仏教講座スケジュール

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ふなっしーいただきました(GW第一弾:坐禅と仏教)

快哉の日

今日(4月29日)は、GW初日ということで、神楽坂で坐禅会、巣鴨で仏教の無料講演会があった。

坐禅会は、心に降り積もった雑念を洗い流すためのもの。

日常を生きる中で、心は反応し、結生(けっしょう:強度の反応として残ってしまう現象)して、それが心のホコリ・塵となって溜まっていく。

もし反応が弱くて、執着する度合いが低ければ、結生しても、まもなくエネルギーを失って忘却(消去)される。が、

しかし強く反応して、しかもその反応に執着する心があれば(その執着の原因は、人によっては性格だったり、誰かと長年続いている関係だったりする)、結生したホコリ・塵はなかなか消えてくれず、心の中に降り積もっていく。

その結果、どこかすっきりしないココロの状態になる。

「どうも最近精神状態がよくないな」と感じる時があるとすれば、それは喩えるに、部屋がゴミで満杯になってその汚さ・息苦しさに、「もう耐えられない!」と悲鳴を上げた状態だと思ってもらっていい。そう感じたら、よっぽど心は汚れているのである。

そういうとき、心にちょっと気づく余裕や聡明さがあれば、心にゴミが詰まった状態を自覚できる。

さらにその人に徳――ここでは仏教という“方法”にめぐり逢っているその人の人生を徳と表現させていただく――があれば、「こりゃいかんな、心を洗濯しないと」と発想して、その方法である坐禅をしに来たりする。


そういう人が今日も来られた。そこで伝わってきたのは、なんというか、“徳の蓄積”だった。

本人は自覚がないのだろうが(ないほうがよいのだが)、仏教という思想にしても禅・瞑想にしても、一年以上通じていると、やはり心のどこかに違いが出てくる。“底”のようなものができてくる。

その“底”のようなものは、やはり仏教や禅――いやもっと広く一つの「道」なるもの――にまったく触れたことのない人からはめったに見えない。

触れたことのない人というのは、まさに底なし――じっと座っていると落ち着きがなく、途端に眠気に襲われてしまったりする。

曲がりなりにも、一年、二年――その歳月の蓄積が、人の心に“底”をつくる。

そう想わせる機会が、今日は何度かあった。巣鴨においても。


巣鴨は、無料講演会ということで、新しい方がけっこう来られていた。

その多くは、仏教につながる機縁を心の中に持っている方たちだとわかった。

形を変えて言葉を交わせば、さまざまな分かち合いが可能だろう。
面白い、実りあるやりとりができるだろう。

そう思わせる方々がたくさんおられた。善き時間だったと思う。


そして、帰ってから、八十一歳になるご婦人と電話で話をした。

昨年七月には、闇の中で苦しみあがいていたお方である。

ところが仏教に巡り合って、人間が変わったかのように、あるいはまさに生まれ変わったかのように、毎日が希望と充実と感謝に満ちあふれるようになった。

「今は感謝のカタマリです!」とおっしゃる。

興道の里の季刊誌や私の本から、善き言葉をカレンダーに書き写して、壁にかけて毎日見てくださっているのだそうだ。そして一日の終わりには、私の健康を祈って下さっていると仰る。

長年苦しめ合ってきた息子さんには、「おまかせ、と思っています」と言う。

声に張りと元気があって、日々の過ごし方に感謝と希望と慈愛が溢れていて、

なんだか、こちらこそが“ほとけさま”の声をいただいているかのように感じて、涙が出てくる(;▽;)。

やっとたどりついた“極上の”人生。

そのまま、そのまま、一日一日を、味わって、慈しんで、生きてまいりましょう――。
今日いただいた差し入れ(さすがにヒャッハー♪とは言えませんが(´`*))


大切にしたいひとりの時間

今回は半分ひとりごと――。
 

今日は、久しぶりに外に出かける用事がなく、自室でゆっくりと作業していました。
 

独りの時間に見えてくるものというのは、深くて広い世界です。
普段忙しく過ごしている時間にはなかなか届かない世界。
 

海深くまで素潜りする感覚に似ているのかもしれません。
 

そういう時に感じるものというのは、海面に出た状態、つまり日常生活においては語れないし、感じ取れないもの。
 

言葉から離れたときにしか見えてこないものって、ありますね。
 

世の中には、仏教や宗教を語る言葉はたくさんあるけれど、どの言葉もいかに俗にまみれていることか(私自身の言葉ももちろん含めて^^;)。
 

真理・真実を語る言葉の数々が、どれだけ軽く、ただの観念・妄想にまみれてしまっていることか。
 

世にあふれる多くの言葉は、目的を見失った「さまよえる言葉」のように映ります。
 

語れば語るほど自身が迷う。聞けば聞くほど迷いに呑まれる。
 

見渡せば、テレビ・雑誌・週刊誌・インターネット・人々の言葉――どの方角にも文字と音が溢れているけれども、しかしそのうちのどれくらいの言葉が、「目的」を意識して語られているのだろう。
 

