仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

あなたの“マイテーマ”募集!

10月28日
興道の里の仏教講座は、12月8日(土)がラストです――。

当日は、打ち上げも兼ねて、ワークショップを開催します。

そこでみなさんにお知らせです――。

あなたの 「マイテーマ」 をお寄せいただけませんか?

○今直面している自分自身の課題、悩みごと。

○友だちや家族・近所の人や職場の人たちが困っていること。
 「なんかしてあげたいけど、どうしてあげたらいいか分からない」こと。

○みんなと話し合いたい、みなの意見を聞きたいこと。

こうしたテーマについて、メールで送って下さい。形式・分量は自由。

ワークショップでとりあげたいと思います。

☆コンセプトは、「仏教の愛と智慧を使って人生の課題を解く」 です。

今年も、いろんなテーマで仏教を学んできました、

10月から始まった 「仏教のきほんを学ぶ講座」 にもさまざまな人たちが来てくれています。
(こないだの和室での講座も、熱く、あたたかく、ほんとの寺子屋っぽくてよかった(^^*))

その仏教の智慧(≒効果的な思考法)をつかって、日常にある課題・悩みなどを考えてみたいのです。

当日は、いくつか ワーク を設定して、チーム(グループ)ごとに取り組みます。
発表もしてもらいます。

せっかく仏教を学んでいるのだから、知識としてアタマに詰め込むだけでなく、実際につかってみようではないですか。

つかってはじめて身につく・わかる部分がある――これは習い事だけではなく、仏教も同じです。

☆当日にやるメニューとしては、

①仏教講座のおさらいワーク ~テキストに出てきた「問い」を考える

(例)Q思いやりとおせっかいはどこが違うか?  Q善と偽善の見分け方  
などエピソードをふまえて。

②新聞の人生相談~著名回答者の回答VSブッダの回答

③「そうはいっても」コーナー ~ブッダの教えに一般人目線でツッコむ

「ハードル高すぎ」と感じる部分、
「聞いた時はなるほどと思うが、“ん、待てよ?”と思う部分」 など。

☆「マイテーマ」については、
ぜひ、みなさんの日ごろの仕事・日常のシーン(場面)などをリアルにお伝えください。

当日、みんなで取り組ませていただきます。回答もお送りします。

この講座が、年内ラスト。
打ち上げもかねたスペシャルな企画にしたいと思いますので、ぜひご協力下さい。

当日の参加者も募集します。メールでご連絡くださいね。
くさなぎ龍瞬でした

この道の先 (iPS細胞と仏教?)

10月21日
●週末に、教室でいただいた“月謝”などを整理した。

今やっているいくつかの場所では、参加費とか月謝という形で、みなさんからいただくものがある。

こうしてみんなから受け取れるものがあるから、この命はつないでいける。

もしどこからも何も入ってこなかったら、この命は絶えるしかない。

言うなれば、この命は、こうして授かるつながりによって、生かされているのである。

なんともありがたいな~~~~~~~~~~~~~~~~という感じなのである。

ひとりひとりの顔を思い浮かべて感謝合掌するのである。

高齢の方々もたくさんいる。

ひとりひとりにもっと愛をあげたい。もっと愛せないものか――という思いが自然ににじんでくる。

●(笑)そういえば、昨年の秋頃、旧知の女性友だち(既婚で子供もいる)に、
インド向けのスピーチを録画してもらったことがあった。

午前から新宿を一緒に歩きまわって、ビデオを撮ってくれた。

午後別れる時に、あんまりにありがたかったものだから、こう言ってみた――。

「私が坊さんではなくて、あなたが結婚していなかったら、チューしてあげたいくらいヾ(@^∇^@)ノ♪」

すると、彼女は真顔で言った。

「いりません、そんなの」

――冗談なのに、なぜかさみしい坊主かな (TwT。)*‘゜*・~(龍瞬・心の一句)

●日曜の座禅エクササイズには、岡山県から男性が来ていた。

お盆にたまたま地元の書店で、私の雑念本を見つけたそうな。

「本を読む前と、読んだ後とでは、心の状態がまったく変わった」そうな。

それまではいろいろな大変なことがあって、自分の人生を降りることさえ考えたことがあったという。

でも、ブディズムは、そういう過去をみない。

過去になにがあっても、日が変われば、人間は生まれ変わっている。

(無常という真理は、人間が想像する以上にすさまじく早いスピードで起きている。真相は、瞬間瞬間で、心は死んで生まれての繰り返しといってよい)

