仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

さてさて、(事務所整備中)


さてさて、

帰国して実感していることだが、

私はひとと関わらなければ心が駆動しない生き物である。

インドから帰ってきて一月一杯は文筆に専念しようと思っていたのだが、

結局、外で講座のある時間以外は、書棚を作ったり家電の買い出しに行ったりという新居の「巣作り」に時間を使っている。


(その心境は、試験の前日になぜか部屋の大そうじをしはじめる学生に似ていなくもない。なんとな~く逃避行動、である。)

なぜ今、巣作りなのか、といえば、たしかな理由があるのである。

出家して日本を離れるときに、私は家財のいっさいを処分した。いわば正真正銘の無一物、ド素寒貧となって、バッグひとつで海を渡ったのである。

以来その延長を生きていた昨年までの二年間は、ほんとに何もない状態であった。

今新しい場所に引っ越してきて、電気ポットをいただいて、「な、なんという便利!」と驚いて、そろそろ石油ストーブやら(まだなかった?)冷蔵庫やら電子レンジやらをそろようかという段になって(かなり恐るおそる(笑))、

「ほんっとに、自分、なんにも持ってなかったんだな~」

と実感して笑っちゃうのである。

もとより出家僧に持ち物、まして家電なんぞいらないはずなのだが、ただこれから日本で実のある活動(売れる本を書くとか(笑))をするためには、日常の生産性を上げなければいけない。

本棚もしつらえて、本を借りこんでどんどんバリバリ読み込んで、言葉を増やして、ひとさまにもっと心深く熱く届く本や語りを届けねばならない――なんて意気込んでいるのである。

さすれば、この「なんにもない」事務所を、「ちょっとはある」状態に持っていく必要があるのである。

目安は、三日間こもっていても生命活動を維持できる環境をつくること、である。

今年で活動3年目――がんばらねば、なのである。

過去2年間は、かなりのグッドラックにめぐまれたような気がする。

多くのよき人たちにめぐり逢えたし(感謝)、
教室もさずかったし、
本も出せた。

ただ、この幸運がこれからも続くとは思っていない。もしかしたら、ここから先が“わが仏道の氷河期”なのかもしれない、なんていう妄想も可能なのである。

ただ、妄想するなら、明るい、あったかい方向で思い描いたほうがもちろんよいわけで、

今年は、季刊誌を出して、文章も絵も書も書いて、
もっと人々と出会い、交わり、
しあわせの黄色い花をおたがいの心に咲かせたい、なんて思うのである。

理屈でかためるのではなく、情にしみる味わいあるよき本を出したいとも思っているし、

仏教を、もっと普遍的な、
明るい希望を人々が心にジェネレート(発電)できるような、
より開かれた魅力的な教えとして、広めたいとも考えている。

仏教は執著をいましめるが、
よき方向性への執著、というより正確には、よき方向への決断・選択、はあっていい。

私は、もっと善く、新しく、明るく、あたたかな未来へと、この命を活かしたい。

たとえるに、厳寒の枯れ野原にあって、その地を、愛らしい野の花咲く春の田へと変えていくような生き方・活動をしたいのである。

それは、インドの地においても同じ。

苛烈な現実のなかにあって、おのれの人生をよき方向へと変えていく情熱の火となるような仏教を、彼の地に伝えていきたい。

私は仏者として、仏教を、

人々の現実に真に役立つ思想・方法へと組立て直す責任と義務を負っている

――自意識としてではなく、心の働かせ方・転がし方として、そういう感慨がちらと湧いてくる。

この新しい場所に立って、こう感じるのである――

生きとし生きるものはみな、幸せであれ。

この命は、そのためにこそ余生を尽くそう。


ということで、事務所の整備中。
2月2日から、神楽坂の教室、はじまります。

新春ライブ、いよいよ発進~! 

1月18日 (みなさん、よき週末を!)

インドから帰ってきて、ようやく一週間。

どうもまだモードの切り替えが完了してない。なんか妙な落ち着きの悪さを感じています。

インドでの活動と、日本での活動は、ちょっとアタマのモードが違います。

説明は難しいのだけど、日本では“知的芸人”風。小ワザを駆使してひとに喜んでもらう、みたいな。

インドでは“闘う宣教師”風。闘魂モードでストレートにメッセージを説く、みたいな?(щ[`Д´┌]щファイッ!)

