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ネコを助けて!その2

8月29日(水) どんどんアップしまっせえ~!チェック、ヨロシク(矢沢?)

こんにちは、龍瞬です。

●前回の、「この猫は誰の所有か、答えられなければ斬る」という、
“おっかない”禅問答について、おたよりいただきました:

「私は、どうも誰の所有かという言葉にひっかかってしまいます。

誰の所有かなんてどうでもよくて、答えられなければ斬るという発想にいくのが極端すぎて、おかしくないですか?

と、私がその場にいたら逆に主題した師匠に喝をいれたくなってしまいます。
どうもここしかいきつくところがございません!!

でも、これでは答えにならないし、わかりません(T_T)」


おたよりありがとうです。

この人は、かなりいいところまで行ってます。
猫を助けるのにあと一歩!です!

(実は、この問答(公案)は、オリジナルの問答を若干アレンジ(改題)してあります。
元の問答についてはあとで一緒に考えるとして、まずはこの形で考えてみたいと思います。)


●ヒント挙げてみましょうか(考えてみてね):

○このお師匠の理不尽さ(相手の姿)を、そのまま受け止める。
 (→この状況でどうすればいいか?という思考に集中するため。)

○自分の気持ちに忠実になる。その気持ちをそのまま表に出す。

○相手の言葉にとらわれない。
(世間には、ウソ・まやかし、こけおどし、ただのカッコつけ、小理屈、妄想、打算・計算・戦略……などいろんな言葉がある。それにとらわれない。)

こうしてヒントを出してみると、この禅問答ひとつにしても、
この世界を生きていく上で大事なことを教えてくれるよい素材であることが見えてきます(てか、そう見てほしい)。

(実は、公案としてはかなり議論のある、“問題アリ”の問答なんですけど(^。^)。だから皆さんの反応は分かります。)


●禅というのは、一見ヘコ難しくて、また分からなさを売りにするような風潮があるけれど、

それでもブッダの知恵というのはすごいもんで、
どんなに小理屈に長けた禅師の要求・難問でもさらりと解けてしまいます。

おたよりくれたこの人も、
ほんとはもう半分答えを語っているようなもの。あとひと越え!

自分の気持ちに素直になる。

そして、言葉は気持ちをかなえるただの手段にすぎないと気楽にかまえる(^^)。

そしたら、いろんなモノが開けてくる・・・(深呼吸)。


ということで、おうかがいします――。

あなたのファイナルアンサーはっ???   

猫の運命やいかに?   
9月6日、巣鴨にて明らかに!――ニャァァァァ~(`エ´;)


※ちなみにオリジナルの問答は、

寺の東西二つの堂衆が、一匹の猫(の所有)をめぐって争っていた。

南泉和尚は猫をとりあげてこう言った。

「これぞ禅だという言葉を言ってみよ。言えれば猫は救ってやる。言えなければ斬る。」

堂衆、みな答えられず。猫は斬られた。 (「無門関」という禅の古典から)


おっかない! こんなアホな和尚にド喝を入れてやりましょう! 

どうやって? 知恵で喝を入れるのです! 知恵の喝(かーっつ)!!! 

そうしないと猫ちゃんが……。


こっち(オリジナルの問答)も考えてみない?


禅にメトロノーム?

