仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

年越し4コマ漫画のおすそわけ♪

2014年(仏歴2558年)も今日一日……

振り返れば、いいこともたくさんあったんじゃないかな。そう思いたいものですね^^。

季刊誌『興道の里』に連載中のマンガのおすそわけです。

みなさん、よいお年を。2015年も、あなたにいいことたくさんありますように……。


クリスマスは「仏教の言葉セレクション」 

12月22日
来年のインドツアー、準備はちゃくちゃくと進んでいます。
将来的には、だれか里の会の人が添乗員になって、日本からみなを連れて来てもらって、
それまで私はナグプールかブッダガヤで活動している、といった形になればいいと思っています。

今回は、インドツアーの第一弾。徐々に態勢をととのえていって、日本人が「仏教の本質」にめざめるきっかけとして育てていきたいと思います。

日本人がまず、ブッダの教えの本質を知ること。そして世界の現実を知ることが必要だと思っています。

そして日本という、世界でも稀有な、めぐまれた環境のなかで、仏教というひとつの純粋な思想を、世界に発信していく活動をしていく。そういう方向性を私は見ています。

●ブッダの教えの「本質」というのは、テーラワーダ仏教圏にも、中国・日本・ベトナム等を含む大乗仏教圏にも、じつはありません。

どの土地・国にも、すでに確立された伝統仏教(エスタブリッシュメント)というのがあって、それにそぐわない説を広めようとすれば、異端として排除されてしまうのです。

でも、どの仏教国においても、伝統仏教がほんとうに現地の人々を幸せにしているかというと、やはり疑問符がつく部分がたくさんあります。貧困、差別、非合理に満ちた現実……を追認することをうながす、後世に改ざんされた思想がけっこう混じっているのです。

ほんとは、伝統仏教に組み込まれた非合理を捨てて、今の時代、世界全体に向けて、宗教という色が抜けた、もっと普遍的で中立的な「幸福への方法」というものを発信しないといけないのです。

必要とされているのは、伝統的な、宗教としての仏教ではない。「幸福への方法」です。

その方法として、ではどんな思想がこの世にあるかな?と探したときに見えてくるのが、ブッダの教えなのです。

ブッダの教えに、「確かめようのない」説は存在しません。原始の、最も古いブッダの言葉からは、日本や南方アジア圏に伝わる伝統仏教が説く思想(たとえば輪廻)、儀礼や物語はみごとに削ぎ落とされています。

ブッダが語っているのは、心を浄化し、求めるがゆえの心の渇きを静める方法。努力の大切さ。慈しむことの尊さ。

とてもシンプルにして、だからこそ真理といいうる普遍性を持っている。これは「幸福への方法」であって、宗教ではありません。だからこそ、今の時代・世界にとって役に立つ可能性がある。

これからの時代に、もし仏教を学ぶ人たち、そして仏教を語る僧侶方がめざさねばならない方向性があるとしたら、それは、

このような中立的な「幸福への方法」として、仏教の最も純粋な「本質部分」を世界に発信することだと、私は考えます。

今はまだ離陸前の段階です。でも、日本でも、インドでも、着実に、この方向性に向っての芽――可能性――は育まれつつあります。

これから、ますます創造的で意義のある活動ができそうです。ご同行いただければ幸いです。

****

23日、27日の講座は、「仏教でクリスマス♪ 仏教の言葉セレクション」。さまざまな仏教書の一節を引いて、感想を語り合います。
「クリスマス」と銘打ってはいますが、ケーキもシャンパンも出ません(笑)。地味~~にやります。

PART1は「仏教の迷言」の部類。

前回20日に参加したある方は、「こういうカジュアルな文章のほうが読みやすいのでしょう」と言っておられました。

「カジュアル」――これはグッドな形容詞ですね(笑)。

ただ、カジュアルに気軽に読めても、「ブッダの教え」は一滴も出てこない――そういう言葉が前回けっこうありました。

こういう言葉をどう受け止めればいいか? 私たちは今後仏教をどう学んでいけばいいか?というのがテーマです。

PART2は、「名言」の部類。

PART1の言葉と対比するとくっきりと浮かび上がってくるのですが、やっぱり「名言」として挙がるのは、「原始仏典」に残るブッダの言葉です。

じつに洗練されていて、本質をきっちり伝えています。「よくこれだけ長い期間、オリジナルの言葉を温存できたと思います」と前回感想を述べた方がおられましたが、ほんとそうだと思います。

そのブッダの言葉を正確に訳しているのが、やっぱり中村元先生の言葉です。

正直にいって、日本で活動する僧侶も長老・比丘方も(もちろん私自身も)、中村元先生の知的遺産のうえに乗っかっているようなものです。

どの僧侶方の言葉も、中村元氏が訳した「ブッダの言葉」を超えてはいない。というか、自戒もこめて言いますが、世間にあふれる多くの「仏教的」言葉は、「ブッダの言葉」を踏み外してしまった個人の見解、ただの珍説だったりします。

ブッダの言葉か、それ以外の個人的見解か――それを区別する境界線を敷いてくれたのが、中村元先生の著作だと思います。彼の業績というのは偉大です。ナモナモ(≒帰依)すべきです。

23日、27日には、原始仏典以外の仏教書の「名言」も紹介します。心あるお坊さんもたしかにおられて、その方々の言葉というのは、やはりブッダの教えを学ぶに役立つ洗練さを持っています。

日本仏教の見取り図が見えてくる、ためになる講座です。ぜひ年納めもかねていらしてください。

今回のテーマは、「ブッダが示す正しい方向性」をあらためて見すえること。

そして巷にあふれる「仏教的言葉」のいずれが「幸福への方法」として役立ち、どれがそうでないかを、きっちりと見分けるための「視点」を持つことです。

教室ではざっくばらんに意見交換ができればと思います。

興道の里がめざすスタイルは、「ブッダの教えの本質」に立脚したうえで「カジュアル」に語るというものです。

「おおらかに、励ましをもって、明るく語る」といってもいいかもしれない。精進してまいります。

みなさん、よき年の瀬を!




クリスマスの仏教講座&親鸞「あるがまま」

12月20日
いよいよ2014年もあと2週間を切りましたね。かなりの風雪に見舞われている土地もあると聞きます。御無事を祈念しております。

●1月21日から29日までの興道の里初企画のインドツアー、順調に準備進んでいます。1月明けでも間に合うと思いますので、ご希望者はご連絡くださいね。

●今日20日と23日の午後6時からは、2014年総集編もかねての仏教講座です。クリスマスにちなんでちょっと趣向を変えます(ワークショップか映像か)。27日に先駆けて、仏教の言葉セレクションもやる予定です。

●前回のメール通信のあと、「アミダブツ」というものに違うイメージを持っていたが、ちょっと理解のしかたが変わったとおっしゃって下さった方がけっこういました。

日本(大乗)仏教はブッダ本来の教えから離れてしまっている、と感じている人は多いみたい。ですが、

今の日本人が知っている日本仏教というのは、かんちがいした坊さんたちが適当に説いているものでしかありません。これは坊さんのみならず、仏教学者とか仏教作家などが語る内容についても、同じことがいえます。

かんちがいした人たちの言葉を聞いて、わからない、難しい、役に立たない、という印象を持っている。つまり、学んでいるこちら側もかんちがいしているのです。

「勉強」にもスジのよい学び方と、スジの悪い学び方とがありますよね。学び方にセンスがないと、いつまでも勉強はわからないまま。

伸びるか伸びないかは、使う本や、学ぶ先生などによって決まります。
仏教もきっと似たところがあります。

ちなみに日本人は、学ぶセンスというのがあまりないのかもしれません(笑)。学校の勉強。英語。そして仏教――本筋から離れた教科書・参考書や先生にまじめにつきあって、「わからない」「キライ」と言っているような……そんな感じがしませんか。

やり方、変えてみればいいのに――?

「本質」は、テーラワーダであれ大乗であれ、けっこう共通しています。表現、見る角度がちがうだけ。

むしろきちんと共通する部分=本質がみえるように、伝える側は伝え、学ぶ側は学ぶ、という、そういうちょっとした工夫(智慧)が必要なのでしょう。

「共通する部分」がみえてくると、もう一つ不思議な思いがわいてきます――この2500年に語られた仏教の言葉というのは、案外ブッダの教えから一歩も出てない(オシャカサマの手のひらの上?)のだなあと思えてくること。

今日から教室でとりあげる、仏教の名言&珍言に触れても、そうした思いは湧いてくることでしょう。

この12月は、現代日本にあふれる仏教の言葉に触れてみましょう。
すると、日本の仏教がブッダの教えからいかに遠いか、もっと正確には、「仏教の本質からどれだけ離れているか」が見えてくると思います。

と同時に、こうした言葉に私たち現代の日本人は「どう向き合えばいいか」をも考えましょう。
「仏教の学び方」(方法)をあらためて構築しようというのが、今年最後のテーマです。

※親鸞の言葉を引用しておきます(やっぱりちょっと難しいかも。教室ではわかりやすく説明しています):

自然法爾[じねんほうに]の事(現代語訳)

  自然というのは、自はおのずからといい、行者のはからいではないこと。然とはしからしめるということばである。しからしめるというのは、行者のはからいで はなくて、如来の誓願によるのであるから、法爾という。法爾というのは、この如来の誓願であるがゆえにしからしめるのを、法爾と言うのである。法爾とは、 この御ちかいであったがゆえに、まったく行者のはからいをさしはさまずして、この法の徳のゆえにしからしめるというのである。すべてひとが、こちらからはからい【※作為・恣意・はたらきかけ:龍瞬注】を加えないのである。だから、義なきを義とする【※意味を求めないことをよしとする】と知るがよいと仰せられたのである。

 自然というのは、もともとしからしめるということばである。阿弥陀仏の御誓願は、もともと行者のはからいではなくて、南無阿弥陀仏とたのむものを迎えようと、仏のはからいたもうたものであるから、行者としては、よかろうとも、悪かろうとも思わない【※あれこれと詮索しない】のが、自然というものであるぞ、とわたしは聞いている。

  誓願のありようは、最高の仏となろうと誓われたのである。最高の仏というものは、かたちもないものであられる。かたちもあられないから、自然とはいうのである。かたちがあるときには、最高の涅槃とはいわない。かたちもないというありようを示さんがためにと、阿弥陀仏とはもうすのであると、わたしは聞きならっています。

 だから、阿弥陀仏というは、自然のありようを示さんがため【※いわば、すべての生命を育む世界の法則・摂理を表現するためである。この道理を心得たからには、もはや、この自然のことは、あれこれと思いはかるべきではないのである。――増谷文雄訳『親鸞』筑摩書房から

――阿弥陀仏とはいわば象徴・記号であって、人の姿をした像ではない。それが親鸞の理解です。

「問うな、考えるな。人間の分別が及ばぬ世界というのがある。それが“自然(じねん)”である」




お地蔵さん、似てますか?(「手放す」までの道のり)

こんにちは、草薙龍瞬です。

先週土曜の神楽坂は、「親鸞」がテーマでした。

親鸞――念仏による救済を説いた浄土真宗の開祖で、1173年生まれ。90歳まで生きた――の思想は、さまざまに語られていますが、一言でいうなら、

「仏さんがあなたを救ってくれることはもうずっと昔に決まってることなのだから、
今さらジタバタして自分で幸せになろう・救われようとあがいたりしないで、
すべてお任せなさい、身心ともに委ねてしまいなさい」
(自然法爾:じねんほうに)

ということかと思います。

何に身心を委ねるか――というところが、おそらく一番、理解するための根底になるポイント。

ゆだねる先はさまざまありうる。「因縁(つながり)」にゆだねる。「アミダブツ」にゆだねる。他の宗教なら、「神さま」にゆだねる。

自分以外のなにか大きな存在にゆだねるから、親鸞はこれを「他力」という。自分の力に頼らない、自分でなんとかしようとはしない。

伝統的には、親鸞の思想は、「自力で自分を救おう」とする一派――瞑想中心のテーラワーダ仏教とか、いろんな修行・苦行によって「さとり」をめざす他の日本仏教の宗派――とは対照的(発想がちがう)だと言われている。

だけど、「ゆだねる」「ラクになる」「手放す」という心境とはどういうものか――を、掘り下げて見つめてみると、ふたつは案外似ているのではないか、と思えてくる。

というのは、たとえば瞑想、座禅――これ、「自分の力でなんとかしよう」と遮二無二頑張っても、じつはほとんど先(心の成長)に進めない。

「心を成長させるぞ」とか「なにかひとつでも特別な体験をするぞ」という思い――親鸞的にいえば「はからい」――があるかぎり、修行はまったく進まない。

ところが、ある瞬間、弾みに、ふとなにかを手放したときに、アレ?これって……とちょっと不思議な、まったく新しい感覚に入ったりする。

なんというか、「自我」「自意識」からちょっとしたはずみで離れたときに、新しい体験をするのである。

これは、子どもが最初に自転車に乗れるようになったり、バック転ができるようになったり、という体験とちょっと似ているかもしれない。それまで知らなかった、想像もできなかった。それがふとしたきっかけで、できてしまえた!という感じ。自分でもびっくりする。

仏教の世界では「執著を手放す」とよくいう。これって、世間でいわれる意味とはちがうだろうけど、瞑想の世界でも実感できる。「手放す」という心の動きがどういうことか、わかったかも!と思えることがある。

その「わかった!」感は、それこそ言葉で説明することはできない。自分で体験してみるしかない。不立文字(ふりゅうもんじ:文字では説明できない)。教外別伝(きょうげべつでん:教えることでは伝えられない真実がある)。

ひとは、みんな「手放したい」と思っている。過去を。かなわぬ願いを。自分の性格を。たまってしまった感情を。あるいは誰かを。

でもなかなか手放せない。ひとはみな、手放したい何かをたくさん抱えていて、それをひっくるめて手放して、ラクになって、ああ心が軽い、もう安心だ、と思いたい。

ただ実際には、手放せるひとと、結局さいごまで手放せないひととが出てくる。そのちがいはどこからくるのだろう?

手放す体験をするルート――道・なりゆき――というのは、いくつか挙げることができる。特殊なところからいえば、信仰。瞑想。親鸞が言う「他力本願」、アミダブツの慈悲にすがって「おまかせ」すること。

そこまで特殊でなくても、ちょっとしたきっかけで手放せることもあるかもしれない。旅。新しいひととの出会い。新しい仕事・環境……。

ひとによっては、「苦しみのどん底」で、ああもう生きていけない……と絶望したときに手放せるということだってあるだろう。

きっかけはさまざま。でも境地は共通だ――

手放す。自由になる。ラクになる。過去を忘れてしまう。自分が何にしがみついていたのかさえ、忘れてしまう。新生する。

そんな瞬間にたどりつくまでの道のりには、「ひとつの共通項」があるように思う。

それは、「手放したい(手放さなきゃ)」という思いが心の底にずっとあることだ。

手放したい。自由になりたい。安心(あんじん)したい。と思っていること。

そういうひとから、ふとしたきっかけで、ほんとにそういう世界に入っていける。(しがみついてる人は、たぶんずっとそのまま行く。)

結局は、あきらめないこと。求めつづけることなんだと思う。

親鸞の場合は、9歳で比叡山に入って、「20年」も激しく修行しつづけて、ようやく「限界」を感じて、「アミダブツにおまかせ」という新しい信仰に入っていった。20年である。

恐縮ながら自分ごとを引かせてもらえば、「自力」頼みの格闘のはてに、ようやく自分そのものを手放そう(手放さないともう生きていけない)と私自身が覚悟を決めるまで、30年以上費やしている。

ほんとの救い、安心(あんじん)、安らぎ、そして自分の人生への「深い納得」が得られるようになるには、やっぱり歳月の積み重ねが必要なのだと思う。

積みに積んで、重ねに重ねて、ようやく見えてくるものというのがある。

私は仏教の道に入ってそろそろ十年だけど、やっぱり今だに新しい発見というか、「いっそう深い真理」にたどり着いた、というか掘り当てたような思いを持つことがある。それは今も続いている。というか、それが「増えてきている」ような気さえする。

なぜ増えているかと言えば、それはやはり仏教を学びつづけているから。日本に帰って来た4年前は、日本仏教のことはほとんど知らなかった。その後学びつづけて、さまざまな日本の仏教者の思想に触れていくうちに、どんどん新しい理解がみえてくる。見えてきている。

発見とか、救い、といったものはそういうものだと思う――今はまだ見えてない。でも続けていけば、いつか見えてくる。そして、その瞬間は、ほんと不意におとずれる。

1年、2年なにかをやったからといって、その本質がみえてくるわけじゃない。

座禅も、仏教も、仕事も、人生そのものも。とにかく生きてみること。つづけていくこと。

降りなければ、きっと「安心(あんじん)」はえられる。

そのとききっと、多くの仏教者たちが語る、「手放す瞬間」「救い」の意味が、ほんとの意味でわかる。

なにかひとつ、求めつづけること。実践しつづけること。それを「生きつづける」こと。
そうすれば、なにかが生まれる。

そのとき、そのひとはちがう人間になれる。

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お知らせ
★インドツアー2015、ご希望される方には資料をお送りしました。「遠足みたいで楽しくなってきた♪」というお声をいただいています。私も楽しくなってきました^^。
年内にビザ申請まで行ければ十分間に合うので、今からでも参加可能です。まずはメールで連絡ください。

★山形のお友だち(里びとさん)からお写真をいただきました。龍瞬に似ているお地蔵さんだそうです。似てるでしょうか。おすそわけとしてお届けします。

★12月20日、23日は「クリスマスに仏教で『愛』を考える」。27日は「仏教ベストセラーの名言セレクション」。28日の坐禅会でシメです。

よき年の瀬を――

笑っちゃった・・・












坐禅・ヴィパッサナーQ&A 「ヨコになる瞑想」ってありですか?

