仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
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自分の言葉で、自分の生き方として想いを語れ

●6月29日(土)は仏教の学校・イントロ編。

予想(妄想)より来てくれた人の数が多かったので、教材が足りなかった。

(※今日もらえなかったひとは、できれば次回くる前にメールで「こないだの教材ほしい」と連絡して下さいね。)

●仏教というのは、宗教でも、学問でもなく、「生き方」なんだということをもっと徹底して、私たちは語り、聞き、学ぶ必要があるだろうと思う。

今の自分の生き方が、本当に自身納得のいくものなのか。

今の時代の国や人々のあり方が、本当に幸福(苦しみからの解放)に役立つものなのか。

そこは、誰の判断に委ねるのでもなく、自分自身の、心のほんとうに深いところで、つきつめて考えなくちゃいけないと思う。

最近の話題に、「ルイ・ヴィトンのバッグもって、信者にチャーターしてもらったジェット機で移動するタイの坊さん」というのがあった(今週のNEWSWEEK日本版に出てます。YouTubeにあるらしい)。

「戒律守って修行にいそしむべき僧がこんな度を越した贅沢をするなんておかしい」というのが、大方の反応。

たしかに正しい行い(八正道にある“目的に沿った行い”のこと)ではない、と言いうる言動ではある。

ただ、彼のあまりある贅沢を支えているのは誰なのか――チャーター機を差し出した在家のひとがいるのである。

彼らは、僧たちに布施することが、自分の善業、功徳になると信じている。
そのことで、よき来世に生まれ変われるのだとも。
功徳を積むには、僧たちに布施するのが一番なのだとも。

それは、他ならぬ僧たち(比丘・長老)が語っているところだ。

○私自身の見解を語るなら、「僧たちに布施することで来世への功徳になる」という発想自体が、ブッダの思考法に反する。

まず、来世というのは、たしかめようがないという点で妄想の域を出ない。

(これをブッダの教えと説く僧たちが伝統仏教の世界では大多数のようだけど、彼らは仏教に混入したバラモン思想を盲信しているだけだろうと思う。なにゆえにそれを支持するかといえば、自分たちに都合がよいからであろう。)

また、「布施」(与えること)というのは、慈悲喜捨という四つの心に基づいて、

相手の苦しみを癒すため、相手の喜びを増すため、
相手の幸せを願いながら差し出すことだろうと私は理解している。

その根底にあるのは、他者の心への「共感」である。「理解」である。
その境地は、自分の煩悩を流した、執着を手放したところから出てくる。
慈悲喜捨に基づく行い、つまり与えることというのは、仏教思想に基づく、もっとも自然な行いだ。
そして、仏教がたどりつくべき最終ゴールでもあろうと思う。

では、その与えること(布施)の相手は、誰であるべきか?

それは、苦しみを抱えている人あるいは、
喜び・幸せを必要としていて、その施しによって喜び・幸せが増すだろう人々だろうと思う。

そうしてみると、「相手は僧でなくてもいい」ということになるだろう。

伝統仏教の世界では(大乗であれテーラワーダであれ)、二言目には「布施をして功徳を積め」という言葉が出てくる。そしてその相手は、教団であり、比丘・長老たちである。

だが、もし彼ら僧侶の人生の目的が「自身の涅槃(悟り)」にあるというのなら、
その修行に要する費用は、自分でまかなうのが道理であろう。
あるいは、「いつまで」という期限をきめること。
期限もきめず、「輪廻」だの「来世のための功徳」だの、「涅槃こそが最高の目的」だのと語って、人々から布施を受けとって、中途半端な修行しかしないというのなら、

(率直にいおう、本気の修行は短期決戦である。何年かけたからといってたどり着けるものではない。)

そのあり方は、自分が選んだはずの出家・修行僧としての生き方に照らして、
あるいは慈悲喜捨という仏教の根本原理に照らして、おかしいのではないか。

彼らは、それでも、今の仏教のありかたを「お釈迦さまの教え」と語って、
「自らの生き方として正しいのか」という、合理的な思考をとらない。

ルイヴィトンを抱えた僧たちも、そうしたあり方を可能にしてしまうタイの伝統仏教も、
どこか大切な本質を見失っていると理解するのが正しいだろうと思う。


●もうひとつ、話題になったのが、
ミャンマーで、「仏教を守るために、“狂犬”であるイスラム教徒を排撃せよ」と民衆に訴えているという高僧の存在。

TIMEでは Buddhist Terror(仏教徒による恐怖)という特集が組まれた。
(続報 http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,2146000,00.html
 レポート映像 http://www.youtube.com/watch?v=ldg1DNqj1FQ )

その号はミャンマーでは発禁処分になったとか。たしかに、表題は必要以上に扇情的ではないかいう感想は可能かもしれない。

ここで、彼の活動の是非を論じるつもりはないが(私自身の日常に照らして必要がないので)、

ただ一点、同じ僧侶として「これは正しい言葉ではない」と感じるのは、
彼が「これは釈迦の教えである」と語っているらしいこと。

「恨みは恨みをもってはやまず」という有名すぎるダンマパダ他の言葉を引用するまでもなく、
彼の言動は、ブッダの教えそのものはなかろうと思う。

○ただそうした解釈論の以前に、彼の言葉はいっそう正しくはない。というのも、

彼は、否、現代に生きる僧・人々の誰も、ブッダに会ったことも直接聞いたこともないからである。「これは釈迦の教え」という言い方は、厳密には成り立たないはずだからである。

もとより、ブッダの知性と、自分の知能とはまったくの別物である(脳という容器そのものがちがう)。

ならば、自分以外の他者の言葉・見方というものを、自分自身の言葉・見解として語ることはできない。

あくまで、自分自身が実践して、確かめて、実感して、理解したことのみが「おのれにとっての真実」になるのではあるまいか。

その真実を、自分自身の生き方として、理解として、考え方として語るのならば、それは正しい言葉といえるだろう。

最もふさわしい言葉というのは、
自分自身にとっての真実を、自分の言葉で、自分の生き方として語る言葉である。そこに他人の言葉はいらない。

特に、「生き方」を求めて出家し、「生き方」を人々に説くことを求められている僧ならば、本来なおさらである。彼らは、本当は「お釈迦様はこう言っています」とは語ってはいけないのである。

それは、生き方を説く人間として「フェア」ではない。

他人の言葉を根拠としているという点で、生き方を語る資格もないのかもしれない。

彼らは、そうした非論理的で、筋が通らず、フェアではなく、生き方としての根拠にもならない「お釈迦様」を人々に語ってやまない。

そうして、簡単に「輪廻」なる誰も確かめたことのない話を、「お釈迦様の教え」として語ってしまう。

そして、そうした非合理的な発想の延長に、今回のミャンマー僧による扇動があるような気がする。

「お釈迦様」を語る彼の言葉は、どれも結局は、自分の思い込みでしかない。

自分の思い込みを他人の存在で根拠づけようとしている現実自体が、ブッダの教えに反するのである。

(仏教を学んでいる人たちは、ぜひ確かめてみてほしい。ブッダは一度たりとも「誰かがこう語っている」とは語らなかった。「私ブッダの言葉を自分の言葉として語れ」とも言わなかった。「自ら実践して確かめてみよ」と一貫して説いていただけである)。


