仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
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●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

生きがいのシフト 「やりたいこと」から「○○○こと」へ

今日(3月30日)から始まった、無料生き方相談会
(「龍瞬の部屋」とでも改題しようかな)。

今回出てきた話題の一つが、

「最近、何事も楽しめなくなってきた」
「自分が何をやりたいのかわからなくなってきた」というもの。

「やりたいこと」って、みんなにはありますか?

今日お伝えしたのは、「やりたいことはなくてもいいんじゃないのかな」ということ。

仏教的な理解に照らして考えると、やりたい、というのは、欲求の発露(あらわれ)だから、
その時点で、「あやういな」と考える。

仏教を学んでいくと、そういう発想が出てくる。

欲求を満たして満足、というのは、ひとが生きていく主要な動機だろうけれど、

たとえば、「認められたい(褒められたい・評価されたい)」という欲求が心底満たされることって、ほとんどない。

そして、その欲求が満たされることは、年をとればとるほど難しくなっていくかもしれない。

ある人は、昔、志望する大学の学部に進めなくて、それが今も欠落感になっていると語る。
「今からでも受験勉強して入りなおそうかな」と考えることがあるとか。
三〇すぎて結婚もしていて、だけどそんな思いがよぎるそう。

かつて抱いた願望・欲求がかなわなくて、それが欠落感(何かが自分には足りないという思い)になって腹の底に居座っている人って、かなり多いのではなかろうか。

その状態が、まさに「執着」。
心に残っている重石(おもし)のようなもの。あるいは腫瘍のようなもの。

抱え続けるかぎり、心はちくりと痛む。
どこかに影ができる。
周りの世界との壁ができる。
すっきりしない感がある。

その欠落感がうずくたびに、ひとは、「何か新しいことをやろう」と考えたり、「あの頃の夢・目標をもう一度追いかけてみよう」と考えたりする。

もちろんそれで満足が得られれば、ひとつの美しい生き方になりうるよね。

ただ、過去に抱いた欲求を仮にこれから満たせたとしても、たぶんその喜びは、自分が期待するほど強いものじゃない。

だって、昔とは立っている場所がちがう。歳も重ねている。

かつて夢中だったおもちゃを再び手に入れたところで、昔と同じように楽しめることはないのと同じかもしれない。それが現実。

たぶん、過去の欲求を引きずり(執着し)続けても、この先、満足が増えていくことはない。

むしろ、現実への空しさとか、「やりたいことがわからない」という迷いの感覚が増えていくのだろうと思う。

仏教は、心のからくりをよく教えてくれる。

欲求・願望って、じつはあんまり上等な発想じゃないんだよ、とか、
それにしがみつく限り、心は必ず不満を抱え続けることになるんだよ、とか、

新しい発想で生きていくほうが、この先幸せになれる可能性は高くなるんだよ、ということを教えてくれる。

今日来た人は、私が今たずさわっているインド仏教徒の生活改善プロジェクトを
「やりたいからやっている」と思っていたそうな。

でも、私は(正確にいうと) 「やりたくてやっている」わけでは全然ないのです。

やりたいとも、やりたくないとも思わない。ちょっと違う動機で取り組ませてもらってる。

私は、かつて、やりたい!という我欲・願望がめちゃくちゃ強くて、その分「あれもこれも」(それを手に入れてない自分はまだまだ完全ではない!)という思いに駆られて自分を見失っていった痛い経験がある。

その果てに仏教に出会って修行して、「やりたい」というエネルギーのアホらしさ(実体のなさ)を思い知ったところがある。

だから、今は「やりたい」という思いそのものに、繊細な警戒感をすぐに持つ。こう考える――

やりたいはあやうい。やりたいは動機にならない。


(※正直、本当にやりたいことがあって、それを満足できる才のある人というのは、まっすぐにその道に進んで結果を出しているでしょう?