質問
 サマネンのおすそ分けありがとうございます。只今、布団の中から失礼しております。と言いますのは、先月末頃、30kgの米袋を担いだ時、腰というか背中にグキッ!と嫌な痛みを感じました。いわゆるぎっくり腰だと思って数日で回復するとタカをくくっていたら、痛みが取れず整形外科でレントゲンを撮りました。結果、脊椎の一つが変形して潰れているとのことでした。ショックでした。でも昨日、少し痛みが和らいだので結跏趺坐で瞑想したのですが翌朝、脈打つ背骨の痛みに見舞われました。結構、この姿勢は背骨に圧力掛かるのでしょうか?
 そこで質問ですが、横になりながらの瞑想は可能でしょうか? 方法や注意点が有りましたら教えて頂きたいと思います。それと脈打つ痛みに対して痛み痛みとラベリングする事は有効でしょうか? ご指導よろしくお願いいたします。
おすそわけ
回答
 まずは同情申し上げます。「30キロの米袋」、担ぐのはもうやめましょう(笑)。あなたも私もトシを重ねているのですから(笑)。

●3つご質問がありますね。ひとつめの「結跏趺坐」(両足の甲を反対側の太ももに載せる、かなりタイトな座り方)ですが、サティ(気づき)を向上させるという禅・ヴィパッサナーの最初の目的にてらせば、必然的な理由はありません。中には「結跏趺坐じゃないと坐禅をやった気がしない」とか「あの苦痛がないと物足りない」という方がおられますが、前者はカタチにとらわれて本質から離れた見解、後者は坐禅に抑制(苦行)的効果を求めてしまっている(私が知るかぎりでは、あまりに落ち着きがない)人の感想のような気がいたします。

 ここは多くの人が勘違いしているところなのではっきり伝えておきたいと思いますが、サティというのは「意識続くかぎり継続してやる」のが基本です(八正道にいう正精進とは「継続」のこと)。だから、ご飯を食べていても、歩いていても、トイレに入っていても、つねに気づき続けることが基本。座っている間だけ努めて済むものではないのです。とにかく継続してサティを入れる(働かせる)ことが基本なのですから、「結跏趺坐して座り込む」という発想に合理的理由はないのです。だから好きに座ってください。というか、座らなくてもいいから、とにかく気づきを保つ訓練を積んでください。「座る」は、長時間気づきを働かせるための方便(まさにカタチ)でしかありません。

 なお座るときのカタチについては、「自分の骨格に聞く」というのが一番だろうと思います。結跏趺坐で難なく座れる人はそれでいい。でも半跏趺坐であっても、あぐらであっても、あるいはイスであってもよいのです。自分にとって一番長時間座れる形で座ること。正念(気づき)、正定(集中)、正精進(継続)の三つを自分が最も満たせる形で座ればよいということになります。

 付言しておくと、多少カラダが痛くなっても「ガマンして動かない」ことは大事です。多くの人は簡単に動きすぎです。苦痛でも、退屈でも、とにかくその不快に耐えてじっとしていること。不思議なのですが、安易な反応を止めると、意識は別の、ふだんの肉体の感覚とは違うところに向かうのです。「禅定」と呼ばれる状態に入るのは、たいてい苦痛に耐えた後です。

●二つ目の質問ですが、横になってのサティ・瞑想は可能です。禅であれば「行住坐臥」と言いますね。あの「臥」が伏している状態、つまり横になっている状態です。ヴィパッサナーでも「横になる瞑想」はあります。結局、気づきを働かせていればどんな姿勢でもよいのです。

 ただこの姿勢では、…… ※続きは季刊誌12月号でお届けします。


★12月20日、23日夜のテーマは、「クリスマスに仏教で『愛』を考える」です。タメになる仏教の言葉のオンパレード。ぜひご一緒下さい。

★インドツアー2015、年内までなら受付可能です。希望者はメールにてご連絡くださいね。


よき年の瀬となりますように――

ジュンク堂『書標(ほんのしるべ)』今月号に著書紹介

こんにちは、草薙龍瞬です。
いよいよ師走突入ですね。

一年の終わりをこうして意識したときにきまって出てくるのが、「なんて時間が経つのが速いんだ! 一年てあっという間!」というもの。

これ、時間の終わりを意識すると、心が「その先」ではなく「これまで」に向かうからかもしれない。

で、考える。「わたし、なにしてたんだろう?」

これ、人生の終わりにも同じように思うんだろうな……とふと思いました(笑)。

そのとき、納得いく理由を見つけておきたいものですね。
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★お知らせ

『独学でも東大に行けた超合理的勉強法』サンマーク出版の「著書紹介」が、全国ジュンク堂で配られる『書標(ほんのしるべ)』今月号に載っています。

もちろん著者である私自身が文章を書き下ろしました。

タイトルは「中学中退のヒネクレ者が夢中で勉強して東大に合格した“もうひとつの”勉強法」。

今回の本は、「もっと上へ」「もっとスマートに」という実利一辺倒の今の時代に、「もっと夢のある学び方(生き方)」ってないものかな?という思い、そして学ぶことに夢や希望をもってがんばっている人たちへのエールとして書かせていただきました。

今回の本に託した本心(メッセージ)が伝わるといいけど――ぜひ伝わってほしい。

今回の文章は、ある意味もっとも自分が伝えたい思いをこめることができた気がします。ぜひ読んでください。
http://www.junkudo.co.jp/user_data/hon/pdf/syohyo201412.pdf
本を買うならジュンク堂(^▽^)。画像をクリックすれば冊子をダウンロードできます
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 ★年内の仏教講座スケジュールです

12月 11日(木) 14:00 ~ 16:00
巣鴨・おとなの仏教塾~仏教のすべてとその魅力   巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り

12月 13日(土) 18:00 ~ 20:30
日本仏教のすべてがわかる講座 土曜クラス - 神楽坂・赤城生涯学習館 
テーマは浄土真宗の開祖・親鸞その他。

12月 14日(日) 18:00 ~ 20:30
夜の座禅会 - 神楽坂・赤城生涯学習館 

12月 20日(土) 18:00 ~ 21:00
★仏教でクリスマス  興道の里2014年総集編  神楽坂・赤城生涯学習館 
12月 23日(祝) 18:00 ~ 21:00 ※23日と内容は重なります。ご都合よいほうにご参加ください。
仏教でクリスマス 興道の里2014年総集編  神楽坂・赤城生涯学習館

(内容)2014年の仏教講座の総集編。この一年でとりあげた仏教の名言や講座内容、クリスマスにちなんだ映像をプロジェクターで紹介。★インドでの活動報告や、なんでも聞ける質問コーナーも。クリスマスミニプレゼントつき。

12月 25日(木) 14:00 ~ 16:00
巣鴨・おとなの仏教塾~仏教のすべてとその魅力 ★クリスマススペシャル  巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り

12月 27日(土) 18:00 ~ 20:30
年納め 仏教の名著&ベストセラーの名言セレクション  神楽坂・赤城生涯学習館 
(内容)

 数ある仏教の名著&ベストセラーから、ココロ打たれる名言や、ユーモアあふれる笑える言葉、ちょっとクビをかしげてしまう言葉などをセレクトして発表していく仏教情報満載のトークライブ。知的に楽しみながら、仏教全体の「見取り図」が見えてくる。
 仏教とはなにか?数ある仏教のことばを、日常にどう活かしていくか?――マジメな動機で、誠実に考えていきます。一年のしめくくりとして、知的で役に立つ仏教タイムをご一緒しませんか?


12月 28日(日) 18:00 ~ 21:00
年納め座禅会(2014年打ち上げスペシャル)  神楽坂・赤城生涯学習館



季刊誌『興道の里』年末特集号はクリスマス前後発送の予定です。




座禅・ヴィパッサナーQ&A 「ながら」はやってよいですか?

いよいよ師走入り。
12月の興道の里は、日本仏教編の年納め(13日)と、クリスマス会(20日、23日)、さらには仏教2014年ベストセラーに見る名言・珍言ベストテン(27日神楽坂)で大団円。座禅会も2回(14日、28日)あります。お時間あったらいらしてくださいね。
こんな質問をいただきました。
(なお私は自分のほうから言葉を発することをためらう習慣(これは戒律にあるのです。求められていないことを語るな、という)があります。だからこういう 質問を受けることは言葉を発するきっかけになるので大歓迎です。特にこの方のように、ただの妄想ではなく「実践のためのヒント」を求めての質問は、よろこんでお答えします。)
Q 座禅を実践する中で、疑問に思うことがあるので、お手数ですが教えて頂けたら嬉しいです。それは「ながら動作」の弊害についてです。
 心にとって良くない事は、妄想に囚われてしまうことだと思います。そして、それを改善するためには、呼吸なり、自分の動作や感覚に集中して行く事だと思います。
 そういった、瞑想を実践していく中で、「ながら動作」をしてしまうことは、どの程度、マイナスになる行為なのでしょうか?
 具体的には、テレビを見ながら食事をしたり、音楽を聴きながら読書をするといった行為についてなのですが、上記の2つの動作をしているときに、余計な考え事をしなければ、最悪心は疲労したりはしないと思うのですが。
「ながら動作」をすることは、普段やっている瞑想の効果を消してしまう位にマイナスな行為なのか? または、可もなく不可もなくといったレベルの行為なのでしょうか?
(もちろん、日々のなるべく多くの時間を、一つの事に集中する事を続けていった方が良いのでしょうが、先日伺った、飲酒した後の座禅同様「ながら動作」の悪影響についても教えて頂けると嬉しく思います)


A 「ながら動作」を仏教心理学で定義すれば、「反応しながら別の反応をすること」といえるでしょう。それがよいことか悪いことか。正しいことか間違っていることか。ブッダの思考法にてらせば「目的による」ということになりそうです。

 もし目的が「ただそのときどきの快楽を味わう」という、ほとんどの人が毎日「実践」していることにあるとすれば、「ながら」はその本人にとっての「快楽」を手に入れる行為だから、目的に照らして正しく、よき行いということになるのかもしれません。

 たとえば「テレビを見ながら食事をする」ことは、ときにはテレビをみてときには食べ物の味を楽しんでという状態だから、心にとっては「そのときどきの快楽 を味わう」という目的を達成できています。だから問題ないということになるでしょう。「音楽を聴きながら読書する」という作業も同じです。心にとっては快 楽の連続がある。他の刺激を求めなくても、心は反応し続けられるし(反応すること自体がひとつの快楽)、快楽もあるということでとても居心地がいい状態で す。ぬるま湯につかって熱燗を一杯、みたいな状態なのかもしれません。

 その一方で「弊害」はないのか。あなたが考える「弊害」とは、 「妄想に囚われてしまうこと」「心が疲労してしまうこと」そして「普段やっている瞑想の効果を消してしまうこと」のようです。たしかにどれも弊害ではあり ます。もっともその「弊害」については、テレビを観ながら食事、音楽を聴きながら読書、というレベルであればさほどないのではないか?とあなたは感じておられるようです。

 仏教では「弊害」というのは「目的に照らして役に立たないこと」と考えます。役に立つか立たないかは、目的によって決 まるのです。そこで禅瞑想の目的を4つ挙げてみましょう――①心を清浄にする(湧いてしまった雑念や煩悩をリセットする)、②ムダなことに反応しない心をつくる、③気づきの力を上げる、④高い禅定(気づきと集中と継続が一定レベル以上で続く精神状態)をめざすというのものです。これらにてらして、「なが ら」が役に立つかどうかを考えてみましょう。

 確実に「役に立たない」といえるのは、②③④の目的についてです。まず「反応しながら別の反応をする」状態というのは、心をこれまでと同じ「ただ反応する」状態でキープする(つまりは成長させない、能力を上げない)ことを意味しますから、その心の状態ではけして④「高い禅定」にはたどり着けないでしょう。③「気づきの力」も上がりません。ただこれまでと同じ、フツーの精神状態で生きていくというだけです。

 ちなみに、もし「テレビを観ながら食事をする」というのを「気づきの力を上げる」ことに使おうとすればどうすることになるか?(面白い思考実験なので考えてみることにしましょう。)

 ――「今テレビ画面を見ている」と気づく。見える情報・画像について、「感情が湧いた」「想像が湧いた」「喜びが湧いた(楽しいと感じた)」と気づく。 「ボケっとしている」と気づく。「音が聞こえている」と気づく。「色が見えている」と気づく。食べ物に手を伸ばしたと気づく。噛んでいる、味を感じてい る、飲み込んでいる……と気づく(わかりますか? 徹底して「心の反応」だけを観察するということです)。

 これを連続して、絶え間なくやりま す。かなり忙しい作業です。「テレビを楽しむ」ヒマなんかありません(笑)。もっとも人間の心は「気づき」の力が弱いので、テレビを観れば、あっという間 に「反応」の状態に引きずり込まれてしまいます。「気づき」が働いていない、つまりは「ボーッとした状態」でただ眺めて、漠然と妄想したり感情を刺激した り感想(判断の一種)を持ったりという「テキトーな反応状態」に陥ってしまいます。だから「気づきの力を上げる」練習にはなりません。理屈では「テレビを 観ながら」気づきの練習をすることは「可能」ではあるのだけど、実際には「不可能」といってよいでしょう。

 目的②の「ムダなことに反応しない心をつくる」というのも、そのためには必ず「気づきの力」を育てる必要があります。その点で「ながら」というのはけして役に立たないということになります。

  ただ「ながら」が役に立たないといえるのは、あくまで禅瞑想の目的に照らしてです。禅の修行者ではないフツーの生活を送っている人は、これら②③④の目的 を真剣にめざしているわけではないと思います。むしろフツーの生活を送りたい人にとっては、「日常生活で味わうちょっとした心の不満や雑念を解消したい」 「忘れたい」という目的のほうが大事でしょう。とすれば「ながら」もそれなりに効果があるといえます。つまり①の「心を清浄にする」という目的にてらすな らば、「ながら」にはそれなりの効果がある、といってよいように思います。これは「お酒をたしなむ」行為についても同じです。

 残る二つ の質問について。まず「ながら」が「普段の瞑想の効果を消してしまうか」ですが、これはこう考えるとよいと思います――気づきの力が一定レベル以上に達し たことのない人については、「消えてしまうほどの効果」はまだ体験していない。「ながら」によって失われてしまうほどの心の能力はまだ育っていない。だか らあまり気にすることはない。(一方、気づきのレベルが一定以上に達している人には「ながら」はもはや不可能です。このあとすぐ述べます。)

  もしあなたが「禅定」と呼ばれるような高度で特殊な精神状態を体験したいと思うならば、一定期間集中して「一点に心を注ぐ」(もちろん「ながら」はありえ ない)状態に特化する必要があります。この境地に達するには、ひとによっては一週間くらいで可能です。ただ世の多くの人はそれほど時間をとれないのが普通 ですので、そのチャレンジは「定年後」くらいにとっておくのがよいかもしれません。今はとりあえず「気づきの練習」をする時間を定期的に作って、心の能力 を徐々に鍛えていく。将来きたるべき修行のための「準備」をしておく、くらいの気持でよいのかもしれません。

 もう一つの質問である「飲酒の悪影響(飲酒後の座禅の是非)」についてですが、これは完全に「意味がない」とお答えできます。「悪影響」というより「成り立たない」。

 飲酒というのは「気づきの力」を弱体化あるいは破壊してしまう行いです(だからこそ飲酒運転は禁じられている)。お酒を飲んで気づきの力を弱くして(あるいは破壊して)座禅をするということは成り立ちません。もしその行いのおかしさがわからないとしたら、その人はまだ気づきというものの力(パワー)を体験し たことがないのだと思います。むろん「お酒をたしなむ」という習慣はあっていいでしょう。ただ「座禅」とはまったく違う領域にある習慣です。飲酒と座禅と いう「ながら」はありえません。そこははっきりしています。

 飲酒ほどに気づきの力を破壊するとはいえませんが、「音楽を聴きながら読書」というのも、厳密には「成り立たない」行為です。「音楽を楽しむ」ことと「読書によって思考する」というのは、心の使い方としてはまったく異質であって、両立することはありえません。世の多くの人が音楽を聴きながら読書しているのは、端的に「読書していない」のです。たぶん何もアタマに入っていません。正しい理解などありえません。でも多くの人は気づきの力があまりに弱いので、そのことがわからないのです。自分は読んだ気になっている。でも実際には読んでいない。

 このことは、気づきの力(パワー)が一定レベルに達している人ははっきりとわかります。気づきの力が定着している人は、 音楽を聞くときにはきっちり聞くことに意識を向けるようになっています。「なっている」というより、そのレベルの心では、もう「ながら」が不可能なのです。気づきのレベルが高いところに達してしまっているから、聴くときには聴く、読むときには読むという行為しかもうできない。「できない(できていない)」ことがはっきりとわかるくらいに気づきの力・理解力が高くなっているということです。

(もっとも、「心が妄想に飛んでしまわないように、小さな音量で音楽をかけて適度な雑反応を作り出すことで、めのまえの作業に集中する」ということはありうると思います。もちろん「その程度の集中ですむ作業」にかぎられるとは思いますが。)

  以上をまとめると、こう表現できるでしょう――いったん気づきの能力が一定レベルに達した人には、世間の人がやっている「ながら」はできません。そういう人でも「テキトーな反応を交互にする」という意味での「ながら」はできますが、それはテキトーな反応でよい作業に限られます。「読書」という高度な思考が必要な作業については、「ながら」は不可能です。そもそも意味がありません。

 ご質問のあなたについてはこう考えることができます。テキ トーな反応を交互にする「ながら」は、雑念解消や気分転換、作業時間の短縮には役立つこともあるから適当にやってよいということになる。ただ「ながら」が けして役に立たない、意味をもたない高度な「目的」というのもある。その目的に特化する時間については、けして「ながら」はしない(厳密には「できないは ず」)。そのような時間を日常にどれだけ作るか、あるいはいつ始めるか。そこを自分で考える――ということでしょうか。「メリハリをつける」とでもいいますか。
 いかがでしょうか。
 精進してまいりましょう。

(季刊誌『興道の里』12月号に掲載します。)



宝石の国へ(インドから日本へ)

11月20日
夜十時すぎに飛行機は羽田に近づいて行った。

秋雨が降っていたらしく、日本の夜は街の灯が色とりどりに輝いていた。

インドのように日の光さえ鈍[にび]にしか見えない茫漠の国ではない。この島国は、埃も空気も、季節ごとの雨やら台風やらで頻繁に洗われる。だからこれほどに街の光が澄んでみえる。

今 回も激しく濃密な旅だった。村での生活、今回出会った活動家たちが、みな遠くへと流れていく。でも胸にあるのは望郷でも忘却でもなく、彼らの存在はとても リアルに生きている。というのは彼らは仏教をともにする同志であって、そのきずなは生涯続くということが確信できるからである。彼らは今や遠い異国であの (私も今までその中にいた)日常を生きている。でもきっちりと心はつながっている。彼らと共有する情と義が、この胸に生きている。日本の人たちにも、こう した確かな心のつながりが、家族や仕事以外の場でもあ るのだということをわかってもらえたらと思う。

