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帰ってきたら松崎しげる?(インド活動報告記)

完成間近の浄水装置。村人が集まってくる。インド・ナグプール近郊のウダサ村にて。
7月30日 
インドから一週間ぶりに帰ってきた。鏡をみたら、かなり日焼けしていた。松崎しげるを思い出した(愛の、甘いなごりに~♪)。

○今回は、いろんな喜びがあった。

ひとつは、小学校の建設が始まっていたこと。ちょこちょこと日本からもいろんな人のカンパが寄せられて、ウダサ村の外れに用地を買ったのがここ数ヶ月の間。そして今、レンガ造りの校舎が建設中。

もうひとつは、昨年秋から進んでいる浄水プラントの建設が、今回の訪問で大きく前に進んだこと。

日本ポリグル社の、ほぼほとんどの汚染物質を除去できるという魔法みたいなパウダー(粉)を使って、現地の人々に安全できれいな水を提供するプロジェクトが進んでいる。

なにしろ、これまでは製鉄所の排水混じりの水を使うしかなく、ここ数年、村では深刻な健康被害が出ていた。

もし、この「魔法の粉」で、村人が安全な水を手に入れられるようになるとしたら、これは奇跡のような出来事。

今回は、その奇跡を実現するために、大きめの装置を作ることが目的。
技術者の方に入ってもらって、1日に2トンの浄水を作れる装置の作成に着手した。

●前回訪問したときは、五月の乾季で浄水用の水が手に入らなかった。雨季は、雨が多いから水を採ることは難しくないと思っていた。ところが今度は、その雨で道がぬかるんでしまって搬送車が移動できなかった。

ほかに方法はない――私たちNGOのメンバーが、バケツに水を汲んで、一つ一つ、学校用地内の装置予定地に運び込んだ。私もぬかるみに足を取られながら、雨のなか水を運んだ。日本では当たり前のように手に入る水の確保が、この場所ではこんなにも大変な作業になる。

雨の中、浄水タンクを置く土台の工事から始める。レンガとセメントを交互に重ねて、段差のある三つの台をつくる。

そこに、直径1メートル以上ある1トンタンクを4基おく。パイプをつないで、水を通せるようにする。

一基めは、汚れた水を、ポリグルの浄化剤をまぜてきれいにする攪拌槽。ここで水の中の汚れが浄化剤と化合、凝集して、おおきな塊(だま)になって、沈殿していく。

二基めは、その水を濾過するタンク。下に小石、その上に木炭、そして砂利をしきつめて、その上に一基めで処理した水を流し込む。水にまじった汚れただまが砂で濾過されて、きれいな水が、三つめ、四つめのタンクに入っていく。その水に塩素を加えて殺菌処理する。

●そして蛇口をひねってみる――すると出てきた。透き通った水が。

帰国する当日は、朝から突貫工事で装置を完成させた。その日の午後六時には村を離れなければいけない。午後3時半に、ラケシュが帰ってきた。ナグプール市内を走り回って、水を詰めるペットボトルをようやく探し当てて帰ってきたのだ。集まってきていた村人みんなが拍手で迎え入れた。

その1リットルペットボトルに、できたての浄水を注ぎ入れる。ボトル越しに見える水は透明で、市販のペットボトルの水とまったく見分けがつかなかった。NGOのメンバーも、村人たちも、みな歓声を上げた。

水の浄化プロセスを技術者の方に説明してもらって、作業がぜんぶ終了したのが午後4時半。

○ここから、私は、時間が許す限り、できたての浄水を、村の家庭に配って回ることにした。

装置見物に来ていた村人たち(特にご婦人たち)が、詰めたてのボトル水をもって、村の中まで歩いて運んでくれた。そのときの村人たちの雰囲気がとても嬉しそうで明るくて、私は、この水プロジェクトが形になってほんとうによかったと思った。奇跡のようなご縁によって、こうして日本の浄水技術が、インドの小さな村に花を咲かせようとしている。

ラケシュと数人の子供たちと一緒に、まずは村の自治会長の家へ。今回の水プロジェクトの目的、浄水の安全性を説明して、村での配布の許可を求めた。会長さんは快く承諾してくれた。

それから、ボトル水をもって、各家庭を訪問。川の水(白濁)、村の公共タンクから供給される水(もっと白濁)、市販のペットボトル、そして今回つくった浄水のボトルを見せた。「ちがいがわかりますか」と聞いてみる。みな「わからない」Samaste nahin haeと笑う。

