仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
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●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

9月のおたよりコーナー

今週の寺子屋は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆
●10月4日(木) 巣鴨 生き方として学ぶ日本の仏教
●10月6・7日  仏教のきほんを学ぶ講座 第1回
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9月27日(木)

すっかり秋めいてきましたが、私は衣替えもなく……(雪駄でペタペタ)。

なんだか生活がシンプルになってから、年をとるのを遅く感じるようになりました。時間がゆっくりと経っていく。

まだ9月なんだな、まだ日本に来て2年なんだな、まだ4○年しか生きてないんだな……という感じ。

禅をきたえると周囲がゆっくりと見え始める と以前お話しましたが、あれはいろんな意味で本当です。なんだか不思議な感覚です。


●今日はお寄せいただいた “おたより” の抜粋を ・・・・・・・・・・☆

○禅道場に来られた方の感想:

「サティ入れて、ラベリングして、その時はその感情は消えるけど、また感情は起きてきます。(☆)私の心の反応系が変わらないかぎり、私はパブロフの犬みたいに決まった条件に反応します。この反応系を変えなきゃ結局ダメなんだと思います。」

このひとは、最近ヴィパッサナーに出会った人です。

わかりますよ――

ひとつお伝えしておくと、「この反応系を変えなきゃ結局ダメなんだ」というのが、まさに、これまでの「反応系」どおりの反応ではないでしょうか。

――つまりは、「ダメ」という反応が、これまでの反応系を強めてしまっている、といえるかもしれない……。

つまりは、「考えてしまった」ということです。
ほんとは、そこで「考えない」(ふんばる)というのが、ヴィパッサナーのコツなのです。

「感情が起きてきた」ら、「感情が起きた」と気づくだけにとどめる。それがラベリング。

(☆)のところでストップすることなのです。そのあとの「解釈(考える)」は、ぐっと呑み込んで我慢する。考えない。

ひとはついつい考えてしまって、しかも考えてしまっている自分になかなか気づけないものなのです。

こうして指摘されると、「あ、そうか」と分かるでしょう?

だから瞑想道場では「インタビュー」をやるのです。指導役の僧侶に報告してアドバイスをもらう。

ぜひ、メールでも、道場でもかまいませんので、ふだんどのようにヴィパッサナーをやっているか、報告しにきてください。ほんとは、日記形式のレポートをくれると一番よいのですけどね。


○「山奥で編集の仕事をしています。
浜松の谷島屋書店で御著書を立ち読み。わかりやすく好感の持てる本でした。・・・いちばん親しみがもててわかりやすいように思いました。」

浜松で発見してくれたことがありがたい (買ってくれるともっとありがたい……(笑))。

(坊さんの場合誤解されるおそれもあるのだろうけど、) 
「親しみやすさ」というのは、大事かもしれない。
社交的な意味で大事というだけでなく、その人の心の自由さを示すとも考えられるから。

本来の仏教の修行というのは、“自意識から自由になる”ためのもの。

ブッダ自身は、究極の自由人だった。
すべてを捨てて振り返らなかったし、ひたすら修行に打ち込んで、自分だけの真実にたどりついた。

そのあとだって、誰に何を期待するでもなく、ただ自分が信じる教えを、じつにあざやかでたくみな方法で、人々に説きつづけた。

原始仏典を読んでみると、「オシャカ様」とひたすら崇めたてまつるような感じじゃない。「ゴータマ」とひとに呼ばせて平気でいた。

どんな人とも、友として向き合い、どんな宗教・社会階層に属する人たちとも、オープンに語らった。

ブッダがすごいのは、カタチの帰依や尊敬は微塵も求めなかったのに、その言葉の深さ・鋭さ・明解さに、聞く人がみな心開かれて、自然に、尊敬の対象になっていったことだ。

ひたすら、「正しく理解する」という流儀に徹して、微塵たりとも 「プライド(慢)」 を感じさせなかった。
人間がおちいりがちな 自意識の罠 (うぬぼれ・得意・承認欲など) からみごとに抜け出していた。

ブッダは、人との関係で、何かに執着するということがみごとになかったのだ。

私は原始仏典をひもとくたびに、ブッダの、開かれた、自由な態度・生き方に、心開かれる思いがする。

ああ、私も、こんな心のまま自由に生きていこう、と自然に感じられる。
(その意味で、くさなぎ龍瞬はナチュラルに「仏弟子/お坊さん」なんです。)


自由であると何がよいのだろう。たとえば――

つねに真理が生き生きと胸に感じられる。
ひとにオープンになれる。
説く言葉がやわらかく、生きたものになる。
どんな絶望的な孤独のなかでも動じることなく満たされていられる。
いつ人生が終わっても慈しみと感謝をもって受け容れることができる。

……そんな心の状態でいられる。そう思う。

こうした自由で開かれた境地というのは、

モノや評判への執着とか、
プライドとか (自分が正しくて他人は間違っているのだ、自分こそが敬われるべきなのだ) 

といった思い込み (「我見」) とは正反対の境地。

ふたつは両立しない。どちらかをとるしかない。

仏教を“修行して”みえてくるのは、「後者 (執着・思い込み) はいらない」 ということ。

ひとが思っているようには、こうした思いは心地よいものではないのだ。
むしろ、湧けば即その汚れに“当てられて”しまう、それくらいの邪念でしかない。

他方、「自由で開かれた境地」というのは、

一旦そこに立ってしまえば、それが至上の幸福だとわかる。すなおに気持ちよくいられるもの。

仏教を学ぶ・修めるというのは、この自由な境地の幸福を身をもって知ることなのだ。

自意識をリセットして、汚れのない心にもどる。

そういう心のもちぬしとして生きていけばいい。

そうすると、人さまに対しても、何にこだわることもない。

そのときどきで、いろんな “意味” を内心理解しながら、感じとりながら、自由に関わっていけばいいだけになる。

いかなるときも、開かれて在ること――が こころの生命線

仏教を生きる者にとって。あるいは、ほんとうは、すべての人にとって。


だから、「親しみやすさ」というご印象はありがたいこと。
これからも親しみやすい坊主としてがんばっていこうと思いマス。

ということで、これからも、ボケかまして、(ときに名前もまちがえて)、楽しい雰囲気でやっていきます。

新しく出会えた方々にも、これまでお付き合いいただいた方々にも、よろしくお願いします。

(親しみやすさとボケとはちがうように思うが……)




秋だ!

