仏教講座スケジュール

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「自分」はいない――ではここにいるのは?

※4月24日に実施した〈仏教の学校〉第2回の話の内容をまとめたものです。

ブログではじめてみる人には難しい・おカタイ内容に見えるかもしれません。ただ教室で話を聞いた人にとっては、たぶんすんなりと入ってくる、おさらいとしてはちょうどよい内容ではないかと思います。
長いので、適当に飛ばし飛ばしてご賞味ください(^^)。


◇かつてインドにいた頃、日本から青年がやってきた。車に乗って発掘中の遺跡地に行った。

そこでは、女性たちが掘削した砂利や石を搬送する仕事をしていた。猛暑のなか日暮れまで働いて、たしか日給が四百円に満たなかった。彼女たちが運ぶ石の入ったザルはずしりと重たい。他の作業夫が使っていた鉄の鋤(すき)もまた安易に持つと足がふらつくくらいに重いものだった。

彼女たちは、土の味のするカレーと干し飯(ほしい:乾いた米)を私たちに分けてくれた。感謝して食べたが、正直、味といえる味覚はしなかった。

その帰りに、青年が語った――彼女たちの過酷な労作業にびっくりした。自分は働かずにこうしてインドまで来られる。日本でバイトでもすれば、彼女たちの日給以上の額を一時間で稼げてしまう。これは、客観的に不平等でどうして彼女たちと自分にはこのような違いがあるのか、という問いかけだった。

現実の中で、持てる者と持たざる者とがいる。その世界をどう説明するのか?

もう少し敷衍(ふえん)していえば、恵まれている(あるいは恵まれていない)この自分というのは、どうやって作られたのか? どうしてこの「自分」がいるのか?

さらに範囲を拡大すれば、「自分はなぜこの自分なのか?」「自分とはそもそも何なのか?」という問いにもつながってくる。

「自分」というこの存在をどう説明するか? 哲学ではなじみのあるテーマである。今は日常で精一杯の大人たちでも、かつて一度は似たような思いを抱いたことがあるはずだ。


○仏教ではどう考えるか? 端的に答えてしまおう。

仏教的な発想はこうである――。

「自分」という発想にとらわれていては、真相は見えない。
「自分」というのは、そもそも幻想である。それは、心をつくるさまざまな要素――感情や思考や欲求といったもろもろの心の働きが寄り集まって作られた「意識」にすぎない。

私たちは、胎児のときにはこの「意識」しかなかったはずだが、生まれ落ちると、肉体の感覚を感じ始める。見る、聞く、匂う、味わう、肌で感じるという五感を学習する。さらに、欲求も肥大させるし、「考える」という働きも発達させていく。

ある程度時間が経つと、いつの間にか「自分」という意識を持つようになる。

その意識が一定値を超えたとき、「自分とは何だろう?」という発想が生まれるのである。それは思考(考えるという心の働き)の産物である。

つまり、平たく言えば、「自分」というのは、心の中に生まれたひとつの観念にすぎないのだ。ひとはみな、名前とか年齢とか家族とか周囲の人間関係とか履歴とかさまざまな記号によって、自分というものを理解している(正確には、それが自分だと思い込んでいる)。

「自分」というものを解体してみれば、それは単なる欲望だったり妄想だったり欲求不満だったり記憶だったりするのだけど、そういうさまざまな心の現象がぐるぐると生まれ続けている「心」というひとつの現象の中で、「自分」というものを漠然と意識しているにすぎない。

だから、「自分なんていうものは(その思い込み以外に)存在しない」というのが仏教的な理解。


○では、「自分」ではなく何が存在するのか?