やりたいことがある+(プラス)満足できるだけの才がある、というのが世俗的な成功の必要条件。

かつての私には、どちらもなかった、と今は分かる(笑)。つまりは、生き物の種類がちょっと違ってた、ということ。

今「やりたいことがわからない」と言う人もまた、生き物の種類が違うんだと思う。きっと、違う発想をした方が幸せになれる人なんでしょう。)


◇じゃ、何を動機にしているかというと、「できるかどうか」。

今私がやっている日本での活動も、やりたいからやっているというより、自分にできることだからやっている。

インドのプロジェクトもそう。できることだからやっている。

できるかできないかという発想から入ると、「やりたい」という動機はあまり影響力を持たなくなる。

それより考えるのは、「これって人の役に立つのかな?」ということ。

自分にできることで、人の役に立つことであれば、もうそれだけで、やる動機としては十分。

それがベース(土台)にあって、その上に、毎日のちっちゃな喜びを乗っけていくという感じ。

ちなみに今のちっちゃな喜びというのは、朝早起きして本を読んだり、新しくさずかった電子レンジで玄米を炊いたりというもの(ほんとおいしいのです!)。

「できること」をベースに人生を組み立てると、この先特に大きな出来事が起こらなくても満足できるようになるのではないのかな。

この毎日をただ生きていられるだけで満足、というか、(満足というのはえてして欲求の満足を意味するから)

納得」できること。

それが生き方の本来のような気がする。

定年退職でも、途中解雇でも、プータローでも、フリーターでも、ニートでも、ワーキングプアでも(一つめを除いて、どれも私は経験ずみかも(笑))、

「関係がない」。

ただ今できることをやるだけで納得するようにする。

こないだ教室で伝えた「私は私を肯定する」という思い(落ち込まないためのおまじない)も、この納得感の表現といえる。

やりたいことを追いかけて、その満足を求めるという発想を切り替えて、

できることをただやって、それだけで納得する、という発想で生きるのです。

これ、難しい人には難しいみたい。「そんなふうに生きるなんてできるんですか?」という人もいる。

でも、確かにいえるのは、

やりたいことの満足を求めてこれまで生きてきて、
もし今現在満足できていないのなら、

その動機でこれからを生きても、
たぶん不満足がますます溜まっていくだろう、ということ。

それは、自分にとっての道ではもはやない、と考えた方がいいのかもしれない。

これまで追いかけ続けてきた、「やりたいことの満足」というのは、今を楽しめない人にとっては、
いわば腹の底に残された重石・腫瘍のようなものかもしれない。

ならば、その重たいものを取り除いてはいかがだろう。

その満たしきれない思いを、心再びうずくたびに、

「まだこういう心の癖・病気が残っているんだな」と理解して、
「でもこれはかんちがいなんだな、そろそろ捨てていかないとな」と思い直して、

ただ「できることだけで納得できる」心を育てていくようにする。

そういう処方を、私ならお勧めします。


◇こういう発想の切り替えは、過去の自分から見たら、ちょっと寂しいものかもしれない。

(とある女性は、この話のときに「それでもEXILEは好きでいたいんです!」と訴えていた。それは可能だと思うが……^^;)

でも、心というのは、寿命が本来あるのです。
これまでの自分をそのままに生きていくことはどこかで無理が出てくる。

「最近楽しいことが乏しい」「何がやりたいかわからない」という人は、
それまでの「やりたいことを追求する自分」に寿命が来た、ということかもしれないのです。

私の場合、やりたいという欲望を肥大させ続けて、最後は自分が何をやりたいのかまったく見えなくなって、インドに渡って出家しちゃった。

で、かつてのやりたい病の自分はほんとに病気(かなり重症)だったんだ、ってようやく分かった。

ああ、なんてアホだったんだ、袋小路に入っちゃたのは道理ではないか、とよくよく思い当たった。

だから、今やりたいことが分からなくて迷っている感のある人は、

「そっか、もうこれまでの自分は寿命なんだ」と思ってくれていいんじゃないかと思う。

人それぞれにもちろん立っている場所は違うけれど・・・でも根っこの部分は共通しているかもしれないから。

そろそろ次の生き方を始めよう、って考えてみてはどうでしょう。


◇生き方を学ぶ上で、仏教はかなり役に立つし、面白い。

この(仏教の)世界には、常人には真似できないくらいに、我欲・執着の激しい、とんでもない連中がごろごろいるから(空海も、日蓮も、一休も……ゴータマ・ブッダ自身が病的な執着に悩まされたおひとだと言ってよいだろう)。

最近は、教室に、新しい生き方を探して仏教を学びに来る人たちが着実に増えてきたと感じる。

彼らと一緒に、もっともっと本音の議論をしていきたいと思う。


「やりたいこと」から「できること」に動機をシフトして、しかもできることに納得する。

そういう立場に立つと、不思議とパワーも湧いてくる。ご縁にも恵まれるのかもしれない。

そのご縁の一つで、今、再びインド行きの話が出てきてます(感謝!)。

これはもう、「やったるでえ」という感じである。
とことんやり尽くしたる!という意気込みでいる。


というわけで(どういうわけかよく分からないが(笑))、

新しい生き方を今年はもっと一緒につきつめていこうではあーりませんか!

