仏教講座スケジュール

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よき人生のつくり方~秘訣は●●●にあり

こんばんは、くさなぎ龍瞬です。

昨日の講座は思わぬ時間切れとなってしまい、私の中ではかなり執着が残る結果となってしまいました(笑)。

前向きなオチを考えていたのにそこまでたどり着けず・・・(次回かならず)という感じです。

昨日のおさらいも含めて、「業」(ごう)について理解の仕方をまとめてみます。
(人によってはカルマと呼んでもらってもいい。誤解を招きやすい呼び方ではあるけど)

業の正体

業というのは、人生を「つくりだす力」。

悪い業というのは、三毒(貪欲・怒り・妄想)で反応したときの、意(思い)・言葉・行いのこと。

それらに対する「他者の反応」もまた業になる。

つまり 業=(貪欲・怒り・妄想)×(思い・言葉・行い)×他者の反応 

というのがひとつの定式(論理的な表現じゃないけど)。

たとえば自分が何かミスをしたとして、

もし相手が許してくれたり、忘れてくれたり、気づかなかったりすれば、自分のミスは「作り出す力」としては弱くなる。

でも相手が、こちらのミスに腹を立てたり、勘違いしたり、オーバーリアクションしたりすれば、逆に自分のミスが小さくても「作り出す力」は強くなる。

つまり業のチカラというのは、相手との関わりによっても変わってくる。

だからよくよく相手の反応をも考慮に入れて、言葉を発したり行動したりする必要がある。

(この点で、大阪市長さんや都知事さんや、その他失言・暴言を吐いてしまう政治家さんというのは、自分の言葉への他者の反応をあまり考慮していない点で、やっぱり問題がある。未成熟とか独善的とかいろんな形容は可能だろうけど、仏教的に言うと「正しい思考」が身についていない。その結果、悪い業を作り出してしまってる。)


悪い業をつくる関係に注意


「業というのは、相手との関わりによっても作り出される」というのは、仏教の重要な教え(大乗の発想ですけど)。

だからもし、自分の人生をよい方向で作っていきたいと思うなら、悪い業を生んでしまうような相手との関わりには慎重になる必要がある。

相手がどういう業の持ち主なのか、冷静に考えてみる。

もし相手の中に、根の深い怒りや、過剰な欲、あるいは暗い妄想(深い後悔やひとへの疑いなど)があると感じるなら、そういう相手との関わり方をよく考えよう。

慈悲の気持ちを向けられる(あるいは反応しないように努められる)なら、まだ関わっていけるかもしれない。

でも、もし相手のそういう業に巻き込まれてしまって(反応してしまって)、自分も相手と同じ種類の業を作り出してしまうようなら、

そういう相手と関わる意味が本当にあるのか、冷静に考えてみよう。

場合によっては、距離を置くこと・時間を置くことも大切になるだろう。
(たとえば親? 恋人?)


気づきが大事

ただ、決定的に大事なのは、「業を作り出すのは自分自身」ということ。
その報いを受けるのも自分自身。

もしふだんの自分の中に欲だの怒りだのイケナイ妄想だのがあれば、それは刻々と悪い業を作り出していることになる。

こういう悪い業に対しては、「よ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~く気づく」ことが一番大事。