インドから日本へ――違う星へと飛行機は滑り込んでいく。私のなかで声がする。

「ここから生き直せ」「また新しい人生を始めろ」

この地ではこの地でのこの命の活かし方というのがある。

日本はインドとは違ってカーストはなく、極貧や残忍な暴力というのも、ないとは言わないがあってもやはり質は違う。どちらのほうが天国(僧侶としては浄土と呼ぶべきか(笑))に近いかといえば、やはり日本であるような気がする。

だがこの国に生きる人間には、この地に生きるからこその苦悩というのもまたあるであろう。「生き方を知らぬ」がゆえの苦悩というのもまたあるはずである。

「生き方を知ること」――この当たり前のことが、どうしていつの時代どの社会においても、人間には遠いのであろう。かつての私がそうであった。生き方を知らなすぎた。身近にも存在しなかった。

帰りの電車では、赤ら顔の勤め帰りの人々がひしめき合っていた。彼らを見ているだけでも、あるいは聞こえてくる会話を聞くだけでも、いろんなことが見えてくる。

愛 着、誇り、情熱といった生きがいが枯れた状態でただ働いているだけの日常。上司や同僚についての人物評。週末の酒での気晴らし。最近友だちといった旅行の こと。職場でのセクハラ。ゲーム。ライン。週刊誌――楽しそうだったり、不満そうだったり、空しそうだったり、充実していそうだったり……。

こ の国は、モノも情報もきわめて密にそろっている。その中で、ひとの心はいろんなものをぎっしりと詰め込んで、背負い込んで生きている。よく心がパンクしな いなあと感じるくらい。パンクしそうだから息抜きにお酒を飲んでいる人もいるようだけど、それもまた新しい詰め込みのように見えなくもない。みんな「はち きれそう」に見えた。

久しぶりに見る、日本という国の夜の喧騒。そこでも私は出家として心を使う。念(サティ)を使う。慈悲を確かめる。そのとき心は停まっている。静寂である。澄明である。

「生き方を知る」とは、結局は、心の使い方を知ること。心の理解の仕方を知ること。

心を見よ。心を理解せよ。心の使い方を知れ――そう自分に語りかける声がある。

その声にしたがうとき、心は停まる。世の喧騒は関係がなくなる。外の世界がどのような状況であれ、自分がどのような場所にいるのであれ、それは動き続ける外の時空であって、自分の心とは関係がない。

心が停まると、人生のすべてから抜ける。超えることができる。

生老病死の苦。無常であるがゆえの苦。しかし心がそこから抜けてしまえば、心から苦は消える。

仏教では「不死」という言葉をよく聞く。この言葉はしかし、永久に生きる(転生する)という意味ではなく、「失うことを苦としない心の境地」を意味している。すべての現実から心が自由になれば、停まれば、抜ければ、そこに苦はない。つまりは「不死」である。

インド、そして日本――このまま生きていってよいし、ここで終わってもよいし、もっと大きな役割を果たしてもよいと思う。ただ、この心の使い方はつねに正しく知って、努めておかねばならない。

ひとは孤独を恐れすぎだ。孤独というのは何事でもない。心が「抜ける」ためのちょうどよい時間だと思えばいい。最上の幸福は孤独の中にもある。そこからまた新しい関わり、日常を始めればよい。

生き直せ。新しい人生をまた始めよ――孤独はそのサインである。孤独が語りかけているのはそういう声である。

ということを感じながら到着。出家ひとり、またこの国で頑張ります。みなさん、よろしく。

 (ヤクルトジョアがコンビニで売ってなかった……晩酌と銭湯はまたあらためて(笑))

※龍瞬語辞典 ばん・しゃく【晩酌】 嬉しいときにひとりで『ヤクルトジョア』を飲むこと。誰かの幸せに役に立てたと感じるときにおこなう。 



小さな村の生と死

11月18日
●ウダサ村で近所の女性が亡くなった。

私たちのNGOのメンバーであるアーナンダの叔母。まだ45歳。心臓発作で急死。

この地域では人が亡くなると、夜通し音楽を鳴らす。お通夜用の歌手がやってきて一晩歌を歌う。

通夜の翌日、その家を訪れた。室内に入る。床に横たわる女性の亡きがら。そこに覆いかぶさるようにして泣いている母親らしき女性。その周りを囲む縁者の女性たち。さらにその外に集う女性たち。部屋は女性たちで一杯だった。

母親はむせび泣きながら歌を唄っていた。以前見たチベットでの葬儀でも、遺族の女性たちが涙しながら唄っていた。「あなたが微笑んでいるだけで私は幸せだった」という歌詞が記憶に残っている。母親が唄っている言葉の意味はわからないが、娘が生きていた頃の思い出や、自分がいかに幸せだったかを伝えようとしているのだろうと感じた。

唄いながら、母親はなんども頬を流れる涙をぬぐい、娘の手を握り締め、娘の頬やひたいを指の長い掌で撫でていた。母親の腕は細くて、その飴色の肌は繊毛にも見まがう無数の皺を密に刻んでいた。どれほどの苦労をして娘を育て、そして娘と一緒に暮らしてきたかが伝わってくる思いがした。

私は、横たわる女性の亡きがらのそばに座り、最初にそのくるぶしを握るように手を置いた。つぎに女性の大きなお腹の上に置かれた二つの手を握り締めた。そして女性のひたいにそっと手を置いた。冷えていた。

亡きがらを挟んで座り、むせび泣く母親がいる。私はその母親にそっと手を伸ばした。ひたいに手のひらを合わせた。老母はひとめ見てかなりの高齢だとわかるが、そのひたいは驚くくらいに温かかった。生きている。歳を重ねてもこれほどまでに熱を発している。娘の亡き骸の冷たさと対照的だった。

横になった女性は、目を閉じておだやかな顔をしていた。眠っているかのようだった。この地の女性たちは朝からよく働く。水を汲み、掃除をし、食事を作り、畑仕事に出て、子どもを育て、近所の人たちと快活に笑い合う。この地に小学校ができたのは、わずか30年ほど昔にすぎない。齢40を超えただけの人たちは、この地では文字が読めなかったりする。床に眠るこの女性は、どのような顔で笑っていたのか。生前にもっと会っておけばよかった気がする。

亡き骸の頭のところに、ババサブとブッダの像が置いてある。この家庭も仏教徒だったのだ。

あれほど泣き叫んでいた母親は、私が手のひらをひたいに当てて、日本語で話しかけると、不思議なことを体験するかのような、神妙そうな、驚いたようなまなざしでこちらを見つめて、泣くのをとめた。静かになった部屋を、私は出た。

●ラケシュの家の向かい側に、プラジワルという11歳の少年が暮らす家がある。

少年には15歳以上年の離れた3人の姉がいる。その姉のひとりが里帰りしていた。生まれたばかりの赤ちゃんを連れて。

呼ばれて訪れてみると、いた。まだ生後1か月。産道をくぐったばかりの造作が残る産毛まばらな頭と赤い肌。小さな手。

「名前をつけてほしい」と言われる。この地ではお坊さんにつけてもらうのはふつう。しかも日本の名前は人気がある。4歳のお姉ちゃんが「アクシャラ」という名前なので、「ア」がつく名前が欲しいという。

一日考えて、「アスカ(明日香)」はどうかと提案。明日香は、日本仏教発祥の地の名前。しかも「明日」つまり未来という意味と、よき香りという意味も持っている。

他にも、アユミなどいくつかの候補を伝えたが、アスカがいいという。さっそくお父さんやお爺さんが「アスカ、アスカ」と呼びかけ始めた。

この子は、「日本人のお坊さんに名前をもらった」ということを一生覚えることになるのだろうなと思った。あの亡くなった女性と同じ年になっても、そしてあの母親の年齢に達しても。どんな子に育っていくのか、私なりに見守りたいと思った。

4歳の女の子アクシャラの他、近所に何人もの幼子がいる。みな母親に連れられて、あるいは自分ひとりで、よくラケシュの家に遊びに来る。ラケシュの家にも何人かの女性が暮らしているが、みな子どもたちを自分の子のようにかわいがる。

この年頃の子は、まだ笑顔で大人に飛び込むということがなかなかできない。だから私と会うと、きょとんとした顔でじっと見つめるか、反応に困って(けして怖がってではない)泣いてしまうかのどちらか。子どもの親たちが「ほら、バンテジーにナモナモしなさい」と促すので、ひたいの前で手を合わせたり、「敬礼」のポーズを取ったりするようになる。私も同じしぐさで返す。村の大人も子供も、みな家族のように互いの家を行ったり来たり。こののどかな雰囲気は、やっぱり田舎の農村ならではの魅力だろうと思う。

建築中のゲストハウスには、猫とその子猫3匹が出入りするようになった。そのうち友達になれるだろう。

その一方で、隣の家の飼い犬サンディはちょっと歳をとった。私が八年前に居候していたパワン氏の飼い犬ブーノも歳をとっていた。向かい側の十五歳の少年ダトゥが可愛がるニワトリも羽根が老いていた。ラケシュの姉が買っている緑のオウムも少し小さくなっていた。みんなが等しく歳をとっている。私も歳をとっている。

小さな村だが、小さいだけに、生まれること、死すること、老いることをすぐそばに見る。みんな美しい村人たち。

近所の双子。村では次々に若い命が生まれてます。日本も頑張ろう。

近所のサンディです。
ラケシュの姉とご飯を食べている向いん家のアクシャラ(4歳)。

おばあちゃんの大きな手でマッサージを受ける生後1か月のアスカ。脳にすごい威力があるはず。

アスカとヘンな顔をしたおじさん。





インド編2 不思議な孤独の先

10月15日
●午前は、ビハール(寺院)建設予定地の下見。

日本の人にはあまりイメージがわかないかもしれない、乾いた藁色の広大な草原。

この敷地を寄贈してくれるという男たちに再会。

「バンテジーがいないとこの計画は始まりません。You are leader now.」

どんな寺院にしたいかを彼らに聞いて確かめる。私の方から最初に言ったのは、この寺院を社会運動の前線基地にしたいということ。24時間フル稼働できる場所。活動家たちが寝泊まりできる場所。

外国人を招いてメディテーション・プログラムもやりたいと彼ら。ゲストルームも用意する。

集会用&瞑想用のホール。作業所。パソコンを設置したオフィスルーム――。

ラケシュは「珍しい形の寺院にしたい。そうすると人が集まるから」という。彼はタイ様式の寺院が好きらしい。

この場所は、ウダサ、トンブレ、ヘオティほかいくつかの村のちょうど真ん中にある、絶好の地らしい。

来年、日本人客が来たら、この地で起工式をして、ここからマンセル遺跡地に向かおうと話し合う。

建設費はどうやってまかなうのだろう? 「みんなから集める」とラケシュは言っている。きっとなんとかするのだろう。

世界を作るのは心である。この地にすでに種はまかれた。どのように実るか楽しみである。
ビハール建設予定地。はてどんなお寺になるのやら?

●午後からいくつかの村を回る。現地の活動家が集会をアレンジしている。そこに入ってスピーチなどをする。お坊さんの巡業みたいなもの。

村に入ると仏教徒の小さなビハールの前に人だかりがしている。寺に通されて、そこでみなでお経を読む。

ナモー・タッサ・バガワトー……(無上の悟りを開いた世尊ブッダに帰依いたします)

お経は、日本では哀感ただよう音色で詠むことが多いが、こちらでは力強いほうが好まれる。

そして村人へのメッセージ。お堂にはたくさんの村人が床に座り込んで、こちらを見ている。私の背には、ババサブとブッダの像。漆喰で固めて絵具で色をつけただけの、けして見目のよくない二人の像がある。だがいうなれば、インド史上の二つの奇跡。その二者をただのアイコンではなく、メッセージを発する存在感あ るものにする。それは僧侶の役目なのだろう。

この偉大な二者に共通するものは何か――それは巨大な「カルナー」(悲の心)であろう。

ブッダは、人間がなぜ苦しむのかを、自ら苦しみを引き受けつつ考えた。そして苦の原因をつきとめ、その苦しみから自由なる道を説いた。人々がこれ以上苦しまないようにと、新しい社会(サンガ:僧団のこと)の建設に踏み出した。

ババサブもまた、巨大な悲の心で、人間がこれ以上苦しまないようにと尋常でない努力を重ね、インド憲法を作って、さらに我々を仏教に導いた。

みなさんは、今回の痛ましい事件を知って、強い怒りを感じているかもしれない。その気持ちはよくわかる。

だが怒りで終わってはいけない。怒り以上に強いパワーを持った心がある。それがカルナーである。

今回私がインドに入って最初に聞いたニュースが、あの3人の村人が殺された事件だった。私は今、強いカルナーを感じている。

やってはいけないことは絶対にやってはいけない――そのメッセージを発信し続けなければいけない。

日本では(インドの人々は日本の話が好きなので)、毎年夏の終わりに戦争の惨禍と犠牲者とを追悼する儀式を行う。全国民が、戦争で亡くなった人たちの悲を想い、二度と繰り返さないようにと強く誓う。

3月11日も、一万数千人の犠牲者と、その数を超える帰る場所を失った人たちへの追悼を向ける。

そうやって毎年思いを改めて固め、二度と痛ましい出来事が起きないようにと願う。その結果、原発稼働は止まったし、経済的回復も遂げた。たしかに日本社会全体が変わった。

これから私がこの地に来た時には、必ず追悼の儀を挙げたい。毎年つづける。十年、二十年、五十年――人間として、してはいけないことはやめなければならないという強いメッセージをこのインド社会に送りたい。

行動を起こそう。悲の心で闘いつづけるのだ。そうすれば、いつか必ずインドの人々の心に届くときがくる。

われわれは、大きなダンマファミリー、ダンマチームである。数日後に最初のデモをやる。みなぜひ参加してほしい――。

ラケシュも続く。このラケシュはほんとうにすごい人。これほど聡明で徳のある人に出会えたというのは、不思議というしかない奇跡。

こんな感じでやってます
ある村のお寺の前。左に立つのは青年ラケシュ。木の下の像はアンベドカル博士。
●村から村へ移動する。どの場所にも信仰の篤い人たちが待っている。

ビハールは正直、どれも細工はよくない。日本のようにきれいに床を磨く習慣もなく、ゴミ、ほこりが床には散乱している。中に入るとざりざりと何かを踏んだ感覚がある。その床に額をつけて礼拝して、強い念をこめて経を唱える。最初の寺院ですでに声が枯れてしまった。

一通り回って、信者の家に通されたのが夜の10時半(日本時間午前2時)。各村の有力な活動家や若者たちが集まっていた。

「お食事を布施したいと言ってます」とラケシュ。「いや、お腹すいてないんだけど……」と言ってはみるが、「ちょっとだけでも」と懇願の表情。もちろんわかっ てる。施しを受けることは礼節であり僧侶の決まり。うなずくと、ご婦人がせっせと食事の準備。手を洗って、しばらく待つ。

丸いアルミの盆に運ばれてくる。小麦を練って作ったチャパティと、ところどころ煤のようなものが混じったご飯と、ヨーグルトを混ぜた酸味のする黄色いダールと、小さく丸いナスのような実の入った赤いスープ(こんなに夜遅いのに)。私だけスプーンをもらって食べる。

赤いスープが異様に辛い(初めての村ではメチャ辛が多い)。チャパティは胃にもたれる、ダールは酸っぱみになじめないし……この地ではあんまり「味わう」ことなく食べている気がする。

観察しているとインドの人たちは、右手でご飯とダールを上から押して混ぜて、手ですくって、とてもおいしそうに食べる。手は洗ってない。あの酸味のするダールを味噌汁のようにおいしそうにすする。そして食後の手は、盆の上でコップの水で洗ってちゃちゃっと水を弾き飛ばしておしまい。やっぱり生きている日常が違うんだなあ、と思う。

そして車に乗り込んで、ウダサへと向かう。部屋に戻ったのは午後11時半(日本時間午前 3時)。簡単に顔だけ洗って、マンチャ(つるを四方に渡したインド式の簡易ベッド)に横になる。このベッドは、ハンモックみたいに真ん中が沈んでいるので、寝返りが打ちにくい。姿勢に悪いので、一晩寝るとちょっと腰痛になる。

このマンチャは、ブッダが臨終するときもインドにはあった。疲れて横になっていると、このまま死を迎えるときを想像することがある。ブッダは、あるいは慈悲を実践する修行者たちは、その時をどのような思いで迎えてきたのだろうか。

ナグプールの空港に着くとき、ほこりっぽい乾いた色の大地を見ながら、「この地に一体何があって戻るのか?」と毎回不思議に考える。仏教徒たちがいなければ、あるいはラケシュたちとのつながりがなければ、この地に帰ってくる理由は一つもない。観光でめぐりたくなるような美しい景色や、おいしい食べ物や娯楽があるわけではない。「また来よう」と思えるものは、「ひとつ」を除いて何もない、と言ってしまってよい土地である。

今宵、 暗い砂利道を車で走りながら考えたことがある。

村人の家で食事をしているとき、妙な「孤独」の中に自分がいることを見た。というのは、彼らは現地語で言葉を交わし、出された食事をおいしそうに精力的に食べている。ところが私には、その言葉はわからないし、食事がおいしいとも思わない。この地の食事、水、トイレ、寝場所、 音楽、言葉、その他すべてのことが、ことごとく異質。その中にひとり日本人の出家がいる。

この地に生きることの辛さ、大変さというのは、ほとんどの日本人にはわからないだろうと自然に思う。日本からときおり僧侶方が来るが、みなホテルに泊まって数日経ったら帰っていく。日本の暮らしに慣れてしまうと、この地で長く活動することは難しくなる。

私にとってこの地の活動は、「人間」は楽しい。しかしそれ以外はことごとく大変。

だが、私をとりまくインドの人たちにとっては、この世界がごく当たり前の日常。もっとも住み馴れている環境。生まれてずっとこの地で生きているのだから、違和感などもちろんないであろう。