もし、ひとが変われない、同じ人生がずっとつづく、と感じているとしたら、それは本当は錯覚だ。

それは自らの執着が作り出している錯覚。あるいは、自分の肉親などとの“つながり”を生き続ける中で生まれる “自我の再生” である。

もしそれまでの心の反応をいさぎよく捨てる道を選び、関わりから抜け出し、新しい世界・つながりに向き合い、つまりは新しい反応を育てるようにすれば、

執拗に繰り返してきた心は、徐々に再生する力を失って、新しいものへと入れ替わっていくだろう。それが生命の真相である。

今話題のiPS細胞の発見は、細胞そのものが 「初期化」(リセット) する性質を内在していることを示してくれた。

ド素人の推論だけれど、
恐竜が鳥類に変化したり、ゾウが海に戻ってクジラになったりしたように、生き物が環境に応じて体を変化させるのは、なにかしら、この細胞のリセット機能とつながっている気がする。

“そのままでは生きていけない“と細胞が感知したときに、遺伝子の組み換えが起こって、ある細胞は初期化したり、ある細胞は形質を変えたり、ということが起こるのかもしれない。

たぶん細胞のリセット機能というのは、生き物が環境に適応して生き延びていくためのプログラムのひとつなのではないか、なんて妄想したりする。

細胞以上に 心 というのは、リセットしやすい性質を持っている。そもそも物質ではなく、脳の中に生まれる 意識 という名の “現象” にすぎないからである。

もし、人間が、これまでの反応のプログラム・パターンをいさぎよく手放し、同じ反応を繰り返さず、新しい反応を刺激するようにすれば、心はいつでもリセットできるのかもしれない。理屈の上ではそうなる。仏教思想(たとえば無常)に基づいてもそうなる。私自身の体験にてらしても、たしかにそうなる。

男性にはこう伝えた。

「私には、あなたの過去は見えない。つまりは存在しない。
今生まれているのは、過去の人生とはまったくちがう、新しいつながり。
このつながりを育てていけば、それだけで新しい命が育つことになる」