「すぐに消す」ことはあまり期待しなくていい。

それより、自分の中の悪い業を冷静に、正面から気づくようにする。

「あ、怒っちゃったよ、これ業になっちゃうかな?」と自分に問いかける。

「今、わたし、あの人にこういう思いを持ってるけど、これって妄想かもしれない。この妄想をそのままにしちゃうと悪い業になっていくだろうな」と気づく。

もしその業を外に出してしまえば、必ず相手のリアクションが来る。業は決定的になってしまう。

だから、怒りや妄想といったよからぬ思いが湧いたときは、「あ、ちっちゃな業が生まれた」と気づいて、「止めなきゃ」と意識する。

湧いた瞬間に気づけるようになるのがベスト(そうなるには禅が効く)。

もし湧いて大きくなってしまったら、自分の行動・言葉・思いによく注意する。

言わなくていいことは言わないでおく(沈黙こそが最上の言葉)。
行動しなくてすむことは行動しない。我慢する。距離を置く。

ここはガマンのしどころ。業が強い人ほど、ガマンが必要になる。


マイテーマとして業に向き合う

はっきりお伝えしておくと、業のチカラというのは凄まじい。
ほんとに「人生を変えたい」と思うなら、地球の重力に逆らって外に飛び出すくらいの馬力が必要になる。

ただ、だからといって業を恐れる必要はない。

業を「自分自身のテーマ」として向き合っていけばいい。一緒に生きていけばいい。

たいていの人が、「マイテーマ」となる業を持っているはず。

怒りっぽい人なら、怒りの業が「マイテーマ」になる。

「これが自分のテーマなんだ。気をつけていこう。自分の心をよく見張っていよう」と心がける。

つい妄想しちゃってひとに迷惑をかけることが多い人は、「わたし、妄想がテーマなんです」と認めてしまう。

それに残された人生の中で、じっくりと向き合っていけばいい。

業というのを、自分のテーマとして受け入れて、そのテーマに取り組むつもりで生きていこう。

たぶん抜け出せる。
上手に向き合えば、たいていの業は苦しみにならなくなる。

それが仏教が与えてくれる希望。

次回は、その希望についてじっくりお話したいと思います。
「善き業のつくりかた」について考えます。

6月1日(土)午後6時半~ 座禅エクササイズ
6月8日(土)、12日(水)  仏教の学校・春クラス第4回 善き業のつくり方

では
明日からの一週間、「善き業(カルマ)づくり」を心がけてすごしましょう(^ ^)9。

業~人生をつくりだす力

22日(水)の仏教の学校第3回についての感想が届きました。

今回のテーマは「業 ~人生をつくりだす力」

古い仏教では、カルマ(Kamma; karma)と呼ばれます。よくある話が「前世のカルマ(宿業)」。

こういうアホらしい話は、もちろんここではやりません(笑)。

ただ、でも、やっぱり、自分の人生はなぜこうなったのか? 

自分はなぜこういう環境・状況・性格・人間関係にあるのか?

もしこの先、自分というものを変えたい・新しく作りたいと思うときは、どうすればいいのか?
(その方法はあるのか?)

自分の人生・今ある日常を変えていきたい、もっとよい方向で運びたいと思うなら、どうすればいいのか?

そういう、誰しもが一度は考える(多くの人が今現在考えている)テーマについて答えを出しておくことは、かなり意味があるんじゃなかろうか。

だから、今回はこれがテーマになった。

授業最初の質問が、「これまでの人生で繰り返してきていると思うことはありませんか」というもの。

もし「繰り返し」を感じる出来事があるとしたら、その奥には、たぶん間違いなく「作り出す力」が働いている。

その力の正体とは何か? そこから抜け出せるのか? 
どうすれば、その力から自由になれるのか?

ということを仏教的に考えていく・・・・というのが、第三回のテーマなのです。

面白いと思わない? 
明日の教室(日本橋社会教育会館)でやります。興味ある人はぜひ来てください。


★以下は、このテーマでやった水曜クラスの感想です――。

龍瞬先生

本日も、本当によい学びをくださり、
ありがとうございます。

「なぜ、八正道に「正しい心」はないか?」

あの明確な質問と答えを頂いたおかげで、
自分が「心」と向かい合う、そのときの勘違いが
また、ひとつ紐解くことができたと思いました。

「心の反応をうまくいかせたい」という考えが、そもそもの勘違い。

反応は三毒として現れるもので、心はそういう(性質の)もの。
だから、(心は)気づく対象となる。変える対象ではない。

先生の「変えようとしなくていい、そういうものと知って、
そこに立てばよい」という表現は、なんて美しいのだろう、と思いました。

私も、今後は「うまくいかない」ことに嘆いたり、荒れたりするのではなく
そういう自分を「作っているもの」に寄り添いたくなりました。


こう思えた人は強くなる。今回伝えたかった核心のひとつです。


毎回、何を伝えれば一番正しい(その人にとって効果的・有意義になる)のか、
めいっぱい考えてます・・・。

ひとによって立っている場所も求めている方向も違うから、
教室の人たちみんなに
「コレひとつ」という明快なメッセージを伝えることは計り知れなく難しい(てゆーか不可能?)。

毎回、心に汗して作っている(そして終わったあとは反省しきり)のだけど、

こうして、来てくれた人が、
自分自身に照らして仏教に意味を見出そうとがんばってくれて、
そしてひとつでも意味を見つけてくれたことを伝えてくれたとき、

私としては、ほっとする、というか、とても心温まり、ありがたく感じるのです。

明日も頑張ります。

あなたの週末がとてもよいものでありますように――。

仏教以外のこと・・・その2

5月20日
(文章長いか?)