でも、ここ数日、新しい仕事の話が舞い込んできて、徐々に日本モードが戻りつつあります。めでたし!

*・゜゚・*:.。..。.:*・*:゚・*:.。. .。.:*・゜゚・**・゜゚・*

◇講座の日程、きまりました。
(カレンダーで見たい人は「2013年の講座スケジュール」へ)

――――――――――――――――――
●2月2日(土) 午後6時~8時 
年初めライブ 龍瞬、インドをゆく ~インド再訪の報告会(スライドショー)と原始仏教のお話(ブッダはいかにして社会を変えようとしたか) ★参加費無料! 
――――――――――――――――――
●2月9日(土) 午後6時~8時半 (※6時半希望の人は連絡下さい)
仏教のきほんを学ぶ講座・改訂版(全4回) 

昨年実施したシリーズ講座(全6回)を、部分的に内容を改めてお届けします。前回出られなかった人・改めて学び直したい人向け。

★注意! 「第2・4土曜」の定期開催とします! つまり、
2月9日、23日、3月9日、23日の計4回です
参加費 単回1700円 4回一括6000円(教材費込み) 
――――――――――――――――――
●2月13日(水) 午後7時~8時半  
仏教のきほんを学ぶ講座(全4回) 

土曜がダメな人向けに、水曜夜に定期開講。
仏教の全体像をつかみたい人、実用的な考え方を学びたい人にオススメのシリーズ講座。
仏教の本質・基本を、わかりやすい言葉で学べます。

★注意! 「第2・4水曜」の定期開催とします! つまり、
2月13日、27日、3月13日、27日 の計4回です。
参加費 単回1700円 4回一括6000円(教材費込み) 
――――――――――――――――――
●3月2日(土) 午後6時~9時 
メントレ!座禅・土曜夜の会 赤城
――――――――――――――――――
●3月16日(土) 午後6時~8時
実用的仏教講座「一生つづく男女カンケイの育て方」 赤城

※好評だった昨年の仏教的恋愛論を今年も実施します。
――――――――――――――――――
注記:
★仏教のきほんを学ぶ講座は、土曜、水曜クラスとも、4月からのシリーズ講座に合流できます。

これからの4回、または昨年10月からの仏教講座6回を受講して、

「仏教は役に立つぞ、面白いぞ」 と感じた人は、4月からの講座にぜひご参加ください (リピート受講はいつでも歓迎)。

4月以降も、原則、第2・4の土曜および水曜です。曜日間の振替も可(水→土、土→水)。

仏教にはまだまだ役に立つ、深い、スルドイ教えが満載です。それを一年を通して学んでいきます。

知的サークルとしてご活用ください。交流の輪も広がるかも。

★なお4月から季刊誌〈興道の里〉を発行予定です(予定)。

日ごろ遠くて来られない人向けに仏教講座のCD頒布も計画中。

詳しくは追ってご連絡しますね。

ただいま帰りました!

1月14日
こんにちは、くさなぎ龍瞬です。

ようやく日本に帰ってきました! ミッション完了です(ふう~)

インドは烈しかった――毎日がめまぐるしい。
今回体験・見聞きしたことのすべてがわずか3週間足らずの間の出来事だというのは、かなり不思議。

今の心境をたとえると、味わう間もなくたらふくバイキング料理を食べさせられて、一体自分はナニ食ったのかこれから思い出そうとしているような感じ(?)。

ブログで報告していたインド訪問記は、まだまだ続きがあります。

詳しくは2月2日の年初めライブでお話しましょう。
現地の写真もお見せします。お楽しみに!


