仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
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もう迷わない――そのために

こんにちは、草薙龍瞬です。

まだ夏が頑張っているようですが、
秋の訪れにはあらがいようがないらしく・・・土用波(どようなみ: 夏の終わりにどっぱーんと岩をたたいて引くあの波)のような日の気配をこのところ感じています。

私としては、あと2、3週間はド夏気分を味わっていたいのですが・・・なんだか今年の夏は短かったような気がしているのですが、みなさんはいかがでしょう。

仏教の学校は、いよいよ秋学期に突入です。今度は禅の境地や時間論など、また面白いテーマが出てきそうです。

ここまで仏教を学び続けてきた人は、ぜひ誇りに思ってください。
この半年を振り返っても、それまで自分の中には存在しなかった、さまざまな視点・考え方に触れたはずです。

それは、劇的に何かが変わった!という感じにはまだならないかもしれませんが、しかし、ないのとあるのとでは全然ちがう。

経験した、という事実を誇りに思いましょう。経験し続けること、学び続けること――「道のひと」というのは、そうやってできていくのだと思います。ただ無自覚に生きているのとは、ちがう人生がすでに始まっている。

仏教というのは、よしと思える生き方を作るための基礎工事です。何度も重ねて、自分という人格の足もとを見つめて、掘り起こして、新しい視点・発想を埋め込んでいく。
時間をかけて、じっくりと築いていくのです。

どこまでやれば「道が完成する」なんていうのは、ありえない。それはじつに浅はかな見方だと思います。
知識をただ増やす(「その言葉は聞いたことがある、もう知っている」)、というのもおかしな発想。自分の考えのクセはそのままに、ただ知識だけでアタマをふくらませて、何か学んでいるかのような気になってしまっているのでは。それも違います。

何度も何度も何度も、繰り返し心におさめて、念じて、とことん考えて、自分の発想そのものにしていく。(心は瞬時に入れ替わっているのだから、「同じ知識」というのは本当はないのです。)

自分の心にその言葉・考え方が定着してきたら、ではそれをひととの関係・日常場面でどう活かすかを考える。活かせるようにがんばってみる。「応用」までやりぬくところに本当の面白さがある。

(生活にマンネリを感じているひと、新しい世界に飛び込んでみては?)

これは一生の仕事。どこまでやれば終わりなんていうものではなく。

人生終わるまで育てていくぞ、考えていくぞ、という心がまえに立ったとき、はじめて「道」が心の中に生まれて、迷わなくなるのだろうと思います。

ちなみに今の私には迷いはありません(四十年かかりましたけど)。
死ぬまでこの道を歩いていけばいい(外れなければいい)、という思いがあるから。
ゆっくりでいいのです。

一生この道をゆく、という覚悟が「あったりまえ」になったひとを「道のひと」というのでしょう。不動心。これこそが最上の安心立命。

道は無窮なり(道に終わりはない)――という道元禅師の言葉は、至言です。
 

夏の終わりを惜しむ会

こんにちは、くさなぎ龍瞬です。

24日(土)の仏教の学校に参加されたみなさんは、「半沢直樹」の生き方をどう受け止めたでしょうか・・・。

講座の中で最後に指摘した、「半沢が本当はすべきであったこと」というのは、多くのひとにとってはオドロキの「盲点」だったのじゃないかな。

聞けばああそうか!と思う。だけど、聞くまでは思いつかない・・・そういう大きな、語られざる盲点というのが、あの物語にはあるように思います。

もちろん、ただのテレビドラマ、小説なのだけど、、、ただ話題になってるということは、面白さ=快楽を感じている人がそれだけ多いということを意味するわけで・・・その背景には、真面目に考えてみるべきテーマが横たわっているように思います。

やられたときの返しかた、というのが今の時代は見えなくなってきているような気がします。

日本とほかのアジア諸国との関係についてもそうだし、仏像を盗まれてしまった長崎のお寺の韓国への対応ぶりもそうだし、
大久保のヘイトスピーチもそうだし、ミャンマーでイスラム教徒への襲撃を扇動している仏教長老の考え方もそう・・・。