仏教以外の話のつづき・・・。

今回のインドへの飛行機の中で見たもの。

●トム・クルーズ主演の映画『アウトロー』Jack Reacher

無差別に5人の通行人を射殺した犯人として、ひとりの男が逮捕される。

似た犯罪を過去に犯しているので、犯人に間違いないと誰もが思う。

ただその男が無罪を主張して呼んだひとりの人間がいる。

それがジャック・リーチャーという元軍人。今は住所不定でさまよっているアウトローな男(トム・クルーズ)。

ジャックは、その常人離れした推理力で、えぐりぬくように事件の真相に迫っていく。
めっぽう強いし、射撃の腕も抜群。

事件の黒幕とその一味をぐいぐい追い詰めていって、最後の対決で全員倒しちゃう。

昔、無法者をたったひとりで片付けていくクリント・イーストウッド主演の映画があったね(タイトル忘れた)。あれみたい。強くて、孤独で、正義漢。

トム・クルーズは、年をとってもカッコイイ。

(ちなみに、トム・クルーズ主演の映画で私が好きなのは、バニラ・スカイとザ・エージェントJerry Maguireです。)


●AKB48のドキュメンタリーも見た(ふだん見られないものをここぞと見る!)。

第一回総選挙で、初めてメンバー選出を果たした女の子がいた。

「わたしは、ずっと前からAKB48が好きで好きでたまらなくて、
AKBのメンバーとして歌いたくてAKBに入って・・・・ほんっとにうれしいですぅ!!!!」

と泣きじゃくってた(名前は覚えてません)。

応援するファンもみなもらい泣き(私も?)。

こんとき思ったのは、ひとはひとの心、感情に反応するんだな、ということ。

この子の「好きで好きでたまらなくて」という言葉を聞いて、

自分の中の「好きで好きでたまらなくて」という気持ちを思い出す。揺さぶられる。

そうやって、共鳴して感動して、泣いちゃうのだろう。

だから、仏教だって(私はつねにここに戻っちゃうのだが)、

自分の感情、気持ちを素直に訴えないと、ひとの心には届かないんじゃないかなっ、と思った。

もしこの女の子が、

「いえ、お役に立てればいいんデス」

「自分は存在しないものとして歌いマス」

とか言ったら、会場ドン引き、とゆうか、速攻で「退場コール(CDの金返せ~)」の嵐に包まれちゃうかもしれない・・・。

ひとは、相手に自分を見るんだよね・・・。

もしその相手が自分と同じような感情や考えを持っているとわかったら、そこで反応のしようがわかる。共鳴できる。

でも、相手に感情や考えが見えなければ、こっちは戸惑うしかないね。反応しようがない。

相手が自分と同じ心をもっているからこそ共感できるんだね。

だから、やっぱり、仏教も、聞くひとと同じ心・感情で語らないといけないんだよ。

そうして考えてみると、仏教ちうのは難しいね。無我とか無私とか執着を捨てるとか・・・。


そんなことを考えつつ、インドに向かったのでした――。


仏教以外のこと・・・その1

5月18日
ちとまじめに仏教語りすぎてきた気がするので、それ以外・・・(=▾=)

●最近、漫画を読んだ。ヨシノサツキという人の「ばらかもん」(スクエアエニックス刊。里の人が持ってきてくれた)。

23歳の書道家の青年が、東京でもめ事を起こしてしまう。
で自分の書を見つめなおそうと、長崎・五島列島で暮らし始める。

そこで出会ったのが、野性味たっぷりの女の子「なる」ちゃんや島の子供たち。
島の人々との親密な交流が始まる・・・。

小出しのギャグ(大笑いというのではないけど、せりふとか表情とかでクスリと笑わせる)が上手。表情の描き方が面白い。

五島列島は作者さんの生まれ故郷。実体験がベースの作品なので、すごく生活感が漂ってる。


生活感というのは、日々あたりまえのようにしていることや、目に見える風景なんかで変わってくる。時間の流れ方もちがってくる。

私は、自分の日常とはちがう生活感を描いた漫画が好き。


○生活感で思い出すのは、岩明均氏の『風子のいる店』

女子高生の風子が地元の喫茶店でバイトを始める。人見知りがひどくて、注文とるのも一苦労。尋ねられると赤面して固まってしまう。

そんな風子の身の回りに起こる出来事を淡々と描いていく。

この作品も時間の流れがゆっくりしてる。公立の共学の高校に通って、バイトもして淡い恋愛も体験して進路を考えて、という、ふつうの高校女子の心にはこういう時間が流れているのかな、と思える。なんだか妙に甘酸っぱい読後感が残る。

