仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
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伝えたいこと

今日はNHK学園の1日体験講座。

新しい人がたくさん来てくださった。

身近な命を失ったひともいた。

仏教のすばらしさをどう伝えるか――。

というより、目の前のひとの心に、なにを伝えるか。

わたしは、ひとと向き合うときに、

あらかじめこういうことを話そうとか、これを伝えよう、といったことは考えない。何も考えないで出会って、その瞬間に言葉をさがす。

結局、肚の底にすわった仏法にのみ依って立つしかない。

2500年を越えるひとびとの信仰と、

自身が生きて重ねてきた思いとに心を委ねて、どんな時間が作れるかをみる。

経を誦んで差し上げるときは、心は無である。何も思わない。あえて思うならば、つつしみとかなしみと慈愛であろうか。

どれだけ純粋な、つまり無駄な心のない状態で経を読めるかである。

心がそのまま声となり、空気を伝わり、場をつくる。

この道を生きる者は、そういう覚悟で、心をつくっておかねばならない。

帰ると、NHK学園に以前通っておられたご婦人からお便りが届いていた。

もう90歳を越えておられる。歩くこともむずかしくなった。おからだのいくつかに重たい症状をかかえておられる。

筆跡はとても美しく、心はすこやかでおられることが伝わってくる。

ただ――ひとつの覚悟もかためておられることも見えてくる。

ひとは、どこに還るのか。

どの苦しみも、生きてある間のものである。

生(いのち)が止むならば、その命は安らぎへと還ることだろう。

わたしが伝えてきた言葉を、そのまま繰り返し、読み返してくださるひとがいる。

そのひとに、この命は、安らぎを伝えることができるだろうか。

安らぎを伝えるには、誰よりも安らぎが見えていなければなるまい。

この命が、読経や内省を通じて無に還るのは、

その瞬間にはるかな安らぎを見るためでもあるだろうと思う。

独りいきること。戒をたもつこと。つつしみを忘れぬこと。

そうして、心を開いておく。いつでも無へと、そして安らぎへと還るために、つねに心を見ておく。そういうためでもあるだろう。

出会ったひとたちが無に還るとき、

この命もまた無に戻らねばならぬ。

あなたは独りではない――。

そう心に念じ続けるための行である。

(あなたは、)安らぎのそばにありますよ――そう伝えている。まさに今。



初夏、楽しんでいますか?


※季刊誌最新号からおすそわけ(モチ話題はふなっしー)

こんにちは、草薙龍瞬です。
ほんとに、いい季節になりましたね。

●この初夏の楽しさはどこから来るのかと考えてみると、

もちろん新緑の鮮やかさや、日の澄明さ、気温の過ごしやすさもありますが、

もうあの、冬の「寒いよ~~~」という苦しみを味わわなくていいんだ!という実感が、ヨロコビを増幅させているような気がします。

いわば、苦からの劇的な解放感が、日増しにはっきりしてくるのです。

だからこその初夏であります(?)。


●八正道の中に「正しい生活」というのがあります。

その中身として、(伝統的には合法的な職業を言いますが)、「生活に秩序をつくること」を挙げたいと思います。

だから、整理整頓、お掃除は、真っ先にやる、と――最近心がけていることでございます(出したものはその場で片づける!)。

秩序ある生活は、それだけで快があるもの。

初夏の気持ちよさと、生活改善の快とで、よき日々を過ごしております。

みなさまも季節を楽しんでくださいね^^。


独り身のおばあちゃんと捨て子だった女の子の話

仏教の学校・春学期  
●5月18日(日) 午前10時~12時 
 坐禅エクササイズ
●5月18日(日) 午後1時~4時   
 仏教の学校・拡大版(月イチゆっくり仏教学習会)
●5月24日(土) 午後6時~8時   
 仏教の学校・土曜クラス・春④(世の中で生きていくことが窮屈に感じたら)
●5月28日(水) 午後7時~9時   
 仏教の学校・水曜クラス・春④(世の中で生きていくことが窮屈に感じたら)


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初夏の盛り、ですね。緑が濃くなりました。

私にもっと季節を味わうボキャブラリーがあれば(短歌・俳句の)、
もっと季節の彩りを濃厚に味わえるんじゃないかなあ、と思ってしまいます。

本の執筆、もうひと山越えたら、私の方は少し息をつくことができます。
(今、数学の魅力・本質について、わかりやすく伝えることに腐心しています。これも仏道(笑)。もはやバラエティ系の?)