週末の寺子屋は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆
●9月29日(土) 午後2時~5時 禅エクササイズと法話
●9月29日(土) 午後6時半~9時 公開講座 自由な人生を手に入れるための5つの心得
●9月30日(日) 午前9時半~12時  禅エクササイズと法話
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9月24日(月)

●今朝、季節が完全に 秋 になったのを感じました。

風がすっかり脱力して、肌にやさしくなった。いい季節に入りましたね。

日本は、季節の移り変わりがくっきりしていていい。

インドで感じたことだけれど、日本人の折り目正しさというのは、季節の移り変わりの明確さが影響しているのかもしれない。

それと、日本人が清潔好きなのは、しきりに降るうるおいの雨が、塵ほこりを流し落としてくれるからなのかも。

日本の自然の美しさ、ひとの感性のこまやかさは、世界屈指のものだと思います。

この国のよさをちゃんと守っていってほしいな、と思ったりします(^‐^)。


●教室で出てきた話題ですが、

仏教には真理である部分と、それ以外の部分、つまりブッダ以外の人間が作り出した部分とがある」 というのは事実です。

原始仏典ひとつとっても、後世の創作・作り替えは、ありあまるほどあります。

各国のサンガ・比丘のしきたり・儀式にも、その国独自のものがたくさんある。

というか、日常レベルでは、そっち (ブッダが伝えた根本教義以外の部分) のほうがむしろ多いのではないかな。

仏教を説く側は、みんな 「これがおシャカ様オリジナルの教えだ」って、言いますよ。でも、実際はそれは正しくありません。

たとえば教室で話したことだけど、スリランカ仏教というのは、トップカーストしか比丘になれないという “締め出し” のサンガ法を、18世紀半ばに制定している。
作ったのは、ほかならぬ“仏弟子”たる長老たち。

これは、根本的な部分でブッダの教えに反すること。絶対にやってはいけないこと。

それでいて、日本の大乗仏教は仏教に非(あら)ず(自分たちのがホンモノ)、なんて言ってる。

率直にいって、批判できる筋合いではないのです(^。^;)。

私がひごろ思うのは、仏教というのはそもそも誰のためのものなのか、
仏教を説く者たちはいったい何をめざしているのか、ということ。

もし涅槃(さとり)をめざすことが目的ならば、その目的に集中する必要があるだろう。外に向かってあれこれ発言している場合ではない。(卒業したのなら別だけど)

社会改善(大乗仏教の言う衆生救済)が目的ならば、その目的に沿って身を律していく必要があるだろう。お酒・たばこ・異性も含めて、その行動には一定のルールが必要になる。

すくなくとも、“道” を標榜するなら、目的と現実とがかみ合っていないといけないのではなかろうか。

だけど、かみ合っている仏者というのは、多くない。

むしろ、比丘・僧侶以外の、ふつうの人のほうが、その点でウソがないようにさえ思う。(みんなすごく熱心。インドでも、日本でも)

真理を吟味する視点をもたなくちゃいけない、ということです。

これはブッダ・ゴータマの言葉とぴったりと重なるのです。


●インド仏教のことを日曜に語らったときに、
真理というのは、最初に置くものではなく、結果的に確かめられるもの」 という話をしました。

真理というのは、その時代・その状況・その関係・その現実に応じて、移ろいうるもの。状況依存的なもの。

その時点では真理として信じられていたものも、状況が変われば通用しなくなることがある。

科学的真理の場合は、この“恒常的な誤謬の可能性”――とたんに難しくなっちゃったけど(笑)、誤りである可能性はいつだってある、ということ――を前提にしている。

だから、実験や計算や観測でたしかめて、間違いがあれば、即座に修正する。新しい仮説をたてる。

そうやって、人間が知力をふりしぼって、徐々に、ゆっくりと、でも確実に、より確かな真理へと向かっていく。いまもその途上にある。

おそらく、人類が死滅するときまで、この 真理への真摯な探求 はつづく。

では、宗教的な真理はどうか?
永久不変の、絶対的な真理 というのが存在するのか?

語る口は人間のもの。考えるアタマも人間のもの。その真理を受け容れてきたのも、人間の関わり、社会。

すなわち、宗教的な真理は、人間を超えたところではいまだ一度も成り立ったことがないのだ。

その真理が、すべての人間・全時代に共通する 普遍・不変の真理 たりうるのか???

「たりうる」 と信じるのは自由。(原始仏典の無謬性、おシャカさまの教えの完全無欠性 を信じることも自由。)

だが、そう信じることに、はたしてどれほどのプラスの意味があるのだろうか。

そういう信じ方をしなければ、真理 というのは成り立たないものなのだろうか。

人間たちは、過去、これこそが唯一の真理であると信じ込んで、それがゆえに、他者が信じる真理と折り合いがつかず、衝突し、争いあってきた。

ひとつの“真理” をかたくなに信じ込みながら、いつしか、自分たちに都合のよいあたらしい解釈や儀礼・しきたりをつけくわえて、もともとはなかった部分をたくさん上に載せてきた。

もしその真理が、ほんとうに人間の幸福に役立つものなら、その信仰は、その人間・その社会・その国を、確実に幸せにしてきたはずだと思う。

だが現実はどうだろう? 今に伝わる宗教が、ほんとうに人間を幸せにしてきたのだろうか?

