き合い、つまりは新しい反応を育てるようにすれば、

執拗に繰り返してきた心は、徐々に再生する力を失って、新しいものへと入れ替わっていくだろう。それが生命の真相である。

今話題のiPS細胞の発見は、細胞そのものが 「初期化」(リセット) する性質を内在していることを示してくれた。

ド素人の推論だけれど、
恐竜が鳥類に変化したり、ゾウが海に戻ってクジラになったりしたように、生き物が環境に応じて体を変化させるのは、なにかしら、この細胞のリセット機能とつながっている気がする。

“そのままでは生きていけない“と細胞が感知したときに、遺伝子の組み換えが起こって、ある細胞は初期化したり、ある細胞は形質を変えたり、ということが起こるのかもしれない。

たぶん細胞のリセット機能というのは、生き物が環境に適応して生き延びていくためのプログラムのひとつなのではないか、なんて妄想したりする。

細胞以上に 心 というのは、リセットしやすい性質を持っている。そもそも物質ではなく、脳の中に生まれる 意識 という名の “現象” にすぎないからである。

もし、人間が、これまでの反応のプログラム・パターンをいさぎよく手放し、同じ反応を繰り返さず、新しい反応を刺激するようにすれば、心はいつでもリセットできるのかもしれない。理屈の上ではそうなる。仏教思想(たとえば無常)に基づいてもそうなる。私自身の体験にてらしても、たしかにそうなる。

男性にはこう伝えた。

「私には、あなたの過去は見えない。つまりは存在しない。
今生まれているのは、過去の人生とはまったくちがう、新しいつながり。
このつながりを育てていけば、それだけで新しい命が育つことになる」

実際、そうである。命を作るのは、「この自分(という過去の思いこみ)」 だけではない。“つながり”もまた命の構成要素である。

「この自分」とは別に、新しいつながり・関わりを作れば、それだけで、その分だけ、命というのは入れ替わるのだ。

だから、どんどん新しい関わりを創っていけばいい。

少なくとも、仏者というのは、ひとの過去を見ない人種である。

だから、心をリセットして、新しいつながりを作る上で、よき友・パートナー・応援者となってくれるはずである。

「今日から新しく生きていけばいいんですね。
明日からどんな発見があるのか、楽しみになってきました」 と語る。

明るい希望が表情に宿るのをみるのは、この仕事のよきさずかりものである。

現実の人生がどのようなものであれ、仏道においては関係がない。
仏道というのは、たどりつくべきゴール、戻るべきスタートラインというのは、ごくごくシンプルである。

いかなる思いに立ち、いかなる思いに帰り、最期のひと呼吸をいかなる思いをもって遂げるか――

それさえ分かっていれば、あとは今いるこの場所から、自分らしいペースで、自分らしい歩き方で、歩んで行けばいいのである。

そこには、一本の “道” ができている。

真実にめざめれば、そのとき、自分が立っているその場所に “道” が現れるのである。
あとは、その“道”を歩むだけだ。

もしあなたがブッダが示した道(仏教)を選ぶ というなら、この命は同行者のひとりになろう。

歩き方を知ろう。そして、実際に歩いて行こう――。

それこそが、道ゆく者同士の交わし合う言葉である。慈しみに基づく関わりかたである。
よき出会いであった。

●夜、宮城石巻の友人から、石巻への招待のメールが届いた。ありがたく、素晴らしいオファーである。

今の毎日は、心のつながりから自然につながっていくところがいい。
“リセット”して戻ってきたこの命は、たしかによき方向へと再生、展開している様子である。

この道は愛の道である。
この道の先の先まで、走ってまいりたい。
他の道は、もういらない――。

「今の自分がしっくりこない」ひとへ

10月17日
今月末から始まる都内某区の 「おもしろ仏教講座」 は、定員をダブルオーバーの応募をいただいたとか。満員御礼です。ありがとうございます。

人生で、関わり ほど大切なものはないと思う。
人生は、関わりにおいて ”よき役割を果たす”ことでヨシとする。それ以外は雑念だと思う。

ひとつの役割をさずかれること、果たせることは、ありがたいこと(合掌(^m^))。


●さて、今進んでいる「仏教のきほんを学ぶ講座」で、
迷いの生存」という言葉がでてきた。

迷いの生存というのは、ひとことでいうと、「現実とのずれ・ギャップを感じている状態」。

「これでいいのかな」というクエスチョンや、満たされなさ、というのも、迷いの生存。

怒りで一杯になって、イライラと落ち着かない状態も、
妄想で一杯で、フラフラ、ぼんやりしているのも、
あれこれと、次々に求めてばかりで、落ち着かない・せわしい気分も、
迷いの生存だ。

対極にあるのが、“目覚めた心”。 
今この瞬間に不足を感じない。心が定まっている。
確信があって、充実感・肯定感に満ちている。

○もともと、人間の心に、”不足” (これでいいのかな?)と思わせる機能(プログラム)はない。

動物なら、苦痛はあるだろうけど、その状態以外の状態を 「想像」 したりしないから、
心はいつも 「今」 に定まっている。ナチュラルに集中できている。

幼い子どもも、ナチュラルに集中できる。余計なことを考えないし、すぐに忘れるから。

人間が 「迷いの生存」に入るのは、
あれこれと過去を振り返ったり、
まだ手に入れていないものを欲しがったり、
考えたり、怒ったりして、
心が今に収まらない、フラフラと想念(アタマ)の中をさまようことによる。

これは(中途半端に)高度な知能を持ってしまった人間特有の症状である。


○実は、この世の中は、私たちを「迷いの生存」に引きずり込むようにできている。

たとえば親や世間は、子どもに対して、あれこれと期待を降り注いで、
「これをクリアできれば承認してあげる」 というサインを送り続ける。

学校の成績を上げるとか、よい学校に進むとか、世の中がよしとする会社・職業につくとか、

こういう、誰が思いついたのかよくわからないハードル
(=乗り越えることに価値があるとされる記号)
をクリアしなさい、
と親も先生も、その後の社会も、手をかえ品をかえ、メッセージを送ってくる。