仏教の学校、先週土曜は、「観音信仰」についてやりました。

とある映像をみてもらいました。
中国の小さな山寺に、家族のいない年老いた婦人がたどりついた。そこで管理人みたいな仕事を、村人からもらって、そこで生活し始めた。

あるとき、山門に、捨て子が泣いていた。

老婦は、その捨て子を、寺で育てることにした。

おばあちゃんとちっちゃな女の子の、寺でのふたり暮らし――。

おばあちゃんは、女の子が現れたことで、人生に新しい意味をさずかった。

女の子もまた、おばあちゃんによって、親の愛情をうけとることになった。

お互いが、お互いにとっての、“菩薩さま”になっている。

相手がいるから、自分の役割、人生の意味がはっきりする。

「はたらき」をさずかって、ひとは、はじめて人生の意味を得る。

面白いのは、村人たちもまた、おばあちゃんと子どもにとっての“菩薩さま”になっていること。

彼らは、ときおり寺を訪ねて、財産や家畜が増えますようにとか、一族が健康でありますようにとか、現世利益しか願っていない。別に“菩薩さま”になろうなんて、たいそうなことは思っていない。

しかし、彼らの人間的な願いがあるからこそ、おばあちゃんは寺の管理人という役割をえて、また子どもを育てるという役割を授かった。

五歳の女の子は、「自分は天から落ちてきたんだって」という。

「おばあちゃんも、天から落ちてきたんだよ」という。

映像に出てくる、みながみな、不思議な縁でつながれている。

その縁の存在を、ただ彼らは知らない。見えない。

見えなくてもたしかに存在するものがある――それが縁であり、○○○○。

そういうテーマ。これはかなり深かった。できるだけたくさんの人に聞いてほしい(見てほしい)話。

こういう映像を、今年の仏教の学校では頻繁にお見せしようと思います。

今回のテーマも、今月は引き続き、教室でお話(映像つきで)していくつもりです。

「観音信仰」といえば、「仏像めぐり」みたいな発想しか日本では思い浮かばないかもしれませんが、

大乗仏教の本質というのは、今回の話から学べるように、どこまでも測り知れず深淵であり、広大です。

仏教を、特定の伝統や宗派に限定することは、ほんと意味をもたない。

“ナントカ仏教”という分類だけでは答えがでない問いが、人間の世界にはたくさんある。

ほんとの仏智(ブッダの理解)は、人間を超えている。その超えた部分を、時折のぞかせてくれるときがある。

今回は、そういう一瞬だったのではないかな――。

明日もみなさん、がんばりましょう^人^。

GWはいかがでしたか?(仏教と数学はココが似ている?)

最初に仏教講座についてお知らせ―― 5月10日(土)
18:00 ~20:00 仏教の学校・土曜クラス 神楽坂・赤城生涯学習館 和室
5月14日(水)
19:00 ~21:00 仏教の学校・水曜クラス 神楽坂・赤城生涯学習館 和室
5月18日(日)
10:00 ~12:00 座禅エクササイズ 神楽坂・赤城生涯学習館 和室
14:00 ~17:00 仏教の学校・日曜スペシャル (大乗、テーラワーダの区別はありません。両方、体系的に進めていきます。) 神楽坂・赤城生涯学習館 教養室B 
5月24日(土)
18:00 ~20:00 仏教の学校・土曜クラス 神楽坂・赤城生涯学習館 講習室


こんにちは、

GWが終わりましたね。
みなさんはどんな連休を過ごしたのでしょうか。

私は、普段は参加できない遠方の人やはじめての人、久しぶりの人などが教室に来てくれたので、いつもとはちょっと違う雰囲気を楽しめました。これもまた「ゴールデン♪」です。来年が待ち遠しいです^0^)。

私ごととしては、ちっちゃな観葉植物の鉢を2つ、事務所兼自宅の窓にしつらえました。緑があると雰囲気がちがいますね。朝の光にちっちゃな葉っぱが包まれているのをみると心が和みます。


昨日は、午前の坐禅が終わったあと、すぐに大きな書店に行って、数学書のコーナーで本をチェックしました。

次の本のテーマが「勉強法」なので、数学史とか微分・積分の本を読んでいるのです(おそらくこうやってマメに調べても、そこで知った知識や、触発されて浮かんだ言葉のほとんどは本には書き込めないのですが――それでも楽しいのです)。

