仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

尊敬すべきひとたち

10月25日
今日はNHK学園で仏教講座。ひさびさに受講生の方全員が集まった。

朝から雨が降っていて、台風も来ているという最中、どれくらい集まるかな、とちょっと心配だった。

特に八〇になられるご婦人は、若干足をいためておられるので、雨が降ると来るのが難しくなる。
でも、今日も来てくれた。迎える他のご婦人たちも楽しそうだった。

こういう冷たい空気が混じりだす秋の日に、ひとつの場所に会せる幸せを思う。

これがひとりで部屋に閉じこもっていたら、やっぱり気持ちは下がってしまうだろう。
今日は教室でみなに会えるからいかなきゃ、と思えると、心の張りはずいぶんちがってくるだろう。

私自身がこの教室を楽しみにしている。

みな、人生の大先輩である。
そして仏教を学ぶ仲間である。

新しい人も最近加わった。賑やかしくて、楽しそうに座っておられる様子をみるとこちらも気分が明るくなる。

この場所では、囲碁教室が一番人気だそうだが、この仏教講座も、同じくらいの和やかさに満ちているのではないか。

日本中で、たぶんこういう明るい雰囲気のなか仏教を学びたがっている人は多いだろうと思う。

100でも、1000でも、こういう場所が増えていけばいいなあと夢想する。

「楽しく学んでます」と言ってくれるのが一番幸せである。

幸せな日でありました。

冷たい雨の夜に

今日は、一日中冷たい雨が降り続けていたね。

急に、日の量も減った感じ。いよいよ寒さが増していくのかな。

これからの季節、苦手、ツライというひとは多いでしょう。夏型(?)の龍瞬も、あんまり得意とはいえません(つまり夏みたいに自然に元気がジェネレート(発電)されないって感じ(笑))。

今日は、仕事がなかったので(出家というのは、平日とか土日とかあんまり関係なく仕事があるのだけど)、自宅でゆっくりと本を読んでました。

仏教書と、小説と、漫画を主にチェックしてます。どれも、自身の表現・活動に必要、あるいは活かせるかな、という意図で読んでます。

仏教書が必要というのは、講座のテキストを作ったり、話の参考にしたり、原稿の素材にしたりするため。

漫画は、教室にきてる人は知っていると思うけど、たとえば季刊誌(今月から配信)に盛り込むため(4コマのネタになりそうな話があったら、ぜひメールで送ってくださいね)。

小説は、「緻密な表現」というものを学ぶために、今意識して読んでます。文学というのは、書き手にもよるけど、意識の流れというものをことごとく言葉で埋めていくかのように描写するところに特徴がある気がする。わたしは、結構、表現をはしょってしまったり、理屈で片付けてしまうところがあると自覚しているので(その結果、他人が読むと考えをたどることができなくて、わかりにくい文章になってしまう)、もっともっとていねいに、緻密に、自らの思考の軌跡を言葉で埋めるように表現していかなきゃ、という思いで読んでます。

「ここまで言葉にするか~~~」とその緻密さと表現の巧さに今嘆息しているのが、じつは夏目漱石です。綿矢りささんの「蹴りたい背中」も今読んでます。あのセリフや描写って、たぶん坊主(またはおじさん)が黙読したって永久に分からないんじゃないだろうか、、、と妙な距離を感じつつ。

言葉というのは、考えるままを、素直に、出していかないと、ひとには届かないものなのかもしれないね。

もっともっと、誰かの心に届く、つながることのできる、味わいのある(仏教的な)文章をつむいでいくのが目標です。

こんな寒い夜、明日、炊き出しで会うホームレスのみんなは、どこでどんな思いで過ごしているのかな、と考えたりします。

みんなのことを想うと、不思議なんだけど、ちょっと胸があったかくなったりするんだよね。
面白いね。
 

相談「家族が宗教にハマッてしまいました」という十代の学生さんへ

(あくまで一般論として考えてみますね・・・・)

これはね、、、難かしいね。宗教にハマるというのは、そのひとにとっては「絶対」の信仰だからね。たとえ周りがおかしいと口うるさく言っても、力づくで止めようとしても、その宗教が世の中に大迷惑というか害悪さえ流してしまっているとしても、本人にとってはまったくそのことが理解できない。もう完全に信じきってしまっているから、その信じている内容のおかしさがもう見えない。むしろ、周りの人たちのいうこと、リアクションこそが攻撃、弾圧で、自分が信じてるものの正しさを証明している、、、というくらいの発想をしてしまう。