実際、そうである。命を作るのは、「この自分(という過去の思いこみ)」 だけではない。“つながり”もまた命の構成要素である。

「この自分」とは別に、新しいつながり・関わりを作れば、それだけで、その分だけ、命というのは入れ替わるのだ。

だから、どんどん新しい関わりを創っていけばいい。

少なくとも、仏者というのは、ひとの過去を見ない人種である。

だから、心をリセットして、新しいつながりを作る上で、よき友・パートナー・応援者となってくれるはずである。

「今日から新しく生きていけばいいんですね。
明日からどんな発見があるのか、楽しみになってきました」 と語る。

明るい希望が表情に宿るのをみるのは、この仕事のよきさずかりものである。

現実の人生がどのようなものであれ、仏道においては関係がない。
仏道というのは、たどりつくべきゴール、戻るべきスタートラインというのは、ごくごくシンプルである。

いかなる思いに立ち、いかなる思いに帰り、最期のひと呼吸をいかなる思いをもって遂げるか――

それさえ分かっていれば、あとは今いるこの場所から、自分らしいペースで、自分らしい歩き方で、歩んで行けばいいのである。

そこには、一本の “道” ができている。

真実にめざめれば、そのとき、自分が立っているその場所に “道” が現れるのである。
あとは、その“道”を歩むだけだ。

もしあなたがブッダが示した道(仏教)を選ぶ というなら、この命は同行者のひとりになろう。

歩き方を知ろう。そして、実際に歩いて行こう――。

それこそが、道ゆく者同士の交わし合う言葉である。慈しみに基づく関わりかたである。
よき出会いであった。

●夜、宮城石巻の友人から、石巻への招待のメールが届いた。ありがたく、素晴らしいオファーである。

今の毎日は、心のつながりから自然につながっていくところがいい。
“リセット”して戻ってきたこの命は、たしかによき方向へと再生、展開している様子である。

この道は愛の道である。
この道の先の先まで、走ってまいりたい。
他の道は、もういらない――。

「今の自分がしっくりこない」ひとへ

10月17日
今月末から始まる都内某区の 「おもしろ仏教講座」 は、定員をダブルオーバーの応募をいただいたとか。満員御礼です。ありがとうございます。

人生で、関わり ほど大切なものはないと思う。
人生は、関わりにおいて ”よき役割を果たす”ことでヨシとする。それ以外は雑念だと思う。

ひとつの役割をさずかれること、果たせることは、ありがたいこと(合掌(^m^))。


●さて、今進んでいる「仏教のきほんを学ぶ講座」で、
迷いの生存」という言葉がでてきた。

迷いの生存というのは、ひとことでいうと、「現実とのずれ・ギャップを感じている状態」。

「これでいいのかな」というクエスチョンや、満たされなさ、というのも、迷いの生存。

怒りで一杯になって、イライラと落ち着かない状態も、
妄想で一杯で、フラフラ、ぼんやりしているのも、
あれこれと、次々に求めてばかりで、落ち着かない・せわしい気分も、
迷いの生存だ。

対極にあるのが、“目覚めた心”。 
今この瞬間に不足を感じない。心が定まっている。
確信があって、充実感・肯定感に満ちている。

○もともと、人間の心に、”不足” (これでいいのかな?)と思わせる機能(プログラム)はない。

動物なら、苦痛はあるだろうけど、その状態以外の状態を 「想像」 したりしないから、
心はいつも 「今」 に定まっている。ナチュラルに集中できている。

幼い子どもも、ナチュラルに集中できる。余計なことを考えないし、すぐに忘れるから。

人間が 「迷いの生存」に入るのは、
あれこれと過去を振り返ったり、
まだ手に入れていないものを欲しがったり、
考えたり、怒ったりして、
心が今に収まらない、フラフラと想念(アタマ)の中をさまようことによる。

これは(中途半端に)高度な知能を持ってしまった人間特有の症状である。


○実は、この世の中は、私たちを「迷いの生存」に引きずり込むようにできている。

たとえば親や世間は、子どもに対して、あれこれと期待を降り注いで、
「これをクリアできれば承認してあげる」 というサインを送り続ける。

学校の成績を上げるとか、よい学校に進むとか、世の中がよしとする会社・職業につくとか、

こういう、誰が思いついたのかよくわからないハードル
(=乗り越えることに価値があるとされる記号)
をクリアしなさい、
と親も先生も、その後の社会も、手をかえ品をかえ、メッセージを送ってくる。

ひとは、いつの間にか、「そんなものかな」
「それを手に入れると有利なのかな」 と思うようになり、
それを自らがめざすべき目標として、心深くにインプットしてしまうようになる。

世の中が語る モチベーション(やる気・動機) というのは、まずほとんどが、「これを手に入れると有利」 という価値観で作られている。

出世する、業績を上げる、ほめられる、高収入を得る・・・・といった価値観。

巷で人気らしい 自己啓発・セミナー の世界もまた、
こういう、「いかにも外れのない」、誰もがめざして当然と思えるような記号 を目標として押しつけてくる。

「成功したいだろう」「一段上の自分をめざそうじゃないか」「自分を変えればなんだって実現できる」 と彼らは目を輝かせて語る。

で、聴衆は、「そうかな」と思って、次に「よしがんばろう」となる・・・・。


●はっきりいえば、こういう世の中でもてはやされる価値観 こそが 
「迷いの生存」に迷い込ませる魔の声なのだ。

もともと、世の中にある価値観、”上昇のシンボル(目標)” なるものは、仏教でいえば、ほとんどが 妄想 である。

そんなものは、動物の世界にも、幼子の世界にも、真実がよく見えているブッダの世界にも、存在しない。それらは、欲望が作り出した妄想でしかない。

もともとなかったものを、さもそれがめざす価値あるかのように錯覚させ、
それを手に入れていないのは、自分がまだまだ(能力不足)なのだ、とか、向上心が足りないのだ、とか思わせてしまう、

世のシステムや他人の言葉自体が、「迷いの生存」 にひきずりこむトラップ(罠)かもしれないのだ。

人間には、欲も怒りも妄想も、あらかじめ過剰にインプットされているものだから、
ついついそれらをもって反応してしまう。信じてしまう。執着してしまう。

その結果、「今の自分」 とは離れたものを追いかけるようになるのである。

「このままでいいのかな」も、
「自分はまだまだ(ダメ)」も、
「イライラ・そわそわが抜けない」も、
「あれもこれもやりたいことがあって、しぼりこめない」も、
「あのひと・世間が間違っている、許せない」も、