出版社の方々に、十代の頃の私の学習法を紹介すると、

「そうやればよかったのか!」
「高校時代に知っていれば……」
「今から○○受けようかな」といったありがたいご感想をいただきます(笑)。

そういう学習法の一端を、中高生や、勉強につまずいた覚えのある大人の人たちに伝えられないかな、というのが次の本のコンセプトです。

ただの勉強法を超えた、もっと学ぶ意味を感じられる、本質とロマン(喜び)につながる学び方を伝えたい。

学び方は人の数だけあって、
正しい学び方をすれば、かなりの確率で本質にたどり着ける。
勉強することに迷いがなくなる。

大切なのは、ロマン(学ぶことの喜び)を知っていること。
そして正しい動機と方法で学ぶこと――。

そういうメッセージを伝えたいと思っています。

はい、そうです――私が伝える仏教と似ていますね(笑)。

私自身の仏教は、かつての“本質”を見抜く学習法によって培われた部分がたしかにあります。

(でも、本質を伝えてくれる先生や場所がなかったから、学校も行かなかったし、日本も飛び出してしまいました――どちらも独学するしかなかった。淋しい時代でした・・・。)

その一方、仏教を会得できたから、かつての勉強法のほんとの意味が「言語化」できるようになったようにも思います。

あの頃、自分が一体なににつながっていたのか。
だからこそ何も持たない身で道を切り開くことができた――その「理由」を言葉にしてお贈りしたいと思っています。

学びも、仏教も、「正しく理解する・正しく考える」方法であるという点では、みごとに共通しています。

特に、数学にいう微分――物事が瞬間にどれだけ変化するか、その割合・度合いを計算すること(たとえば車の速度メーターや瞬間風速)

というのは、意識を瞬間の瞬間にまで細分化していって、その瞬間の意識の状態を見る禅=ヴィパッサナー瞑想と、とてもよく似ています。

心をどんどん細く見ていくと、極限にまで細分化された意識の変化が見えてきます。

さらには、逆に、瞬間の心の状態をずっと連続させて積み重ねた先に、人生そのものがある――たとえば、瞬間の楽しさを大事にすれば、その積み重ねである人生そのものが楽しくなる。逆に怒りを瞬間に持てば、その積み重ねである人生も怒りに影響される――これは「積分」そのものです。

微分・積分の本を読んでいると、禅に重なるので面白いです。

「数学的思考法」を使えば、数学は必ずできる
というのと、
「ブッダの思考法」を使えば、人生のテーマは必ず解決できる、
というのは、深いところでみごとに一致しています。

それぞれに「思考法」というのがあるのです……ただ、それを発見する・言語化する(言葉にする)・マスターするのが難しい――。

私が今さずかっている仕事=役割というのは、ブッダの思考法の言語化なのだと思います。

(それは宗教・伝統としての仏教から、ブッダの思考法を解放してあげることでもあります。両者は別物です。)

その実践が、興道の里の仏教講座なのですね(^^)。

勉強も、仏教も、「方法」がわかると、やってみよう!という気になります(よね?)。

やってみよう!と思ってくれる人が増えてくるように、がんばりたいと思います!

GWに来てくださったみなさん、どうもありがとう。
またお会いいたしましょう。


正しい言葉の見分け方――「ホントの仏教」ってどうやって見つけるの?

GW中は、
遠方からの初めての人も、ものすごく久しぶり(神楽坂で講座を始めたばかりの頃に来ていた人など)の人も来たりして、ふだんとは違う面白さがあります。

心の濃密なやり取りがつづいています。
私自身、とてもよき時間をすごしています^v^)。

さて、今日は、ちょっとした“思考のゲーム”をやってみたいと思います。

最近受けた質問の中にこんなものがありました。あなたなら、どう答えるでしょうか。考えてみてください――

「こういう言葉はどう受け止めればよいのでしょうか?(本当?)

「地獄や天国等を生み出しているのは、自分の中に有る心(想念)である。故に自分の外に見えるものは全て自分の心、合わせ鏡である」

「私達は他人を見て自分と違う人間だと感じるが、根の所では全てが繋がっている。故に相手にする事は、自分にする事である」

「この世とあの世は表裏一体であるが、生まれる時に全て忘却するしくみになっているのは、その方が学びが大きい為。」

「自分自身が創造主であるこの世はゲームの様なものである。自分が死ねば、自分が創り出している世界も消滅する」

「宇宙には時間という概念は無く、過去・現在・未来は同時に存在している。例えて言うなら一冊の本の様なもので、そこには同時に過去・現在・未来が存在してお り、又著者である本人が望むなら、本の書き換えも自由である」

