仏教講座スケジュール

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ポリグルセミナー開催!

12月25日
今日はセミナーの日。日本ポリグル社の小田会長が、じきじきに水浄化のデモンストレーションと解説&スピーチをする。

ウダサ村の一角にある公会堂(といっても40畳くらいの埃まみれの古ホールだが)を借りて、昨日から設営の準備。

配布資料を百部刷って、椅子を並べて、横断幕を張ってと、GDIAのメンバーたちが総出で準備をする。

村の婦人たちはランチと夕食の準備。こういうときの彼らの流れるようなチームワークは見事である。

20リットルボトルに川の汚れた水を汲んでくるようにと指示すると、バイクで即飛んでいく。そのボトルと、浄水装置でつくったポリグル水入りのボトルとを、壇上のテーブルに並べる。そうすると、浄水の光る透明さがきわだってみえる。

11時開始の告知であるが、ここはインドである。結局、ひとが集まって始まったのは12時半すぎになった。汽車で十時間かけてきてくれた人もいた。ムンバイからは病院長夫妻が。このセミナーが終わったら、私はアンドラプラデシュに行って前州大臣と面会し、そこからムンバイに飛んで政府や企業関係者、大学の研究者と会合をし、その後パトナに飛んでブッダガヤ、ナーランダにある仏教組織と話し合い、最後はデリーで政府関係者と面談をする予定。このセミナーは、この水プロジェクトがウダサ村から外へと展開していく最初の足がかり的な意味をもつ。

テレビ東京で放映されたドキュメンタリー「ガイアの夜明け」をプロジェクションで上映。小田会長のソマリア&バングラデシュでの活動を報じている。その後、小田会長のデモンストレーション。私は通訳をつとめる。

会長先生らしいと感じたのは、村の子ども2人を指名して、彼らに実験をやらせたこと。ひとりは白濁した水を浄化する実験。 もうひとりは鉄分混じりの汚水をポリグルと磁石で吸着・浄化する実験。

もうひとつのボトルには、オレンジの絵の具混じりの水が。ポリグルを混ぜてしゃかしゃか振ると、とたんにきれいな水とオレンジ色の汚濁に分離する。会場から拍手。効果が目に見えるから、大人も目を見張っている。

そして会長のスピーチ。バングラデシュやアフリカで展開している水プロジェクトについて。村人にとってはもちろん初めて聞く国際的な話である。

現地の水問題を解決し、しかも雇用を生み出す。働きながら技術を覚えて、新しい土地での技術指導者になってもらいたい。ビジネスというより現地の人々を助けたい。こちらが何かをしてあげるというより、みなが必要としていることにこたえたい、というのが会長の方針。

インド人はきわめて飽きっぽい性格で、途中で話がつまらないと出て行ってしまうのであるが、今日は最後までよく聞いて、質問も熱心にしていた。みな自分の場所で同じプロジェクトを始めたいという。

ウダサ村に設置した浄水装置の概要を、ラケシュが現地マラティ語で説明。

会長の夢は、80歳になるまで働いて世界から水問題で苦しむ人々をなくすことなのだそうだ。ポリグルの普及ビジネスを始めて12年が経とうとしている。バングラデシュが6年、アフリカは1年、インドは最初の装置を設置した7月から数えるとまだ5ヶ月。
GDIAのメンバーはよく働くし、物分かりがすこぶるよい。浄水装置の仕組みも完全に理解して、装置の組み立ても自分たちでできるようになった。その動きのみごとさは、今回視察に来た他の日本の人たちも驚いたくらいである。

8年後に会長先生が満足できるような、素晴らしいはたらきをしていきたいと思う。このチームならばできるだろう。

その後、浄水装置をみなで見学。ここでも熱心に質問が飛ぶ。初期費用にいくらかかるか。このプロジェクトに参加するにはどうすればいいか。我々としては、コンパクトサイズの浄水装置をつくって小さな村落にデモにいこうと考えている。最近報じられたニュースでは、とある村全体が、飲み水がフッ素に汚染されて健康被害で困っているという。そういう場所には真っ先にかけつけたい。

ポリグルのロゴ入りの青いシャツをメンバー全員が着て、記念撮影。会長たちを午後4時前に見送って、そのあとはねぎらいをこめた食事会。みな地べたに座って食事をする。水はもちろんサーバーに満タンのポリグル浄水である。みんなよくがんばった。

夜はお寺でみなでお経をあげる。一日はたらいてくれた女性たちは、ラケシュの家の中庭でなかよく晩餐をとった。

GDIAのメンバーたちも、大仕事が終わったとかでどこかに打ち上げに行った。「今日をありがとう」と村人たちが伝えてくる。みなが嬉しそうな顔をしている。それが一番嬉しい。

何か新しい可能性を、彼らとともにいま創り出している。その実感だけで、この命はこの上なく強く、熱く満たされている。じつによき十日間であった。

夜十時をすぎて、GDIAのメンバーたちが打ち上げから帰ってきた。どこで遊んできたのか。でもこうして力をあわせて働いて、ひとつの社会的に大きな意義のある仕事を成し遂げて、みながその達成感と充実感を胸にどこかで楽しんできてくれていたら、それだけで私はもう何もいらないと思えるのである。彼らは、私にとっての幸せをもつくってくれている。

GDIAメンバーがすごいところ――打ち上げから帰ってきて夜十時をまわって、なおトラクターを運転して、2キロ先にある川水を取りに行ったこと。1時間かけて水を汲み上げ、それを浄水装置に運んでポリグルで攪拌して、濾過槽に通すまでをこれからやるのである。朝になれば新しい浄水ができている。その水をまた村人に配給するためである。

インドウダサ村の一日


12月24日
 ようやく風邪の症状が収まってきた。下が収まり、上も鼻水がとまってしつこい咳が残るばかりになった。

 朝6時すぎに部屋を出ると、吹きさらしの軒(のき)下に出る。その一角に木枠のベッドがあって、ラケシュの姉のマーヤや他の婦人たちが寝ている。

 軒下の向かい側にある、建設途中の離れでは、ラケシュたちの父親がいちはやく起きだして、やせ細った手で火を起こしている。インドの冬の朝は寒い。赤い火が起こるのを見守るのはなぜかそれだけであたたまる気がする。

 あちこちでスズメとニワトリの声が上がりはじめる。朝7時にもなれば近所の家もほとんど目を覚ます。

 水の入った小さなツボをもって、村人たちがお散歩。どこに行くかといえば、外の野原。ここで朝一番の“用を足す”のである。ところどころ潅木(かんぼく)の合間にしゃがみこんでいる姿が見られる。古い世代の人は、ひとが通る道にてそのまま用を足している。朝7時から7時半くらいがラッシュ。道を歩くと新鮮なのがそこかしこに落ちている。

 そのあとの定番は歯磨き。インド人は食後に磨かずに、朝に磨く。そしてチャイを飲んだり、おしゃべりしたり、新聞を読んだり。

 屋根の上にあがると、村の家々の様子がよくみえる。インドの家はセメント、レンガ、石でできた直方体のつくり。そのてっぺんが屋根にあたる。家族そろってその屋根の上にベッドを置いて寝ている家がある。おばあさんも、夫婦も、その子供たちもみな一緒に寝起きする。そういう家が見渡すだけでいくつも見つかる。

 牛飼いたちは放牧するため牛をひきいて出かけていく。半日のあいだ、草のあるところを回って帰ってくる。大通りを車で走ると、牛の行列の横断・縦断に出くわすことがよくある。クラクションを鳴らしても、どくでも急ぐでもなく、マイペースで車道を歩きつづける。こういうときは待つほかない。

 朝8時をすぎると、ラケシュ宅向かいにある幼稚園に子供たちが送迎バスで続々とやってくる。まだ3歳半の子どもは、背負うカバンも大きく、眠そうな目をこすりながら、おぼつかない足取りで幼稚園に入っていく。そうかと思えば、もう元気全開で走り回り、笑い合っている子供たちもいる。私が拠点にしているラケシュの家の前は、にわかに運動場になる。

 朝8時半には、われらの水プロジェクトチームが始動する。2キロ離れた川からトラクターを使って2トン分の水を運び、それをポリグル浄化剤で攪拌して、濾過してきれいになった水を、20リットルボトルに詰めていく。詰め終わったらバンにのせて、朝の配達に出かける。今朝は配達の様子を小田会長ご自身が見守った。

 昼をすぎると幼稚園は終わり、子供たちは小さなバスに満載になってそれぞれの家へと帰る。

 近所の家の飼い犬サンディがひょっこらひょっこらと近づいてきた。村の犬はたいていは放し飼いである。気ままに別の家に遊びに行って、子どもと戯れていたりする。サンディも他の家の牛と一緒にいたり、子どもたちにくっついて駄菓子屋まで出かけたりと、村の生活をエンジョイしている(たぶん子守のつもりなんだろう)。

 サンディは私の足にほっぺをぺったりとくっつけてじっとしている。私がくすぐってやるのが嬉しいらしく、こうしてよく歩いてくる。

 昼間、婦人たちは洗濯したり、小麦やコメのふるいわけをしたりと、家事にせわしく動いている。ただ近所の婦人たちと地べたに座って一緒にやっているのでおしゃべりしながらである。

 緑のオウムが、エサくれエサくれと金属の小さなタライを重ねてカチンカチンと合奏しはじめる。このオウムは、私がパンをもって近づくと口を開けてみせるのに、手ぶらだとオツムをこっちに向けて威嚇のポーズをとるかわいくない鳥である。

 向かい側に14歳の小太りの少年がいる。その少年の家に、白い巨体のニワトリがいる。この鳥がけっこうな悪人で、昼間にこっそりラケシュの家に侵入してくる。そしてたらいに盛られた小麦や米をこっそりとついばみはじめる。婦人が「ソォ、ソォ!」(行け、行け)と叫ぶと、「ちっ、みつかったか」と重たい足取りで出て行く。で、またまもなくして音もなくやってくる。入ってきてはいけないということがわかって入ってくる確信犯である。

 牛もたくさんいる。頭突きしあいながら餌をむさぼる様子を見ていたら、堪忍袋の緒が切れた方が他方に突進した。牛の巨体が宙にふっとんだ。一見おだやかそうに見える牛だが、性格はとても人間的らしい。

 ねずみくんも元気である。部屋にいると足の上をちょろっと横ぎることがある。そのねずみをねらってか、猫が屋根裏に音もなく登っていくのをよくみかける。

 すずめたちは、ラケシュの家の木を寝床にしていて、一日中かしましい。朝のクッキーをまいておくと遠くから見つけて飛んでくる。最近はなれたのか、足もとのすぐそばまでやってくる。

 夕方は、通りに椅子を出して婦人たちがおしゃべりに興じ、少年少女たちは好き好きにあそび始める。

 夜は夜で婦人たちが集まって農作業のつづきをやったり、近所や遠方から知人が訪れてきたりと、とにかく一日中賑やかである。そしていつも笑い声が響いている。何がおかしいのかわからない。でも近所のひとのことや、今日よその場所であったできごとなどを話しながらケラケラと婦人たちが笑い合っている様子なのである。私がマラティ語をひとことふたこと話してみると、それも笑いのタネになる。

 これは奇妙なことなのかもしれない――というのは、この家の近辺に「苦悩の表情」はないのである。みな自然に生きている。とても楽しそうに。

 今日一番の笑いは、ラケシュの家の軒下でパソコン作業をしていた私のところに4歳くらいの女の子がわーと悲鳴をあげながら駆け込んできた。そのあとを追いかけて入ってきたのが、あの悪人ニワトリであった。まあなんともふてぶてしい顔(幼子を泣かせていると自覚している顔である)。

 私が「ソォ、ソォ!」(ゴホゴホ)と声をあげると、ニワトリはのそのそと、「言われちまったらしようがねえな」というような表情で、ず慣れた足取りできびすを返して門を出ていった。その門の外で事態をのぞき見ていた3人の子どもが大きな声で笑った。で子どもらは一目散に他の家に走っていって婦人たちになにやら報告した様子(バンテジー、ソォソォだって、みたいな話だと聞こえてくる)。婦人たちの大笑いが聞こえた。「ソォ、ソォ」と繰り返して笑っている。

 笑いってそんなに簡単なものなんだねえ。

インドでヨレヨレ現場監督PART2

1月21日 
ほとんど動きは“ハイシニア”である。風邪と称しうる症状はすべて起きていると言っていいかも(梅干がゆが食べたいよ~)。

今日は地下水の汲み上げ工事を敢行。

2日前に、隣の町から「ババジー(掘り当て師?)」と呼ばれる老人がやってきた。どこを掘れば地下水を当てられるか預言することを職業としている人。

長い白ひげをたくわえ、黄色のターバンを巻き、目にはいささか人間離れした妖しい光が……それはない。

彼にどこに穴を掘るか当ててもらうのだという(インドの村では恒例らしい^□^;)。

老人、何をするのかと思ったら、手のひらに収まるくらいの黒い円盤(黒のオレオ?みたいなのがあるでしょ、クッキーの。あんなの)を火であぶりだした。白い煙が上がると、その円盤を掌におさめて、ゆらゆら揺らしつつ、ブツブツいいながら、広い敷地のあちこちをうつむきながら歩き始めた。

その後ろを、ラケシュほか村人たちがおごそかな面持ちでついて歩く。

老人が、ある地点でぴたと立ち止まる。そこで神の啓示を受けたかのようにうやうやしくしゃがみこむ。そして確信のこもった表情で私たちを見上げて言うのである。

「ここを掘るがよい、80フィートも掘れば、地下水があふれでてくるであろう」(ラケシュの通訳)

さて、、、、どーすんの? 言われたとおり掘るか?

老人の成功確率は?と村人に聞くと、「フィフティフィフティ」(半々)だという。それって、当たってないんじゃないの?

広大な土地の一点を当てるのって難しい。

私は妙なカンが働くときがあって、たとえばひとを探しに未知の場所にいくと、空の方角が「こっちだよ」と示してくれているときがある(どう見えるかはいわないでおきます)。そっちにためらいなく歩いていくと、ほんとにその人の家があったりする(目の当たりにした人が教室にいたでしょう?)。

昔は1万人に1人という旅行クーポンが当たったりとか、もっと遡れば小学3年のときに当たりくじつきアイスを13回連続で当てたりと、けっこうクジ運が強かったところがある。

そのカンがはたらかないものかなあと大地を見渡してみたが、まったくピンと来ない(風邪さえひいていなければあるいは・・・と思ったり)。

こーゆーときに“スーパーアイ”なるものがあればなあ、と夢想したり(機内で映画マン・オブ・スチールを見ちゃった単純な影響)。

結局、現地の連中と話し合って、ちがう一角を選んだ。緑がそこだけ生えている。でも、彼らが掘り出したとき、(ちがうなあ)という感じがあった。

掘る場所に、ロウソクと線香を立てて、花びらとかお香とかをはらはらとまいて、みなでお経をとなえる。これもインドの慣習である。

で、その場所に、巨大な掘削機を乗せたダンプがガランガランと音を響かせて後ろ向きに入ってくる。

で、ドリル開始。油圧で動くのだが、つまっているのか何なのか、恐竜の叫び声みたいな超バカでかい高音を弾かせる。で黒煙をもうもうと吹き上げる。

こんなにもドでかいダンプからこれほどの巨音を真上で発されると、さすがに身の危険を感じるほどである。

トランスフォーマーが本物だったり、エヴァンゲリオンの実物が間近で例の雄叫びをあげたらかなりコワイぞ、と妄想したり(やっぱり風邪を引いてます)。

直径20センチ、全長3mくらいの金属の筒を地中にドリルしながら埋めていく。地中の土がごりごりと出てくる。そのうち土が灰白質の粉になる。

350フィート(550メートル?)も掘ったか。で、結果は・・・・

水は出てこず。一滴も……。

おお神よ――(風邪のせいです)。

残念である。当たれば、水が豪快に吹き出してくるのだそうだ。

ドリル工事はけっこうな額がかかるので、いちかばちかの賭けにでる村人は多くない。

今回は、ウダサの村人が水不足で苦しんでいるので(ほんとに水がない)、なんとか生活をラクにしてあげたいという小田会長のご厚意によって実現できた。

当たれば、村人に大いにプラスになったのだが、、、。

しかし、この地は水が乏しい。川の水さえ乾季にはひとつきくらい干上がってしまう。

問題山積みである。
この水プロジェクトがうまくいきますように――。


インドでヨレヨレ現場監督

 こんにちは、草薙龍瞬です。

今はもちろんインド・マハーラシュトラ州のウダサ村にいます。

12月14日の打ち上げワークショップは、昨年と並んであたたたく楽しい雰囲気でよかったと思います。ぜひ恒例にしたいものです。

出発前は怒涛の忙しさで(講座がいくつも重なって)、連日睡眠2、3時間の強行スケジュールでした。

で、結局、ちから尽き(?)、季刊誌12月号を印刷している途中で、成田に向かったのでした。

朝方3時間ほど横になったので、その妥協さえなければ……と悔やまれるところであります(笑)。

季刊誌12月号は、ぜひみなさんにお届けしたかった。それくらい今回も内容充実の面白いものになりました。

(漫画を描くのにかなり手こずり、いいとこまで描けたと思ったら原因不明のパソコンクラッシュがあったり、とスイスイとはなかなかいかず。)

あの季刊誌は、ダイレクトな「手紙」なのです。

毎回、どういう心をこめるか、というのを、かなりつぶさに細かく見つめて書いています。

ただあたりさわりのない励ましになってもいけないし(それでは当たり前すぎて心に届かない)、
的をつきすぎて落ちこんでもらってもいけない。

いい具合に、正しい理解を期待しながら、愛情をこめて書かないと、と思っています。

こういう世界(仏教とか宗教に分類されるもの)は、言葉もカタチも、つくることに上手な人たち、大きくすることに躍起な人たちがたくさんいるようだけど、

結局、ひととひとをつなぐパーソナルなやりとりがどれだけできるか、それに尽きると思います。

そのやりとりの一端をになうのは、この命。だからこの命が、クリアな意識と愛情・はげましをもって、言葉を発しなくちゃいけない。それが生命線。

季刊誌12月号は、1月中旬にお届けします。読みながらもう一度年の瀬を味わって、2月中旬に届く予定の1・2月合併号で、今一度新年を味わってください(笑)。

睡眠不足でインドに来て、風邪を引いてしまいました。ヨレヨレになりつつ現場監督やってます。

みなさん、よき年の瀬を。

なぜ歩きつづけるのか (仏教でクリスマス前夜祭)