これは日本の最先端の浄水技術でできた安全な水です、あなたにプレゼントしますから、食事やチャイに使ってみてください、と手渡した。みな嬉しそうに笑った。

時間がなくて、配れた世帯数はわずかだった。でも、こうして村の家々をまわって浄水を手渡すのは、かなり効果があると感じた。村人の多くは、乾季の水不足、そして久しくつづく水の汚染に悩まされてきている。日本の技術でできた浄水についても、その安全性に不安を感じる人々が少なくない。

そういうひとたちに、日本人の坊主が直接ボトル詰めの水を手渡して、安全性をアピールするのだ。目の前でキャップを開けて飲んでみせることもする。この方法は、けっこう効く印象をもった。次回戻ってきたときも、この続きをやろう。

●最後のミーティングで、現地のメンバーたちに伝えた――この一週間よく働いてくれた、深く感謝している、と。朝八時のミーティングから始まって、雨の中、泥にまみれながら作業をした若者たち。基本的に彼らはボランティアでやっている。地元のために意義あることをする、という方向性をみなみごとに共有している。これだけまとまりのある、志の高いチームを、私はまだ世界のどこにも、ここ以外に知らない。

午後6時半、8時50分発の飛行機にぎりぎりの時間に車に乗り込む。村人が総出で見送ってくれた。この村をはじめて訪れてからもう7年になる。来るたびに顔なじみが、子供たちにも老人たちにも増えていった。学校の前を通り過ぎると、子供たちが「バンテジー!」(お坊さん)と高い声をあげて手を振ってくれる。犬の友だちも増えた。近所の犬サンディまで見送りに来てくれていた。

今回のもうひとつの喜びは、村人たちにすっかり溶け込んだ自分を発見したことだった。距離がずいぶんと縮まっている。そしてみなが友情をもって接してくれる。私は村での生活にすっかり慣れてしまった。誰かが食事を用意してくれるところなんか、日本での生活より快適かもしれない。

なんなのだろう、この奇跡は。インドのど真ん中、マハーラシュトラ州の龍の街ナグプール――2006年九月末に日本を離れるときは地図の上の小さな点でしかなかったこの地に、これほどのあたたかな関係を築けるなんて。

●今回は、きれいで安全な飲み水をウダサの村人に提供するという大きな仕事に貢献できたような気がする。言うまでもなく、これは私自身の仕事ではなく、日本ポリグル社の技術と厚意、お世話になっている日本の関係者の人たち、そして最高の働きをしてくれた現地メンバーと村人たちの成果である。私は、彼らのうつくしい目的と働きとの間にあって、彼らがつながるように働いただけである。ただ、出家して七年たって、ようやく、たしかにひとの役に立つと思える働きができつつあるような思いが湧いた。私自身は、今回の自分の働きに納得している。納得できるような生き方ができるようになった。その今をうれしく思うのである。

もしかりに私が明日いなくなっても、この水はこの村にずっと続いてくれるかもしれない。続いてほしいと思う。

私の胸に灯(とも)る思いは、今もなお青いままなのである――

もっと、もっと、たしかにひとの役に立つと思える働きをしたい。
ぎゅっ、ぎゅっ、と新しい価値を詰めこむように、有意義だと思える、ひとびとが喜ぶ仕事をしたい。

ひとの役に立つこと、ひとの幸せを願って、願って、願い尽くして生きること――それ以上の道があるだろうか。

夜明けに、青年たちが十年前に作った図書館のなかをのぞいた。青年たちは図書館のなかで仲良く眠りについていた。この子たち、彼らがこれからも幸せであるように、と自然な願いが湧いてきた。結局、この命は、彼らのために何かをするために、彼らの幸せにかすかにでも役に立てるように、この場所に立っているのだと思った。この思いが、この命をこの村にひきとどめている力なのだと感じた。

最近、私はとくによく思うのである――私は、すべての命に幸せになってほしいのだ、すべての命の幸福を願って、願い尽くして、そのためにこの命を使い尽くしたいのだ、と。

この願い以外の思いは、究極のところ、ゴミのようなものではないか。

空港で、青年たちに手を振った。
「われわれはベストのチームだ。ジャイビーム!」 We are the best team! Jai beem!