上野にたどり着いたとき、冷涼たる空気に触れて、正月を迎えたような気になりました。

「今年はがんばるぞ(やらねば)」という感じ(過去を見ない坊さんは「今年も」という言い方はしない(笑))。

ちなみに昨年の抱負は、「一年ライブを休まずに続けること」だけでした。

完遂。それだけでいろんな出来事に恵まれた。神楽坂での事務所開きも、インド再訪も。二冊目の本も。

今年も同じ。目の前を見て、理解して、自分にできること、なすべきことをやる。

もし正しい行いをやっていれば、自然に因縁というのはつながってゆく。
自分としては、だから何も考えないで、行いに努めるだけでいい――。

今年は日本での活動3年目。よきつながり(ご縁)が増えてきた感じがします。

これからもっともっと確かな心通う関わりをつくっていきたいと願っております。

本年もどうぞよろしくお願いします。


今回の旅でひとつ感じたこと――それは、

仏教発祥の地インドで仏教を伝えられることの幸せ――です。

今回発見したのは、私が伝える“伝統フリーな仏教”がインドで受け入れられる可能性がかなり高そうだということ。

ナグプール、バンガロール、と大きな都市二つに活動拠点が簡単に見つかった。
私が今後インドに渡れば、現地の人々が会場&人集めのお膳立てをしてくれることに。

今後は、身ひとつでかの地に渡って、その場でブディズムを説き、仏教を奉じる現地の人々を励ますことが可能になったのです。

仏教を伝える者にとって、仏教誕生の地で仏教を分かち合えることほどありがたいことはない。

僥倖(ぎょうこう=思いがけない幸せ)にあふれた旅となりました。

さて、2月、3月と単発の講座をやって、4月から通年のシリーズ講座をはじめます。

ワークショップも定期的にはさんで、サークル的にみなさんの横の交流の場としてもらえればと思っています。

日本で通じる内容は、インドでもダイレクトに伝わるのです。いうなれば、仏教講座に通ってくれるみなさんは、仏教発祥の地インドでの仏教のリバイバル(復活)を後押ししてくれているのかもしれない。みなさんに紹介する内容が今後そのまま英語バージョンでインドで紹介されていくのですから。

もし仏教がいったん絶滅したインドにて、かの地の仏教徒たちが、

日本ではじまったこの場所での仏教を

“ダンマ”として受け止め、心の拠りどころしてこれからの世の中を作っていってくれるとしたら――どう?

夢想は禁物だし、別に価値を確認する意図もないのだけれど、
日本とインドで始まろうとしているこの道は、
“新しい善き価値の創造”という、私が唯一こだわる価値を具体化してくれる可能性を秘めている様子。

ならばこのまま歩き続けるのみ。

本当の道は、たどりつく先を見なくても、
今歩いているこの一歩一歩に充実を感じるものでしょう。

この一歩に気持ちを込めること。
それだけで必ずどこかにたどり着けるであろうという予感がすること。
それが理想の道なのではないかな――。

今年一年は、
仏教ライブを休まずに続け、
三冊目の本を発表し、
年末にはもう一度インドに渡る(いよいよインドでのダンマライブが本格スタート)、
というのを方向性に、がんばります。

みなさん、ご支援よろしく。そしてご同行あれ!

あなたにとってこの一年がよき年となりますように。

インド帰郷9  ウダサ村の一日

1月4日 

早朝、村人の声で目が覚める。久々に熟睡した。

ラケシュの家には、近所の婦人たちが水を汲みにやってくる(ポンプのない家庭も多いため)。

男たちは、歯を磨いたり(インドでは夕食後ではなく朝歯を磨く(笑))、新聞を読んだり。朝から人々が集まってにぎやかしい。

朝8時すぎ、学校の子供たちが集まってくる。(正月休みというのは基本的にない)

ラケシュの家から細い土の道をはさんだ向かいに幼稚園がある。ある子供たちは歩いて、ある子供たちはディパックの兄の車で、ある子供たちは親に連れられてやってくる。カバンを置いて、楽しそうに遊びはじめる。女先生がやってくると、元気よく「グッモーニング、ティーチャー!」

朝礼は外の小さな敷地でやる。前の子の肩に手を置いて「前にならえ」の整列。

一番うしろの子の肩に私が手を置いてみせると、子どもたちが笑う。

そのあと各教室へ。この学校は部屋が二つしかないので、ひとクラスはとなりの民家の部屋でやる。学校をはさんだ反対側のもうひとつの民家の屋上で朝礼を開くこともある。

この地の人たちは、あまり「自分の持ち物」というものを気にしない。部屋が空いていれば子供たちの教室としてごく自然に提供する。もちろん無償、と語るのも野暮なくらい自然に。