ひとは、いつの間にか、「そんなものかな」
「それを手に入れると有利なのかな」 と思うようになり、
それを自らがめざすべき目標として、心深くにインプットしてしまうようになる。

世の中が語る モチベーション(やる気・動機) というのは、まずほとんどが、「これを手に入れると有利」 という価値観で作られている。

出世する、業績を上げる、ほめられる、高収入を得る・・・・といった価値観。

巷で人気らしい 自己啓発・セミナー の世界もまた、
こういう、「いかにも外れのない」、誰もがめざして当然と思えるような記号 を目標として押しつけてくる。

「成功したいだろう」「一段上の自分をめざそうじゃないか」「自分を変えればなんだって実現できる」 と彼らは目を輝かせて語る。

で、聴衆は、「そうかな」と思って、次に「よしがんばろう」となる・・・・。


●はっきりいえば、こういう世の中でもてはやされる価値観 こそが 
「迷いの生存」に迷い込ませる魔の声なのだ。

もともと、世の中にある価値観、”上昇のシンボル(目標)” なるものは、仏教でいえば、ほとんどが 妄想 である。

そんなものは、動物の世界にも、幼子の世界にも、真実がよく見えているブッダの世界にも、存在しない。それらは、欲望が作り出した妄想でしかない。

もともとなかったものを、さもそれがめざす価値あるかのように錯覚させ、
それを手に入れていないのは、自分がまだまだ(能力不足)なのだ、とか、向上心が足りないのだ、とか思わせてしまう、

世のシステムや他人の言葉自体が、「迷いの生存」 にひきずりこむトラップ(罠)かもしれないのだ。

人間には、欲も怒りも妄想も、あらかじめ過剰にインプットされているものだから、
ついついそれらをもって反応してしまう。信じてしまう。執着してしまう。

その結果、「今の自分」 とは離れたものを追いかけるようになるのである。

「このままでいいのかな」も、
「自分はまだまだ(ダメ)」も、
「イライラ・そわそわが抜けない」も、
「あれもこれもやりたいことがあって、しぼりこめない」も、
「あのひと・世間が間違っている、許せない」も、

どれも、自分自身にナチュラルに集中できてない、今の自分にたしかさがない、
という点で、「迷いの生存」 の中にあるといっていい。

迷いの生存とは、現実と自分とのあいだにギャップ・乖離を感じる状態だ。

言い換えれば、現実の中にいる自分に、自分自身が納得していない状態なのだ。


○さて、納得できずにさまよう人生は楽しいか? 楽しい時期もあるかもしれない。

でも、そんな毎日の繰り返しに疑問を抱いたり、
いまひとつ燃えない心を感じたり、
これからの人生に不安を覚えたりしたひとはどうするか?

そういうひとは、自分自身が心底納得できる あたらしい生き方を探してみるといい。

誰かのいうことや、世の中の価値観 は自分を納得させる力をもはやもたない。

そういうものは、他のひとたちに任せておけばいい。

それよりも、自分自身が納得いく生き方を固めることだ。

それは 発想のきりかえ である。それまでとはちがう発想で生きるのだ。
すると、ぽん、と迷いの生存から抜け出す。

そうなれば、あとは一生迷ったりしない。
満たされなさも感じない。

自分以外のものになろうとあくせくしたりもしない。


では、ちがう発想とは何か?
どうすれば、そのような発想がもてるのか??

答えは、仏教ライブで! (おいおいお~い!)

命つなぐための法事

10月14日
ここ二週間は、法事と、新しくはじまった仏教講座と、カルチャーの教室。

NHK学園でも東武でも、新しい出会いがあった。

「仏教を、これまで生きてきて初めて 生きた言葉 で聞いた気がします。たくさん学びたいことが出てきてワクワクしています」と老婦の方。

(余想だけど、新しいことを年とって学ぶのは、女性の方が上手な印象が……。)

昨年春にスタートした頃に比べると、やっぱり、こちらの話の進め方や内容が すこし磨かれてきている のを感じる。

もちろんまだまだ、というか、善し悪しの判断はしないのだけど、
間をとったり、適度に脱線したり、受け止めたり、掘り下げたり、という、話の創り方が、以前より見えてきた。