○で、帰ってきたら、顔が焼けていてびっくりした。曇り空つづきだったので油断していたが、インドの夏の紫外線ははげしいのだった。

私の胸にしっかり刻まれたもの――いうなればそれは“喜びのメモリー”である。

この胸のときめきを、あーなーたーにいぃぃい~~♪
(台無し・・・)


*松崎しげる「愛のメモリー」JASRAC許諾番号 9012400001Y38026

道に立つ勇気

7月17日

○いよいよインドゆきが間近に迫ってきた。
今回は、雨季で水の汚れが最悪になる時期。大きな浄化装置を一基つくるところまで運ぶ。

目標は、村のモニター百世帯に試験配給するところまで。ひとつの山場といっていい。頑張って参りマス(=ヘ=)>

●どの教室でも、みな熱心に仏教を学んでくださるので、とてもありがたい。

先日ご自宅にうかがった八十歳のご婦人は、五時間におよぶ語り合いの結果、

今後の生活を、ひとつの課題に沿って過ごしていくことを決意された。

それは、これまでの人生を振り返って、
自分自身を深く理解することで苦悩から抜け出す」という課題である。

ひとは誰もが、寂しさ、悲しみといった思いを抱えて生きている。

ただそうした心のありようを深く見つめ、その原因をさぐって、そこから抜け出す、という課題をクリアしたひとは多くない。たいていは、心に抱え込んだ闇、錯綜(もつれ)というものを抱えたまま、つまりは自分自身がわからないまま、命を閉じてしまうことが多い。

たまに、自分の内なる苦悩があまりに激しくて、もう今のままでは生きていけない、という岐路に立たされるひとがいる。

そういうひとの中に、人生には苦しみが伴うという仏教的な真実を実感して、つくづく、もうこんな人生・自分はいやだ、と感じて、あたらしい生き方を探し始めるひとがいる。

ご婦人がそのひとりだった。あたらしい生き方とは仏教だった。

(私の本を、上下の耳を折り、マーカーで線を引きながら一生懸命読んで下さっていた。こうして誰かの心に深く届いていたことを知ると、私は厳粛な気持ちになる。届いていたことに深く感謝する。)

○誰か人間に執着し、依存したところで、その相手が、自分に幸福をもたらしてくれるわけではない。
むしろ、途中においては苦しめ合い、やがては喪失(別れ)という名の痛みを抱えることになることが多い。

その苦悩から逃れようとして宗教や信仰に走ったところで、結局、その宗教をその場しのぎの“なぐさめ”に使ってしまって、本当の安らぎ・自由にたどりつけないということはよくある。

というのも、妄想を抜け出すことは、人間にとってほぼ不可能と言えるくらいに難しいのだ。宗教を語る者たちは、みな人間である。となれば、宗教を語る者たちは、ほとんど妄想を語るに終わってしまう。それが自然な帰結であろう。

つまりは、宗教を信じるということは、結局はおおかた他者の妄想を信じることに他ならなくなってしまう。それはみなが薄々感じていることではないか。

(付け加えるならば、そういう宗教になぜ入ってしまうかというと、人間自身が妄想から抜け出せていないからであろうと思う。元から妄想に浸かっているひとの心には、妄想で作り上げられた宗教の本質が見えないのであろう。妄想は妄想に反応する。妄想は他者の妄想を真実だと見るのであろうと思う。)

だが、他者が語る妄想をいくら信じたところで、自身の心の苦しみが正しく理解できるはずもないだろうと思う。妄想と理解とは、まったく正反対の心の働きだからである。

妄想――他者が語る宗教という名の物語も含めて――は、苦しみを解決してくれない。その理解に立てるかが、今ある苦悩のゆく先を大きく左右するのかもしれない。

理解すること、この現実をそのままに受け容れること――その勇気を持たないかぎり、苦しみはいつまでもつづくかもしれないということ。

私たちは、あまりに無防備に、内なる我欲や執着や、ひとへの期待や妄想や、自己に都合のよい判断(思い込み)を生み続けてきたのではないだろうか。それでは苦悩にたどりつくのは道理ではないか。

たどりついたこの苦悩から抜け出すには、自らの苦悩と、その原因とを理解するしかない(四聖諦)。「何がわたしを苦しめているのか?」

ご婦人は、自らの過去を、自らの心に抱えてきた(見ないようにしてきた)思いを、正しく理解して、受け入れるという道に、ようやく立った様子だった。なんと尊いことだろう。

