仏教講座スケジュール

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ポリグルセミナー開催!

12月25日
今日はセミナーの日。日本ポリグル社の小田会長が、じきじきに水浄化のデモンストレーションと解説&スピーチをする。

ウダサ村の一角にある公会堂(といっても40畳くらいの埃まみれの古ホールだが)を借りて、昨日から設営の準備。

配布資料を百部刷って、椅子を並べて、横断幕を張ってと、GDIAのメンバーたちが総出で準備をする。

村の婦人たちはランチと夕食の準備。こういうときの彼らの流れるようなチームワークは見事である。

20リットルボトルに川の汚れた水を汲んでくるようにと指示すると、バイクで即飛んでいく。そのボトルと、浄水装置でつくったポリグル水入りのボトルとを、壇上のテーブルに並べる。そうすると、浄水の光る透明さがきわだってみえる。

11時開始の告知であるが、ここはインドである。結局、ひとが集まって始まったのは12時半すぎになった。汽車で十時間かけてきてくれた人もいた。ムンバイからは病院長夫妻が。このセミナーが終わったら、私はアンドラプラデシュに行って前州大臣と面会し、そこからムンバイに飛んで政府や企業関係者、大学の研究者と会合をし、その後パトナに飛んでブッダガヤ、ナーランダにある仏教組織と話し合い、最後はデリーで政府関係者と面談をする予定。このセミナーは、この水プロジェクトがウダサ村から外へと展開していく最初の足がかり的な意味をもつ。

テレビ東京で放映されたドキュメンタリー「ガイアの夜明け」をプロジェクションで上映。小田会長のソマリア&バングラデシュでの活動を報じている。その後、小田会長のデモンストレーション。私は通訳をつとめる。

会長先生らしいと感じたのは、村の子ども2人を指名して、彼らに実験をやらせたこと。ひとりは白濁した水を浄化する実験。 もうひとりは鉄分混じりの汚水をポリグルと磁石で吸着・浄化する実験。

もうひとつのボトルには、オレンジの絵の具混じりの水が。ポリグルを混ぜてしゃかしゃか振ると、とたんにきれいな水とオレンジ色の汚濁に分離する。会場から拍手。効果が目に見えるから、大人も目を見張っている。

そして会長のスピーチ。バングラデシュやアフリカで展開している水プロジェクトについて。村人にとってはもちろん初めて聞く国際的な話である。

現地の水問題を解決し、しかも雇用を生み出す。働きながら技術を覚えて、新しい土地での技術指導者になってもらいたい。ビジネスというより現地の人々を助けたい。こちらが何かをしてあげるというより、みなが必要としていることにこたえたい、というのが会長の方針。

インド人はきわめて飽きっぽい性格で、途中で話がつまらないと出て行ってしまうのであるが、今日は最後までよく聞いて、質問も熱心にしていた。みな自分の場所で同じプロジェクトを始めたいという。

ウダサ村に設置した浄水装置の概要を、ラケシュが現地マラティ語で説明。

会長の夢は、80歳になるまで働いて世界から水問題で苦しむ人々をなくすことなのだそうだ。ポリグルの普及ビジネスを始めて12年が経とうとしている。バングラデシュが6年、アフリカは1年、インドは最初の装置を設置した7月から数えるとまだ5ヶ月。
GDIAのメンバーはよく働くし、物分かりがすこぶるよい。浄水装置の仕組みも完全に理解して、装置の組み立ても自分たちでできるようになった。その動きのみごとさは、今回視察に来た他の日本の人たちも驚いたくらいである。

8年後に会長先生が満足できるような、素晴らしいはたらきをしていきたいと思う。このチームならばできるだろう。

その後、浄水装置をみなで見学。ここでも熱心に質問が飛ぶ。初期費用にいくらかかるか。このプロジェクトに参加するにはどうすればいいか。我々としては、コンパクトサイズの浄水装置をつくって小さな村落にデモにいこうと考えている。最近報じられたニュースでは、とある村全体が、飲み水がフッ素に汚染されて健康被害で困っているという。そういう場所には真っ先にかけつけたい。