8月26日 
もう夏も終わりですね――。

今日は、禅エクササイズにメトロノームを使ってみた。

禅定にスムーズに入るには、気づきのリズムというのが案外重要になる。

一定のリズムで、気づきを入れる。足の運び、鼻先の呼吸の感覚――。

リズムを保つ意味というのは、たとえば、雑念・自己判断に意識をとられないようにすることにもある。

たとえば、ある人は、歩く禅(瞑想)のときに、壁の近くにくると歩くペースを変えてしまう。

目に見える壁に反応して、「ターンしなきゃ」と判断して、その判断が足の動きを速めてしまう。その結果、足の感覚に意識を注ぐことがおろそかになってしまう。

またある人は、ゆっくり歩くということがなかなかできない。先を急いでしまって、自分のペースで速足で歩いてしまう。

しかし、これは、普段の自分の性格そのままに歩いているだけだ。

その心のままに歩いてしまえば、普段の自分のままに歩いているということになり、当然、心はなかなか成長しないということになる。

禅・ヴィパッサナーの基本は、とにかく心尽くして、注意深く、ていねいに、だ(Mindfulness)。

一歩一歩、瞬間、瞬間――。

そういう、“思考抜き”の気づきを促すためには、自分のペースではなく、機械的な一定のぺースに乗るのが効果的ではないかと思った。それでメトロノーム――。

正直、ブッダの時代にはメトロノームなんかなかったし、今もメトロノームを使っている禅/瞑想道場なんて世界中探してもないだろうと思う。

なるべくナチュラルに、本質に沿って、という私の方針に照らせば、いいのかな~という思いがあった。

ただ、体験の浅い人、雑念に気をとられやすい人、あれこれと考えてしまう人には、入りやすい方法ではある様子である。

雑念まみれの心のめいめいの“言葉で気づく”に任せるより、

一定のリズムを外から与えてあげたほうが、最初は乗りやすいようだ。

そして、ある程度心が静まってきたら、メトロノームを止めて、静寂に入る。

静寂の時間も、もちろんエクササイズには入れる。

なかなか、よかったのではないか(^‐^)。


●禅・瞑想の肝心なところは、とにかく“つづけること”だ。

より正確に言えば、心・知性を成長させるには、つづけることが欠かせないのだ。

今の時代、つづけることの大切さをあまりに忘れてしまっている。

大のおとなが、安易な方法に頼って、“即効性のある方法を”とか“簡単にできて、すぐに効果が上がる”ことを期待する。

率直に言って、その程度の発想では、その程度の人生しか生きられない。

自己啓発の世界でも、ビジネスの世界にも、安易に結果を求めようとする風潮はある。

しかし、それは“バーチャル”な発想だ。
すぐに結果を求める”というのは、結果という妄想にしがみついているということだから。

因果の法則というのは、人間の妄想で捻じ曲げられる(なんとかできる)ようなものではない。

結果を現実のものにしようと思えば、現実の行いに心を注ぐしかない。
だが、この現実に向き合うという発想が、どうにも弱いのだ。
育てる機会がないから。


●むろん、教師役というのは、好き勝手なコトを言いうる立場にある。

禅・ヴィパッサナーの世界でも、つっけんどん、上から目線で説教すればいい、という人もおられるみたい。道を引くスタイルはさまざまだ。

ただ、私の場合、言うべきことは言うけど、でも十分な励まし・後押しもしてあげたいと思っている。(あげたいとは、贈りたいの意)

道を引く者の責任として。道を分かち合う友の情として――。

その意味もこめてのメトロノーム。


本当に心を成長させたいと願う人にはこう伝えたい――。

理屈に走らずに、まずは、この一息、この一歩に気づくことに集中してみなさい。

一番単純な作業ひとつに心を注げない人が、
どうして大きな成果を創り出すことができるだろう。

今このいっときを善き心ですごせない人が、
どうして善き人生を生きることができるだろう。



そう思いませんか?