生きてりゃ、何かができる。
何かできるというだけで、楽しいじゃないですか。

この一年、楽しみましょう!

4月、仏教の学校スタート!

朗報!
いよいよ4月から、仏教の学校 がスタートします!

対象は、

「仏教をもっとわかりやすい言葉で学んで、人生に活かしたい」

と感じている人です。

たとえば、

お寺・宗派の仏教になじめない人、
これまでの仏教にギモン・違和感をぬぐいきれない人、
仏教をこれまで学んできたが、今ひとつ仏教が見えてこない人、

仕事・人間関係をうまくやっていくスキル(考え方)を身につけたい人、

人生に迷い・悩み(このままでいいのかな?)を感じはじめた人、
どうにも毎日がしんどい、なんとか生活を変えたいと感じている人、
新しい生き方・生きがいを見つけたいと感じている人、などなど。

特色

この場所で学ぶ仏教は、宗教としての仏教ではなく、
暮らし・人生に役立つ現実的な考え方 としての仏教です。

たとえば、伝統的には、「お釈迦さま」とか「仏さま」が説く教え として、
「三毒」 (さんとく: 貪欲・瞋恚(しんい)・愚痴) なるものがあると説かれます。

たいていは言葉・知識として学んでそれでおしまい。しかし、ここでは、

「何を求めるにせよ、自分の心の状態をまずは理解することです。

心の状態は三つの種類に分けられます。それが、

むさぼりの心 (あれもこれもと欲しがり、現状に不満を感じさせる過剰な欲求)
怒り (不快感・好ましくない反応)
妄想 (頭の中で考える想像や考えごとすべて) です。

これらをよく見分けられるようになるために、
コントロールできるようになるために、禅を実践するのです。

禅とは、本来「気づき」の力を高めるためのトレーニングで・・・」

という形で説明します。 こっちの方が、ふだんの心の整理に役立つからです。

この場所が大事にしているのは、ものごとの本質

いたずらに難しくしない。複雑にしない。カタチに走らない。

シンプルに、本質だけを伝える。
聞いてわかる、すぐに実践できる形で学ぶ。

長い歴史のなかで増えつづけてきた、仏教内の物語・伝説・儀式・しきたりといったものは、すべて一度リセットして、
太古インドで広まったブッダの教えの、もっとも本質的な部分を、現代の言葉で紹介しています。

進め方

①4月から翌3月までの通年講座として組み立てる。今回は仏教の学校第1期!
②月2回(第2・4の水曜および土曜)のペースで進める。夏・冬にはお休みあり。
③春・夏・秋・冬の4つの学期に分ける。
④一年を通じて学ぶもよし、来られるときに来るのもよし(1回1テーマで完結するので、単回・ひと月単位の参加もOK)。

※第1期の予定
*春学期 4・5月
*夏学期 6・7月 (8月は夏休み。“小劇場で1DAY仏教体験!”など特別企画あり)
*秋学期 9・10・11月
*冬学期 12・翌1・2月 
*2014年3月 第1期修了式

内容

①原始仏典 (最初期のものとされている仏教書) をテーマごとに編集したテキストを使用。
②古い内容を、本質をとらえたわかりやすい言葉に翻訳して学ぶ。
③テーラワーダ仏教、大乗仏教というこれまでの枠にとらわれず、「役に立つ」ものはすべて採りあげる。

※ちなみに春学期(4月・5月)は、「正しい理解」がテーマ。ここで、「無常」「無我」「苦」「縁起」「輪廻思想」といった、従来の仏教の知識をとりあげる。

ただし「役に立つ」「わかる」合理的な内容に徹し、
「宗教くさい(わからない・荒唐無稽・一見深そうだが実際には役に立たない)話はしない。

※仕事や人間関係に役立つ実用的なテーマを、随時特集。
「うらぎられた!と感じたときのこの割りきり方」
「仏教的正しい生活~人生煮詰まったと感じたらまっさきにこれをしよう」  など