「生活感」――龍瞬のテーマかも!
(いえ、私の話に生活感がないとごく最近いわれたわけではけしてなく・・・・)


●なんで漫画の話をするかというと、私も漫画(というか、今はイラスト程度だけど)を描くから。

小学4年の夏休みに、奈良から漫画の原稿もって東京九段下の小学館に持ち込んだことがある。

未来にロボットが反乱を起こして月に独立基地を作った。地球の人間と戦争を始める。

主人公の少年が特殊作戦のチームに入って月にいくのだけど、そこで少年自身がロボットだったという事実を知らされる、というSFもの(よーやる・・・)。

「面白いと思った漫画のどこが面白いかよく考えてみてね」とアドバイスもらったことを覚えている。

そのあと、高田馬場にある手塚プロに行って、(手塚先生には会えなかったが)カレンダーやらサイン色紙やらをもらってきた。

大学に行く前は、美大か絵の専門学校に行こうかとふと思ったこともあった。

中学の頃には、『北斗の拳』が大人気で、放課後友だちと一緒に少年ジャンプを読んだ。

あのド迫力の線の入れ方に引き込まれてしまって、目でコマを見ながら頭の中で線をなぞるということをやってた(ラオウの顔の輪郭とか影の入れ方をシャッシャッと頭の中でなぞる)。そうするとページを開いたまま止まってしまう。友だちが嫌がって、以後私とは一緒に読まなくなった(笑)。


○最近読んだのは、益田ミリの『すーちゃん』シリーズとか、業田良家の『自虐の詩』とか。

すーちゃんはほんっとーにフツーの三十代女子なのだそう(「共感度120%」なんだとか)。

老後に漠然とした不安を感じたり、結婚しないことにうしろめたさを感じたり、同僚へのちっちゃな嫉妬で腹を立てたり・・・。

「このひとが仏教学んだらダメだな~(漫画にならなくなるな)」と思った(笑)。

だって、すーちゃんが「生きとし生けるものが幸せでありますように」「慈悲の心でバイトしましょ」なんて言い出したら、みな逃げるでしょ?(私だって逃げるかも)

すーちゃんは、かつての私(今もいるかもしれないもうひとりの私)が幸せを感じるだろうフツーの毎日を送ってる。だから私は読んでると、ほんのりと幸せな気持ちになれる。

でも本人はあんまり幸せだとは思っていないみたい。
幸せというのは、持ってる本人にはあまり見えないという特徴があるみたい。

ひとは、自分が知らない日常に、心のどこかで憧れを持ってるものなんじゃないかな。

私は、小さな頃から、「コレとはちがう人生」をずっと追いかけてきたところがあるから。

だからちがう生活を垣間見せてくれる漫画が好きなのだろう。


●里の人に、「好きな漫画(仏教に参考になりそうな漫画)をもってきて」と声をかけたら、ちらほらと持ってきてくれるようになった(ありがとうございます。精進(勉強)します)。

なんで声をかけたかというと、
今はもう、ストーリーのある漫画は描けそうにないけど、でも4コマとか1ページの読み切りなら描けそうな気がするから・・・。

ちなみに、WAVE出版の『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』(タイトル長いな・・・)のカバーイラストと中の図絵は、くさなぎ龍瞬の作品です。

あのタッチで、仏教的な視点・メッセージの入った、でもほんわかして笑える漫画を描いてみようかな、とちょっと夢想してるところ。

もし皆さんが、「この作品が好きです」「人生感じます」「生活感あふれてます」「笑えます」「ほのぼのします」「仏教的です(?)」と思う漫画があったら、ぜひぜひ教えてくださいね。


●いよいよ、来週から仏教の学校再スタートです! 