ネコを助けて!その1&めいっぱいの、ありがとう――

8月23日(木)
巣鴨の教室は、禅の世界へと突入した。

禅というのは、いわば思い込みを破壊する修行。

観念、判断、価値観、自分の人生はこんなもの、私はこういう人間、世の中はこういうものという一切の思いこみを、ただの妄念としてぶっ壊す。

そのための只管打坐(しかんたざ:ひたすら坐禅by道元)であり、公案(頓智問答1700題)。両方ともかなり激しい。精神力、知力を酷使する。

そうやって、“この自分”“この人生”“この現実”を作っていた思い込みを破壊する。

その修行は、かなり激しく厳しいのだけど、もしその目的を遂げることができれば、

心はすっからかんのパーになる(笑)。つまりは、究極の自由の境地に立てる。

そのとき、自分というのは存在しない。ありのままの世界が、宇宙が、広がっているだけ。

自分と他人の区別もなく、自分と世界との区別もない。
自分が消えちゃうのだから、自分は他人であり、世界そのものである。

それを古い禅語では「平等」と表現する。
いわば、一点の自意識の塵もなく、世界全方位に開かれきった境地である。

(※もちろん、以上は比ゆ的な表現です。正確には“そんな感じがする”というところか。)

教室では、その境地をちょこっと覗いてもらおうと、ためしに“公案”をとりあげた。

たとえば――

◎梁(りょう)の武帝が達磨大師(だるまだいし)に問うた。
「究極の真理とはどのようなものか」

「からりと晴れて、聖なるものさえない(廓然無聖(かくねんむしょう)」

武帝はさらに問うた。
「余に相対(あいたい)しているそなたは一体何ものか」

「知らない」

☆「知らない」の本意(意味するところ)は、たとえば、

「んなものワシに聞くな、あなたが見ているそのものだ、見たいように見るがよろしい(自分なんぞないのだし)」

◎僧が禅師・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)に問うた。(碧巌録(へきがんろく)26)
「奇特(すばらしい・尊い)とはどういうものですか」

百丈は言った。
「独り大雄峰に坐するようなことだ(独坐大雄峰)」
 (≒たとえば雄大な景色の峰に独り坐禅を組むことだ)

僧は礼拝した。(≒納得した、の意)

百丈は、すかさずこの僧を打った。(≒分かってない、の意)

☆「打った」の本意は、たとえば、
「雄大な峰の景色こそが素晴らしいと納得しているオマエはまだ思い込みから脱していない。そも坐禅するのに、景色もクソもあるか。この程度の答えに納得しているオマエは何も分かっておらん」

キビシー、ですね(笑)。

ちなみに、上に挙げた本意は、どれも私があえて言葉にしたもので、正解とは限りません。公案には、むしろ答えが出ないもののほうが多い。あるいは、どのような答えも正解になるところがある。