その言葉はどこに向かうのか。
その言葉をもってどこにたどりつこうというのか。
 

目的なき言葉は、ただの音――気にする必要なんかない、のかもしれない。
 

少なくとも――言葉を発するときは、目的をセットで考えたいと思っています。
 

そして、目的と離れた言葉も当然必要なのが人生だから、そういう言葉に触れているときは、目的と離れているという事実に気づきたいと思っています。
 

マザー・テレサは毎朝4時にひとり神に祈ったというし、
お寺での瞑想生活もまた朝3、4時にはおきて、意識の深いところに入っていく。
 

そういう時間も大切ですね。
ひとりの時間は大切にしたい。
 

ちなみに、日常においても、そういう深く広い世界に届く瞬間があります――それが法事。亡くなった誰かに祈りを捧げるとき。
 

自分自身が深いところに通じていないと、ほんとの祈り(仏教では経を詠むときがこれにあたります)を発することはできない。
 

だからやっぱり、深いところに届いている必要がある。
そのための瞑想であり、独りの時間なのかもしれない。
 


法事をつかさどるというのは、ひとさまの手術を受け持つくらいに、じつは責任重大なのです。重たいことなのです。
 

故人と生者とをつなぐ役割を負うのですから。
つながりという命がかかっているのですから。
 

その重たさを引き受けて、その時間を真実へと変える。
そういう(誤解を招く表現かもしれないけど)“法力”が必要なのです。
 

そういう力を維持する努力をも続けなければいけない毎日です。
 

あなたの今日一日はどんな日でしたか――?

明日もまた善き日でありますように。
おやすみなさいませ。

西インドの村ににヒョウ出現!?

こんにちは、草薙龍瞬です。

「西インドの村ににヒョウ出現!」というニュース、お聞きになりましたか?

NHKでも取り上げていたので、知っている人は多いかも?

映像をみたら、ヒョウが屋根瓦を走って、村人に襲いかかるフリしてスキを見て逃げて――という様子が映っていました。

「やっぱりインドは広いなあ」と笑っていたら、「マハーラシュトラ州」とあるではありませんか。

私が活動している「地元(?)」じゃないですか(!!!)。

とはいってもマハーラシュトラ州は広い――面積30万7千平方キロで、日本から北海道を引いた面積に当たる。それでもインド全28州の一つでしかない(インドは広いですね)。

だからマハーラシュトラ州の村でヒョウ出現!といっても、地元民にとっては、鹿児島で「青森の村にヒョウ出現!」というニュースを聞くようなもの(?)で、それほど驚くことではない(?)のかもしれない。

ただ、そういえば近くに「猟師の村」があって、トラやヒョウを狩る話をしていたなあ――と思い出したのでした。

もっとも、私が活動する範囲内には、まず9割方ケモノは迷い込んできませんので、ご安心ください(笑)。

来年1月のインドツアー、ぜひご同行くださいね。ぜひ!(笑)。

・・・・・・

さて、4月に始まった仏教講座ですが、

カレンダーでは、南方アジア仏教、大乗仏教とタイトルは分かれています。が、

実際には、当日きてもらった参加者の関心を聞いて、用意してある話題・教材から選んでその日のテーマを決めるという方針でいこうと考えています。

なので、みなさんは、あまり講座名を気にしないで、こられるときにきてもらうという形でよいと思います。

月2回のペースで進めていくので、月の前半と後半とで、テーマ&教材は変わります。だから、一番熱心に学ぶ人の場合は、毎月2回のペースで参加するということになります。

役立つものなら、テーラワーダ仏教も、大乗仏教も学ぶということです。
それぞれに良さはあるので。

4月は、
①道(原始仏典)、
②楽に生きられる発想法(金剛般若経・般若心経)、
③当てにならない現実における確かな生き方(聖徳太子に学ぶ)、
④慈悲喜捨(原始仏典)、