●今回生まれた奇跡は、ご婦人が、闘う――ことを決意されたこと。自らの心の闇と。自身の過去と。

さんざん苦しんできた。寂しさを抱えて生きてこられた――これからは、そこから抜け出すことを目標にして生きていかれてはいかがですか、と尋ねてみた。ご婦人はつよくうなずかれた。

ひとって、すごいな、と思う。

道を歩き出すのに年齢は関係ないのだ。ひとは、いくつになっても、いつからでも、力強く踏み出せる。

○夜の帰りの電車のなかで、私は、ひとがそれぞれに抱える苦しみについて考えた。

多くのひとが、計り知れない深く激しい苦悩を抱えている。

しかし、どの苦悩も、もしかすると必ず抜け出せる方法があるような気がする。

どんな苦悩からも抜け出せる方法――現実にはありえない夢想のような気もするが、しかしこの心はまじめにその可能性を追いかけているところがある。

それでいいのだと思う。きっとこの命は、命尽きるまで、そのはるかに遠い可能性を追いかけて生きていくことになるのだろう。

苦悩からの解放に向かってひとが歩き出す瞬間を見るときほど、喜びを感じるときはない。

こういう幸せへの方法も、この星の上にはある。たとえば、ここに――。


わたしがおじいさんになっても♪ (仏教とあまちゃん)

7月12日

NHK学園の生徒さんとお昼をご一緒した。

生徒さんといっても、みな人生の大先輩。私は「子どもと同じ世代」という(笑)。

昼間にやっている教室に仏教を学びにきてくださる方は、私よりはるかに年配。
私の生まれ年を聞くと、ため息みたいな驚きみたいな声が漏れて教室がざわめく。
特に日本に帰ってきた頃はそうだった。

40代といえば、世間的にはほんといいオッサンなのだけど、でもこうして人生の先輩、先生(先を生きた人)がたくさんいてくれるのは、とても心強いし元気づけられる。(いい仕事を見つけたなと思ったりもする。)

私の老後を心配してくれたり(ヨメさんもいないでひとりでどうするのとか)、

波に乗り遅れないようにね、人生にはタイミングというものがあるから(早くお寺をもてるといいわね)、とアドバイスをくれたりする。

ここでは語れないけど、みんないろんな体験をされている。
「すごいなー」と思いながら聞く。

今日同席した方々は、70、80、90代。とっても元気。

もし私が彼女たちと同じくらいまで生きられるとしたら、あと30~50年ある。

その間にどんな新しい体験ができるのか。何を創造できるのか。
時間ほどの贈り物はないだろう。毎日、楽しく生きていきたいと思う。

私が人生で一番の喜びとすることは、ひとを励ますことである。

がんばって――という思いでいっぱいになること。

これ以上の幸福感はない。

仏教ひとつをたずさえて、どんと立っていればいい。

すると、いろんなひとたちが訪ねてきてくれる。

仕事のこと、家庭のこと、勉強のこと……。

この命だから出てくる、と言えるような、面白い智慧が出てきたりする。

役にたてたかな、と思えるときが一番うれしい。

ほんとに、みんなみんながんばってほしいと思う。
きっと、答えはみつかると思うから。

今回の仏教の学校のプリントに、
人生の行く末に必ずくる「老い」について、

「…のちの日に必ず見るだろう。八〇、九〇と生きれば震えて、
 杖を手に取り、のろのろと歩く。垂木のように腰を曲げて」
という言葉がある(初期仏典ジャータカより引用)。

(※授業(法話)の中で、「そんなこと言ったら、『あまちゃん』見られないじゃない、せっかく上京して歌うたってるのに、とツッコミを入れてみたが、誰もNHKの朝ドラ『あまちゃん』を見たことなかった・・・(私もないけど)。さすが仏教の学校??))