「やり返す」のは簡単なんです。そして、ひとは、やり返すことを仕事や人生の動機にしてしまうところがある。それを快楽だと感じてしまう・・・。

でも、それは正義でも善でもないんです。半沢直樹の「敵」がどれだけ憎たらしい人間でも、それに対してやり返すだけの人間は、善でも正義でもない。

テレビドラマの半沢は設定がけっこう変わっているようだけどね、、、原作をみるかぎり、半沢直樹は善でも正義でもないみたい。

ただ今の時代、何が善なのか、何が正義になるのか、ストレートに指摘できる人間、ほんとは何をすべきなのかを教えてくれる”思想”というのが消えつつあるのかもしれない。

みなさんの中で、仏教を自分の仕事、人生に生かしたい、本当の意味で仏教をモノにしたい、という意欲をもっているひとがいたら、

たとえば、ドラマ半沢直樹を見たり原作を読んだりして、あの物語において何が足りないのかを、ずばり指摘してくださったら、と思ったりします。ぜひ考えてみてください。

今いる場所、世の中、時代に一体何が足りないのか? そこを指摘できるようになる――それはとてもすごいこと。貴重なことかもしれない。

たぶん、自分のアタマだけで考えても、なかなかそこまではいけないかもしれない・・・(仏教に出会う前の私には明らかにムリでした×▽×)。

仏教を学ぶ意味というのは、たとえばそういう能力、ほんとの知恵をつけてくれるところにもあるような気がします。

時代の――ひいては自身の生き方の――盲点が「見える」ようになるのです。

28日(水)午後7時から築地にて、同じテーマで話をします。興味ある方はぜひご参加ください。
なお早めの夕食を築地でご一緒しようという方は、メールにてご連絡くださいね。

なお8月31日(土)は、高円寺で<仏教ガイダンス兼夏の終わりを惜しむ会>をやります。

テーマは当日のお楽しみ。ふだんの講義スタイルをちょこっと崩して、フリースタイルでやりたいと思います(前回の納涼会のノリで)。

もしも半沢直樹が仏教で返したら?(予告編)

みなさん、こんにちは。草薙龍瞬です。
甲子園も終わって、いよいよ夏も佳境でしょうか――。

明日24日から<仏教の学校の夏クラス第4回>が始まります。(カレンダーをご覧下さい)

今学期は、「空」(くう)という大テーマを前提に、「働く(生きる)ことがラクになる方法は?」というサブテーマをつけてお送りしてきました。いよいよそのテーマの締めに入ります。

特に、今テレビで話題の「半沢直樹」の生き方をとりあげたいと思います。

とある方が、「半沢直樹はやってることは正しいんです」と言っておられました。

たしかに。
ただ「正しい」にも、ほんとはいろんな内容・度合いというのがあります。

半沢直樹のやっていることは、本当に正しいのか? 
今回は原作(池井戸潤のベストセラー)を引きつつ、考えましょう。

仏教では、もっともっとスケールの大きな「倍返し」があるのです。働く・生きる上での原理原則――。

五億円の債権を回収する。上司や融資先の不正を暴く。そこまでは同じかもしれない。だが――です。

仏教の思考と、半沢直樹の思考では、ちょっと結末が変わってくる。原作の内容も変わってくる・・・・・。

そこを言語化できるか、が私たちの課題といえるでしょう。これはいいテーマだと思う。
(ちなみに「慈しみ」じゃありません。もうちょい現実的に考えます。)

<重要!日程変更のおしらせ>

9月15日から26日まで急遽インド入りが決まりました。今回はナグプールとバンガロールの二都市です。

その期間中の講座はお休みになります。9月28日の仏教の学校土曜クラスも調整のためお休みとなります。

ですので、里の講座が再開するのは、
10月2日(水) おとなの仏教塾(九段下) からになります。
10月3日(木) 仏教ガイドツアー(巣鴨)
10月5日(土) 座禅エクササイズ、
10月9日(水)、12日(土) 仏教の学校 

予定組んでくださった方にはもうしわけありません。
ただ仏道に沿ったスケール大きな貢献がつくられつつあるのだ、ということでご了解くださいまし。

なお、10月6日(日)は、名古屋で初の仏教ライブをやります。近畿地方の方、お楽しみに。ぜひお会いいたしましょう!

真夏の高円寺!