12月14日
忘年会シーズンらしく、神楽坂は酔客でいっぱいだった。

赤い顔して、大声で叫んで、笑って――通り抜けるだけで、こちらも楽しくなれる。
お酒は飲まなくても、彼らの明るい酔いは伝わってくる。

今日の仏教の学校のラストで一番よかったのは、参加者全員が最後に「合掌」して終わったこと。

たとえば人が目の前でお辞儀をしたときに、自分はお辞儀をしないという作法はありうるだろうか。

形を強いるという意味はまったくなく。

ただ、相手への礼節、作法として柔軟に応えることができるか、という点で、合掌できるかどうかはけっこう重要な意味をもつ。

インドでチベット僧院を見学したとき、ラマ(チベット密教の僧侶)が寺院内のひとつひとつのモニュメント(仏壇とか曼荼羅とか)に、恭しく額をつけるのを目の当たりにした。

案内してもらっていた私も、それにならって額(ぬか)づいた。

これは信仰に従うか否かといった次元の話ではなく、相手への礼節である。

こういう礼節をさりげなく果たせるかどうかで、そのひとの成熟度が見えるような気がする。

今日、教室で伝えたのは、たとえばこういう礼節を保てることが基本であって、基本を外したところでいくら知識を積み重ねても、それは心の成長には役に立たないということ。

それを受けて、みな礼節を示してくれたのである。美しいと感じた。

今日のテーマは、「悟り」。仏教がふくむ無常・無我・空・涅槃・解脱といった、一聞アヤシイ言葉も、合理的な意味を持っている。その中味を伝えることがテーマ。

以前、あぐらをかいたまま床上にとびはねて、「自分は解脱者だ」とのたまった愚かな生き物がいた。ほかに、自分自身が、何か特別な境地にたどりついているかのような、あるいは悟りに通じているかのような、ふるまいや言葉を発している生き物もまた、世の中にはたくさんいる。それを信じてしまう人間も。

こうした者たちは、欲と妄想から抜けたことがない。だから言葉だけで語った気分になれるのであり、また言葉だけで信じてしまえるのだと私は理解する。

真実・真理というものをきわめるのは、けっして得意になるようなものではない。
むしろ深い孤独を引き受けるということなのだと私は感じている。

ブッダがひとつの境地に達したときに抱いた感想が、「寂しさ」だったという話をした(原始仏典にある)。

他にも、中道とか、道を生きることとか、大きなテーマが今回は続出した。

今日は、何かを知った、分かった、と思うのではなく(もとより、理解しようがないはず)、

むしろひとつの真実にたどりつくこと、道に立つこと、歩きつづけることの、尊さ、厳しさ、むずかしさというものを感じ取ってもらえたら、と願った。

どんな道もラクではない。簡単に答え・救いが得られるだろうなどと期待するほうが、おかしい。

むしろ、ハラをすえること。十年でも二十年でも、「やらねばならないからやる」、という不動の覚悟に立つこと。そのときはじめて、ホンモノの道・人生が始まる。そういうものだと思っている。

なぜ仏教講座を続けるのか。そういう話にもなった。

「やりがいを発揮できるからでは?」という指摘も。なるほど。

だが、じつは、そういう動機ではやっていない。

私は仏者――ブッダの教えに基づいて生きる者――であるから、
世の中にあるひとびとの苦しみ(求めるこころ)をまずは想う。

もしこの世の中に、何らかの答え、救い、解決、克服、納得、前に進むきっかけ、などを求めている人がいるのなら、

ひとつの方法がある、ということ、その可能性があることを、形として示さなければいけない、と考えている。可能性に向かってふみだすことがすべてなのだ、といっていいかもしれない。

これからこの場所に何人のひとが来るかは、本質ではなく。
大きくなろうと、小さくなろうと、それは本質ではなく。

ただ、ここにひとつの道があるのだということ。この部屋の扉だけは外に開いておかなくてはいけない。

たとえ一人でもくる人がいるならば、開けておかなくちゃいけないし、

たとえくる人が一人もいなくても、それでもまったく変わらない気持ちで扉を開けておく必要がある。

最も大切なのは、「今どのような心でここに立っているか」、その一点のはずであるから。

だから、この命は、命つづくかぎり、仏教に基づく生きかた――仏道――を伝えつづける。

それが出家の覚悟である。

孤独を感じないか? そういう話にもなった。

というより、ひとはみな、心はすべて――孤独なのである。

孤独であることを理解したとき、孤独そのものを見尽くしたときに、孤独は消える。
ひとといても、独りでいても、同じ心のままでいるようになる。

私はしあわせである。
孤独のゆきつくところと、愛情とは、似ているように思う。



☆12月14日、いよいよ仏教の学校2013フィナーレです。東麻布にて。

いよいよファイナルウィークに突入!

こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ、仏教の学校も、2013年ファイナルウィークを迎えました。今週土曜日できっかり終わりです。翌日にはインドに行ってまいります。

来週には季刊誌<興道の里>の12月号が届くと思います。
まだ見本誌をもらってない人は、まだ間に合いますので、お名前とご住所をお知らせくださいね。

さて、あさって水曜からの土曜までの講座が、年間最終講座となります。

仏教の学校(冬①水曜クラス) さとり ~ 仏教がおしえる人生の最終ゴールとは?
12月 11日 (水), 19:00 ~ 21:00
東麻布 ※場所はスケジュールをご覧下さい。

仏教の学校水曜クラスの年内最終回の講座です。テーマはずばり「さとり」。

悟りとか、涅槃(ねはん)とか、解脱とか、アヤシイ言葉がいっぱいでてきます。
きっと知らない人が聞いたら、ヘンなことやってるなあ・・・と思うことでしょう(笑)。

まあでも、仏教を学ぶと必ずといっていいほど、こういう言葉は出てくるので、このへんで、実際にはどういう意味なのか、はっきりさせておくのはよいことだと思います。

私が見聞するかぎり、悟りやら涅槃やら解脱やらという言葉には、人間の妄想がたっぷりこびりついていて、もともとの姿を正確に描写していないと思っています。
正しい修行をすれば体験できる、ひとつの心境(精神状態)なんだと思ってもらえればよいと思うのですが、、、。

一年通ってきた人には総まとめとして。はじめての人には、仏教の最終ゴールを確認するいいきっかけになるとおもいます。ぜひご参加ください。

そして、12月14日(土)は、年納めスペシャルとして、午後と夜間の2コマやります。
2013年総集編1 <仏教のきほん>総まとめ (仏教のすべてがわかる超おトクな講座)
12月 14日 (土), 16:00 ~ 18:00 東麻布 ※場所はスケジュールをご覧下さい。

①自分でふりかえる今年のプライベート十大ニュース、②「仏教のきほん」総まとめ~一年の講座をふりかえって発見・学んだことをシェア。③歳末御礼~草薙龍瞬のミニ仏教講座、④なんでもQ&A(フリートーク)

ざっくばらんなフリートーク形式でやりたいと思います。ちょっと早いですがクリスマス気分でお越しください(仏教ですけど)。

2013年総集編2 マイテーマ(わたしの課題・宿題)を仏教で考える (仏教の学校2013年打ち上げ講座PART2:夜の部)
12月 14日 (土), 18:30 ~ 21:00
東麻布 ※場所はスケジュールをご覧下さい。

みなさんから寄せられた「マイテーマ(わたしの人生の課題・宿題)」を仏教で考えるとどうなるか? 
参加者の意見を寄せ合います。かなりユニークな心理学的ストーリーについて、どう考えるかをグループで語り合うコーナーも。
クリスマス前夜祭として、楽しくあたたかくやりたいと思います。


★一年をふりかえって思うことは、季刊誌12月号にまとめたいと思います。(今月号も充実の文章&マンガが満載です^^)

みなよくがんばって生活されてますね。

生きているというのは、それだけで誰かへの貢献になっているのだとつくづく思います。
みなさんが来てくれるから、この里の講義も充実してきたのであって、、そこは本当に感謝したいと思います。

もちろん、、、いうまでもなく、この場所は道(生きかた)を学びあう場所です。

だから、ひとつお伝えするとね、最近よく思うところですが、多くのひとが「焦りすぎ」です(^^;)。

焦らせているのは、これまでの自分自身だと思ってもらってよいです。

まったく新しい生きかた・学びをしようとしているのに、どうして過去の自分に判断させようとするのかな?

その判断が正しい約束はどこにあるのでしょう?

たいていは、これまで何度も繰り返してきた、同じ欲(願望)と、妄想とで、てっとり早く、これまでの自分を納得させてくれる答えをみつけようとしていませんか?

でも、それはありえない。これまでの自分に答えを出させてはダメです(笑)。

新しい学びに、自分に都合のよい妄想をもちこんではだめ。

ハラをすえて、「これは自分にとって本当に必要なことだから、これから時間をかけて、やり通すんだ」という決意をかためてはいかがだろう。

仏教のことばかりじゃなくて。今取り組んでいる仕事とか、人間関係とか、趣味とか、習い事とか、すべてのことについて。

子供たちの方が、まだ新しい学びが上手なように思います。子供たちはあれこれと先を考えたりしないからね。

「早く、早く」とか、「何年・何ヶ月でここまで」といった、はからい・分別を捨てることから、本当の学び、つまり本当の人生は始まるのだと思います。
そうしたはからいこそが、執着が生み出す妄想なのだから。

そういう発想からは、あまりいい結末はでてきません。ふりかえって、それでうまくいきましたか?

やらねばならないことは、やらねばならない。
その覚悟をきめてみては?

焦りが微塵も生まれない心境が、ホンモノです。
ハラをすえましょう。

クリスマス前夜祭! 仏教の学校2013打ち上げ会のおしらせ

こんにちは、草薙龍瞬です。

★最近、つくづく感じるのは、年々、しあわせ感が着実につよく、元気になっている、ということです^^*)。

それは、半生のかつての時代と比べてもそうだし、日本に帰ってきた3年前とくらべてもそう。日に日に、しあわせ度数がアップしているのです(笑)。

何がいちばんの理由かといえば、やっぱり、つながりの数が増えているから、なのですねえ。今は、たくさんのひとと出会い、日々支えられています。

つながりの中で、だんだん、自分の人間味、というか、心が豊かになってくる。反応にあたたかい血が通ってくる。

たぶん、この実感は、年を重ねるごとに、これから増えていくんじゃないかな。年とるごとにハッピーになっていくのかもしれない。

ありがたいことです。これは、みんなみんなのおかげです(^人^)。

★さて仏教の学校・土曜クラスは、年内ラストの講座~さとり(正しい理解) まで修了しました。

無常とか、空とか、慈悲喜捨とか――仏教にはいろんな大テーマがありますが、本質をふまえると、すべてみごとにつながっていることが見えたかと思います。

「八万四千」もあるといわれる仏教の思想のおおもとには、「正しい理解」(さとり)があります。これが仏教の最終ゴールにして、出発点、奥義です。

先週土曜に参加くださった方は、仏教のゴール、そしてこれからの学び・道の出発点をみた、と思ってください。あのプリントにいつも立ち返るとよいかと思います。

★さて、12月の日程がきまりましたので、お知らせします。

<通常クラス>
仏教の学校 秋④水曜クラス 「こんな自分」をぬけだす本当の方法 (輪廻思想の昔と今をよみとく) 
11月 27日 (水) 19:00 ~ 21:00  築地 ※会場は講座カレンダーでご確認ください。

仏教の学校 冬①水曜クラス 仏教がおしえる人生の最終ゴール~「さとり」(正しい理解)について
12月 11日 (水) 19:00 ~ 21:00  麻布

<仏教の学校2013年総集編>
★年内ラスト! 12月14日(土)はスペシャル企画2本立て。ふるってご参加ください。

☆季刊誌『興道の里』12月号のクリスマスプレゼントつき!

2013年総集編1 <仏教のきほん>総まとめ 
12月 14日 (土) 16:00 ~ 18:00  麻布

いよいよ年内ラストの月に突入! 一年をふりかえって反省すべきことは反省して、前向きな希望をもって新年を迎えよう。
①自分でふりかえる今年のプライベート十大ニュース、②「仏教のきほん」総まとめ~一年の講座をふりかえって発見・学んだことをシェア。③歳末御礼・くさなぎ龍瞬のミニ仏教講座、④なんでもQ&A(フリートーク)

2013年総集編2 マイテーマ(わたしの課題・宿題)を仏教で考える  ※マイテーマ募集中です
12月 14日 (土) 18:30 ~ 21:00  麻布
 
土曜午後の有意義な語らいにつづいて、夜の部に突入。全国から寄せられた「マイテーマ(私の人生の課題・宿題)」を仏教で考えるとどうなるか? 参加者の意 見を寄せ合って、ひとつの答え・方向をみちびきだす。毎年、クリスマスにふさわしいあたたかい空気に包まれる恒例行事。学びに満ちた楽しいひとときを一緒 にすごしませんか?


終了後、時間があるひとは食事でもご一緒しましょう。
そして、翌15日には龍瞬はインドに旅立ちます。

冬の星をみあげたら、インドの龍瞬を思い出してくださいね(☆v☆)(なんのこっちゃ)

ホンモノの道に立つ

こんにちは、草薙龍瞬です。

冬の空気のすがすがしいこと! 日本が世界に誇れる宝のひとつは、この春夏秋冬の鮮やかなうつろいでしょう。

☆今日は国立に行ってきたのですが、大通りから、雪冠を戴いた大きな富士山がくっきりと見えました。

インドから日本へ、日本からまたインドへ、さまざまな場所に移って、そのときどきの因縁(関係性)ゆえの美を目撃する。この日々は、そのまま旅のようなものです。

きっと、みなさんもそれぞれの旅をされているのでしょう。旅先の景色(つまり今日みているもの)をいとおしんであげようじゃないですか。

★さて、仏教の学校は、明日土曜日が、冬学期土曜クラスの1コマ目、「正しい理解」(さとり・正覚)がテーマです。仏教のいよいよゴールに近づいてきました。

年が明けると、単発テーマの学習会・講座に構成を変える予定です。つまり、仏教の学校としての通年のシリーズとしては、次回がファイナルになる可能性が高いということです。

水曜クラスは、秋学期第4回 「生まれ変わるための本当の方法 ~伝統仏教における輪廻論と合理的な輪廻論」が、来週27日(水)に。

そして、冬学期第1回 「正しい理解」が、12月11日(水)にあります。

そのあと、12月14日(土) 
①午後4時~6時   仏教の学校打ち上げ会PART1 おとなの寺子屋~ 
一年を振り返ってのざっくばらんな質疑応答と仏教講座
②午後6時半~9時  仏教の学校打ち上げ会PART2 
仏教で「マイテーマ」(課題・悩みごと)を考える ~ グループに分けてのワークショップ

で、2013年の興道の里仏教講座は、晴れて打ち上げとなります\(^▽^)/。

「こういう課題・悩みを仏教で考えるとどうなるのだろう?」というテーマがありましたら、ぜひお送りください。当日、一緒に考えてみたいと思います。

★さて、一年をふりかえって、何をお感じになるでしょうか。

じょじょに、心に軸のようなもの、礎(いしずえ)のようなものができてきたように感じるでしょうか。

一年、続けて通ってきてくれた人たちの中には、あきらかに、心に変化、というか何かしらの学びを重ねてこられたと、私のほうに伝わってくる人たちがいます。

そういうひとは、誠実に、「なにかを求めている」ひとたちのような気がします。

自分にはなにかが足りない、これから新しい自分へと踏み出していかなくてはいけない、という思いがはっきりとあって、
それがモチベーションになって、仏教を学んで、その知識・考え方と、自分の今を照らし合わせて、組み合わせて、なにかしらの変化を得る、ということをまじめにされています。

すごいな、と感銘を受けます。

その一方で、やはり私たち人間は弱いもので、どうしてもこれまでの自分をそのまま続けようとしてしまう、今の自分にしがみついてしまう場合もやっぱりあって、
たとえば、知識だけを追いかけ続けたり、自分の慢心・プライドをどうしても引きずって、それがゆえに動揺したりして、これまでと同じパターンの失敗をしてしまったり、というのもあります。

もちろん、それはそれで自然なことだと思うのです。ひとは、行ったり戻ったり。多くは、一歩進んでまた下がって、二歩進んだと持ったら三歩下がってしまったり、と、なかなか本当に「一歩前に」進むことというのは、難しいものだと思うのです。

心というのは、現状維持、あるいは後退するほうを望む、妙な性格があるらしい。
だから、ほんとに前に進んだ、と思えることは、多くの人生、長い人生のなかで、そうそうあるものではないのかもしれません。

学ぶというのは、ときにしんどい。学ぶというのは、ときに痛みをともなう。
だって、自分自身を作り替えていくことなのだから。自然ですよね。

でもそういうしんどさ、痛みを引き受けてなお前に進もうとする。
ほんとの成長、心の強さというのは、そういう「心がけ」を持ったときに、はじめて可能になるような気もするのですが、いかがでしょうか。

だから、学ぶことを、捨てないことです。途中で降りないこと。

「いついつまでに」、何かにたどりつく、何かを手に入れる、という欲で発想しているかぎりは、ものごとは成し遂げられない、というのは法則のようなものなのかもしれません。

そうではなくて、どんなに時間がかかってもいいから、何年かかってもいいから、とにかくわたしは今これをやるのだ、学ぶのだ、つづけていくのだ、というホンモノの動機に立たなくちゃいけないんだと思うのです。

道というのは、そういうものではないでしょうか。

ホンモノの道に立ちたいものです。
そう思いませんか?


P.S. ちなみに、、、草薙龍瞬が、なんとか、やっとこさ、仏教という道に立って、仏教という生き方をひとさまと分かち合えるようになるまでに、何年かかったと思いますか?

「40年」です――2歳で生き方を言葉で探し始めてから。

(だから、他の世界の方々の尊さも分かる気がするのです。道の難しさも。) 歩くこと。

       

興道の里の会、いよいよスタート!