「なにを言っても伝わらない」くらいに理解しておく必要があるんじゃないかな。「止めよう」「変えよう」としてもかなり難かしい。ひとの心というのは、もともと外からはいいも悪いも判断できない領域にあるもの、というくらいに思っておいたほうがいいかもしれないね。

で、その上で、どう向き合えばいいか、考えてみようか。

まずは、どんなに奇矯な、ヘンてこな行動や言葉をそのひとがしているとしても、そのひとはそれで真剣なのだから、否定しないこと。間違っていると判断しないこと。どんな相手でも、敬意をもって向き合うこと。それは鉄則だと思う。

●そして、相手のいうことを、「正しく理解する」ことを心がけてみよう。

相手の心をただ、ありのままに、正確に、理解してあげようと努める。

たとえば、そのひと(家族・親)にも、やっぱり苦悩とか満たされなさのようなものがあったのかもしれない。それは過去の出来事なのか、あるいは今の仕事や家族関係なのか、それ以外の何かなのか、、、。

ひとの心には、喜びと悲しみとが両方ある。たぶん宗教にすがるひとというのは、それぞれに悲しみと言い表せる感情があり、その感情を生み出している理由がある。それは過去の出来事だったり人間関係だったり、いつのまにか学習して身にしみこませてしまった思いこみ(判断とか価値観とか)だったりする。

その悲しみの原因、そして今のそのひとの心というのは、向き合うあなたにとっては、わかることもあるだろうし、まったくわからないこともあるだろうと思う。

ただ、ひとというのは、必ず何かを感じて、考えて、そこに満たされなさ、虚しさ、辛さといった感情があるから、救われるために「宗教」と呼ばれるものを求めているところがある。その心のありようを、ありのままに、見つめてあげてほしい。「理解する」こと。

家族が、勧誘してくるって? 行事に誘ったり、手伝わさせたりする?

まだ十代ということなら、抵抗するのは難かしいかもしれない。大変だろうと思う。

●宗教にハマッてしまったひとに向き合うときは、もうひとつの基本がある。

それは、「ああこのひとは妄想に浸かってしまっているんだ」と理解すること。

相手は、妄想という心の中の、想像・物語・教義・世界観と俗に呼ばれる、現象にどっぷり浸かって、その状態に気がつかない。

ふつうの状態なら、「この思い(外から見れば妄想)を外に出したらヘンだと思われるだろうな」と考えることができる。それを分別とか良識とか理性と呼ぶ。

でも、妄想に100%浸かってしまったひとは、その理性や客観的な認識というものがもう尽きてしまってる。だから自分の姿を客観的に見ることができない。自分でヘンになっちゃってることがわからない。

これはちょっと困った状態だと思うかもしれないけど、人間というのは、およそ全員、ほぼ一日の9割方は妄想していると思っていい。ただその妄想を口に出したり、行動に移したりしたときの、外のリアクションを考えるという理性が残ってる。だからみな妄想をそのまま外に表すことはない。それでいちおう「まとも」だと思われている。でも、心の状態は、宗教にハマっているか否かを問わず、たいてい「妄想漬け」なんだ。

宗教にハマッてしまったひとに向き合うには、「妄想してるんだね」と理解してあげること。そう理解できれば、ちょっと距離を置けるんじゃないかな。大切なのは、その妄想に自分が取り込まれない(感染しないともいえるかな)ことだから。

もし相手が信じている宗教を、「おかしい」「目を覚まさせてやる」と意気込んでしまえば、それがこちらの「反応」ということになる。「反応」すると、それだけで取り込まれてしまうと思っていい。「反対」という反応がきっかけで、やがて「盲信」という受容に変わってしまうことはよくある。自分自身が、相手の妄想にいいとも悪いとも「反応しない」ことが、心の自由を守る防御線になると思っておいてください。

相手の妄想は、そのまま妄想として理解してあげること。あなたはまだ十代で、まだ当分家族と一緒に暮らさなければいけない様子だから、まずは自分の心が妄想に取り込まれないように、正しい向き合い方を決めておこう。