こういう公案を、1700も解いてはじめて悟りの印可(師の公認)を得るのだとか。

言うまでもなく、今の時代に、こんな公案に真剣に取り組んでいるところはないと断言してよいでしょう(笑)。

でも、もういっちょ、公案考えてみません? これ、巣鴨で“次回までに考えてきてくださいね”とお願いしたやつです。ぜひよきアイデアをお寄せ下さい。

◎寺の東西の堂衆(修行僧たち)が猫をめぐって言い争っていた。
南泉(なんせん)和尚が、その猫をつかんでこう言い放った。

「誰の所有であるか言ってみせよ、言うことができれば助けてやるが、言えなければ斬る」

誰も答えられず。

猫は斬られた。

――さて、あなたならなんと答えますか? 答えないと、猫が斬られてしまいます(キビシー)。


*教室によっては、けっこうたくさんのひとが来てくれる。

毎回、私の中で後悔するのが、お別れどき。

できれば一人一人、しっかりと、

来てくれてありがとう、また来てね、
それまで元気でね(幸せであってね)、

と伝えたい。

だけど、個別の質問に答えたり、あいさつを交わしているうちに、みなぱらぱらと出て行ってしまう。

これが、あとになって「もうしわけなかったなー(せっかく来てくれたのになー)」という思いになって残る。

私の中では、自分自身が明日生きていないかもしれない、という思いがある。
これは、妄想ではなく、可能性についての正しい理解。

今日会った相手も、もしかしたら明日は生きていないかもしれない、という思いがある。
実際、ほんとその可能性はあるのである。

仏典の中にも、
「今朝出会ったあの人は、この夕べにはもういなかった。
夕べに出会ったあの人は、翌朝にはもういなかった。」という偈がある。

これは、悲観ではなく、無常についての正しい理解だ。

たしかなのは、今一瞬に生きた姿で出会えている、という事実のみ。先の事は幻でしかない。

巣鴨には、7、80代のシニア世代も、30代の若い世代も来てくれる。
両方、毎回休まずにがんばって足を運んでくれる。そのことの、なんとありがたいことか。

だから、できれば、目一杯、心一杯、感謝と愛を託して、またね、と言いたいのである。でも、それがなかなかできない。なんか切ない。

ということで、ココであらためて伝えよう。

来てくれるあなた、みんなに、命をこめてありがとう、と。

感謝。愛。そして、(自分への)慎み、戒め、反省――。毎回、それの繰り返し。

生きている姿を見られるだけで、どれくらいこの身は幸せか。

生きているあなたの姿は、どれくらい美しく、かけがえなく、輝いているか。

私の目に映るあなたの姿を、いちど伝えてみたいくらいだ。この胸の内にある思いも。

ありがとう――。

草薙龍瞬より、あなたへ


夏の宣誓!(わたしは二歳?)

※トップページは“出家、日本をゆく”という連載日記です(^^)。

8月21日
最近は、本をみつけて、遠くから来てくださる人が増えてきた。
おたより・相談ごとをお寄せいただく機会も。これはじつに尊いご縁。

ようやく自分が何を語ればいいのか・何をすればいいのか、うっすらと分かるようになってきたように感じる。

●考えてみれば、日本に帰ってきてようやく2年が経った。

この国を出る前は俗に生きる人間で、出家してからは新しい命をさずかった。
出家僧・草薙龍瞬として戻ってきて、2年が経つのだ。

つまり、日本での草薙龍瞬は、「にちゃい(二歳)」
なのである――(と指を2本ひらいたりして(笑))。

戻ってきたときには、ゼロ歳。日本では“生まれたて”。

あったりまえだが、自分が何ものなのか分かってない。
きょとんと周りを見ている感じだった。

帰国した当時は、
この国の状況も知らなかったし(リーマン・ショックもあとで知った(^^;)、
自分がこの国で何をしたらいいのかも分からなかった。

自分であって、自分ではない、妙な浮遊感。

とりあえずという形でこのブログ“出家、日本をゆく”を始めたのは、2010年の9月。

なんだか宇宙の果てしない虚空に手紙入りのボトルを放つ感じ。もちろんリアクションなどない。

正直、生きていけるかどうかも覚束なかった。

「5年やってダメなら野垂れ死にだ」と本気で覚悟していた。

でも、ほんの少しずつ、ありがたい因縁の重力のおかげで、自分の言葉が凝縮して、カタチを表し始めた。
このブログを見てくださっている人たちとの関わりや、
進行中の仏教ライブ、出版させていただいた本というのは、ささやかだけど、そういうカタチのひとつ。