どれも、自分自身にナチュラルに集中できてない、今の自分にたしかさがない、
という点で、「迷いの生存」 の中にあるといっていい。

迷いの生存とは、現実と自分とのあいだにギャップ・乖離を感じる状態だ。

言い換えれば、現実の中にいる自分に、自分自身が納得していない状態なのだ。


○さて、納得できずにさまよう人生は楽しいか? 楽しい時期もあるかもしれない。

でも、そんな毎日の繰り返しに疑問を抱いたり、
いまひとつ燃えない心を感じたり、
これからの人生に不安を覚えたりしたひとはどうするか?

そういうひとは、自分自身が心底納得できる あたらしい生き方を探してみるといい。

誰かのいうことや、世の中の価値観 は自分を納得させる力をもはやもたない。

そういうものは、他のひとたちに任せておけばいい。

それよりも、自分自身が納得いく生き方を固めることだ。

それは 発想のきりかえ である。それまでとはちがう発想で生きるのだ。
すると、ぽん、と迷いの生存から抜け出す。

そうなれば、あとは一生迷ったりしない。
満たされなさも感じない。

自分以外のものになろうとあくせくしたりもしない。


では、ちがう発想とは何か?
どうすれば、そのような発想がもてるのか??

答えは、仏教ライブで! (おいおいお~い!)

命つなぐための法事

10月14日
ここ二週間は、法事と、新しくはじまった仏教講座と、カルチャーの教室。

NHK学園でも東武でも、新しい出会いがあった。

「仏教を、これまで生きてきて初めて 生きた言葉 で聞いた気がします。たくさん学びたいことが出てきてワクワクしています」と老婦の方。

(余想だけど、新しいことを年とって学ぶのは、女性の方が上手な印象が……。)

昨年春にスタートした頃に比べると、やっぱり、こちらの話の進め方や内容が すこし磨かれてきている のを感じる。

もちろんまだまだ、というか、善し悪しの判断はしないのだけど、
間をとったり、適度に脱線したり、受け止めたり、掘り下げたり、という、話の創り方が、以前より見えてきた。