経験というのは大事なんだな、と思う。
みなさんに育てられてきているとも思う (感謝合掌(^m^))。

そして法事。今回は、一回忌 (忌という字は正しくないと思うが。「一年会(いちねんえ)」なんてどうだろう)。

日本に帰って何度か勤めさせていただいたが、

故人と生者とを、「いかにつないでいくか」 が仏者の使命であると痛感している。

命というのは、死して終わり というものではない。

それは別に、あの世があるとかないとかという表層的・観念的な議論ではなく、

生者の胸に残る 喪失感・悲しみを和らげ、
あるいは故人になおわだかまる怨みめいた気持ちを解きほぐし、

二者の間の かかわり の意味をあきらかにすべき、という意味である。

たとえば、
故人の来し方(こしかた)を想っての ねぎらい と、感謝 と、報恩の念 (さずかったものとともにこれからを生きていくという意志)
をあらたにすること。

故人とのつながりを今もなお生きているということ。ともに生きるということ。その思いをあらたにすること。

そういう、故人が去る前とはたしかにちがうけれども、それでもなお つながって生きる という、
新しい関わりを創る のが、法事なのだ、と今の私はそう理解している。

たとえば、伴侶に先立たれて一年がすぎて、一日の終わりに美しい夕焼けを見上げたとする。

悲しみが癒えないときは、その空の朱(あかね)を見るだけで、涙が出てくる。

ただ、もしその瞬間に、故人を心に想って、「うつくしいね」 と語りかけられたとしたら、ほんの少し、こころは変わるかもしれない。

そのこころは、故人ともに生きている ということになるのかもしれない。

悲しさ・せつなさは、そのままに――。

でも、先立たれたひととのつながりは、なおたしかに生きている。
これからも生きていく。

そういうすごし方は、むずかしいだろうか。

仏教はいろんなことを教えてくれる。

命とは、肉体の死で終わるのではなく、“つながり” としてなお生きつづける、ということも。

ふと感じたこと――

幸いというべきか、日本に帰ってこの二年のあいだ、誰ひとり出会った人に先立たれていない。
みな健在である。ありがたいことである。

でもこれからずっとそうなるということはない。どこかで誰かを見送ることになる。
あるいは、自分自身が真っ先に先立つことになるかもしれない。

いつしか今生の別れというのはくる。必ず。

ただ、わたしは思うのだ。別れてもなお、つながりは生きている のだということを。

もし年齢順にこの世を去るのが摂理だとしたら、この命は、これから多くの命を見送ることになるのかもしれない。

しかし、この命はそのことをあるがままに受けとめる。

と同時に理解している――これが終わりではない ということを。

命は、会えなくなった命ともつながっている。命はどこまでも命とともにある。

この身をもってこの世に生きているかぎり、生きてある人たちとも、先立っていった人たちとも、ともに生きている。

先立っていったどの人のことも忘れはしない。

つかのまの旅に出た友人であるかのように、肉親のように、この命は、その人たちを想い、その人たちの存在を胸に感じながら、今日この一日を生きていくことになるだろう。

どこまでも、この命は かの人たち とともにあるのだ――。

そんなことを感じた法事の日。


心開かれる本当の学びを (新仏教講座スタート)