ありがたいこと。生きていることは悪くない(笑)。

●ただ、正直に告白すると、まだまだ、血が通いきれていない気がしている。
人間としての血。生命としての熱。

ひとと心通わすための人間としての熱と血は、修行によって確実に枯渇する。というか、そうでなければ修行の目的を成就できない。

問題は・・・そのあとだ。
人との関わりに戻ってきたときに、どこまで俗に戻るか、俗と関わるか、だ。

中途半端な坊主というのは、修行を成就しないまま、中途半端に俗と関わる。
俗とたんまり関わりながら、「修行中」とのたまう。それは本来おかしな話だと思う。

まずは修行を成就して、「なすべきことはなした」(ブッダ)と言えることが、俗に戻る前提だろう。

そして、俗に戻るならば、きちんと自分の果たすべき役割、俗における方向性(目標)を明確に示す必要があるだろうと思う。

●では、私はどのような方向性をすえればよいのか?――

それがここ2年の大きなテーマだった。

それは、宗教・伝統べったりの仏教の方向性とはちがうと思っていた。

インドのように信仰をストレートに語ってすぐにつながれる社会なら、生粋(きっすい)の仏者のままで生きていける。でも、日本ではそのやりかたはちょっと難しい。

それはお寺や宗派をもたない単身の出家僧だから、というのもあるし、
何より、宗教・伝統としての仏教は、どこか大切な部分を落としてきているという思いがあるから。

たしかに、この国には、信仰心の篤い人は多い。宗教団体も、お坊さん方もたくさんおられる。

しかし、私の根本的理解をありのままに述べれば、かの方たちが依っているのは、
できあがったカタチ・伝統としての仏教であって、

ブッダ自身がたどり着いた真実、あるいはブッダが伝えた方法・境地とは、
微妙に(ときに大幅に)ズレてしまっているように見えてしまう。

本来、ブッダが説いた真理に、カタチは存在しない。伝統も、宗派もない。
今日僧侶・長老たちが語っているフォーマットつきの仏教(≒あらかじめの型があって、それを用いて語っている仏教)とはちがうのだ。

元々、仏法(≒ブッダが見た真理)とは、無色透明な、カタチすらなき、一点中の一点の真理。

だから、人々に仏法を伝えるには、それなりの方便(方法)がいる。

その方便としてなら、どの伝統も、たくさんの教義や習わしも、それなりに尊い価値を持っている。
活かせるならば活かせばいい。

ただ――その方便を自分自身が採るかというと、そうはならない。

なぜなら、一番大きな理由をいえば、めざす方向性がちがうからだ。

●私が求める方向性は、仏教のどの伝統ともちがう。
それゆえにこそ、日本に帰ってフリーで道を進むことにしたのだ。

いわば、私が求めるのは、仏教の真髄を、宗教という方向性にではなく、

この国・この社会の人々が共有しうる新しい価値へとつなげていくこと。

人としての正しい生き方・心の持ち方――それを仏教の世界では“ダンマ”と呼ぶ。

それはブッダの教えの中に、じつはまだけっこう未表現のまま眠っている。
正確には、“活かし方”の点でまだ開発されていない部分があるということだろうか。

その部分を掘り起こしてみせたいと思うのだ。

これは、工夫・創造の領域である。どこかの伝統・慣わしに従わなければならないという部分ではない。

たぶん今この社会に最も必要とされているのは、

正しい生き方・心の持ち方という、
人間が人間として生きていくうえでの“原理的な”部分をはっきりさせることだ。
宗教という色を着せることなしに。

そうすれば、その原理的な発想に基づいて、いろんな活動を広げていける可能性が出てくる。
人それぞれの持ち場・やりかたで“社会的な善”を増やすことが可能になる。

これは、個人が工夫していい領域だ。

私について言うなら、ブッダの教えという確固たる真理をこの命の土台にすえて、
そこから、人々が共有しうる善き活動を広げてゆきたいのである。

出家か在家か、仏教かそれ以外か、といった観念による線引きを越えて、
多くの人が共有でき、ときに何かを共同して新しい価値を創り出す、
そういう中立的な動き・因縁の一部として“はたらく”。

そういう“開かれた命”として生きていくのが、私の方向性なのだ。

仏教は、すべての仏者にとって“心の前提(土台)”だ。ゴールではない。

ゴールは、自分以外の誰かの幸せにある。
この世界で生きているすべての人々・命の幸福をゴールにすえる。

生きとし生けるものよ、しあわせであれ――。

仏道のゴールはその心一点に尽きる。そうではなかろうか。

●そういう自分自身が今感じているのは、平たく言えば、

仏者としての身の上を降りて(飛び出して)、自由に俗と交われ”ということ。

最近、ようやくその覚悟が固まってきた。
(多少の戒律違反が何であろう、夜にみんなとカキ氷を食べたっていいではないか(笑))