経験というのは大事なんだな、と思う。
みなさんに育てられてきているとも思う (感謝合掌(^m^))。

そして法事。今回は、一回忌 (忌という字は正しくないと思うが。「一年会(いちねんえ)」なんてどうだろう)。

日本に帰って何度か勤めさせていただいたが、

故人と生者とを、「いかにつないでいくか」 が仏者の使命であると痛感している。

命というのは、死して終わり というものではない。

それは別に、あの世があるとかないとかという表層的・観念的な議論ではなく、

生者の胸に残る 喪失感・悲しみを和らげ、
あるいは故人になおわだかまる怨みめいた気持ちを解きほぐし、

二者の間の かかわり の意味をあきらかにすべき、という意味である。

たとえば、
故人の来し方(こしかた)を想っての ねぎらい と、感謝 と、報恩の念 (さずかったものとともにこれからを生きていくという意志)
をあらたにすること。

故人とのつながりを今もなお生きているということ。ともに生きるということ。その思いをあらたにすること。

そういう、故人が去る前とはたしかにちがうけれども、それでもなお つながって生きる という、
新しい関わりを創る のが、法事なのだ、と今の私はそう理解している。

たとえば、伴侶に先立たれて一年がすぎて、一日の終わりに美しい夕焼けを見上げたとする。

悲しみが癒えないときは、その空の朱(あかね)を見るだけで、涙が出てくる。

ただ、もしその瞬間に、故人を心に想って、「うつくしいね」 と語りかけられたとしたら、ほんの少し、こころは変わるかもしれない。

そのこころは、故人ともに生きている ということになるのかもしれない。

悲しさ・せつなさは、そのままに――。

でも、先立たれたひととのつながりは、なおたしかに生きている。
これからも生きていく。

そういうすごし方は、むずかしいだろうか。

仏教はいろんなことを教えてくれる。

命とは、肉体の死で終わるのではなく、“つながり” としてなお生きつづける、ということも。

ふと感じたこと――

幸いというべきか、日本に帰ってこの二年のあいだ、誰ひとり出会った人に先立たれていない。
みな健在である。ありがたいことである。

でもこれからずっとそうなるということはない。どこかで誰かを見送ることになる。
あるいは、自分自身が真っ先に先立つことになるかもしれない。

いつしか今生の別れというのはくる。必ず。

ただ、わたしは思うのだ。別れてもなお、つながりは生きている のだということを。

もし年齢順にこの世を去るのが摂理だとしたら、この命は、これから多くの命を見送ることになるのかもしれない。

しかし、この命はそのことをあるがままに受けとめる。

と同時に理解している――これが終わりではない ということを。

命は、会えなくなった命ともつながっている。命はどこまでも命とともにある。

この身をもってこの世に生きているかぎり、生きてある人たちとも、先立っていった人たちとも、ともに生きている。

先立っていったどの人のことも忘れはしない。

つかのまの旅に出た友人であるかのように、肉親のように、この命は、その人たちを想い、その人たちの存在を胸に感じながら、今日この一日を生きていくことになるだろう。

どこまでも、この命は かの人たち とともにあるのだ――。

そんなことを感じた法事の日。


心開かれる本当の学びを (新仏教講座スタート)