となると、この世界が日常とはなりえないこの身は、インドの人々のなかでぽっかりと浮かぶ小さな島のように感じられてくる。

と同時に、この地で今私が感じている大変さは、遠く日本に住む人たちには想像つかないことでもある。

この身は、日本人でありながら、日本人にはけして分からない場所に在る。

またインドにいながら、インド人にはけして分からない思いで生きている。

つまりこの身は、誰とも共有できない場所に在る――。

その「孤独」を見たとき、思い出したのが、佐々井秀嶺師だった。

あの人は、この孤独を半世紀近くも知っている。日本人にも、インド人にも、けして理解してもらえぬ凄絶な孤独を。

私の場合は逃げ場がある。いつでも日本に帰れるし、インドに来るのも短期間。日本には親しい人たちも今は大勢いる。

しかし師にはそれがなかった。逃げ場のない孤独を、誰とも分かち合えない孤独を、半世紀も抱えて生きてきた人間である。

今は遠い場所におられる方である。しかし、かの師と私とは、ひとつの心を共有しているように思える。この孤独がわかる者は、世界にけして多くはない――。

師の孤独が、なぜか今は「励まし」になっていることに、今宵気づいたのだった。

師の孤独を思いながら、この地での孤独を生きている自分がいる。

そして師からもうひとつ学んだのが、「闘い方」。もし私が師のもとで過ごさなかったら、今のようにインドの人々に働きかけることなどできなかっただろう。大きなことを学んでいたのだ、と今になって思う。

いつかの夜、深夜の国道で車を止めて、助手席の師と後部席の私とでいろいろと話し込んだ時間があった。師の声は、めずらしく穏やかで静かで優しかった。あのとき師は何を心に思っていたのか。いつか若き出家が私のもとを訪れたときに、わかる気がするのだろうか。

スリランカやミャンマーに先に渡らなくてよかったのだ。最初にインドに入って師に巡り逢ったからこそ、この地での孤独を引き受け、闘い方を人々に伝える役割を果たせる。

●佐々井師がこの地に留まり続けた理由はご本人しか分からないが、私がこの地に戻り続ける理由ははっきりしている。

それは、この地に人々の苦しみがあるからである。

この地に立つとき、人々の苦しみを想う。そのとき尋常でない「熱」が湧いてくる。その熱を発すれば、インドの人々は呼応する。「心でつながる」ことが可能になる。

この地には、この身にしか果たせない役割がある。だからこそ戻ってくる。

●今、この地でひとつの可能性が育まれつつある。新しい組織、新しい場所、新しい運動――その可能性を育てているのは、人々の苦と情熱と、ブッダの教えと、ババサブの意志とである。この命が感じ、伝える「悲の心」もまた原動力のはずである。

「悲の心」、つまり人々の悲しみを感じとる心をつきつめると、どこにつながるか。

それは「喜」である。悲をつきつめればじつは喜に変わる。(※これは言語化が難しい)

これは最も奥深い真理の一つだ。二つの真理(≒心の本来の性質)は、究極のところひとつの真理になっている。

この地での過酷な日々の最果てには、きっと「喜」が待っている。

そこに近づくために、今ここにある「悲」をただ感じて生きる熱とするだけでいい。

悲をエネルギーとして生きていく。

こうした生き方もまた、「仏道」と呼ばれる道の一つなのだろう。

ウダサ村を最初に訪れた夜に泊まった村外れの廃屋。中にブッダとアンベドカルの壊れた塑像が祀ってある。どれだけ孤独を引き受けられるか試すつもりで泊まってみた。平気だった(笑)。




インド編 いきなり大事件

11月10日
こんにちは、草薙龍瞬です。
今、インド・ナグプールにいます。

今回もまた「いってきます」をお伝えするヒマもなく旅立ってしまいました。

旅立つ直前に、何人もの方から、行ってらっしゃいとのエールや、新刊の感想などをいただきました。とても励まされました^^。ありがとうございました。

おひとりずつ返信差し上げたかったのですが、時間がなく……。

今回は、季刊誌最新号を刷って全国への発送を終えたのが朝6時半で、それから荷造りして7時半に羽田へと向かいました。前回のインド行きとまったく同じ「完徹(完全徹夜)」となってしまいました(@@)。

直前にここまであたふたするなら、もっと前もって計画的に作業を進めておけばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、私は前もって予定をたてるというのがとても苦手です。

なんでかというと、仏教を実践しているから……つまり「今この瞬間を生きている」からですね(そういうことにしてください(笑))。

日本では、今回のように本を出していただいたり、仏教講座や研修をさせてもらったりと、自分なりの仏教の活かし方を伝える活動をしています。

では、インドに入るとどんな活動が待っているか――。

最初の夜に村にたどり着いたとき、ラケシュの家では、大勢の男たちが集まって議論をしていた。バンテジー(お坊さん:私のこと)の意見も聞きたいからとそのまま席に通された。

聞けば、とある村でダリット(不可触民)の3人が殺されて、バラバラに切り刻まれて井戸に捨てられた。

その3人は、400世帯あるその村にわずか1世帯の不可触民カーストの家族だった。殺されたのは父母と19歳の長男。犯人は不明。警察は動かず。わずか3週間前の事件。

「なんとか世界にこの事件を知らせたい」と言う。「どうすればいいか?」と聞いてくる。

まずは各地でデモを挙行し、市役所や警察署の前で抗議をし、リーフレットを配る。過去に起きた同じような事件(2006年のカイランジ事件。このときは父親を除く4人の仏教徒の家族が村人に殺された)での運動家に連絡をとってアドバイスを受ける。これから先は毎年、犠牲者を弔う行事を行う――。さっそく一週間後に市街でデモを挙行すると決定。

ラケシュの家で話し合っているところ。向かい右がラケシュ。赤僧衣が龍瞬。
なんとも痛ましい事件。2006年のカイランジ事件では、市街の車や電車に火をつける全インド規模の大騒動に発展した。外を出歩くのは危険だと佐々井師に言われて、居候先の家で過ごしたことを覚えている。ちょうどインドに渡ってばかりの頃だった。

あれから8年たって、また同じような事件が起きた。インドではカースト、そして宗教間の対立がどこまでも執拗に続く。

こういうとき、いかにして宗教的な対立に発展させず、またカースト意識を逆に刺激するような発言は避けて、「人間としてしてはいけないことは絶対にしてはいけないのだ」ということを伝えるか、が重大な意味を持つ。これは知恵のいる仕事。

これから毎年、過去に起きた同じような事件の犠牲者も含めて、追悼する儀式を行うことだと提案。日本では夏の終わり、そして3月11日にやっていること。この地でもやるべきである。そして静かな、しかし力強いメッセージを送り続けることだ。

来年1月の式典で、さっそく追悼の儀をやることにした。私は僧侶だが、仏教という枠を超えたメッセージを、この地の人たちと共有する役割を果たしたい。

その席にいた3人の男性が、大きな寺院を作りたいと申し出てくれた。1ヘクタールの土地も寄贈してくれるとのこと。

その寺は、24時間動ける「前線基地」のような場所にしたい。こういう事件が起きたときに人々が集まって議論し、手分けして作業して、社会にメッセージを発信していく。そういう寺があっていい。

日本では、仏教講座、法事、本の執筆、教育と、できることを果たしていく。

そしてこの地では、法事やNGO、幼稚園運営、水プロジェクト、そして今回のような事件が起きた時の「闘争」すなわち社会派の活動を繰り広げていきたい。

私自身は正直それほど作業能力が高くない。生活力がない(端的な例でいえば自炊ができない(笑))。でもこの地では、有志たちと手分けして取り組むことで、いろんな事業が着実に進んでいく。

印象的だったのは、「リーフレットを作ろう」という話になったときに、みなが持ち合わせのおカネを、ほんと自然に出し合ったこと。多いひとも少ない人もいる。出さない人も多い。でもみんな自然。出さなくったって、参加するだけで意味があると知っている。労働という形で協力する人もいる。さりげなく自分にできることを通じて、何かを共にする(行う)。

今回さらに印象的だったのは、日本人向けのゲストハウスの工事がかなり進んでいて、幼稚園の校舎も工事が進んでいて、簡易トイレも設置されていたこと(特に女先生たちのためという)。水プロジェクトも、一日も休まず続けられていた。

正直、どれをとっても「赤字」である。青年たちの持ち出し。彼らも私も、おカネを作ることはうまくない。でも善意の動機があるからこうして続けている。びっくりするくらいに、徳が高い人たちがこの地にいる。

日本での活動も、徐々に整っていくのだろうか……。日本でもやはり拠点が必要だ。時機をみて、次のステージに進まねばならない。日本でもできることはたくさんあるのだから。

闘うこと。創造すること。己の役割を果たすこと。

インドに戻ると、いろんなことを学ぶ。



仏教的「夢分析」の方法

こんにちは、草薙龍瞬です。
今日、雨の中をきてくれたひとにはどうもありがとう。おつかれさまでした。

今回は、明恵という鎌倉時代の高僧をモチーフに、「心の闇」という領域をあつかってみました。

夢の中で「親を殺した(親が死んだ夢をみた)」ことがあるひとというのは、珍しくないかもしれない。

どんな人間の心にも、とても小さな不満や感情が、ひょんな弾みで生まれて来るもの。それが眠りの世界で、映像として実を結ぶことがある。

映像はリアルなものだから、それ自体がなにか真実であるかのように思ったり、「お告げ」としてとらえたりしがち。「夢の真意を解釈する」というのもよくやる。「夢占い」みたいなことも。

ほんとに何かを予期したり、誰かが現われたりと、説明のつかない夢というのもたしかにあるみたいなので、一概にはいえないけれど、

親をはじめとする身近な人について、きれいならざる夢を見てしまった時というのは、
たいてい、実生活の中で怒りやすれ違いがあったり、「かんちがい」(思い込み)があったりするもの。

その元にあるのは、微小な「反応」であることがけっこうある。
だからそれを、あんまり真に受けないほうがよいと思う。

「親が包丁もって襲ってくる夢をみた」ひとなら、昔なにかの拍子でこっぴどく叱られたとか、理由があったかなかったか、とにかく親がとても怖いひとに見えた、というような素朴な体験が記憶として残っていたのかもしれない。

子どもの場合、そういう夢が、かなり影響力を持ってしまうのがこわい。

私自身も、幼い頃は、親が先に死んでしまう夢とか、けっこう見ていた気がする。そういう夢をみるたんびに、心は、親から離れること、自立するという発想になっていった気がする。その頃の夢は、真実ではなくて、自分の一方的な思い込みだった。

心理学の世界では、「夢分析」みたいなことをやる。西洋の昔の神話とか、性的な願望とか、かなりいろんな物語・理屈で説明しようとする傾向がある。

ただ、これは仏教心理学の意外な活かし方だと自分でも発見した思いだけれど、夢というのは別に「分析」するほどの意味がないことのほうが多いように思う。

そう私が思うのは、瞑想の修行中に、自分のとんでもなく大昔の記憶のカケラ(それは実際に起きた出来事と、それについて自分が思った・解釈したことの2つでできている)と、その記憶が作り出したとある晩の「夢」を両方、数珠つなぎに「思い出した」体験があるから。

「あ、子どものころは夢をみて、間に受けていたけれど、なんということはない、自分の解釈が作り出した映像にすぎなかったんだ」と、わかってしまった体験による。

ちっちゃな反応と、それが作り出す映像――夢といっても、とどのつまりは「妄想」の一形態にすぎない。あまり真に受けない方がいいこともある。

だから、「親においかけられた夢を見た」という子供がいたら、その親(お母さん・お父さん)は、
「そんなこと言われたら悲しいよ。夢ってデタラメ見ちゃうことってけっこうあるんだよ」「妄想しちゃったんだね(笑)」と軽く流してしまうのが一番。「夢は夢」と割り切ってしまう。「夢は妄想」と理解するようにする。

ただ、その妄想が生まれたきっかけ、理由、つまりは「最初の反応」というのは、もしかしたらあるかもしれない。それが、怒りだったり、かん違い(解釈・判断)だったりすることがある。その部分は「気づく」(理解する)ように心がけたい。それは勘違いだったとどこかではっきり気づいてもらう時を待つこと。そして一貫した愛情を伝えること――。

きっと、あの佐世保の女子高生は、親から無数の理不尽な思いをさせられていたものと推測する。もしかしたら、「父親を実際に殴打した」出来事の前に、何度も何度も、親を夢の中で殺していたのかもしれない。

仮定の話で恐縮だけど、もし心の真相を正しく理解する「お坊さん」が、彼女と話をしたら、真っ先に気づくのは、父親への感情であっただろう。「ずいぶん偏った父親だなぁ」というのは、すぐにわかるもの。

ちなみに、私は、小中学生と話をすることもあるけれど、ほんとおどろくくらいに、親への思いが顔や言葉にそのまま出てる。

「キミはおかあちゃんのこと、うるさいと思ったことない?(そう見えるけど?)」なんて聞いてみると、(そうなんだよ)というように苦笑してみせる子がいる。

佐世保の女子高生だったら、お坊さんは「キミは、お父さんを殺したい(死んでほしい)と思ったことない?」「そういう夢とか見たことない?」とざっくばらんに聞くだろう。

その程度の夢・妄想は、誰でもみて不思議はない。「そうか、そりゃかなり不満が溜まっとるんやな……どんなところが不満なの?」というところを聞いてみることになるかもしれない。

その子が抱えている狂気、心の闇を作り出している、原始の反応を見る。これも仏教の活かし方。

「心の闇」にもまた、「理解」という「光」が届く可能性がある。

仏教を知らないカウンセラーとか、犯罪学者とか心理学者のひとなどが語る「コメント」というのは、どこか観念的で一面的な印象がある。

「命の尊さを教えてきたはずなのに――」なんて言う大人がいるけど、真相を言えば、そういうアプローチでは「心の闇」には届かないこともある。

あくまで、心の闇に届く可能性がある光とは、「理解」ではないか。夢についても同じ。「ありのままを理解する」(受け入れる)。

その理解として、仏教心理学を活かしてみるのはどうだろう。そうすれば、新しい理解の仕方が出て来るような気がする。

人間の心は、どんなにおっかない、危険な妄想でも思い浮かべてしまうもの。子供だって同じ。むしろ大人よりその危険は高いかもしれない。

でも、それはありのままの姿。それは出発点。否定すべきことじゃない。

そこをひっくるめて受容してしまって、どんな可能性をも理解したうえで、

「それは忘れちゃっていい妄想だよ」とか、
「きっとこういう思いが奥にあるんじゃないのかな」と、さらに「理解」を進めていく。

夢の中にあらわれるたいていの「思い」は、理解しちゃうことで霧散していく。あるいは、現実の行動には影響力を持たなくなる。そういうものと知っておきたい。

今日の学びは、夢についても仏教的な理解は通用するということと、

どんなに汚れた、醜い、危険な心の状態であっても、それとは別に清浄な、きれいな、すみきった心を持つこと、そこに還ることは可能だということ。

「さとり」(ここでは清浄な心の意)は、遠いようで、その実かなり近いもので、どんな心の状態であっても、たどりつける可能性はあるという話でした。

次回の日本仏教講座は、11月22日、29日です。親鸞、道元、日蓮に入ります(順番は不定)。
11月4日(あるいは5日)、いよいよ『独学でも東大に行けた超合理的勉強法』全国発売です。

禅・ヴィパッサナー質問その1

こんにちは、草薙龍瞬です。

今日は茨城県日立市にある豪華な文化センターで、座禅エクササイズをやってきました。

ちがう土地に生きておられる新しい人たちと出会えるのは、ほんっとに楽しいし、ありがたいです。

片道3時間もかかりました。

でも車窓からみえる景色が鄙びていて、よい感じでした。

自然が適度に野放しにされていて、緑が羽根を伸ばしているのが伝わってきます。高いビルもないし。

眺めていてくつろげるのでした。疲れたけどよい旅でした^^。

常磐線の車窓から

終了後の相談もあって、お役に立てた感じがしました。

こういうときは充実感があって、めでたいので、帰ってきてからひとり静かに晩酌。

といっても、お酒はもちろん飲まないので、コンビニで70円均一セールをやってたおでん3点と、ヤクルトジョアでやりました。

ヤクルトジョアは、2本飲むと情緒がありません。1本を惜しみつつチビチビやるのがオツなのです。

仏教となんの関係もなくすみません。

●講座日程です:
10月23日(木)午後2時から巣鴨(30日ではないのでご注意ください)。
10月25日(土)午後6時 神楽坂・大乗仏教講座のつづき(⇒11月1日(土)に続きます。11月22日、29日。ちょっと変則です)。
10月26日(日)午前10時 座禅会・神楽坂

11月中旬にインドに一度渡る予定です。

なお、来年1月16日~25日の間にインドツアーを実施する予定。釈尊成道の地ブッダガヤにもいきます。参加される方はそのおつもりで心のご用意をお願いします。


●季刊誌、もうすぐお届けします。「質問コーナー」からおすそわけです:

Q  座る(または寝る)瞑想で、呼吸に集中することだけを続けるのと、それ以外の瞑想も実践するのだと、どちらが良いものなのでしょうか? 呼吸に集中していると眠くなったりする場合もあるので、たまには、動作に集中する瞑想もやった方が良いのかな?とは自分でも思うのですが、いかがでしょうか?