たとえばテーラワーダ仏教を篤実に信じるビルマの民は、ラオス、カンボジア、タイ、スリランカの庶民は、その仏教によって本当に幸福を享受しているのか。

なぜ彼らの現実に、あれほどの貧しさや、差別や、権力者からの抑圧 が存在するのだろうか。

古来つたわる仏教が、本当に人間を幸福にし、また永久不変の真理だとするなら、かの地の人々は、世界でもっとも幸せな人たちであってよいはずだと思う。

だが現実は、そうとはけっして言いきれない。

よくよく考えてみたいのだ。真理を証明するのは、この現実 こそではないのか、ということを。

真理とは、あくまで現実との関わりによってのみ、その正当性を証明できるものではないのか、と。

あくまで現実を前提において、その現実をこそ改善できる、人々の幸せに役立ちうる方法こそが 真理 なのではないのか、と。

人間は、けっして神ではない。真理をことごとく見通せる “完全知者” など、存在した試しはない。

(ちなみにブッダ自身が見ることのなかった現実はたくさんある。 それを問いとして引きなおすなら、たとえば、教えをいかに歪めることなく保つか。 仏教をインドの大地から滅亡させないにはどうすればよかったか。 貧しき庶民に一方的に(托鉢や布施などで)依存せずにすませる方法はなかったのか。 サンガをバラモンカーストに支配させないようにするにはどうすべきだったか。 比丘たちが俗化せず、真摯に悟りへの修行の身に専心できる環境をたもつにはどうすべきだったか――これらは今日も課題として残っている。 「仏教が衰退しつつある」という指摘が事実だとしたら、それはこれら未解決の課題が遠く近くで影響しているから といっていいのではないか。)

人間が 「これが真理だ」 と信じ込むことは、じつに危ういのだ。妄想・かんちがいである可能性を否定できないからである。

しかも、そのかんちがいは、腐敗、停滞、対立、衰退、といった、人間的な、人間ゆえの、問題を生む。

――だから、「これが真理だ」 という思いこみは 「必要ない」と私は考えるのです。

そんなものはなくても、本当の真理はちゃんと“機能する” 。

宗教の世界で語られてきた、人間を幸福にする思想・智慧を
真理と呼ぶか、真実と呼ぶか、ダンマと呼ぶか、道と呼ぶか、それは本質ではない。

ただ、唯一確実なのは、人間には、
自分の心の基盤となる、土台となる、純粋に合理的な 思考法 や 理解 が必要だ ということではないか。

それを見つけて、それを生きる―― それが人間に唯一なしうることではないのだろうか。

人間の命は短い。その限られた命しか生きられない人間に、「唯一絶対、永久不変の真理」 があると、どうして言うことができるだろう。

人間ひとりになしうるのは、“万人共通の真理” を見つけることではないのだ。むしろ、

“自分自身が心底必要とする真実” を見つけだすことである。
それをまっとうすることである。

それが確実な思考法だ。それこそが、生き方の原理であり、人生の前提である。

そして、その真実が、もしかしたら、誰かにとっての真実となり、多くの人にとっての真実ともなり、結果的に、その人の人生を超えたところで、かぎりなく真理に近い真実だと認識されることはあるかもしれない。

だが、そうした展開は、ひとりの人間が 現実の人生において 予想しうること ではない。そして、予想する必要もない。

たしかに、ひとはよりどころを求める。
特定の信仰、宗教、伝統、宗派、どの宗教家、比丘、僧侶、長老が説く “真理” こそが真理だ と信じたいひとびとの心境は、痛いほど理解できる。

しかし、同時に理解してくれたらと感じるのは、その真理は、あくまで 人間が説く真理 でしかないということだ。

でも、ほんとうの真理は、人間を超えたところに、存在しているのである。


その真理に通じたい と、もし人が本気で願うなら、どうすればよいか――。

それは、“真理を説く特定の誰か・なにか” にすがりつくのではなく、

むしろ、自分自身の心に、自分自身の現実に こそ戻 ことではないか。

自分自身を、もっと深く、真摯に、心つくして見つめること である。


――ここまで透徹して思考したときに、ひとつの逆説的な事実につきあたる。

過去、“宗教的真理” に覚醒した先人たち――ブッダを含む――は、みな、

その時代・その社会から、おのれを隔絶させ、まさに自らの内奥へと真実を求めた瞬間に、個人を超えた 真理 に到達した という事実に。

真理はつねに、おのれの心の中にある。


※秋だ!と思ってこれ書いたら、えらい土砂降りになっちゃった――(笑)。

基本は「自分にとっての真実」

9月23日

いよいよ風が涼しくなって、秋めいてまいりましたね――。

●私のほうは、この週末はけっこう充実していました。

○土曜午前は、カルチャーの秋講座がスタート。

受講生はシニアの女性たちでしたが、なかなか反応がよく。

仏教を学ぶ気がガゼンわいてきた!と語っておられました。よいクラスになりそうです。


○で土曜午後は、神楽坂で 寺子屋 と 夜の禅瞑想の会。

夜の禅はなかなか気合の入ったよきひとときになりました。

メトロノームを使って、音に合わせて感覚に集中して、最後は音をストップして静寂に落とす。

みなよく集中できていました。夜は灯りを消すとかなり暗くなるのもよい。

夜の坐禅会をふやそうかと思っています。雰囲気がよかったので(^。^)