※教室での質問・感想、メール、個別の相談などはいつでも歓迎。

効果

①仏教の基本・全体像がみるみる見えてくる。
②仏教書を読んでいては「一生かけても分からない」仏教の本質がわかる。
③特定の宗派やお坊さん個人の立場にしばられずに、自由に、「自分にとって必要なこと」を直接聞ける。
④あたたかい雰囲気の中、楽しく仏教を学べる。
⑤よき関わりにめぐまれる(みな楽しく通っています)。
⑥毎回、懇切ていねいな解説テキストつき。

参加費

1回参加 1700円
各学期一括 (春・夏の各学期 6000円(4回分) 秋・冬の各学期 9000円(6回分))

※いずれも教材費含む。
※定員オーバーの場合は一括申込者を優先します。  
※予約不要。直接教室まで。

日時・場所

水曜クラス 第2・4水曜 午後7~9時      ★4月10、24日
土曜クラス 第2・4土曜 午後6時半~8時半   ★4月13、27日

場所 赤城生涯学習館  新宿区赤城元町1-3 
JR飯田橋/東西線・神楽坂/都営大江戸線・牛込神楽坂  赤城神社隣

※水曜・土曜とも内容は同じ。振り替え(都合で水曜から土曜へ・土曜から水曜へ)はいつでも可。


●昨年の受講生の感想をひとつ:

「この講座は、釈尊亡きあと仏教を伝える担い手の僧侶、信者双方が
釈尊が語った教えを本来の状態に正しく保持できずに形骸化してしまった
現在の仏教に対する言わばアンチテーゼともとれる形で、活を入れ、
ブッダの教えを取り戻す革新的な試みとなったのではないでしょうか。

また草薙先生がわかりやすい言葉で仏教を語る姿勢は、
かつてのお釈迦さまが難しいサンスクリット語ではなく、
当時の話し言葉だったマガダ語にこだわった姿を彷彿(ほうふつ)させました。

最も斬新だったのは、自分でボケて自分で突っ込むという、
一人漫才もかくやの高度なユーモアの技術を駆使しての仏教の伝授に終始された点で、

後世の仏教史にこんなユニーク僧(失礼!)がいたと記述されるのではと思えるほど、独創的で印象に残るものだったと感じています。

身近で身につく、身に沁みる仏教だったと心から思います。」


仏教は、もっともっともっと、
私たち一人ひとりの幸福へ、よき世の中づくりへと、
活かされるべきです。


よく学び、よく語り合って、実り多き一年にしたいと思います。

楽しく学んでまいりましょう!

仏教の学校、いよいよ4月スタートです!