・・・そう思えるようになるまで、二年必要だったということ。

“にちゃい”になってようやく、自由に笑ったり、人と語らったりできるようになった気がする。

これから、もっともっと自由に動き、語らい、関われるようになろう。
いつでも手放せる覚悟はたもちながら。

禅はその境地を“遊び”と称する。いつくしみの心で融通無碍に遊ぶのだ。


●子どもがそのキャラクターを発揮するには、周囲との関わりが欠かせない。
会って、遊んで、泣いて笑って、ゆっくりとその子オリジナルの性格・個性が開いていく――。

くさなぎ龍瞬のキャラクターも、人と出会い、関わり、工夫・経験を積み重ねながら、だんだんその輪郭をはっきりさせていくことになるのだろう。
そうすれば、この言葉・この命に、もっと輝きが、熱が増すだろう。

そのことで、ブッダの説いた真理の本質もいっそう際立ってくる。

無色中立の、時代を超えて本当にうけ継いでいくべき
“幸福への方法”も明らかになってくる――。

そういう心づもりでこの道を行きたいのだ。この道に終わりはない。

というわけで、みなさん、
くさなぎ龍瞬とぜひ遊んでください。
いじっていいです。ボケかましたらつっこんでください(なんでやねん!みたいな)。

この夏の宣誓であります。

がんばりましゅ。

8月15日に想う・・・

8月18日(土)午後6時半~8時半
夏の終わりを仏教で惜しむ会  テーマ自由の仏教学習会
仏教がわかる。コワイ話も聞ける・・・。神楽坂にお越しください。

8月15日
朝出かけるときに公園を通る。
なぜか夏になると、路(みち)にミミズが這っているのをよく見かけるようになる。

大半はもはや干からびて、茶黒い干物になってしまっている。
タイにいた頃、寺の犬たちとよく散歩した。犬たちはときどき地面に鼻先をつけて、カシカシと何かを噛むしぐさをする。それが渇き死んだミミズだとあとで知った。

ミミズたちは、おそらく場所をなにかの理由で変えようとしたのである。どこに求める場所があるのかは分からない。ただ光を感じる方向へと這いだして、あてどない旅に出る。

そのうち、太陽が照り出す。ミミズはわけもわからず体が焼けていくのを感じる。脆弱な皮膚はなすすべなく日に射られ、苦痛に悶える。土に潜ろうにも、人間が踏み固めた堅い地板である。なすすべもなく焙られていく。

あるいは体力つきて、路上で止まってしまうものもいる。すかさずアリが噛みついてくる。間もなく、黒く残忍なアリの大軍が押し寄せてくる。ミミズは全身を噛みちぎられ解体されていく苦しみを、わけのわからないまま引き受けて、不意の死に引きずり込まれていく。

夏になると、にわかに朝忙しくなるのである。
路上で這っている、あるいは疲れて止まってしまったミミズを見つけては、つまみあげて、ときに水をかけて、草葉の影をみつけてそっと落としてやる。

ミミズからすれば、自分に何が起きたのか分からないだろう。
でも見ていると、湿り気は感じるのか、居心地よさそうにそこでじっとしている。

小さな公園の路だが、見渡すと累々とミミズの焼死体が転がっている(みなさん、ぜひ今度見てみて下さい)。
数え切れないくらいの死が、このひと夏に起きている。
近所の公園のミミズ一つで、それは顕(あき)らかに見える。

せめて、せめて、見つけたミミズには、死なないでもらいたいと思ったりする。

ひんやりした土の中で残りの人生をまっとうしてほしい――。

その午後は、有楽町にある相田みつを美術館を訪ねた。(詳細は後日)
国際フォーラムには、夏休みのイベントにやってきた親子がいっぱい。
楽しそうに飛びまわる子供、親と一緒にお弁当をほおばる子供。

彼らのこの瞬間にはなんの苦痛もない――と思った瞬間に、その幸福感が白く閃いて、一帯が光り輝いてみえた。

67年前には、この一帯は焼け野原だったのだろう。
日本各地の空襲で、三十万を越す人々が焔の中で死んだ。
8月のわずか4日間に、原爆で二十万以上の人々が熱の中で死んだ。
昭和を通じた戦争で、いったいどれだけの数の命が失われたか。