それはたとえていえば、「因縁」とでも呼べる現象である。

胎児から赤ん坊へ、幼児へ、少年少女へ、青年へとさまざまな体験を重ねて、そのときどきの肉体的な変化(成長)と、心の動き(反応)とがかさなっていって、その果てに「自分」という意識が生まれる。

もともと存在するのは、「自分」ではなく、そうした肉体と精神の変化。その変化をもたらした一つ一つの無数の出来事(原因となったもの)を総称して、たとえば「因縁」と呼ぶことにする。

インドで「なぜ自分はこの人生で、あの女性たちはあの人生なのか?」と考えた青年は、だから仏教的にはこう考えることができる――。

 いろんな因縁の結果・産物としてたまたま「この自分の人生」という意識が出来上がった。
 いろんな因縁の結果・産物としてたまたま「あの女性たちのあの人生」が出来上がった。


因縁の産物としてみるなら、それはただの現象でしかない。それ自体には、「幸福」も「不幸」もない。「恵まれている」も「過酷」もない。

たまたま日本という国で生まれて、親や他の人間たち、その他の無数の出来事とのつながりによって、ひとりの人間が「自分」という意識をもった。「この人生」という意識を持った。インドにやってきた「青年」が現れた。

その「自分」「この人生」という意識は、しかし、後に作られた心の産物でしかない。
その意識が「自分とは何だろう?」「この人生は恵まれている(恵まれていない)」「なぜこのような自分なのか」「なぜこのような人生になったのか」と考えているのである。意識が生み出している、ひとつの(かげろうのような)現象としての「自分」である。

人間にとっては、この「自分」こそが自明の(最初からある)ものだ。だから、「自分」についていろいろと考え、それゆえに悩みや欲も生まれてくる。

だが、それは意識が生み出すトリックみたいなもので、本当は、「自分」は存在しないのである。


「自分」は存在しない。あるのは「因縁」である――。

この理解は、仏教が見出した、それまでの哲学・思想とは根底から逆をいく理解である。

おそらく、未だに、人間が考えつく哲学・思想・宗教は、この仏教の真相・理解を理解できていない。人間は「自分」が大好き、というか自分なくしては思考すらできないものだから、どうしても「自分」を最初にすえて考えてしまう。

そしてひとは「自分」の満足を求める。もし「自分」が満足できない人生は、「失敗だった」とか「まだ足りないものがあるから次はこれを求めよう」とか、「自分はあの人が嫌い・苦手だから関係を断とう」などと考えたりする。つねに、中心に「自分」を置いて人生を作ろうと発想するのだ。だがそれは「自分」にこだわり続ける人生である。ちなみに親鸞上人は、そういう生き方を「はからい」と呼んだ。

しかし、そのはからい、自分という意識で生きようとしては、人生はつねに過去への後悔や痛みを、そして現在には欠落・不満を、将来には、不安や、新しい何かを追いかけ続ける欲求、その欲ゆえの心の乾きというものがつきまとうことになる。自分はつねに満たされなくなる。心が乾き続ける。孤独であり続けることになる。

それは道理(当たり前)なのである。だって、そもそも存在しない「自分」という思い込み(意識の産物)にこだわって、その自分を中心にして、他人に向き合っている(つねに対立している)のだから――。


○自分を捨てる。手放す。自分を許す。ラクになる。

いろんな表現があるけど、これらを文字通りに実現しようと思えばなかなかの修行が必要になる。

ただ、その言葉が意味するところは、発想の切り替え(ちがう考え方)によっても、もしかしたら別ルートで山を登るのと同じように、可能かもしれないのである。

それが、「自分はまぼろし。因縁がすべて」「自分はいない。あるのは因縁」という発想である。

もし今日イヤなことがあったら、たとえばこう考えよう――。

今日イヤなことがあった――と「自分」は考えている。

でも自分というのは確かなものじゃない。じつはきわめていい加減で、あやふやで、変わり続けているもので、よくよく見てみれば、そんなものはほんとうはない。

因縁として今日一日をとらえよう。たまたま今日はそういう因縁の日だった。そういう組み合わせの日だった。

でもその因縁もまためまぐるしく変わり続けているもので、明日は明日の因縁がある。

「自分」が今思っているようなことは、ただの妄想だ。きっと明日にはちがう現実がちゃんと起きてくれる。

明日は明日の因縁をあたらしく作ればいいのだ。

因縁というのは、心がけ次第でどんどん変わっていくものだ。心次第でどうにでもなっていくものだ。
(心では変えられない因縁もある? それはそうだ。だけどもしそうなら、そういう因縁には今執着してもしようがないじゃないか。起こることは起こる。でもそれは気にしても仕方ない。)