こんにちは、くさなぎ龍瞬です。
いよいよ年末が近づいてきた気配がありますね。

★興道の里の仏教講座に1年通ってきてくださった皆さまには、本当にありがとう。

20代から90代まで、仏教というひとつの思想・生き方を真面目に学んでくれるひとたちがいる――。

それを目の当たりにするだけで、とてもありがたく思います。そこにはたしかに、新しい出会いがあり、新しい価値の創造があり、お互いの心の成長・深化(深まり)があります。

年が明ければ、仏教講座もリニューアルして、さらなる深みへと入っていきます(日本仏教講座も登場!)。

そして、新しい人たちに向けての入門講座も始めたいと思っています。

まずは、仏教の“本質”をつかむことだと思います。それは、どの宗派や伝統でもなく。

必要なのは、今ある、さまざまな種類の仏教の、最も根底にある共通の教え、“本質”部分なのです。

たとえば、慈悲喜捨という4種類の“心の働かせ方”。あるいは、
生まれてしまったよからぬ心の反応(いわゆる「煩悩」)を洗い流す方法。

最もシンプルで、クセがなく、とにかくわかりやすくて、日常生活に活かせる「しあわせのための方法」――そういう実用的な視点で、仏教を紹介していきます。

とりあげるのは、海外の仏教(テーラワーダ)も、日本に伝わる大乗仏教も。最も古い仏教も、最新の仏教も。しかも、宗教としてではなく、実用的な「生き方」として。信じるのではなく、自然に活かせる「考え方」として。仏教は面白いですよ。

★さて、<興道の里の会>をいよいよスタートします。

最終ゴールは、学校のような、お寺のような、生き方を学ぶ場所<興道の里>をつくること。

最初は、季刊誌(ほぼ月刊)『興道の里』を全国に配信して、みなさんとのコミュニケーションをとるところからスタートします。

季刊誌は、コンパクトな、手作りの雑誌(リーフレット式の読み物)です。

これまで、仏教のことをもっと深くていねいに伝えていきたいし、みなさんからのお便りのフォローや質問などにも答えていきたいと思ってきました。

私自身の思いを、本やブログという枠にとらわれないで、応援してくださる方々に、遠慮しないでざっくばらんに伝えていきたいという願いもありました。

そこで、季刊誌を発行して、それを通じて、つながりの輪を広げてゆきたいと考えました。

とりあえず、<十月創刊号>を手にとってご覧ください。

教室では、すでにお配りしています。まだ手にしていない方は、ひとまずお名前と「見本希望」と書いて空メールを送ってください(連絡先は記入不要です。こちらから案内をメールでお届けしますので、そのあと送付先をご連絡ください)。

★この季刊誌を、興道の里のプラットフォームにしたいと思っています。コミュニケーションの土台、活動の軸として育てていきます。

購読してくださる方は、興道の里の会員としておもてなしいたします。もちろん入退会は自由です。

興道の里そして草薙龍瞬の活動は、“宗教”的なものではありません。「信じる」ことを求めませんし、特定の思想を「広めよう」と努めることもありません。

そんなことより、もっと大切なことがあると思うのです――それは、あなた自身が、今生きているその場所で、納得のいく、満足できる、幸せを感じられる生活・こころを作ることです。

そのために、もし仏教が役に立つのであれば、ぜひ活かしてほしい。そんなひらかれた思いで活動しています。

仏教を自分自身の人生・暮らしに役立てたい方、
草薙龍瞬の活動を応援してあげようという方、書き下ろしの文章&漫画をよみたい方など、だれでも自由にご購読いただけます。

なるべく毎月がんばってお送りしますので、ぜひお楽しみください。
生きてまいりましょう!

 季刊誌『興道の里』のコンテンツ 
 
 
 仏教講座 
●仏教の本質をわかりやすく解説する〈仏教のエッセンス〉  ●古代インドの仏典を翻訳&解説する〈ブッダの言葉〉。  ●東アジア・日本に伝わる大乗仏教の魅力と名僧たちの生き方を伝える〈大乗仏教ものがたり〉 ●世間の話題を仏教で考える〈寺子屋トーク〉など

 おたより&質問コーナー 
●「あなたの身の回りのできごと・感想・質問などお気軽にお寄せ下さい。
●「答えが見つからなくて困っている」ことがあったらメール・手紙でお送り下さい。仏教で一緒に考えましょう。(※プライバシーは厳守します)

 龍瞬が今思うこと 
●巻頭言~ちょっとまじめな仏教的メッセージ  ●ブログ「龍瞬、日本をゆく」ピックアップ  ●はみだしコラム(龍瞬のつぶやき)など

 インドの話 
●エッセイ「龍瞬、インドをゆく」  ●“仏教で新しいインド社会をつくろう”NGO〈GDIA〉の活動  

 漫画『サマネン』 
●くさなぎ龍瞬かきおろしの漫画エッセイ。4コマも1ページ読みきりも。修行編・どうぶつ編・現代社会編といくつかのパートに分かれています。お楽しみに!
(★おもしろい話題を募集します! 日常で笑えたできごとやちょっと変わった出来事があったら、お気軽に里までお送り下さい!)

みなさんからのお便りの送付先(まずはメールで): kusanagiryushun@gmail.com

尊敬すべきひとたち

10月25日
今日はNHK学園で仏教講座。ひさびさに受講生の方全員が集まった。

朝から雨が降っていて、台風も来ているという最中、どれくらい集まるかな、とちょっと心配だった。

特に八〇になられるご婦人は、若干足をいためておられるので、雨が降ると来るのが難しくなる。
でも、今日も来てくれた。迎える他のご婦人たちも楽しそうだった。

こういう冷たい空気が混じりだす秋の日に、ひとつの場所に会せる幸せを思う。

これがひとりで部屋に閉じこもっていたら、やっぱり気持ちは下がってしまうだろう。
今日は教室でみなに会えるからいかなきゃ、と思えると、心の張りはずいぶんちがってくるだろう。

私自身がこの教室を楽しみにしている。

みな、人生の大先輩である。
そして仏教を学ぶ仲間である。

新しい人も最近加わった。賑やかしくて、楽しそうに座っておられる様子をみるとこちらも気分が明るくなる。

この場所では、囲碁教室が一番人気だそうだが、この仏教講座も、同じくらいの和やかさに満ちているのではないか。

日本中で、たぶんこういう明るい雰囲気のなか仏教を学びたがっている人は多いだろうと思う。

100でも、1000でも、こういう場所が増えていけばいいなあと夢想する。

「楽しく学んでます」と言ってくれるのが一番幸せである。

幸せな日でありました。

冷たい雨の夜に

今日は、一日中冷たい雨が降り続けていたね。

急に、日の量も減った感じ。いよいよ寒さが増していくのかな。

これからの季節、苦手、ツライというひとは多いでしょう。夏型(?)の龍瞬も、あんまり得意とはいえません(つまり夏みたいに自然に元気がジェネレート(発電)されないって感じ(笑))。

今日は、仕事がなかったので(出家というのは、平日とか土日とかあんまり関係なく仕事があるのだけど)、自宅でゆっくりと本を読んでました。

仏教書と、小説と、漫画を主にチェックしてます。どれも、自身の表現・活動に必要、あるいは活かせるかな、という意図で読んでます。

仏教書が必要というのは、講座のテキストを作ったり、話の参考にしたり、原稿の素材にしたりするため。

漫画は、教室にきてる人は知っていると思うけど、たとえば季刊誌(今月から配信)に盛り込むため(4コマのネタになりそうな話があったら、ぜひメールで送ってくださいね)。

小説は、「緻密な表現」というものを学ぶために、今意識して読んでます。文学というのは、書き手にもよるけど、意識の流れというものをことごとく言葉で埋めていくかのように描写するところに特徴がある気がする。わたしは、結構、表現をはしょってしまったり、理屈で片付けてしまうところがあると自覚しているので(その結果、他人が読むと考えをたどることができなくて、わかりにくい文章になってしまう)、もっともっとていねいに、緻密に、自らの思考の軌跡を言葉で埋めるように表現していかなきゃ、という思いで読んでます。

「ここまで言葉にするか~~~」とその緻密さと表現の巧さに今嘆息しているのが、じつは夏目漱石です。綿矢りささんの「蹴りたい背中」も今読んでます。あのセリフや描写って、たぶん坊主(またはおじさん)が黙読したって永久に分からないんじゃないだろうか、、、と妙な距離を感じつつ。

言葉というのは、考えるままを、素直に、出していかないと、ひとには届かないものなのかもしれないね。

もっともっと、誰かの心に届く、つながることのできる、味わいのある(仏教的な)文章をつむいでいくのが目標です。

こんな寒い夜、明日、炊き出しで会うホームレスのみんなは、どこでどんな思いで過ごしているのかな、と考えたりします。

みんなのことを想うと、不思議なんだけど、ちょっと胸があったかくなったりするんだよね。
面白いね。
 

相談「家族が宗教にハマッてしまいました」という十代の学生さんへ

(あくまで一般論として考えてみますね・・・・)

これはね、、、難かしいね。宗教にハマるというのは、そのひとにとっては「絶対」の信仰だからね。たとえ周りがおかしいと口うるさく言っても、力づくで止めようとしても、その宗教が世の中に大迷惑というか害悪さえ流してしまっているとしても、本人にとってはまったくそのことが理解できない。もう完全に信じきってしまっているから、その信じている内容のおかしさがもう見えない。むしろ、周りの人たちのいうこと、リアクションこそが攻撃、弾圧で、自分が信じてるものの正しさを証明している、、、というくらいの発想をしてしまう。

「なにを言っても伝わらない」くらいに理解しておく必要があるんじゃないかな。「止めよう」「変えよう」としてもかなり難かしい。ひとの心というのは、もともと外からはいいも悪いも判断できない領域にあるもの、というくらいに思っておいたほうがいいかもしれないね。

で、その上で、どう向き合えばいいか、考えてみようか。

まずは、どんなに奇矯な、ヘンてこな行動や言葉をそのひとがしているとしても、そのひとはそれで真剣なのだから、否定しないこと。間違っていると判断しないこと。どんな相手でも、敬意をもって向き合うこと。それは鉄則だと思う。

●そして、相手のいうことを、「正しく理解する」ことを心がけてみよう。

相手の心をただ、ありのままに、正確に、理解してあげようと努める。

たとえば、そのひと(家族・親)にも、やっぱり苦悩とか満たされなさのようなものがあったのかもしれない。それは過去の出来事なのか、あるいは今の仕事や家族関係なのか、それ以外の何かなのか、、、。

ひとの心には、喜びと悲しみとが両方ある。たぶん宗教にすがるひとというのは、それぞれに悲しみと言い表せる感情があり、その感情を生み出している理由がある。それは過去の出来事だったり人間関係だったり、いつのまにか学習して身にしみこませてしまった思いこみ(判断とか価値観とか)だったりする。

その悲しみの原因、そして今のそのひとの心というのは、向き合うあなたにとっては、わかることもあるだろうし、まったくわからないこともあるだろうと思う。

ただ、ひとというのは、必ず何かを感じて、考えて、そこに満たされなさ、虚しさ、辛さといった感情があるから、救われるために「宗教」と呼ばれるものを求めているところがある。その心のありようを、ありのままに、見つめてあげてほしい。「理解する」こと。

家族が、勧誘してくるって? 行事に誘ったり、手伝わさせたりする?

まだ十代ということなら、抵抗するのは難かしいかもしれない。大変だろうと思う。

●宗教にハマッてしまったひとに向き合うときは、もうひとつの基本がある。

それは、「ああこのひとは妄想に浸かってしまっているんだ」と理解すること。

相手は、妄想という心の中の、想像・物語・教義・世界観と俗に呼ばれる、現象にどっぷり浸かって、その状態に気がつかない。

ふつうの状態なら、「この思い(外から見れば妄想)を外に出したらヘンだと思われるだろうな」と考えることができる。それを分別とか良識とか理性と呼ぶ。

でも、妄想に100%浸かってしまったひとは、その理性や客観的な認識というものがもう尽きてしまってる。だから自分の姿を客観的に見ることができない。自分でヘンになっちゃってることがわからない。

これはちょっと困った状態だと思うかもしれないけど、人間というのは、およそ全員、ほぼ一日の9割方は妄想していると思っていい。ただその妄想を口に出したり、行動に移したりしたときの、外のリアクションを考えるという理性が残ってる。だからみな妄想をそのまま外に表すことはない。それでいちおう「まとも」だと思われている。でも、心の状態は、宗教にハマっているか否かを問わず、たいてい「妄想漬け」なんだ。

宗教にハマッてしまったひとに向き合うには、「妄想してるんだね」と理解してあげること。そう理解できれば、ちょっと距離を置けるんじゃないかな。大切なのは、その妄想に自分が取り込まれない(感染しないともいえるかな)ことだから。

もし相手が信じている宗教を、「おかしい」「目を覚まさせてやる」と意気込んでしまえば、それがこちらの「反応」ということになる。「反応」すると、それだけで取り込まれてしまうと思っていい。「反対」という反応がきっかけで、やがて「盲信」という受容に変わってしまうことはよくある。自分自身が、相手の妄想にいいとも悪いとも「反応しない」ことが、心の自由を守る防御線になると思っておいてください。

相手の妄想は、そのまま妄想として理解してあげること。あなたはまだ十代で、まだ当分家族と一緒に暮らさなければいけない様子だから、まずは自分の心が妄想に取り込まれないように、正しい向き合い方を決めておこう。


●宗教というものに向き合うとき、たぶん次の三つのチェックリスト(視点)が有効だろうと私は思ってる。

一、その相手の方向性――何をめざしているのか。ゴールはどこにあるのか。


それが、家族の健康とか、豊かさとか、幸せ、だというなら、それ自体は否定してもしようがない。もし達成できるなら、それはそれでよし、じゃないかな。

ただその方向性が、俗にある、信者数を増やすとか、何かを買わせるとか、信じない外の人たちを否定するとか、そういうものなら、その宗教はやっぱりおかしい。目的が正しくない。

 「それは方向性がちがうんじゃないの?」と聞いてみることはできるかもしれない。「ぼくはちがうと思う」とはっきり伝えることも正しい態度だと思う(相手を否定するのではなく、自分の立場を伝える。誠意をもって)。

二、その相手の方法――その方向性にたどり着くために、何をしようとしているのか?
 多くの「宗教」とよばれる思想は、ここで間違う。品物を売りつけたり、ヘンな儀式やらおまじないやらイベントやらに走って、参加している人たちは大満足、外から見たら奇異でしかない、ということがよく起こる。

 なぜかというと、ひとつの理由は、やっぱり多くの宗教は、「妄想」でできているからだろうとぼくは思ってる。たいていは、誰かを特別視する(させる)、あるいはその欲望(承認・賞賛を求める欲や、色や財を求める欲)を満たすという動機があって、その動機をうまいこと物語に仕立てて、それを「教義」としている。

 こういう宗教というのは、動機そのものは、じつに人間くさい欲望や妄想でありながら、語る言葉は、一見誰かの幸せや健康、豊かさといったもので彩られている。

 心に何かしらの満たされなさを抱えた人たちは、その言葉上の幸せや豊かさといった価値に反応して、希望をみて、その語られる物語を信じようとしてしまう。その結果の宗教だ。たいていの人たちは、その宗教を語る側の「動機」が見えない。みな自分の苦しみ・悩みで精一杯だから。

 あなたは、おそらくその宗教が持っているほんとの「動機」に感づいているように聞こえる。あなたの苦悩は、家族が、その動機のおかしさに気がつかないで、ますますハマっているように見えることだね。つらいよね。これは苦しい状況だよね。

 彼らがやろうとしている「方法」が、ほんとうに、めざす方向性に沿うものなのか。そこも正しく見ることだろうと思うし、もし会話ができるくらいの関係であるならば、「そのやってることで、本当にそのめざすもの(方向性)は実現できるの?」と聞いてみてもいいかもしれない。「ぼくはムリだと思うけど」と伝えることは可能かもしれない。

三、その相手の行いをみること――「行い」というのは、けっして誰かに嫌な思いをさせてはいけない。誰かに不快な思いをさせるとしたら、もうそれは正しい行いとはいえない。

 よく、宗教の世界には、相手を「分からせる」ためにいろんなことをしようとする人たちがいる。彼らは、分からせるために、いろんな理論や儀式や行動を編み出して、とにかく、自分たちと同じものを信じていない人間たちを、信じさせようと血眼になる(そこが宗教の厄介さ・怖さとして他人には映ることになる)。

 何を信じるのも、何をめざすのも、何をするのも、彼らのテリトリーにとどまるならば、それはそのままにしてあげるべきだろうと思う。それは、思想の自由であり、信仰の自由。人間というのは、ひとりでは幸せになれない・満たされることのできない生き物なのかもしれない。ふつうに生きてきて、働いて、家族をもって、どれも自分とはちがうものであるという現実のなかで、ひとは、やっぱり心にすきま風というか、満たされなさというか、淋しさのようなものは感じてしまうものだろうと思う。ひとはそんなに簡単に幸せになれるものじゃない。むしろ、多くの人が、宗教にはハマらないまでも、心のどこかに空洞を抱えて生きているのかもしれない。

 そういう、すごく自然な日常の中にいる人間が、宗教という名の、ひとつの思想――何を信じればいいか、何をめざせばいいか、何を日々すればいいか、ひとつひとつ具体的に、力強く、希望に満ちた言葉で指示してくれるもの――がひょんなきっかけで見つかったときに、そこに惹かれていくのはやむをえない、というかそれも自然なことなのかもしれない。

 あなたのそばにいる家族もまた、そういうひとたちと同じ状況にあったのかもしれない。そのことは、理解してあげてほしいような気がする。けして、宗教にハマったからといって、それだけでそのひとが悪人になったわけでもなんでもない。たぶんふつうに話を聞けば、ふつうに話ができる人なのかもしれない。

 ぼくは、仕事柄、いろんな宗教の人たちと会うし話もするけれども、別にヘンな人たちだとは思わない。もちろん思い込みが激しかったり、ヘンなところにこだわったり、ちょっと普通の(つまり宗教を持たない)人とはちがう行動をしているところもあるけれども、まあ、それだけで誰かに迷惑がかかっているわけではない。

 仏教の世界にも、いろんな宗派とか、最近だと宗派から派生した在家の団体さんとかがあるけれども、みなそれぞれに一生懸命何かに打ち込んでいる。それで彼らの生活がととのい、心が落ち着いて、何かよりどころを得られているのだとしたら、それはそれでよいのだろうとぼくは思ってる。

 ただ――もし、その行動が、宗教をもたない人との関わりにおいて、トラブルを起こしたり、誰かを苦しめたりするようなことになれば、それは、その行いのレベルにおいて、間違っているといっていいと思う。信仰そのものが間違っていると判断する必要はなくて、ただ行いのレベルで問題があるよ、ということなのだろうと思う。