夜は、一部の村の青年たちは学校の教室で寝る。ラケシュの家族は、それまで椅子かわりにしていた簡易ベッド(ベンチと呼ぶ)にそのままころんと横になってみなで寝る。男も女もないし、世代も関係ない。そして明るくなるとぽつぽつと起きだして(目覚まし時計がない)、いつの間にか、いつもの朝が始まっている。

みなよく喋るし、仲がよい。近所のみながひと家族の観がある。話のネタを見つけてはけらけらと笑いあっている。ひとつ思うのは、彼らは、上手に生きるすべ・うまく関わることを自然に心得ているということだ。

朝礼の様子をみながら思ったこと(振り向いて私のほうをのぞいている(笑))。

この子たちは、今日この幸運を振り返ることがあるだろうか。この子たちは、とてつもなく精妙な幸運のなかにある。

十年前に、村の青年たちが小さな図書室を作った。それをさかのぼることさらに十年前、ワスという二十歳の青年がババサブ(アンベドカル博士)の著作『ブッダとそのダンマ』を読んでなにかを深く考え出し、まだ小学生だった弟のラケシュやその友ディパックを教育し始めた。

彼らが大きくなって意志を持ったとき、彼らは村に新しい何かを創り出そうと図書室を作った。数年たって、ラケシュは、ブッダガヤへの道中で、道を探してインドにわたってきた日本人と偶然出会った。

それから二年たって、彼らと僧となった日本人とは話し合って、仏教に基づく社会改善の活動をはじめようと、新しい組織をつくった。その第一弾として幼稚園をつくった。

それから3年半がたった今、今朝の朝礼には100人を越す子どもたちが並び、嬉々として先生にあいさつし、3歳の子供たちはよたよたとおぼつかない足取りで教室に入って、何も考えることなく先生の声に耳を傾けている。

そのやわらかな顔立ちはほんとうに無垢のスポンジのようで、大人はけっして取り戻せない、“吸収”という名の才をあますところなく発揮しているように見える。この子たち以上の“可能性”は、ひとは手に入れることはできないのかもしれない。

この子たちが受けている教育は、村の青年たちが考えるベストの教育である。3歳の子供たちが、月百ルピー(160円)という授業料で、これほど良質な教育を受けている。

子供たちは、村人たちの最良の善意によって今日一日を生きている。

「見えない翼」にささえられて、彼らは幸運の雲に乗っかっているように見えなくもない。

3年半前には“無”だったものである。今は100を越す可能性が生まれている。

はじまったばかりの可能性。何一つ失われていない、ほぼ100%の可能性が、私の目の前に生きている。

“未来”はこうしてつくられていくのだろう。


未来のつくり方を、人々はこの上なくよく知っている。ごく自然に分かっている。

よき未来のつくり方を、私たちは知っているだろうか。未来への閉塞感は、未来のつくり方を忘れてしまった焦燥から来るのではないだろうか。

よき未来を作るには、ひとつは“無から始める”ことかもしれない。

未来を忘れた感のある人たちは、きっと出来合い(既成)の価値観やしきたりを前提にしすぎているのかもしれない。

無から始めることほど、心に素直に、よろこびを伴う、楽しい生き方はないのであろう。
私もこの流儀にしたがうことにしよう。

インド帰郷8 仏教の彼方にあるもの

12月30日

午後6時からマハーボディ寺院で3回目のディスコース(法話)。

原始仏典(ティピタカと呼ばれる)の中にも、ブッダオリジナルの教えに近い部分と、後期の付加・創作があるという話をした。 どう選別するか。いくつかの視点を紹介する。

◇質問を募ると、仏教心理学(アビダンマ)の博士号を持ち、受講生たちに講義をしている教授がたずねてきた。

「あなたの教えによれば、原始仏典はいくつかのオリジナルに近い仏典のみに限られ、さらに八正道とか四聖諦とかごくごく限られた教えだけになってしまう」と不服そう。

「(「限られるとは言っていないけど) ではあなたに聞きますが、あなたは八正道や四聖諦というものをこれまで一度でも完全に理解したことがありますか?」 。沈黙。

教授 「……ブッダは再生Rebirthをはっきり語っています」

「あなたの言うブッダとは、誰のことですか? ゴータマ・ブッダのこと?あるいは、それ以外のテーラワーダ仏教が擁する物語上の27人のブッダ? 