ポリグルのロゴ入りの青いシャツをメンバー全員が着て、記念撮影。会長たちを午後4時前に見送って、そのあとはねぎらいをこめた食事会。みな地べたに座って食事をする。水はもちろんサーバーに満タンのポリグル浄水である。みんなよくがんばった。

夜はお寺でみなでお経をあげる。一日はたらいてくれた女性たちは、ラケシュの家の中庭でなかよく晩餐をとった。

GDIAのメンバーたちも、大仕事が終わったとかでどこかに打ち上げに行った。「今日をありがとう」と村人たちが伝えてくる。みなが嬉しそうな顔をしている。それが一番嬉しい。

何か新しい可能性を、彼らとともにいま創り出している。その実感だけで、この命はこの上なく強く、熱く満たされている。じつによき十日間であった。

夜十時をすぎて、GDIAのメンバーたちが打ち上げから帰ってきた。どこで遊んできたのか。でもこうして力をあわせて働いて、ひとつの社会的に大きな意義のある仕事を成し遂げて、みながその達成感と充実感を胸にどこかで楽しんできてくれていたら、それだけで私はもう何もいらないと思えるのである。彼らは、私にとっての幸せをもつくってくれている。

GDIAメンバーがすごいところ――打ち上げから帰ってきて夜十時をまわって、なおトラクターを運転して、2キロ先にある川水を取りに行ったこと。1時間かけて水を汲み上げ、それを浄水装置に運んでポリグルで攪拌して、濾過槽に通すまでをこれからやるのである。朝になれば新しい浄水ができている。その水をまた村人に配給するためである。

インドウダサ村の一日


12月24日
 ようやく風邪の症状が収まってきた。下が収まり、上も鼻水がとまってしつこい咳が残るばかりになった。

 朝6時すぎに部屋を出ると、吹きさらしの軒(のき)下に出る。その一角に木枠のベッドがあって、ラケシュの姉のマーヤや他の婦人たちが寝ている。

 軒下の向かい側にある、建設途中の離れでは、ラケシュたちの父親がいちはやく起きだして、やせ細った手で火を起こしている。インドの冬の朝は寒い。赤い火が起こるのを見守るのはなぜかそれだけであたたまる気がする。

 あちこちでスズメとニワトリの声が上がりはじめる。朝7時にもなれば近所の家もほとんど目を覚ます。

 水の入った小さなツボをもって、村人たちがお散歩。どこに行くかといえば、外の野原。ここで朝一番の“用を足す”のである。ところどころ潅木(かんぼく)の合間にしゃがみこんでいる姿が見られる。古い世代の人は、ひとが通る道にてそのまま用を足している。朝7時から7時半くらいがラッシュ。道を歩くと新鮮なのがそこかしこに落ちている。

 そのあとの定番は歯磨き。インド人は食後に磨かずに、朝に磨く。そしてチャイを飲んだり、おしゃべりしたり、新聞を読んだり。

 屋根の上にあがると、村の家々の様子がよくみえる。インドの家はセメント、レンガ、石でできた直方体のつくり。そのてっぺんが屋根にあたる。家族そろってその屋根の上にベッドを置いて寝ている家がある。おばあさんも、夫婦も、その子供たちもみな一緒に寝起きする。そういう家が見渡すだけでいくつも見つかる。

 牛飼いたちは放牧するため牛をひきいて出かけていく。半日のあいだ、草のあるところを回って帰ってくる。大通りを車で走ると、牛の行列の横断・縦断に出くわすことがよくある。クラクションを鳴らしても、どくでも急ぐでもなく、マイペースで車道を歩きつづける。こういうときは待つほかない。

 朝8時をすぎると、ラケシュ宅向かいにある幼稚園に子供たちが送迎バスで続々とやってくる。まだ3歳半の子どもは、背負うカバンも大きく、眠そうな目をこすりながら、おぼつかない足取りで幼稚園に入っていく。そうかと思えば、もう元気全開で走り回り、笑い合っている子供たちもいる。私が拠点にしているラケシュの家の前は、にわかに運動場になる。