●タイの贅沢な僧も、ミャンマーの過激な僧も、

「世の中がそれを許している」「伝統はこうである」「お釈迦様はこう言っている」という他人まかせのあり方である点は共通している。

それが本当に自らの生き方として真実たりうるのか、

自らの言葉・行いの先に何が待っているのか、
それは自分自身の本来の最も深いところにある心に照らして、正しい、納得のいくものなのか、

という誠実な自問が抜けているように映る。

そして、その結果として、自らの人生に報いがくるだけでなく、

やりようによっては、世の人々の希望となり、よりどころとなり、

あるいは信仰をたがえた者との間でもよき関わりを育てていくために、
どう関わればよいのか、どう聞き語ればよいのかということを、もっともっと真摯に、慈悲をもって、人々とともに考えていけるはずなのに、

そうした明るい方向性とは真逆の事態を招いてしまいかねないのである。

仏教を語る側が、行いや言葉を間違えてしまえば、
その先に来るのは、人々の失望であり、この時代の中の孤独であり、
信仰を異にする者との葛藤・対立、そして流血の争いであろう。


●私は、ただひとつ、正しいと思える立場に戻りたい。

自らの生き方を、自らの生き方として問う、語る、生きる」という立場である。誰の生き方を引くでもなく。

私は、自らの新しい生き方を、誰にも頼らず発見し、その見つけた真実を人々に、自分の言葉で説いたという点で、やはりブッダに敬意をもつ。

○話が長く(熱く?)なっちゃった――。

教室に来てくれたみなさん、どうもありがとう。

今日分かちあった「生き方としての仏教」、ぜひ考えてみてください。

次回の仏教の学校・夏クラス第2回は、7月10日(水)と13日(土)です。


またお会いしましょう!

なかなか前に進めない5つの理由とは?

●6月29日(土)は、仏教の学校・イントロ編を開きます。

仏教のエッセンスを、
主要な教えをピックアップした教材を使って総ざらえします。

仏教を里でまだ学んだことがないひとはもちろん、
今の講座に「途中から参加した」ひと、昨年のきほん講座を欠席してしまったひとには特にオススメです。

●私がうれしいのは、仕事などで忙しくてなかなか通い続けられない人が、ときどき時間をやりくりして出席してくれることです。

仏教というのは、やっぱり心の中にずっと留めて、育てていくのが最も尊いことです。
離れてしまったら、もう「もともといた自分」が戻ってくるだけですから・・・・たまーにでも、来られる時に来て、自分の今の心境と、仏教が説く発想とのズレを確かめることが大事なのだと思うのです。

行けるときには行くぞ、という思いが、日頃の生活で何を心がけ、何を避けるべきかを意識させてくれるのではないかな。その「忘れない」日常が大切だと思うのです。

●さて、最近の受講生の感想を紹介しましょう――

春クラス最終回の、業(人生をつくりだす力)というテーマについて。

先日も、業について清い学びをありがとうございました。

自分の日々をつくっている行動、言葉、思いの一つひとつが
どう生み出されているのか、より敏感に感じる日々が続いているように感じます。

とはいえ、心がざわつき、ざらつくことは数多く、
五蓋に照らして自己を知りつつも、知るよりも早く、反応するその粗さ、繰り返すしつこさに
懺悔文の言葉を、何度も見直す時間を過ごしています。

「過去の一切を手放す」
大きな言葉だと感じます。なかなか難しいです。


「五蓋(5つのさまたげ)」というのは、心の成長を妨げる5種類の煩悩のことです。

伝統仏教では、①快楽欲、②嫌悪(これが大きくなると怒りになる)、③停滞(暗くなる・ふさぎ込む・重たい・憂鬱)、④散漫あるいは昂ぶり(後悔も含む)、⑤疑い、の5つ。

ただこれは「禅定(≒高度で安定した集中状態)を妨げるもの」という意味があって、他の経典では、

「五つの執着」として、①貪欲、②瞋恚(怒り)、③妄想、④高慢māna、⑤自分の見解(自分がこだわる見方・考え方) を挙げています(サンユッタ・ニカーヤ第1集)。

講義で紹介したジャータカ物語では、三毒プラス「慢」が挙がっていましたね。

学ぶ側としては、こうした仏典の言葉に触れたときに、
「自分の心の成長を妨げているのはどれだろう?」と考えて、
「自分特有の5種類の妨げ」というかたちで再構成することを勧めます。

「お勉強」としてとらえる人は、こういう仏典の言葉を「知識として覚えよう」としてしまうのです。

でも、それじゃ心の成長には役に立たないでしょう?(試験のためにやってるのではないんだものね)

むしろ、とことん自分本位に、主体的に考えて、
「自分自身が気をつけなければいけない妨げ・ベスト5」を再構成するほうがよいのです。

(※注記 もとより仏典の言葉を「これが正解」として限定しなければならない必然的理由はありません。仏典の言葉が正しくて、自分の理解のしかたが間違っている、という“論理的証明”は不可能です。
試験とちがって、これは自身の生き方の問題だから――世界の誰ひとりとして、あなたの幸せを定義づけうる権威(オーソリティ)にはならないのです。
自分が幸せかどうかは自分自身が決めること。ならば幸せになる方法も自分自身が選んでいいこと。だとすれば、仏典は、あなた自身が自分の現実に照らして整理し、加工し、カスタマイズして「活かす」べきものなのです。)

大切なのは、「自分の人生に役立つか」という視点。それがブッダの思考法。

その意味で、前回の講座では、「慢」(うぬぼれ・見栄・プライド、卑屈になったり高慢になったりという自分の価値を測る心)を、妨げのひとつとして入れました。たしかに妨げですものね。


」というのは、承認欲が生み出す心の病気(妄想の一種)ですが、これはなかなか強力で、しつこいのです(笑)。

自分はエラいぞ、すごいんだぞ、というわかりやすい慢もあれば、

「ちょっとくらい力を抜いても大丈夫だろう」と油断してしまったり、調子がいいからとつけあがってしまったり、というのも慢。

今売れてる『スタンフォード大学の自分を変える教室』では、
この「頑張ったぶん力を抜いていいと思ってしまう」というのを「罪のライセンス」と呼んでいます。

「いいことしてきたんだから、ちょっとくらい悪いことしてもいいでしょ」という反動。
代表例が、「ダイエット頑張ったから、ちょっと甘いものを・・・」という悪魔の誘惑。

仏教では、これは「慢」。
「ラクをしたい」とか「甘いものを食べたい」といった欲求が生み出す屁理屈=妄想、なのです。

『教室』の作者であるマクゴニガルさん(心理学の先生)は、そこに打ち勝つのが「意志の力 Willpower」だという。アメリカ的ですね。


仏教では、こういう「慢」の誘惑に打ち勝つのは何だと説いていると思いますか?

それは、「つつしみ」「懺悔」の心なのです。対照的で面白いでしょう?