「はるかなる法縁(つながり)」の次にくるテーマは???

刺激度アップしてお届けします!

くさなぎ龍瞬かきおろし(タイトル長いよ・・・)


5月のおたより

5月16日
まずはおたよりから

「おかえりなさい。

水プロジェクトの進展は、素直に嬉しく思います。
同じ人間として、早くおいしいお水を飲める環境を手に入れて欲しいと思います。

それにしても、49度ですかΣ(゜д゜lll)苛烈ですね。
>行きたいか行きたくないかといわれれば、行きたいとは正直思わない(笑)。

というのは正直意外でした。
インドの地に立ったことがない人間には想像を絶するのでしょうね?
環境もそうですが、伝え聞く文化も・・・。

そんな中での仏教を伝える活動は本当に大変なのでしょうね。

ともあれ、日本での教室では、今後もよろしくお願いします。」


「くさなぎ先生
お帰りなさいませ。
暑い中本当にご苦労様でした。

今回のインド訪問も困難の中素晴らしい
成果が上がったのですね。

緑がきれいなインドがこれからもっともっと
素晴らしい国に変容していくような予感が私はします。

人々の笑顔がまぶしい国になっていただけたら
本当にいいですよね。

これまでの社会は勝つ人がいて、また負ける人がいて
富が集中する仕組みでしたが、多くの人が幸せになる
そのような仕組みができたら本当にいいですよね。」

そうなんだよね。

受け取ったもの・さずかったものを、どれだけ他のよき目的のために活かせるか、

という発想でくみたてていきたいものです。

きれいな水を飲むことができる。

それを配ることで利益が出て、生活がすこし豊かになる。

そして、その利益の一部を、もっと大きな、コミュニティや他の場所の利益のために使う。

そういうしくみを作ることで、利益一辺倒のビジネス、エゴのぶつかり合いの国や人間の関係に

ちがう価値観をもちこむことができる。

今回のプロジェクトは、世界でも珍しいビジネスモデル兼開発援助モデルです。

具体的な議論はこれからなのですが、

売上の何割かを最初に共通利益に配分――教育・医療・地域インフラの整備・保険など

できないか、と考えています。

今回のプロジェクトに関わっている方々は、なんだかみな 
仏教のこころ をお持ちのような感じがしています。

これから、どんな形で展開していくか、私自身も楽しみです。


ひとは自分のためだけに生きるにあらず。

他の命を想い、つながりを想うことで、もっと豊かに幸せに生きられる。世の中はもっとよくなる。

愚直に、そういうところにこだわってもいいよね。

そのための仏教なんだから、ね。

うまくいきますように――。


日本ポリグル社の小田先生と青年たち(建物の屋上につくってます)

ほんとはみんな帰る場所を知っている

一年ほど前まで、神楽坂の教室に来てくれていた「道のひと」がお便りをくれた――。

「お久しぶりです。お元気ですか? ○○です。先日帰国して今は実家の静岡にいます。

ミャンマーでは9か月間修行してきました。3か所道場を移り、最後の3か月は出家していました。
その間、真剣に修行していました。しかし9か月目に思ったのは変わろう変わろうとまるで聖者を目指すような気持ちでやっていたけれど、そもそも変わる必要(別人になる必要)はないんだ、という事でした。

そこで仏教に対する想いも変わってしまい、結果的にミャンマーからも仏教からも離れることになりました。
それからしばらく東南アジアを旅してから帰国しました。

仏教から完全に離脱した形となりましたが、
ミャンマーで瞑想修行したことや、日本で龍瞬先生に仏教について学んだことはとても良い経験だったと感謝しております。これからはもともとやっていた映画製作の道に戻って一から始めます。」

ああ、このひとは正しい結論、答えに達したのだな――と私は思った。

このひとが、「仏教から離脱した」というのは、とても自然な――言葉を尽くしていえば、自分の心・目的に忠実に、素直に生きて、道を探して、あれもこれも試してみて、最終的に自分の感性で濾過したときに出てくる――最上の到達点だと思う。

私自身を思い返してみても、かつてそのままの自分では生きていけなくなったときに(それは納得いかない思いというか苛立ちというか虚しさというか後悔というか、何かが足元にからみついてどうにも歩きにくくなって、軋轢・違和感のようなものに生活の全てが包まれてしまったように感じたときに)、