くさなぎ龍瞬

春のような人生を

3月22日

国立(くにたち)で降りると、街が白い光にあふれていた。景色が軽い。

一橋大学通りの桜並木が、いっせいにほころびだしたのである。

日本の春というのは、それ自体が至高の芸術作品ではないか。

冬の冷たい季節があり、
そのなかに人々の忍耐と努力とがあり、
長い灰色の時間をじっとくぐり続けて、

いつしか一気に光の春と化す。

この日は、大学の卒業式の様子である(おめでとう!)。
袴姿の女子たちがちらほら(なんで黒ブーツなのか??)。

卒業・別れと、
新しい生活・出会いとが、

この桜咲く2,3週間のうちにめまぐるしく交錯する。

これほど多彩なひとの情を演出する季節というのは、世界に例をみないだろう。日本固有の現象なのではあるまいか。

NHK学園の冬クラスも、ひとつのしめくくりを迎えた。
原始仏教編を終えて、四月からは日本仏教編に入ることになる。

「宗教は信じること、仏教は理解すること。信じるのではなく、理解すること、というのがショックでした」とあるご婦人。

確かに、ブディズムというのは、何かを信じなさい、とは説かない。

それよりも、「自身の心を正しく理解しなさい、そうすれば苦しみから抜け出せます」と説く。

理解することで苦悩を解決できる、というのがブディズムの基本立場。

その立場からすれば、世にある宗教の多くは、適当な妄想を語って、それを適当に信じ込んでいる、という観がなくもない。

ただそのご婦人にお伝えしたのは、「理解すること」というのは、
信心のいっさいない、身も蓋もない(あえていえば科学的)理解とはちょっと違うということ。

むしろ、ものごとの真相、人生における真実というものを、深く正しく理解したとき、

そのとき見えてくる世界、開かれる境地、語られる言葉というのは、
まさに信心というほかないくらいに、強靭で、クリアで、広大で、深遠なものになるということ。

そのことを、ご先祖の位牌をどう扱えばいいか、というテーマをもとに、お話しした。

そのとき語った内容――故人へのねぎらい・感謝・報恩という心の込め方――は、まさに信仰というほかない世界。

だがそれは、正しい理解に基づいて合理的に導き出される内容である。出来合いの宗教を説くわけではない。

私は、これを信じましょうと説いたことは一度もない。

徹底的に「理解」したことのみを伝えている。

ただそのとき語られる言葉・内容というのは、
まぎれもなく、仏教というひとつの信仰である。宗教的真理になっている、と思う。

ひとびとは、理解につとめずして、ただ何かにすがり、信じることで救われようとする。

だが、それでは本当は救われないのである。
まずは理解しなければ。理解した上でおのずと現れる信心でなければ。

生徒さんたちと、終わってからお茶をした。
みな、人生のはるかな先輩たち。
私は彼らの子供よりもまだ若いらしいのである(笑)。

この二年半、ほんとうにいろんな場所で、人々に出会い、その都度、多くのことを学ばせてもらった。

私は、ひとつひとつの出会い、語らい、そして別れの中で、
自分自身の真実を確かめ、

あたらしく出てくるさまざまな問いに、ひとつひとつ答えを出してきた。

この道のりが、将来の寺のような、里のような、ひとびとが憩える場所へとつながっているのだろう。

私がこの命をまっとうしたときに、はじめて、私にとっての真実 (ひとびとが宗教と呼んでいるものと重なる何か) がはっきりするのだろう。

かつての日本の開祖たちと同じように、私もまた、宗派も寺もなく、
ただ自分自身の真実だけを道しるべにして、道なき道を進んでいる。

真実・真理というのは、こういう徒手空拳の、
自分以外に何の寄る辺もない道ゆきの中ではじめて磨かれていくものではなかろうか。


この春別れることになったひとびとには、感謝と慈しみを贈ります。

この春出会うひとびとには、喜びと友情とを贈ります。


人生はいつも、別れと一緒に出会いが来る。せつないけど楽しい。春と同じ。

できれば、この春の日のような、喜びが光かがやいて見えるような人生を送りたい。

1DAY仏教!イン西荻窪

3月20日(祝日)は、西荻窪にある劇団朋友さんの稽古場をお借りして、
1日仏教体験を企画。

朝は、通常の座禅エクササイズ。
といっても、ふだんとちがって入門レクチャーなしのいきなりの実践。

はじめての人はどれくらいついてこれるかと思ったが、
けっこう頑張ってくれた。

「作り立てのロボットのように。生まれたての赤ちゃんのように。

歩くってどういうことなんだろう? 足を動かすって? どんな感覚がするんだろう?」

と、心をゼロにリセットして、確かめるように、注意深く歩く――。

ひとは「歩く」ということに慣れきってしまって、「歩く」という行為をただの「観念」として処理するようになってしまっている。そうした硬い心では、「歩いている」という生の感覚を実感することはむずかしい。

本当は、一歩、一歩がまったく新しい体験であるかのように、心の目を見張りながら歩いてみるのがよいのである。そうすると、思考・観念の領域を飛び越えて、感覚の領域に入っていきやすくなる。

昼休みもなるべく静けさを保ってもらうようにする。
(しゃべっちゃいけないというのがキツイという声も。沈黙は「おすすめルール」ということにしようか。)

午後からは、メントレ座禅――これは禅や仏典の言葉を壁に貼り、眺めて自由に考える時間を15分、座って瞑想する時間を15分、それを何セットかやるというもの。

正法眼蔵の言葉をわかりやすくかみくだいたものを何点か。

道元は、高飛車すぎて言葉が難解になってしまっているが、ところどころとてもやわらかい(禅的な)思想を語っている。その本質部分を詩的に表現すると、「けっこうイイコト言ってるなあ」と思える部分がかなりある。