自分が日頃犯してしまっているあやまち(腹を立てたり慢を持ったりという毒を生んでしまう心)を、「すいません」と心でこっそり懺悔する。

「心のどこかで自分はエライ、正しい、なかなかエエことしてやった(どや?)と思っているかもしれないけれど、これは承認欲が生み出すただの判断(妄想)、アホらしい錯覚」と考える。

「人間なんて一生でわかることなんて微々たるもの。わかった気にならないようにしよう。むしろ、わかっていないという前提に立とう」と考えてみる。自分の足もとをつねに見つめる。それが「つつしみ」。

こうして、つねに、人生わからないことばかりで、頑張ってるのに失敗したりして、
ときに快楽に流され、ときに小さなことで腹を立て、
そのくせ自分にとって大事だとわかっているはずの物事すらまともにやり通せない、なんとも頼りない自分、という理解に立つ。

そうして、謙虚に、つつしみをもって、ひとさま、世の中に向き合う。

それが生き方の基本のような気がします。

こういうつつしみを持つひとは、とってもタフになれる。

自分は自分が想うような自分じゃない、という謙虚さがあるから、

つねに足もとをみていて、緊張しないし、腹を立てる回数も減るし、目の前のモノゴトに集中できるようになる。自分を見失わないですむ。
つつしみというのはほんっとに大事。


龍瞬先生が、「③火をつける」にて、
最終的に語ったことは「淡々と物事をこなす」だったことが
非常に印象に残りました。

この問いにおいては、テキストの文面からも
非常に前向きで、希望に満ちたことを
自分に課したくなりますが、

たしかに、それが抽象的な大きな概念であるほど
日常の現実では、地から足が浮く感じがして、
求めすぎるとかえって執着がおきたり、
達成できないと、大きな苦が起きそうです。


そのとおりと思います。
正しい火(夢・目標)は、遠くに見るものではなく、近くに見るもの――。

理想は、
今の自分に着実にできる範囲の中にしか「火」を置かないこと。

そのすぐ目の前の火で、自分の心をあっためて、できることをやる。
できることをやっている中に火(喜び)を感じられるようにする。

そういう心がけをつきつめれば、「火」なるものは実は必要なくなって、
ただ、目の前の作業、できることを淡々とやるだけで、それが楽しい「火」になってくれる――。

そういう「淡々とこなす中に人生の火(喜び)を感じる」というのが、仏教の最終ゴールのような気がします。

みんなは、どう思いますか?

「今できること」を着実にやることに「火」を感じられるようになったら、それが一番のような気がしない?
そうすれば、毎日が火になってくれるから。日々楽しく生きられるから。

だから明日はこうしてみませんか?

明日一日がそのまま自分にとっての「火」になるように、「考え方」を工夫してみるというのは?

まずは、つつしみ(謙虚さ)をもつ、ことから始めてみよう。

仏教流「自分を変える教室」? ~仏教の夏学校スタート!


●仏教の学校・夏学期の初回は6月22日または26日(いずれかにご参加ください)。

前回の「心に火をつける」というテーマを、もう少し掘り下げて考えてみたいと思ってます。

たとえば、
○誘惑についつい負けてしまう、
○前向きな目標・夢が欲しいのだけどまだ見つからない、
○今現在「迷い」の中にいる、
○生活がマンネリになっている、
○このままでいいのかな?という漠然とした不安を感じている、
○情熱・やる気を取り戻したい、
○途中で降りない・逃げない・負けない心を作りたい、

といったひと向けに、仏教の考え方を整理したいと思います。

比喩的には、「心に火をつける」(≒前向きな発想を身につける)、そして「消さない」方法を考えるということ。

仏教的には、「正しい思考」と、「正しい努力」(ともに八正道)が関わってきます。


たとえば「正しい思考」というのは、
①正しい動機をもつこと、②方向性(目標)を定めること、③そしてそこにたどりつくための方法を考えること。

ただ実際には、その動機に、「ひとに褒めてもらえる」とか「期待を裏切れない」といった、他人本位の「不純な動機」が入っていたりする。

そうすると、努力の途中でモチベーションがわかなくなることがある。

方向性もまた、そのままでは仏教では「妄想」でしかないので、遠すぎるとヤル気が持続しない。

「生き方に迷った」ときに、考えなくちゃいけないのは、

自分の動機、方向性、そしてたどりつくための方法として「今していること」の正しさ。

それぞれが、確信できる・集中できる程度にまで「具体的に」なっていないといけない(でないと途中で降りる。迷う)。

その動機は正しい?
方向性になにがある?
方法はちゃんと見えてる? 
集中できてる?(できないとしたらなぜ?)

ものごとに取り組む、
納得いくようにこれからを生きていく、には、

こうした「正しい考え方」、つまりは生き方、努力のしかた、をなるべく具体的につかんでおくことだと思う。

そういう、前向きな、建設的な、けっして途中で折れない、
落ち込まない心の持ち方(人生の組み立て方)を、仏教的に考えてみたいと思います。


ちなみに、今売れてる『スタンフォード大学の自分を変える教室』(大和書房)では、

「(必要なことを)やる力」と、「(誘惑に駆られたことを)やらない力」、そして「望む力」が必要なんだとか。

全体として、「誘惑に負けない心のつくり方」を語っている様子です。

「人生をつくるのは意志の力」というわかりやすいメッセージもある様子。

あの本が語っていることを、仏教で整理するとどうなるのかな、と考えてみたのです。

仏教の視点だと、「意志」というのは、けっこうあいまい。
ただの我欲じゃないの? 妄想じゃないの?という疑問がでてきます。

それはモチベーション(最初にある動機)なの? 
それともめざすべき方向性なの?という視点も出てきます。

正しい動機ってどういうものか?(それは他人の思惑ではなく)
正しい方向性と、まちがった方向性はどうちがうのか?(それは他人に認められることではなく)
というテーマもあります。

なぜひとが最初の目標を達成できない(くじけてしまう)のか?という点も、
仏教ではもう一歩掘り下げて示してくれているような気がします。

そこでこちらの教室では、
「意志」「やる気」「情熱」をもう少し緻密に分析して、

「負けない」「手を出さない」「くじけない」ための心のつくり方を、もう少し具体化してみようか、と思っています。

そこがわかれば、必ず現実に役立つ部分がでてくる。
だれだって、これからを生きていく、今を生きていることは同じだから。
「生き方」は必要のはずだから・・・。

それに加えて、「空」とか「無常」とかいう、おなじみの仏教タームを、
より日常に活かせる「考え方」として、かみくだいて紹介する予定です(あの般若心経の本質訳も出てきます)。


★梅雨のど真ん中ですが、んなことに反応しないで(雨の情緒もオツなもの)、

ひとつでもふたつでも新しい発見・知恵をさがして外に出ようじゃないですか。

では教室でお会いしましょう!

「そうできたら、ラクになれるでしょうねえ」


●6月19日は千代田区の講座。

業、玄奘の年譜&読み物、大乗仏典年表を配布。

ここ半年通ってきている人が、「自分の心を分析できるようになった」という。

自己理解が進むというのは、尊いこと。
仏教には「功徳」(≒よきはたらき)という言葉があるけど、自己理解こそは功徳の土台、功徳そのものかもしれない。

「自分の人生は失敗だったと思う」という誰かの思いは、
仏教的に言えば、判断に基づく怒り。

ただ必ず抜け出すことができる。
「判断(思い込み)が生み出している怒り」なんだという自覚を深めることによって。

それは、自分の「満たされなさ」の正体に気づくこと。

そうして、気づきという実践を重ねて、ゆっくりと、着実に抜け出していく――。

「もしほんとにできたら、ラクになるでしょうねえ」とおっしゃる。

そう思えただけでも、この半年仏教を学んだ甲斐があったというものではないか。


●20日は巣鴨。

新しくきた人は、「生き方としての仏教がまだ身についていない」と語る。

「知識はある。でも身についていないという感じがある」。

たぶん仏教を学ぶには、自分自身の生き方として仏教を活かす、という発想が必要なんだろうという話。

今の自分はどんな心の状態にあるのか。どんな苦しみを感じているのか。

これからどんな自分をめざすのか。たどりつくべき心のありようというのはどういうものなのか。

そのたどりつくべき心を手に入れるには、今なにを心がければ(実践すれば)いいのか。

自分の出発点。目標。そしてたどりつくための方法。

この三つがそろったときに、「道」ができる。

仏教というのは、ひとつの道を教えてくれる思想。その思想を自分自身のために活かす――

そういう主体的な、現実本位の学び方が必要なのだろう。

今日はここでも、業と因縁の話。

業とは何か、までは行った(スッタニパータやアングッタラニカーヤに出てる)。

次回は、業の原因、業を抜ける方法。そして慈悲喜捨の瞑想のしかた。

巣鴨はシニアが多いけど、みな一生懸命仏教を学んでくれるのでありがたい。

もう2年になるんだね・・・。

本物が見ているもの(正しい学習法)