●昨日と今日の教室で出てきた話題について――

出家というのは、形ではなく、”因縁を断ち切る”覚悟をきめた人 のことです。

「真実か死か」 という極限の二者択一を生きている人種 でもあります。

真実を見失えば、その身は死んだもひとしい。真実のない人生は、どうしても生きられない――。

必然、その生きざま・暮らし方は、はたからみれば、滑稽な、ちょっと不可解なものにみえてくるかもしれない。

しかし、そのような妙な生き物だからこそ、はたせる“役割”というのがある。

その役割は、ふつうに生きていてはまっとうできない、なかなかに難しいものだったりする。

その役割をはたすことで、かの激しく珍妙な生きざまは、はじめて社会的な意味をもつ。

なにかしら、“真理”に近いもの、人間をこえて、時代を超えて通用する、普遍的な生き方や思想性といったものが生まれる可能性もでてくる。

たぶん、私が知る佐々井秀嶺上人の生きざまもそういうものだし、ブッダ以来の仏者の伝統にはそういうところがあるように思う。

まずは己の真実をみきわめる 

→ その真実を生きる 

→ その時代・その社会において新しい価値・役割を発揮し始める 

→ いつしか、時代・社会を超えた“真理”、普遍的な生き方 といったものが浮かび上がってくる

という流れ。

土曜の神楽坂で、「真実を証明するのはどうやってか?」 という話題が出ましたね。

「自分では証明できない。それは関わりの中でしか証せない」 とお答えしました。

その言葉の背景には、今お伝えしたような、仏者の系譜、出家の生きざま、みたいなものがあるのです。

むろん、どの程度、“真実”にこだわるか、道をまっとうするかは、人それぞれ。

真実をみつける ことも容易ではないし、
真実に殉じる、というのは、なおさらいっそう簡単なことではないのでしょう。

しかし、これを生き方のフォーマット(定式)として引き直してみると、

①自分自身にとっての真実・たしかな意味 をみつける・みきわめる こと
     ↓
②その真実を心の土台にすえて、自分の現実を生きること。“この人生”をまっとうすること
     ↓
③そのことで、何か、ほかの人、この場所、この社会、この時代……に通用するような新しい価値を創り出すこと

という流れは、誰にでもあてはまるものではなかろうか。

どんな人生にもあてはまる正しい流れ=生き方の正しい筋道 のような気がする。

大切なのは、自分自身にとってのたしかな意味をつかみとること。
そのために、自分に誠実に、この日々を生きること。

ではないのかな。

そういう生き方の原点、のようなもの を共有できたらと思うのです。


☆みなさんにとって、よき一週間となりますように――。


真っ赤なトマト――人生の価値を決めるもの

今週末の教室は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★
●9月20日(木)午後2時~4時 生き方としての仏教講座 巣鴨地域文化創造館
●9月22日(土)午後2時~5時 土曜午後のおとなの寺子屋  テーマ自由の仏教学習会
●9月22日(土)★午後6時半~9時 夜の禅瞑想の会(禅エクササイズと法話) ほか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★


9月19日(水)
●この連休に、宮城石巻からひとりの男性が来ていた。

知りあったのは、今年冬の代々木の炊き出し。
その頃男性は、神奈川で警備員をしていて、夜勤明けにボランティアとして炊き出しに参加していたのだった。

3月の津波で、自宅は流されてしまった。
父親はショック・心労が閾値を越して大きな手術をした。
一か月以上してようやく再会できて、男性は、石巻に戻ることを決意した。
父ひとり、子ひとりで、今仮設住宅に住んでいる。

私は、男性の背負い込んだ現実と、それでいてなおボランティアに朝駆けるバイタリティの強さ、というか、その魂の強さに感銘を受けた。

その男性から、先週、石巻でとれたトマトが送られてきた。

新鮮で真っ赤な中サイズのトマトが箱にいっぱい。

近所にもおすそわけさせてもらった。みんなおいしいとびっくりしていた。

男性によると、このトマト農家のご一家もまた、自宅を流されてすべてを失ってしまった。

石巻の沿岸部は、津波による塩害で、作物が育たなくなったそうだ。
道路や建物などのインフラは、あまりに遅いペースではあるが、徐々に復興しつつはあるという。
しかし、田畑は恢復が難しい。土壌に沁み込んだ塩は抜けない。

農家のご一家は、内陸に辛うじて土地を借り、そこでトマト作りを始めたという。
その収穫を送ってくださったのだ。

トマトの果汁がこころよく腹に沁みてきた。

農家の収入は“以前の3分の1”に激減し、貯金は減りつづけているという。
気持ちはそうとう滅入っているというのが実情らしい。

その一方で、「今年の収穫は、味がまだまだ」とも語っているそうだ。
農家の人たちは、「自分が理想とする味」を求めて作っているのだという。

すごい志。

男性とは、ファミレスでたっぷりと話しこんで、新宿で別れた。
夜行バスで7時間かけて帰って、また仕事なのだそうだ。

自分の生活ひとつでたくさんの気苦労があるのに、それ以上に、石巻で何ができるか、農家の人たちの今後をどうするか、とかいろんな課題を語りつづけた。聞いているとこちらも楽しくなってきた。

近いうちに石巻にいけたらいいね、という話をしている。きっとかなうことだろう。

ただ、これはどんなはたらきについても言えることだと思うけど、
自分がこれをやりたいから、これをやるために、彼の地に行くというものではないと思う。
自分自身の動機というのは、邪念とさえ思っていいのではないか。

いつも、相手を見て、きちんと正しく理解して、受け止めて、そのうえで、何ができるか・何をすべきかを考えてから、はじめて具体的な行動が出てくるのだと思う。

仏者の流儀としていうなら、「いつも正しい理解から」である。

行動するときは、自然に、静かに、むしろ”匿名のつもり”で動くといい。

さしだすべきは、“自分”ではなく、“はたらき”なのだから。
そのほうが、“善きはたらき”ができる可能性が高くなる。

男性とのつながりは、私が日本に帰ってきてさずかった賜物のひとつである。
ようやく自分自身が育んでいくべき、本当のつながりが見えてきたかな、と個人的には感じている。