10月6日・7日の参加者で、里から連絡メールが届いていない人は、至急メールを下さい。

10月7日

昨日、今日と、仏教のきほんを学ぶ講座がスタートした。

思いのほかたくさんの人が来て下さったので、びっくりした(笑)。

●仏教に興味がある・学んでいるという人はたくさんいるけれど、

仏教とは何か? と聞かれて、明快に答えられる人というのは多くない。

これは、端的に、仏教を語る側(仏者)の責任 でもあるだろうと思う。

だって、仏者というのは、本来いちばん仏教に通じているべき人たちだから。

彼らが 「わかりやすく」 仏教を説くのは、最初の仕事だろうと思う。

それに、仏教をひとの人生・幸福に役立ててほしい、という思いがあれば(これまた仕事のうち)、

「どう語れば、仏教がその人の心に届くか・心に残るか」 を真剣に考える(工夫する)だろう。

これだけ多くの人が仏教がわからないと言っているのに、なんで安心している(ように見える)のか。


●相手の心に残るかたちで真実というのは伝えなくちゃいけない。

でないと、その真実は、関わりの中で意味をもたなくなる。

仏教を語る側は、信じれば救われるんだ、わからないのは無知なんだ、というよくある 宗教的な傲慢さ に落ちてしまうし、

仏教を必要とする人たちは、いつまでも 「?(うーん)」 が続くことになる。

そんなのイヤイヤ (≒正しい状況ではない) である。

この場所で
「仏教はオープンな方法なんだよ、
信じる・信じないではなくて、
自分のこころ・人生に役に立つと思えば使ってみればいいんだよ」

とお伝えしているのは、

淡泊さではなく、ひとそれぞれの人生への 最大限の愛情(友情・はげまし) なんだと思ってる。

ブッダ自身が、

「私にはこれを説くということがない」
「過去の信仰を捨てよ」
「教義や伝承の学問では目的を遂げられぬ」

と語っていたのは、

彼独自の愛情(いつくしみ) ゆえなんだと考えることができるだろう。

もし自分にとっての有利 (経済的利益やプライドの満足など) を図るのではなく、

自分自身にとっての真実を “確信” していて (つまりは他者の承認も、新しい教義も、もう必要なくなって)、

ただひとつだけ、世界へ、ひとへ、向けるべき思いとして 慈しみ を保つならば、

何のこだわりもなく、特定の伝統や思想にとらわれることもなく、

ただ相手を理解して、うけとめて、かんじとって、

その相手に最もふさわしい 智慧 (=その状況において最上の効果をあげる方法) を伝えることになるだろう。

仏教とは、無我=自分から自由 になるための思想である。

その境地においては、慈しみと智慧とは同時に生まれてくる のである。

原始仏典を、「ブッダの思考法」 (ブッダはどのような理解・思考の仕方をしていたのか?) という視点をもって読んでいけば、

ブッダがまさにそういう開かれた、じつに合理的な、自分の思惑から解き放たれた自由の境地から、教えを説いていたことが見えてくるだろうと思う。


●そういう話をしていたら、教室で質問があった。

「サンガの中の厳密な戒律は、そういうオープンなスタイルとは矛盾しないのですか」 と。

これについては、こう考えるといいのではないか――。

ブッダは、ひとを選ばず、苦しみ Dukkhā から自由になる方法を説いた。

その自由・安らぎの究極にある体験が 悟り・涅槃Nibbāna と呼ばれるものだ。ブッダがめざしたもの。たどりついたもの。

もし、その体験をしたいと思うのならば、ブッダの弟子になって実践してみることだ。

ブッダの方法は誰に対しても開かれている。「来たれ、みよ、自ら試してみるがよい」 Ehipassiko

もちろん、その方法を実践して目的を遂げようと決意したならば、必要ないものは一切捨てなければいけない。
そして、ブッダの示す方法を忠実に実践しなければならない。

その意味で戒律(きまり)は必要になる。

ブッダは、弟子たちが目的から外れること・怠ることに、きわめて厳格だった。だって、そもそもそれを目的として、弟子になった(サンガに入った)のだから。

当初の目的にてらして、戒律に反するような生き方は筋が通らない。

むろん、強制ではない。ひとつの道をまっとうするか、途中で降りるかは、ひとの自由である。

その意味で、ブッダはかぎりなくオープンだった。

ひとと出会う時点で、その人が教えを共有するかという点において、いつその道を降りるかという点において、ブッダはいっさい縛りを設けなかった。

ブッダが厳格であったのは、「あなた自身が選んだその目的に忠実に生きているか」 という点においてであった、といっていい。

その意味で、ブッダの流儀は、オープンであると同時に厳格でもあったのだ。

オープンさと厳格さとは矛盾しない。相手がどう関わりたいか、なにをめざすのか、によるのだ。

その意味で、オープンさと厳格さとは、愛情 (いつくしみ)の両面 であるといってもいいかもしれない。


●この場所では、特定のスタイルや思想にこだわることはしない。

極端な話、仏教でなくてもいい、というくらいのフリーな前提から始めている。

これを信じなさい (≒押しつけ)、
これこそがお釈迦様の教えです (≒権威づけ)、なんていう言い方はしない。

そんなことをしなくったって、ブッダの教え・思想の真価は、心の髄まで私は知っている。

現実の課題・テーマからスタートして、智慧を働かせてひとつの思想を構築していけば、それがブッダの教えと見事に重なることを理解している。

(私の感覚としては、数学の証明問題を一行目から書き起こせば、何度やったって、同じ結論にたどり着く、という感じである。と同時に、別の前提、展開、結論の可能性にもつねに心は開かれている。)

第一回めに来てくれた人たちには、

自分なりの目的意識をもつこと (実生活においてなにを望んでもいい)、

いっさいの前提 (これまでに学んだすべてのことも含めて) を捨ててみること、

自分の目的に照らして、何が最も合理的な方法(考え方)なのかを考えながら学ぶこと、

という話をした。

戸惑った人もいるかもしれないけど、ほんとうの真理・ほんとうの智慧というのは、そういう“前提フリー”の合理的な視点によって作られていくものではないのかな。

ぜひ、焦ることなく、ゆっくりと、でも自分に誠実に、

“自分自身のテーマ” と 仏教 とをすりあわせてみてください――。


●この場所で学べる仏教は、伝統としての仏教からいったん切り離して、組み立て直した新しい仏教だ。

この時代・この社会・この生活・この自分、から始めて、
仏教を、合理的で役立つ、現実に通用する 智慧 として活かすにはどうするか?

仏教のどの伝統、ほかのどの信仰とも相反することなく、
幸福への共通の方法、オープンリソース として活用するにはどうするか?

そういう目的意識(視点)に基づいて、話を組み立てていきたいと思う。

この視点こそが、無私と慈しみ から自然に演繹される (≒導かれる) 方法なのだ。

ほんとうの真理にたどりつくための思考法。仏教の純粋なる精神である。

そのうち、このあまりに開かれた思考のスタイルこそが、古代のブッダのそれとかぎりなく重なっていることに気づいてくれるだろうと思う。

――とまあ、これは私自身の余分なはからい(期待)であって、みなさんがそうと信じ込む必要もないのだけど(笑)。


ともあれ、仏教の学び方の一例として、これからの話にお付き合いいただければと思います。

みんなのおかげで、よきスタートとなりました。

よき教室にしましょう。よきつながりの輪を育んでいってくださいね。

10月6日スタート! 仏教のきほんを学ぶシリーズ

仏教をどう学ぶか?

やみくもに「本を読む」、「お坊さんの話を聞く」だけでは、

仏教はいつまでも わからない ままで終わることでしょう。

ナン年勉強したとか、どれそれの本を読んだとか、
どのお坊さん、どの宗派の下で学んでいるとか・・・・・・・。

それは、学んでいるうちには入らない のです。

だって、「では、仏教とはなにですか?」 と聞かれても答えられないのですから。

正しく学んでいる人ならこう答えるでしょう。

仏教とは、○○を目的とし、
○○と○○をその基本(本質要素)とします。

私はそれを日々○○によって実践することで、
体得しよう (=自分の心そのものにしよう) と心がけています――。

学校の勉強と同じように、
何かをマスターするには、スジのよい正しい学び方 が必要です。

もともと、ブッダの教えは、きわめて合理的な 心の育て方・はたらかせ方 を教えてくれるもの。

ならば、仏教を学ぶ方法も、合理的でなければならない はずなのです。

「学んだ気分」で終わるのは、もう卒業しませんか?

目が覚める ような、
まちがいない、と確信できるような、

明快な方法による、明快な内容の ブッダの教え を学びはじめましょう。

人生は短い。誰かが語る 妄想、カタチと化した宗教 につきあう必要はありません。

ブッダの教えの本質部分をつかんで、

自分自身の幸福・満足・納得 へ、

自分自身にとっての 最上の真実 へと向かおうではありませんか。


この場所で学べる仏教は、ほかのどの場所で学べる仏教ともちがいます。

徹底して、合理的な、現実本位の、ブッダの思想 Buddhism をお伝えします。


仏教の新しい可能性に出会いたいあなた、

10月6日か7日、神楽坂においでください。

内容
①仏教の基本的な考え方(5つの根本教義)
②原始仏典の言葉研究
③日本仏教を総まとめ
④海外仏教事情(映像つき)
⑤質疑応答

効果
☆仏教の全体像が手に取るようにわかる。
☆仏教書を読んでいては一生かかっても分からないポイント=本質をずばり整理。
☆これからどう仏教を学んでいけばいいかの方向性がはっきりする。
☆これまで仏教を学んできて増えてきた疑問に答えが出る。
☆仏教を通じた善き友だちができる。
☆あたたかい雰囲気の中、楽しく仏教を学べる。
☆毎回、ポイントを整理した詳細な読み物プリントつき。

方針
◎“宗教”になる前のゴータマ・ブッダの教えの本質を明らかにする。
◎これからを生きる指針となるような、実用的で洗練された内容を紹介する。
◎テーラワーダ仏教か大乗仏教かといった枠組みにとらわれず、どの伝統にも通じるもっとも本質的な部分を明らかにする。
◎もともと車の両輪だった 知識 と 実践(=禅・瞑想)の“つながり”を具体的に示す。
◎参加者みんなの知識・体験・問題意識を持ち寄って、互いにとって豊かな発見・触発があるようにする。
◎ただの知識ではなく、リアルな生き方、知恵、思いやりにつながるような、本当の学びを体験する。