が主なテーマです。
これにちょこちょこタイムリーな話題&教材を付け足していきます。

水、土、日が講座のある日です。カレンダーを見てご確認ください。

インド、来てくださいね!(笑)。

4月12日日本仏教講座のおさらい

こんにちは、草薙龍瞬です。

インドから帰ってきてけっこう忙しく(3冊目の執筆も気持ちよく進んでいます)、

ここ2週間近くアタマも剃っていません(坊さんの世界では、増える髪の毛は雑念の象徴、みたいなところがあります)。

昨日は巣鴨での講座の前に用事があって、久しぶりに都電に乗りました。

よい天気だったので、春の風情が味わえるかなぁ♪とほんのり期待しつつ乗りました。

きれいなココロの状態だと、今の季節の光はきれいにみえます。水気を湛えているかと感じるくらいに、つややかに輝いているかのように映ります。

で、路線を舐める都電の一番最初にさりげなく立って、東京の街中を走ったのですが、目の前にみえるのは、

「雑・事」の2文字なのでした――。

かなり雑念が溜まってます。2時間くらい集中して歩く瞑想をやらなくちゃいけないかも?と感じたのでした。


●さて、4月12日に始まった日本仏教講座の一言おさらい――

「王子にとって、この世界は、権謀術数に支配され、身近な人が簡単に殺されてしまう、殺伐としたものだったのかもしれません。
だからこそ「世間は虚仮[こけ](かりそめ)であり、仏こそが唯一の真実である」と生前よく語ったのかもしれません。

そ の子・山背大兄王子[やましろのおおえのおうじ]は、父の晩年の言葉として「悪をなすな、善をなせ、これ諸仏の教えなり」という法句経[ほくきょう]の言 葉を挙げたといいます。その言葉を引いて蘇我氏への挙兵をためらったとか。それがゆえに山背一族は蘇我氏に絶滅させられ、聖徳太子の血筋は途絶えてしまい ます(平和・非暴力を愛するゆえに犠牲を強いられるのは、仏教の宿命かもしれません)。

王子が亡くなったとき、お妃は、王子が今頃いるであろう場所として「天寿国」[てんじゅのくに]の刺繍を作ります。天寿国とは、浄土信仰が根づく前の〝あの世〟のイメージです。王子はおそらく、自分が死んだらそういう世界にゆくのだと、生前妻たちに語っていたのでしょう。
息子である山背大兄王子や妻たちが語る、生前の王子の言葉こそは、王子が純然たる仏教徒だったことを物語っています。

世間は仮の世にすぎない。仏を信じて、善のみをなせ――それが王子の生き方だったように映るのです。」


「聖徳太子」というと、歴史上の人物というイメージしかなくて、まさか現代に通じる生き方が学べるとは想像しない人のほうが多いようです。

し かし、(聖徳太子が実在したかどうかという論争は放っておいて)、「もし古来の日本人が語り伝えてきた聖徳太子像が本当だったとしたら、どのような人間に 見えてくるか」という視点で、歴史上の事実に触れて、そこに浮かび上がってくる「人間としての生きざま」を感じ取ってみると、

聖徳太子というのは、なかなかクリエイティブで、聡明な知性の持ち主だということがみえてきます。

しかも、その創造性や知性の根っこには、「慈悲」(思いやり)というのがあって、

その慈悲というのもまた、蘇我一族の横暴や、当時まかり通っていた権謀術数、弱肉強食という環境にあって、

自身にとって唯一たしかなもの、よりどころとして、彼は信仰していた、ということが見えてきます。

藤原道長などの平安貴族が、死後の救いを求めて豪壮な仏閣をたてたり、死ぬ間際までナムアミダブツを唱えてなんとか浄土への生まれ変わりを期待したりという「執着」ざんまいの生き方をしたのに対して、

聖徳太子という人は、死後への期待を過剰に膨らませるのではなく(念仏を唱えたり布施や仏塔仏閣づくりといった形で「来世への善行」を積むのではなく)、

「このうつろいゆく、非合理で虚しい現実のなかにあって、唯一たしかなものは善をなすこと」と信じて、

四天王寺の中に老人・貧者向けのケアハウスを作ったり、
仏教資料を保管する法隆寺を建てたり、
「人間関係で一番大切なのは<和>の精神、みんな仲良くしなさい」と殺伐とした当時の世の中にメッセージ(十七条憲法)を送ったり、

と、こうして振り返ってみると、善いことを着実にカタチにした人生だったことが見えてきます。

人間は、思い通りにならない外の現実を、変えようとして闘うものだけど、それは正しい思考法ではない。

むしろ、当てにならない現実には心を奪われないで、自らの心の内にたしかなものを築き上げる。
そのたしかなものを、自らの手の及ぶ範囲でカタチにする。

そういう、足元をみる思考というのが大切だと教えてくれます。

自分の輪郭をはっきりさせること。その内側に心をとどめること。手の及ぶ範囲で行いに移すこと。

私自身、これはとても納得のいく生き方。

――という具合に、日本仏教講座では、「お勉強のイメージ」に凝り固まってしまった歴史をいったん抜け出して、

「リアルな人間の生きざま」として、歴史の知識を組み立て直し(※毎回資料をお配りしています)、

その生きざまから何が学べるか?というところを考えます。結果的に、仏教的な生き方・考え方が学べる、というつくりです。

仏典(仏教の言葉)から入るのも、人間から入るのも、「仏教を学ぶ」上では、同じように役に立ちます。

テーラワーダ&原始仏教か、大乗・日本仏教か、という区分けは、「生き方に役立てる」という発想においては、意味をもちません。
どちらも、大事だし、有用(つかえる)のです。