(ちなみに学界でゴータマ・ブッダが実在したことが認められたのは19世紀。それ以外はじつはたしかな根拠がない。

再生Rebirthをどう定義していますか? 生まれ変わりのこと? それとも求めてやまない心Cravingが生み出す、この日常の中での“求める心の繰り返し”のこと? 厳密な定義が必要です」

教授 「……十二縁起論は仏教の根幹です。あなたの立場だと伝統仏教を壊してしまうことになります」

「ダンマ(真理Dhamma)は壊せませんよ。あなたは十二縁起論を自身で確かめたことがありますか? あの順番通りに現象が生じると確かめましたか?」

他の生徒が質問してくる。

「私はRebirthを信じません。私は正しいですか?」

「あなたが正しいかどうかを決められるのはあなただけです。私に決めることはできません」

聴講生たちが意を得たりという感じで笑う。みな、ブッダの思考法がわかってきたみたい(笑)。

教授がさらに質問してくる。

「では(かなり憮然)、ある人が盲目で生まれてくるのはなぜなのか!?」

(とある伝統仏教には、“盲目で生まれてくる人は前世のカルマのせい”という説がある。身体障害をもつ人はむしろ蔑みの対象になっている感がある地もある。)

「お医者さんに聞いてください。知るわけないじゃん。Ask doctor. I don’t know.」

教室大笑い。

「前世のカルマというのは“確かめようがない”という点で、それ以上に考えるべきではないテーマなのです。考えること・説くこと自体が、本当はブッダの教えに反するのです」

伝統仏教の歴史を若干紹介する。バラモン教の影響が多分に混じっていること。原始仏典と呼ばれるものには、当時の宗教観とゴータマ・ブッダの思想とが入り混じっていること。

選別しなければ、混乱したままになってしまうこと。
それは人間の幸福には決して役に立たない状態であること。

「私たちには、もっと切実な何よりも大切な問題があるはずです。
自身の苦しみ・課題・疑問を解決すること。
この現実の社会をよい方向へとつくっていくこと。

いくらそのような議論を繰り広げても、ひとは失うことの苦しみを癒すことはできません。

ブッダは、すべての人間に共通し、この一度きりの人生で解決できる方法、なすべきことのみに限定して教えを解いたのです。すごくシンプルで明解。

あなたは、そのような議論を重ねることで、本当に自分にとって大切なテーマについて答えを見つけられると思いますか?」。ストレートにぶつけてみる。


この地の人々のよいところは、お坊さんの話を真剣に聞くこと。みな真面目に聞いている。

輪廻転生とか、前世・来世とか、カルマとか、伝統仏教にまぎれこんだ物語を信じるのは自由。
だが、ブッダはそれをそもそもの目的にしていない。

あくまで、心の浄化、現実の満たされなさからの解放こそが目的で、その目的に沿った合理的な方法を説いたのだ、と強調する。

生徒はみな、この話にうなずくのである(教授以外(笑))。


◇ある人曰く、インド人は「宗教を手放せない」民族なのだそうだ。彼らは宗教をとても大切にする。

だが、今宵の法話をみてみると、インド人というのは、宗教と同じように合理的思考にもなじむのがすこぶる速いように感じる。予想以上に理解が速い。

「仏教の学び方を教えてもらった」とごく自然に納得している様子なのである。


来年再訪したときには、5回のシリーズ講座をこの寺院ですることに。他の僧院でも法話をさせていただくことになった。

仏教というより“合理的思考”を知るべきなのである。合理的思考こそは、宗教を超えて、人間がいつまでも必要とするものだろうから。

仏教は合理的思考にこそ貢献すべきなのである。合理的思考が第一。仏教は第二。
考えるべき順番がちがう。

そういう視点に立ってみるとむしろ、ブッダの教えというのは、案外かぎりなく合理的思考に近い、というか合理的思考そのものということが見えてくる。

その結果、合理的思考に徹すれば、そのままブッダの教えになるのである。


この合理的思考としてのブディズムをこの地でこれから伝え始めたいと思う。どんな議論も歓迎である。

議論を重ねる中で、どうしても否定できない本当の真理(ダンマ)というものが明らかになってくるだろう。

たとえば、めざすべき“正しい方向性”――自身の幸福。現実の改善。

その出発点としての“正しい理解”。慈しみを心の土台にすえること。

正しい方向性にたどりつくための“正しい方法”  (瞑想? 医学? 科学? 政治? 問題による)