 行いの正しさというのは、いつも、他者との関わりにおいて決まること。

 宗教の正しさというのは、つねに、宗教を信じない人との関わりにおいて決まるといっていい。

 信じない人に迷惑がかかるような行いは、間違いだ。もしあなたがその点で、ほんとうに迷惑を被っているとしたら、まずは、断りの意志を表すことだろうと思う。「それはぼくには必要ない」という立場にはっきり立っていい。

 もしそれでも、尊重してもらえずに、執拗に、心そのものに踏み込んでくるようなことがあれば、それは世俗のレベルで対応していいのではないかな。これは想定にしかすぎないけれども、児童を保護する制度・法律というのがある。学校とか、警察とか、「こういうことで困っている」ということを外に伝えること。

 宗教に呑まれないには、宗教を信じていない世俗の世界に答えを求めることが正解かもしれない。

 ――どれだけ役に立っているか、心もとないけれど、ひとつの考え方として受け止めてほしい。どういう距離、どういう関わり方が、自分にとって一番正解なのか、かならず落としどころはあるはずだから、希望をもって、考えてみてほしいと思う。


●最後に、ひとつ、ぼくは僧侶だから、僧侶としての、宗教や仏教と呼ばれているものへの考えを伝えさせてほしいと思う。あなたが今後、宗教と呼ばれるものにどう向き合うかについて、もしかしたら活かせるところもあるかもしれない――。

 ほんとうの幸せというのは、妄想はいらない、と思ってる。

 何かを信じるとか、だれ・どこの教えこそが正しいとかいうのは、どこか勘違いしているとぼくは思っている。

 たいていの宗教には、人間が作り出した妄想がいっぱい混じっている。伝える側にも妄想があるし、信じる側にも妄想がある。妄想と妄想とでつながって、その妄想に、妄想外の人間を取り込もうとしてがんばっている。

 でも、結局それは妄想にすぎない。妄想だけじゃ、ほんとは、究極のところ、人間は救われないんじゃないかな。妄想にすがりついて、ひとは何をしていると思う? 結局、何かを売ったり、ひとを増やそうとしたり、互いのことを批判したり見下したり争ったりして、誰かの苦しみを促しているところがあるのではないだろうか。

 妄想にすがらなくては、今の現実の苦しみから逃れられないひとも、たしかにたくさんいるだろう。

 でも、妄想にすがらなくても、ほんとうは苦しみから逃れることはできるかもしれないし、世の中には、妄想にたよらなくても、苦しみに負けないで、りっぱに、つよく、やさしく、つつしみをたもって、一生懸命生きているひとがいる。いっぱい、いる。

 そういう、ほんとうにつよい人たちのことを、いつもあたまにおいておいてほしい。世の中には、そういうほんとうに立派な人たちがたくさんいるから。

 宗教というのは、厄介なようで、ときに崇高にみえたり、深淵にみえたりするけれども、やっぱり人間が生み出したもので、妄想やら我欲やらがちゃっかりと混じり込んでいる。すっごく小さなもの。人間的なもの。

 だから、宗教というものに、あんまりとらわれなくてもいいのかもしれない。宗教のないところで、ひとはちゃんと生きられるから。

 あなたもそのひとりだろうし、世の中にはそういうひとがたくさんいる。

 家族がそういう人たちに戻っていくかは、これからの話。戻っていくかもしれないし、もしかしたらずっと、その見つけたものを信じて、生きていくのかもしれない。それはその家族の人生だから。それはそれでしようがない、というか、それはそれでいい。

 大切なのは、あなた自身が、いろんな人間がこれからもくりだしてくるだろう妄想の数々に、下手に絡めとられないで、ただ、もしかかわらざるをえない状況においては、ただ「理解する」ことに努め、ひとはひととして、そして自分は自分として、自分は自分のしあわせのために、しっかりと自分の人生を生きていくこと、自分を大切にすること、そういうことなのだろうと思う。

 世の中は広いし、
 幸せはひとの数だけある。
 幸せへの方法もひとの数だけある。

 あなたにとってもっとも良いと思える「方法」を探していってほしい。

 また一緒に考えましょう。


里の仏教講座もいよいよ実りの秋?

こんにちは、草薙龍瞬です。

関東地方のひとは、台風と冷たい空気に、秋の深まりを感じていることでしょう。

この季節は街が冷え込んでいく時期。でも、空気の冷たさも、雨のうるおいも、この季節ならではの風情があって、けっこう楽しみが溢れていますよね。

夜寝るときの布団のぬくぬく感も、あったかい飲み物をとる瞬間も、なんだかしあわせ~な感じがしないでしょうか。

こういう楽しみは、季節の陰影に富む日本ならではのもの(タイやインドではけして味わえない)。満喫したいと思っています。

✩さて、10月の仏教講座ですが、以下のラインアップでお届けします。

特にきたる18日は、企業研修で使っているワークシートのダイジェスト版を使って、「働くひとのためのタイプ別の悩み解消法」をまとめてみたいと思います。

ビジネスに仏教をどう活かすか?という問題意識をもっているひとは、ぜひ参加してみてください。
管理職やカウンセラー的立場にある人には特に役に立つかもしれません。

(※会場は、カレンダーでご確認ください。)

はたらくことがラクになるこんな考え方  ビジネスマンのための実用仏教講座
10月 18日 (金), 19:00 ~ 21:00  四谷

✩ 仕事に迷い・悩みはつきもの・・・・・・問題は、なぜ悩んでいるのかよくわからない、これからどうすればいいか答えがみつからないこと。ほんとうは、どん な悩みにも「この順序で考えていけば必ず答えがみつかる」という「考え方の道すじ」がある。その道すじさえ分かれば、どんな悩みや迷いにも必ず前向きに立ち向かっていける――。

✩今回は、はたらく男女のみなさんへ、仕事・キャリア設計にすぐに役立つ仏教的な「考え方」を紹介。内容は、
①ワークシートで 自分の悩み・迷いの「正体」を知る~企業研修で使用している自己分析シートを使って、今抱えているストレス、もやもや、悩みの原因をさぐる。
②シェアリン グ~ムリのない範囲で今自分が直面している悩み・課題をグループでシェアする。
③悩み・迷いをあっという間に解決するこんな考え方 ~「こういう悩みには こう考えて乗り越えよう」という仏教的な発想・考え方を整理する。
④質疑応答~最後に質問・感想を語り合う。

座禅エクササイズ 高円寺
10月 19日 (土) 18:30 ~ 21:00  ✩18:30からは初めての人向けのガイダンス。2回目以降の人は、18:30からでも19:00からでもかまいません。

「正しい集中」 仏教の学校秋クラス③  ※26日は築地です。ご注意ください。

①水曜クラス 10月 23日 (水) 19:00 ~ 21:00 四谷

②土曜クラス 10月 26日 (土) 19:00 ~ 21:00 築地


✩仏教の学校秋クラス第3回は、八正道の「正定」(しょうじょう:正しい集中)です。

これまでも聞いたことがあると思いますが、この場所ではいっそう突っ込んで、仏教心理学の知識や、修行で体験する境地の描写などを引いて、実際の「集中」とはどういう状態なのか、そこに至るにはどうすればいいのか(集中のコツ)などを、掘り下げてみたいと思います。

秋クラスのテーマは、戒・定・慧のうちの「定」です。心を定める・落ち着かせる方法。
これまで、禅の境地(正念)と、正しい努力(正精進)というテーマでまとめましたね。残るは、正定です。

そして冬クラスの大テーマ「正しい理解」(さとり)をもって、これまで一年かけてやってきた仏教の本質の大枠は完結します。ぐるり、と回った感じになります。

このあたりで、この一年を振り返って、
自分にとって仏教とはどういうものか、
どれくらい見えてきているか、
これからの人生に仏教をどのように活かしていくか(「道」として伸ばしていくか否かの“選択”も含め)、を考え始めるのもよいかと思います。

いちおう「第1期」のまとめとして、昨年同様にワークショップを開催できないかと考えています。

ともあれ、仏教に出会い、学んできたことを誇りに思ってくださいね。
ひとは一人の力では道を成就することはむずかしい。仏教という土壌があって、はじめて人生という名の道がさだまるのだと思います。
そういう実感をもってくれる人がいてくれたら、今年の仏教の学校は大成功といえるでしょう。

もうひと踏ん張り!^^)。では教室で!

旅情づくしの名古屋ゆき

こんにちは、くさなぎ龍瞬です。

✩明日10月9日からまた仏教の学校がスタートです。
おそらく12月半ばからインドに長期出張になる気配があります。

私の中では、ココまでは伝えておきたいという輪郭があります。そこまでなんとかいきたいと思う。最後は「さとり」とは何だろう、というテーマになることでしょう。

もちろん語り尽くせぬ部分のほうが多く(ほとんど)残るのだろうけれど、それでもかなり仏教の「本質」を突(つつ)いてきたように思っています。「本質」を私たちそれぞれが日常において「実践」していくことで、「深さ」を実感できるようになる。実践と深さの実感はひとそれぞれだろうけれど、ともかく「本質」部分を残りの時間もこだわって伝えていけたらと思っています。

とにかく歳末の冬の最後の授業まで、今の調子と雰囲気でやっていきたいと思ってます。ぜひみんなも頑張ってください!^^

✩10月6日(土)の名古屋での初ライブは盛況でした。熱心に質問してくれる方が多くて、私も進行がラクでした。
その模様も、季刊誌のなかで紹介したいと思います。

できれば、東京のように定期的に開いて、徐々にもっとディープな話をしていければという願いがあります。

やっぱり、ひとつの思考法や視点というものを、心に定着させるには、「継続」が大事になるので。
この点、大学の授業なんかは、3ヶ月、半年単位で組み立てられています。この継続性にはやっぱり理由があります。

定期的に通って、その場の空気に触れて、考えて、また日常に帰ってそこで熟成させて、、、ということを繰り返す。そうしてはじめて、じわじわと心に変化が生じてくる。

もし、仏教のみならず、何かを学んでいて、「身についていない」「わかったという実感がない」というひとがいたら、「ルーティン」(これを繰り返すという作業のリストアップ)と、一定期間の「継続」という視点を意識して、「何曜日はこれをやる」という、習得のタイムテーブルを組んでみてはいかがでしょう。

✩名古屋のライブが終わって、夜は三重松阪へ。こちらは勉強会というより、もう、同好会というか、いいお友達会という感じです。

みんな仲が良くて、付き合いも長くて、しかもそれぞれに仏心(ぶっしん)というか、まじめに話せるところもあって、毎回とても楽しい思いをさせてもらっています。

夜泊めてもらった○○ホテルが快適でした。今は安くてサービスのよいホテルがあるのですねえ。そして明日また次の場所へ、、、という形で移動できたら、旅情も味わえるしライブもできるし最高です。徐々にそういう活動ができるようになっていったらいいな。

行くときも、道中も、帰るときも、たくさんの旅情を味わってきました。昔は旅=居場所(自分)さがし、という感じでしたが、今はどこにいっても居場所があります。生きてみるものです。

出張ライブ、大歓迎です。どうぞほかの場所のみなさんも、ご企画たてて龍瞬をお招きくださいね。

またおたよりします。
草薙龍瞬

帰国のお知らせ^^)

9月27日

日本のみなさん、こんにちは、くさなぎ龍瞬です。
昨日午後に、日本に到着しました。

今回は、ウダサ村にて30軒への無料配給いよいよスタート、
そしてバンガロールにて数ある仏教徒NGOの幹部と会合。

チェンナイやラダックの仏教徒ともネットワークができました。

目の前の泥水がみるみる透明になっていく、
日本ポリグル社の浄化剤はインドでもかなりの反響です。

今朝、小田先生から連絡があって、安倍首相の国連演説で、ポリグル社の活動がとりあげられたとか。

インドでは、Pure Metta For Society (純粋な慈しみ(≒水)を世の中へ)というキャッチコピーで、今後もエネルギッシュに展開していく予定です。

きれいな水を配るだけでなく、そこに友愛や敬意、思いやりといったさまざまなメッセージをこめてゆくのです。

利益の4分の1を社会活動に使うこと、というQuater For Society Rule(お願いして契約書に入れてもらったもの)を最初から盛り込んでの展開です。

こういうタイプのBOPビジネス(営利と雇用のみならず社会利益の追求を最初からビルトインした途上国ビジネス)は、世界でも初めてかもしれません。

仏教を現実改善に活かす、という私たちの目的を、これほど体現してくれるプロジェクトはなかなか創れないんじゃないかな

私は、小田先生のご活動を支え、インド仏教徒に慈愛のメッセージを送っていきます。

日本とインドとは、まったく別の星みたいなもんです。わずか二週間ですが、かなり歳月が経っちゃった感じで戻ってきました。

10月からまた仏教を学んでいきます。みんなも来られる時にはぜひ来てくださいね。

ただいま龍瞬より

もう迷わない――そのために

こんにちは、草薙龍瞬です。

まだ夏が頑張っているようですが、
秋の訪れにはあらがいようがないらしく・・・土用波(どようなみ: 夏の終わりにどっぱーんと岩をたたいて引くあの波)のような日の気配をこのところ感じています。

私としては、あと2、3週間はド夏気分を味わっていたいのですが・・・なんだか今年の夏は短かったような気がしているのですが、みなさんはいかがでしょう。

仏教の学校は、いよいよ秋学期に突入です。今度は禅の境地や時間論など、また面白いテーマが出てきそうです。

ここまで仏教を学び続けてきた人は、ぜひ誇りに思ってください。
この半年を振り返っても、それまで自分の中には存在しなかった、さまざまな視点・考え方に触れたはずです。

それは、劇的に何かが変わった!という感じにはまだならないかもしれませんが、しかし、ないのとあるのとでは全然ちがう。

経験した、という事実を誇りに思いましょう。経験し続けること、学び続けること――「道のひと」というのは、そうやってできていくのだと思います。ただ無自覚に生きているのとは、ちがう人生がすでに始まっている。

仏教というのは、よしと思える生き方を作るための基礎工事です。何度も重ねて、自分という人格の足もとを見つめて、掘り起こして、新しい視点・発想を埋め込んでいく。
時間をかけて、じっくりと築いていくのです。

どこまでやれば「道が完成する」なんていうのは、ありえない。それはじつに浅はかな見方だと思います。
知識をただ増やす(「その言葉は聞いたことがある、もう知っている」)、というのもおかしな発想。自分の考えのクセはそのままに、ただ知識だけでアタマをふくらませて、何か学んでいるかのような気になってしまっているのでは。それも違います。

何度も何度も何度も、繰り返し心におさめて、念じて、とことん考えて、自分の発想そのものにしていく。(心は瞬時に入れ替わっているのだから、「同じ知識」というのは本当はないのです。)

自分の心にその言葉・考え方が定着してきたら、ではそれをひととの関係・日常場面でどう活かすかを考える。活かせるようにがんばってみる。「応用」までやりぬくところに本当の面白さがある。

(生活にマンネリを感じているひと、新しい世界に飛び込んでみては?)

これは一生の仕事。どこまでやれば終わりなんていうものではなく。

人生終わるまで育てていくぞ、考えていくぞ、という心がまえに立ったとき、はじめて「道」が心の中に生まれて、迷わなくなるのだろうと思います。

ちなみに今の私には迷いはありません(四十年かかりましたけど)。
死ぬまでこの道を歩いていけばいい(外れなければいい)、という思いがあるから。
ゆっくりでいいのです。

一生この道をゆく、という覚悟が「あったりまえ」になったひとを「道のひと」というのでしょう。不動心。これこそが最上の安心立命。

道は無窮なり(道に終わりはない)――という道元禅師の言葉は、至言です。
 

夏の終わりを惜しむ会

こんにちは、くさなぎ龍瞬です。

24日(土)の仏教の学校に参加されたみなさんは、「半沢直樹」の生き方をどう受け止めたでしょうか・・・。

講座の中で最後に指摘した、「半沢が本当はすべきであったこと」というのは、多くのひとにとってはオドロキの「盲点」だったのじゃないかな。

聞けばああそうか!と思う。だけど、聞くまでは思いつかない・・・そういう大きな、語られざる盲点というのが、あの物語にはあるように思います。

もちろん、ただのテレビドラマ、小説なのだけど、、、ただ話題になってるということは、面白さ=快楽を感じている人がそれだけ多いということを意味するわけで・・・その背景には、真面目に考えてみるべきテーマが横たわっているように思います。

やられたときの返しかた、というのが今の時代は見えなくなってきているような気がします。

日本とほかのアジア諸国との関係についてもそうだし、仏像を盗まれてしまった長崎のお寺の韓国への対応ぶりもそうだし、
大久保のヘイトスピーチもそうだし、ミャンマーでイスラム教徒への襲撃を扇動している仏教長老の考え方もそう・・・。

「やり返す」のは簡単なんです。そして、ひとは、やり返すことを仕事や人生の動機にしてしまうところがある。それを快楽だと感じてしまう・・・。

でも、それは正義でも善でもないんです。半沢直樹の「敵」がどれだけ憎たらしい人間でも、それに対してやり返すだけの人間は、善でも正義でもない。

テレビドラマの半沢は設定がけっこう変わっているようだけどね、、、原作をみるかぎり、半沢直樹は善でも正義でもないみたい。

ただ今の時代、何が善なのか、何が正義になるのか、ストレートに指摘できる人間、ほんとは何をすべきなのかを教えてくれる”思想”というのが消えつつあるのかもしれない。

みなさんの中で、仏教を自分の仕事、人生に生かしたい、本当の意味で仏教をモノにしたい、という意欲をもっているひとがいたら、

たとえば、ドラマ半沢直樹を見たり原作を読んだりして、あの物語において何が足りないのかを、ずばり指摘してくださったら、と思ったりします。ぜひ考えてみてください。

今いる場所、世の中、時代に一体何が足りないのか? そこを指摘できるようになる――それはとてもすごいこと。貴重なことかもしれない。

たぶん、自分のアタマだけで考えても、なかなかそこまではいけないかもしれない・・・(仏教に出会う前の私には明らかにムリでした×▽×)。

仏教を学ぶ意味というのは、たとえばそういう能力、ほんとの知恵をつけてくれるところにもあるような気がします。

時代の――ひいては自身の生き方の――盲点が「見える」ようになるのです。

28日(水)午後7時から築地にて、同じテーマで話をします。興味ある方はぜひご参加ください。
なお早めの夕食を築地でご一緒しようという方は、メールにてご連絡くださいね。

なお8月31日(土)は、高円寺で<仏教ガイダンス兼夏の終わりを惜しむ会>をやります。

テーマは当日のお楽しみ。ふだんの講義スタイルをちょこっと崩して、フリースタイルでやりたいと思います(前回の納涼会のノリで)。

もしも半沢直樹が仏教で返したら?(予告編)

みなさん、こんにちは。草薙龍瞬です。
甲子園も終わって、いよいよ夏も佳境でしょうか――。

明日24日から<仏教の学校の夏クラス第4回>が始まります。(カレンダーをご覧下さい)

今学期は、「空」(くう)という大テーマを前提に、「働く(生きる)ことがラクになる方法は?」というサブテーマをつけてお送りしてきました。いよいよそのテーマの締めに入ります。

特に、今テレビで話題の「半沢直樹」の生き方をとりあげたいと思います。

とある方が、「半沢直樹はやってることは正しいんです」と言っておられました。

たしかに。
ただ「正しい」にも、ほんとはいろんな内容・度合いというのがあります。

半沢直樹のやっていることは、本当に正しいのか? 
今回は原作(池井戸潤のベストセラー)を引きつつ、考えましょう。

仏教では、もっともっとスケールの大きな「倍返し」があるのです。働く・生きる上での原理原則――。

五億円の債権を回収する。上司や融資先の不正を暴く。そこまでは同じかもしれない。だが――です。

仏教の思考と、半沢直樹の思考では、ちょっと結末が変わってくる。原作の内容も変わってくる・・・・・。

そこを言語化できるか、が私たちの課題といえるでしょう。これはいいテーマだと思う。
(ちなみに「慈しみ」じゃありません。もうちょい現実的に考えます。)

<重要!日程変更のおしらせ>

9月15日から26日まで急遽インド入りが決まりました。今回はナグプールとバンガロールの二都市です。

その期間中の講座はお休みになります。9月28日の仏教の学校土曜クラスも調整のためお休みとなります。

ですので、里の講座が再開するのは、
10月2日(水) おとなの仏教塾(九段下) からになります。
10月3日(木) 仏教ガイドツアー(巣鴨)
10月5日(土) 座禅エクササイズ、
10月9日(水)、12日(土) 仏教の学校 

予定組んでくださった方にはもうしわけありません。
ただ仏道に沿ったスケール大きな貢献がつくられつつあるのだ、ということでご了解くださいまし。

なお、10月6日(日)は、名古屋で初の仏教ライブをやります。近畿地方の方、お楽しみに。ぜひお会いいたしましょう!