このような考え方について、どう考えればよいのでしょうか。
言葉なので全て空論???」

というもの。

たしかに世の中、いろんな言葉・思想・考え方・教え――なるものがありますね。これについてどう考えるか――

ブディズム(正しい理解のための方法)に基づくならば、いかなる言葉の真偽も、そのひと自身の目的と解釈によって決まる。

だからその言葉の、「その人にとっての」真偽を、その人ではない私自身が判断することはできない。

あらゆる言葉は、言葉でしかなく、言葉であるかぎりは、どのように表現することもできる。 また信じるか信じないか(採るか採らないか)も自由である。だから、「なるほど、そういう言葉があるのですか――」というしかなくなる。

ただし――もし質問する人が、独自の悩みや課題を抱えていて、解決へのなんらかの「指針」を求めている人ならば、私は、ブディズムに立って、さらにこう答えることになるだろう。

「あなたが理解すべきは、次の三つです――自分の心に苦しみがあるという事実。苦しみの「原因」。その苦しみを消す「方法」」

ブディズムは、まずはその人の心の苦しみをみる。その原因をみる。その方法を理解する。

さまざまな言葉は、苦しみを癒す「方法」として「役に立つか」否かについてみる。

役に立つならば、心に置いておく。
役に立たないならば、その言葉は、その時点では、その人にとって真実ではない。

ただ、難しいのは、その言葉が役に立つかを見分けること。

世にあふれる言葉も、それを求める人たちも、正しい理解からは遠いところをさまよっている。

だから、その言葉は、ただの妄想・思い込みだったり、利欲に満ちたものだったりするし、その言葉を受け取る側も、その意味を吟味し尽くせないまま、無批判に信じ込んでしまったりする。

仏教の中にも、正しい理解から遠い言葉はたくさんある。

お便りをくれた方がいうには、とある本には、
「もし死後に人間が梵天に生まれ変わる事ができたとしても、それは仏教では”残念賞”です」と書かれているのだそう。

「梵天[界]」なるものがあるという前提で、その本は仏教を語っているらしい。

しかし、正しい理解への方法に徹したゴータマ・ブッダという人が、「梵天」なるものを本当に説いたのか?について、もっともっと冷静に、厳密に検討しなくてはいけない。

とある経典には、天界に生まれ変わる道をたずねたバラモン青年二人に対して、 ブッダが、

「お前たち、お前たちの師、あるいはその七代遡った師の、誰かひとりでも、実際に天界を見たものはいるのか?」と訊ねたくだりがある。もちろん、青年たちはイエスとは答えられない。

ブッダは、「ならば、なぜ見たこともないものをあるかのように語っているのか」と正す。

そして、天界なるものをなお信じている青年たちに、そのこと自体は否定せず、

「天界に至る道とは、かぎりなき慈しみの思いを保つこと」と答える。

“これだけは間違いない”とブッダが考える“天界への”方法――すなわち慈しみ――をのみ、彼らに説くのである(Tevijja Sutta、長部経典)

この経典に見える、ブッダという人のホンモノの智慧(相手の信仰を肯定も否定もせず、本質を説く知力)と、

「梵天[界]」(あるいは六道輪廻)なるものを「お釈迦様の教え」としてテキトーに説いてしまう人の思考とは、まったく質がちがう。

もし何かを真理・真実として他人に語るならば、少なくとも、

①自分自身がそれを見ている・体験している・確かめたことがあること。
②そして、それを確かめる客観的な方法(検証方法)を示せること。

その二つがなければいけない――少なくともその二つを満たせないのなら、それは(個人的見解やひとつの宗教ではありえても)、ブッダの教え(仏教)とはいえない。あえていうなら、テキトー仏教(なんとなく仏教)である。

世の中には、こういうテキトー仏教、というのが溢れている。

そういう仏教を、みな簡単に信じてしまっているし、さまざまな知識・言葉をアタマに詰め込んで、どれが間違っている・正しいという議論・詮索にあけくれ、しかも、自らの苦しみ・満たされなさは解決できないまま――という人がたくさんいる。

大切なのは、自分自身の苦しみに気づくこと。原因を理解すること。方法を理解すること。彼らに必要なのは、正しい思考の順番である。

――こうした発想は、私独自のものではない。ブッダが説いた<四聖諦>から簡単に出てくる。ただし、<四聖諦>をただの知識としてではなく、深く理解したときにはじめて出てくる。

