仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
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●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

春到来! 3月の仏教講座スケジュール

こんにちは、草薙龍瞬です。

4月から<仏教の学校2014年度>がいよいよスタートします。
 
「仏教を学んでみたいけど、どこから始めたらいいのかわからない」という人はココから始めてはいかがでしょう^^)。
 
仏教のポイント(本質)を明快にときあかすレクチャーと資料。

「これだけは触れておきたい仏教の古典」(テーラワーダも大乗仏教も日本の宗派仏教も)の紹介。

さらに、どんな質問・相談にも答えるフリートークと、授業後のアトホームなお茶会。

仏教を学ぶ場所はたくさんあるけど、その多くは特定の宗派や伝統をベースにしていて、それ以外は学べない様子です。

仏教の全思想をわかりやすく、
体系的に、
その本質を、
今の言葉で解き明かす講座というのは、ほんとに稀(まれ)。

その超レアな場所が、興道の里の仏教講座です(笑)。

この春、あたらしい学びをスタートさせませんか?

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2014年度の仏教講座は、
①日本仏教講座、
②実用仏教講座(昨年やった「仏教の学校」)、
③原始仏典を読む会(テーラワーダ仏教ファンにオススメ)、
④禅と仏教を学ぶ会、

の4本立てです。(日程は後日発表)

3月の講座では、①から④までの講座ガイダンス(説明会)もあわせてやります。

そのときに、一年を通してやる内容のシラバス(予定表)もお配りします。

仏教の全体像(コレだけやれば仏教の全貌がつかめるというリスト)を知りたい人は、この資料を参考にしてくださいね(オススメです^^)。

仏教に興味のあるお友だちがいたら、ぜひご一緒にいらしてください。
++++++++++++++++<日程>
仏教の全体がわかる講座 2014年講座全体のガイダンスつき 
3月 8日 (土) 四谷
①PART1 15:30 ~ 17:30  ②PART2  18:00~20:00
3月 15日 (土) 14:00 ~ 17:00
(3月8日と方針は同じ。内容は変わります。)

僧侶くさなぎ龍瞬氏が主催する2014年度仏教講座のガイダンス。「仏教を学んでみたいけど、どこから始めたらいいのかわからない」という人はココからス タートしよう! 仏教のポイントをわかりやすく整理してくれる超おトクなレクチャーと、仏典&経典のすべてを見渡せるガイドマップを配布。どんな質問・相談にも答えてくれるフリートークも。
※参加者の興味にあわせて①日本仏教、②原始仏教、③仏典のピックアップ解説など、テーマを選びます。

坐禅と仏教を学ぶ会
3月 15日 (土) 18:00 ~ 21:00 南麻布
仏教にまつわる面白いお話と座禅体験が、両方たのしめるおトクな講座。①前半90分は禅・仏教に関する法話、②後半は座禅の実践。初めての方には座禅のやりかたを紹介するミニレクチャーとガイドブックつき。こころをスッキリさせたい人、毎日を充実させたい人は一度体験してみよう!

季刊誌連載中!龍瞬直筆マンガ

季刊誌『興道の里』で好評連載中です。見本誌希望の方はメールでご連絡下さい。

道元「正法眼蔵」にみる心を自由にする方法

2月14日

吹雪ド雪が舞っている。

こんな天候だから休むひともいるかなーと思って国立(くにたち)に行ったが、
全員いらしていた。さすが仏教を学ぶ輩(ともがら)である(笑)。

電車の中で、道元の文章を読んでいた。

正法眼蔵の現成公案(げんじょうこうあん)の中に、こんな一節がある(龍瞬の本質訳)。

「人は、水は江河海河(こうがかいせん)にあると考える。だがそうではない。
 水の中に川や海があるのだ。
 川や海でないところにも(至るところに)水はあり、
 水が地に降りるときに川や海の功(はたらき)をするだけなのだ」

「水は見ようによってさまざまに見える。が、水は水である(水是水:みずこれみず)」

――人間は、水を水として見ようとせず、その形や場所にとらわれて、それは海である、川である、と名づけて実体あるかのように思い込んでいる。そして、「水の本質は水である」という最も純粋な真実になかなか気づけない。真相が見えない。

だが、海か川かといった分別・区別は、ただ見た目にとらわれて人間が名づけたものにすぎない。それらはただの名前で(観念)である。そしてたまたま因縁によって、海や川と称しうる「はたらき」(機能)を果たしているにすぎない。

もっとも素朴な本質は、その内側に、只中にあるのである。それは「水是水」という真実である。

そこにあるには水である。水はどこまでいっても水である。

ときに川となり、ときに海となり、ときに雲となる。ときにはひとの血となり飲む水になる。
それでもどこまでも水である。

そして、水は水のままで生きている。満足している。なんら欠落はなく、また何ものか(海や川といった形をもった別物)になろうともしない。水はどこまでも水である。

しかも、水は、因縁によって、硬い氷にもなり、暖かい湯にもなり、やわらかな雪にもなり、まろやかな乳水にもなる。姿をかえ、はたらき(役割)をかえて自由自在、融通無碍である。