自分にできるところで新しい因縁を作っていこうじゃないか。それならわたしにもできる。

いつだって、因縁だけがある。大切なのは、その因縁を前にして自分がどんな心でいるか、なんだ。心ひとつで因縁はがらりと変わって見える。新しい因縁が生まれてくれる。

そうなんだ。明日は明日の因縁を生きてみよう。

もし、仏教が教えてくれる通り、
「自分」というのはただの因縁の産物で、
因縁というのはつねに新しく作られていくものだとしたら、

明日生まれる因縁は、自分にとって新しい希望じゃないか。


――因縁とは希望、なんだ。

関わりという名の希望

4月20日
冷たい雨の日に想ったこと。


人生は、つながりそのものだ。
つながりが断たれればひとは生きていけない。

つながりの向こうにまた新しいつながりがある。

もしつまらない誤解や、独りよがりの怒りや裁きによってひとつのつながりを断ってしまえば、
その向こうにあるつながりには永久に手が届かなくなる。

つながりという無限の網目のまんなかに、「自分」という意識があるとすれば、
その意識を作っているのは、自分の我(が)なんだ。

そして孤立して、ひとりぽっちになるのも、自分の我(が)ゆえである。

ほんとうは、
つながりそのものに垣根はない。断絶はない。

つながりは、けっして絶えることはない。つながりはけして死なない。

ひとは、そのつながりを、自分のかんちがいによって、自分自身で創れるもの、断てるもの、コントロールできるもの、とどこかで思っている。

そうやって、どれくらいのつながりを、これまで断ってきたことだろう。

でも、本当は、断たれてはいないのだ。
ただ自分自身が、なにかしらの「執着」の枠の中に自分自身を閉じ込めているだけなのかもしれない。


関わりは死なない。そして関わりはつねに生まれつづけている。

もしひとが、新しい関わりを育てたいと思うなら、
(それくらい今の日常が物足りない・つまらないものに感じられるなら)

けっして過去に執着せず、ひとの悪口も愚痴も語らず、
つまりは自分を陰気にするような発想を言葉にせず、

前向きな希望・期待、語っている自分が嬉しくなるような言葉を、相手に伝えることだ。

そしてその関わりをけしてあきらめないこと。

タイミングが悪くてそのときは実らないこともあるかもしれない。
でもそういうときも落胆せずに、「今はそういうタイミングなんだな、また次を考えてみよう」と思って、
次の機会を待つことにしよう。

可能性を感じたら、その関わりを、自分の人生の一部に置いてしまえばいい。

すぐに関われるわけではないかもしれない。でも心の中には生かしておくことなんだ。

ひとは、みな自分の幸せのために生きている。その道を尊重すること。そのよき道ゆきを祈ること。

そして、今すぐには関われなくても、いつか分かり合える、役に立てる、相手にとっての喜びの一部になれるかもしれない、と想って、静かな友愛の情を保ちつづけることだ。


とにかく、関わりというものを、目に見えるものもまだ見えないものも、大切にすること。

その上での自分、なんだ。


深い怒りや悲しみや孤独という思いも、ほんとうは、けしてそれだけで独立して在るものじゃない。

今、たまたま、目の前にそういう思いがある。
そういう思いの中で生きているこの暮らしがある。

でも、そんな日常の中でも、かならず、ちがう誰かとつながっていて、
その誰かは、自分の日常以外の何かを運んでくれている。

それは、自分が招き寄せなくても寄ってくる空気のようなもので。
自分の日常の壁をすり抜けて入ってくるものがある。

ひとは、それを出会いと呼ぶ。新しい風がどこからか吹いてくる。

その出会いの中に、これまでの日常はない。
たとえこれまでの日常がどのようなものであっても、その出会いの中には存在しない。

出会いはつねに新しい。

そして新しい関わり、人生へと運んでくれる。

出会うというのは、それだけで希望。
関わりというのは、それだけで希望。

今ある日常がよろこびにならなくなったら、
ほんの少し、動いてみよう。

新しいひととして見てくれる誰かはきっといる。


旅立つひとへ――、
行ってらっしゃい。

新しいひとたちと新しい関わりを育てていくこと。

それは、いつになっても始められること。

命はいつだって新しく始められるものだということ。


目の前にあるのは、いつも、希望なんだ。


※仏教の学校2013年度の告知は、
http://genuinedhammaintl.blogspot.jp/2013/03/blog-post_24.html

「タイのあんかけ」にひそむ仏教的な真実とは?