参加費 各回1500円 (全6回一括7500円) 
※定員オーバーの場合は一括申込者を優先します。  
予約不要。直接教室まで。

場所 赤城生涯学習館  新宿区赤城元町1-3 
JR飯田橋駅/東西線・神楽坂駅  赤城神社隣

日程
第1部
①イントロダクション  
 10月 6日(土) 午後6時半~9時 
 10月 7日(日) 午後6時半~9時  
  ※6日・7日は内容は同じ。いずれかの回にご参加ください。
②10月13日(土) 午後6時半~9時
③10月27日(土) 午後6時半~9時
第2部
④11月10日(土) 午後6時半~9時 (10日のみ変更の可能性があります)
⑤11月17日(土) 午後6時半~9時
⑥12月 1日(土) 午後6時半~9時 第1期修了&打ち上げ懇親会

9月のおたよりコーナー

今週の寺子屋は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆
●10月4日(木) 巣鴨 生き方として学ぶ日本の仏教
●10月6・7日  仏教のきほんを学ぶ講座 第1回
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆
9月27日(木)

すっかり秋めいてきましたが、私は衣替えもなく……(雪駄でペタペタ)。

なんだか生活がシンプルになってから、年をとるのを遅く感じるようになりました。時間がゆっくりと経っていく。

まだ9月なんだな、まだ日本に来て2年なんだな、まだ4○年しか生きてないんだな……という感じ。

禅をきたえると周囲がゆっくりと見え始める と以前お話しましたが、あれはいろんな意味で本当です。なんだか不思議な感覚です。


●今日はお寄せいただいた “おたより” の抜粋を ・・・・・・・・・・☆

○禅道場に来られた方の感想:

「サティ入れて、ラベリングして、その時はその感情は消えるけど、また感情は起きてきます。(☆)私の心の反応系が変わらないかぎり、私はパブロフの犬みたいに決まった条件に反応します。この反応系を変えなきゃ結局ダメなんだと思います。」

このひとは、最近ヴィパッサナーに出会った人です。

わかりますよ――

ひとつお伝えしておくと、「この反応系を変えなきゃ結局ダメなんだ」というのが、まさに、これまでの「反応系」どおりの反応ではないでしょうか。

――つまりは、「ダメ」という反応が、これまでの反応系を強めてしまっている、といえるかもしれない……。

つまりは、「考えてしまった」ということです。
ほんとは、そこで「考えない」(ふんばる)というのが、ヴィパッサナーのコツなのです。

「感情が起きてきた」ら、「感情が起きた」と気づくだけにとどめる。それがラベリング。

(☆)のところでストップすることなのです。そのあとの「解釈(考える)」は、ぐっと呑み込んで我慢する。考えない。

ひとはついつい考えてしまって、しかも考えてしまっている自分になかなか気づけないものなのです。

こうして指摘されると、「あ、そうか」と分かるでしょう?

だから瞑想道場では「インタビュー」をやるのです。指導役の僧侶に報告してアドバイスをもらう。

ぜひ、メールでも、道場でもかまいませんので、ふだんどのようにヴィパッサナーをやっているか、報告しにきてください。ほんとは、日記形式のレポートをくれると一番よいのですけどね。


○「山奥で編集の仕事をしています。
浜松の谷島屋書店で御著書を立ち読み。わかりやすく好感の持てる本でした。・・・いちばん親しみがもててわかりやすいように思いました。」

浜松で発見してくれたことがありがたい (買ってくれるともっとありがたい……(笑))。

(坊さんの場合誤解されるおそれもあるのだろうけど、) 
「親しみやすさ」というのは、大事かもしれない。
社交的な意味で大事というだけでなく、その人の心の自由さを示すとも考えられるから。

本来の仏教の修行というのは、“自意識から自由になる”ためのもの。

ブッダ自身は、究極の自由人だった。
すべてを捨てて振り返らなかったし、ひたすら修行に打ち込んで、自分だけの真実にたどりついた。

そのあとだって、誰に何を期待するでもなく、ただ自分が信じる教えを、じつにあざやかでたくみな方法で、人々に説きつづけた。

原始仏典を読んでみると、「オシャカ様」とひたすら崇めたてまつるような感じじゃない。「ゴータマ」とひとに呼ばせて平気でいた。

どんな人とも、友として向き合い、どんな宗教・社会階層に属する人たちとも、オープンに語らった。

ブッダがすごいのは、カタチの帰依や尊敬は微塵も求めなかったのに、その言葉の深さ・鋭さ・明解さに、聞く人がみな心開かれて、自然に、尊敬の対象になっていったことだ。

ひたすら、「正しく理解する」という流儀に徹して、微塵たりとも 「プライド(慢)」 を感じさせなかった。
人間がおちいりがちな 自意識の罠 (うぬぼれ・得意・承認欲など) からみごとに抜け出していた。

ブッダは、人との関係で、何かに執着するということがみごとになかったのだ。

私は原始仏典をひもとくたびに、ブッダの、開かれた、自由な態度・生き方に、心開かれる思いがする。

ああ、私も、こんな心のまま自由に生きていこう、と自然に感じられる。
(その意味で、くさなぎ龍瞬はナチュラルに「仏弟子/お坊さん」なんです。)


自由であると何がよいのだろう。たとえば――

つねに真理が生き生きと胸に感じられる。
ひとにオープンになれる。
説く言葉がやわらかく、生きたものになる。
どんな絶望的な孤独のなかでも動じることなく満たされていられる。
いつ人生が終わっても慈しみと感謝をもって受け容れることができる。

……そんな心の状態でいられる。そう思う。

こうした自由で開かれた境地というのは、

モノや評判への執着とか、
プライドとか (自分が正しくて他人は間違っているのだ、自分こそが敬われるべきなのだ) 