  結論から言うと、そのときの態勢(ポーズ)で一番集中しやすいモノ(対象)に意識(気づき)を向けることです。座る(寝る)態勢であなたが一番集中しやすい対象は何でしょうか。一般的に「呼吸(お腹のふくらみ・ちぢみか、鼻孔の感覚)に集中しましょう」と説かれるのは、そのときの体の感覚としては「呼吸」が一番顕著で、集中しやすいからです。

 ただ、呼吸に意識を向けていると眠くなってしまうというのは、まだそれだけ心の状態がクリアでなく、集中力が弱い状態に起こります。そういうときは眠気にとらわれないように、あえて体の感覚を「動かす」のです。手を動かしてみるか、立つか歩くかしてみるのです。
 方針を立てるとすれば、「眠気があるときは動く。眠気がないときは止まる(座る)」というのが一番現実的だろうと思います。

  お寺や瞑想道場だと、座る時間、歩く時間をわりと画一的に決めてやっていますが、サティ(瞑想)の本質をふまえるならば、あまり時間にこだわらず、自分の心の状態(集中力の程度)にあわせて、動いたり、止まったり(座ったり)と臨機応変にやってみるほうがよいと私は思います。

 ただ集中力というのは、ある程度の継続(八正道にいう正精進)がないと強化されません。だから最終的には、三〇分、一時間、あるいはそれ以上の時間、つまり「継続することがちょっと苦痛(しんどい)」と感じるくらいの時間、継続する必要があります。そのときの態勢は選んでよいです。座っても、立っても、歩いてもよい。ただし長時間継続することが条件になります。
 まだサティの力、集中力が弱い段階のひとは、とりあえず「動くサティ」(歩く・体を動かす瞑想)を基本にすえることがよいと思います。

Q また、歩いていたり、何か動いているときに、呼吸に集中する瞑想をすることは良いものなのでしょうか? それよりは、何かの動作をしている場合、呼吸ではなく動作の方に集中した方が良い瞑想になるのでしょうか?……

続きは季刊誌にて。

なんだか寒さが増してきました。風邪引く人も出てきたみたいなので、のどに気をつけましょう。

みんながしあわせでありますように……


小さな出会い、旅みたいな日々

10月7日
今日は西東京の某福祉施設で座禅エクササイズ。

全員女性だったのが印象的でした(そういう企画だったそう)。
3時間たっぷりの禅と仏教の話にみんなついてきてくれた。

企業研修で使っている「悩みのタネ占い」をやってみた。

これは、タイトルこそお遊びに聞えるが、日常の悩みや心理(たとえば「緊張してしまう人がいる」「最近ユーウツである」など)について、「よくあてはまる」に◎、「あてはまる」に○、「あてはまらない」に×をつけていって、

自分にとって一番切実な悩みの「原因」は何なのかを探る、というワークシートである。

これ、心理分析っぽいのだけど、じつは仏教心理学、禅の知識に基づいている、かなりユニークなもの。

それぞれの悩みの最大の原因をさぐって、対策法を考えるというもの。

心に残ったのは、同い年のひと。過去4年この活動をやってきて、もしかしたら「同級生」は初めてだったかも。


みんな、一生懸命に生きている。

心優しいひとは、みな、気づかないうちに、背負わなくてもいい荷物を背ってしまっていたりする。

考えること自体をセーブしないと、悩み事はどんどん増殖してしまう。

「妄想」は、悩み事の温床みたいなものだから、まずは座禅エクササイズ(禅・ヴィパッサナー)で、妄想を抜ける練習をする。

きっと、妄想を抜ければ、悩みは、これから解決していけばいいただの「課題」になっていくはず。


今日感じたのは、今回もいろんな世代の人たちが参加してくれたけれども、

悩みの原因、人生のテーマは、やはり似ているということ。

それだけ禅、仏教が役に立てるということでもある。

ココロの正しい使い方を知ることができれば、今は「100キロ」くらいのココロの重荷は、きっと「5キロ」くらいに減るかもしれない。

仏教は、小さな役割しか果たせないけれども、どんな生活・状況にあっても必ず役に立つ。


今日出会えたひとたちと出会えたことは、幸せでした。
「同級生」のひとも、幸せであれ、と願いました。

こうしてちっちゃな旅のような毎日がすぎていきます。小さな出会いをさずかる毎日。

大丈夫。なんとかなるから。










夏の終わりに思う、葬儀が必要な理由

こんにちは、草薙龍瞬です。

甲子園が終わって急に秋めいた感もありますが、もう夏は終わりなのでしょうか?(あとひと月くらい個人的には続いてほしいような^^)

季刊誌の夏号が出来上がりました。今日発送したので、今週中には着いてくれるのではないでしょうか。

今号は、「見送るとき」という特集です。

誰かに先立たれたときに、どのような想いで見送ればよいのか――。

最近は、「葬式不要論」というものも出てきていますし、
無宗教・無宗派の葬儀を、という傾向も強くなってきている気がします。

ただ、誰かと死に別れるというのは、
残される側にとっては人生の大きな出来事ですし、
先立つ側にとっても、人生の一部であることに変わりはありませんね。
(どんな思いで先立つかによって、人生そのものの色さえ変わってくるのかもしれませんから。)

いずれにとっても、生きることの一部。ならば、そこにたしかな意味を創り出す必要があるように、個人的には思います。

「葬式は不要」と決めたところで、では、自身の人生の一部を意味づけることすら無くしてよいのか。

「無宗教の葬儀」とはいうけれども、しかしそれは、これまで葬儀という命の一部を、仏教やほかの宗教に委ねてきて、意味づける作業を怠ってきたから、そういう発想が出て来るともいえるわけで、

宗教行事として行うかどうかとは関わりなく、「見送るとき」は、人間誰にでも訪れる、避けられないものではないでしょうか。

その避けられない出来事に、ひとはどのような意味を見出すのか。見出
せばいいのか。

そこは、別に宗教でなくても、仏教でなくても、特定の宗派によらなくても、どのような形で行うにしても行わないにしても、
やはり考えなければならないことであろうと私は思います。

そうでないと、生きてあること、出会ったこと、今なおつながっていること、今そのもの、人生そのもの意味が希薄化してしまう。

それは、故人が生きていたことの意味をも希薄化してしまうことでもあるし、生きてある者たちの人生の意味をも希薄化してしまうことにならないでしょうか。

これまでの葬儀のしきたりをただ踏襲することが正しいわけではないし、
これまでのしきたりについて疑問・異議があるからといって、「では全部なしにしましょう」というのも正しい思考ではない。

死に別れることが人生に不可避の出来事であるならば、その必ず訪れる人生の一部に、自分たちはどのような意味を見出すのか、何をもって正解――自分たちにとって納得のいく見送り方――とするのか、

そこはやはりきちんと考えて、答えを出す必要があるかと思います。

宗教であろうがなかろうが、仏教によろうがよらなかろうが、そのようなことは本質ではないように思います。

あなたはどのような思いで、そのひとと出会ったこと、縁結ばれたことを受けとめるのか。

あなたは、どのような思いで、そのひとたちと出会い、縁さずかったことを振り返ろうと思うのか。

これ(葬儀)は、見送る側にとっても、先立つ側にとっても、お互いがこの世で交わしたつながりに、「ひとつの意味」を見出すための作業なのです。

怠るべきことではありません。むしろ前向きに、意識して取り組むべき、大切な出来事なのだろうと思います。

別れてなお、生前と変わらぬ、あるいはそれ以上の、友愛や愛情をもってつながりうるような、そういう生と死とを結ぶ行事というのは、ありえないものか――そういう思いで、僧侶として活動させていただいております。

今回の季刊誌は全部で44ページとちょっと大作になりました。その一部(3分の1弱)をおすそ分けさせていただきます(ご希望の方は、メールにてご連絡ください)。

今回は3人の方にご協力いただきました。ありがとうございます。

印刷したものは教室でお配りしております。

8月ももう終わり――また新しい季節、秋に入りますね。
日本は本当に季節に恵まれた国ですね。

草薙龍瞬合掌

この世界に「信頼」をもとう

8月23日
今日は日本仏教講座。久しぶりに復活した人もいて、お盆明けにふさわしい賑やかしい教室になりました。

今回は、法然の話。前回からの浄土信仰のつづきでした。

命閉じること、つまり死を、どのようなものとして受け止めるか。死をどのような現象として理解するのか。

死という未知の出来事について、どのような「理解」をこの心に置くかというのは、じつはたいへん大事。

もし誰かに先立たれたときに、それをどのような出来事として受け止めればよいのか。そのとき自分自身の答えを持っていなかったら、心は簡単に動揺し、また喪失に苦しむことになるだろう。

自分についても同じこと。もし「その先」についてひとつの理解を持っていなかったら、ひとは皆、これまで生きてきたのと同じ心と発想をもって、これから先も「ただ生きていく」だけになる。だけど、ゴールの見えない道のりというのは、どこか物足りない――というか、自分がどこに向かって進んでいるのか、最終ゴールが見えていないわけだから、「ただなんとなく歳を重ねていく」だけになってしまうことだろう。ひとによっては不安や怖れに駆られるかもしれない。

人生には必ず終わりがくるのだから――。ならば、

人生の先にあるもの、そしてその先の先にもつづくであろう、この世界――私たちが生きるこの世界――がどういう世界なのかを、きっちりと理解しておくことは、確かで大きな意味を持つだろうと思う。

今回やった浄土信仰の話は、いわば、死という人生の終わりに、ひとつの「理解」を見出すことを講義の目的としていた。

この世界とはどういう世界なのか――それは、つながりに基づいた、命を生み育む、豊饒なる力に満ち満ちた、恵みの世界――言葉にするなら、「慈愛に満ちた世界」といってよいだろうと思う。

ひとは、死んだのちに、この人生の苦を持っていくことなど、できようはずがない。苦の一つたりとも、死の先には持ってはいけない。

どの苦しみも、生きている間だけのものだ。

とするならば、死とは、生きてある間の苦を終わらせてくれるもの。苦から解き放ってくれる、ひとつの出来事だと理解してよいであろうと思う。

ひとは、命の完結をもって、人生にあったすべての苦から解放される。

その先にあるものは、つまりは、「安らぎ」なのである。

その安らぎの世界とは、私たち人間が生まれる前から、存在し続けており、また私たちが死したのちにも、永遠に続いていくだろう世界である。

ひとはなぜ苦しむのか。悲しむのか。それは、まさに心が作り出した迷妄・錯覚だとはいえまいか。

命の先には安らぎがあり、ひとはみな安らぎに向かって日々歩いている。怖れることなどない。遠ざけようとすることもない。

独りきりの人生であっても、その先には安らぎが待っていてくれているのであり、

もし自分の人生が安らぎに還ることを、知っていてくれる、受け止めてくれる、心やさしき縁者がいてくれれば、それはなお一層のすばらしい僥倖であるといえるだろう。

私は個人的に、ひとが命を閉じるときに、
「あなたが生きてきたことを私は受け止める、これからもあなたという命をちゃんと胸にとどめていきてゆく、だから安心してお還りなさい」――と伝えられるような仏者でありたいと思うし、そのような活動をつくっていきたいとも考えている。

大切なのは、この生の先に安らぎを見ることである。先立ってゆく命もまた、安らぎの世界へと還る。自分の命もまた、安らぎの世界へと還る。

この世界を、どのようなものとして「信頼」するか――それこそが私たちが考えるべき問いではないか。

悪意や疑念をもってみれば、殺伐たる世界にみえるかもしれない。悲しみをもってみれば、悲しみに満ちた世界にみえるかもしれない。

だが、この世界は本当は、命を生み、育て、次につないでゆく力に満ち満ちていている。

ひとはみなこの世界から生まれて、やがては生きてある間の苦しみのいっさいから解放されて、また安らぎの世界へと帰っていく。

この世界は「生きていきなさい」「生きていいのですよ」というメッセージに満ちた、無限のつながりと慈愛の世界である、と「理解」し「信頼」するのである。

これは、信じてよい理解であろうと思う。なぜなら、もしこの世界が、無限のつながりと慈愛とに満ちていない世界であるならば、宇宙開闢以来ここまで命の連鎖は続いてはいない。私たちは、この日ここまで生き永らえてはいないであろう。

すべての生命を育む力に満ちているからこそ、私たち生命の連鎖は、ここまで、果てしなく続いてきているのである。

だから、この世界を、もっともっと私たちは「信頼」していい。世界とはそういうものである、と「理解」すればよいのである。

浄土信仰では、世界に満ちた慈愛の力(はたらき)を、「阿弥陀仏」という無量の光として言い表した。
(※「阿弥陀仏」という言葉の原義には、「人格」はなかった。もともと阿弥陀仏とは、抽象的な、無限の寿命と光とを意味した。「はたらき(作用)」を象徴する言葉だった。)

阿弥陀仏は、時代を経るにつれて、だんだん人格化していって、人間の姿をした神様的な存在として思い描かれるようになっていった。だがもともとは、この世界に満ち満ちたひとつのはたらき・力を意味したと言っていい。そしてそのはたらき・力は、現代においてなお、この宇宙に存在する科学的真理のひとつでもある。

ひとの心に訴えかける「はたらき」としてとらえたとき、阿弥陀仏という言葉と、「慈愛に満ちた世界」という言葉とは、みごとに重なってくる。そのはたらきは、本質において共通している。

かつて新宿の街で、40すぎの若い女性が、伴侶を事故で亡くしてパニックになって私を訪れてきたとき、私が伝えたのは、原始仏教が説く「執著を手放せ」ではなかった。

「この世界は慈愛にあふれていて、ご伴侶はその世界に帰っていったのだから、安心していいのですよ」

という言葉だった。そのときの私の心には、浄土信仰の教えがあった。女性は安堵の笑顔になって帰っていかれた。

「極楽浄土」ではなく、「人生の苦から解き放たれた安らぎの世界」として伝えたのである。ひとが、その命に抱える苦から解放される・救われるという点においては、どちらの言葉をとっても同じである。そもそも仏教というのは、さまざまな表現・言葉の背後に横たわる、最も深く、共通する真実・真理を伝えるものだ。私は、原始仏教と浄土信仰がそれぞれにもつ思想の本質部分に心を下ろして、そこから出てきた言葉を伝えたのである。

この教室のように仏教を幅広く学ぶことの意義は、たとえば時代によって変わる仏教的な「言葉」の底を流れる、本当の意味の部分――ひとの心の苦をとりのぞく「はたらき」の部分――が徐々に見えてくることにある。

これはかなり難しい思索と洞察を必要とすることはたしかだ(それが自分独自のオリジナルの見解になってしまってはいけないのだから。あくまで仏教に根ざした「理解」でなければいけない。それが仏教に依って立つ者の流儀である)。

しかし、そもそも仏教思想というのは、ひとの苦しみ・悲しみをいやすことを目的とし、
その方法としては、けして非合理な物語によることなく、人間にとって合理的な、受け入れやすく、また現実にたしかな効果を持つ方法でなければならない。

そういう前提・作法に立ったときには、今回のような理解や表現もまた、仏教思想の流れからきちんと出てくるのである。

私たちは、死というものに、そして生まれまた帰っていくこの世界そのものに、ひとつの「信頼」を持つべきなのだ、という話。

世界はそもそも慈愛に満ちている。

命が還ってゆくのは、安らぎである。

そういう「信頼」を持てるかどうか。持っていい。これは人生観の問題である。宗教・信仰を信じることとは違う。世界観の問題である。

私は、そういう「信頼」にもとづいて、誰かの命終わるときを受けとめたいと願っているし、また自身の命終わるときについても、この信頼をちゃんと保って迎えようと思っている。

自分の人生に、その先に、この世界に、「信頼」をもつこと。

それが今回の結論でした。

※8月31日は夜の座禅会(午後6時~)です。

「わたしに座禅の才能ありますか?」

週末の日程
●8月 23日(土) 18:00 ~ 20:00   
日本仏教のすべてがわかる講座 「正しい命の閉じかた」(浄土信仰・法然・親鸞) 神楽坂
●8月 31日(日) 18:00 ~ 20:30   
日曜夜の座禅会  神楽坂 

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こんにちは、草薙龍瞬です。

お盆が明けて、東京も日頃のひとごみが戻ってきました。
私は、正月とお盆のいっとき、ひとがまばらになる街がけっこう好きです。

夏は自室にいるとエアコンもなく暑すぎるので、外のお店や電車の中で本を読んだり作業したりします。冷え冷えのクーラーがありがたいです(笑)。

●3冊目は、10月末発売になる予定です(あるいは11月)。

勉強法がテーマなのですが、英語や数学の話はさすがに難しすぎて売れないということなので(笑)、やはり生き方論がメインになりました。

前2作を「出してよかった」と思う理由は、一点だけです。それは、全国にいる、何か答えを探している、前に進むきっかけを必要としている、深い悩みに沈ん でいるひとたちとつながれたこと。

本を出していただいたからこそ生まれた出会いというのが、確かにあります。ごくごくわずかですが、ひとの幸せに役立っ た。だれかが幸せになる可能性が生まれた。

その一点でのみ、本を出してよかったと思います。とどのつまり、私の活動は、それだけが目的です。誰かの幸せに役に立てればいい。

本も、売れるのがもちろんベストなのですが、それもまた新しい出会いにつながるから。幸せの可能性が増えてくれるからです。

みなさんもぜひ、草薙龍瞬と誰かとの新しい出会いを応援してくださいませ。草薙龍瞬を応援するというよりも、幸せが生まれる可能性を後押ししてもらえたら、、、と願っています。


●座禅の教室で、「わたしに座禅の才能がありますか?」という質問がありました。

「才能」ですかぁ・・・考えたことありませんでした。

座禅というのは、才能でやるものでも、趣味として取り組むものでもきっとなく――心の習慣ではないかな(であるべき)と思います。

体の感覚を意識すること。気づくこと。つねに感覚と心がつながっていること。それが心の本然(本来のあるべき姿)。

感覚とのつながりが抜けてしまうと、人間の心はあまりいいことを考えません。雑念・妄想にとられて大きく翻弄されてしまいます。

座禅をはじめて体験するひとは、座禅=気づきの習慣がないところでこれまで生きてきたので、アタマの中はきっとまだまだ落ち着かない、せわしない状態なのかもしれません。

次々に雑念がわいてきて、あまりにも集中できない。考えないということができない。だから「才能ないのかな」とつい思ってしまう。

でも心配することはないと思います。習いごとというのは、最初はだれもができないものですよね。

毎日練習することで徐々に身についてくるものなのです。

才能というより、「ああ、これは必要なことだなぁ」と思えるかどうか。

たとえば、3か月努力できるかどうか。

歯を磨いたり、お風呂に入ったりするのと同じように、心を落ち着かせることもまた、習慣になることが望ましいのだと思います。

まずは1日15分、ひとりの時間を作って、おなかのふくらみちぢみに意識を向けて、感じ取るようにしてみませんか。

1日15分の習慣。きっとそれで、何かが始まります。




お盆前の教室から

お盆入り前の8月9日(土)は、
午前は東武、午後は神楽坂で2つ教室がありました。

全部で8時間近く――充実した一日でした。

●シリーズ日本仏教講座では、法然、親鸞に代表される“浄土信仰”――“あの世”論――に突入。

といっても、この場所は、出来あいの思想をただ紹介するだけでなく、きわめてリアルな問題意識に立っているので、

最初に「まんが日本昔話」の映像(『和尚さんの地獄めぐり』)をみんなで見て(笑)、

五木寛之氏や、納棺士の青木新門氏(映画『おくりびと』のモデルになった方)、田口ランディ氏らの文章をとりあげて、現代人にとっての死を考え、

そこからさかのぼって平安末期の人々の「死後のイメージ」(おどろおどろしい地獄絵図――源信の『往生要集』)を紹介したのちに、

「死後の世界への恐怖」から人々を解き放った、日本仏教の革命家・法然の生い立ちに入る、という、

なかなか壮大な?構成になっています(法然の生い立ち編は次回8月23日)。

さらに、最近、理研研究員のS氏が自ら命を絶ったという、かなしい出来事をふまえて、

「原始仏教の世界では、自殺・自死というものをどう扱っているか?」をテーマに、とある仏典のエピソードを紹介。

けっこうディープな内容になりました。(そうそう、草薙龍瞬が少年だった頃に体験した、怖い話のおまけつき。)