8月15日は、その苦しみがようやく止んだ日。

戦争の痛みは、明らかに遠ざかりつつあるように思う。
特に今年は、オリンピック騒ぎで、戦争を想う声がひときわ遠かった気がする。

“敗戦”から終戦“へ。そして日本人の誰もが戦争を知らない遠い時代へー―。

致し方ないことか。しかし、現実の苦しみは、今なおカタチを変えて生まれ続けている。

たとえば愛着ある故郷を突如奪われて、今なお戻れない人々がいる。
戻れない彼らの痛みを何も感じず、問答無用とばかりに再稼働にひた走る一部の者たちがいる。

痛みは、どこにでも転がっている。満ち満ちている。不条理に。

せめて、その事実に想いを向ける心だけは失うまいと思う。

生きとし生けるものがみな幸せであれ、安泰であれ、安楽であれ――。
(スッタニパータ)

それ以外に想うべき真実があろうか。夏の日。

巣鴨でお茶会

8月3日
昨日は巣鴨での仏教のお話。帰りに会の皆さんと茶店に行った。

そこは本格的なお茶の店で、茶葉を自分で選んで、すり鉢に入れてゴリゴリスリスリと15分くらい自分で擂(す)って粉にしてお茶を立てて飲むというところ。

結局、もう擂って粉になったものを選んでそれでお茶を立ててもらった。お手軽だから(お店のコンセプト無視(^^;))。

会員さんはみな定年を超えた方たち。この仏教講座以外にもいろんな教室に通ってるらしい。

体力もあるし、年金もあるし、聞いているとなかなか皆さん楽しそうな生活だ。そのうちツアー組んでインドにも行きたいという。「企画作ってくださいよ」とおっしゃる。

企画はいいのだけど、心配なのは、皆さんの体力。インドの気候と食事というのは、彼らにとって酷ではないか。インドを訪れるけっこうな人が腹をこわす。熱を出す。ちと怖い。

仏教を通じて、こういうさまざまな人たちと出会えるのは、幸いなことだ。

自分の伝える仏教が、彼らにとっての生活の憩いのひとつにでもなってくれれば申し分ない。

皆さん、私に「はやくインドに一度渡ってください」とおっしゃる。

私にとっての「来年」と、今年77になるわが師父にとっての「来年」とでは、意味がちがう。

早く渡って今一度お会いせねば、というのは、私も感じるところ。

早く状況が整うことを祈ろう。理想としては、本も売れて、日本での活動が軌道に乗って、それ以降――というところなのだが、しかしこれを待っていてはいつ実現できるか分からない(^^;)。

ちょっと無理してでも、決断したほうがいいのかもしれない。

ちなみに、私は、インドでも、タイでも、ビルマでも、日本でも、どの場所でも生きていける。

どの場所にあっても、そこで見える景色・出会う人々が、ひとつの奇跡であることを知っている。

この出会いを大切にしよう。今一瞬を大事にしよう。そう思っている。

この巣鴨の会の皆さんも、私にとっては善き友である。人生は面白い。世代を超えてこんなふうに語らえる友ができるのだから。日本に帰ってきてさずかったひとつの奇跡ではある。

360度どっちを向いても、善き友がいる。そういう自由な魂で今ここを生きたい。

雑念、増やしたる・・・・

8月1日
最近は、青森、山口、浜松、そして三重と、けっこうな距離を越えて来てくださる方が現れるようになりました。

(「中国」から来た人もいた、と思ったときもあったけど、これは「中央区」だった。海を渡ってから、日本語感覚が遠くなった気がする(笑)。とゆーか天然ボケ?)。

これは、本を出させていただくようになってからのこと。会ったことのない人が、その土地の図書館やら本屋さんやらで私の本を見つけて、時に訪ねてくれる。なんか不思議。楽しいこと。