といった思い込み (「我見」) とは正反対の境地。

ふたつは両立しない。どちらかをとるしかない。

仏教を“修行して”みえてくるのは、「後者 (執着・思い込み) はいらない」 ということ。

ひとが思っているようには、こうした思いは心地よいものではないのだ。
むしろ、湧けば即その汚れに“当てられて”しまう、それくらいの邪念でしかない。

他方、「自由で開かれた境地」というのは、

一旦そこに立ってしまえば、それが至上の幸福だとわかる。すなおに気持ちよくいられるもの。

仏教を学ぶ・修めるというのは、この自由な境地の幸福を身をもって知ることなのだ。

自意識をリセットして、汚れのない心にもどる。

そういう心のもちぬしとして生きていけばいい。

そうすると、人さまに対しても、何にこだわることもない。

そのときどきで、いろんな “意味” を内心理解しながら、感じとりながら、自由に関わっていけばいいだけになる。

いかなるときも、開かれて在ること――が こころの生命線

仏教を生きる者にとって。あるいは、ほんとうは、すべての人にとって。


だから、「親しみやすさ」というご印象はありがたいこと。
これからも親しみやすい坊主としてがんばっていこうと思いマス。

ということで、これからも、ボケかまして、(ときに名前もまちがえて)、楽しい雰囲気でやっていきます。

新しく出会えた方々にも、これまでお付き合いいただいた方々にも、よろしくお願いします。

(親しみやすさとボケとはちがうように思うが……)




秋だ!

週末の寺子屋は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆
●9月29日(土) 午後2時~5時 禅エクササイズと法話
●9月29日(土) 午後6時半~9時 公開講座 自由な人生を手に入れるための5つの心得
●9月30日(日) 午前9時半~12時  禅エクササイズと法話
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

9月24日(月)

●今朝、季節が完全に 秋 になったのを感じました。

風がすっかり脱力して、肌にやさしくなった。いい季節に入りましたね。

日本は、季節の移り変わりがくっきりしていていい。

インドで感じたことだけれど、日本人の折り目正しさというのは、季節の移り変わりの明確さが影響しているのかもしれない。

それと、日本人が清潔好きなのは、しきりに降るうるおいの雨が、塵ほこりを流し落としてくれるからなのかも。

日本の自然の美しさ、ひとの感性のこまやかさは、世界屈指のものだと思います。

この国のよさをちゃんと守っていってほしいな、と思ったりします(^‐^)。


●教室で出てきた話題ですが、

仏教には真理である部分と、それ以外の部分、つまりブッダ以外の人間が作り出した部分とがある」 というのは事実です。

原始仏典ひとつとっても、後世の創作・作り替えは、ありあまるほどあります。

各国のサンガ・比丘のしきたり・儀式にも、その国独自のものがたくさんある。

というか、日常レベルでは、そっち (ブッダが伝えた根本教義以外の部分) のほうがむしろ多いのではないかな。

仏教を説く側は、みんな 「これがおシャカ様オリジナルの教えだ」って、言いますよ。でも、実際はそれは正しくありません。

たとえば教室で話したことだけど、スリランカ仏教というのは、トップカーストしか比丘になれないという “締め出し” のサンガ法を、18世紀半ばに制定している。
作ったのは、ほかならぬ“仏弟子”たる長老たち。

これは、根本的な部分でブッダの教えに反すること。絶対にやってはいけないこと。

それでいて、日本の大乗仏教は仏教に非(あら)ず(自分たちのがホンモノ)、なんて言ってる。

率直にいって、批判できる筋合いではないのです(^。^;)。

私がひごろ思うのは、仏教というのはそもそも誰のためのものなのか、
仏教を説く者たちはいったい何をめざしているのか、ということ。

もし涅槃(さとり)をめざすことが目的ならば、その目的に集中する必要があるだろう。外に向かってあれこれ発言している場合ではない。(卒業したのなら別だけど)

社会改善(大乗仏教の言う衆生救済)が目的ならば、その目的に沿って身を律していく必要があるだろう。お酒・たばこ・異性も含めて、その行動には一定のルールが必要になる。

すくなくとも、“道” を標榜するなら、目的と現実とがかみ合っていないといけないのではなかろうか。

だけど、かみ合っている仏者というのは、多くない。

むしろ、比丘・僧侶以外の、ふつうの人のほうが、その点でウソがないようにさえ思う。(みんなすごく熱心。インドでも、日本でも)

真理を吟味する視点をもたなくちゃいけない、ということです。

これはブッダ・ゴータマの言葉とぴったりと重なるのです。


●インド仏教のことを日曜に語らったときに、
真理というのは、最初に置くものではなく、結果的に確かめられるもの」 という話をしました。

真理というのは、その時代・その状況・その関係・その現実に応じて、移ろいうるもの。状況依存的なもの。

その時点では真理として信じられていたものも、状況が変われば通用しなくなることがある。

科学的真理の場合は、この“恒常的な誤謬の可能性”――とたんに難しくなっちゃったけど(笑)、誤りである可能性はいつだってある、ということ――を前提にしている。

だから、実験や計算や観測でたしかめて、間違いがあれば、即座に修正する。新しい仮説をたてる。

そうやって、人間が知力をふりしぼって、徐々に、ゆっくりと、でも確実に、より確かな真理へと向かっていく。いまもその途上にある。

おそらく、人類が死滅するときまで、この 真理への真摯な探求 はつづく。

では、宗教的な真理はどうか?
永久不変の、絶対的な真理 というのが存在するのか?

語る口は人間のもの。考えるアタマも人間のもの。その真理を受け容れてきたのも、人間の関わり、社会。

すなわち、宗教的な真理は、人間を超えたところではいまだ一度も成り立ったことがないのだ。

その真理が、すべての人間・全時代に共通する 普遍・不変の真理 たりうるのか???

「たりうる」 と信じるのは自由。(原始仏典の無謬性、おシャカさまの教えの完全無欠性 を信じることも自由。)

だが、そう信じることに、はたしてどれほどのプラスの意味があるのだろうか。

そういう信じ方をしなければ、真理 というのは成り立たないものなのだろうか。

人間たちは、過去、これこそが唯一の真理であると信じ込んで、それがゆえに、他者が信じる真理と折り合いがつかず、衝突し、争いあってきた。

ひとつの“真理” をかたくなに信じ込みながら、いつしか、自分たちに都合のよいあたらしい解釈や儀礼・しきたりをつけくわえて、もともとはなかった部分をたくさん上に載せてきた。

もしその真理が、ほんとうに人間の幸福に役立つものなら、その信仰は、その人間・その社会・その国を、確実に幸せにしてきたはずだと思う。

だが現実はどうだろう? 今に伝わる宗教が、ほんとうに人間を幸せにしてきたのだろうか?