●ひとは、死というものに、ついついとらわれてしまいがち。そのくせ、人の死にも自分の死にも、けっこう無頓着だったりする奇妙なところがある。

つまり、他人の死については、動揺する、憤る、悲しむ一方で、

今回の理研のSさんの例のように、騒ぐだけ騒いで、その実、そういう世の中のありよう(報道の仕方とか、そういう話題に飛びつく一般の人たちとか)こそが ひとを死に追いやっているかもしれないという自己反省はいっさいなかったりする。他人の死は、あくまで他人事の域を出ていない。そういう印象がある。

他方、自分自身の死についても、死するときに心に何を思うのか、あるいは死することを前提として、では今をどう生きて準備すればよいのか、という発想はあまりなく、ただ世間の話題・動き、日々の雑事に追い立てられて、なんとなく年を重ねているだけのように見えることもある。

ひとは、死についての態度が実に曖昧だ。盲点のように、なぜかそこだけ輪郭がぼやけてしまっている。

ちなみに法然が出現する前の日本人にとって、死は「地獄に落ちる」ことを意味していた。死することは恐怖であり、難題だった。

だが、法然が「念仏だけで救われる(浄土にゆける)」という新しい思想を打ち立てて以来、人々にとって救いはだんだん簡単になっていった。

そして今日では、地獄なるものはほとんど説得力を持たなくなり、死はますます軽くなった。

ひとは、「財産の生前整理」は熱心に考える。「お墓の維持・管理はどうしようか」と考える。その思考はじつに即物的(モノ本位)である。

昔の人のように「死んだらどこに行くのか」と真面目に考える人は少なくなった印象だし、「いずれ死すべきこの命を、いかなる役割のもとに、どのような動機のもとに生きるのか、使うのか」といった厳密な問いを考えている人は皆無のようにみえる。

最近は、著名な仏教学者さんが、「お墓や葬儀・戒名は、みな坊主がビジネスとして作ったものだから、不要である」なんて語っていたりする。

語るのは自由だ……しかし、こういう人たち(学者や、物書き僧侶さん、仏教系作家さん)たちというのは、「知識としての仏教」しか知らないように見える。個人的な「意見」しか語っていないように思える。

個人の意見だけ語ることと、「仏教のありよう」に一定の見解を語ることとは、厳密にはまったく違う行いだ。前者は自分を向いているが、後者は自分以外の命すべてを向いているはずだからである。

彼らは、個人の意見を語ることだけで満足してしまって、「では仏教とはいかにあるべきか」という具体的にして普遍的な思想・行いのレベルでは言葉を発していない(発想がない)ように見える。たとえば、

今の世の中、現実の人生の中で思い悩み、苦しみあがいている人たちにとって、どのような思想がふさわしいのか。

愛する人を不意に亡くしてしまったときに、どのようにして気持ちに整理をつけ、またこれからの日々をどんな思いで生きていけばいいのか。

求め求めて苦しむ心いっこうに止まず、これからどう生きればいいのか、またこのやり場のない満たされなさ、憤り、怒り、欲望をどう扱えばいいのか。


そういう切実な問いへの答えを探しあぐねている数多くの人たちに、

一体どのような理解のしかた、行い、形ならば、その人たちにとって最善の答えになるのか、というテーマについては、考えていないように映る。

仏教を語る声は、巷にあふれている。

しかし、仏教を語る人たちが語らねばならないのは、「自分はこう考えます」といった人生観や所信の表明では本当はなく、

むしろ、自分の意見という枠を超えたところで、もっと現実の世界をよく見て、感じて、人々にとって救いとなるような、新しい希望となるような、ものの見方や、具体的な行いについての提案のはずだ。そして、それを実際に自分自身がやってみるところまで歩を進めるべきである。

実際に、その言葉が、別の誰かにとっての答えとなりうるのか。実際にそれで救われたり、希望になりうるのか。そこまで実践的に考えることが必要のはずである。

ここまで視野を広げれば、仏教を語り、考え、生きる、ということは、じつは容易ならざることであると、察することができるのではないか。

●そういう厳密な、いわば、“(自分・ひとさまの)命のかかった”問題意識で、仏教を学び、語らうのが、この場所――そうありたいと思う。とある人が「毎回、 真剣勝負ですね」と感想を語っていた。それはそうである。私にとって仏教とは、人生そのものであり、また別の命に役立ちうる可能性だから、つまりは“命がかかっている” ものだからである。

法然を例にとれば、彼は、自身の死に方(往生のしかた)を、それまでとはまったく新しい形で見いだした。

それまでの日本仏教(天台、真言、奈良の南都仏教)が説く、高度な修行が必要とされる道ではなく、

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏ひとつで救われる、と信じた。

そして、それを自身の生き方とするにとどまらず、現実の苦難の中でもがき苦しみ、また悲嘆にくれざるをえない人たちにとっての「救いの方法」として、説き伝え、実際に多くの人々を救った。

人々は、法然の言うことを信じた。仏教をただ「語る」のではなく、仏教そのものを「生きる」身の上だからこそ、その言葉を信じたのであろう。

こういう仏教のあり方――「死」というものをとことん、自分のためだけではなく、死を前にうろたえ、あるいは死に向き合う心の態度が固まっていない多くのひとたちのために、考えつめる仏教。「死への向き合い方」を伝える仏教。ただの意見・言葉ではなく、人の心に確実に影響を与え、苦しみから救いへと、その心を変えうる力をもつ仏教。

そういう仏教こそが、本来の仏教であろうと思う。そういう仏教は、かつての時代にはあったし、今の時代にもあっていいはずである。

私自身、もっともっと仏教を学んで、実際の行い・カタチとして表していきたい。

――今回も楽しく充実したひとときとなりました。毎回、新しい話題が出てくるので、私自身とても勉強になるし、楽しいです。みなさんにも楽しんでいただけたら幸いです。

お盆休みに入られる人もいるでしょう。

よき日々をお過ごしください。


夏の始まり3 三重松阪へ

教室日程
●8月 2日(土)14:00 ~ 16:30
おとなの寺子屋 実用仏教編 ★人間関係を改善する3つの基本テクニック  神楽坂
●8月 2日(土)18:00 ~ 20:00
お坊さんが教えるこんな仏教の活かし方・原始仏教編 ☆サブテーマ:自分を見失わない方法&人間関係を改善する3つの基本テクニック
●8月 3日(日)10:00 ~ 12:00
座禅エクササイズ 神楽坂
●8月3日(日)13:00 ~ 16:00
日曜午後のゆっくり仏教学習会 第1日曜クラス 
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7月21日夕刻に、三重松阪へ。

ここは、興道の里の隠れ支部みたいなところ(隠れてはいないのだけど、別に法人や事務所があるわけじゃないので^w^)。

私が「姫さま」と呼ぶご婦人たちがおられます。

草薙龍瞬にとってはお友だちであり、

仏道を学び実践する道の友でもあります。

ちょっとグルメ仲間?みたいな感じにもなりつつあるかも?


22日は、みなで料亭「与左衛門(よざえもん)」に行きました。

料亭といっても、東京の人がイメージするような豪壮なお店ではなく、

山の中の古い民家にて、とある青年がひとりで切り盛りしている和食のお店です。

この青年は、コース料理をお客さんに提供しながら、書とか詩のようなものを嗜[たしな]んで、お店に展示したりしています。

今回は、「姫さま」5名と私に、「思いついた一字を言ってください、それを書に書きます!」と言ってきました。

みなそれぞれに思い浮かんだ字を伝えます。

それを聞いて、アタマに出てきた書を、色紙に書いてプレゼントするという趣向。

(毎回思うのだけど、この青年のフットワークの軽さは見習いたいものです(笑)。私なんぞは、漫画のサマネンひとつ書くにも、線一本が不本意で十回くらい書き直したり、そのくせ出来たものはあまり変わらなかったり……。)

私は、「念」の一字を書いてもらいました。

慈しみを想うときも、

心の汚れを吹き消し流すときも、

業を抱えたひとと向き合うときも、

法事で経にのせて想いを送るときも、

「念」(心の強さ・思いを送る力)が必要になります。

いうなれば、この命の、この人生における使い道の土台。それが「念」。

そして、毎回ありがたくいただく、名料理の数々(名前わかりません~~~(笑)。冷やしうどんの若鶏の竜田揚げ添えとか、ご飯にやわらか牛肉を乗せた鰹だし汁のお茶漬けみたいな??)。

今回の旅だけでも、ひつまぶしとか、カルパッチョとか、てんむすとか、あまごとか、新しいことばが出てきました(私にとっては新しいのです!)。


一泊させてもらって、翌日23日には、酵素風呂と酵素ドリンクをあつかっているお店を訪問しました。

そこで、ほんの少しだけ、お経を読む機会を授かりました。

最近は、言葉ではなく、ただ経の声を届ける機会も増えてきました。

読経というのは、理屈じゃない。意味がわかる必要はなかったりする。

ときには、ひとの深き業を打ち払う、烈しい念を送ることもあるし、

相手の悲を感じ取りながら、寄り添うように贈る経もあります。

先立っていった命の安らぎ、そして残された命のこれからのしあわせを念じることもあります。

そのときそのときで、声の色、抑揚、高さ低さ、経の順序もちがうし、

全体の流れも違ってきます。その場にいるひとたちの心の状態によっても変わってくる。

これもまた、芸術などと同じような、創造の瞬間なのかもしれない。法事というのは、本当はすごく創造的。そしている人の心が動くもの。何かが残るもの――。

うまく念が届いたとき、というか、心が共鳴できたとき、その場のひとたちが想いを共有しているときなどは、

ほんとに念ひとつ、経の声ひとつで、その場の空気が、色を変えるようにみごとに塗り変わります。

ちょっとでも、何か心に善き変化、浄化が生まれてくれたらさいわい^v^。


最近させていただいた法事について、メールでご感想をいただいたのだけど、こちらの念が届いた様子で、よかったと思いました。

法事は、ほんとに大切。心を浄化するため、とらわれを手放すためでもあるし、

先立っていった命とのつながりを改めて創り出す場であり、

これからどのように故人と自分とがつながって生きていくか、

故人にどのような想いを向け、あるいは故人をどのような姿でこの胸にとどめ、

どんな思いを向ければよいのか、を改めて覚悟する機会でもあります。

こういう機会がどんどん増えてくればよいと思う。
何かに目が覚める可能性として――。

みなさん、法事にぜひ呼んでください。新しい可能性が生まれつつあります。

お土産として、酵素飲料なるものをいただきました。

要は体内の酵素を活性化させる触媒としての意味があるらしい。これから毎日飲んで、心と体の浄化につとめたいと思います(笑)


新しい出会い・ご縁がこうして広がっていくことは、幸いだ。

「わたしの葬儀の予約を」という話も出てきたのだけど^^、

できれば、みんなが私よりも長生きしてほしいなあ――、

と心の内で思っていた。

ひとを失うのは、やっぱりさみしく悲しいからね。

できれば、わたしにとって大事なひとたちがこの世に生きてくれているという安心・安らぎの中で、命閉じられたら、と思うでしょう?

ほんと、長生きしてください。すこやかに、今のまま元気で、仲よく――。


生きてある間の悲しみは、どうしたって避けられないものであることは確か――。

ならばどうしようか――

悲しみを感じたら、それと同じぶんだけの喜びがあるからその悲しみを感じるのだ、と、

だから、なんとか悲しみに沈みこむことなく、共に生きた喜びを、

どんどん、ますます思い返して、悲しみ混じり喜び混じりの涙を流そう

――そう考えることにしよう。


最近、ひとを見送る機会に遭遇することが増えてきた。

私自身も見送る側に立つのか、あるいはそして見送られる側に立つのか――

いずれにしても、この命は、喜びを忘れずに、まっとうするぞ、と念じつつ。

お土産の酵素ドリンクと、贈っていただいた愛らしい、明るい葉色の盆栽をかかえて、

てくてくと鈍行を乗り継いで、夜の東京に帰ってきたのでした。


生きとし生けるものが幸せであるように――

とても意義深く、心に残る夏の幸先[さいさき]となった。

今年の夏はよい夏にしたい。
頑張ります。

よき夏を!


夏のはじまり2

●7月27日(日)13:00 ~ 16:00 神楽坂
 仏教の学校・日曜拡大版(7月総集編)  

●8月 2日(土)14:00 ~ 16:30
 おとなの寺子屋★人間関係を改善する3つの基本テクニック  神楽坂

●8月 2日(土)18:00 ~ 20:00
 お坊さんが教えるこんな仏教の活かし方・原始仏教編 (サブテーマ  人間関係を改善する3つの基本テクニック

●8月 3日(日)10:00 ~ 12:00
 座禅エクササイズ 神楽坂

●8月3日(日)13:00 ~ 16:00
 日曜午後のゆっくり仏教学習会 第1日曜クラス 
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夏の始まり2

東京から名古屋までは7時間弱。熱海、浜松、豊橋、名古屋と、意外とあっという間。

名古屋では、御縁ある人たちと食事会。

昨年10月の名古屋での講座で出会ったひとたち。みな案の定、道心――道を求める心――のある方たちで、いろんな問いや話題が出てきた。

やっぱり直接会うとちがいますね――メールなどではとても交わせない実のある語らいができたように思いました。

また開催したいと思います。

※ちなみに夏のあいだは18きっぷがあるので、小回りの利いた遠出が可能です。

相談のある方、仏教の話が聞きたい、遠方の方がおられましたらぜひお声がけください。
北海道から九州まで、鈍行列車でチャレンジします。

草薙龍瞬・夏の全国行脚――恒例企画になると面白いんじゃないでしょうか(笑)。

今日は暑うございました。ご自愛ください。


夏のはじまり1

講座日程
●7月26日(土)18:00 ~ 20:00   神楽坂
 講座「日本仏教の魅力を学ぶ」 空海・密教&浄土信仰 ☆サブテー  マ あやしい宗教にハマらない方法
●7月27日(日)13:00 ~ 16:00   神楽坂
 仏教の学校・日曜拡大版(7月総集編)  
●7月31日(木)14:00 ~ 16:00  
 おとなの仏教塾~仏教の魅力をまなぶ 巣鴨
●8月 2日(土)14:00 ~ 16:30  
 おとなの寺子屋★人間関係を改善する3つの基本テクニック  神楽坂
●8月 2日(土)18:00 ~ 20:00  
 お坊さんが教えるこんな仏教の活かし方・原始仏教編 (サブテーマ  人間関係を改善する3つの基本テクニック
●8月 3日(日)10:00 ~ 12:00  
 座禅エクササイズ 神楽坂
●8月3日(日)13:00 ~ 16:00  
 日曜午後のゆっくり仏教学習会 第1日曜クラス 

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夏のはじまり 1

7月21日(祝)の早朝、東京から東海道線にのった。

今回は、名古屋、三重松阪への小旅行。久しぶりに18きっぷを使っての鈍行列車で行くことにした。

最近は新幹線をお世話いただくこともあるのだけれど、せっかくの夏なのだし、ローカル線を乗り継いで車窓から見える土地の風景を味わいたいと思った。

毎回、旅に出るときに想うことがある ――

あの瀟洒な住宅街の坂道を歩いているひとは、どこに向かっているのだろう。

あの山すその一軒家には、どんなひとが暮らしているのだろう。

風はしる稲穂のむこうの赤さびた壁の家、

ときおり数分止まる小さな駅のホームから見える海、

波光らせて駆けおりてくる青く広い川――。

列車が走るに連れて刻刻と変わる、ひとの暮らしと自然とがある。

わたしはそれを見つめて、ときに川を泳ぎ、海原をなで、見知らぬ公園にたたずみ、あぜ道をひとり歩く。

もしその場所に生きるひとの体にこの心が移れば、どんな景色、空気、人生が見えるのか。

かつては、車窓に見える風景のどこかに、自分の居場所がないかと探す思いで見つめていた。

今は、居場所を探す必要のなくなった私がいる。

今は、どの場所でも、人生を見つけることができるから。

だから今は、心を無にして、ただ他者[ひと]の人生を生きようとしてみる。

道を歩くあのひとになってみたり、川釣りをするかのひとになってみたり――。

今は、さまざまな人生を感じとるために、車窓の外を眺めている。

さあ、夏が始まった。





まあるいスイカ

最初に告知:
7月21日(祝)午後2時頃から名古屋で食事会
デニーズ 名駅西口店 (Denny’s) 飲食代のみ。
席に限りがありますので、参加希望者はメールでご連絡下さい。koudounosato@gmail.com

土 7月 19日 14:00 ~ 16:30 ★原始仏教を現代に活かす
おとなの寺子屋 お坊さんが教える仏教のこんな活かし方
神楽坂・赤城生涯学習館
土 7月 19日 18:00 ~ 20:00
お坊さんが教えるこんな仏教の活かし方 原始仏教編
神楽坂・赤城生涯学習館
日 7月 20日 10:00 ~ 12:00
座禅エクササイズ 神楽坂・赤城生涯学習館
日 7月 20日 18:00 ~ 20:30 ★夜の部
座禅エクササイズ 海の日前夜祭
神楽坂・赤城生涯学習館

7月12日

今朝、速配でまんまるいスイカが2つ届いた。

ちょうど一年前に出会った、とあるご婦人から。八十すぎの方。

会った頃は、ご婦人は、長い人生のほんとに谷底、暗闇の中に突き落とされた感のある状況だった。

もうこのままでは生きていけない、という、後ろがあと一ミリもないギリギリのところまで追いやられていたときに、偶然、娘さんが本屋に並ぶ私の一冊をみつけ、出版社に連絡してくださって、ご婦人と私との縁が生まれた。