●宗教というものに向き合うとき、たぶん次の三つのチェックリスト(視点)が有効だろうと私は思ってる。

一、その相手の方向性――何をめざしているのか。ゴールはどこにあるのか。


それが、家族の健康とか、豊かさとか、幸せ、だというなら、それ自体は否定してもしようがない。もし達成できるなら、それはそれでよし、じゃないかな。

ただその方向性が、俗にある、信者数を増やすとか、何かを買わせるとか、信じない外の人たちを否定するとか、そういうものなら、その宗教はやっぱりおかしい。目的が正しくない。

 「それは方向性がちがうんじゃないの?」と聞いてみることはできるかもしれない。「ぼくはちがうと思う」とはっきり伝えることも正しい態度だと思う(相手を否定するのではなく、自分の立場を伝える。誠意をもって)。

二、その相手の方法――その方向性にたどり着くために、何をしようとしているのか?
 多くの「宗教」とよばれる思想は、ここで間違う。品物を売りつけたり、ヘンな儀式やらおまじないやらイベントやらに走って、参加している人たちは大満足、外から見たら奇異でしかない、ということがよく起こる。

 なぜかというと、ひとつの理由は、やっぱり多くの宗教は、「妄想」でできているからだろうとぼくは思ってる。たいていは、誰かを特別視する(させる)、あるいはその欲望(承認・賞賛を求める欲や、色や財を求める欲)を満たすという動機があって、その動機をうまいこと物語に仕立てて、それを「教義」としている。

 こういう宗教というのは、動機そのものは、じつに人間くさい欲望や妄想でありながら、語る言葉は、一見誰かの幸せや健康、豊かさといったもので彩られている。

 心に何かしらの満たされなさを抱えた人たちは、その言葉上の幸せや豊かさといった価値に反応して、希望をみて、その語られる物語を信じようとしてしまう。その結果の宗教だ。たいていの人たちは、その宗教を語る側の「動機」が見えない。みな自分の苦しみ・悩みで精一杯だから。

 あなたは、おそらくその宗教が持っているほんとの「動機」に感づいているように聞こえる。あなたの苦悩は、家族が、その動機のおかしさに気がつかないで、ますますハマっているように見えることだね。つらいよね。これは苦しい状況だよね。

 彼らがやろうとしている「方法」が、ほんとうに、めざす方向性に沿うものなのか。そこも正しく見ることだろうと思うし、もし会話ができるくらいの関係であるならば、「そのやってることで、本当にそのめざすもの(方向性)は実現できるの?」と聞いてみてもいいかもしれない。「ぼくはムリだと思うけど」と伝えることは可能かもしれない。

三、その相手の行いをみること――「行い」というのは、けっして誰かに嫌な思いをさせてはいけない。誰かに不快な思いをさせるとしたら、もうそれは正しい行いとはいえない。

 よく、宗教の世界には、相手を「分からせる」ためにいろんなことをしようとする人たちがいる。彼らは、分からせるために、いろんな理論や儀式や行動を編み出して、とにかく、自分たちと同じものを信じていない人間たちを、信じさせようと血眼になる(そこが宗教の厄介さ・怖さとして他人には映ることになる)。

 何を信じるのも、何をめざすのも、何をするのも、彼らのテリトリーにとどまるならば、それはそのままにしてあげるべきだろうと思う。それは、思想の自由であり、信仰の自由。人間というのは、ひとりでは幸せになれない・満たされることのできない生き物なのかもしれない。ふつうに生きてきて、働いて、家族をもって、どれも自分とはちがうものであるという現実のなかで、ひとは、やっぱり心にすきま風というか、満たされなさというか、淋しさのようなものは感じてしまうものだろうと思う。ひとはそんなに簡単に幸せになれるものじゃない。むしろ、多くの人が、宗教にはハマらないまでも、心のどこかに空洞を抱えて生きているのかもしれない。

 そういう、すごく自然な日常の中にいる人間が、宗教という名の、ひとつの思想――何を信じればいいか、何をめざせばいいか、何を日々すればいいか、ひとつひとつ具体的に、力強く、希望に満ちた言葉で指示してくれるもの――がひょんなきっかけで見つかったときに、そこに惹かれていくのはやむをえない、というかそれも自然なことなのかもしれない。