たとえばテーラワーダ仏教を篤実に信じるビルマの民は、ラオス、カンボジア、タイ、スリランカの庶民は、その仏教によって本当に幸福を享受しているのか。

なぜ彼らの現実に、あれほどの貧しさや、差別や、権力者からの抑圧 が存在するのだろうか。

古来つたわる仏教が、本当に人間を幸福にし、また永久不変の真理だとするなら、かの地の人々は、世界でもっとも幸せな人たちであってよいはずだと思う。

だが現実は、そうとはけっして言いきれない。

よくよく考えてみたいのだ。真理を証明するのは、この現実 こそではないのか、ということを。

真理とは、あくまで現実との関わりによってのみ、その正当性を証明できるものではないのか、と。

あくまで現実を前提において、その現実をこそ改善できる、人々の幸せに役立ちうる方法こそが 真理 なのではないのか、と。

人間は、けっして神ではない。真理をことごとく見通せる “完全知者” など、存在した試しはない。

(ちなみにブッダ自身が見ることのなかった現実はたくさんある。 それを問いとして引きなおすなら、たとえば、教えをいかに歪めることなく保つか。 仏教をインドの大地から滅亡させないにはどうすればよかったか。 貧しき庶民に一方的に(托鉢や布施などで)依存せずにすませる方法はなかったのか。 サンガをバラモンカーストに支配させないようにするにはどうすべきだったか。 比丘たちが俗化せず、真摯に悟りへの修行の身に専心できる環境をたもつにはどうすべきだったか――これらは今日も課題として残っている。 「仏教が衰退しつつある」という指摘が事実だとしたら、それはこれら未解決の課題が遠く近くで影響しているから といっていいのではないか。)

人間が 「これが真理だ」 と信じ込むことは、じつに危ういのだ。妄想・かんちがいである可能性を否定できないからである。

しかも、そのかんちがいは、腐敗、停滞、対立、衰退、といった、人間的な、人間ゆえの、問題を生む。

――だから、「これが真理だ」 という思いこみは 「必要ない」と私は考えるのです。

そんなものはなくても、本当の真理はちゃんと“機能する” 。

宗教の世界で語られてきた、人間を幸福にする思想・智慧を
真理と呼ぶか、真実と呼ぶか、ダンマと呼ぶか、道と呼ぶか、それは本質ではない。

ただ、唯一確実なのは、人間には、
自分の心の基盤となる、土台となる、純粋に合理的な 思考法 や 理解 が必要だ ということではないか。

それを見つけて、それを生きる―― それが人間に唯一なしうることではないのだろうか。

人間の命は短い。その限られた命しか生きられない人間に、「唯一絶対、永久不変の真理」 があると、どうして言うことができるだろう。

人間ひとりになしうるのは、“万人共通の真理” を見つけることではないのだ。むしろ、

“自分自身が心底必要とする真実” を見つけだすことである。
それをまっとうすることである。

それが確実な思考法だ。それこそが、生き方の原理であり、人生の前提である。

そして、その真実が、もしかしたら、誰かにとっての真実となり、多くの人にとっての真実ともなり、結果的に、その人の人生を超えたところで、かぎりなく真理に近い真実だと認識されることはあるかもしれない。

だが、そうした展開は、ひとりの人間が 現実の人生において 予想しうること ではない。そして、予想する必要もない。

たしかに、ひとはよりどころを求める。
特定の信仰、宗教、伝統、宗派、どの宗教家、比丘、僧侶、長老が説く “真理” こそが真理だ と信じたいひとびとの心境は、痛いほど理解できる。

しかし、同時に理解してくれたらと感じるのは、その真理は、あくまで 人間が説く真理 でしかないということだ。

でも、ほんとうの真理は、人間を超えたところに、存在しているのである。


その真理に通じたい と、もし人が本気で願うなら、どうすればよいか――。

それは、“真理を説く特定の誰か・なにか” にすがりつくのではなく、

むしろ、自分自身の心に、自分自身の現実に こそ戻 ことではないか。

自分自身を、もっと深く、真摯に、心つくして見つめること である。


――ここまで透徹して思考したときに、ひとつの逆説的な事実につきあたる。

過去、“宗教的真理” に覚醒した先人たち――ブッダを含む――は、みな、

その時代・その社会から、おのれを隔絶させ、まさに自らの内奥へと真実を求めた瞬間に、個人を超えた 真理 に到達した という事実に。

真理はつねに、おのれの心の中にある。


※秋だ!と思ってこれ書いたら、えらい土砂降りになっちゃった――(笑)。

基本は「自分にとっての真実」

9月23日

いよいよ風が涼しくなって、秋めいてまいりましたね――。

●私のほうは、この週末はけっこう充実していました。

○土曜午前は、カルチャーの秋講座がスタート。

受講生はシニアの女性たちでしたが、なかなか反応がよく。

仏教を学ぶ気がガゼンわいてきた!と語っておられました。よいクラスになりそうです。


○で土曜午後は、神楽坂で 寺子屋 と 夜の禅瞑想の会。

夜の禅はなかなか気合の入ったよきひとときになりました。

メトロノームを使って、音に合わせて感覚に集中して、最後は音をストップして静寂に落とす。

みなよく集中できていました。夜は灯りを消すとかなり暗くなるのもよい。

夜の坐禅会をふやそうかと思っています。雰囲気がよかったので(^。^)