みなに座って瞑想してもらって、その間に、禅や仏教の話を説く。

これはまさに、道元、そしてその師である宋の禅師・如浄(にょじょう)がやっていたスタイル。

暗闇の中で目を閉じて法の話を聞く、というのは、明るい場所で目を開いて聞くよりも、心にしみいるところがある。

◇午後3時半からは、フリートーク。ここから参加してきた人たちも。

あるひとは、仏教関連の本を持ってきて朗読。

いわく、大雨に濡れている地蔵さんの前を通りかかった村人は気の毒に思って古い靴底を、地蔵の頭に載せた。

その次に通りかかった村人は、地蔵の頭の靴を気の毒に思って、その靴を持って帰った。

地蔵さんは雨に打たれて、そのうち朽ちてしまった。さて、どちらの村人が正しい行いをしたのか?というような問い。

聞いてておもったのは、「動機」の部分。
仏教はまずは心をみるから、村人の「動機」を見ることになる。

この場合、二人とも、気の毒という慈悲の心に基づいて、靴を載せたり除いたりした。
動機の点では、二人とも正しい行い・善行をしたということになる。

ただ、動機が正しければどんな行いも正しくなるかといえば、そうはならない。「おせっかい」はいい例である。

差し出す側としては、「動機」の前に「正しい理解」がなければいけない。

状況を理解して、相手をよく見て、本当に必要としているか、それが有益(役に立つ)かを考えてから、動機を行いに移す――それが仏教的な正しい行いということになろう。

その本には、ダライ・ラマの返答が載っているそうで、やはり「動機」を指摘しているそうだ。仏教だからやはり見る部分は共通しているのだ。

ただ、考えの道筋が完全に一致するかというと、そうでもなさそうである。

地蔵さんの頭に「古い靴底」を載せる行いはいけないことか。

地蔵からすれば、村人が差し出したのは「古い」「靴底」では、じつはない。

仏の目からみれば、「古い」も「靴底」もない。それらは世俗の見方にすぎない。

地蔵さんからすれば、二人の行いは、「気の毒」という慈悲の発露である。
たぶんどちらに対しても、ありがたい(善し)、という言葉を向けるだろう。

仏教というのは、相手の心をとにかくよく見るのである(たぶん一般の人が想像する以上によく見ているところがある)。

もし相手の心が、けがれなく、慈悲あり、真摯誠実であるなら、それを善しとするだろう。

もし相手の心が、怒りあり、無意味な妄想あり、貪りの心多く、邪念に満ちていれば、べつに裁きはしないけれども、「汚れているね」とありのままに見て微笑んでいるだろう。

仏教の心というのは、ただ見る、ことに尽きるのかもしれない。

善き行いとは、正しい理解と、善き動機があって、その行いを相手が善しとして受け入れたときに成立するものではないか。

ほかの人たちからも面白い質問・感想が聞けた。今回のように本を朗読してもらうというのは大歓迎である。できれば、そこから会場の人々に議論してもらって、私も一緒に考えて、そのうえで本の解説を聞いてみる、という形でやると面白いだろうと思う。

終わった後は、ファミレスに行って反省会。これもまた楽しかった。いろんなアイデアが出てきた。

1DAY仏教は、これから定期的に開きたい。入場無料だから、いろんな人たちに来てもらえればと思う。どんな話題も歓迎。実のある話ができればと思う。

次回は6月30日(日)を予定。決まったら告知しますね。



春二番 (人生の冬を越えて)

春といえば、異動の季節。

仕事つながりの人も、この時期、大幅に勤務先・ポストを換える。

カルチャーでお世話になっていた方々が、何人か辞めてしまっていらしたのでびっくり。

彼女たち(みな女性)が見つけてくれなければ、今の仕事・生徒さんたちとの出会いもなかったわけで、とてもありがたく思っている。が、

ただ、いつの間にか辞めてしまっていた――というのが、ちょこっと寂しい。

(もちろんこういうときって、むしろ伝えないほうが自然なありかたなんだと分かるのだけど)