●最近あった、これは善き出来事。

前向きな目標を持っている人は魅力的。がんばってほしいと思う。

何かを成し遂げることは簡単じゃないよね。
現実はつねに作業の積み重ねでしか運ばないから。

たぶん肝心なのは、その作業が、「正しい方法」に裏打ちされていること。

「正しい方法」こそが、一番考えなくてはいけないこと。


○「正しい方法」というのは、やっぱり本物・一流の人間が知っている。

彼らはえてして、自分のアタマの中(彼らが実践している正しい方法)というのを開陳してくれない。

だけど探してみると、やっぱり教えてくれている人はいる。

図書館に行ったり、論文や新聞記事を漁ったりして、
「自分の心にいちばん響く」言葉をもっと貪欲に探してみよう。

テキトーな人たち(≒自身の限られた成功体験を語るばかりで、本質・原理にまで自らの体験を昇華できていない人。たとえば予備校の先生?)が語る
「これが正しい方法」というのにとらわれないで、

心を開いて、広く大きな心で、
本当の本質、本物のものの見方・考え方とはどういうものだろう、と考えてみてほしい。


●不思議なことに、それらの本質、本物というのは、

みなシンプルさを持っている。そして美を持っている。

美とは、譬えば秩序のこと。
現実を処理する、理解するための法則とか、体系とか、視点を与えてくれるもの。

本当の学びというのは、どの世界であっても、
明快な視点、秩序を与えてくれるもののはずである。

あるいは、
そうした視点や秩序の“つくり方”をも教えてくれるもののはずである。

たとえば数学を学ぶというのは、
この宇宙の法則を、数式や記号で秩序化する方法を学ぶということ。

美術を学ぶというのは、
この世界の美しさを色や線や立体で描き出す(つくりだす)方法を学ぶということ。

どちらも、「方法」(つくり方)を教えてくれるはず。それが本当の学び。

(もしこの問題にはこの解き方を覚えろとか、このオブジェにはこの描き方を真似しろ、という先生がいたらニセモノだと思うでしょう。ほんとはどんな学問・勉強も同じ。「つくり方」を教えてくれるのがほんとうの先生で、つくり方を学ぶのが本当の学び。)

もしそうした「方法」を学ぶことができれば、
目の前の現実は、自分なりの秩序をつくるターゲット(的)になる。

自分で秩序、道筋をつくれるようになる。
現実にどう向き合えばいいか、自分なりの方法が思い浮かぶ。

その結果、世界がとてもよく見えてくる。楽しくもなってくる。


○仏教だって、ほんとは現実に秩序を与えてくれるもの。

つまりは、複雑で混沌とした悩み苦しみ多きこの現実に、
どう向き合えばいいか、どう理解すれば(受け止めれば)いいかという道筋を与えてくれるもの。

仏教を学ぶということは、ただ言葉・知識を増やすことではなく、
「こういう状況のときにはこう考えよう(理解しよう)」

という思考の道筋をつくっていくことなのだと思う。

たとえば複雑膨大な仏典の言葉を、ただやみくもに知識として追いかけようとすれば、
たぶんどこまでいってもわかった気はしないだろう。

(そこに仏教学の試験でもあれば、丸暗記とかテクニックに走ろうとするかもしれない(笑)。だがその道の結末にはあまりろくなことはないだろう。)

しかし自分なりの目的をまずは持つ(「今あるこの満たされなさを解決しよう」)。

そのために、基本的な理解を学ぶ。理解するための視点・体系というものを持つ。

(四つの真理や八正道、心を浄化する方法としての座禅/ヴィパッサナー、あるいはひとと関わるときの心の基本である慈悲喜捨とか。)

それらの理解を深めるために、さまざまな仏典の言葉に触れていく。

そのとき、それらの言葉が、
どの目的・視点・テーマに関するものなのか、
自分の人生にどう活かせるのか、
といった明確な目的意識をもってアタマに収めていくことだ(考えながら読むとは、頭の中に秩序を作りながら、論理を再構築しながら読むということでもある)。

その積み重ねによって、だんだんと「自分にとっての仏教」が出来上がってくる。

そのとき築かれるのは、自分にとって最も使いやすい、自分メイドの「現実への対処法」である。
一度確立されれば、あとはそれを活かして現実に向き合えばいい。


そういう心構えができたとき、苦しみの多くは霧散する。

どんな問題にも、自分なりの理解をもって受け止めることができるようになるからである。


●何かを学ぶというのは、そういうことだと思う。

秩序のつくりかたを学ぶこと。それを再構築できるようにすること(練習)。

誰かが語る言葉をそのまま鵜呑みにすることじゃない。
難しい言葉をそのまま覚え込むことじゃない。

誰かの言葉を活かしながらも、
自分が最も操りやすいように、現実に自分なりの秩序を与えられるように、
表現をカスタマイズしながら、
自分なりの視点・秩序・体系を作っていくことなのだと思う。

「自分なりの説明の仕方」が確立できればいいのである。

つまりは、最終的には、あらゆる分野でいえることは、
自分自身の言葉で、自由自在に、語れる(書ける)ようになることなんだ。

恐れるな。媚びるな。つねに自分自身の思いを、力をこめて表現せよ。


●「そこまでオリジナルでいいの?」と思うかもしれない。
でも本当のオリジナルというのは、必ず他人も通じる「本質」をきちんと踏まえているものだ。

(もし他人に通じないとしたら、まだ「本質」が分かっていないということだろう。)

「本質」がわかっていれば、どのような言葉の構造物(表現)であっても、他人に届く。
そういうものだと思う。

無駄をくりぬいて、削ぎ落として、「本質」だけをきわめる作業をすること。

自分にとっての「本質」をみきわめるという主体的な目的を、学びの動機とすること。

「本質」だけで、その場にあわせて、
その場における最善の答え(理解)をつくりあげられるようになること。

その理解は、必ず、わかる人にはわかる。そして高く評価されるはず。

わかってもらえるだろうか(笑)。


○どの世界にも、本物・一流が見ている「本質」というのがある。

もしそこに幸運にも届くことができたら、世界はがらりと変わって見える。

希望はある。がんばって。


人生をつくりだす2つの力

最近思うこと(業の話のつづき)