 朝8時半には、われらの水プロジェクトチームが始動する。2キロ離れた川からトラクターを使って2トン分の水を運び、それをポリグル浄化剤で攪拌して、濾過してきれいになった水を、20リットルボトルに詰めていく。詰め終わったらバンにのせて、朝の配達に出かける。今朝は配達の様子を小田会長ご自身が見守った。

 昼をすぎると幼稚園は終わり、子供たちは小さなバスに満載になってそれぞれの家へと帰る。

 近所の家の飼い犬サンディがひょっこらひょっこらと近づいてきた。村の犬はたいていは放し飼いである。気ままに別の家に遊びに行って、子どもと戯れていたりする。サンディも他の家の牛と一緒にいたり、子どもたちにくっついて駄菓子屋まで出かけたりと、村の生活をエンジョイしている(たぶん子守のつもりなんだろう)。

 サンディは私の足にほっぺをぺったりとくっつけてじっとしている。私がくすぐってやるのが嬉しいらしく、こうしてよく歩いてくる。

 昼間、婦人たちは洗濯したり、小麦やコメのふるいわけをしたりと、家事にせわしく動いている。ただ近所の婦人たちと地べたに座って一緒にやっているのでおしゃべりしながらである。

 緑のオウムが、エサくれエサくれと金属の小さなタライを重ねてカチンカチンと合奏しはじめる。このオウムは、私がパンをもって近づくと口を開けてみせるのに、手ぶらだとオツムをこっちに向けて威嚇のポーズをとるかわいくない鳥である。

 向かい側に14歳の小太りの少年がいる。その少年の家に、白い巨体のニワトリがいる。この鳥がけっこうな悪人で、昼間にこっそりラケシュの家に侵入してくる。そしてたらいに盛られた小麦や米をこっそりとついばみはじめる。婦人が「ソォ、ソォ!」(行け、行け)と叫ぶと、「ちっ、みつかったか」と重たい足取りで出て行く。で、またまもなくして音もなくやってくる。入ってきてはいけないということがわかって入ってくる確信犯である。

 牛もたくさんいる。頭突きしあいながら餌をむさぼる様子を見ていたら、堪忍袋の緒が切れた方が他方に突進した。牛の巨体が宙にふっとんだ。一見おだやかそうに見える牛だが、性格はとても人間的らしい。

 ねずみくんも元気である。部屋にいると足の上をちょろっと横ぎることがある。そのねずみをねらってか、猫が屋根裏に音もなく登っていくのをよくみかける。

 すずめたちは、ラケシュの家の木を寝床にしていて、一日中かしましい。朝のクッキーをまいておくと遠くから見つけて飛んでくる。最近はなれたのか、足もとのすぐそばまでやってくる。

 夕方は、通りに椅子を出して婦人たちがおしゃべりに興じ、少年少女たちは好き好きにあそび始める。

 夜は夜で婦人たちが集まって農作業のつづきをやったり、近所や遠方から知人が訪れてきたりと、とにかく一日中賑やかである。そしていつも笑い声が響いている。何がおかしいのかわからない。でも近所のひとのことや、今日よその場所であったできごとなどを話しながらケラケラと婦人たちが笑い合っている様子なのである。私がマラティ語をひとことふたこと話してみると、それも笑いのタネになる。

 これは奇妙なことなのかもしれない――というのは、この家の近辺に「苦悩の表情」はないのである。みな自然に生きている。とても楽しそうに。

 今日一番の笑いは、ラケシュの家の軒下でパソコン作業をしていた私のところに4歳くらいの女の子がわーと悲鳴をあげながら駆け込んできた。そのあとを追いかけて入ってきたのが、あの悪人ニワトリであった。まあなんともふてぶてしい顔(幼子を泣かせていると自覚している顔である)。

 私が「ソォ、ソォ!」(ゴホゴホ)と声をあげると、ニワトリはのそのそと、「言われちまったらしようがねえな」というような表情で、ず慣れた足取りできびすを返して門を出ていった。その門の外で事態をのぞき見ていた3人の子どもが大きな声で笑った。で子どもらは一目散に他の家に走っていって婦人たちになにやら報告した様子(バンテジー、ソォソォだって、みたいな話だと聞こえてくる)。婦人たちの大笑いが聞こえた。「ソォ、ソォ」と繰り返して笑っている。