できれば、最後にひと目会って、ありがとう、と伝えたかった。

そこではたと思ったこと――

「ああ、あんときの自分は、こういう思いをもっと相手にさせていたのかな」、ということ。

自分は、かつて何度も、ふいっと行方をくらましてきたのである。

そのおかげで、十代のころ出会った人たちとは見事につながっていないし、
大学時代の友たちともまだ関わりようのないところで過ごしている。

何より、三十代半ばをすぎてインドに渡るときにも、
誰ひとりにも行き先を告げないで、ふいっと日本を離れてしまったくらいである。

日本に帰ってくることはないかもしれない、と覚悟していたから、あのとき、ある意味、自ら無になることを選んだに等しいのかもしれない。

まったく――あまりある水くささ、というかそれを超えて、不義理すぎる不義理である。
もしかつての私に芸名をつければ、「不義理デラックス」というところであろう(なんじゃそりゃ)。

かつての自分のナゾの失踪行動は、はて、どのような心理だったか。

周囲への違和感、疑問――怒り、失望――こんなところにい続けて何の意味がある?という過剰に意味を求める欲求――

ちらと振り返るだけで痛々しさが疼くくらい、
あれこれと烈しく求めすぎ、傲慢であり、そして非礼であった。

そういう直接的な反応とは別のところでもうひとつ、
失踪を促す動機めいたものがあったような気がする。それは、

誰かにこの思いを打ち明けてしまっては、
自分の求める心に水を差されるのではないか(もっと言えば、汚されてしまうのではないか)、という思いである。

人に相談したり、これから何かをするということを語ったりすれば、必ず相手のリアクションが返ってくる。ただ、そのリアクションというのは、けっして自分の感性を肯定してくれるものではないような気がする。伝わらないような気がする。肯定してもらったところで、今感じている心の渇きが癒されるわけではない。それに自分がほんとのところ何を求めているのか、自分でも今ひとつよくわからない。わからないうちに言葉にしてしまっては、答えが遠ざかってしまうような気にもなる――。

できるなら、今のこの思いは誰にも明かさないで、そのまま新しい場所に移って、自分が見たいもの・求めるものにかぎりなくダイレクトに(直接)向き合いたい、触れたい、近づきたい、という思いがあったような気がする。

妙に潔癖、完璧主義なところがあったかもしれない。自分の思いに対して――。


さて今の自分はどうかというと、もうかつて自分が求めていたものは見尽くした、という感がやはりある。もう、“自分の思い”、というのは、生きる上での動機にならない。

仏教には、命は三つで構成される――それは、心と体と関わりである――という理解がある

(これは縁起論をも採り入れた龍瞬独自の理解。南方仏教の伝統では、心と体のみを究極の真理=アビダンマとする))。

今の自分にとっては、もはや、自分の心をみきわめる、という動機はない。
失望もなければ、怒り・葛藤というのもない。
自分にとっての真実を「関わり」の中でどう顕(あらわ)していくか、生かしていくか、という発想しかない。

だから、関わりこそが、人生の土台になっている。

これは、自分の心ばかりに振り回されてきた過去の自分とは、まったく正反対の、異世界にある自分。関わりこそが人生の意味をつくる、という自分である。

あったりまえだと思われるかもしれないが、かつての私には当たり前ではなかった(のです)。

関わりそのものがみな違和感の対象になってしまう、どうしようもない暗く錯綜した心、自分、があったのだ。それが抜けた――。

だから、今は、関わりを生きるだけで満たされる。

なんて幸せなこと――。

新しい事務所には、ちらほらと友たちが来る。老若男女さまざまである。

こないだ泊まっていった男性なんて、耳栓をしても響いてくるくらいの、人間を超えたいびきを発していた。「いびきじゃなくて、“いなり”だね」と思ってしまったくらいの音。本人云く、かつて一緒に泊まった同僚に「なんであやまらねえんだ!」と翌朝怒り出されたらしい(本人「??」)くらいのいびきである。