限りなく細い糸をかろうじてつなぐようにしてたどりついた、その日の対面だった。

その日、私が目の当たりにしたものは、これまでの人生の中でおそらく最も劇的とさえいえるほどの、ひとの“蘇生”だった。

闇の中で苦しみあがいていた孤独な魂が、語らいの中で「光」を見つけ、みるみると晴れやかに輝いていく瞬間を、目の当たりにした。

人は、地獄から天国にゆける。修羅から仏になれる――あくまで比喩的表現だが、そんな思いがした。

半日に渡る長い向き合いの後、私は夜行の電車にひとり揺られながら、

闇の中でちいさな、しかし力づよい灯火が鮮やかに明るく浮かび上がったその日のことを想っていた。

ひとはみな闇を抱えて生きている。

いな、闇の底をさまようように、もがき、あがきながら生きている。

しかし、その闇の中に、光がともる瞬間がある。

よろこびの火。希望のともしび――。

「今日から、わたしはこの苦しみを乗り越えることをテーマにします」と、ご婦人は、はっきり力づよく宣言された。

そして八十にして、「いつくしみの実践」として、老人ホームにボランティア志願した(断られちゃったけど)。

私が本の中で紹介した「千歩・禅エクササイズ」を日課にして、川べりを毎朝散歩することにした。

たまたま川沿いの道の緑を手入れしている男性と出会って、手伝わせてほしいと頼みこんだ。

それからは緑と花を育てるボランティアとして毎日汗を流した。

幼稚園の子どもたちが落ち葉拾いを手伝ってくれたときもあったという。
ご婦人の、変貌ぶりは、みごとというしかないものだった。

わずか、三か月、半年のうちに、苦しみの中で喜びを見出せるようになった。

「今は、毎日が感謝、感謝のきもちでいっぱいです」という。

好転し始めた人生がつぎの幸いを招いたのか、娘さんには新しい命が宿ったという。

そして、「ご僧侶さま(私のこと)の幸せ」も毎日念じてくださっているのだそうだ。

散歩の道すがら、まんまるいスイカが売られているのを見つけたという。

で、私の顔を思い出し(笑)、ご僧侶さまに食べてもらいたい、と思いついて送ってくださったのだそうだ。

そうして、台風すぎて途端に蒸し暑くなった今日の朝、2個のスイカが送られてきたのである。

まあ、なんとも喜ばしい、すばらしい贈り物であることか。

今日は日本仏教の講座の日だったので、さっそく切って教室に持っていった。

甘くてみずみずしい、真っ赤なスイカであった。

みんなが食べてくれると私もうれしいのである(喜)。

あの夜からちょうど一年――。

空が夏の色をしていた。




ひとを笑うことって・・・


7月10日(金)

台風一過の今日はとても暑かったですね。

各地でいろんな被害が生じた様子です。

教室のシニアのみなさんが、「7月でこれだけの規模の台風が来るとは、9月、10月になるともっと烈しくなるかもしれない」と話していました。そうなるのかもしれません。


自然が引き起こす災害も、人間が引き起こす対立・悲劇も、

ほんと、この世界には痛みばかりが次々に生まれているような気もします。

憎しみ合うことが目的ではないだろうに・・・・・・

いつまでお互いを非難しあい、怒りあえば答えにたどり着けるのか――。

たどり着くはずがないじゃないですか、お互いに。

争いの先に勝利なんかありえません。
いがみ合いの果てに幸せが訪れようはずもない。

方向性はどこにあるのか?ということなのでしょう(八正道の正しい思考)。

人間は、本当に、戦うこと、憎しみ合うことが好きなのだと思います。


最近、話題になっている某県議会議員さんのことも……

もちろんあやまちや奇矯な部分はあるにしても、

みながみな、笑いの対象にしている様子をみると、う~~~ん、と首をかしげてしまいます。

ひとには心というのがあるからね。

非は非として向き合うことが正道(正しいこと)。

でも必要以上に笑うというのは、どうなのかな、と。


梅雨の間、来られなかったシニアの方が久々に教室に来られました。

ただ――お顔がとても暗く、険が増しているのが印象的でした。

ひとは、みな業――人生を作り出す力――を抱えているから。

この業というのは、たいがい負・ダークな力の方が強いのです。

人間誰でも、怒りがあり、物惜しみの心があり、慢があり、疑(ぎ)がある。

ひとりのときに、満たされて微笑んでいられる心というのは、本当にまれ。

「何かを求める心」があって、その心を快の刺激で満たせない、ひとりぽっち、あるいは退屈な状態は、
その状態それ自体で「不満」を生み出してしまうもの。それが心。

ひとの心は、不満を作り出すほうが自然体だということです。

だから、独りでいるのはあまり好ましくない。やることがなくて退屈、という状態も。

ご婦人は、朝お経をあげたら、もうやることがないのだとか。ペットも亡くなってしまったし、新しいペットを飼うには年を重ねすぎたし、と言う。

なにか、やること見つけることかもしれない。
何がいいだろう――と今思案中^^。

そのご婦人、一緒に食事に行って、たくさんおしゃべりしたら、

もとの晴れやかなお顔に戻っていかれました。


ひとと会うこと。

そして、仏教に触れること。

善き時間が、善き心をつくる――これはたしか。

仏教をお伝えしていて、一緒にいる時間が間違いないと思えるのは、

やはり仏教が幸せになる方法を教えてくれるからです。

仏教の時間はしあわせの時間。

みんなが幸せでありますように――。


とある法事の記(2014年6月末)

お知らせ +++++++++++++
7月21日(祝)午後・22日(火)夜のいずれかに、名古屋駅周辺にて食事会を開きます。名古屋近辺にお住まいの方、ぜひお会いできればと思います。
ご都合のつく方は、メールにてご連絡ください。正式な日時は追ってご連絡します。当日のご用意は各自の食事代のみです。

よろしくお願いいたします。
++++++++++++++++++

さる六月末の日曜日(二〇一四年六月二九日)に法事に行ってきました。

お呼びいただいたご遺族の方には、ご縁たまわりましたことつつしんで御礼申し上げます。

以下、回想録です――

都内の某霊園まで。お寺が経営している所だけど、宗派に関係なくお墓・法事を扱っているところだそうだ。

ご遺族に直接会えるのかと思いきや、お坊さんの控室なるところに通される(そうか、複数の法要が行われるらしい)。 

ご僧侶方が着替えをしていた。お一人は白装束の上につややかな紫の法衣。もうお一方は黒地に黄色の袈裟(そうか、日本のお坊さんは現地で着替えるんだ)。

喪主のご夫妻とあいさつ。お会いするのは今日が初めてである。仏教に長年親しんでおられたご夫妻が、南方アジア仏教と、日本の大乗仏教との両方に通じている僧侶を、とインターネットで探して見つけて下さったのが機縁である。実に時代を反映したご縁である。

今日お見送りする故人のお二人(ご両親)の年譜をいただく。ご準備いただくのにたいへんな労を要したご様子である。ありがとうございます。

時間までしばし待つ。あれ、今さっき本堂へと出ていった紫のお坊さんがもう戻ってきた(十分くらい?)。カバンに法衣をたたんで、帰ってゆかれた。あれ、もうお一方も……。

お寺のスタッフの方がやってきて、「法事三〇分、納骨二〇分です」という(ええっ? 三〇分しかないの?)

「ご遺族の方が本堂の方におそろいになりましたので、どうぞ」と言われる。十一時半スタートのはずが、もう十一時三九分。この場合あと二〇分ちょいしかないということ?

本堂に入ると、私から見て左側にお席に座っておられるご遺族の方たち。右側、つまり本堂奥に「荘厳」[しょうごん]なる法事のための仏壇が。掛け軸には、東洋風の釈迦牟尼仏と、その下に並ぶ道元禅師と達磨大師。

仏壇には、お坊さんが座って読経する経台(机と椅子)がある。その右手に大きな木魚、左手に打鳴(リン)が二つ。さらに経台をはさんで左右に三つずつ別の経台が並んでいる。なんのため?と一瞬思ったが、お経の輪読や補佐を勤めるご僧侶方が座る席らしいとわかった。

困ったのは、仏壇とご遺族の間に、今日お見送りするご両親の遺影と焼香台が置かれていること。これでは読経する僧侶とご遺族が分断されてしまう。

さらに、仏壇全体が、ご遺族の座る床よりも高い段に位置している。

これは権威づけの意味があるのか、あるいは舞台装置としての意味を持っているのか。ご遺族の方からみれば、お坊さんは遠くに背中を向けて座ることになるし、その手前に焼香台があるから、お坊さんが何をしているのかまったく見えないことになる。

私の理解では、法要とは、仏が説く真実(法)とそれに帰依する(よりどころにする)人がつながる行事である。だから、インドでは葬儀や故人を悼む今回の一周忌のような法事だけでなく、たびたび法要をする。おめでたい日にもよくやる。

そして、故人を見送る四十九日や納骨、故人を悼む回忌(忌という字は適切ではないと思うが)の法要においては、仏法という大きな流れと、それに帰依する生者たちと、先立っていった故人とを結びつけることが目的になる。導師をつとめる僧侶は、そのつなぎの役割を果たす媒介者である。

だから、僧侶は、故人の ご遺影とご遺族の中間、その双方が見える位置にいるべきである。ご遺族からは故人と僧侶の両方がみえること。

インドでなら、僧侶も人々もみなお寺の地べたに座る。ブッダの像と僧侶が、人々の座る位置からはよく見える。みなで手をあわせて一緒に読経する。

日本では、最初から僧侶と人々との間に距離があるのだ。ご遺族からは仏の姿さえ見えない、今回のようなつくりもあるらしい(しかし道元禅師まで一緒に掛け軸におさめるって、なんとも開祖本位の日本仏教らしい)。

さて――しばし戸惑ったのち(新しい家に引っ越した犬猫が戸惑う気持ちが少し分かった気がした)、結局仏壇には上がらず、仏壇とご遺族の中間に、つまり本堂の脇に位置することにした。雪駄をぬいで直接床に立つ。

喪主の方に紹介してもらったのち、法要に入る。まずは故人――喪主様にとってのご両親――に参拝をして、礼拝文を唱えるところから始める。

礼拝文[らいはいもん]――仏法という河の流れ(仏法僧の三宝と説かれることもある)への礼拝。そしてお見送りする故人への礼拝。ご挨拶である。

懺悔文[さんげもん]――生者が心きよめること。そのためにはつつしみに立つこと。自らの過ち・至らなさを懺悔すること。

そして、ご用意いただいたご年譜のほうを読み上げる。

ご両親は、ともに戦争時代に十代をすごした方たち――年譜の記録を追うだけでも、お二人がどんな人生を送ってきたのか垣間見える。私はここでなるべく想像を尽くして、故人のご遺影と過去を脳裏に刻み込む。でないと見送る念がきちんと伝わってくれないように思うから。

ここで残念だったのが、さっき言われた「三〇分」の時間制限。もうかなり経ってしまっているはず。

(あとで思ったのだが、紫のお坊さんたちは読経だけで「お勤め」を終えて帰ってゆかれたのだ。だからあんなにも早かった。霊園のほうも、お坊さんがお経だけ読んで帰ると知っているから、あらかじめ「三〇分」と時間をきめている。しかもたくさんのご遺族が休日に法事を行うから、そうやって時間を切り分けて一日を 管理しているのだ。なんとも日本的、といえなくもない運営方法である。)

時間が足りないので、ご年譜の多く、特に後半部分を省かざるをえなかった(せっかくご用意して下さったのだが……)。救いは、ご遺族はみな、故人お二方の道のりをだいたい知っているとのことである。でも小学生低学年の子供さんお二人もいた。ゆっくり年譜を読み上げて、この子たちにも、おじいちゃん・おばあちゃんがどういう人だったのか、心に伝わるようにというのが本来の願いである。

特に、今回のお二方のように戦争中に十代をすごした方々というのは、自身の夢を追いかけるよりも学徒動員で勤労や従軍に駆り立てられる身の上だ。年譜の中の「○○年に○○した」という記述のなかにも、さまざまなご本人の思いがす けて見える気がする。そういう部分をお伝えしたかった(その意味では今回のご年譜ほど詳しくて、故人の人生を振り返るに最良のものはなかった)。

ご年譜のあと、「慈・悲・喜・捨」の瞑想をする。

本来、心の内側を見つめる修行(禅とかヴィパッサナー瞑想と呼ばれる)を「瞑想」と呼ぶのはふさわしくない。あれは観察であり明察(あきらかにみること)である。「目をつむって想う」ことではない。

しかし、故人に想いを馳せる時間は、まさに「瞑想」である。慈悲喜捨という四つの心がけをもって、故人に思いを馳せる。

慈――故人の安らぎを願うこと。

悲――故人の生前の悲しみ・苦しみを感じ取ること。

喜――故人の生前の喜びを感じ取ること。さまざまな喜びがあったことであろう。

捨――というのは、残された生者たち自身の欲や怒りや妄想を手放すことである。心をクリアにして、故人のよき思い出を胸にいつまでも留まるようにする意味をもつ。

その上で、ねぎらいの儀へ――読経に合わせて、ご遺族ひとりひとりにご焼香してもらう。

できれば、この段階までにゆっくりと時間をかけて、故人の人生を胸に刻んでいただきたい。そのとき出てくる思いを、ご遺影に送ってもらえたらと思う。どん な思いでもよい。それぞれの心に浮かぶ最も素直な故人への思いを伝えるのである。 

そして、慈経の朗読(日本語訳とパーリ語。ただ時間の都合あって全文の読誦はできなかった。)

最後に護経――これは僧侶から生者のみなさんへの、幸せであれ、安らかであれという思いを贈ることである。

これら一つ一つを、どこまで純粋な気持ちで経に載せて送ることができるか。そして、残されたご遺族が、明るい気持ちで、これから先、故人と新しい関わりを生きていこうと思っていただけるかである。心の中でひとつの〝つながり〟が生まれてくれたら、法要は成功である。

読経している間、(トイレに行きたい)という思いが前の席の方から伝わってきた(笑)。冷房がけっこう効いていたから。これも日本的なのかもしれない?

そして、場所を変えて納骨へ――ご遺族とともに墓地へと移動する。

この霊園は、全宗派、さらには無宗教の人の墓も扱っているとあって、お墓がバラエティに富んでいる。御影石、大理石、黒曜石と材質はさまざま。形もユニークだし、故人が選んだと思われる「喜」とか「感謝」といったメッセージが刻まれた墓も。ペットの墓まである。

(海外の仏教国ではだいたい遺灰を土や川に戻して終了である。墓石は日本独自の伝統だが、日本はこれから人口も減るというし、土地は余っていくのだろうから、こうやって子々孫々のつながりの象徴としての機能を果たす墓石文化は、あってよいのかなとは思う。)

今回の喪主の方は、自然葬を選ばれた。青々しい芝生に、直径十五センチくらいの丸い穴が二つ用意されていた。そこにお寺の方が、ご遺灰を入れていく。つややかな陶磁の骨壺から緑の芝生の穴へと、さらさらとしたきれいな白のご遺灰が運ばれていく。

以前うけもった納骨の儀では、儀式の前に業者さんがお墓をすでに開けてしまっていたので、改めて墓を閉じてもらってから経を読んだ。だが今回は、お寺の人 が一つ一つの作業を、ご遺族に確かめて見せながらていねいにやってくださった。最後に土に収まったご遺灰の上に芝生のフタをするときも、とても丁重な扱い だった。

芝生に描かれた新しい二つの円――その前でわたしは額[ぬか]づいて礼拝した。故人の安らぎを念じるためである。そしてこの日より始まる新しい〝つながり〟が今後久しく続くように――とである。

命をつくる物質――体の部分――はこうして土へと還っていく。そのうち分解されて、一部は生物、あるいは植物へと姿を変えるかもしれない。それが生命の連 鎖・つながりによって運ばれて、いつか気づかぬうちにここにいる生者たちの前にふたたび姿を現すかもしれない。そういう循環が、この世界にはある。

体が変われば精神もまた変わる。死によって、ひとの心は、生者にはもはや触れることのできない処へと移る。

しかし、命をつくるもうひとつの要素――つながり――は続いている。

そのつながりをこそ見つめるべきである。そして、つながりを確かめるためにこそ、時を置いてこういう機会を設けるべきなのであろう。

ここから先、ご遺族と故人のお二人とが、また新しい形でつながっていけるように――。

そして、そのつながりが、今日集った生者たちの胸に、よき力となって宿って、それぞれの幸せな人生の支えとなってくれるように――。

特に子どもたちが幸せであるように。おじいちゃん、おばあちゃんの思い出がその胸によみがえってくれるように――。

もし生者たちの心の中に、故人の姿が、うつくしく愛おしむべき姿で、いつまでも宿ってくれたならば、故人の命はいまだなお続いているといえるであろう。それは新しい命の形ではないか。今日この日は、その新しい命、新しいつながりを始める機会であってくれたらと願う。

死というのは、忌むべきものでも、ただ悲しむべきものでもない、と私は思う。

生に執着すれば、死は苦しみになる。失った命に執着すれば苦しみが生まれる。

しかし、それは手放すしかないものだ。

生きてあることは苦しみである――というブッダの教えは、しかし、もう一つ別の真実をたたえている。

それは、「生きてあることを終えれば、安らぎへと還る」ということである。

生きてある間の苦しみは、死してなお持っていけるものではない。生きてある間の苦は、生きてある間だけのもの。死はそれを終わらせてくれる。あとは、命の無限のつながりの世界へ、はるかなる因縁・めぐり合わせの世界へと、ひとは帰っていくということである。

ちなみに真言宗ならば、死者が帰一する世界を「大日如来」(全宇宙の象徴)と呼ぶであろうし、浄土信仰の世界では「阿弥陀仏」がすまう浄土へひとは戻って いくと考える。呼び名には それぞれの伝統・個性が反映している。私がそこに共通してみるのは、数かぎりなき命が織りなすつながりの世界――法脈――である。慈愛に満ちた世界であ る。