4月13日
いよいよ仏教の学校が始まった。

通年シリーズの仏教講座は、今年がスタート。

伝統や信仰、宗派といった形・敷居にとらわれず、
実用的(実際に役に立って)、知識・教養も身について、
年代も職業も異なる大人たちが顔見知りになってひとときを共有できる、というのは
仏教というフィールドではめずらしいことではなかろうか。

春学期の最初のテーマは、「つながり」。

仏教の世界では、因縁、縁起、法縁、などと呼ばれてきた。

スリランカなどに伝わるテーラワーダ仏教の世界では、
因縁・縁起というのは、もっぱら「心と体」に起こる現象について語られる。

たとえば、音(という空気の振動)と耳(という感覚器官)が接触したときに、
心は反応する。反応が結生(けっしょう:持続する心のエネルギー)を生む。

その結生の産物が、感情だったり、記憶だったり、欲求だったりする(どれも続くよね)。

その感情(誰かに腹を立てた時の怒りとか)、欲求(~したい)が残って、
心を刺激しつづける状態を「執着」と呼ぶ。
その執着が、悲しみや落ち込みや不安や焦りや失望や怒りなどの苦しみを生む・・・
などと説明される(ここはかなり大胆にデフォルメして描写してます)。

テーラワーダ仏教が、心と体という内なる現象を語るのに対して、

日本に伝わる大乗仏教では、
森羅万象、すべての物事・存在が、因縁(つながり)によって成り立っていると説明する。

しかもその因縁は、たえず変化しつづけて留まるところがない。
すべての存在は、たがいに影響しあい作用しあって、変化しつづけている。
何一つ、変わらぬ姿で存在しつづけるものなどない、という。

その因縁論を、人間の心と体のみならず、宇宙の果てまですべての生命・存在にあてはまる真理として語るのが、大乗仏教である。

その大乗仏教の代表的な経典が「華厳経」(けごんきょう)。

今回は、その経典の一部を紹介した。

「世界にあるすべての存在は、瞬間瞬間に生まれては滅する流転の現象である。

それらはことごとく因縁から生じている。

正しく理解する者は、すべての存在は、変わり続ける無常にして空(くう)なるものと知って、執着を離れる」

「空」というのは、さまざまな意味で語られるが、「変わり続けるもの」という形容語だとここでは理解してもらっていい。

「因縁」とは何か。たとえば、あなたが何かおいしいものを食べたとする。

そのときの「おいしい」という感覚の実体・正体は何だろう?

「おいしい」という感想・判断なのか? その判断はどこから来ているのか?
おいしさとは何なのか? 素材の良さか? 料理人の腕の良さか? 食べている人間の味覚なのか?
そのとき、食べているものは「食べ物」なのだろうか?
食べているのは、「わたし」なのだろうか?
どこそこのお店で、何という名前の料理を食べている、という言葉で説明がつくものなのだろうか?

たとえば先日訪ねた三重松阪の友人の料理屋で、私はその夜「タイのあんかけ」を食べた。
最初に言っておこう。むっちゃ美味であった!!!!!

何も言葉を発さないで、目をつむって、ただ注意深く、口の中に入ったタイの肉味を感じ取る。

噛むにつれて、肉味が粉状になり粒子となり、その瞬間ごとに味わいというものが精妙に口の中に広がっていくのを感じる。

このとき、私が感じているものは何か? 味? タイ? 味わっているのは誰? 私? 私って誰? 舌じゃないの? 味覚細胞じゃないの? この「おいしい」という味覚は、一体何によって生まれているの????