今日8月17日は、高円寺で納涼会~仏教案内とインド水プロジェクト報告会。

最近は、「ひとから聞いて」来てみた、という方が出てくるようになった。ありがたいご縁である。

まずは縁をさずかり、その中で、心に道(あるいは、帰るべき場所、よりどころ)を固めていってくれるひとが増えてきたら、と思う。

お一人が、「新興宗教に誘われた」体験を話していた。

私は、このよく聞く「誘う」という発想がよく分からない。この場所(興道の里)は、何かに誘う、入ってもらうという発想でできていない。出会う相手を理解して、親しみをもって受けとめて、もし仏教的な考え方が役に立つのであればどうぞ、という視点で、仏教のなかのいろんな思想や考え方を紹介している。来るひとも、私自身も、かなりの超フリーハンドである。


私がインドにたどりついた経緯、そして師のこと、今進行中の水プロジェクトについて、プロジェクターを使ってお伝えする。

そのあと交流会。高円寺商店街を探し歩いて、最後にたどりついたのが典型的な居酒屋。

騒がしさとお酒の匂いは避けるのが正道(せいどう)。ただ十人以上入れる場所がなくていたしかたなく。

みな気を使ってくれたのか、半数以上は烏龍茶。
(そのなかで、じつにナチュラルに4杯もの中ジョッキを飲み干していた御仁がおられた・・・'▽')(←すごいなーの意))

メニューは、焼き鳥、もろきゅう、トマト、冷奴といった、居酒屋の定番。

これがなんだか「ワタシ日本ニ来テマス~」という感じで、内心楽しさヒット状態だった。

みなのよもやま話を聞くのも楽しい。でもさすがに仏教を学んでいる人たちとあって、語る内容が仏教的。「半沢直樹」の世界観はめちゃくちゃ狭いとか、インドなら差別廃止も活動の動機になりうるだろうが日本ではどうするのか(質問)とか。

年齢も、生活も、仕事もまったくバラバラのひとたちである。そのみなが、仏教という共通項でつながって、こうしてふつうに会話できるのはすごいと思う。

インドでは、私はかなり度合いの高い出家僧である(焼き○なんてありえません)。その身にして、こうして日本の高円寺で夏の夜に居酒屋でみなとおしゃべりしているのである。これはかなり貴重な体験だ。久しぶりのもろきゅうだ。


多くの人が、仏教に安らぎをもとめている。その安らぎへの道を案内する役回りをこの身が負っていることも知っている。

ただ、私としては、俗の世界から遠く離れた、たとえば森の中の瞑想寺院みたいな場所にこもって、教えを伝えようとはあんまり思わない。

また矛盾や非合理が看過できないほどに膨らんでしまった伝統仏教のなかに、自分を収め置くのも違うように思う。

たとえば、輪廻思想や来世への人々の期待を前提にして、布施の功徳を説いて、それで自分の身を立てたり、

檀家さんにいつまでも経済的支援をお願いして、形ばかりの法事で自分のお寺や家族を養ったり、というありかたは、少なくとも私は、自身の生き方の前提にはできない。

もしそういうあり方を前提にして、なにかブッダの教えを伝え説くとしたら、もうそれだけで、ごまかし・欺瞞(ぎまん)を私は感じてしまう。ウソじゃないかと思ってしまう。

自分と、相手(つまり俗の世界に立ち、仏教を学ぼうとしている人たち)との立っている場所がちがう。それはフェアじゃない、と思ってしまう。

幼い頃からそうだった。小さな矛盾でも、自らの足元に置くことがどうしてもできない。すぐにそういう自分に疑問を感じてしまって、居心地が悪くなって、降りてしまうのである。

だから、私は今なお、なるべく定まったスタイルというのを持たないようにしている。
これこそが仏教ですよ、これこそが正解ですよ、という発想をしないように気をつけている。

ひとそれぞれに必要としているものはちがうのだから、答えなんて決め打ちできるはずもない。

仏教においても、この部分、この発想、この思考法は、ブッダのものに近いと思うところはたしかにある。が、それでも、「これこそが仏教」という形で最初から答えを決めることはどうしてもできない。

流浪の旅人が、ゆく先々で、一夜を過ごす場所の基礎、骨組みから作り上げるように、

私もまた、仏教の本質だけを手に、この世この時代を旅して、出会うひとびとそれぞれとの間で、そのひとに最も伝わる仏教(思考法)というものを作り上げたいと思っている。

その柔軟さ、融通無碍さこそが、真実が真実たりうることのゆえんだろうと思う。つまり、真実であることを証明するものは、歴史の長さや、伝える誰かの権威などではなく、何の前提もなく、その場その場での最上の理解と思考とによって最善の解(答え)をつくりだそうというやわらかさなのだ。そのやわらかにして本質をつらぬく知力を、古くは「智慧」(ちえ)と呼んだのである。

ほんとの智慧というのは、あらかじめ定まった答えというものを持たない。これは、本質にしっかりと通じた思考力でないとつくりだせない。

あえて言うなら、私がこの身について信頼しているのは、こうした智慧を生み出す強靭なる知力である。それ以外の知識や過去の一切は、役に立てばいいという程度の付属物にすぎない。私はこのような知力こそを自らの活動の基盤にすえて生きたい。それが一番楽しいし、ひとの心にも届くと思うからである。