若さは必ず失われる、老いの現実に直面する、もし歓び・快楽だけを求める生き方ならば、必ず苦しみを味わうことになる、という意味合いである。

だが、はっきりいって、こういう解釈は、もういらない。

そういう老いのときを迎えたとき、私が全開でこの世界に放ちたい思いがある。

がんばれ――。(しあわせになってね)

いつも、いつも、そう願っている。

最期に残っているのは、はげまし。

そういう人生が理想である。この人生や好し。


たどりついた「島」

7月4日(木)

今日は巣鴨。
終わったあとに、ご老婦と近くの仏教大学へ。
9階にある見晴らしのよいラウンジで食事をご一緒する。

ご婦人は二十年ほど前にご主人を事故で亡くされた。
信心深いひとで、旦那寺にもよくお参りしていた。
だがある日、自分が趣味で集めた木のお地蔵さんを住職に見せたら、「こんなものはウチ(○○派)の教えに関係ない!」と怒鳴られ、ボキボキと折られてしまった。
あまりにショックで、それ以来お寺に足を運べなくなった。

巣鴨の仏教講座を区報に見つけて足を運んだのはそんな折。
出会った最初は、顔が修羅のようにひきつっていた。当時七十五歳。

今も補助輪を押して通ってくる。この場所が生きがいになっているとおっしゃる。

仏教がわかるようになって、いろんな苦しみから解放された。
大金を貸して返ってこなかったあの件も、今はようやく吹っ切れるようになった。
息子夫婦には「私の功徳(人助け)なんだ」と言うことにしているという。

今は自分がやりたいと思うことをやるようにしている。生活を楽しむ。それもこの教室で学べたこと。
そのおかげでこうして仏教大学の豪勢なレストランも見つけたし、からだに電気を通す健康法のお店に通うようになって、以来一度近く体温が上がって体調がよくなった、新聞の仏教関連記事の切り抜きもはじめた。「今は生きていることが楽しい」とおっしゃる。たしかに血色がいい。

●「ソウリョ(私のこと)は、あの頃から比べるとずいぶん日本人らしくなりましたねえ。最初はちょっと外国人みたいでした」と笑う。

巣鴨の教室が始まったのが2011年6月。ちょうど2年経つ。

たしかにいろんな体験を積んで、日本のひとたちが何を普段見聞きして、何を考えているのか、当時よりは見えるようになったかもしれない(外国人みたいな言い草だが、当時はほんとに半ば異国にいるかのような心境だった)。活動も生活も、あの頃に比べると着実に安定してきている。おかげさまである。

このレストランは、庚申塚通りの仏教大学の構内にある。著名なホテルが運営しているらしくて、高級感があって物静か。でも値段は学生客が多いとあって、それほど高くない。

9階のフロアから巣鴨、板橋の街並みが見渡せる。

私にとって何が豊かかといえば、こうして仏教を通じて出会った人たちと時間をともにすることだ。

彼らの声に耳を傾ければ、彼らの人生が垣間見える。そうして、人生という名のさまざまな時間を擬似体験する。

かつて、いろんな世界(職業)に道を求めていたとき、私のなかに生まれるのはいつも失望だった。それは、その仕事にたずさわることでひとつの世界しか生きられなくなることへの閉塞感にあった。

ひとつの仕事に就くと、つねにその仕事の時間に追われてしまう。その間にも、この星の上ではさまざまな人生が繰り広げられていて、笑ったり泣いたり憂いたり望んだりと、それこそ無数の物語が生まれているのに、自分はその現場に立ち会うことができない。自分は自分のこのごく限られた日常を忙しく生きるしかなく、そこには他者との関わりも、他者の胸の内に触れる瞬間もない。

その「自分の日常を生きるしかない」という現実が、自分にとってはあまりに息苦しく、寂しくてたまらないものに映った。

たまに聞かれることに、大学は名の通ったしかも法学部だったのに、なぜ法律の世界に進まなかったのか、というのがある。

当時の私を止めていたのは、もし法律の世界に進んでしまったら、自宅と事務所と裁判所のあまりに狭い三角形をぐるぐると回り続けて人生を終えてしまう、というためらいだった。もちろん今となってはそれは観念的なものの見方で、進めば進んだでいろんな可能性が生まれたのかもしれない。だが、その頃の私には、法律をなりわいとすることはやはり味気なく、あまりに限定された生き方だと思えてしまうのだった。

もちろん、だからといっていさぎよく見切りをつけられたわけじゃなかった。
「もう大人になれよ、腹くくって前に進めよ」と自分の尻を叩く自分がいた。
でもその一方で、「そっちに行ってしまったら、もう二度と戻れなくなるぞ。そっちに行っては永久に見ることのできない世界が本当は広がっているんだぞ」とだだをこねるもうひとりの自分がいた。