と考えてみる。

どこかの海に、かつてタイの卵が漂っていたのである。それが孵化して、稚魚になって、大海原でプランクトンを食べて、光を浴びて、だんだん大きくなっていった。

それを、たとえば日本のどこかの町にいて、家族を持って、毎日いろんなことを考えながら生きている漁師さんが、とある日の漁にて釣り上げたのである。

それを漁港に持ち帰って、セリに出す。そのセリに来た業者さんや料理人が、たまたまそのタイを競り落とす。

そのタイには、海に満ちている栄養や光や酸素という因縁が現れている。因縁の結晶である。

海の水温や、漁船から漁港、そして店、料理屋にまで運ばれる間の、保温状態もまた、その肉味に作用しているはずである。

その肉味を、私の友人が、それまでの調理人としての経験と才覚とその場のひらめき・直観といったもので調理をする。

それを食べる側のこの私の心にもさまざまな感情や体験や、その場限定の心境というものがあり、肉体の状態(たとえばどれくらい空腹だったか、疲れはあったか、体温はどれくらいか、タイのあんかけなるものが初めてだったことの心理的影響はどれくらいだったかなどなど)もまた作用していて、

その最果てのこの瞬間の「タイのあんかけ」の味わいというものが成り立っている(ふう)。

目をつむって、言葉を発さずに、ただ「味わっている」この状態に、「わたし」というものはあんまり関係がない。肉味が口に入る。噛む。味が生まれる。肉味が味の粒子へと変化していく。燕下(えんげ)とともに、意識の闇の中へと味が消えていく――。

この瞬間に生まれているのは、「タイ」でも「あんかけ」でも、「友人の料理」でも、「おいしさ」でも、「味わっている私」でもない。

正確には、「因縁によってこの瞬間に成り立っている現象」 とでも呼ぶしかないものなのだ。

(そもそもかつて足を踏み入れたことのなかった三重松阪にその日私がいた、ということ自体、これまた言葉では語りきれない絶妙なる因縁の賜物である・・・・考えてみればなんとも不思議な出来事ではないか。)

「因縁」 なのである。ここに生まれているのは、「因縁」 そのものなのである。
本当は、私たちの人生そのもの、「このわたくし」という存在そのものも、

「わたし」という自意識とか、名前とか、職業・肩書きとか、年齢とか、家族構成とか、過去の体験とか、性格とか、そういう言葉=観念 によって表現できるものでは、ない、のである。

その場その瞬間で、因縁によって成り立つこの自分という現象があって、

その現象が、また別の因縁――それは友人とか、家族とか、職場の人とか、その日の気温とか天候とか、道で目にする景色とか、入ってくるニュースとか、聞いている音とか、ずっと頭から離れないあの思いとか、不意によみがえる昔の思い出とか、明日の予定とか、今進行中のあの仕事・あの趣味とか、今何時とか、今日の夕食は何にしようかとか、携帯をいじっているときの頭の中身とか、はてまたそういう日常を超えて、一生直接見かけることのないだろう数十億人のひとびとのこれまた言葉にできない無限精妙な頭の中とかその行いとか、そういうものごと・すべての存在との「因縁」によって、

今この瞬間がある――――――ということかもしれないのである。

たしかなものは、本当は何もない。もしあるとしたら、それは「因縁」とでも呼ぶしかないもの。

そういう理解を、華厳経は語っている。

すべては、因縁によって成り立っていて、その因縁は、つねに変わり続けている。

その因縁の産物が、「わたし」という意識であり、私という人生であり、私という存在なのだけど、

「私」を「私」として意識するのは、本当は正しい理解ではなくて、

「私」ではなく、「因縁」として理解するのが、本当なのかもしれない、ということなのである。


この因縁というつながり、関係性は、宇宙138億光年の果てまで続いている。

その無限・広大なつながりのごくごく一部を観念によって切り取って、「私」というものを我々は見ている。

もし、その「私」という観念を手放して、自意識という妄想を霧と散らせることができたとき、

そのとき見えるのは、無限に広がる因縁(つながり)という宇宙 である―――。


「わたしではなく、因縁として理解する」
「私を生きるのか、因縁を生きるのか」

「私にこだわる・執着する・囚われるかぎり、苦しみはつきまとう。

だが、因縁として理解して、ここから先を新しい、よき因縁をつくりだすために生きること。

心の持ち方ひとつで、この因縁の見え方、因縁と呼ばれるこの人生・この世界の色(見え方)はがらりと変わること」

そういう話になった。


仏教の学校は、かなりスケールの大きなテーマでスタートした。
華厳経。空(くう)・無常・因縁・つながり、という大乗仏教の根本思想。

仏教そのものに興味はない人でも、かなり新しい発見があるのではないか。

この先、どんな発見・学びがあるか――ぜひ楽しみに来てください。

みなご同伴下さいますように――(^人^)合掌。

仏教の学校、第1期いよいよ!