業というのが、人生をつくりだす力だとしたら、
その力には善いものも悪いものもある。

●善い力(善業)には、人への感謝・敬意、謙虚さ、つつしみ、慈しみ・・・といろんなものがある。

面白いことに、そこに共通するのは、ひととのつながりをうまく運んでくれる作用を持っていることだ。

ひととのつながりを大切にすること。つながりを育てること。

そのことがそのまま力になってくれる。

誰だって、自分ひとりでできることなんてまずないのだから(ここは人生への理解としてとても大事なところだろうと思う)、自分の前につながりを置くことなんだ。

つながりが善ければ、自分の人生がうまくいく可能性が出てくる。

つながりの善さこそが、自分の人生がうまくいく必須の条件なのだ。


○世の中を見渡してみても、自身が納得いく人生を送っている人というのは、みな人柄がいいように思う。

(なぜかNHKに出てくるタレントさんたちが思い浮かんだ(笑)。みな温厚ではないか。)

彼らはひととの関わり方をとても自然にわかっている。

けしてひとの悪口とか怒りや恨みの言葉を発しない。礼節があって、笑顔でいる。

当たり前だけど、そういう人柄のひとにひとは近づく。

というか、悪口とか恨みとか怒りとか愚痴の言葉を発する人には誰も近づきたくないだろう。


○私たち人間が哀しいのは、ときにひとが近づきたくないと思うような思いで一杯になってしまうこと。

頭の中で怒りや妄想や欲望を募らせてしまって、その毒が全身から溢れ出す。

それでもなお、自分は正しいんだ、自分は当たり前のことを言っている(やっている)んだと思っている。

そして、運に恵まれないことを他人のせいにしてしまうんだ。



○自分の心がそのまま結果を引き起こすというのが、仏教が教える業の法則。

もし現実に難があるとしたら、そのとき真っ先に考えるべきなのは、

「自分の心で変えられるところはないのかな?」ということ。

「いまできること(よい方向に人生を運んでいくこと)は何かな?」 
と考えてみることではないのかな。

外の世界をみるより、足元を見てみるほうが、たぶん近道なのである。

たとえば、通りのゴミの多さを嘆くより、自分の部屋のゴミを掃除する方が近道。

もし部屋はちらかりっぱなしで、通りのゴミも嘆くばかりで何もしないとしたら、その姿はかなり滑稽。

でも滑稽なことをしている場合って、意外なくらいに多いのかもしれない。


●最近、滑稽な人をけっこう間近に見た。「自分が見えてない」人。

自分もそのひとりかもしれない。自分を正しく理解することは簡単なことじゃないから。

少なくとも自分を正しくみることの難しさ、みえないことの危うさは自覚しておきたい。


「足元(自分の心)できれいにできるところはない?」と自問しつづけたい。

業の話3――心に明るい「火」をもとう

(つづき)
仏教の学校の春学期のまとめとして、この「火」を考察した。

みなに話し合ってもらったのだが、ひとつの印象は、火を思い描くことが苦手、な人がけっこういるということ。

たとえば、
火、すなわち自分自身によろこび・元気を与えてくれる思いを、そもそもまじめに想い描いたことがないというひと。

そうした思いに、「でもどうせかなわないだろうし」「失敗するだろうし」と、水をかけてしまうひと。

「失敗したらどうしよう」「笑われるのではないか(ひとに笑われるくらいなら、自分の思いは語らないほうがいい、いっそ考えないほうがいい・・・)」と、妄想でフタをして口をつぐんでしまうひと――。


●ただ、これは今回の一番のテーマ(メッセージ)なのだが、

火は火のまま、点けておく、点けられるようになるのは、とても大切なのだ。

火は、人間が人間として、生き物が生き物として生命をまっとうするうえで、もっとも自然な、原始的なエネルギーだといってよいと思う。

もしその火が、誰を否定するのでもなく、誰に迷惑をかけるものでもないものならば、

自分のなかで自由に思い描いてみようではないか。

ひとりになって、時間をとって、
自分自身がうれしくなるような、元気づけられるような、
自分自身の「こうありたい」姿を思い描いてみよう。

試しに5分、思い描いてみるのはいかがだろう。

大きなイメージでなくてもいい。
自分を元気にしてくれる趣味をしている自分の姿でもいい。

自分は何をしたらよろこべるだろう? 心がときめくだろう?

といつも「さがす」くせをつけてみるのはどうだろう。


●火は自分で育てるもの。これは心がけてやっていくもの。

他人が認めてくれなくてもいい。他人に知られなくてもいい。

火というのは、自分だけが知っていればいい。


もとより世間・他人というのは、自分の心とはちがう世界にあると思っていい。

自分は、その世間・他人のなかにあって、でも世間・他人とはちがう生き物である。
自分は自分を生きるだけなのだ。

その自分のなかに「火」をもつこと。

それを想うだけで喜び・明るさを感じられるもの。

それがあなたの人生を明るくしてくれる。


業の話2――人生をつくっているのは自分自身


●業(ごう)の話のつづき――
業(ごう)というと、ひとを不幸にするあらがいがたい力、といったイメージがある。

古い仏教では、宿業因縁、前世の業といった表現。

あなたの人生が今しんどいのは、前世の業(自分が犯したあやまち)なんだと彼らは言う。

(多くの宗教には、その業を清めたければ、お布施しなさい、お祓いしなさい、この○○を買いなさい・・・といったご親切な誘導まである。たいていの宗教は説く側の過剰な利益につながっている。つくづくひとの不安という名の妄想を利用したビジネスモデルである。)

しかし、本来業というのは、「心がけと言葉と行動」である(身・口・意:しん・く・いの三業と呼ばれる)。


○業を理解する上で、いちばん大切なのは、

業とは自分自身がつくりだせるものにかぎられる、ということ。これは大事。

思いも言葉も行いも、みな自分自身が選んで、つくりだすものだ。
そして、それらが、これから先の人生を作っていく。

もちろん、過去の思い・言葉・行いも、今の自分をつくっている。

ほんとは過去の一切は消え去るものだけど(無常)、
思いは繰り返し心に出てくるし、
発した言葉は自分の心に影響を与えているし、それを誰かが覚えていれば、その誰かとの関係でその言葉は必ず力をもってくる。
行いもそうだ。行動は今の自分に影響を与えるし、ひととの関係をも形作る。
その意味で、過去の「業は消えない」(仏典の表現)のだ。

しかし、これは救いなのだが、いかなる業もけっして永久につづかない。

(無常という性質は、ものごとを考える上での大前提にしてしまっていい。)

過去の業は、時間とともにうすれていく(自分も他人もうつろいゆく)。

しかも、新しい業は自分自身の意志によってつくりだすことができる。

(「業とは意志である」というブッダの指摘は、おそらくこういう文脈から出てきたのかもしれない。)


●業を自分自身が作り出せるとすれば、肝心なのは、

今自分が何を思い、語り、行っているか、こそである。

より正確に言えば、語りも行いも、思いから発するのだから、自分自身の「思い」こそを見つめればいいことになる。

その思いが、怒りや貪りや、この二つを生み出すような悪い妄想であれば、それは「気づいて」リセットすることだ。

これは自分自身の心がけ。仏教は、「気づいてリセットしなさい」という根本メッセージを送っている。それはありがたく活かしたいと思う。

そして、もうひとつ肝心なのは、自分にとって、よろこび、希望、やる気、元気が出るような、よき思いを育てること。

それを、譬えば「火」と呼ぼう。自分の心という「薪」に熱を作り出してくれる火である。

(つづく)

業の話1 「生まれ変わる」ために必要なこと

仏教の学校・春学期は、次の第4回が“まとめ(総括)”。

今回の教材の最後に、「段階を追って業を抜ける」というテーマがある。

業というのは、人生をつくりだす力。

その力はかなり強いものだから、多くのひとが、同じ業を繰り返し、
同じ自分・同じ人生を生きることになる。

それはそれでよし。
ただ、もし同じ自分・同じ人生が「もうイヤだ!」と感じたら?