こないだ聞いた感想では、「雑念が消える本」は「ムズカシイ」のだそう・・・。

実は、少なくない人たちから、「二冊目の本は難しくて、読むのに苦労した」という感想を聞いているのです。

決まって皆さんが言うのは、前半部分の難しさ。後半部分は自然に読めるそう。

なんでだろう?と思って考えてみたら、前半はリクツで書いて、後半はエピソードを交えて書いてる。
だから、前半は入っていきにくいが、後半は入っていきやすい、ということみたい。

あえていうと、前半は「思考」で書いている。
著者の思考のパターンと、読者の思考のパターン(概念や言葉の組み立て方、理解するための言葉の使い方)は違うから、読む側としてはどうしても「調整」が必要になる。

「どういうことなのかな~???」と、自分の言葉の使い方とのギャップを感じながら、なんとか自分の言葉の使い方に収まるように(あるいは書き手の言葉の使い方に慣れるように)考えて、読むことになる。それが「難しさ」になる、ということなのかもしれない。

後半は、エピソード(具体的場面)をもとに書いている。
エピソードというのは、人間である以上なんとなく想像ができる。感情移入できる。だから、分かると思える。

あえていうと、そんな感じだろうか。
「後半(=第5章以降のタイプ別雑念解消法)に入って、ようやくスラスラ読めるようになった」というご感想が多いのです。

すみません~(´Д`;)、です。

思えば、企画をいただいたとき、「雑念てナニ???」と思った。

これは率直にお伝えするけど、
私は、もはや日常生活においては、「念(気づきsati)を保つ」ということが習慣になってしまってる。
必要ない思考・感情は「消す」ことを前提にしていて、「感覚だけに戻る」ことが習慣になっちゃってる。

感覚そのものに雑念はない。
雑念の多くは、思考(記憶を含む)と感情でできてる。
だから思考と感情をリセットすることが習慣になっちゃうと、雑念からは遠くなる。

今思うと、だから、企画をいただいたときに「???」と思ったし、執筆している間も、かくも苦労したのだと思う。

(恥ずかしい話、雑念をもっと増やそうと思って、図書館に行ってA○B4○のCDを借りようとしたくらい。結局、予約数が多すぎて聴けないうちに本が出ちゃったのだけど。)

雑念を増やさねばいかんな~~~~~~~~~~~~~というのが、書いてるあいだ痛感していた正直な感想。必要なのは逆修行。バック・トゥ・ザ・娑婆の世界?

人さまに発する言葉を
思考で片付けてしまってはいけませんですよね。感情を共有できないと。

次回作は、徹底して、多くの人の心のうちを聞いて、理解して、出発点を共有してから、一気に書こうと思いマス。(皆さん、そのためにもご意見・ご感想・ご相談などお寄せ下さい。お願いします。)

ちなみに、雑念・煩悩がないと、本なんて書けないと思う。
坊さんが本を書く(しかも売れる本を書く・たくさん書く)というのは、実はおかしなこと。矛盾してる。てゆーか、まじめに坊さんやってないとさえ言える?

でもでも、私は、よい本をこれからも書いていきたい。やっぱり、多くの人とつながりたいし、そのつながりを次に活かしていきたいから。方向性がありますもの。

精進します。もっともっと、多くの人に共感してもらえる本を送り出すために。

ということで、皆さん、雑念本は、好きなところからお読みください(笑)。

「読み進めていくと、やっぱり分かりやすい!と思えてきた。こんなふうに仏教を語れる人はそういない」

なんていう、ありがたいお言葉も頂戴しておりますので。役に立ちますよ。

今後とも、くさなぎ龍瞬の仏教をよろしくお願いいたします(礼)
(雑念、増やしたる(奮)・・・・・・)



(そか、雑念が増える本を読もう。それと、雑念が沸く音楽とか映画とか○○とか××とか――)