仏教の学校、いよいよスタート!

※「仏教の学校」のくわしい告知は
http://genuinedhammaintl.blogspot.jp/2013/03/blog-post_24.htm
※日程は http://genuinedhammaintl.blogspot.jp/p/1011.html

月2回のペースでやっていきます。
ときどきお休みあり。そのあたりは自然体でやっていきましょう。

◇「目の前の現実、じぶんの人生になにが必要か、どう役立てるか?」

という徹底的にリアルな視点でとらえると、
仏教はこれまでとはまったくちがったものに見えてきます。

とにかく深い。スケールが大きい。そして、発見に満ちている。役に立つ。

仏教ファンの中には、テーラワーダ仏教か大乗か(あるいは日本のいずれの宗派か)

という視点で仏教を学んでいる人もいるようだけど、
はっきりいって、それは視野の小さな見方。

テーラワーダ仏教の、瞑想重視の実践性、合理性。

大乗仏典から伝わってくる、スケールの超大きな、豊穣な、深淵なる思想性。その力強さ。

日本の各宗派の原点にある開祖たちの、勇気、大胆さ、発想の斬新さ。そしてひとりの人間の生き方としてのせつなさ――。

いっぱい、すばらしいところがあるのです。仏教のどの部分をとっても。

「どれかひとつ」を選ばなければいけない、というのは、ただの思い込み。
(ひとつだけを選ばなければいけないという必然的理由はどこにもないでしょう?)

発想の中心に、「今を生きるこのわたし」を置くべし。

そして、このわたしをしっかり生きるための智慧・思想・方法を学ぶべし。

そして、その学びが、ただの理屈、知識で終わってしまわないように、
それをひとつの生き方として実践していくこと。
実践を大切にする場所で学ぶことだと思います。

興道の里(こうどうのさと)は、そういう場所をめざしています。


◇仏教を学ぶ「ゴール」は何だと思いますか?
ひとつは、「自分はこれでよし」と納得できるようになることでしょう。

それは、迷いがなくなったり、
自分を変えようと思わなくなったり、
ひとの目が気にならなくなったり、
自分の過去や、ひとのことを許せるようになったり、という感じのこと・・・。

ブッダは「私は善を求めて(29歳で)出家した」と語った(長部経典)。

「善」というのは、今の言葉でいうと、「納得」 がいちばんふさわしいのではないかと思う。

納得をえるための仏教。
学ぶにつれて、
過去に納得できて、
今ある自分のすがたに納得できて、
将来の自分にも納得できるようになるための仏教。

それが私たちの目的、じゃないかな。


◇4月6日、横浜でとある仏教団体が主催する映画上映会があった(私はその字幕監修をさせていただいた)。

そこで出会ったご婦人は、テーラワーダ仏教を長年学んでいるけど、「涅槃(ねはん)・悟り」に目的を限定するところに、ちょっとしたクエスチョン(?)を感じているそうな。

「在家の(つまりは仕事やら家庭やらを持っている市井の)人には、それは無理がある」とおっしゃるのである。

そのとおり。
というか、そもそもブッダ自身は、修行や人生の目的を「涅槃」なるものに限定なぞしていなかったのである。

原始仏典の中にある「涅槃こそが目的ともいえるのです」という言葉と、
テーラワーダ仏教が標榜する「涅槃こそが目的なのです」というのは、
表現上の差異を超えて、方向性がかなり異なる。