10月6日・7日の参加者で、里から連絡メールが届いていない人は、至急メールを下さい。

10月7日

昨日、今日と、仏教のきほんを学ぶ講座がスタートした。

思いのほかたくさんの人が来て下さったので、びっくりした(笑)。

●仏教に興味がある・学んでいるという人はたくさんいるけれど、

仏教とは何か? と聞かれて、明快に答えられる人というのは多くない。

これは、端的に、仏教を語る側(仏者)の責任 でもあるだろうと思う。

だって、仏者というのは、本来いちばん仏教に通じているべき人たちだから。

彼らが 「わかりやすく」 仏教を説くのは、最初の仕事だろうと思う。

それに、仏教をひとの人生・幸福に役立ててほしい、という思いがあれば(これまた仕事のうち)、

「どう語れば、仏教がその人の心に届くか・心に残るか」 を真剣に考える(工夫する)だろう。

これだけ多くの人が仏教がわからないと言っているのに、なんで安心している(ように見える)のか。


●相手の心に残るかたちで真実というのは伝えなくちゃいけない。

でないと、その真実は、関わりの中で意味をもたなくなる。

仏教を語る側は、信じれば救われるんだ、わからないのは無知なんだ、というよくある 宗教的な傲慢さ に落ちてしまうし、

仏教を必要とする人たちは、いつまでも 「?(うーん)」 が続くことになる。

そんなのイヤイヤ (≒正しい状況ではない) である。

この場所で
「仏教はオープンな方法なんだよ、
信じる・信じないではなくて、
自分のこころ・人生に役に立つと思えば使ってみればいいんだよ」

とお伝えしているのは、

淡泊さではなく、ひとそれぞれの人生への 最大限の愛情(友情・はげまし) なんだと思ってる。

ブッダ自身が、

「私にはこれを説くということがない」
「過去の信仰を捨てよ」
「教義や伝承の学問では目的を遂げられぬ」

と語っていたのは、

彼独自の愛情(いつくしみ) ゆえなんだと考えることができるだろう。

もし自分にとっての有利 (経済的利益やプライドの満足など) を図るのではなく、

自分自身にとっての真実を “確信” していて (つまりは他者の承認も、新しい教義も、もう必要なくなって)、

ただひとつだけ、世界へ、ひとへ、向けるべき思いとして 慈しみ を保つならば、

何のこだわりもなく、特定の伝統や思想にとらわれることもなく、

ただ相手を理解して、うけとめて、かんじとって、

その相手に最もふさわしい 智慧 (=その状況において最上の効果をあげる方法) を伝えることになるだろう。

仏教とは、無我=自分から自由 になるための思想である。

その境地においては、慈しみと智慧とは同時に生まれてくる のである。

原始仏典を、「ブッダの思考法」 (ブッダはどのような理解・思考の仕方をしていたのか?) という視点をもって読んでいけば、

ブッダがまさにそういう開かれた、じつに合理的な、自分の思惑から解き放たれた自由の境地から、教えを説いていたことが見えてくるだろうと思う。


●そういう話をしていたら、教室で質問があった。

「サンガの中の厳密な戒律は、そういうオープンなスタイルとは矛盾しないのですか」 と。

これについては、こう考えるといいのではないか――。

ブッダは、ひとを選ばず、苦しみ Dukkhā から自由になる方法を説いた。

その自由・安らぎの究極にある体験が 悟り・涅槃Nibbāna と呼ばれるものだ。ブッダがめざしたもの。たどりついたもの。

もし、その体験をしたいと思うのならば、ブッダの弟子になって実践してみることだ。

ブッダの方法は誰に対しても開かれている。「来たれ、みよ、自ら試してみるがよい」 Ehipassiko

もちろん、その方法を実践して目的を遂げようと決意したならば、必要ないものは一切捨てなければいけない。
そして、ブッダの示す方法を忠実に実践しなければならない。

その意味で戒律(きまり)は必要になる。

ブッダは、弟子たちが目的から外れること・怠ることに、きわめて厳格だった。だって、そもそもそれを目的として、弟子になった(サンガに入った)のだから。

当初の目的にてらして、戒律に反するような生き方は筋が通らない。

むろん、強制ではない。ひとつの道をまっとうするか、途中で降りるかは、ひとの自由である。

その意味で、ブッダはかぎりなくオープンだった。

ひとと出会う時点で、その人が教えを共有するかという点において、いつその道を降りるかという点において、ブッダはいっさい縛りを設けなかった。

ブッダが厳格であったのは、「あなた自身が選んだその目的に忠実に生きているか」 という点においてであった、といっていい。

その意味で、ブッダの流儀は、オープンであると同時に厳格でもあったのだ。

オープンさと厳格さとは矛盾しない。相手がどう関わりたいか、なにをめざすのか、によるのだ。

その意味で、オープンさと厳格さとは、愛情 (いつくしみ)の両面 であるといってもいいかもしれない。


●この場所では、特定のスタイルや思想にこだわることはしない。

極端な話、仏教でなくてもいい、というくらいのフリーな前提から始めている。

これを信じなさい (≒押しつけ)、
これこそがお釈迦様の教えです (≒権威づけ)、なんていう言い方はしない。

そんなことをしなくったって、ブッダの教え・思想の真価は、心の髄まで私は知っている。

現実の課題・テーマからスタートして、智慧を働かせてひとつの思想を構築していけば、それがブッダの教えと見事に重なることを理解している。

(私の感覚としては、数学の証明問題を一行目から書き起こせば、何度やったって、同じ結論にたどり着く、という感じである。と同時に、別の前提、展開、結論の可能性にもつねに心は開かれている。)

第一回めに来てくれた人たちには、

自分なりの目的意識をもつこと (実生活においてなにを望んでもいい)、

いっさいの前提 (これまでに学んだすべてのことも含めて) を捨ててみること、

自分の目的に照らして、何が最も合理的な方法(考え方)なのかを考えながら学ぶこと、

という話をした。

戸惑った人もいるかもしれないけど、ほんとうの真理・ほんとうの智慧というのは、そういう“前提フリー”の合理的な視点によって作られていくものではないのかな。

ぜひ、焦ることなく、ゆっくりと、でも自分に誠実に、

“自分自身のテーマ” と 仏教 とをすりあわせてみてください――。


●この場所で学べる仏教は、伝統としての仏教からいったん切り離して、組み立て直した新しい仏教だ。

この時代・この社会・この生活・この自分、から始めて、
仏教を、合理的で役立つ、現実に通用する 智慧 として活かすにはどうするか?

仏教のどの伝統、ほかのどの信仰とも相反することなく、
幸福への共通の方法、オープンリソース として活用するにはどうするか?

そういう目的意識(視点)に基づいて、話を組み立てていきたいと思う。

この視点こそが、無私と慈しみ から自然に演繹される (≒導かれる) 方法なのだ。

ほんとうの真理にたどりつくための思考法。仏教の純粋なる精神である。

そのうち、このあまりに開かれた思考のスタイルこそが、古代のブッダのそれとかぎりなく重なっていることに気づいてくれるだろうと思う。

――とまあ、これは私自身の余分なはからい(期待)であって、みなさんがそうと信じ込む必要もないのだけど(笑)。


ともあれ、仏教の学び方の一例として、これからの話にお付き合いいただければと思います。

みんなのおかげで、よきスタートとなりました。

よき教室にしましょう。よきつながりの輪を育んでいってくださいね。

10月6日スタート! 仏教のきほんを学ぶシリーズ

仏教をどう学ぶか?