仏教を学ぼうという人がいたら、ただの言葉・知識だけを追いかけて、あれこれと考えて、議論して満足するのではなくて、

物事を正しく理解し、それを使ってモノゴトを考えられるようになる、「智慧」のレベルにまで学びの質を高めないといけない。

正しく学べば、仏典の言葉は、「使える智慧」へと生まれ変わる。たとえば――多くの人が手にしているであろう、中村元氏の『ブッダのことば』(岩波文庫)を引いてみよう。

838
マーガンディヤがいった、「聖者さま、あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎということをお説きになりますが、そのことわりをももろもろの賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

839
師(=ブッダ)は答えた、「マーガンディヤよ、『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『(それらがなくても/それらによらないでも)清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」

840
マーガンディヤがいった、「もしも、『――によっても清らかになることができない』と説き、また『――がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

841
師は答えた、「マーガンディヤよ、あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな思いをさえもいだいていない。――」

ブッダの真意(ブッダの理解と思考法)にまで掘り下げて、この一節を「学ぶ」必要がある。ブッダはこう言っているのである――

あなたは、あらかじめ知っている自身の教義(言葉・思想など)を前提にして考え、またその教義に見合う答えを期待している。

だからこそ、あなたが執着している課題・テーマについて、本当の答えがでない状況に陥ってしまっている。

なぜそういう状態になっているのか――それは、あなたの思考が本来の目的――心の平安・苦からの解放――から離れてしまっているからですよ。

そういう発想・思考が、この一節の根底にある。そこを見るのが「学び」である。

※追記 状況はつねに移り変わり、言葉がもつ意味も、その時々の関わり・状況・受け止め方・文脈次第によっていくらでも変わりうる。だから、もしひとつの言葉にしがみついてしまえば、かならず現実との間にギャップが生まれる。「苦しみから自由(平安)でいる」という当初の目的から離れてしまう。そういうそもそもの目的と自分のココロの状態に距離が出来てしまった状態を、「迷いの生存」と表現している。

人間は、ついつい言葉を追いかけ、言葉を積み重ね、その言葉をかき集めた延長に、もしかしたら幸福が来るのかもしれないと期待しつづける。

しかし、その思考・発想そのものが、もうすでに「執着」によって作られてしまっている。ズレた思考なのである。

元にある執着――手放せないその心・関わり・原因といったもの――からいったん離れて、思考を正しく組み立て直すことだ。そうでないと、

結局、言葉を探し集めることで“思考”は満足できても、心の苦しみは解決できない――そういうことが起きてしまうのである。

最も見るべきなのは、「内心の平安」。
苦しみから解放されるという、その人にとっての人生の目的。

その目的から、すべての思考をスタートしよう。

そして、自らが出会う言葉・思想・信仰・教えといったものが、
自分の目的に照らして、本当に合理的で、効果のある「方法」たりうるのか、よくよく吟味しよう。

世間にあふれる仏教、あるいはそれ以外の言葉の多くは、 本来の目的から遠いところをさまよっている。

本当に、自分自身の心の中の苦しみが見えている人というのは少ないし、その苦しみの原因、それを乗り越える方法を理解している人も少ない。

多くの人が、仏教・宗教その他いろいろな「方法」に飛びついているけれど、

その方法を用いて結局期待しているのは、自身の承認(されたい)欲求の満足、誰かへの執着(理解されたい・愛されたい)、世間的な成功をかなえることだったりする。

だが、そういう期待・執着こそが、「この苦しい・満たされない自分」を繰り返している真の原因であるかもしれないのだ。そこに目を向けさせてくれるのが、本当の言葉である。

経典の言葉をもうひとつ引いてみよう――

「ならば、わたしは何を確かなものとして説くか。

これは苦しみである、これは苦しみの起こる原因である、これは苦しみの消滅である、これは苦しみの消滅に導く道(方法)である、ということを説く。

それは何ゆえであるか――自己の目的にかない、浄らかな修行の基礎となり、世俗にわずらわされず、煩悩から自由になり、心の平安、すぐれた智慧、正しい理解に役立つからである。」中部経典

この発想である。これが、

宗教としての仏教(≒確かめようのないことを「お釈迦様の教え」として説いてしまうテキトー仏教)ではない、

正しい理解と思考を導くブディズムBuddhismである。

まずは心を正しく理解しよう。
苦しみの原因は何なのかを正しく理解しよう。
そして、苦しみを乗り越える方法を、心がけていこう。

そのとき、人生は、ひとつのテーマに貫かれた一本の道になる。

そこからが、真の人生のスタートなのである。