真夏の高円寺!

今日8月17日は、高円寺で納涼会~仏教案内とインド水プロジェクト報告会。

最近は、「ひとから聞いて」来てみた、という方が出てくるようになった。ありがたいご縁である。

まずは縁をさずかり、その中で、心に道(あるいは、帰るべき場所、よりどころ)を固めていってくれるひとが増えてきたら、と思う。

お一人が、「新興宗教に誘われた」体験を話していた。

私は、このよく聞く「誘う」という発想がよく分からない。この場所(興道の里)は、何かに誘う、入ってもらうという発想でできていない。出会う相手を理解して、親しみをもって受けとめて、もし仏教的な考え方が役に立つのであればどうぞ、という視点で、仏教のなかのいろんな思想や考え方を紹介している。来るひとも、私自身も、かなりの超フリーハンドである。


私がインドにたどりついた経緯、そして師のこと、今進行中の水プロジェクトについて、プロジェクターを使ってお伝えする。

そのあと交流会。高円寺商店街を探し歩いて、最後にたどりついたのが典型的な居酒屋。

騒がしさとお酒の匂いは避けるのが正道(せいどう)。ただ十人以上入れる場所がなくていたしかたなく。

みな気を使ってくれたのか、半数以上は烏龍茶。
(そのなかで、じつにナチュラルに4杯もの中ジョッキを飲み干していた御仁がおられた・・・'▽')(←すごいなーの意))

メニューは、焼き鳥、もろきゅう、トマト、冷奴といった、居酒屋の定番。

これがなんだか「ワタシ日本ニ来テマス~」という感じで、内心楽しさヒット状態だった。

みなのよもやま話を聞くのも楽しい。でもさすがに仏教を学んでいる人たちとあって、語る内容が仏教的。「半沢直樹」の世界観はめちゃくちゃ狭いとか、インドなら差別廃止も活動の動機になりうるだろうが日本ではどうするのか(質問)とか。

年齢も、生活も、仕事もまったくバラバラのひとたちである。そのみなが、仏教という共通項でつながって、こうしてふつうに会話できるのはすごいと思う。

インドでは、私はかなり度合いの高い出家僧である(焼き○なんてありえません)。その身にして、こうして日本の高円寺で夏の夜に居酒屋でみなとおしゃべりしているのである。これはかなり貴重な体験だ。久しぶりのもろきゅうだ。


多くの人が、仏教に安らぎをもとめている。その安らぎへの道を案内する役回りをこの身が負っていることも知っている。

ただ、私としては、俗の世界から遠く離れた、たとえば森の中の瞑想寺院みたいな場所にこもって、教えを伝えようとはあんまり思わない。

また矛盾や非合理が看過できないほどに膨らんでしまった伝統仏教のなかに、自分を収め置くのも違うように思う。

たとえば、輪廻思想や来世への人々の期待を前提にして、布施の功徳を説いて、それで自分の身を立てたり、

檀家さんにいつまでも経済的支援をお願いして、形ばかりの法事で自分のお寺や家族を養ったり、というありかたは、少なくとも私は、自身の生き方の前提にはできない。

もしそういうあり方を前提にして、なにかブッダの教えを伝え説くとしたら、もうそれだけで、ごまかし・欺瞞(ぎまん)を私は感じてしまう。ウソじゃないかと思ってしまう。

自分と、相手(つまり俗の世界に立ち、仏教を学ぼうとしている人たち)との立っている場所がちがう。それはフェアじゃない、と思ってしまう。

幼い頃からそうだった。小さな矛盾でも、自らの足元に置くことがどうしてもできない。すぐにそういう自分に疑問を感じてしまって、居心地が悪くなって、降りてしまうのである。

だから、私は今なお、なるべく定まったスタイルというのを持たないようにしている。
これこそが仏教ですよ、これこそが正解ですよ、という発想をしないように気をつけている。

ひとそれぞれに必要としているものはちがうのだから、答えなんて決め打ちできるはずもない。

仏教においても、この部分、この発想、この思考法は、ブッダのものに近いと思うところはたしかにある。が、それでも、「これこそが仏教」という形で最初から答えを決めることはどうしてもできない。

流浪の旅人が、ゆく先々で、一夜を過ごす場所の基礎、骨組みから作り上げるように、

私もまた、仏教の本質だけを手に、この世この時代を旅して、出会うひとびとそれぞれとの間で、そのひとに最も伝わる仏教(思考法)というものを作り上げたいと思っている。

その柔軟さ、融通無碍さこそが、真実が真実たりうることのゆえんだろうと思う。つまり、真実であることを証明するものは、歴史の長さや、伝える誰かの権威などではなく、何の前提もなく、その場その場での最上の理解と思考とによって最善の解(答え)をつくりだそうというやわらかさなのだ。そのやわらかにして本質をつらぬく知力を、古くは「智慧」(ちえ)と呼んだのである。

ほんとの智慧というのは、あらかじめ定まった答えというものを持たない。これは、本質にしっかりと通じた思考力でないとつくりだせない。

あえて言うなら、私がこの身について信頼しているのは、こうした智慧を生み出す強靭なる知力である。それ以外の知識や過去の一切は、役に立てばいいという程度の付属物にすぎない。私はこのような知力こそを自らの活動の基盤にすえて生きたい。それが一番楽しいし、ひとの心にも届くと思うからである。

●帰りの電車のなかで、ひとりが、「たとえば世間は“七並べ”(しちならべ)でできている。七並べするのがルール。仏教は、そのルールをあえて取らないところがあるのではないか」と語っていた。

たしかに、世間のルールと、出家のルールには、違うところがある。

しかし、出家のルールを内側では守りつつも、なお世間のルールに合わせて働いたり、歌ったり、踊ったりすることは可能だろうと思う。

出家のルールに基づきつつも、この世での七並べを思いきり楽しもうとしている。そういう心境である。

私は、あくまで、この世で生きるすべての人たちと同じ土俵に立ちたい。そうでないと、ひとのよろこびや苦悩がわかるはずがない。フェアであること――それが言葉の真実味をささえる生命線だろうと思う。

だから私は、寺や伝統に属さない単立の出家として、講座や著述で身を立てる。労働という、ひとに何か役立つことで命を養うという手段によって、この国を生きていく。

だから、居酒屋でもろきゅうをつつき、夜の高円寺を練り歩くのである。

★今日は日本の夏気分を満喫しました! みなさん、ありがとう。残りの夏を楽しんでくださいね。

(あ、また怖い話忘れた!!!!)


半沢直樹を仏教がえし!!!?

あっつくなりましたねぇ! 草薙龍瞬です。

みなさんの中には、お盆で帰省・旅行されている方もいるんじゃないかな。

私は、大好きな夏を、冷え冷えの図書館で読書三昧しています。

熱中症で倒れたり、亡くなったりされている方々がおられるので、語ることにためらいを感じたりもしますが、

最近のこのド熱帯の暑さに、龍瞬の心は密かに燃えているのであります。

私はどうにもひねくれ者というか、性分が苦労性ゆえなのか、暑ければ暑いほど、やったるでえという気になるのです。

今回行ってきたインドでも、雨季のモンスーンで泥々になった道を、水を入れたバケツをかついで、雨に濡れながら、ますます労働意欲に火がついたのでありました。

どうせ、暑い夏もあと二週間もたないだろうと思うし・・・もうひと踏ん張り、ド夏気分を味わいたいものであります。

街には子供たちがわらわら。あの子たちにとっては、ひと月の夏というのは、途方もなく広く長ーく感じているのではないかな。

明日以降なにがあるか、まったく想像せずに、ただ「なんかありそう♪」という漠然とした期待感にとどめて、今日一日の夏の光を浴びる。

それが正しい夏の過ごし方のような気がします。


●ドラマ「半沢直樹」がウケてますね。

私はテレビがないので、原作を読みました。仏教的に読むと、いろんな感想が出てきます。

仏教の学校夏クラス第4回(8月24日、28日)で、半沢直樹の生きざまを取り上げてみたいと思います。「話題になったら、仏教返しだ!!!」(寒いか?)

これからもいろんな日本の風情を仏教で語るコーナーを設けたいと思います。

第4回くる方がいらしたら、原作を読むか、ドラマをちょこっと見てみるとよいかも?
ぜひ感想を聞かせてくださいね。

ちなみに、土曜の講座は、基本、午後6時半からで行ってみます。時間があればちょこっと交流会も開けるように。


●8月17日は、お盆スペシャル! 高円寺でやります!

「納涼トークライブ~わかりやすい仏教案内とインド飲み水プロジェクト報告会」

お盆明けのスペシャル交流企画。

僧侶くさなぎ龍瞬氏による、はじめての人のための超わかりやすい仏教案内と、インドで進行中の「納豆で飲み水をつくろうプロジェクト」のスライド報告会。
対象は、仏教を楽しく学びたいすべてのひと、インドでの水づくり活動に興味があるひと、新しい出会いがほしいひと。

「お坊さんが体験した怖い話」のおまけつき?(昨年夏に語れなかった恨みを今度こそ・・・?)

ちょっと変わった夏の思い出がほしいあなた、夕涼みに高円寺に出かけてみない?

主催者: 興道の里
開催日: 08/17(土) 18:30 〜 20:00
会場 :  高円寺北区民集会所 高円寺北3丁目25​番9号  JR中央線高円寺駅 徒歩6分
参加費: 1,000円 

★夏休みスペシャルとして、参加費1000円でやらせていただきます。お友達とどうぞ。
 時間があれば、高円寺にて納涼お食事会でもやりましょう!

帰ってきたら松崎しげる?(インド活動報告記)

完成間近の浄水装置。村人が集まってくる。インド・ナグプール近郊のウダサ村にて。
7月30日 
インドから一週間ぶりに帰ってきた。鏡をみたら、かなり日焼けしていた。松崎しげるを思い出した(愛の、甘いなごりに~♪)。

○今回は、いろんな喜びがあった。

ひとつは、小学校の建設が始まっていたこと。ちょこちょこと日本からもいろんな人のカンパが寄せられて、ウダサ村の外れに用地を買ったのがここ数ヶ月の間。そして今、レンガ造りの校舎が建設中。

もうひとつは、昨年秋から進んでいる浄水プラントの建設が、今回の訪問で大きく前に進んだこと。

日本ポリグル社の、ほぼほとんどの汚染物質を除去できるという魔法みたいなパウダー(粉)を使って、現地の人々に安全できれいな水を提供するプロジェクトが進んでいる。

なにしろ、これまでは製鉄所の排水混じりの水を使うしかなく、ここ数年、村では深刻な健康被害が出ていた。

もし、この「魔法の粉」で、村人が安全な水を手に入れられるようになるとしたら、これは奇跡のような出来事。

今回は、その奇跡を実現するために、大きめの装置を作ることが目的。
技術者の方に入ってもらって、1日に2トンの浄水を作れる装置の作成に着手した。

●前回訪問したときは、五月の乾季で浄水用の水が手に入らなかった。雨季は、雨が多いから水を採ることは難しくないと思っていた。ところが今度は、その雨で道がぬかるんでしまって搬送車が移動できなかった。

ほかに方法はない――私たちNGOのメンバーが、バケツに水を汲んで、一つ一つ、学校用地内の装置予定地に運び込んだ。私もぬかるみに足を取られながら、雨のなか水を運んだ。日本では当たり前のように手に入る水の確保が、この場所ではこんなにも大変な作業になる。

雨の中、浄水タンクを置く土台の工事から始める。レンガとセメントを交互に重ねて、段差のある三つの台をつくる。

そこに、直径1メートル以上ある1トンタンクを4基おく。パイプをつないで、水を通せるようにする。

一基めは、汚れた水を、ポリグルの浄化剤をまぜてきれいにする攪拌槽。ここで水の中の汚れが浄化剤と化合、凝集して、おおきな塊(だま)になって、沈殿していく。

二基めは、その水を濾過するタンク。下に小石、その上に木炭、そして砂利をしきつめて、その上に一基めで処理した水を流し込む。水にまじった汚れただまが砂で濾過されて、きれいな水が、三つめ、四つめのタンクに入っていく。その水に塩素を加えて殺菌処理する。

●そして蛇口をひねってみる――すると出てきた。透き通った水が。

帰国する当日は、朝から突貫工事で装置を完成させた。その日の午後六時には村を離れなければいけない。午後3時半に、ラケシュが帰ってきた。ナグプール市内を走り回って、水を詰めるペットボトルをようやく探し当てて帰ってきたのだ。集まってきていた村人みんなが拍手で迎え入れた。

その1リットルペットボトルに、できたての浄水を注ぎ入れる。ボトル越しに見える水は透明で、市販のペットボトルの水とまったく見分けがつかなかった。NGOのメンバーも、村人たちも、みな歓声を上げた。

水の浄化プロセスを技術者の方に説明してもらって、作業がぜんぶ終了したのが午後4時半。

○ここから、私は、時間が許す限り、できたての浄水を、村の家庭に配って回ることにした。

装置見物に来ていた村人たち(特にご婦人たち)が、詰めたてのボトル水をもって、村の中まで歩いて運んでくれた。そのときの村人たちの雰囲気がとても嬉しそうで明るくて、私は、この水プロジェクトが形になってほんとうによかったと思った。奇跡のようなご縁によって、こうして日本の浄水技術が、インドの小さな村に花を咲かせようとしている。

ラケシュと数人の子供たちと一緒に、まずは村の自治会長の家へ。今回の水プロジェクトの目的、浄水の安全性を説明して、村での配布の許可を求めた。会長さんは快く承諾してくれた。

それから、ボトル水をもって、各家庭を訪問。川の水(白濁)、村の公共タンクから供給される水(もっと白濁)、市販のペットボトル、そして今回つくった浄水のボトルを見せた。「ちがいがわかりますか」と聞いてみる。みな「わからない」Samaste nahin haeと笑う。

これは日本の最先端の浄水技術でできた安全な水です、あなたにプレゼントしますから、食事やチャイに使ってみてください、と手渡した。みな嬉しそうに笑った。

時間がなくて、配れた世帯数はわずかだった。でも、こうして村の家々をまわって浄水を手渡すのは、かなり効果があると感じた。村人の多くは、乾季の水不足、そして久しくつづく水の汚染に悩まされてきている。日本の技術でできた浄水についても、その安全性に不安を感じる人々が少なくない。

そういうひとたちに、日本人の坊主が直接ボトル詰めの水を手渡して、安全性をアピールするのだ。目の前でキャップを開けて飲んでみせることもする。この方法は、けっこう効く印象をもった。次回戻ってきたときも、この続きをやろう。

●最後のミーティングで、現地のメンバーたちに伝えた――この一週間よく働いてくれた、深く感謝している、と。朝八時のミーティングから始まって、雨の中、泥にまみれながら作業をした若者たち。基本的に彼らはボランティアでやっている。地元のために意義あることをする、という方向性をみなみごとに共有している。これだけまとまりのある、志の高いチームを、私はまだ世界のどこにも、ここ以外に知らない。

午後6時半、8時50分発の飛行機にぎりぎりの時間に車に乗り込む。村人が総出で見送ってくれた。この村をはじめて訪れてからもう7年になる。来るたびに顔なじみが、子供たちにも老人たちにも増えていった。学校の前を通り過ぎると、子供たちが「バンテジー!」(お坊さん)と高い声をあげて手を振ってくれる。犬の友だちも増えた。近所の犬サンディまで見送りに来てくれていた。

今回のもうひとつの喜びは、村人たちにすっかり溶け込んだ自分を発見したことだった。距離がずいぶんと縮まっている。そしてみなが友情をもって接してくれる。私は村での生活にすっかり慣れてしまった。誰かが食事を用意してくれるところなんか、日本での生活より快適かもしれない。

なんなのだろう、この奇跡は。インドのど真ん中、マハーラシュトラ州の龍の街ナグプール――2006年九月末に日本を離れるときは地図の上の小さな点でしかなかったこの地に、これほどのあたたかな関係を築けるなんて。

●今回は、きれいで安全な飲み水をウダサの村人に提供するという大きな仕事に貢献できたような気がする。言うまでもなく、これは私自身の仕事ではなく、日本ポリグル社の技術と厚意、お世話になっている日本の関係者の人たち、そして最高の働きをしてくれた現地メンバーと村人たちの成果である。私は、彼らのうつくしい目的と働きとの間にあって、彼らがつながるように働いただけである。ただ、出家して七年たって、ようやく、たしかにひとの役に立つと思える働きができつつあるような思いが湧いた。私自身は、今回の自分の働きに納得している。納得できるような生き方ができるようになった。その今をうれしく思うのである。

もしかりに私が明日いなくなっても、この水はこの村にずっと続いてくれるかもしれない。続いてほしいと思う。

私の胸に灯(とも)る思いは、今もなお青いままなのである――

もっと、もっと、たしかにひとの役に立つと思える働きをしたい。
ぎゅっ、ぎゅっ、と新しい価値を詰めこむように、有意義だと思える、ひとびとが喜ぶ仕事をしたい。

ひとの役に立つこと、ひとの幸せを願って、願って、願い尽くして生きること――それ以上の道があるだろうか。

夜明けに、青年たちが十年前に作った図書館のなかをのぞいた。青年たちは図書館のなかで仲良く眠りについていた。この子たち、彼らがこれからも幸せであるように、と自然な願いが湧いてきた。結局、この命は、彼らのために何かをするために、彼らの幸せにかすかにでも役に立てるように、この場所に立っているのだと思った。この思いが、この命をこの村にひきとどめている力なのだと感じた。

最近、私はとくによく思うのである――私は、すべての命に幸せになってほしいのだ、すべての命の幸福を願って、願い尽くして、そのためにこの命を使い尽くしたいのだ、と。

この願い以外の思いは、究極のところ、ゴミのようなものではないか。

空港で、青年たちに手を振った。
「われわれはベストのチームだ。ジャイビーム!」 We are the best team! Jai beem!