 笑いってそんなに簡単なものなんだねえ。

インドでヨレヨレ現場監督PART2

1月21日 
ほとんど動きは“ハイシニア”である。風邪と称しうる症状はすべて起きていると言っていいかも(梅干がゆが食べたいよ~)。

今日は地下水の汲み上げ工事を敢行。

2日前に、隣の町から「ババジー(掘り当て師?)」と呼ばれる老人がやってきた。どこを掘れば地下水を当てられるか預言することを職業としている人。

長い白ひげをたくわえ、黄色のターバンを巻き、目にはいささか人間離れした妖しい光が……それはない。

彼にどこに穴を掘るか当ててもらうのだという(インドの村では恒例らしい^□^;)。

老人、何をするのかと思ったら、手のひらに収まるくらいの黒い円盤(黒のオレオ?みたいなのがあるでしょ、クッキーの。あんなの)を火であぶりだした。白い煙が上がると、その円盤を掌におさめて、ゆらゆら揺らしつつ、ブツブツいいながら、広い敷地のあちこちをうつむきながら歩き始めた。

その後ろを、ラケシュほか村人たちがおごそかな面持ちでついて歩く。

老人が、ある地点でぴたと立ち止まる。そこで神の啓示を受けたかのようにうやうやしくしゃがみこむ。そして確信のこもった表情で私たちを見上げて言うのである。

「ここを掘るがよい、80フィートも掘れば、地下水があふれでてくるであろう」(ラケシュの通訳)

さて、、、、どーすんの? 言われたとおり掘るか?

老人の成功確率は?と村人に聞くと、「フィフティフィフティ」(半々)だという。それって、当たってないんじゃないの?

広大な土地の一点を当てるのって難しい。

私は妙なカンが働くときがあって、たとえばひとを探しに未知の場所にいくと、空の方角が「こっちだよ」と示してくれているときがある(どう見えるかはいわないでおきます)。そっちにためらいなく歩いていくと、ほんとにその人の家があったりする(目の当たりにした人が教室にいたでしょう?)。

昔は1万人に1人という旅行クーポンが当たったりとか、もっと遡れば小学3年のときに当たりくじつきアイスを13回連続で当てたりと、けっこうクジ運が強かったところがある。