慈愛に満ちた法脈(つながり)の世界――これもまた真実であろう。

けだし (思うに)、もしこの世界が、慈愛と呼びうる力に満たされていなければ、宇宙の開闢[かいびゃく]以来百四〇億年もの歳月が続いてはいないであろう。そし てそれだけの歳月が続かなければ、この星は作られることなく、この大地に緑や生き物たちが生まれることもなく、昼と夜がとめどなく繰り返されることもな く、きょう土に帰る故人のお二人が昔この国で生まれ、学び、働き、結ばれ、長い歳月をともに生きて、相前後して(年譜によれば約九日をおいて)命閉じるこ ともなかったであろう。そのお二人のめぐり合いによって、新しい命が育まれ、こうして今日この日に一同が会することもなかったはずである。

人生には、この世界には、苦しみばかりがあるわけではない。むしろ見る方角を変えれば、この世界は慈愛と呼ぶにふさわしい力、因縁・法縁・つながりに満ちていることが見えてくる。

そういうつながりの中へと、故人は戻ってゆかれた。あるいは、もとからあったつながりの中に、過去から未来へと永劫連綿として続く法脈の中に、新しい形で生きることになった――そう言ってよいのかもしれない。

もし残された生者たちが、そのはるかなるつながりの存在に目を開かれて、先立って逝った命と、ここから先、新しい形で、あかるい気持ちで、つながっていってくれたら、と願う。ぜひ、かないますように――。

日の明るい午後であった。


会食をご一緒させていただいた。
みなさん、持戒のこの私にあわせてノンアルコールで通してくださる。

葬儀とはそもそも何だろうか。ひとは、身近な人が死を迎えたとき、何のために弔いの儀式をするのだろうか。

インドやバングラデシュ、ミャンマー、スリランカに伝わるテーラワーダ仏教の世界では、葬儀の場で僧侶が説くのは、命の「無常」である。ひとは死を避けられない。執著を捨てよ、悲しむことなかれ――と説く。それはたしかに原始仏教の世界において、ブッダが人々に説いたことだ。

チベットでは、四十九日のあいだ霊魂は闇の中を彷徨して、導師や遺族たちの念によって導かれて、光の違う(白とか青とか)世界へといざなわれていく。その光の先に、生まれ変わりの世界があると説く。

中国や台湾の大乗仏教では、生者が嘆き悲しむと死者は次の生まれ変わりができなくなるから、読経の力によって「魂を来世へとむしろ積極的に送り出す」のだという(台湾の仏教徒から聞いた話)。

ひとは輪廻する、どこに生まれ変わるかは、生前の功徳の量による――と考える仏教がある。

しかしその一方で、浄土信仰では、阿弥陀仏の本願にすがればそれで必ず浄土に生まれ変われると考える。あるいは死をもって「成仏する」と考える伝統・宗派もある。

死をどうとらえるか――厳密にみると、みな微妙に違う。

結局、死をどうとらえるかは、生者たちが死をどうとらえるか、が最も決定的な意味を持つのである。死者と生者との〝つながり〟が、死を意味づけるのだ。

命の本質は、心(ナーマ)と体(ルーパ)――それがアビダンマ(究極の真理)であるとテーラワーダ仏教は説く。

しかし、大乗仏教がとらえる、もうひとつの命の本質――法縁・つながり――というのもまた、究極の真理である。

いずれも真理である。その大いなる真理の全体に、ひとは心を安心してゆだねればよい。

「つながり」の中に、死者と生者をつなぐ。

死者は、死してなお、無へと帰すことなく、生者たちの思いのなかで生きていく。

生者たちは、先立って逝った者たちの人生・思いを、善きかたちで心に残し、ともに生きて、それぞれの人生を幸せにまっとうする。

そういう、つながりに沿った営みもまた真理。これもまた、仏教が伝える真理のありようである。

今日めざしたのは、そういう、ひとつの伝統や宗派にかたよらない――(かたよれば必ず見失うものがでてくる。死をいちがいに「無常」と説く必然的(そうで なければならない)理由はないし、他面、大日如来と一体になるとか、阿弥陀仏に救われるとか、死をもって成仏するという表現のみにとらわれる必要もないで あろう)――二五〇〇年を越える仏法の思想全体にのっとった法事だった。

その一端でも、今日のご遺族の方々に伝わってくれたらと思う――。


振り返ると、今回は別のところで印象的な部分が多かった。日本の法事のあり方である――

お坊さんはお経だけ読んでお帰りになるということ(だから三〇分でも霊園としては十分な時間枠だったのだ)。

仏壇とご遺族とがかなり離れているということ。 ご遺族は、お坊さんの背中だけしか見えないこと(今回は背中すらも見えない。読経の声と木魚と打鳴(りん)の音の中でじっと座っていることになる)。

納骨は、お寺の人・業者さんがやって、ご遺族は眺めているだけということ(ご自身でやるほうがふさわしいと感じたのだが。ちなみに芝生の上で私が故人に念 を送っていたときに、お寺の方が「芝生は立ち入りできませんので」と注意されてしまった。もうちょい融通がきかぬか)。

納骨二〇分――これは埋葬場所までの移動とお寺の方による埋葬の時間を含めて計算した時間枠なのだということ。

本堂は、宗派に合わせて荘厳(舞台装置)を変える。

こうして〝合理的な〟時間割に沿って、いくつもの法事が執り行われる――。

もう少し必要だったのは、法事の時間であったかと思う。せめてあと十五分。それだけあれば、故人の生い立ちもゆっくり振り返ることができ、お経の現代語訳もていねいに最後まで読み上げることができたかもしれない。

でも、みなさん、ご一緒に手を合わせてびとつの時間をつくってくださった。感謝合掌である。

インドでならば、集った者たちが、心を清浄にし、慈しみの思いに帰り、故人への親しみ・敬意・感謝・ねぎらいの思いに満たされれば、それで正解である(あまり決まった形があるわけではない)――そういう「仏の教えにそった心に帰る」ことができれば、法事、つまり「仏法にもとづく行事」としては成功なのである。

あるいは、もっと自由に、たっぷりと、仏教に沿った生き方について学ぶ法事、つまり法話をふんだんに盛り込ん だ法事もあってよいのかもしれない。六〇分、あるいは九〇分――故人の思い出をご遺族の方に話してもらいながらの、安らぎ憩いのひとときである。故人は、 その場をさずけてくださった恩人ということになる。新たな感謝を贈るようにつとめることになるだろう。

そういう法事も、これから広めていけたらいいなと思います。

ともあれ――

今日ご縁いただいた故人のお二人が、これから安らかに、ご遺族みなさんの胸の中で生きつづけてくださいますように。

今日お会いしたみなさんが、それぞれの日々を、すこやかに幸せにすごしてくださいますように。

草薙龍瞬祈念合掌

反応しないことが最上の勝利

6月20日
さあ、いよいよ週末ですね。

●土曜日は久しぶりに講座がないので、大きな図書館にいって原始仏典を調べるつもりでいます。

本屋に並んでいる原始仏典は、ごく一部の抜粋か、やたら長くて複雑な言葉がちりばめられた専門書かのどちらかに限られています。

私としては、仏教の本質を上手に伝えられる「洗練訳・原始仏典」シリーズを、生涯のうちに作れたらなあと夢想しています。

●7月21・22日と三重松阪に行ってきます。

もし名古屋など近郊の方で、ご相談・カウンセリングをご希望される方はご連絡ください。

●今月のテーマは「清浄行」――心をクリアに保つことが一番大切なこと、でした。

外の世界はままならないし、苦手な人もたくさんいる。

でも、自分の心がそれに反応してしまったら、心は汚れてしまう。

「反応しない」ことが、仏教における最上の勝利。

そして、どんなときも、心をクリアに、きれいに保つことを目標にすえて、

そのことにこそ、努力しよう、がんばろう、と思えることで(そう思えれば)、

心には希望が生まれる。元気になれる。コレほんと(そう念じてみてください)。

いつだって、善き心でいられるようにがんばろう――。

真理ですよね。

よき週末を――。


クリアな心で生きよう(人生で一番大切なこと)

気づきの力を育てること。

自身の心についての“正しい理解”を深めて、究極の理解(苦しみから抜けた境地)へと近づいていくこと。

それが仏道――ブッダの教えの実践。

禅であれ、ヴィパッサナー瞑想であれ、「座禅エクササイズ」(笑)であれ、呼び方はちがえども、本質は同じ。

その「本質」を伝えることにこそ、仏教を伝える者(僧侶たち)は全力を尽くすべきだと思う。

日曜の夜(6月15日)だけれど、けっこう集まってくれました。

心をリフレッシュして、善き一週間をすごしてほしいと思います。


●人生の目的をどこに置くとしても(目的は一人一人が選ぶもの)、

心をクリアに保つ、清浄にすることが、人生の基本、一番大切なこと。

それは真実だろうと思う。

人間は、あれこれと他人の是非を論じ、世のありようについて文句を言い、外の世界に幸せを求めようとするけれども、

しかし自身の心が汚れたままで、どうやって幸せが得られるというのだろう。

きれいな部屋に住みたいと言いながら、自分の部屋をちらかしたままで、きれいな世界を求め、世界の汚さを憂[うれ]いている――私たちの人生は、そういう状態だとはいえないだろうか。

美しさを求めるのならば、まずは自分の心からであろう。

心を整えること。わずらいを心に溜めないこと。

スッレカ経において、ブッダはこのように言う(中部経典)。※中略・編集あり

それではチュンダよ、このように自らを戒めましょう――

ウソをつく人もいるかもしれないが、私はウソをつかないように心がけよう。

暴言・耳に痛い言葉を語る人もいるかもしれないが、私は暴言・耳に痛い言葉を語らないように心がけよう。

怒る人もいるかもしれないが、私は怒らないように自らを戒めよう。

よからぬ物事に夢中になる人もいるかもしれないが、私はよき物事に心を注ぐように努力しよう。

疑い・不信で一杯の人もいるかもしれないが、私は疑いや不信のない心でいられるように努力しよう。

高慢な人もいるかもしれないが、私は高慢にならないように気をつけよう。

誤ったものの見方にとらわれ、それを手放せない人もいるかもしれないが、(せめて)私は、クリアな心、自由な心でいられるように努力しよう――。

この経が教えるのは、他人・世の中のことを論じる前に、まずは自分自身の心を善き状態に作ること、それが一番大事なんだということ。

ひとと自分の間にくっきりと「線」を引いて、まずは自分の心をクリアに保つことを目標にすえる。そこにこそ努力する。

そういう合理的な考え方に立ったとき、ひとは、人生で何がもっとも大切なことかをさとる。人生に正しい目標ができる。本当の希望が生まれる。

心を洗うこと(清浄に保つこと)――それがブッダの教えです。

みんな、よき心で新しい一週間をすごしましょう!




よき雨の日を

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土 6月 14日  18:00 ~ 20:00  神楽坂
講座「日本仏教の魅力を学ぶ」 (仏教の学校・日本&大乗仏教編)
※日本仏教と原始仏教を半分ずつ。奈良時代の行基の生きざまと思想+原始仏典の紹介。

日 6月 15日★ 18:00 ~ 21:00 神楽坂
日曜夜の座禅エクササイズ

木 6月 19日 14:00 ~ 16:00 巣鴨
おとなの仏教塾~仏教の魅力をまなぶ
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6月12日
連日の雨です。ほんとによく降りますね(もう梅雨入り?)。

小雨の中を、すずめが道の上を這うようにしてちょんちょんと歩いていました。 

冷たかろうに、と思います。それだけエサが乏しいのでしょう。

気づいている人もおられると思いますが、スズメは、秋を越すと地面に降りる時間が長くなります。

というのは、寒くなるとエサが乏しくなるから。だから一生懸命、地面を這ってエサを探すのです。

雨の日も似たような状況です。冷たさの中で食べ物を探している。日のある時間はかぎられているので、鳥にとっては、私たち人間が考える以上に切実でしょう。

雨の日で、外出する用事がないときは、自宅で仕事します。晴耕雨読。

今は、大乗仏典をいろいろと読み込んでいます。

まずは文章を理解する――むずかしい漢訳などを、今の言葉に置き換えながら読んでいきます(仏教用語辞典とか漢語辞典が必要なところもありますが、文脈や、仏教の本質・原理から見えてくることが多いです。英語やパーリ語の仏教書に親しんでいると、意味をつかむことはいっそう容易になります。)

そして、今の時代・今を生きる人々にとって、役に立つか。どのように言葉を加工すれば伝わるようになるか、を考えます。

そして、正しい意図・目的に沿って、いちばん効果的な表現を作り出していきます。

教室でお配りしている教材や、本や話のなかで語らう私の仏教のウラには、こういう作業があります。

大乗仏典といっても膨大。でも、一定の目的・視点と、背景知識があると、読むことは苦にはなりません。

 「この発想は、もう今の時代には通用しないだろうな」とか、

「この言葉は、こう置き換えた方が、真意が伝わりやすくなるだろうな」

といった、工夫を重ねながら読んで、自分の言葉につなげていきます。

仏教の世界には、学ぶ対象(経・律・論の三つの分野に加えて、僧侶方や在家の研究者・作家・思想家たちの言葉など)がたくさんあります。

だから終わりはないし、退屈しない。中身が面白いこともあれば、表現そのものの巧みさに感銘を受けることもあります。

「仏教を学ぶ旅」をつづけていて、ひとつ感じることがあります。

それは、「自らの心が清浄であること」が、本来何よりも大切なこと、真っ先に人間が努めるべきことだ、ということです。

心がクリアであること。

それは、自分が感じる主観的な心地よさとはちょっとちがう。心の中のけがれ・汚れ、人生を妨げている心の働きがないことです。

怒り、欲、妄想、そして慢と疑――これは大乗仏教が教える五つの妨げ。この五つの妨げによって、心乱していないか。人生をもち崩していないか。

そういう妨げによって心がまだ波立っているのならば、それを鎮めることが何よりも先になすべきことのように思います。

「清浄なる心を保つこと」――それ以上に大切なことはない。

難しい課題だからこそ、しかし何よりも大事なことだからこそ、謙虚に、つつしみをもって、学びつづけることではないでしょうか。

外の世界はコントロールできないし、汚れた心のままでは安らぎを得ようはずもない。だから、みずからの心を清浄にすることから始めようと考えるのです。


雨の日の空気のかぐわしさ、

地をはう鳥たち、

仏典に記された、大海のような深遠なる思想の数々、

人生の本来の目的――

これらを見つめれば見つめるほど、心は澄んで穏やかに透明になっていくような気がします。


善き雨の日を――。





朝のハト

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土 6月 14日  18:00 ~ 20:00  神楽坂
講座「日本仏教の魅力を学ぶ」 (仏教の学校・日本&大乗仏教編)
※日本仏教と原始仏教を半分ずつ。奈良時代の行基の生きざまと思想+原始仏典の紹介。

日 6月 15日★ 18:00 ~ 21:00 神楽坂
日曜夜の座禅エクササイズ

木 6月 19日 14:00 ~ 16:00 巣鴨
おとなの仏教塾~仏教の魅力をまなぶ
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6月10日

今朝は数日ぶりに晴れましたね。

近くの公園に行ったら、ハトが胸からお腹までぺったりと、ぬくもった砂地にくっつけて休んでました。

鳥は、わずかな食べ物をエネルギーに変えて空を飛び、機敏に動く必要がある。だから、体温を高く維持するのは大事なことみたい。

だから、ハトはよく日向ぼっこしてますね。

連日の雨は冷たくて、ハトにはつらかったのでしょう。

久しぶりの日向にぬくもるハトをみて、私もぬくもったのでした^^。

これ、今日ひとつめの「喜」(ムディター: 誰かの喜への共感)です。

一日何個の「喜」がみつかるか。数えることにチャレンジするのもいいかもしれない。

あじさいが、いっぱいに紫の花弁を広げてました。

部屋の観葉植物も日向に出しました。

外に出かけてみたら、緑も花もいたるところにある。
喜びがあふれている。

命本来の姿は、喜びなのでしょう。見つめている私の心も喜びになります。

山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)――

自然の生命はみなことごとく仏性を持っている。

「仏性」本来の意味(≒悟りへの可能性)からは若干離れてしまう言葉だけれど、でもそう表現したくなる気持ちはわかる気がする。

生命に宿る喜びをこそ真っ先に楽しむ心でいたいものです。

まだ雨はつづくようです。

楽しみましょう。






雨の日は足元を

6月6日
こんにちは、草薙龍瞬です。

今日は日本全国、雨だとか。みなさんはどんな思いでおすごしですか――?

空気に含まれる 水 に心を向ける――

不思議だけど、心には“つつしみ”が浮かんできます。

自分のこころ、という「足元」を見る。

「あいてへの敬意、つつしみを保つこと。

世の物事、外の言葉に触れても、心は揺れ動かないこと。

憂いなく、汚れなく、混乱がなく、安らかであること。

それが最上の、何より大切なこと――。 」 

(スッタニパータ265~269)

真理じゃないかな。

とにかくいつも、自身の足元をみつめて、自分の心をクリアに保つ。

そう心がけたいと思っています。

善き雨の日を――。

○ ○ ○

おたよりありがとうございます。素晴らしいお言葉がたくさんあるので、メール通信やブログ、季刊誌でぜひ紹介させてくださいね。

もちろんお名前や場所などは最上の心づかいをもって編集させていただきます^^。

お寄せいただくお言葉はとても美して、ぜひシェアしたい!と思うものがありますので――。

一つ一つ了承のおたよりをお送りするのもなんだか気が引けますし。
ぜひぜひご協力いただければありがたいです。

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6月の教室予定   
★日曜夜に座禅会を開きます(6月15日)。新しい一週間の前に心を落ち着けるのも悪くないかもしれません。

土 6月 7日 14:00 ~ 16:30 神楽坂
おとなの寺子屋~土曜午後に仏教を学ぶ会  #お坊さんが教える仏教のこんな活かし方
同日  18:00 ~ 20:00  神楽坂
仏教の学校・原始仏教編  #仏教的「考え方」を暮らしに活かす講座

土 6月 14日  18:00 ~ 20:00  神楽坂
仏教の学校・日本&大乗仏教編 #講座「日本仏教の魅力を学ぶ」

日 6月 15日★ 18:00 ~ 21:00   神楽坂
日曜夜の座禅エクササイズ

木 6月 19日  14:00 ~ 16:00   巣鴨
おとなの仏教塾~仏教の魅力をまなぶ

土 6月 28日 18:00 ~ 20:00    神楽坂
仏教の学校・日本&大乗仏教編