「生まれ変わる(自分を変える)」ために、次の3つのステップを考えてみたい。

(今の変われない自分を、「薪」とします。)


①水から(薪=自分の心)を出す(正しい道に入る)

→ 自分が変われない・同じことを繰り返していることの理由(「水」)は何だろうか、
今の自分についてもし改善できる点があるとすれば、その改善をさまたげているものは何だろうか、

これは、日頃の生活習慣やクセ、人間関係などについて。


②水気を抜いて乾かす(心を清めるトレーニングを積む=新しい習慣を身につける)

→ 自分を成長させていく・改善していく、
仕事・職場・人間関係・生活を変えていくために、
「水気を抜いて乾かす方法」として、
今実践できそうなアイデアはないだろうか。


③火をつける

→ 火とは、新しい業をつくりだす力をもつ、夢とか目標とか情熱とか。
自分の人生を導いてくれそうなもの。方向性。

今なにかありますか?

もしないという人は、ほしいと思いますか? 

「火」があるのとないのとでは(どれくらい「熱くなれるか」は別として)、人生に違いが出ると思いますか?


これら①、②、③について、今の日常を振り返って、考えてみるのはいかがでしょう?


次回の仏教の学校では、この3つのステップについて考えてみたいと思います。


★春学期にやった「因縁」と「業」というのは、ある一点において明確に違います。

たぶんそこは、仏教の伝統が厳密に考えてこなかった(見過ごしてきた、あるいは「輪廻」などの妄想によって曇らせてきた)ところです。

もしこの二つのちがいが分かれば、

今後の人生を重荷なく生きていく上で、また
仏教を詳しく学んでいく上で、

正しく考える(生きる)ことがはるかに容易になるかもしれません――。


中身を知りたいひとは、6月12日(水)午後7時に神楽坂に来てください。
毎回楽しくお話してます。


みちのく旅日記5 ~今度はただ会いに行こう

5月31日
夕刻、石巻をあとにする。

ありがとうございました――と合掌。

今回の旅は、誤解を招く表現かもしれないが、とても楽しかった。
それまでまったく見知らぬところで生きていた方々と、めぐり逢うことができたから。

今の私の心には、今回お会いした方々の一人ひとり、すべての人が、とても身近な存在としてある。

次回お会いしたときは、友人として会うことができる。
それがとても嬉しくありがたい。


○友として関わっていくというのは、どういうことなのだろう――

ひとの心が止まってしまったとき、
悲しみを抱えているときに、

その思いをそのままに、ひとつの時間を共にすることではないのだろうか。

ただ話をするだけで、聞くだけでいい。話題はいろいろあっていい。

そうやって、ひとときを一緒にすごせるだけで、いいのではなかろうか。


○わたしがどんなに想像しても、
あの震災のこと、
大切なものを失ったこと、
小さな頃から過ごしてきた愛着ある土地・家を失ったことの思い(感情)は、

やっぱりどうしてもわからないだろう。

生きている間にわかることなんてかぎりなく少ない。

まして、それがひとの心、人生であるならば、いっそう、はかりしれなく、わかることは難しいのだ。

わたしはその事実を受け入れようと思う。


○わたしがせめてできることは、

これからを、よい友として、よき言葉・よき思いを交わしあっていくことではないか。

過去は過去のままに、
ただ新しい出会い・つながりを生きていく。

その、ともに生きていく時間が、

そのまま新しい命、新しい希望へと育っていってくれるかもしれない。

そうあってほしいと思う。

つながりこそが、希望なんだ。

●残された時間をともに生きていけること――

それはいちばんの幸せのような気がする。

「こないだはどうも」と笑顔で次回お会いできることがありがたい。これが今回の授かりもの。

そうしよう。


ただ会いにいこう――。


みちのく旅日記4 ~女川町

5月31日

女川町へ。入江から内陸へと建物と家が並んでいたそうだが、今はきれいな更地になってしまっている。根こそぎひっくり返された三階建ての建物が転がっている。

高台に町立病院がある。そこに行くと、女川の町がよく見える。車ははるか下を走っている。

津波はこの高台にまで達して、病院の一階を水で舐めたそうである。

美しい海の色。横たわる三階建ての建物。

病院の敷地から。あの車の位置からここまで海は来た。
 
高さ十五メートル――数字では想像つかない。ここまで高い場所にまで達した水かさの凄まじさも、今ひとつピンとこない。

車で道を通る。あの日達したはずの水の高さを想像すれば、今自分のいる場所は黒い激流のはるか底である。だが目の前の女川の海はとても穏やかで碧くかがやいている。どうにも実感がわかないのである。


●地元でお会いした女性は、地震のあと、ふだんは見えない海の底がみえたという。

津波が来る、というのは知っていたから、急いで車で家に戻った。父親を拾ってそのまま山裾の道を車で駆け上がった。

せり上がった波が女川の湾内に入ってきた、と思いきや町を無表情に呑み込んでいった。

その瞬間、波の上が白くかすんで町のいっさいが見えなくなった、という。

沿岸に山を背にして立っていた自宅は根こそぎ流されてしまった。

つれていってもらったら、ほんとに何もなかった。


地元のお店で海鮮丼をいただいた。なんといってよいか・・・・これは希望?


●石巻に戻って、初日にみた大橋を越えてもらった。海面よりはるかに高いのに、海全体がここにまでせり上がって寄せてきたのである。想像しろといわれても難しいし、当時の人々にしても予測つかなかったであろう。

あまりに非日常なのだ。これは体験した人にしかわからぬ。呑まれた方々にしかけしてわからぬ。


地元の更地に慰霊碑と、花束と、「がんばろう!石巻」の言葉。

言われる側の人にとっては、とまどうしかない言葉かもしれない。

この現実に対してどう向き合えばよいのか、いまだわからぬ人もたくさんいるだろうと思う。
あの日からずっと時間(とき)が止まってしまったように感じている人が。

今回めぐり逢ったなかにはそういう人もおられたように思う。
ずっと心が止まっているかのように感じながら今日をすごしている人が。

心に残っているのは、そういう方が、なにかの話題でふと笑った表情。素敵だな、と思った。


みちのく旅日記3 ~大川小学校

5月31日

雲ひとつない空! 3日めにしてようやく陽光照る石巻が見られた。

田んぼはちょうと苗を植えたあたりで、きれいな水が張ってある。
この地は小高い山や丘がいたるところにあって、それぞれに若々しい緑をまとっている。

山の色がやさしい。緑が微妙に色を異なえて山肌を覆っているので、色の変化に富み、目で追って退屈しない。南アジアの常緑とはちがう。彩り豊かで、しかもやさしいのである。


たとえばこんな山並み。手前は高校。
●異質の場所

車で北上川沿いにしばらくいくと、異質の色が目に飛び込んできた。そこだけがどことなく黒い。

「あれが大川小学校ですよ」

そこにあったものは、校舎というより、コンクリートの痛ましい残骸だった。

黒板などが残っていて、よくよく目を凝らせば学校だったのかな、と思うくらいの形跡はあって。

でも太いコンクリートの柱はみにくく歪んで倒壊して、厚いコンクリートの中に収まっていたであろう鉄筋が外から差し込まれたかのようにむき出しになっていて・・・・・・。

外は復興作業が急ピッチで進んでいて、この北上川沿いの道もひきりなしに大型ダンプが走っている。そして今日この日の快晴と新緑のまぶしさ。しかし。

この場所だけが色が違う。時間が止まっている。

一番心をえぐったのは、小高い山がすぐ目の前にあったこと。

本当にすぐそばにある。山に面した学校といってもいいくらい。


この山に登っていれば、74人の子供たちは助かったのかもしれない――。


誰もがそう思う。そして瞬時に想うのである。


なんで逃げなかった――?(この場所に集まって何をしていた?)