 あなたのそばにいる家族もまた、そういうひとたちと同じ状況にあったのかもしれない。そのことは、理解してあげてほしいような気がする。けして、宗教にハマったからといって、それだけでそのひとが悪人になったわけでもなんでもない。たぶんふつうに話を聞けば、ふつうに話ができる人なのかもしれない。

 ぼくは、仕事柄、いろんな宗教の人たちと会うし話もするけれども、別にヘンな人たちだとは思わない。もちろん思い込みが激しかったり、ヘンなところにこだわったり、ちょっと普通の(つまり宗教を持たない)人とはちがう行動をしているところもあるけれども、まあ、それだけで誰かに迷惑がかかっているわけではない。

 仏教の世界にも、いろんな宗派とか、最近だと宗派から派生した在家の団体さんとかがあるけれども、みなそれぞれに一生懸命何かに打ち込んでいる。それで彼らの生活がととのい、心が落ち着いて、何かよりどころを得られているのだとしたら、それはそれでよいのだろうとぼくは思ってる。

 ただ――もし、その行動が、宗教をもたない人との関わりにおいて、トラブルを起こしたり、誰かを苦しめたりするようなことになれば、それは、その行いのレベルにおいて、間違っているといっていいと思う。信仰そのものが間違っていると判断する必要はなくて、ただ行いのレベルで問題があるよ、ということなのだろうと思う。

 行いの正しさというのは、いつも、他者との関わりにおいて決まること。

 宗教の正しさというのは、つねに、宗教を信じない人との関わりにおいて決まるといっていい。

 信じない人に迷惑がかかるような行いは、間違いだ。もしあなたがその点で、ほんとうに迷惑を被っているとしたら、まずは、断りの意志を表すことだろうと思う。「それはぼくには必要ない」という立場にはっきり立っていい。

 もしそれでも、尊重してもらえずに、執拗に、心そのものに踏み込んでくるようなことがあれば、それは世俗のレベルで対応していいのではないかな。これは想定にしかすぎないけれども、児童を保護する制度・法律というのがある。学校とか、警察とか、「こういうことで困っている」ということを外に伝えること。

 宗教に呑まれないには、宗教を信じていない世俗の世界に答えを求めることが正解かもしれない。

 ――どれだけ役に立っているか、心もとないけれど、ひとつの考え方として受け止めてほしい。どういう距離、どういう関わり方が、自分にとって一番正解なのか、かならず落としどころはあるはずだから、希望をもって、考えてみてほしいと思う。


●最後に、ひとつ、ぼくは僧侶だから、僧侶としての、宗教や仏教と呼ばれているものへの考えを伝えさせてほしいと思う。あなたが今後、宗教と呼ばれるものにどう向き合うかについて、もしかしたら活かせるところもあるかもしれない――。

 ほんとうの幸せというのは、妄想はいらない、と思ってる。

 何かを信じるとか、だれ・どこの教えこそが正しいとかいうのは、どこか勘違いしているとぼくは思っている。

 たいていの宗教には、人間が作り出した妄想がいっぱい混じっている。伝える側にも妄想があるし、信じる側にも妄想がある。妄想と妄想とでつながって、その妄想に、妄想外の人間を取り込もうとしてがんばっている。

 でも、結局それは妄想にすぎない。妄想だけじゃ、ほんとは、究極のところ、人間は救われないんじゃないかな。妄想にすがりついて、ひとは何をしていると思う? 結局、何かを売ったり、ひとを増やそうとしたり、互いのことを批判したり見下したり争ったりして、誰かの苦しみを促しているところがあるのではないだろうか。

 妄想にすがらなくては、今の現実の苦しみから逃れられないひとも、たしかにたくさんいるだろう。

 でも、妄想にすがらなくても、ほんとうは苦しみから逃れることはできるかもしれないし、世の中には、妄想にたよらなくても、苦しみに負けないで、りっぱに、つよく、やさしく、つつしみをたもって、一生懸命生きているひとがいる。いっぱい、いる。

 そういう、ほんとうにつよい人たちのことを、いつもあたまにおいておいてほしい。世の中には、そういうほんとうに立派な人たちがたくさんいるから。

 宗教というのは、厄介なようで、ときに崇高にみえたり、深淵にみえたりするけれども、やっぱり人間が生み出したもので、妄想やら我欲やらがちゃっかりと混じり込んでいる。すっごく小さなもの。人間的なもの。