この三つを欠いてはどこにも進めはしない。

この三つこそは、原始仏典のブッダの言葉の背景にある、最も純粋な思考のフォーマット(=考えを組み立てる際の枠組み・ひながた)なのである。

合理的に(=妄想を排除して) 仏典を読めば、それがわかる。

そういう形で思考を組み立てていく。仏典を読み解き、それぞれの現実に活かす。


これは宗教ではない。正しい思考(考え方)であり、正しい生き方に奉仕してくれるものである。



インドにおいては、宗教も合理的思考も、案外同じように受けいれられるのではないかという印象をもった。やってみる価値はあるだろう。少なくとも、ナグプールでもこのバンガロールでも、理解しようと努める人はたくさんいる。

真実守るべきものが明らかになっていけば、人々の迷いは減っていくだろう。

守るべきものが本当は何なのか、もっとはっきりしてくるはずだ。

それこそが、人々にとっての‘武器’になる。

ブディズムにおける武器とは、大切なものを守るための知慧である。


◇今回の旅は、これからの活動の方向性をはっきりさせてくれたような気がする。

人々は真実のダンマ――幸福への知慧――を求めている。

この命は、そのダンマを説くことが仕事なのである。大きな可能性が広がっている。

すべての人々は、合理的な(正しい)方法によって、それぞれの幸せに近づいていくべきだ。

それが、私の思いである。慈しみに基づく、現代を生きる僧としての発想。


生徒さんたちと一緒に外へ。雨が降っていた。この旅ではじめてめぐり逢う雨である。

この世界には、もっと慈雨が必要だ――。



インド帰郷7  満月夜

12月28日

昨夜チェンナイから列車でバングロール Bangaloreに移動。気温が年中30度を超えないというインドの避暑地。ワスの友だちで地元の社会活動家の家に泊まる。

翌朝、マハーボディソサエティ(大仏協会)というミャンマー系の寺院を訪問。一等地にあってよく手入れされた美しい寺院。

長老と数名の比丘と50名くらいの沙門(小僧)と在家信者が、本堂に集まっている。壇上に座らせてもらってスリランカスタイルの法要(プージャ)を行う。


午後4時からは、ダンマディスコース(法話)を一つ。聴講者は熱心な在家信者たち。

希望Hopeについて――東北で起きたこと。その後地元で起きていること。希望を失って自死を選ぶ人すら出ている現状があること。こういう状況において、希望というのは存在するのだろうか。どうやって希望を見つければいいのだろうか。

四つの慈しみの話をする。

去っていった人、今生きている人、これから生まれてくる者たちへの慈しみを願うこと。幸せであるように――メッタ(Metta:慈しみ)と呼ぶ。

悲しみに共感すること。痛みあるときに、その人の痛みをただ感じ取ろうと努めること――カルナ(Karuna:悲の心)と呼ぶ。(悲しみに共感できる心は、けっして孤独にはならないものだ。)

喜びに共感すること。小さな喜びあるときに、その人の喜びをわが喜びとして感じ取ること――ムディタ(Mudita:喜の心)と呼ぶ。

そして自らの痛み・悲しみを否定することなく、ただあるがままに観ること。

痛みから逃れようとするのではなく(なぜならそれは新しい怒りを生むから)、痛みにただ気づくこと。

気づけば、手放せる可能性が生まれる。痛みを手放すことをウペッカー(Upekka)と呼ぶ。

希望とは、この四つの心から芽生えていくものではないか。自分ではなく、ひとびとの痛みと楽しみを見る。ひとびとの幸せを願う。そして自らのうちにある悲しみは、あるがままに見つめる、ともに生きることで、せめて呑みこまれないように努める――。