仏教という、それまでは縁のなかった思想の世界にたどり着いて、その先に特別な答えがあるものと、さながら闇の先になにかしらの灯火(ともしび)があるのだろうと漠然と期待してその先に進んで、結局また新しい疑問や葛藤や違和とでもいえるものを感じて、最後は、仏教という世界そのものから抜け出した、という経緯がある。

私の場合は、「仏教」と人々が呼ぶ古い思想の世界に限界をみて、さらにその先へと進む覚悟をきめて、掛け値なしの孤独のなかへと足を踏み入れたときに、

それまでの自分では決して見えないひとつの真実――もうこれ以上、この先はないのだと心の底で感じる確信のようなもの――にたどりついた気がする。

面白かったのは、そのときの見極めというか、自分自身の長いながいさまよいの旅の先にあったものは、

仏教や他の思想・信仰の世界での「プロ」(語る資格があると世間では思われている、それなりの地位・立場・到達地にあると見られている人たち)が語るものとは違っていたということ。

誰かが語っている、「それらしい」真理や真実といったものと、自分がたどりついた真実とは、まったく違っていた。異質だった。

「なんだ、ぜんぜん違うじゃないか」と思った。

たぶん彼らは――彼らが真理として語っていることは、本当は真理ではない――本当は何も分かっていないのかもしれない、とさえ瞬間感じた。

そしてすぐに思ったのは、ああそうなんだ、きっとひとにはそのひとにしかみえないものがあって、

私にこの地点でみえたものも、私にしか見えない、私だから見えるもので、きっと私だけにあてはまる、私だけに見えてくる真実なんだろう、ということ。

ひとりの人間がたどりつきうる最終の境地というのは、きっとそのひとにしかわからない。そのひとにしか見えない。
どんなに言葉やその他の人間が発想しうるいかなる方法・すべをもってしても、他の人たち――この世界にかつて生きていた有史以来の人たち、この世界に今生きている数十億もの人たち――には伝えることができない、分かち合うことができない、

そういう真実が、それぞれの人間の中にあるのだ、という思いだった。

なんて、孤独なんだろう――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。

それは私が漠然と道しるべとして思い描いていたブッダというひとや、そのほかの天才と称される人たちについてだけではなく、

ここまで死に近いところまで自分を追い詰めて、他人をも追い詰めて、ギリギリの一線でかろうじて「まともさ」を保ち続けてきた感のある自分自身の道のりについての感想でもあった。

誤解されないように言っておくと、その感想は、自分を何か特別な価値あるものと錯覚したところに生まれる自意識の産物というのではない。

そうではなく、すべての生き物にとって、自分というこの存在は、ごまかしようのない事実として、「孤独」なのだ、ということなのだ。

宇宙のどこまで旅しても、「自分の心に見えるこの真実」を見てくれる他の生命などいない。

この心、この自分という存在を、これほどに如実(ありのまま)に、深く見尽くすことのできる何かというのは、この自分という存在以外にはない、(絶対に)ないのだ――という計り知れないくらい深い、絶望、だった。

こうして言葉で伝えるときには、「自分」という表現を使わざるをえないけれども、そこにある孤独という真実は、
この世界に存在する、すべての生命についていえることなのだ。

ひとは、絶望的なまでに孤独である。
生き物たちは、絶望的なまでに孤独である。
あなたも、あのひとも、隣にいるこのひとも、生き物たちも、あの木々たちも、
この世界に息づく、心、をもった命たちというのは、

どれも、ひとつの例外もなく、その命にしか見えない世界を生きている。今生きているこの世界は、この心だからこそ見えてくる、成り立つ、いわば閉ざされた、限られた、この命のなかでかろうじて成り立っている、あまりに精妙、奇跡的な、ただひとつの現象なのだ。

全生命がたどり着くただひとつの(つまりは共通の)真理があるとすれば、それは「孤独」なのである。

私は――その孤独にたどりついたときに、かつてあった苦悩(という言葉は月並みか。ギリギリと魂を苛み続ける何ものかとでも言おうか)が消えた。

私は、このたどり着いたところから、生きていくのだ、と思った。
このたどり着いたものに沿って、これからを生きていくのだ、と思った。

不思議なといおうか、面白いといおうか、そのときから今にいたるまでを生きているこの自分という生命は、なぜかとても自然に、もともとあった自分を呼び戻していった。
かつてあった自分の性格、ものの見方(ふだんの私の言葉で表すなら「反応の型」のようなもの)は、そのまま自然に帰ってきた。