 だから、宗教というものに、あんまりとらわれなくてもいいのかもしれない。宗教のないところで、ひとはちゃんと生きられるから。

 あなたもそのひとりだろうし、世の中にはそういうひとがたくさんいる。

 家族がそういう人たちに戻っていくかは、これからの話。戻っていくかもしれないし、もしかしたらずっと、その見つけたものを信じて、生きていくのかもしれない。それはその家族の人生だから。それはそれでしようがない、というか、それはそれでいい。

 大切なのは、あなた自身が、いろんな人間がこれからもくりだしてくるだろう妄想の数々に、下手に絡めとられないで、ただ、もしかかわらざるをえない状況においては、ただ「理解する」ことに努め、ひとはひととして、そして自分は自分として、自分は自分のしあわせのために、しっかりと自分の人生を生きていくこと、自分を大切にすること、そういうことなのだろうと思う。

 世の中は広いし、
 幸せはひとの数だけある。
 幸せへの方法もひとの数だけある。

 あなたにとってもっとも良いと思える「方法」を探していってほしい。

 また一緒に考えましょう。


里の仏教講座もいよいよ実りの秋?

こんにちは、草薙龍瞬です。

関東地方のひとは、台風と冷たい空気に、秋の深まりを感じていることでしょう。

この季節は街が冷え込んでいく時期。でも、空気の冷たさも、雨のうるおいも、この季節ならではの風情があって、けっこう楽しみが溢れていますよね。

夜寝るときの布団のぬくぬく感も、あったかい飲み物をとる瞬間も、なんだかしあわせ~な感じがしないでしょうか。

こういう楽しみは、季節の陰影に富む日本ならではのもの(タイやインドではけして味わえない)。満喫したいと思っています。

✩さて、10月の仏教講座ですが、以下のラインアップでお届けします。

特にきたる18日は、企業研修で使っているワークシートのダイジェスト版を使って、「働くひとのためのタイプ別の悩み解消法」をまとめてみたいと思います。

ビジネスに仏教をどう活かすか?という問題意識をもっているひとは、ぜひ参加してみてください。
管理職やカウンセラー的立場にある人には特に役に立つかもしれません。

(※会場は、カレンダーでご確認ください。)

はたらくことがラクになるこんな考え方  ビジネスマンのための実用仏教講座
10月 18日 (金), 19:00 ~ 21:00  四谷

✩ 仕事に迷い・悩みはつきもの・・・・・・問題は、なぜ悩んでいるのかよくわからない、これからどうすればいいか答えがみつからないこと。ほんとうは、どん な悩みにも「この順序で考えていけば必ず答えがみつかる」という「考え方の道すじ」がある。その道すじさえ分かれば、どんな悩みや迷いにも必ず前向きに立ち向かっていける――。

✩今回は、はたらく男女のみなさんへ、仕事・キャリア設計にすぐに役立つ仏教的な「考え方」を紹介。内容は、
①ワークシートで 自分の悩み・迷いの「正体」を知る~企業研修で使用している自己分析シートを使って、今抱えているストレス、もやもや、悩みの原因をさぐる。
②シェアリン グ~ムリのない範囲で今自分が直面している悩み・課題をグループでシェアする。
③悩み・迷いをあっという間に解決するこんな考え方 ~「こういう悩みには こう考えて乗り越えよう」という仏教的な発想・考え方を整理する。
④質疑応答~最後に質問・感想を語り合う。

座禅エクササイズ 高円寺
10月 19日 (土) 18:30 ~ 21:00  ✩18:30からは初めての人向けのガイダンス。2回目以降の人は、18:30からでも19:00からでもかまいません。

「正しい集中」 仏教の学校秋クラス③  ※26日は築地です。ご注意ください。

①水曜クラス 10月 23日 (水) 19:00 ~ 21:00 四谷

②土曜クラス 10月 26日 (土) 19:00 ~ 21:00 築地


✩仏教の学校秋クラス第3回は、八正道の「正定」(しょうじょう:正しい集中)です。

これまでも聞いたことがあると思いますが、この場所ではいっそう突っ込んで、仏教心理学の知識や、修行で体験する境地の描写などを引いて、実際の「集中」とはどういう状態なのか、そこに至るにはどうすればいいのか(集中のコツ)などを、掘り下げてみたいと思います。