そのカンがはたらかないものかなあと大地を見渡してみたが、まったくピンと来ない(風邪さえひいていなければあるいは・・・と思ったり)。

こーゆーときに“スーパーアイ”なるものがあればなあ、と夢想したり(機内で映画マン・オブ・スチールを見ちゃった単純な影響)。

結局、現地の連中と話し合って、ちがう一角を選んだ。緑がそこだけ生えている。でも、彼らが掘り出したとき、(ちがうなあ)という感じがあった。

掘る場所に、ロウソクと線香を立てて、花びらとかお香とかをはらはらとまいて、みなでお経をとなえる。これもインドの慣習である。

で、その場所に、巨大な掘削機を乗せたダンプがガランガランと音を響かせて後ろ向きに入ってくる。

で、ドリル開始。油圧で動くのだが、つまっているのか何なのか、恐竜の叫び声みたいな超バカでかい高音を弾かせる。で黒煙をもうもうと吹き上げる。

こんなにもドでかいダンプからこれほどの巨音を真上で発されると、さすがに身の危険を感じるほどである。

トランスフォーマーが本物だったり、エヴァンゲリオンの実物が間近で例の雄叫びをあげたらかなりコワイぞ、と妄想したり(やっぱり風邪を引いてます)。

直径20センチ、全長3mくらいの金属の筒を地中にドリルしながら埋めていく。地中の土がごりごりと出てくる。そのうち土が灰白質の粉になる。

350フィート(550メートル?)も掘ったか。で、結果は・・・・

水は出てこず。一滴も……。

おお神よ――(風邪のせいです)。

残念である。当たれば、水が豪快に吹き出してくるのだそうだ。

ドリル工事はけっこうな額がかかるので、いちかばちかの賭けにでる村人は多くない。

今回は、ウダサの村人が水不足で苦しんでいるので(ほんとに水がない)、なんとか生活をラクにしてあげたいという小田会長のご厚意によって実現できた。

当たれば、村人に大いにプラスになったのだが、、、。

しかし、この地は水が乏しい。川の水さえ乾季にはひとつきくらい干上がってしまう。

問題山積みである。
この水プロジェクトがうまくいきますように――。


インドでヨレヨレ現場監督

 こんにちは、草薙龍瞬です。

今はもちろんインド・マハーラシュトラ州のウダサ村にいます。

12月14日の打ち上げワークショップは、昨年と並んであたたたく楽しい雰囲気でよかったと思います。ぜひ恒例にしたいものです。

出発前は怒涛の忙しさで(講座がいくつも重なって)、連日睡眠2、3時間の強行スケジュールでした。

で、結局、ちから尽き(?)、季刊誌12月号を印刷している途中で、成田に向かったのでした。

朝方3時間ほど横になったので、その妥協さえなければ……と悔やまれるところであります(笑)。

季刊誌12月号は、ぜひみなさんにお届けしたかった。それくらい今回も内容充実の面白いものになりました。

(漫画を描くのにかなり手こずり、いいとこまで描けたと思ったら原因不明のパソコンクラッシュがあったり、とスイスイとはなかなかいかず。)

あの季刊誌は、ダイレクトな「手紙」なのです。

毎回、どういう心をこめるか、というのを、かなりつぶさに細かく見つめて書いています。

ただあたりさわりのない励ましになってもいけないし(それでは当たり前すぎて心に届かない)、
的をつきすぎて落ちこんでもらってもいけない。

いい具合に、正しい理解を期待しながら、愛情をこめて書かないと、と思っています。

こういう世界(仏教とか宗教に分類されるもの)は、言葉もカタチも、つくることに上手な人たち、大きくすることに躍起な人たちがたくさんいるようだけど、

結局、ひととひとをつなぐパーソナルなやりとりがどれだけできるか、それに尽きると思います。

そのやりとりの一端をになうのは、この命。だからこの命が、クリアな意識と愛情・はげましをもって、言葉を発しなくちゃいけない。それが生命線。

季刊誌12月号は、1月中旬にお届けします。読みながらもう一度年の瀬を味わって、2月中旬に届く予定の1・2月合併号で、今一度新年を味わってください(笑)。

睡眠不足でインドに来て、風邪を引いてしまいました。ヨレヨレになりつつ現場監督やってます。

みなさん、よき年の瀬を。

なぜ歩きつづけるのか (仏教でクリスマス前夜祭)

12月14日
忘年会シーズンらしく、神楽坂は酔客でいっぱいだった。

赤い顔して、大声で叫んで、笑って――通り抜けるだけで、こちらも楽しくなれる。
お酒は飲まなくても、彼らの明るい酔いは伝わってくる。

今日の仏教の学校のラストで一番よかったのは、参加者全員が最後に「合掌」して終わったこと。

たとえば人が目の前でお辞儀をしたときに、自分はお辞儀をしないという作法はありうるだろうか。

形を強いるという意味はまったくなく。

ただ、相手への礼節、作法として柔軟に応えることができるか、という点で、合掌できるかどうかはけっこう重要な意味をもつ。

インドでチベット僧院を見学したとき、ラマ(チベット密教の僧侶)が寺院内のひとつひとつのモニュメント(仏壇とか曼荼羅とか)に、恭しく額をつけるのを目の当たりにした。

案内してもらっていた私も、それにならって額(ぬか)づいた。

これは信仰に従うか否かといった次元の話ではなく、相手への礼節である。

こういう礼節をさりげなく果たせるかどうかで、そのひとの成熟度が見えるような気がする。

今日、教室で伝えたのは、たとえばこういう礼節を保てることが基本であって、基本を外したところでいくら知識を積み重ねても、それは心の成長には役に立たないということ。

それを受けて、みな礼節を示してくれたのである。美しいと感じた。

今日のテーマは、「悟り」。仏教がふくむ無常・無我・空・涅槃・解脱といった、一聞アヤシイ言葉も、合理的な意味を持っている。その中味を伝えることがテーマ。

以前、あぐらをかいたまま床上にとびはねて、「自分は解脱者だ」とのたまった愚かな生き物がいた。ほかに、自分自身が、何か特別な境地にたどりついているかのような、あるいは悟りに通じているかのような、ふるまいや言葉を発している生き物もまた、世の中にはたくさんいる。それを信じてしまう人間も。