二つの自分の狭間で行ったり来たり。じつにカッコの悪い、中途半端な時代をすごした。

俗世に身を合わせて生きていきたい、そしてプライドも守りたい、という世俗派の内面と、

そういう自分を「姑息」「敗北」と責めなじって、「もっとほかに世界はあるだろう、行けるところまで行け」と自分を焚きつける理想肌の声とがあった。

いつも心にこだまする声――

「できればもっと遠くまで旅したい」 
「できれば千回くらい生まれ変わって、ちがう人生を生きてみたい」 

結局、その声には勝てなかった。

二十代、そして三十代半ばまで、私が最も後ろめたかったのは、
過去に可能性あった道を蹴飛ばして(あるいは逃げて)きたことではなく、

「では自分は何ものとして生きていけばいいのか?」がまったく見えないことだった。

「私は○○です」と納得のいく自己紹介ができない。自分自身がわからない。

周りは順調に年をとっていくのに、自分ひとり何者かわからないまま時間がすぎていく。
それくらい、心もとなく、不安定で、息苦しい状態はない。
地球を遠く離れて、冷たい宇宙空間をさまよっているかのような、ふわふわと落ち着かない漂流感。

「いったいどこまでこの闇はつづくのだろう」とずっと思っていた。
胸の中に恐怖が鎮座しているのをいつも感じていた――。

あの頃の漂流感を思い出すと、よく正気を失わず生きていたな、という気になる。


●私は、自分に確信が持てないという虚空感のなかを、溺れる寸前で泳ぎつづけた。

そして、どうやらいつの間にか、安らえる島にたどりついて、こうして砂の地に足をつけている。その今がとても不思議に感じる。

島とは仏教のことであり、安らぎとは、こうして仏教を通じて出会った人々と時間をともにすることである。

「法(ダンマ:真理)のみを汝の島(よりどころ)にせよ」というのが、ブッダがアーナンダに最後に伝えた言葉だといわれる。

島にたどりつくルートは、ひとそれぞれであろう。私の場合は、運がよかったのだ。そこに島、つまり仏教があるということはまったく夢にも思わないまま、もがいていた。結果からみれば、偶然、溺れた場所の近くに仏教があったということだ。仏教に最終的には手の届く、時代、環境、因縁のもとに生まれていた。

よりどころが定まれば、ひとはもう溺れなくていい。
足が立つ地がみつかれば、こうしてひとと出会い、ひとときを分かち合うこともできる。

私は、この島で生きていくことになる。幸いなことだと思う。

正確に言えば、今はこの命が歩くところに島ができる。どのような奔流、激流のなかにあっても、この命が進む足元には大地が現れるのである。

大げさだと思うひともいるかもしれないが、道に立つ(ひとによっては「信仰をもつ」とも言う)とはそういうことだろうと思う。

仏教をよりどころにするとは、そういうことである。上り坂も下り坂もない。ただダンマ(真実)という名の平地を歩くという人生である。

○もし私がようやくたどり着いた仕事が、ひとに何かを伝える、何かを分かち合うことだとすれば、それは「島のつくり方」だろうと思う。

心に島をもつこと。よりどころを持つこと。
一度持てば、もう溺れることはない。さまようことはない。そういう島のつくり方。

その島は、自分の足元に作るものだ。誰かにつくってもらうものではない。

島のつくり方は教えることができる。ただつくるのは自分自身ですよ、誰も代わりにはなりませんよ、と仏教は言う。

ひとが期待するような手っ取り早い道ではないかもしれない。でも、つくり方をきちんと知って実践すれば、自分の日常、人生がそのまま真実とともにあるようになるのだから、これほど自由で力づよい道はないと思う。