ブッダ自身は、目的を限定してはいない。
人生の目的、道(生き方)というのは、もっと幅広い、ひとさまざまに選んでいいものであるはずなのだ。

私がそのご婦人に伝えたかったのは、

「人生の目的をきめるのは、自分自身。
ご自身のめざす方向に照らして、ブッダの教え・智慧を活かせばよいとおもいます」

ということだった。

開かれた者、めざめた者ブッダの教えというのは、つねに射程範囲を限定しない。
教えをどう活かすか、は、受け取る側の自由意思・人生の選択にゆだねられる。

そういう、とことん開かれた、裏を返していえばそれだけ強靭な思想なのである。


◇「仏教の学校」でも、 目的そのものは限定しない。

この場所で学んだ仏教的な思考法を日常にどう活かすか、は通う人それぞれの自由である。

それぞれの家庭、仕事、勉強の場面において、
「どう考えれば、どう心を使えば、今の自分を「よし」と思えるようになるか」
は自由に考えてもらえればと思う。

できれば、メールなどで、「最近こんなことがありました。そのとき、仏教のこういう知識があったので、それを使って、こう考えて、こういうふうにやってみることにしました」
なんていう、身近にあったできごとの報告なんかを送ってくれるとうれしい。

また、疑問・反論など、思うところを遠慮せずにぶつけてみてほしい。

私は、ブッダの流儀にならって、
理解しているところはありのままに答えるし、
理解していない部分は、そこはわかりませんと素直に言おう。
考えても意味がない問いには、それは意味がありませんよ、と率直に答えよう。

考えても意味のないことは、考えてもしようがないし、
考えて意味のあることは、きっちり考えて答えを出す。

正しい思考(八正道のひとつ)ができるようになってくると、
頭はますますクリアに、心は次第に軽くなっていくだろうと思う。

この場所に通ってくることで、徐々に、ブッダ的な発想法・考え方というものを身につけてくれたらと思う。

それは確実に、あなたの人生を楽にしてくれるはず、です。


◇横浜では、仏教を学んでいるそのご婦人のほか、
とある宗派のお坊さんだが、自分の家を寺として単身で活動している人や、
博士号をめざして(無味乾燥な日本の大学で)がんばっている台湾の尼僧さんや、
ひと助けの活動をお金の面でサポートしたいと意気込むシニアの企業人の方にめぐりあった。

改めて伝えたい――人生の目的は、ひとさまざま。ひとは完全に自由である。

その自由に枷(かせ)をはめるような、否定するような、宗教や思想というのは、もはや邪念である。

あらかじめ定まった目的だの、教義だの、しきたり・儀礼だのというものは、
ブッダの教えそのものとは関係がない。
それらは、のちの時代に作り上げられた、どなたかブッダ以外の人間による飾り物にすぎない。

ひとは自由であるべきである。
そしてその自由を最大限活用するために、仏教の智慧は存在するのである。

ただ、仏教には、ひとつだけ、向かってはいけない方向というのがある。
それは、ひとに苦しみを与えるような発想であり行動だ。それだけは採ることはできない。

仏教というのは、これまでの伝統的な「仏教」を学んでいる人にさえも想像つかないくらいに、
洞察に富み、応用・汎用(≒使い勝手)・知恵に富んだ思想体系である。

その核心・本質にこそ通じるべきなのだ。
どこぞの宗派・伝統・長老・学者先生が語る「これが仏教」に振り回される必要はなく。
その思い込みに、知力の楔(くさび)を打ち込んで、その奥に秘められたブッダの教えの核心にこそたどりつくべきである。

仏教徒になるというのは、仏教を「信じる」ことではなく、

仏教的な考え方・見方ができるようになって、
そういう自分に満足・納得を得られるようになることをいう。

それは宗教じゃない。心の発展である。人生の解放である。自由な「いのち」への昇華である。

「仏教の学校」は、そういう“めざめた”目的のためにスタートします。


今週は、いよいよ春の教室、各地でスタートです!

ブッダの誕生日に何を考える?