それでもどこまでも水は水である。

「もし自分が一滴の水であれば」と想像してみよう。「わたしは水である」。

そして、外の世界(海や川)を見ずに、自身が水であること、自分を作っている水だけを見つめてみよう。

水が見ているのは己の本質、すなわち水であること、だけである。

どこまでも水でありつづけるだけ。
そして、その場所・その時々における役割(はたらき)を果たすだけ。

別にそのはたらきにこだわることはない。形を追いかけて、何か別ものに、もっとすぐれたものになろうとは考えない。なぜなら、自分は水である、と知っているから。自分の本質を知っているから。

水は自らの本質のままで在るから、どこまでも自由である。

水が水であることだけを見つめれば、その瞬間に、自由が入ってくる。

道元の言葉に乗っかって、自分を一滴の水になぞらえて、昨日から触れたすべての水に思いを馳せてみた。想像の旅をしてみた。そして今朝の雪がある。雪もまた水である。さまざまな場所をさまざまなカタチをとって巡り巡って、今朝の雪として降っている。水はどこまでも水のままであるから、どこに舞い降りても水である。どこまでも自由である。そしてすべての水とつながっている。すべての水と一つである。

そこまで想ったときに、<自由>を感じた。きっとこの命(わたし)も、あの雪のなかの水と同じなのだ。カタチを追いかける必要はない。ただ、水が水でいつづけるように、わたしはわたしのままで生きていけばいい。わたしという本質だけで生きていけばいい。それが最も自然な、正しい生き方なのである。そのとき無限の自由がひらける。

水是水。
わたしはわたし。
命は命。

水は水のままに。わたしはわたしのままに。命は命のままに。つまりは本質のままに生きる。

それ以外を求める必要はない。求めるものは、汝の内側にもうすでにある。

そういう真理が、正法眼蔵の一節にある。
今日はそのことを伝えに国立に行きました。
(次回から日蓮!)

※上の文章の「水」を「わたし」、「いのち」に置き換えて読んでみてください。


今日は大雪(続・ふなっしー論)

20年ぶりという大寒波のせいで、東京も大雪。

各地でいろんな被害が出ていることは承知。
ただそのうえで、雪の朝、外を歩きながら、「しあわせだねえ、楽しいねえ」と独り言をいっていた。

最近、「気づきからどれだけポジティブな解釈を導き出せるか」ということを考えている。

冬の風を吸い込んで、「冷たい」と感じるのは、感覚。
冷たいと感じている、と気づく。そのときの感覚に気づく。

この「気づく」意識は、ニュートラル(中立的)。楽しいとかつまらないとか、幸とか不幸とか、いいとか悪いといった意味に至らない。

気づくというのは、ただ、ありのままの感覚を、なるべく細かく、正確に、ナマナマしく感じ取る(意識する)だけ。これを、禅の世界では「正念(しょうねん)」と呼んでいる。

この、よく気づく、正しく念じることだけでも、心は相当キレイになってくれる。たいていのネガティブな感情(怒りや嫌悪、不安、緊張など)は、気づきによって、サラリと落ちて消えてくれる。

気づくことで、緊張だって消せる。

今日池袋に行ったら、立教大学の入試の日だった。たとえば、もし受験生が「緊張」してしまったら、こうしてみるとよい――「不安」を膨らませるのでなくて、雪の気配、冷たい空気を皮膚で、呼吸で感じ取って、カラダが感じている「感覚」に意識をよく向けてみるのである。ただ「気づく」。気づくことに心を使う。

気づくことが上手になると、緊張はすぐに溶ける。
気づきがクセ(習慣)になると、緊張もしなくなる。心はいつもクリアなまま。

私は日々コレ修行の出家僧――つまりは「気づき」を心の底にすえてそこに常に立って生きる者――なので、この気づきの能力はけっこう高くなっている。(緊張なんてありえない(笑)。)

今やっているのは、その気づきというニュートラルな状態から、どのような発想・感想・解釈をつくりだすか、ということ。

心という名の「意識」は、まずは「気づく」ことに使われ、その次に「考える」ことについやされる。

(注:これは修行僧の心の流れ。たいていのひとは、意識をダイレクトに「考える」ことに使ってしまう。だからひとはよく考える(妄想)するし、過去を振り返るし、先をあれこれ考えるし、その結果、とても簡単に動揺してしまう。これはすべて「気づき」という、本来最初にくるべきステップを飛ばしてしまっているところからきている。「つねに気づきから心の動きをスタートせよ」というのが、禅修行の根本である。)

その「考える」というのを、どれだけポジティブな、肯定的な、幸福な思いに使えるか、を心がけている。もともとある「意識」が、どの方向に転がるか、を最近よく「観察」している。

もともと私は、とても理性的、というか慎重、というかネガティブな発想をすることに慣れた人間のような気がする(もちろん、それを超えるくらいのポジティブな解釈力も持っているとは思うけど)。