○ご婦人は、二年休まず巣鴨の教室に通って、多くの葛藤を解いてきた。

一時期痴呆気味になったこともあったが、それも乗り越えた(これは気づきのトレーニングが効いたらしい)。

彼女の姿を見ていると、真摯に学ぶこと、継続することの大切さがよくわかる。

彼女は本当によく頑張って、仏教をモノにしてきたのである。仏教という道を歩いてこられたのである。

私は、じつはひそかに、彼女に法名(出家時につけてもらう名前。戒名もその一種)を授けている。

以前、「法名をください」と言ってきたことがあったのだ。「希望する漢字」のリストまでつけて。

最近は話題に上がることはない。「ほんとの法名というのは、その道を進んで下がらない覚悟が必要になりますよ」と伝えたから、それ以来遠慮しているのかもしれない。

でも、その後の彼女を見てきて、私は今ひそかに思っている――彼女ほど、法名をもつにふさわしい方もいないと。

そのうちプレゼントできる機縁が熟するのかもしれない。

ご婦人が仏教という道を歩んでこられた証として。
私たちの出会いの証として。

もうすぐ夏


●7月1日(月)は代々木での炊き出し。

里の授業に来ている青年がボランティアとして参加(よく来てくれました)。

ホームレスの男たちによると、オリンピック委員が視察に来た頃から、野宿取締まりが厳しくなった。

それまでほかの場所で寝泊りしていた人たちが、代々木公園周辺に集まってくるようになった。

たしかにあちこちに以前には見かけなかった青いテントが。

炊き出しも警察の指導があって(真偽はわからないけど)、閉鎖するところも出てきているらしい。


●今日は、仏教に造詣の深いある女性の神話学者の子供の頃のエピソードから。
(東ゆみこさんの『おとなのための仏教童話』光文社新書から)

彼女は港町で生まれた。母子家庭で母親は叔母が経営している旅館を手伝っていた。

7歳の娘をひとり家で留守番させるのも不用心だということで、旅館に連れてきていた。

夏になると、大阪などの都会から海の休日を楽しみに、家族連れや学生たちがやって来る。

彼らはとても楽しそう。朝から外に出かけて、夜はごちそうで舌鼓を打って。

そんな旅館に、毎日お昼前後に子供連れの女性がリヤカーを引っ張ってやってくる。

リヤカーには今朝とれた魚が積んである。それを買ってもらいに商いにくるのである。

旅館のおかみは、魚を品定めして、買うときは買ってやるが、買えないときは買わない。

そういう時は、女性は売値を思いきり負けて、なんとか買ってもらおうと食い下がる。

でも、おかみさんも旅館の客に出すものだから妥協できない。断らねばならないときは毅然と断る。

行商にきた女性は寂しそうに、また重いリヤカーを引いて帰っていく。

そのすぐ脇に、自分と同じ年頃の女の子がいた。

女性はその当時、その母娘の姿を見て、こう考える――

旅館には休みを満喫してすこぶる楽しそうな家族連れがいる。
その一方で、毎日、汗だくになって魚を売り歩いている母娘がいる。

その違いはどこから来るのだろう。

あのリヤカーいっぱいの魚を買ってあげたらどうだろう――でもそれだとおばさんの旅館が困ることになる。

旅館のお客さんも、あの母娘も、そしてこの自分も、みんなが幸せになれるあり方はないものだろうか?

そんなことを考えた、というエピソード。


●ひとの人生がそれぞれに異なるのはなぜか?

私はなぜ私の人生で、あのひとはなぜあのひとの人生を生きているのか?

そういうテーマで話をした。今回の結論を平たく言ってしまうと、

ひとそれぞれの人生は、因縁によって成り立つもので、そこに人間が考えうるような理由というのはそもそもないのだということ。

縁によって起こるもので、それぞれの人生には、よいも悪いも、幸も不幸も、本当はない、という話。

因縁というのは、自分で選べない、コントロールできない、自分以前に、自分以外のところにあるものだから、それは受け入れるしかない。また因縁そのものが苦だというわけじゃない。

もし人生が因縁によって成り立つ現象なのだとしたら、そこに苦や不幸が存在するのは、ほかならぬ自分自身の判断(我見:がけん)が作り出したものだ、という話。

相手の人生を「気の毒だ」と判断した時点で、不幸・苦しみが生まれる。

でも、それは元からあるものじゃない。人間の思いが作り出したものなのである。

○因縁に近い意味で使われる言葉に「業(ごう)」というのがある。

これは、人生を作り出す力。

人生を作っている要素・力という点では、因縁も業も似ている。

ただ業は因縁とちがって、自分自身が作り出すものだ。

行い、言葉、思いとう三つの要素(はたらき)が自分の人生を作り出す。

業は、自分でコントロールできるもの。

(コントロールできないもの、前世から続いているものと考える仏教もあるが、それは採らない。原始仏典には、「身・口・意の三業」(しん・く・いのさんごう)とはっきり定義しているし、前世なるものは確かめようがないという点でゴータマ・ブッダの思考に沿わないから。)