こうした者たちは、欲と妄想から抜けたことがない。だから言葉だけで語った気分になれるのであり、また言葉だけで信じてしまえるのだと私は理解する。

真実・真理というものをきわめるのは、けっして得意になるようなものではない。
むしろ深い孤独を引き受けるということなのだと私は感じている。

ブッダがひとつの境地に達したときに抱いた感想が、「寂しさ」だったという話をした(原始仏典にある)。

他にも、中道とか、道を生きることとか、大きなテーマが今回は続出した。

今日は、何かを知った、分かった、と思うのではなく(もとより、理解しようがないはず)、

むしろひとつの真実にたどりつくこと、道に立つこと、歩きつづけることの、尊さ、厳しさ、むずかしさというものを感じ取ってもらえたら、と願った。

どんな道もラクではない。簡単に答え・救いが得られるだろうなどと期待するほうが、おかしい。

むしろ、ハラをすえること。十年でも二十年でも、「やらねばならないからやる」、という不動の覚悟に立つこと。そのときはじめて、ホンモノの道・人生が始まる。そういうものだと思っている。

なぜ仏教講座を続けるのか。そういう話にもなった。

「やりがいを発揮できるからでは?」という指摘も。なるほど。

だが、じつは、そういう動機ではやっていない。

私は仏者――ブッダの教えに基づいて生きる者――であるから、
世の中にあるひとびとの苦しみ(求めるこころ)をまずは想う。

もしこの世の中に、何らかの答え、救い、解決、克服、納得、前に進むきっかけ、などを求めている人がいるのなら、

ひとつの方法がある、ということ、その可能性があることを、形として示さなければいけない、と考えている。可能性に向かってふみだすことがすべてなのだ、といっていいかもしれない。

これからこの場所に何人のひとが来るかは、本質ではなく。
大きくなろうと、小さくなろうと、それは本質ではなく。

ただ、ここにひとつの道があるのだということ。この部屋の扉だけは外に開いておかなくてはいけない。

たとえ一人でもくる人がいるならば、開けておかなくちゃいけないし、

たとえくる人が一人もいなくても、それでもまったく変わらない気持ちで扉を開けておく必要がある。

最も大切なのは、「今どのような心でここに立っているか」、その一点のはずであるから。

だから、この命は、命つづくかぎり、仏教に基づく生きかた――仏道――を伝えつづける。

それが出家の覚悟である。

孤独を感じないか? そういう話にもなった。

というより、ひとはみな、心はすべて――孤独なのである。

孤独であることを理解したとき、孤独そのものを見尽くしたときに、孤独は消える。
ひとといても、独りでいても、同じ心のままでいるようになる。

私はしあわせである。
孤独のゆきつくところと、愛情とは、似ているように思う。



☆12月14日、いよいよ仏教の学校2013フィナーレです。東麻布にて。

いよいよファイナルウィークに突入!

こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ、仏教の学校も、2013年ファイナルウィークを迎えました。今週土曜日できっかり終わりです。翌日にはインドに行ってまいります。

来週には季刊誌<興道の里>の12月号が届くと思います。
まだ見本誌をもらってない人は、まだ間に合いますので、お名前とご住所をお知らせくださいね。

さて、あさって水曜からの土曜までの講座が、年間最終講座となります。

仏教の学校(冬①水曜クラス) さとり ~ 仏教がおしえる人生の最終ゴールとは?
12月 11日 (水), 19:00 ~ 21:00
東麻布 ※場所はスケジュールをご覧下さい。