そのネガティブで消極的な発想に意識を使うのではなくて、ちがう方向に意識を使う、というか流す、というか導いてやる、のである。

たとえば、雪の日に外に出る。

「ああ、大雪だ、ついてない」「電車動くなあ(遅刻したらどうしよう)」と考える(意識を使う)ことは可能。

でも、同じ意識を、「わあ、雪だ、楽しい」「20年ぶりだって。(体験できるなんて)ついてる」「歩いたらどんな感じがするだろう(で、右、左、と歩いて確かめる)」という発想に使うことも可能。

どちらに意識を転がすか。転がす方向に「根拠」はない(あえていうなら、過去の体験とか育った環境、性格といったものになろうか)。

ほんとは、どちらにでも転がせる。だから、自分で転がす方向を選ぶ。意識して転がしてみる。それが今のテーマ。

今日は、「楽しい」という発想に意識を転がすことを意識してやってみた。もともと、気づきの力をきたえている(つもり)なので、ポジティブ思考への切り替えも難しくない。

サクサク、ふっふっ、ほっほっ、と足元みながら、感じ取りながら、きれいな冷気を吸い込みながら、「楽しい、楽しい」と思いながら、歩いた。

思いながら歩くと、その思いどおりに心はなってくれる。だから今日は楽しい。心って面白い。


追伸
ふなっしーは、1号、2号という活動の仕方より、今の中のひと(そんなひとがいると仮定して)が動けなくなったら「2代目に託する」という形のほうがいいんじゃないかな。

ふなっしーは、中のひとのキャラがあってのふなっしーである。唯一無二のタレントさんである。

(再言するけど、彼?は、慈しみと喜という、仏教が語る愛の二つの要素を惜しみなく発している。それが「愛」として伝わってくるから、ひとはみなふなっしーを好きになるのだと思う。)

着ぐるみの数を増やして、彼(梨)の良さを維持できるようには私は思わない。むしろ希少価値(タレントとしての魅力)を下げてしまうような気がする。

余談だけど、ふなっしーの「中味」(そんなものがあるとして)を暴こうとするひとは、完全にマナー違反。中を覗き込もうとしたり、ウラ話を笑いのネタにしようとしたり(なんて心のない…)。

ふなっしーが愛を送っているのだから、その愛を受け取るだけでいい。そういう関わりをしていきましょう、というのが、ふなっしーとの約束。それを超えるのは反則。芸能人のウラを探るというレベルを超えて、服までひっぺがそうというくらいの非道な行い。(ふなっしー、死んじゃうなっしー@@)

ふなっしーを守ってあげて(笑)、とキレキレダンスも絶叫もできない坊さんは思う(なっしー)。

元気なシニア女性たちとふなっしー


とある80代の女性から電話をいただいた。

私の本を書店でみつけて、それ以来公園での「千歩禅エクササイズ」を日課にしていて、
それがきっかけになって、今地元の公園の緑の世話をボランティアでやっているひと。

出会った頃はほんとにゆきづまった顔をしておられたけど、
直接ことばを交わして半年がすぎて、

今は、電話口で、「毎日、楽しくてしようがないです。ありがとうございますと言って寝るんです」と、すこぶる元気に報告してくださる。

「ご僧侶さまもお風邪召さないでくださいね」
(以前は、ひとを励ます余裕もおありでなかったように思うのだけど、、うれしいね(笑))

バレンタインのチョコを送りました、という。おお!ありがとう。

「サマネン、大好きです! 毎日、一度はみるんです」という。

(サマネンは、全国に配送している季刊誌に私が描いている漫画で、モデルはタイの小僧さん。なんとなくゆるキャラの感じを持っている年齢不詳の小僧である。女性にけっこう人気がある。)


仏教を通じて、こうしてひとの人生が楽しく、幸せへと動いていく瞬間を目の当たりにできることが、この道を生きる私にとって最高の幸せである。

寺も宗派も持たない、完全無所属の出家にとっては、この国を生きていくのは簡単ではないし、ときに寂しい思いもするのだけど、

でもこうして、仏教の心をもった人とつながっているだけで、やっていてよかった、と思える。


もうひとり、巣鴨に通ってきておられるそろそろ七十代も終わりというご婦人も、最近とても元気である。

「仏教を学んで、若返った気がします」と言っていた。楽しそうによくお話する。最初の頃の思いつめた表情は、今はない。

仏教って、いいな、と思う。こうして、生きがいの燃料にしてくれるひとが着実に出てくるのだから。


ひとの幸せにもっともっと貢献できたら、と感じる。 もっとできるはずだと思う。


貢献、という点で、最近目をみはる人物、いや妖精が現れた。
それが、ふなっしー、である。

あのお方、いや、お梨のサービス精神はすごい。みんなを幸せにしてる。

たまたま秋葉原で、あのお梨が出演するCMを見かけたのである。

坊さんには、あのようなキレのあるダンスや突如の絶叫はできないが(してみたいものだが)、

しかし愛をふりまいて、ひとびとを幸せにする、という存在でありたいものだ、と思う。

ふなっしーには、

慈しみ(メッター)――相手の幸せを願う心、と
喜(ムディター) ――相手の喜びをわが喜びとし、わが喜びを相手の喜びにしてもらう(共歓)、

という、愛の二大要素があふれている。学ぶところの多いお梨(お方)である。ヒャッハー!