○で、帰ってきたら、顔が焼けていてびっくりした。曇り空つづきだったので油断していたが、インドの夏の紫外線ははげしいのだった。

私の胸にしっかり刻まれたもの――いうなればそれは“喜びのメモリー”である。

この胸のときめきを、あーなーたーにいぃぃい~~♪
(台無し・・・)


*松崎しげる「愛のメモリー」JASRAC許諾番号 9012400001Y38026

道に立つ勇気

7月17日

○いよいよインドゆきが間近に迫ってきた。
今回は、雨季で水の汚れが最悪になる時期。大きな浄化装置を一基つくるところまで運ぶ。

目標は、村のモニター百世帯に試験配給するところまで。ひとつの山場といっていい。頑張って参りマス(=ヘ=)>

●どの教室でも、みな熱心に仏教を学んでくださるので、とてもありがたい。

先日ご自宅にうかがった八十歳のご婦人は、五時間におよぶ語り合いの結果、

今後の生活を、ひとつの課題に沿って過ごしていくことを決意された。

それは、これまでの人生を振り返って、
自分自身を深く理解することで苦悩から抜け出す」という課題である。

ひとは誰もが、寂しさ、悲しみといった思いを抱えて生きている。

ただそうした心のありようを深く見つめ、その原因をさぐって、そこから抜け出す、という課題をクリアしたひとは多くない。たいていは、心に抱え込んだ闇、錯綜(もつれ)というものを抱えたまま、つまりは自分自身がわからないまま、命を閉じてしまうことが多い。

たまに、自分の内なる苦悩があまりに激しくて、もう今のままでは生きていけない、という岐路に立たされるひとがいる。

そういうひとの中に、人生には苦しみが伴うという仏教的な真実を実感して、つくづく、もうこんな人生・自分はいやだ、と感じて、あたらしい生き方を探し始めるひとがいる。

ご婦人がそのひとりだった。あたらしい生き方とは仏教だった。

(私の本を、上下の耳を折り、マーカーで線を引きながら一生懸命読んで下さっていた。こうして誰かの心に深く届いていたことを知ると、私は厳粛な気持ちになる。届いていたことに深く感謝する。)

○誰か人間に執着し、依存したところで、その相手が、自分に幸福をもたらしてくれるわけではない。
むしろ、途中においては苦しめ合い、やがては喪失(別れ)という名の痛みを抱えることになることが多い。

その苦悩から逃れようとして宗教や信仰に走ったところで、結局、その宗教をその場しのぎの“なぐさめ”に使ってしまって、本当の安らぎ・自由にたどりつけないということはよくある。

というのも、妄想を抜け出すことは、人間にとってほぼ不可能と言えるくらいに難しいのだ。宗教を語る者たちは、みな人間である。となれば、宗教を語る者たちは、ほとんど妄想を語るに終わってしまう。それが自然な帰結であろう。

つまりは、宗教を信じるということは、結局はおおかた他者の妄想を信じることに他ならなくなってしまう。それはみなが薄々感じていることではないか。

(付け加えるならば、そういう宗教になぜ入ってしまうかというと、人間自身が妄想から抜け出せていないからであろうと思う。元から妄想に浸かっているひとの心には、妄想で作り上げられた宗教の本質が見えないのであろう。妄想は妄想に反応する。妄想は他者の妄想を真実だと見るのであろうと思う。)

だが、他者が語る妄想をいくら信じたところで、自身の心の苦しみが正しく理解できるはずもないだろうと思う。妄想と理解とは、まったく正反対の心の働きだからである。

妄想――他者が語る宗教という名の物語も含めて――は、苦しみを解決してくれない。その理解に立てるかが、今ある苦悩のゆく先を大きく左右するのかもしれない。

理解すること、この現実をそのままに受け容れること――その勇気を持たないかぎり、苦しみはいつまでもつづくかもしれないということ。

私たちは、あまりに無防備に、内なる我欲や執着や、ひとへの期待や妄想や、自己に都合のよい判断(思い込み)を生み続けてきたのではないだろうか。それでは苦悩にたどりつくのは道理ではないか。

たどりついたこの苦悩から抜け出すには、自らの苦悩と、その原因とを理解するしかない(四聖諦)。「何がわたしを苦しめているのか?」

ご婦人は、自らの過去を、自らの心に抱えてきた(見ないようにしてきた)思いを、正しく理解して、受け入れるという道に、ようやく立った様子だった。なんと尊いことだろう。

●今回生まれた奇跡は、ご婦人が、闘う――ことを決意されたこと。自らの心の闇と。自身の過去と。

さんざん苦しんできた。寂しさを抱えて生きてこられた――これからは、そこから抜け出すことを目標にして生きていかれてはいかがですか、と尋ねてみた。ご婦人はつよくうなずかれた。

ひとって、すごいな、と思う。

道を歩き出すのに年齢は関係ないのだ。ひとは、いくつになっても、いつからでも、力強く踏み出せる。

○夜の帰りの電車のなかで、私は、ひとがそれぞれに抱える苦しみについて考えた。

多くのひとが、計り知れない深く激しい苦悩を抱えている。

しかし、どの苦悩も、もしかすると必ず抜け出せる方法があるような気がする。

どんな苦悩からも抜け出せる方法――現実にはありえない夢想のような気もするが、しかしこの心はまじめにその可能性を追いかけているところがある。

それでいいのだと思う。きっとこの命は、命尽きるまで、そのはるかに遠い可能性を追いかけて生きていくことになるのだろう。

苦悩からの解放に向かってひとが歩き出す瞬間を見るときほど、喜びを感じるときはない。

こういう幸せへの方法も、この星の上にはある。たとえば、ここに――。


わたしがおじいさんになっても♪ (仏教とあまちゃん)

7月12日

NHK学園の生徒さんとお昼をご一緒した。

生徒さんといっても、みな人生の大先輩。私は「子どもと同じ世代」という(笑)。

昼間にやっている教室に仏教を学びにきてくださる方は、私よりはるかに年配。
私の生まれ年を聞くと、ため息みたいな驚きみたいな声が漏れて教室がざわめく。
特に日本に帰ってきた頃はそうだった。

40代といえば、世間的にはほんといいオッサンなのだけど、でもこうして人生の先輩、先生(先を生きた人)がたくさんいてくれるのは、とても心強いし元気づけられる。(いい仕事を見つけたなと思ったりもする。)

私の老後を心配してくれたり(ヨメさんもいないでひとりでどうするのとか)、

波に乗り遅れないようにね、人生にはタイミングというものがあるから(早くお寺をもてるといいわね)、とアドバイスをくれたりする。

ここでは語れないけど、みんないろんな体験をされている。
「すごいなー」と思いながら聞く。

今日同席した方々は、70、80、90代。とっても元気。

もし私が彼女たちと同じくらいまで生きられるとしたら、あと30~50年ある。

その間にどんな新しい体験ができるのか。何を創造できるのか。
時間ほどの贈り物はないだろう。毎日、楽しく生きていきたいと思う。

私が人生で一番の喜びとすることは、ひとを励ますことである。

がんばって――という思いでいっぱいになること。

これ以上の幸福感はない。

仏教ひとつをたずさえて、どんと立っていればいい。

すると、いろんなひとたちが訪ねてきてくれる。

仕事のこと、家庭のこと、勉強のこと……。

この命だから出てくる、と言えるような、面白い智慧が出てきたりする。

役にたてたかな、と思えるときが一番うれしい。

ほんとに、みんなみんながんばってほしいと思う。
きっと、答えはみつかると思うから。

今回の仏教の学校のプリントに、
人生の行く末に必ずくる「老い」について、

「…のちの日に必ず見るだろう。八〇、九〇と生きれば震えて、
 杖を手に取り、のろのろと歩く。垂木のように腰を曲げて」
という言葉がある(初期仏典ジャータカより引用)。

(※授業(法話)の中で、「そんなこと言ったら、『あまちゃん』見られないじゃない、せっかく上京して歌うたってるのに、とツッコミを入れてみたが、誰もNHKの朝ドラ『あまちゃん』を見たことなかった・・・(私もないけど)。さすが仏教の学校??))

若さは必ず失われる、老いの現実に直面する、もし歓び・快楽だけを求める生き方ならば、必ず苦しみを味わうことになる、という意味合いである。

だが、はっきりいって、こういう解釈は、もういらない。

そういう老いのときを迎えたとき、私が全開でこの世界に放ちたい思いがある。

がんばれ――。(しあわせになってね)

いつも、いつも、そう願っている。

最期に残っているのは、はげまし。

そういう人生が理想である。この人生や好し。


たどりついた「島」

7月4日(木)

今日は巣鴨。
終わったあとに、ご老婦と近くの仏教大学へ。
9階にある見晴らしのよいラウンジで食事をご一緒する。

ご婦人は二十年ほど前にご主人を事故で亡くされた。
信心深いひとで、旦那寺にもよくお参りしていた。
だがある日、自分が趣味で集めた木のお地蔵さんを住職に見せたら、「こんなものはウチ(○○派)の教えに関係ない!」と怒鳴られ、ボキボキと折られてしまった。
あまりにショックで、それ以来お寺に足を運べなくなった。

巣鴨の仏教講座を区報に見つけて足を運んだのはそんな折。
出会った最初は、顔が修羅のようにひきつっていた。当時七十五歳。

今も補助輪を押して通ってくる。この場所が生きがいになっているとおっしゃる。

仏教がわかるようになって、いろんな苦しみから解放された。
大金を貸して返ってこなかったあの件も、今はようやく吹っ切れるようになった。
息子夫婦には「私の功徳(人助け)なんだ」と言うことにしているという。

今は自分がやりたいと思うことをやるようにしている。生活を楽しむ。それもこの教室で学べたこと。
そのおかげでこうして仏教大学の豪勢なレストランも見つけたし、からだに電気を通す健康法のお店に通うようになって、以来一度近く体温が上がって体調がよくなった、新聞の仏教関連記事の切り抜きもはじめた。「今は生きていることが楽しい」とおっしゃる。たしかに血色がいい。

●「ソウリョ(私のこと)は、あの頃から比べるとずいぶん日本人らしくなりましたねえ。最初はちょっと外国人みたいでした」と笑う。

巣鴨の教室が始まったのが2011年6月。ちょうど2年経つ。

たしかにいろんな体験を積んで、日本のひとたちが何を普段見聞きして、何を考えているのか、当時よりは見えるようになったかもしれない(外国人みたいな言い草だが、当時はほんとに半ば異国にいるかのような心境だった)。活動も生活も、あの頃に比べると着実に安定してきている。おかげさまである。

このレストランは、庚申塚通りの仏教大学の構内にある。著名なホテルが運営しているらしくて、高級感があって物静か。でも値段は学生客が多いとあって、それほど高くない。

9階のフロアから巣鴨、板橋の街並みが見渡せる。

私にとって何が豊かかといえば、こうして仏教を通じて出会った人たちと時間をともにすることだ。

彼らの声に耳を傾ければ、彼らの人生が垣間見える。そうして、人生という名のさまざまな時間を擬似体験する。

かつて、いろんな世界(職業)に道を求めていたとき、私のなかに生まれるのはいつも失望だった。それは、その仕事にたずさわることでひとつの世界しか生きられなくなることへの閉塞感にあった。

ひとつの仕事に就くと、つねにその仕事の時間に追われてしまう。その間にも、この星の上ではさまざまな人生が繰り広げられていて、笑ったり泣いたり憂いたり望んだりと、それこそ無数の物語が生まれているのに、自分はその現場に立ち会うことができない。自分は自分のこのごく限られた日常を忙しく生きるしかなく、そこには他者との関わりも、他者の胸の内に触れる瞬間もない。

その「自分の日常を生きるしかない」という現実が、自分にとってはあまりに息苦しく、寂しくてたまらないものに映った。

たまに聞かれることに、大学は名の通ったしかも法学部だったのに、なぜ法律の世界に進まなかったのか、というのがある。

当時の私を止めていたのは、もし法律の世界に進んでしまったら、自宅と事務所と裁判所のあまりに狭い三角形をぐるぐると回り続けて人生を終えてしまう、というためらいだった。もちろん今となってはそれは観念的なものの見方で、進めば進んだでいろんな可能性が生まれたのかもしれない。だが、その頃の私には、法律をなりわいとすることはやはり味気なく、あまりに限定された生き方だと思えてしまうのだった。

もちろん、だからといっていさぎよく見切りをつけられたわけじゃなかった。
「もう大人になれよ、腹くくって前に進めよ」と自分の尻を叩く自分がいた。
でもその一方で、「そっちに行ってしまったら、もう二度と戻れなくなるぞ。そっちに行っては永久に見ることのできない世界が本当は広がっているんだぞ」とだだをこねるもうひとりの自分がいた。

二つの自分の狭間で行ったり来たり。じつにカッコの悪い、中途半端な時代をすごした。

俗世に身を合わせて生きていきたい、そしてプライドも守りたい、という世俗派の内面と、

そういう自分を「姑息」「敗北」と責めなじって、「もっとほかに世界はあるだろう、行けるところまで行け」と自分を焚きつける理想肌の声とがあった。

いつも心にこだまする声――

「できればもっと遠くまで旅したい」 
「できれば千回くらい生まれ変わって、ちがう人生を生きてみたい」 

結局、その声には勝てなかった。

二十代、そして三十代半ばまで、私が最も後ろめたかったのは、
過去に可能性あった道を蹴飛ばして(あるいは逃げて)きたことではなく、

「では自分は何ものとして生きていけばいいのか?」がまったく見えないことだった。

「私は○○です」と納得のいく自己紹介ができない。自分自身がわからない。

周りは順調に年をとっていくのに、自分ひとり何者かわからないまま時間がすぎていく。
それくらい、心もとなく、不安定で、息苦しい状態はない。
地球を遠く離れて、冷たい宇宙空間をさまよっているかのような、ふわふわと落ち着かない漂流感。

「いったいどこまでこの闇はつづくのだろう」とずっと思っていた。
胸の中に恐怖が鎮座しているのをいつも感じていた――。

あの頃の漂流感を思い出すと、よく正気を失わず生きていたな、という気になる。


●私は、自分に確信が持てないという虚空感のなかを、溺れる寸前で泳ぎつづけた。

そして、どうやらいつの間にか、安らえる島にたどりついて、こうして砂の地に足をつけている。その今がとても不思議に感じる。

島とは仏教のことであり、安らぎとは、こうして仏教を通じて出会った人々と時間をともにすることである。

「法(ダンマ:真理)のみを汝の島(よりどころ)にせよ」というのが、ブッダがアーナンダに最後に伝えた言葉だといわれる。

島にたどりつくルートは、ひとそれぞれであろう。私の場合は、運がよかったのだ。そこに島、つまり仏教があるということはまったく夢にも思わないまま、もがいていた。結果からみれば、偶然、溺れた場所の近くに仏教があったということだ。仏教に最終的には手の届く、時代、環境、因縁のもとに生まれていた。

よりどころが定まれば、ひとはもう溺れなくていい。
足が立つ地がみつかれば、こうしてひとと出会い、ひとときを分かち合うこともできる。

私は、この島で生きていくことになる。幸いなことだと思う。

正確に言えば、今はこの命が歩くところに島ができる。どのような奔流、激流のなかにあっても、この命が進む足元には大地が現れるのである。

大げさだと思うひともいるかもしれないが、道に立つ(ひとによっては「信仰をもつ」とも言う)とはそういうことだろうと思う。

仏教をよりどころにするとは、そういうことである。上り坂も下り坂もない。ただダンマ(真実)という名の平地を歩くという人生である。

○もし私がようやくたどり着いた仕事が、ひとに何かを伝える、何かを分かち合うことだとすれば、それは「島のつくり方」だろうと思う。

心に島をもつこと。よりどころを持つこと。
一度持てば、もう溺れることはない。さまようことはない。そういう島のつくり方。

その島は、自分の足元に作るものだ。誰かにつくってもらうものではない。

島のつくり方は教えることができる。ただつくるのは自分自身ですよ、誰も代わりにはなりませんよ、と仏教は言う。

ひとが期待するような手っ取り早い道ではないかもしれない。でも、つくり方をきちんと知って実践すれば、自分の日常、人生がそのまま真実とともにあるようになるのだから、これほど自由で力づよい道はないと思う。


○ご婦人は、二年休まず巣鴨の教室に通って、多くの葛藤を解いてきた。

一時期痴呆気味になったこともあったが、それも乗り越えた(これは気づきのトレーニングが効いたらしい)。

彼女の姿を見ていると、真摯に学ぶこと、継続することの大切さがよくわかる。

彼女は本当によく頑張って、仏教をモノにしてきたのである。仏教という道を歩いてこられたのである。

私は、じつはひそかに、彼女に法名(出家時につけてもらう名前。戒名もその一種)を授けている。

以前、「法名をください」と言ってきたことがあったのだ。「希望する漢字」のリストまでつけて。

最近は話題に上がることはない。「ほんとの法名というのは、その道を進んで下がらない覚悟が必要になりますよ」と伝えたから、それ以来遠慮しているのかもしれない。

でも、その後の彼女を見てきて、私は今ひそかに思っている――彼女ほど、法名をもつにふさわしい方もいないと。

そのうちプレゼントできる機縁が熟するのかもしれない。

ご婦人が仏教という道を歩んでこられた証として。
私たちの出会いの証として。

もうすぐ夏


●7月1日(月)は代々木での炊き出し。

里の授業に来ている青年がボランティアとして参加(よく来てくれました)。

ホームレスの男たちによると、オリンピック委員が視察に来た頃から、野宿取締まりが厳しくなった。

それまでほかの場所で寝泊りしていた人たちが、代々木公園周辺に集まってくるようになった。

たしかにあちこちに以前には見かけなかった青いテントが。

炊き出しも警察の指導があって(真偽はわからないけど)、閉鎖するところも出てきているらしい。


●今日は、仏教に造詣の深いある女性の神話学者の子供の頃のエピソードから。
(東ゆみこさんの『おとなのための仏教童話』光文社新書から)

彼女は港町で生まれた。母子家庭で母親は叔母が経営している旅館を手伝っていた。

7歳の娘をひとり家で留守番させるのも不用心だということで、旅館に連れてきていた。

夏になると、大阪などの都会から海の休日を楽しみに、家族連れや学生たちがやって来る。

彼らはとても楽しそう。朝から外に出かけて、夜はごちそうで舌鼓を打って。

そんな旅館に、毎日お昼前後に子供連れの女性がリヤカーを引っ張ってやってくる。

リヤカーには今朝とれた魚が積んである。それを買ってもらいに商いにくるのである。

旅館のおかみは、魚を品定めして、買うときは買ってやるが、買えないときは買わない。

そういう時は、女性は売値を思いきり負けて、なんとか買ってもらおうと食い下がる。

でも、おかみさんも旅館の客に出すものだから妥協できない。断らねばならないときは毅然と断る。

行商にきた女性は寂しそうに、また重いリヤカーを引いて帰っていく。

そのすぐ脇に、自分と同じ年頃の女の子がいた。

女性はその当時、その母娘の姿を見て、こう考える――

旅館には休みを満喫してすこぶる楽しそうな家族連れがいる。
その一方で、毎日、汗だくになって魚を売り歩いている母娘がいる。

その違いはどこから来るのだろう。

あのリヤカーいっぱいの魚を買ってあげたらどうだろう――でもそれだとおばさんの旅館が困ることになる。

旅館のお客さんも、あの母娘も、そしてこの自分も、みんなが幸せになれるあり方はないものだろうか?