命つづくかぎり育てるべき“つながり”がひとつ見つかれば、人生は生きていく価値がある。

このつながりは、私の人生にとってのトマトなのだろうと思う。

「仏教」を超えた広い真理を

今週末の教室は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★
●9月20日(木)午後2時~4時 生き方としての仏教講座 巣鴨地域文化創造館

●9月22日(土)午後2時~5時 土曜午後のおとなの寺子屋  テーマ自由の仏教学習会
●9月22日(土)★午後6時半~9時 夜の禅瞑想の会(禅エクササイズと法話) ほか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★


9月18日(火)
日曜夜の「手放す&ラクに生きる心の技術」には、さまざまな背景をもつ人が来てくれた。

この夜の講座は、毎回、かなり内容が濃い。
最近は、他の場所で長いこと仏教を学び続けてきた人も来るようになったから、いきおい内容が突っ込んだものになる。人生の切実なテーマを抱えてこられる方もいる。

こういうディープな勉強会というのを定期的にやるのは、よい選択だろうと思う。
10月から始まるシリーズ講座も、このスタイルの延長になるだろう。
参加者同士もなじんでいくだろうから、よきつながりが生まれてくるかもしれない。

仏教、というよりブッダの真理は、日本やタイ、スリランカなどにあるどの伝統・宗派ともちがうものだ。
よく語られる「これが本当の仏教(=他はちがう)」というのは、無駄な雑念・邪念だろうと思う。

宗教というのは、“人のための真理”を語りながら、けっきょく、
語る中で自分の中の慢(うぬぼれ・プライド)や私欲・自己都合の解釈にとらわれて、
自分が気づかぬうちに、
“自分のため”という閉ざされた領域に、真理を封じ込んでしまう。

多くの“仏弟子”(僧や長老)たちが、いつしか自分自身の見解の中にガチガチに自分を閉じ込めてしまって、満足・自足してしまっている。

心は成長していない。そして、いつまでも自由になれない。

ブッダが見た真理Dhammaというのは、誰のものでもない。

真理というのは、つねに開かれたものだ。
仏教というのは、人間が想像しうる以上に開かれたものである。
どの“仏弟子”たちが語る「仏教」よりも、ブッダが説いた真理というのは、はるかに大きく、広いのだ。

そのことを、みんなにも見てほしいと思う。

人間の思惑・想像を超えた地平に、真理Dhammaはあるのだということを。

もっともっと広い真理を。


“ネコ”のその後~助けてあげたいならホントの仏教で

9月12日(水)

こんにちは、龍瞬です。
残暑まだまだ厳しいようですが、反応しないでやりすごしましょう(笑)。

連休の神楽坂は ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

●9月16日(日)午前9時半~12時 禅エクササイズ
●9月16日(日)夜18時~20時半 手放す&ラクに生きる心のテクニック(★夜ライブ)
~前回あんまり手放せなかったかもしれないので、素材を変えてもう一度……(笑)。
●9月17日(祝)午前9時半~12時 禅エクササイズ
~ぜひ方法と心の成長を確かめる場としてご活用ください――。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

さてさて、禅問答のつづきです――。
(そんなのいらない、と言わずに、まあ聞いてくださいませ――(笑))

前回出てきた禅問答は、
「南泉斬猫(なんぜんざんびょう)」という
禅の世界では有名な問答です。

オリジナルのは、東西の堂衆が相争っている猫を、南泉和尚がつかみあげて言った。

「これぞ禅だという句を言ってみよ。言えれば助けてやる。言えなければ斬る」

誰も答えられずに、猫は斬られた。

その晩、弟子の趙州(じょうしゅう)が帰って来て、その話をしたら、

趙州は、「履(くつ)を頭に載せて退室いたします」と答えた。

南泉は「お前が昼間いたら、猫を救えたものを……」と言った、というもの。
(てゆーか、ほんとに斬っちゃった?Σ(`Д´il|))

趙州の「履を頭に載せて退室」の意味はいかに?というのが問題。
(この和尚がいかに○○かということではなく……)

たいていは、「???(チンプンカンプン)」だと思いますね。

実際、禅の本を見ても、
公案をマスターして“師家(しか)”という資格を得たエライ禅師が、

①「自分が戒律を破ることで、戒を守ることの大切さを身を張って説いたのである」

②「(これは)南泉の一刀で両断に斬却されたのは何物かという問題である。南泉の一刀の真の対象は、ほかならぬ我々自身の妄想分別、すなわち「自我」の根を断ち切ることにあった」

なんて答えてる……。

納得できますか? これが“悟った”人の言葉だと思いますか?

率直にいって、あまりに正解から遠い、と私は思います(言っちゃいます)。

なぜか? こういうのは、個人の理屈・解釈にすぎないから。

なんとでも言える。でも根拠がない。
ましてや、その中身が説得力を持っていない。

つまりは、心に残らない、空疎(からっぽ)な言葉でしかない――

それが私の素直な感想。

ではどう考えればいいか? 私なら、こう答えます。

③「猫を斬るというのは、殺生であり、戒律違反です。
となれば、和尚は僧侶失格ということになります。
ならば当然、私はあなたを師だとはみなしません。私はあなたの下で修行することはできません。
ですので、これをもって失礼いたします――という意図で、履を頭に載せて退出する」
(履を足に履いてしまえば普通に外に出るのと変わらないため、あえて頭に載せる。)

いかがでしょう? ①、②、③のどの回答に納得しますか?