やみくもに「本を読む」、「お坊さんの話を聞く」だけでは、

仏教はいつまでも わからない ままで終わることでしょう。

ナン年勉強したとか、どれそれの本を読んだとか、
どのお坊さん、どの宗派の下で学んでいるとか・・・・・・・。

それは、学んでいるうちには入らない のです。

だって、「では、仏教とはなにですか?」 と聞かれても答えられないのですから。

正しく学んでいる人ならこう答えるでしょう。

仏教とは、○○を目的とし、
○○と○○をその基本(本質要素)とします。

私はそれを日々○○によって実践することで、
体得しよう (=自分の心そのものにしよう) と心がけています――。

学校の勉強と同じように、
何かをマスターするには、スジのよい正しい学び方 が必要です。

もともと、ブッダの教えは、きわめて合理的な 心の育て方・はたらかせ方 を教えてくれるもの。

ならば、仏教を学ぶ方法も、合理的でなければならない はずなのです。

「学んだ気分」で終わるのは、もう卒業しませんか?

目が覚める ような、
まちがいない、と確信できるような、

明快な方法による、明快な内容の ブッダの教え を学びはじめましょう。

人生は短い。誰かが語る 妄想、カタチと化した宗教 につきあう必要はありません。

ブッダの教えの本質部分をつかんで、

自分自身の幸福・満足・納得 へ、

自分自身にとっての 最上の真実 へと向かおうではありませんか。


この場所で学べる仏教は、ほかのどの場所で学べる仏教ともちがいます。

徹底して、合理的な、現実本位の、ブッダの思想 Buddhism をお伝えします。


仏教の新しい可能性に出会いたいあなた、

10月6日か7日、神楽坂においでください。

内容
①仏教の基本的な考え方(5つの根本教義)
②原始仏典の言葉研究
③日本仏教を総まとめ
④海外仏教事情(映像つき)
⑤質疑応答

効果
☆仏教の全体像が手に取るようにわかる。
☆仏教書を読んでいては一生かかっても分からないポイント=本質をずばり整理。
☆これからどう仏教を学んでいけばいいかの方向性がはっきりする。
☆これまで仏教を学んできて増えてきた疑問に答えが出る。
☆仏教を通じた善き友だちができる。
☆あたたかい雰囲気の中、楽しく仏教を学べる。
☆毎回、ポイントを整理した詳細な読み物プリントつき。

方針
◎“宗教”になる前のゴータマ・ブッダの教えの本質を明らかにする。
◎これからを生きる指針となるような、実用的で洗練された内容を紹介する。
◎テーラワーダ仏教か大乗仏教かといった枠組みにとらわれず、どの伝統にも通じるもっとも本質的な部分を明らかにする。
◎もともと車の両輪だった 知識 と 実践(=禅・瞑想)の“つながり”を具体的に示す。
◎参加者みんなの知識・体験・問題意識を持ち寄って、互いにとって豊かな発見・触発があるようにする。
◎ただの知識ではなく、リアルな生き方、知恵、思いやりにつながるような、本当の学びを体験する。

参加費 各回1500円 (全6回一括7500円) 
※定員オーバーの場合は一括申込者を優先します。  
予約不要。直接教室まで。

場所 赤城生涯学習館  新宿区赤城元町1-3 
JR飯田橋駅/東西線・神楽坂駅  赤城神社隣

日程
第1部
①イントロダクション  
 10月 6日(土) 午後6時半~9時 
 10月 7日(日) 午後6時半~9時  
  ※6日・7日は内容は同じ。いずれかの回にご参加ください。
②10月13日(土) 午後6時半~9時
③10月27日(土) 午後6時半~9時
第2部
④11月10日(土) 午後6時半~9時 (10日のみ変更の可能性があります)
⑤11月17日(土) 午後6時半~9時
⑥12月 1日(土) 午後6時半~9時 第1期修了&打ち上げ懇親会