●昨日と今日の教室で出てきた話題について――

出家というのは、形ではなく、”因縁を断ち切る”覚悟をきめた人 のことです。

「真実か死か」 という極限の二者択一を生きている人種 でもあります。

真実を見失えば、その身は死んだもひとしい。真実のない人生は、どうしても生きられない――。

必然、その生きざま・暮らし方は、はたからみれば、滑稽な、ちょっと不可解なものにみえてくるかもしれない。

しかし、そのような妙な生き物だからこそ、はたせる“役割”というのがある。

その役割は、ふつうに生きていてはまっとうできない、なかなかに難しいものだったりする。

その役割をはたすことで、かの激しく珍妙な生きざまは、はじめて社会的な意味をもつ。

なにかしら、“真理”に近いもの、人間をこえて、時代を超えて通用する、普遍的な生き方や思想性といったものが生まれる可能性もでてくる。

たぶん、私が知る佐々井秀嶺上人の生きざまもそういうものだし、ブッダ以来の仏者の伝統にはそういうところがあるように思う。

まずは己の真実をみきわめる 

→ その真実を生きる 

→ その時代・その社会において新しい価値・役割を発揮し始める 

→ いつしか、時代・社会を超えた“真理”、普遍的な生き方 といったものが浮かび上がってくる

という流れ。

土曜の神楽坂で、「真実を証明するのはどうやってか?」 という話題が出ましたね。

「自分では証明できない。それは関わりの中でしか証せない」 とお答えしました。

その言葉の背景には、今お伝えしたような、仏者の系譜、出家の生きざま、みたいなものがあるのです。

むろん、どの程度、“真実”にこだわるか、道をまっとうするかは、人それぞれ。

真実をみつける ことも容易ではないし、
真実に殉じる、というのは、なおさらいっそう簡単なことではないのでしょう。

しかし、これを生き方のフォーマット(定式)として引き直してみると、

①自分自身にとっての真実・たしかな意味 をみつける・みきわめる こと
     ↓
②その真実を心の土台にすえて、自分の現実を生きること。“この人生”をまっとうすること
     ↓
③そのことで、何か、ほかの人、この場所、この社会、この時代……に通用するような新しい価値を創り出すこと

という流れは、誰にでもあてはまるものではなかろうか。

どんな人生にもあてはまる正しい流れ=生き方の正しい筋道 のような気がする。

大切なのは、自分自身にとってのたしかな意味をつかみとること。
そのために、自分に誠実に、この日々を生きること。

ではないのかな。

そういう生き方の原点、のようなもの を共有できたらと思うのです。


☆みなさんにとって、よき一週間となりますように――。


真っ赤なトマト――人生の価値を決めるもの

今週末の教室は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★
●9月20日(木)午後2時~4時 生き方としての仏教講座 巣鴨地域文化創造館
●9月22日(土)午後2時~5時 土曜午後のおとなの寺子屋  テーマ自由の仏教学習会
●9月22日(土)★午後6時半~9時 夜の禅瞑想の会(禅エクササイズと法話) ほか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★


9月19日(水)
●この連休に、宮城石巻からひとりの男性が来ていた。

知りあったのは、今年冬の代々木の炊き出し。
その頃男性は、神奈川で警備員をしていて、夜勤明けにボランティアとして炊き出しに参加していたのだった。

3月の津波で、自宅は流されてしまった。
父親はショック・心労が閾値を越して大きな手術をした。
一か月以上してようやく再会できて、男性は、石巻に戻ることを決意した。
父ひとり、子ひとりで、今仮設住宅に住んでいる。

私は、男性の背負い込んだ現実と、それでいてなおボランティアに朝駆けるバイタリティの強さ、というか、その魂の強さに感銘を受けた。

その男性から、先週、石巻でとれたトマトが送られてきた。

新鮮で真っ赤な中サイズのトマトが箱にいっぱい。

近所にもおすそわけさせてもらった。みんなおいしいとびっくりしていた。

男性によると、このトマト農家のご一家もまた、自宅を流されてすべてを失ってしまった。

石巻の沿岸部は、津波による塩害で、作物が育たなくなったそうだ。
道路や建物などのインフラは、あまりに遅いペースではあるが、徐々に復興しつつはあるという。
しかし、田畑は恢復が難しい。土壌に沁み込んだ塩は抜けない。

農家のご一家は、内陸に辛うじて土地を借り、そこでトマト作りを始めたという。
その収穫を送ってくださったのだ。

トマトの果汁がこころよく腹に沁みてきた。

農家の収入は“以前の3分の1”に激減し、貯金は減りつづけているという。
気持ちはそうとう滅入っているというのが実情らしい。

その一方で、「今年の収穫は、味がまだまだ」とも語っているそうだ。
農家の人たちは、「自分が理想とする味」を求めて作っているのだという。

すごい志。

男性とは、ファミレスでたっぷりと話しこんで、新宿で別れた。
夜行バスで7時間かけて帰って、また仕事なのだそうだ。

自分の生活ひとつでたくさんの気苦労があるのに、それ以上に、石巻で何ができるか、農家の人たちの今後をどうするか、とかいろんな課題を語りつづけた。聞いているとこちらも楽しくなってきた。

近いうちに石巻にいけたらいいね、という話をしている。きっとかなうことだろう。

ただ、これはどんなはたらきについても言えることだと思うけど、
自分がこれをやりたいから、これをやるために、彼の地に行くというものではないと思う。
自分自身の動機というのは、邪念とさえ思っていいのではないか。

いつも、相手を見て、きちんと正しく理解して、受け止めて、そのうえで、何ができるか・何をすべきかを考えてから、はじめて具体的な行動が出てくるのだと思う。

仏者の流儀としていうなら、「いつも正しい理解から」である。

行動するときは、自然に、静かに、むしろ”匿名のつもり”で動くといい。

さしだすべきは、“自分”ではなく、“はたらき”なのだから。
そのほうが、“善きはたらき”ができる可能性が高くなる。

男性とのつながりは、私が日本に帰ってきてさずかった賜物のひとつである。
ようやく自分自身が育んでいくべき、本当のつながりが見えてきたかな、と個人的には感じている。

命つづくかぎり育てるべき“つながり”がひとつ見つかれば、人生は生きていく価値がある。

このつながりは、私の人生にとってのトマトなのだろうと思う。