ときに計り知れなく難しいことかもしれないが、この四つの心を育てることは一番正しい苦難の乗り越え方。そして希望の育て方――。

若い婦人が質問――「苦しんで亡くなった人にはどんな思いを向ければいいですか」。

仏教では、苦しみは八つの種類をもって語られる。だが、どの苦しみも死してなお続くものはない。ひとの苦しみというのはすべて、この現実の人生における苦しみである。

だから、去っていった人々はみな苦しみから解き放たれていると思えばよい。

もとより、この世界は、苦しみではなく、慈しみによってできているのではないか。でなければ、百数十億年もの間宇宙が続くことはない。人々が今日に至るまで生きながらえているわけはない。人々がこの世界で生き、また星々が今宵のように天一杯に輝いているのは、この宇宙が慈しみに満ちているからではないか。“生きなさい”“生きていい”という意志があるからとはいえないか。

人はただ、その慈しみの豊穣へと心をゆだねればよい――。 
去りしその人は、すでに解き放たれている。そう思っていいと私は思う。

ご婦人は、答えをずっと探していたという。法話が終わったあと、「慈しみをもって見たら、見え方が全然ちがうのですね」と語っていた。その通りだと思う。ダンマ(真理)をもってすれば世界の見え方はがらりと変わる。

しんと静まったひとときのあと、質問が続いた。

「慈しみで心の汚れはほんとうに払えるのか?」とか「バンテジー(お坊さん=私)の経歴を教えてほしい」とか。みなで記念写真。

ちなみに、質問したご婦人は日本のアニメファンなのだそう(笑)。イヌヤシャとかムシ(?)とか。ドラえもんはこの地でも人気(藤子不二雄ってすごい)。


夜7時から満月夜の法事。千本のキャンドルが幻想的な炎(ほむら)をともす中、菩提樹の周りを僧たちと回る。たまには伝統にどっぷり浸かるのも悪くない。

そのあとほかの僧たちとともにジュースをいただく(夕食は戒律違反だから)。ホットミルクにきなこを混ぜて飲む。きなこってインドにもあるんだ。


そのあと在家の人たちに招かれて近くのレストランへ。今日の法話に参加していた人や、新しい人たちが集まっていた。今日のような実践的な話をもっと聞きたいという。

明日も法話をすることに。メディテーション(瞑想)について聞きたいとリクエストが。

世話役のムッリ氏が言うに、

「みな、今日の法話にとっても、とっても満足していたVery, very happy。たいてい彼らが満足を語ることはないのですが」

仏者にとってダンマを分かち合えることほどの喜びはない。この地にも最高の法友(ダンマフレンズ)がいたということだろう。


幸いな一日だった――。


インド帰郷6 気づけば正月

2556/2013年1月1日

あけましておめでとうございます。

――と折り目正しくあいさつできるように、大晦日はどこか情緒あるシチュエーションで迎えたいと思っていたのですが、現実はそうでもなく、今バングロールという南インドの街のとある方の自宅にひっそりといます(0時ジャスト。外で爆発音が聞こえます。花火や爆竹というより“爆破!”っちう感じのどでかい音です(笑))。

戻ってきたのが夜10時すぎで、日本ではもう年が明けちゃっていました(今日本では夜の3時くらい)。日本の「さあ、いよいよ新しい年を迎えるぞ~」という一斉感がちょっと恋しい(笑)。私が知るインドは、新年を迎えるという儀式にあまり熱心でないみたい。毎回、いつの間にか年越しちゃってた……みたいな感じ(T T)。

今朝はとある家庭に招かれて食事をし、そのあと列車に乗ってラマナガラという地方の町を訪れ、そこでいく人かの社会活動家と会合。都市にはない根強いカースト差別の弊害をたくさん聞いた。

多くの人が「インドではブディズムが失われてしまった」と嘆く。

仏教にかぎらずひとつの宗教が異民族の多い地で失われるとどうなっちゃうかというと、他の宗教に簡単に乗っ取られてしまうのである。それは特定の集団・人々にとっては、差別・迫害・支配・絶滅の危険に直結する。このあたりの事情は、国のなかに“異民族”がいない日本とは事情がちがう。この地では、一宗教の衰退は即、集団の存続・個人の生存の危険につながるのである。

宗教が、民族・文化の安全を守る防護壁だとすると、仏教ほど“もろい”防護壁はないかもしれない。

怒らないこと、戦わないこと、瞑想しよう、徳(カルマ)を積もう、この人生が苦しみに満ちていてもきっと来世がある――というような物語はたくさんある。しかも今日びこの地の坊さんたちは、人々が語るには、「ナモータッサ」のお経を誦えるだけで人々と交わらず、教えを説かない。