仏教の学校水曜クラスの年内最終回の講座です。テーマはずばり「さとり」。

悟りとか、涅槃(ねはん)とか、解脱とか、アヤシイ言葉がいっぱいでてきます。
きっと知らない人が聞いたら、ヘンなことやってるなあ・・・と思うことでしょう(笑)。

まあでも、仏教を学ぶと必ずといっていいほど、こういう言葉は出てくるので、このへんで、実際にはどういう意味なのか、はっきりさせておくのはよいことだと思います。

私が見聞するかぎり、悟りやら涅槃やら解脱やらという言葉には、人間の妄想がたっぷりこびりついていて、もともとの姿を正確に描写していないと思っています。
正しい修行をすれば体験できる、ひとつの心境(精神状態)なんだと思ってもらえればよいと思うのですが、、、。

一年通ってきた人には総まとめとして。はじめての人には、仏教の最終ゴールを確認するいいきっかけになるとおもいます。ぜひご参加ください。

そして、12月14日(土)は、年納めスペシャルとして、午後と夜間の2コマやります。
2013年総集編1 <仏教のきほん>総まとめ (仏教のすべてがわかる超おトクな講座)
12月 14日 (土), 16:00 ~ 18:00 東麻布 ※場所はスケジュールをご覧下さい。

①自分でふりかえる今年のプライベート十大ニュース、②「仏教のきほん」総まとめ~一年の講座をふりかえって発見・学んだことをシェア。③歳末御礼~草薙龍瞬のミニ仏教講座、④なんでもQ&A(フリートーク)

ざっくばらんなフリートーク形式でやりたいと思います。ちょっと早いですがクリスマス気分でお越しください(仏教ですけど)。

2013年総集編2 マイテーマ(わたしの課題・宿題)を仏教で考える (仏教の学校2013年打ち上げ講座PART2:夜の部)
12月 14日 (土), 18:30 ~ 21:00
東麻布 ※場所はスケジュールをご覧下さい。

みなさんから寄せられた「マイテーマ(わたしの人生の課題・宿題)」を仏教で考えるとどうなるか? 
参加者の意見を寄せ合います。かなりユニークな心理学的ストーリーについて、どう考えるかをグループで語り合うコーナーも。
クリスマス前夜祭として、楽しくあたたかくやりたいと思います。


★一年をふりかえって思うことは、季刊誌12月号にまとめたいと思います。(今月号も充実の文章&マンガが満載です^^)

みなよくがんばって生活されてますね。

生きているというのは、それだけで誰かへの貢献になっているのだとつくづく思います。
みなさんが来てくれるから、この里の講義も充実してきたのであって、、そこは本当に感謝したいと思います。

もちろん、、、いうまでもなく、この場所は道(生きかた)を学びあう場所です。

だから、ひとつお伝えするとね、最近よく思うところですが、多くのひとが「焦りすぎ」です(^^;)。

焦らせているのは、これまでの自分自身だと思ってもらってよいです。

まったく新しい生きかた・学びをしようとしているのに、どうして過去の自分に判断させようとするのかな?

その判断が正しい約束はどこにあるのでしょう?

たいていは、これまで何度も繰り返してきた、同じ欲(願望)と、妄想とで、てっとり早く、これまでの自分を納得させてくれる答えをみつけようとしていませんか?

でも、それはありえない。これまでの自分に答えを出させてはダメです(笑)。

新しい学びに、自分に都合のよい妄想をもちこんではだめ。

ハラをすえて、「これは自分にとって本当に必要なことだから、これから時間をかけて、やり通すんだ」という決意をかためてはいかがだろう。

仏教のことばかりじゃなくて。今取り組んでいる仕事とか、人間関係とか、趣味とか、習い事とか、すべてのことについて。

子供たちの方が、まだ新しい学びが上手なように思います。子供たちはあれこれと先を考えたりしないからね。

「早く、早く」とか、「何年・何ヶ月でここまで」といった、はからい・分別を捨てることから、本当の学び、つまり本当の人生は始まるのだと思います。
そうしたはからいこそが、執着が生み出す妄想なのだから。

そういう発想からは、あまりいい結末はでてきません。ふりかえって、それでうまくいきましたか?

やらねばならないことは、やらねばならない。
その覚悟をきめてみては?

焦りが微塵も生まれない心境が、ホンモノです。
ハラをすえましょう。