これはご遺族にとってはたまらないであろう。すぐ目の前に山はあって、30分もあれば全員山の中腹あたりまでは少なくとも登ることができただろう。山のすその木が今も横倒しになっていて、津波の高さを物語っている。ただその高さは逃げられないほどの高さではない。

逃げることは簡単にできた。なのにそれができなかった(しなかった)――

という、人にとって一番深く激しい悔いと悲しみとなって残る思いが、この場所に立つと激しく湧き上がってくるのである。

これはたまらぬ、と思った。奥の方に慰霊碑があって、そこには高齢の人の名もあれば、幼子の名もある。十歳、七歳、五歳、三歳――。これは小学校の生徒さんたちではなく、この大川地区で遊んでいただろう子供たち。

小学校の敷地内は立ち入れないようになっている。その外を歩いてみる。壁に描いた子供たちの絵。銀河鉄道。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 宮沢賢治」。手をつなぐ世界中の異なる衣裳の人たち。




破壊されたコンクリート。倒壊した通路と思しきもの。濁流に流されむき出しになった天井の骨組み。

一体どれほどの力が働けば、この頑強だっただろうコンクリートの校舎がここまで歪められるのか。


二階には教室の黒板と掲示版とが残っている。

この場所で子供たちは、昨日集会所に遊びに来た子供たちとおなじ無邪気さと将来への信頼をもって明るく遊んで学んで、今日一日をこころとからだいっぱいに生きていたのだろう。

その姿を思い描けば描くほど、言葉にならない感情がこみあげてくる。

ましてその子供たちを、自分の子供として生み育ててきた親であれば、もはやその想いは、どうにも言葉を超えている。

この向けどころのない思い・感情をいったいどうすればよいのか、自分自身にもまったくわからないのではないか。


この場所に立つと、言葉を失う。ただ涙をもってすごすしかない場所である。


かつて広島であの悲しい出来事が起きたとき、日本の人々は「安らかにお眠りください。あやまちは繰り返しませんから」と唱えた。

だが、この場所ではそのような言葉は出てこない。「あやまち」というのは、子供たちのあやまちではないである。かといって現場にいた先生たちもまた、もうこの世にはいない。残された大人たちの至らなさをあやまちとして責めるか。ただ、責めつづけたとしても、子を失った感情は洗い流せるわけではけしてないだろう。


思いの行(ゆ)き場が、見つからないのである。

学校前の広場。慰霊碑。そして山。

みちのく旅日記2~いろんなめぐりあい

5月30日

●午前に地元公民館でとある男性に会う。震災で息子さんを亡くされた方。

ご自身は当時公共施設の館長さんで、震災直後の対応に追われて、行方不明の息子さんをしばらく捜索できなかったという。

彼が抱えておられるだろう想いの数々を察そうとはしてみるが、そのようなことが叶うはずもなく。

ひたすら耳を澄ませる。ていねいに話してくださったことがしみじみありがたく。


○前回の石巻市長選に立候補して次点に終わったという元市議会議員のAさんがやってくる。

この方も身内の方を亡くしている。震災後に、仏教ほかの本を大量に読みあさったのだとか。どの宗教もごく当たり前のことを言っている。でもその当たり前を理解・実践するのが難しい、と語る。


●救いや安らぎ、希望――ひとによっては、それは心次第ですぐに手に入るものだという。

でも、それが計り知れなく難しいことだってある。否、かぎりなく難しいことのほうが圧倒的に多いのではないか。

この地で出会う人は、多くのものを失っている人が多い。もちろんこうして会って話しているときには、ふつうにそれぞれの日常を生きておられる方々である。

でも彼らの胸の内には、あの震災があって、そこで変わってしまったものがある。その思いを心深くに抱えてこうして生きている。

彼らがその胸に見ているもの・感じている想いというのは、私にはやっぱりわからない。けしてわからない――。


○ちなみにどの世界でもそうかもしれないが、政治の世界に生きる人も、もう上がってしまった人より、こうして目指すものがあって毎日努力している人のほうが魅力的かもしれない。Aさんは毎日いろんな場所を訪れてこうして言葉を交わして、自分の道を作っていこうとしている。がんばってほしいと思います。


●午後はお茶っこ(お茶会)。

正直、見ず知らずの僧侶のお茶会にくる人なんているのかな、という思いもあったけど、ちゃんと来てくれた。12名。そして社会福祉協議会の職員さんたちが休憩がてら。

元暮らしていた場所とは関係なく割り振られたため、みな最初は知らない人同士。今も隣がどういう人なのかわからない。でも少しずつ顔なじみになっていった。友だちもできた。

この仮設のあと抽選で復興住宅に移るのだとか。そのときには再びバラバラになる。また新しく人間関係を作っていかないといけない。これはけっこう負担らしい。誰と誰が友だちでというのをアンケートしてなるべく同じ場所に移ってもらうという手は可能なような気がするけど。

仮設の人たちがまとまるのはやっぱり難しいのだそう。誰かが上に立たないとって。でも誰かが立っても受け入れない人もいるだろう。

いったん失われたコミュニティを再生することは難しい。どの場所にも、長い時間をかけて作り上げてきたつながりがあったのだなと思う。それが失われてしまった。


○焦ってきた、という人もいる。元々美容師やってたご婦人で、体が動けるうちは仕事がしたい、ここを出られるようになったらお店を再開したいって。

たしかに私でも焦るかもしれない。「いつまでここでこうしているんだろう」と思えば、いてもたってもいられなくなってしまうかも。

震災後のストレスが高じたのか身内がガンになってたちまちに亡くなってしまったという人も。自分の身近な人が三人も立て続けに亡くなったそうだ。

「どうして自分だけがここにいるんだろう、とふと考える」。


ありがたかったのは、みなご自身の状況をよく語って下さること。

言うまでもないが、みな家を流されたり全壊したりでここに来ている。自身の身内だけでなく近所のあの人が津波で亡くなったとか行方不明だとか、ごく身近に喪失を体験している。未曾有(とんでもない)ことが本当に起きたのだな、と今さらながら自覚する。


○あとで聞いた感想なのだけど、「法話はしないの?」という声があったらしい(^□^;)。

今回は「お茶っこ」であって、「法話」はなし、という予定だった。というのも、仏教の話とかいきなり打ち出すと、ヘンな宗教だと思って敬遠する人が出てくるだろうと思ったから。