秋クラスのテーマは、戒・定・慧のうちの「定」です。心を定める・落ち着かせる方法。
これまで、禅の境地(正念)と、正しい努力(正精進)というテーマでまとめましたね。残るは、正定です。

そして冬クラスの大テーマ「正しい理解」(さとり)をもって、これまで一年かけてやってきた仏教の本質の大枠は完結します。ぐるり、と回った感じになります。

このあたりで、この一年を振り返って、
自分にとって仏教とはどういうものか、
どれくらい見えてきているか、
これからの人生に仏教をどのように活かしていくか(「道」として伸ばしていくか否かの“選択”も含め)、を考え始めるのもよいかと思います。

いちおう「第1期」のまとめとして、昨年同様にワークショップを開催できないかと考えています。

ともあれ、仏教に出会い、学んできたことを誇りに思ってくださいね。
ひとは一人の力では道を成就することはむずかしい。仏教という土壌があって、はじめて人生という名の道がさだまるのだと思います。
そういう実感をもってくれる人がいてくれたら、今年の仏教の学校は大成功といえるでしょう。

もうひと踏ん張り!^^)。では教室で!

旅情づくしの名古屋ゆき

こんにちは、くさなぎ龍瞬です。

✩明日10月9日からまた仏教の学校がスタートです。
おそらく12月半ばからインドに長期出張になる気配があります。

私の中では、ココまでは伝えておきたいという輪郭があります。そこまでなんとかいきたいと思う。最後は「さとり」とは何だろう、というテーマになることでしょう。

もちろん語り尽くせぬ部分のほうが多く(ほとんど)残るのだろうけれど、それでもかなり仏教の「本質」を突(つつ)いてきたように思っています。「本質」を私たちそれぞれが日常において「実践」していくことで、「深さ」を実感できるようになる。実践と深さの実感はひとそれぞれだろうけれど、ともかく「本質」部分を残りの時間もこだわって伝えていけたらと思っています。

とにかく歳末の冬の最後の授業まで、今の調子と雰囲気でやっていきたいと思ってます。ぜひみんなも頑張ってください!^^

✩10月6日(土)の名古屋での初ライブは盛況でした。熱心に質問してくれる方が多くて、私も進行がラクでした。
その模様も、季刊誌のなかで紹介したいと思います。

できれば、東京のように定期的に開いて、徐々にもっとディープな話をしていければという願いがあります。

やっぱり、ひとつの思考法や視点というものを、心に定着させるには、「継続」が大事になるので。
この点、大学の授業なんかは、3ヶ月、半年単位で組み立てられています。この継続性にはやっぱり理由があります。

定期的に通って、その場の空気に触れて、考えて、また日常に帰ってそこで熟成させて、、、ということを繰り返す。そうしてはじめて、じわじわと心に変化が生じてくる。

もし、仏教のみならず、何かを学んでいて、「身についていない」「わかったという実感がない」というひとがいたら、「ルーティン」(これを繰り返すという作業のリストアップ)と、一定期間の「継続」という視点を意識して、「何曜日はこれをやる」という、習得のタイムテーブルを組んでみてはいかがでしょう。

✩名古屋のライブが終わって、夜は三重松阪へ。こちらは勉強会というより、もう、同好会というか、いいお友達会という感じです。

みんな仲が良くて、付き合いも長くて、しかもそれぞれに仏心(ぶっしん)というか、まじめに話せるところもあって、毎回とても楽しい思いをさせてもらっています。

夜泊めてもらった○○ホテルが快適でした。今は安くてサービスのよいホテルがあるのですねえ。そして明日また次の場所へ、、、という形で移動できたら、旅情も味わえるしライブもできるし最高です。徐々にそういう活動ができるようになっていったらいいな。

行くときも、道中も、帰るときも、たくさんの旅情を味わってきました。昔は旅=居場所(自分)さがし、という感じでしたが、今はどこにいっても居場所があります。生きてみるものです。

出張ライブ、大歓迎です。どうぞほかの場所のみなさんも、ご企画たてて龍瞬をお招きくださいね。

またおたよりします。
草薙龍瞬