自分が何を思うか(意)、何を語るか(語)、何をするか(身)は、自分自身が気をつけて、選ぶことではないか。そして、それに見合った影響(果報)が導き出される。自分の業が人生を作っていく。

●業は自分で作り出すもの、因縁は受け入れるもの(手放すもの)、という理解に立つと、とてもシンプルな生き方が導き出される。それは、


自分自身の思いと言葉と行いだけを注意深く見つめて、悪を避け、善を働こうというもの。


(ここでダンマパダを引用――できるけどしない(笑)。このブログは、いろんな経典の言葉(大乗も原始もある)に基づいて言葉を紡いでいるのだけど、正確に引用するとなると手間がかかるので、省略させてもらいます。すみません(^^)。)

そして、因縁そのものは、自分で選べない、コントロールできないものとして、手放す。

たしかに業が原因となって、善き結果や悪しき報いを導き出す。その意味で、業もまた因縁の一要素ではある。ただ、そこで因縁そのものをコントロールしようとはからうことは無理である。ひとがコントロールできるのは、思い・言葉・行いというパーソナルな領域、すなわち業のみである――。


どうだろう? とてもシンプルではないか。難しいけど、でも生き方の方針としては明快である。

心の中に三毒(貪欲・瞋恚・妄想)を溜めないこと。
感謝と慈しみを念じること(そうすることで善き思いが育つから、善き業となって善き人生を作っていくから)。

そうして、因縁そのものはよくも悪くもなくて、ただ受け入れる、ただ生きるということ。

●今日これから食べるカレーとおにぎりもまた、因縁の産物。

形あるものを恵んでくれた自然があって、その食材を採って、運んで、調理してくれたひとがいて、運んでくれたひとがいて、こうして目の前に置かれている。

この食べ物を「因縁のたまもの」としてありがたくいただこうではないか。

どのような因縁にも感謝すべきである。だって、だからこそ自分が生かされているのだから。

そして業は自分が作るもの。善き業を作ることを心がけよう。
悪しき業は、自分のこれからのテーマ・目標として抜け出していこう――。

と、かなり前向きな話になった。


○最近思うところだが、仏教をどう語り、活かすかは、それを発する人間次第なのだなと思う。自分自身の視点・感性・人生観によって、仏教はいろんな活かし方ができる。

大乗の世界では、すべては無常・無我なるものだから、自分を語らず法のみを語れ、とよく説く。
無私・無我の境地で法のみを語れ、と。

ただ、法(真理)そのものは、無色、抽象的で、それ自体は人間の感性・感情で理解しうるものではない。感性・感情抜きの言葉というのは、抽象的な理屈、観念論、まっとうすぎる正論と化してしまって、ひとの心には届かない。届かなければ、活かされることもない。

自分にとって「これが真理」だと思うところはあっても、それをそのまま発信したところで、ハードルが高すぎて人間の人生には活かせないのだと思う。

ひとに伝えるときには、そのひとの背景、人生や、その話が出てきた前後の文脈も踏まえて、なるべく具体的に、感性や感情に働きかけるようにして語らないと効果は薄い。それが今までやったきた中での実感。

だから、なるべく自分の言葉で、自分の思いとして語ろうと今は心がけている。

聞きながら、うん、うん、と深くうなづいている男性がちらほらいる。それがありがたい。


●最近思うこと――結局、ひとは自分を生きることなんだ。自分を語る、表すことなんだ。

自分を見せる、語ることがその目的ではない。目標は、仏教をそのひとの幸せに役立ててもらうこと。

ただ、そのためには、「己を空しうして」というより、むしろ人間としての実体ある「わたし」を語る必要があるらしいのである。

動機そのものは、自分のためではなく、相手に活かしてもらうため。その意味で「自分を空しうして」は正しい。

ただ、そのための方便(手段)としては、「自分をきっちりと充実させて」ということなのであろう。

もっと自分を語らなきゃ。自分を生きなきゃ。

「自分」という言い方が我を強めてしまうように感じるのなら、「この命」と表現してみよう。

「この命をもっともっと表現しなきゃ」

最近、いろんな発見をしている気がする。快調であります。

そういえば、もう夏なんだね。この命が大好きな夏――。