●帰りの電車のなかで、ひとりが、「たとえば世間は“七並べ”(しちならべ)でできている。七並べするのがルール。仏教は、そのルールをあえて取らないところがあるのではないか」と語っていた。

たしかに、世間のルールと、出家のルールには、違うところがある。

しかし、出家のルールを内側では守りつつも、なお世間のルールに合わせて働いたり、歌ったり、踊ったりすることは可能だろうと思う。

出家のルールに基づきつつも、この世での七並べを思いきり楽しもうとしている。そういう心境である。

私は、あくまで、この世で生きるすべての人たちと同じ土俵に立ちたい。そうでないと、ひとのよろこびや苦悩がわかるはずがない。フェアであること――それが言葉の真実味をささえる生命線だろうと思う。

だから私は、寺や伝統に属さない単立の出家として、講座や著述で身を立てる。労働という、ひとに何か役立つことで命を養うという手段によって、この国を生きていく。

だから、居酒屋でもろきゅうをつつき、夜の高円寺を練り歩くのである。

★今日は日本の夏気分を満喫しました! みなさん、ありがとう。残りの夏を楽しんでくださいね。

(あ、また怖い話忘れた!!!!)


半沢直樹を仏教がえし!!!?

あっつくなりましたねぇ! 草薙龍瞬です。

みなさんの中には、お盆で帰省・旅行されている方もいるんじゃないかな。

私は、大好きな夏を、冷え冷えの図書館で読書三昧しています。

熱中症で倒れたり、亡くなったりされている方々がおられるので、語ることにためらいを感じたりもしますが、

最近のこのド熱帯の暑さに、龍瞬の心は密かに燃えているのであります。

私はどうにもひねくれ者というか、性分が苦労性ゆえなのか、暑ければ暑いほど、やったるでえという気になるのです。

今回行ってきたインドでも、雨季のモンスーンで泥々になった道を、水を入れたバケツをかついで、雨に濡れながら、ますます労働意欲に火がついたのでありました。

どうせ、暑い夏もあと二週間もたないだろうと思うし・・・もうひと踏ん張り、ド夏気分を味わいたいものであります。

街には子供たちがわらわら。あの子たちにとっては、ひと月の夏というのは、途方もなく広く長ーく感じているのではないかな。

明日以降なにがあるか、まったく想像せずに、ただ「なんかありそう♪」という漠然とした期待感にとどめて、今日一日の夏の光を浴びる。

それが正しい夏の過ごし方のような気がします。


●ドラマ「半沢直樹」がウケてますね。

私はテレビがないので、原作を読みました。仏教的に読むと、いろんな感想が出てきます。

仏教の学校夏クラス第4回(8月24日、28日)で、半沢直樹の生きざまを取り上げてみたいと思います。「話題になったら、仏教返しだ!!!」(寒いか?)

これからもいろんな日本の風情を仏教で語るコーナーを設けたいと思います。

第4回くる方がいらしたら、原作を読むか、ドラマをちょこっと見てみるとよいかも?
ぜひ感想を聞かせてくださいね。

ちなみに、土曜の講座は、基本、午後6時半からで行ってみます。時間があればちょこっと交流会も開けるように。


●8月17日は、お盆スペシャル! 高円寺でやります!

「納涼トークライブ~わかりやすい仏教案内とインド飲み水プロジェクト報告会」

お盆明けのスペシャル交流企画。

僧侶くさなぎ龍瞬氏による、はじめての人のための超わかりやすい仏教案内と、インドで進行中の「納豆で飲み水をつくろうプロジェクト」のスライド報告会。
対象は、仏教を楽しく学びたいすべてのひと、インドでの水づくり活動に興味があるひと、新しい出会いがほしいひと。

「お坊さんが体験した怖い話」のおまけつき?(昨年夏に語れなかった恨みを今度こそ・・・?)

ちょっと変わった夏の思い出がほしいあなた、夕涼みに高円寺に出かけてみない?

主催者: 興道の里
開催日: 08/17(土) 18:30 〜 20:00
会場 :  高円寺北区民集会所 高円寺北3丁目25​番9号  JR中央線高円寺駅 徒歩6分
参加費: 1,000円 

★夏休みスペシャルとして、参加費1000円でやらせていただきます。お友達とどうぞ。
 時間があれば、高円寺にて納涼お食事会でもやりましょう!