ということで、日本仏教シリーズも、ディープな内容で進めていきます。


●今週末の教室日程です (内容はブログカレンダーでご確認ください)

★月イチ・おとなの仏教学校(日本仏教編)  毎月第3土曜
4月 19日 (土) 13:00 ~ 16:00
場所 南麻布いきいきプラザ 集会室C(和室)

★「仏教をもっと人生に活かそう!」仏教講座・入門編  春学期土曜クラス(第1・3土曜夜)
4月 19日 (土) 18:00 ~ 20:00
場所 南麻布いきいきプラザ 集会室C(和室)

★座禅エクササイズ (神楽坂 第1・3日曜朝)
4月 20日 (日) 10:00 ~ 12:00
場所 神楽坂・赤城生涯学習館 和室

※4月20日(日)午後の 月イチ・テーラワーダ仏教を学ぶ会 はお休みです(次回は5月18日になります)。

4月中に原始仏教を学びたい方は、
4月19日(土)夜か23日(水)夜の、実用仏教講座 「仏教をもっと人生に活かそう!」 にご参加ください。

すばらしいとき (インドウダサ村)

私たちの学校Genuine Dhamma Scholar Schoolの生徒たち
こんにちは、草薙龍瞬です。

今インドです。ほんとはいつものように、行ってきます!と行って旅立つのですが、今回は挨拶する余裕もないまま日本を離れてしまいました。

今回のインド訪問では、創立後5年目になる幼稚園がいよいよ新校舎に移って、そこで学んでいる子供たちの姿を見ることができました。

140人の子供たちが、我々が作った校舎で勉強しているのです。すばらしい光景でした。

昨年1月に訪れた時は、まだ土地を買う資金繰りに苦労していました。また幼稚園も政府の認可を得るのに40万円ほどの供託金が必要なため、資金調達のめどがたたず、閉鎖さざるをえなくなるかもという話をしていました。

しかし日本の教室に来るみなさんが入れてくれたカンパで土地を購入し、

台湾の篤実な仏教徒のご婦人が供託金全額のお布施をしてくれたため、幼稚園は無事認可を得ることができたのです。

私たちのNGO・GDIAが購入した敷地はちょうど幹線道路沿いにあって、今後その道路は二車線から四車線に拡幅されるとあって沿線の土地はぐんぐん値上がりしています。もしタイミングを逃していれば、我々は土地を買うことができなかったおそれがかなりあります。

今こうして一四〇人の子供たちが、広い敷地で駆け回って遊び、レンガ造りの平屋の校舎で勉強できるのも、仏教を通じてのインドと日本との縁が育っていたからです。不思議な因縁のはたらきであろうと思います。

もし2006年当時のウダサの人たちとの出会いがなければ、

志を同じくする青年たちがこの地に育っていなかったら、

私が日本に戻って小さな活動を始めていなかったら、


震災後に台湾の仏教徒の人たちと出会っていなかったら、

この村の子どもたちの今日一日は存在していなかったはずです。

朝、大きなカバンを背負って野原を歩いてきて友だちと出会い、GDIAの青年にカギを開けてもらって大きな黒板のある教室に入る。子供たちの目にはどう映っているか。

「ドラえもん描いて」と私にせがんだり、「よーいドンやって」(かけっこの合図)と頼んできたり、それも叫び声に近い大声で訴えてくる子どもたちには、たとえば台湾のその女性の存在は想像もつかないだろうけれど、それでもそういう目に見えない因縁によって、今日の子供たちの一日がある。

なんとも巡り合わせというのは深いものだと思います。

GDIAの幼稚園は、政府の認可も受けて、人びとの認知度もぐんと高まったとか。


この地にはいろんな可能性が育っている。これからもっと芽を吹くだろう。

こういう善意の芽を吹かせるのは、結局は、そういう心があるかどうかで決まる。つくづくそう思う。

善いことを心がける心があれば、それが不思議にも縁となって結実して、いろんなカタチの花を開かせる。

芽が開くのは、土や光そして酸素があるから。命の力が世界に満ちているから。

この村での活動のように、ほんの少し美しく善き芽が開くのは、そういう行いをしていこうという善意があるから。

この村には、純粋な善意があるのである。

こういう善意を分かち合える同士というのは、ほんとうに一生に一度あれば幸いというくらいの「僥倖(偶然の幸せ)」であるだろう。

私の人生はラッキーである。
善意をカタチあるものへと創り出すことができているから。

(来年1月23・24日の学校の創立式を行います。日本の人たちも招待しますので、この機会にインドに行きたい!という人がいたら、今から連絡くださいね^^)