そんなことを考えた、というエピソード。


●ひとの人生がそれぞれに異なるのはなぜか?

私はなぜ私の人生で、あのひとはなぜあのひとの人生を生きているのか?

そういうテーマで話をした。今回の結論を平たく言ってしまうと、

ひとそれぞれの人生は、因縁によって成り立つもので、そこに人間が考えうるような理由というのはそもそもないのだということ。

縁によって起こるもので、それぞれの人生には、よいも悪いも、幸も不幸も、本当はない、という話。

因縁というのは、自分で選べない、コントロールできない、自分以前に、自分以外のところにあるものだから、それは受け入れるしかない。また因縁そのものが苦だというわけじゃない。

もし人生が因縁によって成り立つ現象なのだとしたら、そこに苦や不幸が存在するのは、ほかならぬ自分自身の判断(我見:がけん)が作り出したものだ、という話。

相手の人生を「気の毒だ」と判断した時点で、不幸・苦しみが生まれる。

でも、それは元からあるものじゃない。人間の思いが作り出したものなのである。

○因縁に近い意味で使われる言葉に「業(ごう)」というのがある。

これは、人生を作り出す力。

人生を作っている要素・力という点では、因縁も業も似ている。

ただ業は因縁とちがって、自分自身が作り出すものだ。

行い、言葉、思いとう三つの要素(はたらき)が自分の人生を作り出す。

業は、自分でコントロールできるもの。

(コントロールできないもの、前世から続いているものと考える仏教もあるが、それは採らない。原始仏典には、「身・口・意の三業」(しん・く・いのさんごう)とはっきり定義しているし、前世なるものは確かめようがないという点でゴータマ・ブッダの思考に沿わないから。)

自分が何を思うか(意)、何を語るか(語)、何をするか(身)は、自分自身が気をつけて、選ぶことではないか。そして、それに見合った影響(果報)が導き出される。自分の業が人生を作っていく。

●業は自分で作り出すもの、因縁は受け入れるもの(手放すもの)、という理解に立つと、とてもシンプルな生き方が導き出される。それは、


自分自身の思いと言葉と行いだけを注意深く見つめて、悪を避け、善を働こうというもの。


(ここでダンマパダを引用――できるけどしない(笑)。このブログは、いろんな経典の言葉(大乗も原始もある)に基づいて言葉を紡いでいるのだけど、正確に引用するとなると手間がかかるので、省略させてもらいます。すみません(^^)。)

そして、因縁そのものは、自分で選べない、コントロールできないものとして、手放す。

たしかに業が原因となって、善き結果や悪しき報いを導き出す。その意味で、業もまた因縁の一要素ではある。ただ、そこで因縁そのものをコントロールしようとはからうことは無理である。ひとがコントロールできるのは、思い・言葉・行いというパーソナルな領域、すなわち業のみである――。


どうだろう? とてもシンプルではないか。難しいけど、でも生き方の方針としては明快である。

心の中に三毒(貪欲・瞋恚・妄想)を溜めないこと。
感謝と慈しみを念じること(そうすることで善き思いが育つから、善き業となって善き人生を作っていくから)。

そうして、因縁そのものはよくも悪くもなくて、ただ受け入れる、ただ生きるということ。

●今日これから食べるカレーとおにぎりもまた、因縁の産物。

形あるものを恵んでくれた自然があって、その食材を採って、運んで、調理してくれたひとがいて、運んでくれたひとがいて、こうして目の前に置かれている。

この食べ物を「因縁のたまもの」としてありがたくいただこうではないか。

どのような因縁にも感謝すべきである。だって、だからこそ自分が生かされているのだから。

そして業は自分が作るもの。善き業を作ることを心がけよう。
悪しき業は、自分のこれからのテーマ・目標として抜け出していこう――。

と、かなり前向きな話になった。


○最近思うところだが、仏教をどう語り、活かすかは、それを発する人間次第なのだなと思う。自分自身の視点・感性・人生観によって、仏教はいろんな活かし方ができる。

大乗の世界では、すべては無常・無我なるものだから、自分を語らず法のみを語れ、とよく説く。
無私・無我の境地で法のみを語れ、と。

ただ、法(真理)そのものは、無色、抽象的で、それ自体は人間の感性・感情で理解しうるものではない。感性・感情抜きの言葉というのは、抽象的な理屈、観念論、まっとうすぎる正論と化してしまって、ひとの心には届かない。届かなければ、活かされることもない。

自分にとって「これが真理」だと思うところはあっても、それをそのまま発信したところで、ハードルが高すぎて人間の人生には活かせないのだと思う。

ひとに伝えるときには、そのひとの背景、人生や、その話が出てきた前後の文脈も踏まえて、なるべく具体的に、感性や感情に働きかけるようにして語らないと効果は薄い。それが今までやったきた中での実感。

だから、なるべく自分の言葉で、自分の思いとして語ろうと今は心がけている。

聞きながら、うん、うん、と深くうなづいている男性がちらほらいる。それがありがたい。


●最近思うこと――結局、ひとは自分を生きることなんだ。自分を語る、表すことなんだ。

自分を見せる、語ることがその目的ではない。目標は、仏教をそのひとの幸せに役立ててもらうこと。

ただ、そのためには、「己を空しうして」というより、むしろ人間としての実体ある「わたし」を語る必要があるらしいのである。

動機そのものは、自分のためではなく、相手に活かしてもらうため。その意味で「自分を空しうして」は正しい。

ただ、そのための方便(手段)としては、「自分をきっちりと充実させて」ということなのであろう。

もっと自分を語らなきゃ。自分を生きなきゃ。

「自分」という言い方が我を強めてしまうように感じるのなら、「この命」と表現してみよう。

「この命をもっともっと表現しなきゃ」

最近、いろんな発見をしている気がする。快調であります。

そういえば、もう夏なんだね。この命が大好きな夏――。

自分の言葉で、自分の生き方として想いを語れ

●6月29日(土)は仏教の学校・イントロ編。

予想(妄想)より来てくれた人の数が多かったので、教材が足りなかった。

(※今日もらえなかったひとは、できれば次回くる前にメールで「こないだの教材ほしい」と連絡して下さいね。)

●仏教というのは、宗教でも、学問でもなく、「生き方」なんだということをもっと徹底して、私たちは語り、聞き、学ぶ必要があるだろうと思う。

今の自分の生き方が、本当に自身納得のいくものなのか。

今の時代の国や人々のあり方が、本当に幸福(苦しみからの解放)に役立つものなのか。

そこは、誰の判断に委ねるのでもなく、自分自身の、心のほんとうに深いところで、つきつめて考えなくちゃいけないと思う。

最近の話題に、「ルイ・ヴィトンのバッグもって、信者にチャーターしてもらったジェット機で移動するタイの坊さん」というのがあった(今週のNEWSWEEK日本版に出てます。YouTubeにあるらしい)。

「戒律守って修行にいそしむべき僧がこんな度を越した贅沢をするなんておかしい」というのが、大方の反応。

たしかに正しい行い(八正道にある“目的に沿った行い”のこと)ではない、と言いうる言動ではある。

ただ、彼のあまりある贅沢を支えているのは誰なのか――チャーター機を差し出した在家のひとがいるのである。

彼らは、僧たちに布施することが、自分の善業、功徳になると信じている。
そのことで、よき来世に生まれ変われるのだとも。
功徳を積むには、僧たちに布施するのが一番なのだとも。

それは、他ならぬ僧たち(比丘・長老)が語っているところだ。

○私自身の見解を語るなら、「僧たちに布施することで来世への功徳になる」という発想自体が、ブッダの思考法に反する。

まず、来世というのは、たしかめようがないという点で妄想の域を出ない。

(これをブッダの教えと説く僧たちが伝統仏教の世界では大多数のようだけど、彼らは仏教に混入したバラモン思想を盲信しているだけだろうと思う。なにゆえにそれを支持するかといえば、自分たちに都合がよいからであろう。)

また、「布施」(与えること)というのは、慈悲喜捨という四つの心に基づいて、

相手の苦しみを癒すため、相手の喜びを増すため、
相手の幸せを願いながら差し出すことだろうと私は理解している。

その根底にあるのは、他者の心への「共感」である。「理解」である。
その境地は、自分の煩悩を流した、執着を手放したところから出てくる。
慈悲喜捨に基づく行い、つまり与えることというのは、仏教思想に基づく、もっとも自然な行いだ。
そして、仏教がたどりつくべき最終ゴールでもあろうと思う。

では、その与えること(布施)の相手は、誰であるべきか?

それは、苦しみを抱えている人あるいは、
喜び・幸せを必要としていて、その施しによって喜び・幸せが増すだろう人々だろうと思う。

そうしてみると、「相手は僧でなくてもいい」ということになるだろう。

伝統仏教の世界では(大乗であれテーラワーダであれ)、二言目には「布施をして功徳を積め」という言葉が出てくる。そしてその相手は、教団であり、比丘・長老たちである。

だが、もし彼ら僧侶の人生の目的が「自身の涅槃(悟り)」にあるというのなら、
その修行に要する費用は、自分でまかなうのが道理であろう。
あるいは、「いつまで」という期限をきめること。
期限もきめず、「輪廻」だの「来世のための功徳」だの、「涅槃こそが最高の目的」だのと語って、人々から布施を受けとって、中途半端な修行しかしないというのなら、

(率直にいおう、本気の修行は短期決戦である。何年かけたからといってたどり着けるものではない。)

そのあり方は、自分が選んだはずの出家・修行僧としての生き方に照らして、
あるいは慈悲喜捨という仏教の根本原理に照らして、おかしいのではないか。

彼らは、それでも、今の仏教のありかたを「お釈迦さまの教え」と語って、
「自らの生き方として正しいのか」という、合理的な思考をとらない。

ルイヴィトンを抱えた僧たちも、そうしたあり方を可能にしてしまうタイの伝統仏教も、
どこか大切な本質を見失っていると理解するのが正しいだろうと思う。


●もうひとつ、話題になったのが、
ミャンマーで、「仏教を守るために、“狂犬”であるイスラム教徒を排撃せよ」と民衆に訴えているという高僧の存在。

TIMEでは Buddhist Terror(仏教徒による恐怖)という特集が組まれた。
(続報 http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,2146000,00.html
 レポート映像 http://www.youtube.com/watch?v=ldg1DNqj1FQ )

その号はミャンマーでは発禁処分になったとか。たしかに、表題は必要以上に扇情的ではないかいう感想は可能かもしれない。

ここで、彼の活動の是非を論じるつもりはないが(私自身の日常に照らして必要がないので)、

ただ一点、同じ僧侶として「これは正しい言葉ではない」と感じるのは、
彼が「これは釈迦の教えである」と語っているらしいこと。

「恨みは恨みをもってはやまず」という有名すぎるダンマパダ他の言葉を引用するまでもなく、
彼の言動は、ブッダの教えそのものはなかろうと思う。

○ただそうした解釈論の以前に、彼の言葉はいっそう正しくはない。というのも、

彼は、否、現代に生きる僧・人々の誰も、ブッダに会ったことも直接聞いたこともないからである。「これは釈迦の教え」という言い方は、厳密には成り立たないはずだからである。

もとより、ブッダの知性と、自分の知能とはまったくの別物である(脳という容器そのものがちがう)。

ならば、自分以外の他者の言葉・見方というものを、自分自身の言葉・見解として語ることはできない。

あくまで、自分自身が実践して、確かめて、実感して、理解したことのみが「おのれにとっての真実」になるのではあるまいか。

その真実を、自分自身の生き方として、理解として、考え方として語るのならば、それは正しい言葉といえるだろう。

最もふさわしい言葉というのは、
自分自身にとっての真実を、自分の言葉で、自分の生き方として語る言葉である。そこに他人の言葉はいらない。

特に、「生き方」を求めて出家し、「生き方」を人々に説くことを求められている僧ならば、本来なおさらである。彼らは、本当は「お釈迦様はこう言っています」とは語ってはいけないのである。

それは、生き方を説く人間として「フェア」ではない。

他人の言葉を根拠としているという点で、生き方を語る資格もないのかもしれない。

彼らは、そうした非論理的で、筋が通らず、フェアではなく、生き方としての根拠にもならない「お釈迦様」を人々に語ってやまない。

そうして、簡単に「輪廻」なる誰も確かめたことのない話を、「お釈迦様の教え」として語ってしまう。

そして、そうした非合理的な発想の延長に、今回のミャンマー僧による扇動があるような気がする。

「お釈迦様」を語る彼の言葉は、どれも結局は、自分の思い込みでしかない。

自分の思い込みを他人の存在で根拠づけようとしている現実自体が、ブッダの教えに反するのである。

(仏教を学んでいる人たちは、ぜひ確かめてみてほしい。ブッダは一度たりとも「誰かがこう語っている」とは語らなかった。「私ブッダの言葉を自分の言葉として語れ」とも言わなかった。「自ら実践して確かめてみよ」と一貫して説いていただけである)。


●タイの贅沢な僧も、ミャンマーの過激な僧も、

「世の中がそれを許している」「伝統はこうである」「お釈迦様はこう言っている」という他人まかせのあり方である点は共通している。

それが本当に自らの生き方として真実たりうるのか、

自らの言葉・行いの先に何が待っているのか、
それは自分自身の本来の最も深いところにある心に照らして、正しい、納得のいくものなのか、

という誠実な自問が抜けているように映る。

そして、その結果として、自らの人生に報いがくるだけでなく、

やりようによっては、世の人々の希望となり、よりどころとなり、

あるいは信仰をたがえた者との間でもよき関わりを育てていくために、
どう関わればよいのか、どう聞き語ればよいのかということを、もっともっと真摯に、慈悲をもって、人々とともに考えていけるはずなのに、

そうした明るい方向性とは真逆の事態を招いてしまいかねないのである。

仏教を語る側が、行いや言葉を間違えてしまえば、
その先に来るのは、人々の失望であり、この時代の中の孤独であり、
信仰を異にする者との葛藤・対立、そして流血の争いであろう。


●私は、ただひとつ、正しいと思える立場に戻りたい。

自らの生き方を、自らの生き方として問う、語る、生きる」という立場である。誰の生き方を引くでもなく。

私は、自らの新しい生き方を、誰にも頼らず発見し、その見つけた真実を人々に、自分の言葉で説いたという点で、やはりブッダに敬意をもつ。

○話が長く(熱く?)なっちゃった――。

教室に来てくれたみなさん、どうもありがとう。

今日分かちあった「生き方としての仏教」、ぜひ考えてみてください。

次回の仏教の学校・夏クラス第2回は、7月10日(水)と13日(土)です。


またお会いしましょう!

なかなか前に進めない5つの理由とは?