今日は、4月8日。
日本では釈迦(ブッダ)の誕生日と一般には言われてますね。

ただ、インドの昔の暦では違っていたそうな。
2月という説もあるし、南方仏教国では5月(ウェーサーカ祭として祝う。仏教の祝祭日として国連も認定)。

◇ひとが生れたことの影響力の大きさというのは、ブッダにかぎらず、ひと一人ひとりにありますね。

あのひと、自分、が
生まれたこと、生きていることが、今あるすべてのつながり・関わり、今生きている世界の出発点なのですから。

「もしあのひとがいなかったら・・・・」と仮定してみてください。
「あの時間・ひとときがすべてなかったら」と。
人生はおおきく変わるはずです。想像もできないくらいに人生は変わるでしょう。

同じことは、自分がいなかったとしたら、という場合でもいえる。

「あんなひと、いらん」と思うひともいるでしょうが(笑)、
むしろ関係をあるものとして肯定したうえで、どう受け止めるか、関わるかを考えていくほうが正解なのかもしれませんね。

「関わりそのものに苦しみはなく、苦しみを生み出す心にこそ原因(ひいては、変わりうるためのきっかけ)があるのだ」
というのが、
仏教の伝統の中で繰り返し伝えられてきた真理。

日本でメジャーな「般若心経」も、そういうことを(ほんとは)伝えています。これ、4月からの講座で紹介したいと思っています。


◇人間は、偉大な先人の誕生日を祝うことが好きだけど、
ブッダの誕生日をただ祝ったところで、あんまりブッダの意向に沿うことにはならないだろう。

ブッダの誕生日というのは、私はもう少しちがう意味で受け止めたい。

むしろ、はるかなる太古のインドに、ひとりの、特殊な、それまでとはちがう発想で生きて、ちがう真実を見つけた人がいて、

その人の教え・思想が、なぜか、奇跡的に、2500年以上ものちの時代、つまりは現代にまで言い伝えられてきて、

その教えの一端にふれることができる、「この因縁て何なのだろう?

なんて考えてみるのもよいと思う。

その因縁が生きるも死ぬも、すべては、
その因縁の片側に立っている自分自身の受け止め方にある。

自分自身が、はるかなる因縁の向こう側に立っていた、ひとりの人間の教え・思想を、どう活かすか、なのだ。そこが大事。

自分自身のために活かせ。

この因縁を、最大限、活かせよ、生きよ。

そのことで、この因縁が、だれか途方もない彼方・昔に生まれたひととのつながりを、

唯一、たしかに意味あるものとしてリバイバル(蘇生)することができるのだろうと思う。

それは、かつて生きていた人との因縁を生きること。

つまりは、その人と今一緒に生きること。

因縁(つながり)の尊さこそを想い、そのつながりの奇跡を、
今自分が正しく生きるための源・よりどころ・希望・エネルギーとして活かす。

それこそが、ブッダの誕生日にとどまらず、

自分が知るだれかの「誕生日」に思うべきことであり、

先立たれた誰かとともに生きるための、ひとつのよき方法なのだろうと思う。


誕生日なるものの意味がたしかなものになるのは、

そのひとが生まれてきたという事実をうけとめ、

そのひととのつながりをよくよく感じ取り、

そこに感謝とか、そのつながりを一緒に生きようと願うこととか、

そのつながりをきちんと自分自身のために活かそう、ともに生きよう、

と願うときだと思う。



※「仏教の学校」のくわしい告知はhttp://genuinedhammaintl.blogspot.jp/2013/03/blog-post_24.htm
※日程は http://genuinedhammaintl.blogspot.jp/p/1011.html

ぼたん桜

4月4日

街のいたるところにぼたん桜をみかけます。

木々の緑も伸びやかにほころんでいます。

自然が笑ってる。

4月からはじまる「仏教の学校」の第1期を、来年3月修了としたのは、

やっぱりこの言祝ぎ(ことほぎ)の季節に、送り出したいから。

ひとつの区切りをつけて、それを目標にしてもらう。

もし仏教を自身の道としてそこから先も歩んでいきたいと感じるひとがいたら、

そこからまた里で一緒に学んでいけたらと思う。

わたしはこの道をいのちつきるまで歩いていく。ただそれだけ。

もし同行するひとがいたら、それはすばらしいこと。

たぶん、きっと、

いのちといのちは、どこまでも同行の友なのだろう。

みなどこかでつながっている。ひとつのおおきなみちを歩いている。

そばにいないあのひともそう。

そばにいるあのひともそう。


仏教の学校は、4月10日(水)から。みのり多き一年となりますように。
四谷でスタートです。