新しい私は、かつての私を抜けたように思ったが、ただそこからまた戻ってきたのは、かつていた自分だった。

昔の私を知る人からすれば、「変わってない」と思うだろう。それはその通りだと思う。私だって、自分自身が変わってない、と思うもの(笑)。

私は変わらない。命のありようというのは、別に変わるものじゃない。変わろうとしても変われない。変わるべきだと思ったところで変えられるものじゃない。

変わる、というのは思考である。「はからい」の領域である。しかし、自分という存在はもっと底の深いものだ。その自分という命が湛(たた)えている深淵というのは、思考や言葉で変えられるようなものではない。自分というのは、あるがままにあるものだ。あるがままにしかあることのできないもの、そのまま在ることしかできなくて、そのこと自体(変わらないという真実自体)によいも悪いもない、人間の思考の領域とはまったく接点をもたないくらいに違うところにある、ものなのだ。

結局、ひとは、自分を生きてよいのである。
「気づけばそこにあった、気づけばもう生きてしまっていた」この自分を、そのまま生きていくのである。生きていけば十分よいのである。それがほんとうは、究極の答えなのかもしれないということである。

便りをくれたこのひとは、仏教を通り抜けて、自分へと還っていった。とても自然ななりゆきとして。最上の答えなのだろう。

彼が旅立っていった昨年四月夜、私は彼に「あなたにとっての最高の真実を見つけてください」と伝えた。

彼は、見つけたらしい。じつに善きことではないか。

彼は、もともと道として歩いていた映画の世界を生きていきたいようだ。「彼らしい」、つまりは彼にとって最善最高の答えなのであろう。

ちなみに、私の場合は、なぜそのまま仏教の世界を生きていくことにしたか――。

(自分にとっての真実にたどり着いたとき、私にとって「仏教」は存在しなかった。それまで聞いていた仏教のどの言葉とも、自分にみえた真実は違っていたし、その真実は、仏教という言葉で表現できるものでもなかった。あえて仏教という言葉を使う必然性がないくらいに、あまりに無色の真実だった。そしてそこから先の道を見ようとしたときにも、どこにも仏教と呼べるものは見当たらなかった。「仏教じゃなくていい(仏教なんかいらない)」という思いを感じていた。)

それは、仏教が、たまたま、「たどりついた自分」に一番近いものだったからである。仏教を語り、生きることが、そのまま新しい自分を生きることになる。
自分を最も自分らしく生きられる、その方法・あり方・姿が、仏教だったからである。

私にとって、私自身を語ることは、そのまま仏教になる。
他方、仏教が擁する豊穣で深淵なる思想を語ることは、そのまま自分自身を語ることになる。
自分の全人格はそのまま仏教に重なる。仏教の思想はそのまま自分自身に重なる。
仏教は、私にとって、自身のありように一番近い言語なのだ。

仏教を語ることは、とてもラクで自然。それは知識や言葉・観念として、格別なものとして、語ることではない(学者先生が語る仏教というのはそういうものかもしれないが)。自分の思い、生き方、かつての思い、をそのまま仏教の表現を借りて言葉にすれば、それが一番、自分の心にフィットする。それくらい自分にとって自然なものが、仏教なのだ。

だから結果的に、私は仏教をその先の新しい道として選ぶことになった。べつに仏教にしがみつくつもりは一切なかった。仏教にこだわる思いはなかった。
ただ、私の場合は、たまたま、偶然に、仏教が、かつての自分、そして新しい自分にとって、最も近く、自然なものだったということなのだ。

仏教を語ることは、自分にとって一番ラク。最も自分らしくいられる。だから仏教を語る。その結果の今の私である。

こういう「最も自分らしい選択」には、ひとつの特徴があるような気がする。

それは、無理しなくてもその選択とともに生きていけるということ。
たとえ現実がうまくいかなくても、誰かに認められなくても、それが自分自身であるのだから、けっして降りようとは発想しない。「このまま」でいい、と腑の一番深いところに落ちている思いがある。だから、ただ「この自分を生きていく」だけなのである。