●6月29日(土)は、仏教の学校・イントロ編を開きます。

仏教のエッセンスを、
主要な教えをピックアップした教材を使って総ざらえします。

仏教を里でまだ学んだことがないひとはもちろん、
今の講座に「途中から参加した」ひと、昨年のきほん講座を欠席してしまったひとには特にオススメです。

●私がうれしいのは、仕事などで忙しくてなかなか通い続けられない人が、ときどき時間をやりくりして出席してくれることです。

仏教というのは、やっぱり心の中にずっと留めて、育てていくのが最も尊いことです。
離れてしまったら、もう「もともといた自分」が戻ってくるだけですから・・・・たまーにでも、来られる時に来て、自分の今の心境と、仏教が説く発想とのズレを確かめることが大事なのだと思うのです。

行けるときには行くぞ、という思いが、日頃の生活で何を心がけ、何を避けるべきかを意識させてくれるのではないかな。その「忘れない」日常が大切だと思うのです。

●さて、最近の受講生の感想を紹介しましょう――

春クラス最終回の、業(人生をつくりだす力)というテーマについて。

先日も、業について清い学びをありがとうございました。

自分の日々をつくっている行動、言葉、思いの一つひとつが
どう生み出されているのか、より敏感に感じる日々が続いているように感じます。

とはいえ、心がざわつき、ざらつくことは数多く、
五蓋に照らして自己を知りつつも、知るよりも早く、反応するその粗さ、繰り返すしつこさに
懺悔文の言葉を、何度も見直す時間を過ごしています。

「過去の一切を手放す」
大きな言葉だと感じます。なかなか難しいです。


「五蓋(5つのさまたげ)」というのは、心の成長を妨げる5種類の煩悩のことです。

伝統仏教では、①快楽欲、②嫌悪(これが大きくなると怒りになる)、③停滞(暗くなる・ふさぎ込む・重たい・憂鬱)、④散漫あるいは昂ぶり(後悔も含む)、⑤疑い、の5つ。

ただこれは「禅定(≒高度で安定した集中状態)を妨げるもの」という意味があって、他の経典では、

「五つの執着」として、①貪欲、②瞋恚(怒り)、③妄想、④高慢māna、⑤自分の見解(自分がこだわる見方・考え方) を挙げています(サンユッタ・ニカーヤ第1集)。

講義で紹介したジャータカ物語では、三毒プラス「慢」が挙がっていましたね。

学ぶ側としては、こうした仏典の言葉に触れたときに、
「自分の心の成長を妨げているのはどれだろう?」と考えて、
「自分特有の5種類の妨げ」というかたちで再構成することを勧めます。

「お勉強」としてとらえる人は、こういう仏典の言葉を「知識として覚えよう」としてしまうのです。

でも、それじゃ心の成長には役に立たないでしょう?(試験のためにやってるのではないんだものね)

むしろ、とことん自分本位に、主体的に考えて、
「自分自身が気をつけなければいけない妨げ・ベスト5」を再構成するほうがよいのです。

(※注記 もとより仏典の言葉を「これが正解」として限定しなければならない必然的理由はありません。仏典の言葉が正しくて、自分の理解のしかたが間違っている、という“論理的証明”は不可能です。
試験とちがって、これは自身の生き方の問題だから――世界の誰ひとりとして、あなたの幸せを定義づけうる権威(オーソリティ)にはならないのです。
自分が幸せかどうかは自分自身が決めること。ならば幸せになる方法も自分自身が選んでいいこと。だとすれば、仏典は、あなた自身が自分の現実に照らして整理し、加工し、カスタマイズして「活かす」べきものなのです。)

大切なのは、「自分の人生に役立つか」という視点。それがブッダの思考法。

その意味で、前回の講座では、「慢」(うぬぼれ・見栄・プライド、卑屈になったり高慢になったりという自分の価値を測る心)を、妨げのひとつとして入れました。たしかに妨げですものね。


」というのは、承認欲が生み出す心の病気(妄想の一種)ですが、これはなかなか強力で、しつこいのです(笑)。

自分はエラいぞ、すごいんだぞ、というわかりやすい慢もあれば、

「ちょっとくらい力を抜いても大丈夫だろう」と油断してしまったり、調子がいいからとつけあがってしまったり、というのも慢。

今売れてる『スタンフォード大学の自分を変える教室』では、
この「頑張ったぶん力を抜いていいと思ってしまう」というのを「罪のライセンス」と呼んでいます。

「いいことしてきたんだから、ちょっとくらい悪いことしてもいいでしょ」という反動。
代表例が、「ダイエット頑張ったから、ちょっと甘いものを・・・」という悪魔の誘惑。

仏教では、これは「慢」。
「ラクをしたい」とか「甘いものを食べたい」といった欲求が生み出す屁理屈=妄想、なのです。

『教室』の作者であるマクゴニガルさん(心理学の先生)は、そこに打ち勝つのが「意志の力 Willpower」だという。アメリカ的ですね。


仏教では、こういう「慢」の誘惑に打ち勝つのは何だと説いていると思いますか?

それは、「つつしみ」「懺悔」の心なのです。対照的で面白いでしょう?

自分が日頃犯してしまっているあやまち(腹を立てたり慢を持ったりという毒を生んでしまう心)を、「すいません」と心でこっそり懺悔する。

「心のどこかで自分はエライ、正しい、なかなかエエことしてやった(どや?)と思っているかもしれないけれど、これは承認欲が生み出すただの判断(妄想)、アホらしい錯覚」と考える。

「人間なんて一生でわかることなんて微々たるもの。わかった気にならないようにしよう。むしろ、わかっていないという前提に立とう」と考えてみる。自分の足もとをつねに見つめる。それが「つつしみ」。

こうして、つねに、人生わからないことばかりで、頑張ってるのに失敗したりして、
ときに快楽に流され、ときに小さなことで腹を立て、
そのくせ自分にとって大事だとわかっているはずの物事すらまともにやり通せない、なんとも頼りない自分、という理解に立つ。

そうして、謙虚に、つつしみをもって、ひとさま、世の中に向き合う。

それが生き方の基本のような気がします。

こういうつつしみを持つひとは、とってもタフになれる。

自分は自分が想うような自分じゃない、という謙虚さがあるから、

つねに足もとをみていて、緊張しないし、腹を立てる回数も減るし、目の前のモノゴトに集中できるようになる。自分を見失わないですむ。
つつしみというのはほんっとに大事。


龍瞬先生が、「③火をつける」にて、
最終的に語ったことは「淡々と物事をこなす」だったことが
非常に印象に残りました。

この問いにおいては、テキストの文面からも
非常に前向きで、希望に満ちたことを
自分に課したくなりますが、

たしかに、それが抽象的な大きな概念であるほど
日常の現実では、地から足が浮く感じがして、
求めすぎるとかえって執着がおきたり、
達成できないと、大きな苦が起きそうです。


そのとおりと思います。
正しい火(夢・目標)は、遠くに見るものではなく、近くに見るもの――。

理想は、
今の自分に着実にできる範囲の中にしか「火」を置かないこと。

そのすぐ目の前の火で、自分の心をあっためて、できることをやる。
できることをやっている中に火(喜び)を感じられるようにする。

そういう心がけをつきつめれば、「火」なるものは実は必要なくなって、
ただ、目の前の作業、できることを淡々とやるだけで、それが楽しい「火」になってくれる――。

そういう「淡々とこなす中に人生の火(喜び)を感じる」というのが、仏教の最終ゴールのような気がします。

みんなは、どう思いますか?

「今できること」を着実にやることに「火」を感じられるようになったら、それが一番のような気がしない?
そうすれば、毎日が火になってくれるから。日々楽しく生きられるから。

だから明日はこうしてみませんか?

明日一日がそのまま自分にとっての「火」になるように、「考え方」を工夫してみるというのは?

まずは、つつしみ(謙虚さ)をもつ、ことから始めてみよう。

仏教流「自分を変える教室」? ~仏教の夏学校スタート!


●仏教の学校・夏学期の初回は6月22日または26日(いずれかにご参加ください)。

前回の「心に火をつける」というテーマを、もう少し掘り下げて考えてみたいと思ってます。

たとえば、
○誘惑についつい負けてしまう、
○前向きな目標・夢が欲しいのだけどまだ見つからない、
○今現在「迷い」の中にいる、
○生活がマンネリになっている、
○このままでいいのかな?という漠然とした不安を感じている、
○情熱・やる気を取り戻したい、
○途中で降りない・逃げない・負けない心を作りたい、

といったひと向けに、仏教の考え方を整理したいと思います。

比喩的には、「心に火をつける」(≒前向きな発想を身につける)、そして「消さない」方法を考えるということ。

仏教的には、「正しい思考」と、「正しい努力」(ともに八正道)が関わってきます。


たとえば「正しい思考」というのは、
①正しい動機をもつこと、②方向性(目標)を定めること、③そしてそこにたどりつくための方法を考えること。

ただ実際には、その動機に、「ひとに褒めてもらえる」とか「期待を裏切れない」といった、他人本位の「不純な動機」が入っていたりする。

そうすると、努力の途中でモチベーションがわかなくなることがある。

方向性もまた、そのままでは仏教では「妄想」でしかないので、遠すぎるとヤル気が持続しない。

「生き方に迷った」ときに、考えなくちゃいけないのは、

自分の動機、方向性、そしてたどりつくための方法として「今していること」の正しさ。

それぞれが、確信できる・集中できる程度にまで「具体的に」なっていないといけない(でないと途中で降りる。迷う)。

その動機は正しい?
方向性になにがある?
方法はちゃんと見えてる? 
集中できてる?(できないとしたらなぜ?)

ものごとに取り組む、
納得いくようにこれからを生きていく、には、

こうした「正しい考え方」、つまりは生き方、努力のしかた、をなるべく具体的につかんでおくことだと思う。

そういう、前向きな、建設的な、けっして途中で折れない、
落ち込まない心の持ち方(人生の組み立て方)を、仏教的に考えてみたいと思います。


ちなみに、今売れてる『スタンフォード大学の自分を変える教室』(大和書房)では、

「(必要なことを)やる力」と、「(誘惑に駆られたことを)やらない力」、そして「望む力」が必要なんだとか。

全体として、「誘惑に負けない心のつくり方」を語っている様子です。

「人生をつくるのは意志の力」というわかりやすいメッセージもある様子。

あの本が語っていることを、仏教で整理するとどうなるのかな、と考えてみたのです。

仏教の視点だと、「意志」というのは、けっこうあいまい。
ただの我欲じゃないの? 妄想じゃないの?という疑問がでてきます。

それはモチベーション(最初にある動機)なの? 
それともめざすべき方向性なの?という視点も出てきます。

正しい動機ってどういうものか?(それは他人の思惑ではなく)
正しい方向性と、まちがった方向性はどうちがうのか?(それは他人に認められることではなく)
というテーマもあります。

なぜひとが最初の目標を達成できない(くじけてしまう)のか?という点も、
仏教ではもう一歩掘り下げて示してくれているような気がします。

そこでこちらの教室では、
「意志」「やる気」「情熱」をもう少し緻密に分析して、

「負けない」「手を出さない」「くじけない」ための心のつくり方を、もう少し具体化してみようか、と思っています。

そこがわかれば、必ず現実に役立つ部分がでてくる。
だれだって、これからを生きていく、今を生きていることは同じだから。
「生き方」は必要のはずだから・・・。

それに加えて、「空」とか「無常」とかいう、おなじみの仏教タームを、
より日常に活かせる「考え方」として、かみくだいて紹介する予定です(あの般若心経の本質訳も出てきます)。


★梅雨のど真ん中ですが、んなことに反応しないで(雨の情緒もオツなもの)、

ひとつでもふたつでも新しい発見・知恵をさがして外に出ようじゃないですか。

では教室でお会いしましょう!

「そうできたら、ラクになれるでしょうねえ」


●6月19日は千代田区の講座。

業、玄奘の年譜&読み物、大乗仏典年表を配布。

ここ半年通ってきている人が、「自分の心を分析できるようになった」という。

自己理解が進むというのは、尊いこと。
仏教には「功徳」(≒よきはたらき)という言葉があるけど、自己理解こそは功徳の土台、功徳そのものかもしれない。

「自分の人生は失敗だったと思う」という誰かの思いは、
仏教的に言えば、判断に基づく怒り。

ただ必ず抜け出すことができる。
「判断(思い込み)が生み出している怒り」なんだという自覚を深めることによって。

それは、自分の「満たされなさ」の正体に気づくこと。

そうして、気づきという実践を重ねて、ゆっくりと、着実に抜け出していく――。

「もしほんとにできたら、ラクになるでしょうねえ」とおっしゃる。

そう思えただけでも、この半年仏教を学んだ甲斐があったというものではないか。


●20日は巣鴨。

新しくきた人は、「生き方としての仏教がまだ身についていない」と語る。

「知識はある。でも身についていないという感じがある」。

たぶん仏教を学ぶには、自分自身の生き方として仏教を活かす、という発想が必要なんだろうという話。

今の自分はどんな心の状態にあるのか。どんな苦しみを感じているのか。

これからどんな自分をめざすのか。たどりつくべき心のありようというのはどういうものなのか。

そのたどりつくべき心を手に入れるには、今なにを心がければ(実践すれば)いいのか。

自分の出発点。目標。そしてたどりつくための方法。

この三つがそろったときに、「道」ができる。

仏教というのは、ひとつの道を教えてくれる思想。その思想を自分自身のために活かす――

そういう主体的な、現実本位の学び方が必要なのだろう。

今日はここでも、業と因縁の話。

業とは何か、までは行った(スッタニパータやアングッタラニカーヤに出てる)。

次回は、業の原因、業を抜ける方法。そして慈悲喜捨の瞑想のしかた。

巣鴨はシニアが多いけど、みな一生懸命仏教を学んでくれるのでありがたい。

もう2年になるんだね・・・。

本物が見ているもの(正しい学習法)


●最近あった、これは善き出来事。

前向きな目標を持っている人は魅力的。がんばってほしいと思う。

何かを成し遂げることは簡単じゃないよね。
現実はつねに作業の積み重ねでしか運ばないから。

たぶん肝心なのは、その作業が、「正しい方法」に裏打ちされていること。

「正しい方法」こそが、一番考えなくてはいけないこと。


○「正しい方法」というのは、やっぱり本物・一流の人間が知っている。

彼らはえてして、自分のアタマの中(彼らが実践している正しい方法)というのを開陳してくれない。

だけど探してみると、やっぱり教えてくれている人はいる。

図書館に行ったり、論文や新聞記事を漁ったりして、
「自分の心にいちばん響く」言葉をもっと貪欲に探してみよう。

テキトーな人たち(≒自身の限られた成功体験を語るばかりで、本質・原理にまで自らの体験を昇華できていない人。たとえば予備校の先生?)が語る
「これが正しい方法」というのにとらわれないで、

心を開いて、広く大きな心で、
本当の本質、本物のものの見方・考え方とはどういうものだろう、と考えてみてほしい。


●不思議なことに、それらの本質、本物というのは、

みなシンプルさを持っている。そして美を持っている。

美とは、譬えば秩序のこと。
現実を処理する、理解するための法則とか、体系とか、視点を与えてくれるもの。

本当の学びというのは、どの世界であっても、
明快な視点、秩序を与えてくれるもののはずである。

あるいは、
そうした視点や秩序の“つくり方”をも教えてくれるもののはずである。

たとえば数学を学ぶというのは、
この宇宙の法則を、数式や記号で秩序化する方法を学ぶということ。

美術を学ぶというのは、
この世界の美しさを色や線や立体で描き出す(つくりだす)方法を学ぶということ。

どちらも、「方法」(つくり方)を教えてくれるはず。それが本当の学び。

(もしこの問題にはこの解き方を覚えろとか、このオブジェにはこの描き方を真似しろ、という先生がいたらニセモノだと思うでしょう。ほんとはどんな学問・勉強も同じ。「つくり方」を教えてくれるのがほんとうの先生で、つくり方を学ぶのが本当の学び。)

もしそうした「方法」を学ぶことができれば、
目の前の現実は、自分なりの秩序をつくるターゲット(的)になる。

自分で秩序、道筋をつくれるようになる。
現実にどう向き合えばいいか、自分なりの方法が思い浮かぶ。

その結果、世界がとてもよく見えてくる。楽しくもなってくる。


○仏教だって、ほんとは現実に秩序を与えてくれるもの。

つまりは、複雑で混沌とした悩み苦しみ多きこの現実に、
どう向き合えばいいか、どう理解すれば(受け止めれば)いいかという道筋を与えてくれるもの。

仏教を学ぶということは、ただ言葉・知識を増やすことではなく、
「こういう状況のときにはこう考えよう(理解しよう)」

という思考の道筋をつくっていくことなのだと思う。

たとえば複雑膨大な仏典の言葉を、ただやみくもに知識として追いかけようとすれば、
たぶんどこまでいってもわかった気はしないだろう。

(そこに仏教学の試験でもあれば、丸暗記とかテクニックに走ろうとするかもしれない(笑)。だがその道の結末にはあまりろくなことはないだろう。)

しかし自分なりの目的をまずは持つ(「今あるこの満たされなさを解決しよう」)。

そのために、基本的な理解を学ぶ。理解するための視点・体系というものを持つ。

(四つの真理や八正道、心を浄化する方法としての座禅/ヴィパッサナー、あるいはひとと関わるときの心の基本である慈悲喜捨とか。)

それらの理解を深めるために、さまざまな仏典の言葉に触れていく。

そのとき、それらの言葉が、
どの目的・視点・テーマに関するものなのか、
自分の人生にどう活かせるのか、
といった明確な目的意識をもってアタマに収めていくことだ(考えながら読むとは、頭の中に秩序を作りながら、論理を再構築しながら読むということでもある)。

その積み重ねによって、だんだんと「自分にとっての仏教」が出来上がってくる。

そのとき築かれるのは、自分にとって最も使いやすい、自分メイドの「現実への対処法」である。
一度確立されれば、あとはそれを活かして現実に向き合えばいい。


そういう心構えができたとき、苦しみの多くは霧散する。

どんな問題にも、自分なりの理解をもって受け止めることができるようになるからである。


●何かを学ぶというのは、そういうことだと思う。

秩序のつくりかたを学ぶこと。それを再構築できるようにすること(練習)。

誰かが語る言葉をそのまま鵜呑みにすることじゃない。
難しい言葉をそのまま覚え込むことじゃない。

誰かの言葉を活かしながらも、
自分が最も操りやすいように、現実に自分なりの秩序を与えられるように、
表現をカスタマイズしながら、
自分なりの視点・秩序・体系を作っていくことなのだと思う。

「自分なりの説明の仕方」が確立できればいいのである。

つまりは、最終的には、あらゆる分野でいえることは、
自分自身の言葉で、自由自在に、語れる(書ける)ようになることなんだ。

恐れるな。媚びるな。つねに自分自身の思いを、力をこめて表現せよ。


●「そこまでオリジナルでいいの?」と思うかもしれない。
でも本当のオリジナルというのは、必ず他人も通じる「本質」をきちんと踏まえているものだ。

(もし他人に通じないとしたら、まだ「本質」が分かっていないということだろう。)

「本質」がわかっていれば、どのような言葉の構造物(表現)であっても、他人に届く。
そういうものだと思う。

無駄をくりぬいて、削ぎ落として、「本質」だけをきわめる作業をすること。

自分にとっての「本質」をみきわめるという主体的な目的を、学びの動機とすること。

「本質」だけで、その場にあわせて、
その場における最善の答え(理解)をつくりあげられるようになること。

その理解は、必ず、わかる人にはわかる。そして高く評価されるはず。

わかってもらえるだろうか(笑)。


○どの世界にも、本物・一流が見ている「本質」というのがある。

もしそこに幸運にも届くことができたら、世界はがらりと変わって見える。

希望はある。がんばって。