私が、これまでの禅師たちの答えが「正解から遠い」と感じるのは、
彼らの答えは「仏教でも何でもない」からです。

屁理屈をこねて、何かたいそうな、深淵な真理を語ったように思ってしまっている。

禅の心とは、彼らが説くに、
理屈で答えられないものをぶつけて、思い込み・とらわれ・観念・はからいといった自我のはたらきを霧散する?
そうやって、悟りの境地を開く?

なるほど、ひとつの理屈ではある。
しかし、理屈をぶつけて壊せる程度の自我というのは、やはり理屈の産物でしかないでしょう。

悟りというのは、理屈を超えた領域にある、心理現象です。
それは理屈の領域ではなく、別の修行によって、“体験”するほかない領域なのです。

禅問答の世界というのは、この部分をかんちがいしているように思う。

悟りという理屈を超えた領域に、理屈の操作をもってたどり着こうとしている。

なんでそういう無理にこだわるかというと、悟りそのものをたぶん勘違いしているからだろうと思う。

これ以上詳しくはここでは語りませんが……でも古い禅問答というのは、目的と方法とをかんちがいしている部分がけっこうある。それが私の感想です。

禅問答は、中国では滅びてしまったし、日本でもそうとう形骸化が進んでいる。

“師家”と呼ばれる禅マスターは全国でもう八〇人いるかいないかというくらいに減少している。

これって、もしかしたら禅問答という文化が滅びる途上ということかもしれない。

人も、文化も、本質を見失ったときに、迷路に入り込む。出口が見つかる保証はない。

私がみんなに伝えたいのは、正しい目的、正しい方法で仏教を学んでほしいということ。

たとえば、仏教に関する問答というのは、仏教の精髄・本質を学ぶためにある。

その問答は、仏教の根本・基本に基づいて解けなくちゃいけない。

その問答を重ねることで、仏教の本質が深いところで理解できる、体得できるような中身でないといけない。

「南泉斬猫」であれば、仏教の基本中の基本である“不殺生戒(殺すなかれ)”と、論理的思考で、スルスルと解けてしまう。

趙州がどのような意図で「履を頭に載せて退室」したのかは確かめようがないが(記録にないので)、
まっとうな筋をたどれば、同じ結論にたどりつく。

ならばそれでおしまい――それで仏教の本質をひとつ理解できる。聡明なブッダの思考法というのも体験できる。

(ブッダがいかに論理的で、緻密で、すさまじいまでの正覚力=正しく理解する能力の持ち主だったかというのは、原始仏典を読めば分かります。10月からのシリーズ講座で紹介できればと思う。)

私が公案をみるかぎり、仏教の本質(最低限の知識)と論理で解けない問題はない。

ただ、同じように納得のいく答えを導き出している解説書というのは、正直、ない
たいていは小理屈で充足してしまってる……。

どれを正解と見るかは、人それぞれ。皆さん独自の答えもあっていいと思う。

ただ、本質をもって解けない問題というのはエセの問題だと言っていいのではないかな。

また、理屈・観念論ではなく“ブッダの教えに基づいて”答えるのではない限り、
その答えは仏教とは関係がないと思うのだが、いかがだろうか。

そんなセンスの悪い問題をいくらしゃかりきに解いたって、力はつかないよ、と思います。

ということで、本質に帰りましょう。

よりどころになるような本質を発掘し、身につけて、生きていきましょう。

(◎本日のポイント)

ほんとの本質に心がつながったとき、
人生に必要な課題・問題は、自由自在に、スルスル鮮やかに解けてしまいます。

そのとき、人生は自由になります。どこまでも楽しく生きられちゃうのです♪

これがほんとの禅の心!

(龍瞬にとっての、です(笑))

映画『鑑真』と“ネコ”のその後

連休の神楽坂は
●9月16日(日)午前9時半~12時 禅エクササイズ
●9月16日(日)夜18時~20時半 手放す&ラクに生きる心のテクニック(★夜ライブ)
●9月17日(祝)午前9時半~12時 禅エクササイズ

9月7日(金)
今週はけっこう忙しかった。

●ひとつは、台湾の映画会社が作成した大作アニメ
『鑑真』の字幕監修をさせていただいたこと。

鑑真というのは、日本史の教科書に出てくるあの唐のお坊さん。

日本初の“戒壇”(仏教徒に戒律を与える儀式の場)をもたらし、
唐招提寺を建てた人といわれる。

中国語から日本語に直された台本の言葉を、日本人に伝わる表現に移し替えていく。
仏教用語や地名なども日本語を当てていく。難しい言葉もあるが、勉強になった。

鑑真さんは、日本への渡航に足かけ12年を要した。6回目でようやくたどり着いた。
その途中に感染症(海の水が原因らしい)にかかって失明。
ということは、日本の景色を一度も見ていないのである。

一般の感覚でいうと気の毒(日本にいこうと決意していなければ失明することもなかった)。

でも、仏者の心でいえば、仏法(ブッダの教え)だけあればよいのだから、どこにいても同じ。

たぶん鑑真さんは盲目であることを気に病まなかっただろうな、と感じる。

字幕チェックの場を覗きにきた台湾のおばちゃんが、
鑑真が失明したのは糖尿病かもヨ」と、なんとも非道な冗談を飛ばしていた。戒を知らぬは、げに恐ろしいものである・・・。

ちなみに、鑑真和上が今の日本人にとって存在感が薄いのは、きっと、坊主たちが戒律を破りまくって平気でいるからなのだろうな、と思った。

9月21~23日と、東北で無料上映されるのだそうだ。
ちょこっとお役に立てたかもしれない。


●6日木曜は巣鴨の教室へ。今回は「禅問答で悟りは開けるか?」がテーマ。

とんち問答1
寺の東西二つの堂衆が、一匹の猫(の所有)をめぐって争っていた。

南泉(なんぜん)和尚は猫をとりあげてこう言った。

誰の所有かを言え。言えれば救ってやる。言えなければ斬る。

さて、どう答えるか?