かくして、今なお、仏教寺院がヒンズーに乗っ取られ続けている現実があるらしい。取り返そうにもその力がない、と嘆くのである。ただでさえ仏教徒はマイノリティなのに、今なお足元を掘り崩され続けているのだ。かなり深刻な様子である。 


今回意外だったのは、「ダンマ(ブッダの説いた真理)って何?」と不満げに語る人々がインドにこんなにもたくさんいたということ。

ダンマを知らなければ、まとまりようがないし、また教えを守ろうにも守れるはずがないだろう。

バングロール有数の大寺院マハーボディソサイエティで出会った篤実な在家信者もまた、同じような失望を語っていた。この寺院はバリバリのテーラワーダ仏教の寺なのだが、ひんぱんに開かれる法事で何をするかというと、お経を読んで、古い経典の話をして、僧たちに供養しておしまい。ある男性は、「あれはブディズムではない」とはっきり語っていた。

寺院に熱心に参拝している人から、こういう言葉を聞くとは思わなかった。みな、読経も仏典の話も、ただありがたく拝聴しているのだろうと想っていたから。

この地で見ているのは、私自身がかつて感じていた以上の、人々の「(クエスチョン)」なのである。「あれはブディズムではない」なんて、よほど求めているもののイメージがはっきりしていないと出てこない言葉だろうと思う。


ただ人々が乗り越えることができないでいるのは、「ではブディズムとは一体何か?」という問いだ。

“ブディズムを生きている”はずの坊さんが答えを示せないのであれば、ブディズムを“学ぶ”側の人々に答えが見つかるはずもない。誰かが、明確な答えを示せないといけないはずなのだ。「ブディズムとは何か」を明確にしなければいけない時期。でないと、ブディズムもろとも人々の幸福が失われてしまう。

この地の人々がよりどころとすべき確かなもの。ダンマの具体的な中身――。 

それを明確にできれば、この地の人々は団結できるだろう。自分たちの生活を守ることができるだろう。たぶんそういうことなのだろうと思う。


今回旅しているうちに、ひとつのプロジェクト、使命のようなものが浮かび上がってきた。


ダンマ・ディスコース(法話)のプログラムを作ること。


一日あるいは数日規模の、ダンマを学ぶ集中講座を作って、この地で発信する。

このプログラムに参加してもらえれば、ダンマの本質――守るべきもの――が見えてくる。そういう内容。


日本でやっていることと内容は重なってくる。ただ、この地でのプログラムは“危機意識”に基づいている。彼らに守るべきものを提供して、それをよりどころにして現実に立ち向かう。

いわば、生き残るためのダンマである。

今回の旅で、かなりの社会活動家とめぐり逢った。場所・人集めは彼らに準備してもらう。私は、次の訪問に向けて、“仏教の本質”を英語バージョンで説き、彼らにとって示唆に富む仏典のエピソードをピックアップして、一冊のテキストを作ろうか。さらには仏教の本質をまとめたリーフレットを作る。その中身について、実際に法話をする――。


インド仏教徒たちは切実な危機意識を持っている。彼らには、“仏教の本質”がきちんと伝わる予感がする。というか、彼らが求めているのは、まさに“仏教の本質”そのものである。明解で、日々のよりどころになるもの。現実をいかに生きるべきかという方針を示してくれるもの。


この苛烈な地に“種”をまかなくてはいけない時なのだ――。


この時代は、本当の仏教(≒人々の幸福に真に効果的な方法)を人々の心に直接訴えなければならない歴史的な時期なのかもしれない。

“伝道”というのは、こういう目的意識をもってやるものなのかもしれない。

情熱をもって、人々の心のよりどころになるような、力強く、明白な思想を伝える活動である。

やらねば!

――そんなことを(熱―く(笑))考えながら帰ってきたら、もう年が明けていた(情緒が……)。

ともあれ、

みなさん、あけましておめでとう!

今年もまたお会いできますように。


あなたの一年が幸福とともにありますように。


龍瞬より手いっぱいの愛を送ります。