最初はじっくりお話をうかがって、なにが望ましいのかそのあとで考えていこう――という発想だった(弱気だったか?)。

でも、ここ二日お茶会やってみて、やっぱり仏教の話を聞きたくて来る人がほとんどだと思った(ただのお茶会ならそれこそ今日きた人も来なかったかもしれない)。

心のよりどころ、安らぎ――仏教がそれに確実に役立つとも思わないけど、でも仏教のいろんなエピソードを聞くなかでちょっと日常を離れられたり日常をちがう角度で見られたりという、心の変化は、ごくごく小さいながらも生まれるかもしれない。そういうところを心がけることこそが、大切なことなのかもしれない。

次回は、真面目に、仏教の話をお伝えしてみよう。

たぶん、抱えるものはそれぞれにちがっても、ひとが必要としているものは共通しているような気がするから。


○お茶っ子のあとは、子供たちがワラワラと入ってきて、駆け回ったり、DSやったりと、まー騒ぐ騒ぐ。

彼らは小動物に近い。ひとめ会っただけですぐに友だちになってしまう。坊さんも遊ぶ遊ぶ。


●夜は、きゅうり栽培の農家の方の家へ。

四〇年以上農家一筋で生きてこられて、そろそろ休みたいと思っている。農地を貸したいのだけど、震災・津波の影響で、地代が下がっている。なんとかよい借り手を見つけたいとのこと。

ふだんあまりしないお経を称えて差し上げる。

借り手が見つかりますように、というより、この土地が次のよき借り手のお役に立てますように、その幸せへとつながりますように、という願い方のほうが正しい。発想をちょっときりかえる。

本当の運気、善き因縁というのは、正しい動機で願ったときにはじめて訪れるものだ。

そうしたことを伝えて、経を唱える。

こういうのは、どれだけ純粋な、無心な心になれるかどうかがポイント。

善き方向での願いに百パーセント心を特化する。そのための経である。

そういう至純の心に達した時には、たしかに空気が変わる。心も変わる。
そうして、生活の向きがちょっと変わっていく。

法事や読経の意味というのは、そういうところにある。

よき変化への力を生み出すのが、こういう場の意味。
力を生み出すというのは、つまりは心変わること。洗われること。

「胸がスーッとした」とご主人。「今度は届いた気がする」。そう感じられたら成功(^^)。

実るときには実る。

大切なのは、どんな状況にあっても、心失わないこと。

ただ、心を整えて、心尽くして、よき心でそのときを待つこと、だろうと思う。

ご一家が、よきご縁に恵まれますように――。


みちのく旅日記1~いざ宮城石巻へ!

いざ宮城石巻へ

●5月29日 
早朝、石巻入り。地元のひとが迎えてくれる。駅には石ノ森章太郎の漫画キャラがいっぱい。彼は宮城出身だったんだ(どのあたり?)。
今朝は風が強くて肌寒い。灰色の空。

日和山公園にいくと、石巻市街が見渡せる。たくさんの暮らしがあった場所は、今は空漠の更地に変わっている。

北上川をわたる大きな橋の上を車が走っている。大きく高い橋なので車が小さく見える。津波は――あの巨大な橋のてっぺんにまで届かんばかりに不気味に盛り上がり、街一帯を呑み込んでいったそうだ。

これは三日目の快晴の日の写真。津波当日は雪の寒さ・・・。
かつて住宅地だったという区域へ。ペンペン草が勢いよく生えるほかは痕跡もない。近くに見える家々もひとは住んでいないという。ここ一帯はかつては民家が立ち並んでいたそうだ。それを根こそぎ流してしまう水の威力。想像つかない。



●仮設住宅の集会所へ。3日間ここにお世話になります。

曇空のせいなのか、仮設住宅地はどことなくひっそりとしていて、住人の気配があんまりしない。150世帯、500人近い方々がここで生活しているのだそう。

集会所ではときおり催しが開かれる。食事会とか研修とか。ただ出てくる人は限られている。どの部屋にどういう人が暮らしているのか把握しきれていないともいう。

車を持っている世帯は約半数で、買い物用のバスも本数わずか。外に出ることなく自室で静かに暮らしている人も少なくないのだそうだ。

たとえばこの住宅地にいる人たちとつながりを作ることって、どうすればできるのだろうとふと思う。簡単ではなさそう、というのが第一印象。


●午前は涌谷町(わくやちょう)の箟峯寺(こんぽうじ)を訪問。天台宗のお寺。

みちのくの地は、仏教・神道・土地の神様・シャーマン信仰(精霊・彼岸・死者とつながる力への信仰)・祖先崇拝などが混交して、独特の精神世界を醸(つく)りあげている感がある。信仰と世俗、彼岸と此岸、冥土と娑婆とが人々の意識の中でつながっている―ーこの地の寺社にはそう思わせる幽然たる空気がある。

住職さんが寺の由緒をくわしく教えてくれる。

私は宗派を持たないし伝える仏教のなかみも違うけど、お坊さんの話を聞くのは好きである。彼らの言葉を通じて、日本人がどんな世界観の中に生きてきたのかが見えてくる気がするから。

その寺でお会いしたのが、地元涌谷町出身の映画監督の大和優雅(やまとゆうや)さん。『つるしびな』という映画でデビューした人。

映画の世界というのは、縁の下で支える無名のスタッフがたくさんいると聞いている。大和さんもまた大学卒業後に助監督として映像の世界に入って、以来黙々と、無名の下積み時代のなかでご自身の想念をカタチにするすべを集めてきた。三十代半ばをすぎてようやくオリジナル映画を発表するチャンスを得た。

表現者の話を聞くことはこの上なく楽しい。ひとりの表現者の、過去の道のりや表現スタイルなどを聞くことで、自身がインスパイアされるからだ。

私自身の表現は言葉そのものである。だが大和さんは映像で自身を表現する。興味を感じたのが、自分が脚本で表した言葉(セリフ)と、撮影した映像との間に、「ギャップ」みたいなものはないのかな、ということ。

どれくらい外に表れたものに満足しているのか――日頃自分の言葉にダメ出しすることの多い私としては、聞きたくなるテーマだった。

大和さんは、自分の脚本の言葉にこだわってはいないそうだ。映画において脚本というのは演技の土台にすぎない(だから台本というんだね)。むしろ役者さんの演技と撮影によってはじめて脚本が完成するといっていい。実際、撮影が始まると、脚本の言葉は役者さんの感想によって書き換えられていくそうだ。

大和さんの話が魅力的だったのは、役者さんやスタッフのみなと一緒に作っていく、という感じが明瞭に伝わってきたこと。実際に撮影して、編集して、その後の公開に向けての準備やプロモーションもみなで力を合わせてやって、というその途中の作業の楽しさ・あたたかさが伝わってきた。

大和さんのデビュー作は、2011年の一般公開に向けて準備中だったのが、あの3月の震災で大幅に展開が変わってしまった。あの震災がなければ、という思いはあるのだそう。でも震災を越えて映画も、その後の大和監督の活動も、ごく自然に生き続けている。そのバイタリティ、創造への情熱が心に残った。


映画『つるしびな』ストーリー http://tsurushibina.jp/story.html

私としては、老いた父とシングルマザーとして子供を育てている娘との葛藤を、二人が“乗り越える”瞬間に興味があります。そこに大和監督の人生観、観る人へのメッセージが託されているのだろうな、と思う。

予告編 http://www.youtube.com/watch?v=ooaPnm5sZzE