答えは難しくない。「ワタシの所有です」とその場で答えればいい。

だって、それ以外は聞かれていないから。

所有(持ちモノであること)を“証明せよ”とも聞かれてないし、
禅問答なのだから何か深い意味をもつ言葉を返せとも言われてない。

聞かれたことに邪念なくストレートに答えれば、「○○の所有です」だけでいいことになる。

ただこれは改題したもので、オリジナルの問答は別にある。

和尚が猫をとりあげたところまでは同じ。 で、和尚いわく、

これぞ禅だという言葉を言ってみよ。
言えれば猫は救ってやる。言えなければ斬る」

堂衆、誰も答えられず。猫は斬られた。

その晩、趙州(じょうしゅう:南泉和尚の弟子で、のちに唐代随一の禅僧になる)が帰ってきた。昼間のエピソードを聞いて、趙州はこう返した。

履(くつ)を頭にのせて退室いたします

南泉和尚は言った。「お前がいれば、猫は斬られずにすんだものを」
(「無門関」という禅の古典から)

この「履(くつ)を頭にのせて退室」の真意を答えよ、というのが問題。

「??? ワケわからない」というのがたいていの反応。


じつはこの問題、女性にはあまり評判がよくない。
「(考えるのが)メンドくさい」
「いきなり猫を斬るとか言い出す神経が理解できない。アタマ変」

たしかに・・・・(^□^;)

今回思ったのは、
女性だったらこういう禅問答はアホらしくて考えないだろうな、
 ということ。

小理屈こねてああだこうだと論じているのは、たいてい男。

仏教の世界でも、禅問答だけでなく、
在家<沙門<比丘<長老<大長老 というヒエラルキーとか、
女性は比丘になれないとか(タイやスリランカ)、
女性は悟りを開けないとか(これもタイやスリランカ)、

アホらしい理屈は(めっちゃ)たくさんあるが、これを考え出したのはみな男。

(ゴータマ・ブッダではありません、念のため。)

考えてみると、こういうアホな発想・思考・議論というのは、
多くは男が作り出したものかもしれない。

だから、伝統仏教は、小理屈や煩瑣な知識ばっかりで、心に訴えてくるものがないのかな、
とちょっと反省した次第。


今回はとりとめなく・・・。

仏教の新しい可能性をひらく講座 いよいよスタート!

9月1日
興道の里の9月・10月の講座日程をお届けします。

10月からいよいよ、仏教の新しい可能性をともに考える講座、

“仏教のきほんを学ぶ講座”

がスタートします。

これまでは、テーマごとの単発の講座が主軸でしたが、
これでは仏教の本質・全貌がなかなか見えてこないきらいがありました。

この講座は全6回のシリーズです。基本的に全回参加できる人に受講してもらって、
参加者同士の、そして参加者とくさなぎ龍瞬との、

密で、ディープな、知識・体験・智慧・問題意識 の交わしあいを試みます。

人数を限定して、いつもと同じアトホームな雰囲気の中で、

ブッダの教えの本質・原理の、もっとも輝きのある部分、 

ひととして心の土台にすえるべき、

生命力のある、深い部分、“本来の仏法”ともいうべきもの

共有したいと思います。


仏者くさなぎ龍瞬としては、このシリーズ講座を、

この国で仏法(ブッダの真実Dhamma)を伝えていく基幹(ベース)

にしていきたいという思いがあります。

今回は、その第一期 です。

これってけっこう大切なモメント(瞬間)なのかもしれない。

ピピッ!と感じた人は、ぜひご参加ください。


9月の日程 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●9月1日(土)午後6時半~8時半 
 一生モノの愛の育て方  よき人間関係を作る“決定的”思考法

過去2回、参加者にかなり好評だった講座(法話)です。

人間関係、恋愛、友情、夫婦関係をうまく続ける決定的な方法はなにか?

「愛」「誠実」「思いやり」というけれど、その中身はかなりあいまい。
だから、人はよくケンカ・あらそいを引き起こす。

「よき人間関係の作り方」
「一生つづく愛・友情の育て方」

をテーマに、仏教と現代心理学をフル活用。

一問一答式の“ココロの診断表”にとりくみながら、楽しく学んでいきます。

性別・年代を問わず役立つ知恵が必ず見つかります。

ぜひご参加ください。

場所 赤城生涯学習館  新宿区赤城元町1-3 


●9月6日&20日 第1・3木曜 午後2時~4時
 巣鴨・おもしろ日本仏教講座               

日本仏教ものがたり は、禅の心 に突入

“解き放たれた自由自在の境地”について、日本仏教の知識をなぞりながら追求します。

大好評だった豊島文化カレッジのシリーズ化。はや1年をすぎました。

日本の高僧たちの生きざまをたどり、彼らが目指したものを明らかに。

「今をいきる私たちにとって本当に必要な仏教とは?」が見えてくる。

20代から90代まで楽しく学習中。
毎回書き下ろし読みものプリントつき。

巣鴨地域文化創造館 豊島区巣鴨4-15-11 
JR・都営三田線巣鴨駅。巣鴨地蔵尊通り入って徒歩10分左側。
体験受講1500円(資料代込み)。 予約不要。直接会場まで。


●禅瞑想と法話の会 (禅エクササイズ/ヴィパッサナーの実践)

○9月9日(日)  午前9時半~12時
○9月16日(日)  午前9時半~12時 
◎9月17日(月祝) 午前9時半~12時
★9月22日(土)  午後6時半~9時  夜の会 
○9月29日(土) 午後2時~5時 
○9月30日(日) 午前9時半~12時