彼は、こういう心境にあるのだろうか。もしあるとすれば、とても自然な正解だ。もし違う心境にあるとしても、それでもたぶん彼は、それ以上に「答え」を探そうとはもう思わないのではないか。なんだかそんな気がする。彼は答えを知っている――。

道をゆく、ことの素晴らしさというのは、自分にとって最も自然な結論にたどりつけることにある。
道を外しては、道を求めずしては、けっしてそれほど最上の答えにはたどりつけない。道を求めたからこそたどりつける結論である。

道を探して、苦労して、あれこれと場所を訪ねて、たどり着いた場所は、結局、「もともといた自分」なのかもしれない。

でも、その自分は、道をゆくことのない人にとってはけして味わえないだろう自然さを持っている。自分はそのままかつての自分だが、その自分に感じる思いというのはちがう。
自分への肯定、受け容れとでもいおうか。

それまでは違う自分、別の自分を求め続けていた、つまりは本当の自分というのは、いつもはるか先の彼方に、今いるこの場所とは違うところにあるように思っていた。
だが、ここからは、本当の自分がいつも「ここ」にいる。本当の自分がゴールではなく、出発点にある。これから先への「はじまり」にある。そういう違いがあるような気がする。

いつも「自分」と一緒にいられたら、これくらいラクなことはない。
もともとひとは自分が好きなんだ。自分を肯定できる心がある。自分をそのまま自分として(幸せに)生きられるだけの心の豊かさを持っている、のだと思う。

本当に大切なのは、どうやって、この生きていられるうちに、もともとあった自分に還ってゆけるか、戻れるか、ということなのかもしれない。

面白い道の成就を見た気がする。
自分にたどりつく、のは、なんだか心をもつ命がみんな秘めている「法則」のようなものなのかもしれない。



緑したたる日本に着地!

5月12日
こんにちは、龍瞬です。本日、インドから戻ってきました!!!

飛行機の窓から見える日本の大地のなんと美しいこと!
緑したたる、という言葉どおりのみずみずしさに満ちた田園風景にあらためて感銘を受けました。

今の季節、インド・ナグプールでは昼間49度に達します。
すずめたちでさえ午後には飛ぶのをやめる(音が止まる)くらいの烈暑なのです。
車で移動していると、オーバーヒートで走らなくなっちゃう(そりゃすでに50度近くあれば簡単にね・・・)。

今年はいよいよインド水プロジェクトが本格始動ということで、私はこの冬、五月とすでにインドに渡って、さらに夏、秋、年末とインド行きを予定しています。
水だけじゃなく、仏法を広める活動も本格化しそう。そのうちビハール(寺)も持つことになるかもしれない。

彼の地で仏教を伝える活動というのは、快楽とは無縁。行きたいか行きたくないかといわれれば、行きたいとは正直思わない(笑)。

インドの地は、多くの人が我欲(エゴ)を他人に押しつけて平気でいる。ひとを差別し、傷つけ、自らの欲のためならウソも平然とつく、という文化がある。
最近よく聞こえてくる、女性への非道もそういう文化的土壌(カーストやら女性蔑視やらと我欲を正当化する理屈が異常に発達した風土。元凶はバラモン教か)から出てきているように思う。

そういう、人の善意があまりあてにならない土地に立って、異国人である自分が仏教を広げる活動をするというのは、
猛暑の砂漠の中にあってじっと息を潜めながら足を運んでいるかのような印象をときどき持つ。

(ウダサ村の人たちは憩いをもたらしてくれる。でもそれは限られたオアシスみたいなもの。外にはやっぱり荒野が広がっている。)

そのとき頼りになるのは、自分がよりどころとする仏教しかない。これって、ラクではない。

そういうヒリヒリした感覚がだんだん身に染みついてきちゃったような気がする、最近。
これは修行なんだ、自身のよって立つ基盤(仏教、人生観)がそのまま試されているんだ、という実感。


だから、今日、日本に降り立ったときは、なんだかホリデーに来たような気分になった(笑)。観光旅行気分。

日本はきれいだし、安全だし、生活がとにかくラク。なんなんでしょう、この快適さは!
2、3日、心のチャンネル調整が必要になりそう――。

ありえん美しさです。碧玉の季節。

神楽坂の教室は、5月22日から。(5月18日の座禅はありません)

とりあえず、ただいまの報告まで。

草薙龍瞬拝