それも楽しい、のである。

ひとはみな、幸せを求めて生きる道の友である。

関わりそのものを幸せにできるようになった因縁に合掌したい。

私の心は今、ようやく春を迎えている。


みなが新しい場所でよき日々を過ごしていますように――。


春一番


3月1日

3月に入るのを待っていたかのように1日、春が吹いた。

もう白梅も開いている。公園の木々のつぼみは日ごとに膨らみを増している。

こんな日に、もし「この風はこれまでも感じたことがある」と振り返るとしたら、
それはもったいない邪念といってよいだろう。

今日この日の風は、この日だけの風として感じる。

風に「かつて吹いた」ものはない。いつだってこの日このときだけの風であるはずである。
その風を全身の感覚で感じとる。

気を詰めて、他の思いをアタマから追い出して、感じとる。

すると、からだを風が通り抜けていく。
からだも意識も消えて、風だけが抜ける虚空と化す。


昔、まだ出家どころか仏道からもはるか遠くをさまよい歩いていた三〇代なりたての頃、
学生時代の友人に再会して、
まだ落ち着けない私は一体何がやりたいのかという話題になって、

「光や風そのものになりたい」

ということを真面目に語ったことがあった(サラリーマンの友はそういう話をよく聞ける友だった)。

自分という枠を取り払って、解き放たれて、世界そのもの、自然そのものになれるような生き方はないものか――他人が聞けばまったく漠然としていて、まともとも思えないような発想だけれど、心の底にはいつもそんな思いがあった。

言葉にすれば「自由」、だが言葉としての自由を超えたどこかに心は向いていたのだろうと思う。

ただそういう世界をを求める心とは裏腹に、
あるいはそういう心がうずいていたからこそ、
現実の居場所に、どこにおいても、鬱屈とした物足りなさを感じ続けていた。

その鬱屈の中で、とにかく動くことだけはやめないで、
あちらこちらと扉を叩いてさまよい続けていたら、
いつの間にか、仏教という場所にたどり着いた。

たどり着いた頃は、まさか仏教が「光や風になりたい」という漠然とした想いに答えを出してくれるものだとは期待していなかった(そこまでダイレクトな確信が持てるほど、まだ仏教を知らなかった)。

ただ、それまでと同じように、漠然とした期待と、烈しく求める想いでもって、
仏教を学び、生き続けるうちに、
いつの間にか、自らも気づかないうちに、

「光や風になりたい」という、アホらしいといえばアホらしい想いにまともに答えを出してくれる方法に、近づいて、そしてたどり着いた、ということなのだろう。

公園で春一番になってみたときに、そうと知った。

ああ、自分はこういう心を知るために、
こういう一瞬になりたくて、
仏教にたどり着いたのだ――と。

おそらくひとが夢見るものの中でも最も荒唐無稽でとらえどころのない希望を、
かつての私はずっと心に持っていたのである。

まさか現実の、この世俗の世界のなかで、答えが見つかるとは想いもしなかった。誰だって想像するまい。

だが、答えを示してくれる世界があったのである。本当に。

「光や風になりたい」という人間は、
仏教の世界に、とりわけ禅の世界にあふれるほどいる。

その風狂な境地に、生涯をかけて挑んだ人間たちがたくさんいるのである。

世界は思いのほか広いのだ。ただ、広すぎて、一見では見つからないということなのかもしれない。広い宇宙のなかで異星の知的生命体がなかなか見つからないのと似ているかもしれない。

もしかするとひとは、
どんなに現実離れした想いでも、周りに理解されない夢やあこがれであっても、
かなう可能性を持っているのかもしれない。

直接ダイレクトにかなう夢ということになれば、それは限られてくるであろう。
だが、その夢を紡ぎ出している、もっともっと深いところにある心の方向性というのは、

もしかしたら、やがて必ずどこかの場所、
あとで振り向いて、ああ自分はこれを求めていたのかとはたと気づくような場所に、
ちゃんとつながっているのかもしれない、と私には思えてくる。

さらにいえば、たどりつけないような場所には最初から夢は見ないのかもしれない。

今何かを求めているとしたら、その想いには必ず答えがある。
必ずたどりつける場所がある、ということなのかもしれない。

今はその場所は見えないけれど――でも……である。

今いる場所は、必ずどこかにつながっている。 

つながりたいと思えば、その場所にたどり着きたいと思えば、
下手に過去にしがみつかず、
いろんな想いを手放して、
自分をゆるして、

たとえば、ただ今日この日の春一番を、素直に感じ取れるように努めてみることではないか。

透明な心で生きていきたい。