禅で大切なのは、「座り方」よりも、「ココロの働かせ方」。

正しい方法を実践すれば、心は落ち着き、鍛えられ、
理解力や正しいモノゴトの考え方の“土台”になってくれます。

“禅(ヴィパッサナー瞑想)の本質”を学べる道場。

経験ずみの人は、自分の理解が本当に正しいか?の検証を。
はじめての人は、心を浄化する方法の本質をここで学んで下さい。

後半30分は、まとめの法話。
特製ガイドブック(第1部・第2部)を進呈しています。

場所 赤城生涯学習館  新宿区赤城元町1-3 


●9月16日(日)午後6時~8時半   夜の会  
 手放す&ラクに生きる心のテクニック    

「しんどい自分」を手放して、もっとラクに生きるコツを考える会。

力む・ガンバル・自分を追い込む だけでは、人生は好転しないもの。

ほんのすこし「手放す」だけで、
運がよくなる、順調にコトが運ぶ、成功・幸せが転がり込んでくる。

仏教思想の中から「手放す」方法をピックアップして、わかりやすく整理。
生活を改善するにも、仏教を学ぶにも、役立ちます。

興道の里/くさなぎ龍瞬て、どんなの?
という方にはちょうどよいかもしれません。新しい人もお気軽に。

場所 赤城生涯学習館  新宿区赤城元町1-3 


●9月22日(土)午後2時~5時 
 土曜午後のおとなの寺子屋  テーマ自由の仏教学習会   

参加者の語らいからテーマを見つけて、それに沿って仏教の知恵を学ぶ
という座談会スタイルの勉強会。

自分の関心にピッタリの知識・考え方を学ぶことができます。

顔ぶれは毎回変わるので、内容も雰囲気も日によってちがいます。そこが面白いところ。

★仏教の本質がわかる入門リーフレットつき。
★飲み物&軽食はご自由にお持ち下さい。

場所 赤城生涯学習館  新宿区赤城元町1-3 

そして、いよいよ!
●9月23日(日)午前10時~12時  特別企画 
 インド仏教ドキュメンタリー上映会   

インド現地の仏教を学ぶと、 

大乗仏教や、テーラワーダ仏教といった、今の仏教内部の伝統・流儀が、
どういう理由で発生し分派していったのか、

また
なぜ仏教はインドで滅び、また復活してきたのか、

そして
人々が仏教を求めるのはなぜなのか、
私たちにとって本当に必要な仏教とは何なのか、 という

さまざまな問題・テーマについての答えが見えてきます。

後半には質疑応答のコーナーもあります。

場所 赤城生涯学習館  新宿区赤城元町1-3 
参加費 無料。先着25名


10月の日程 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●10月6日スタート! 
 仏教のきほんを学ぶ講座 第1期   土曜夜のシリーズ講座・全6回

ひとことで「仏教」と言っても、全体をつかむのは容易ではありません。

その仏教の基本・本質を全6回の講座で学んでいきます。

内容 ①仏教の基本的な考え方(5つの根本教義)
②原始仏典の言葉研究
③日本の仏教を総まとめ ※これは時間に余裕があれば。①②がメイン。
④海外仏教事情(映像つき)
⑤質疑応答・ディスカッション

効果 ☆仏教の全体像が手に取るようにわかる。
☆仏教書を読んでいては一生かかっても分からないポイント=本質をずばり整理。
☆これからどう仏教を学んでいけばいいかの方向性がはっきりする。
☆これまで仏教を学んできて増えてきたナゾ・疑問に答えが出る。
☆仏教を通じた“善き友だち”ができる。
☆あたたかい雰囲気の中、楽しく仏教を学べる。※なかなかナイでしょう(笑)?
☆毎回、ポイントを整理した詳細な読み物プリントつき。

方針 
◎“宗教以前”のゴータマ・ブッダの教えの目的と内容を明らかにする。
◎これからの人生を生きる指針となるような“洗練された”内容を紹介する。
◎テーラワーダ仏教か大乗仏教かといった枠組みにとらわれず、どの伝統にも通じる“もっとも本質的な部分”を明らかにする。
◎もともと車の両輪だった知識と実践(=禅・瞑想)の“つながり”を具体的に示す。
◎参加者みんなの知識・体験・問題意識を持ち寄って、“互いにとって豊かな発見・触発”があるようにする。
◎ただの知識ではなく、“リアルな生き方、智慧、思いやりにつながるような本当の学び”を体験する。

日程 第1部
①イントロダクション  
  10月6日(土) 午後6時半~9時 懇親会つき
   10月7日(日) 午後6時半~9時 懇親会つき  
  ※6日・7日は内容は同じ。いずれかの回にご参加ください。 
②10月13日(土) 午後6時半~9時
③10月27日(土) 午後6時半~9時
第2部
④11月10日(土) 午後6時半~9時
⑤11月17日(土) 午後6時半~9時
⑥12月 1日(土) 午後6時半~9時 第1期修了&打ち上げ懇親会

参加費 各回1500円 (全6回一括7500円)
資料代 前半・後半それぞれ500円  
予約不要。直接教室まで。

場所 赤城生涯学習館  新宿区赤城元町1-3 

●禅エクササイズと法話の会 

○10月7日(日)午前9時半~12時  ※7日は中止になる可能性があります
★10月20日(土)午後6時半~9時  夜の会
○10月21日(日)午前9時半~12時
○10月28日(日) 午前9時半~12時

場所 赤城生涯学習館  新宿区赤城元町1-3 

なお、
●12月8日(日) 午後2時~5時/午後6時~9時
 クリスマス前に仏教で愛を叫ぶ!!      

年内ラストのダンマライブ(法話)です

一年の総集編と、インド映画と、仏教的な(≒地味な)忘年会をやります。


みなさん、ぜひいらして下さいね。


龍瞬がはよインドにゆけますように。

皆さんがよき日々をすごせますように――。