仏教講座スケジュール

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夏の終わりに思う、葬儀が必要な理由

こんにちは、草薙龍瞬です。

甲子園が終わって急に秋めいた感もありますが、もう夏は終わりなのでしょうか?(あとひと月くらい個人的には続いてほしいような^^)

季刊誌の夏号が出来上がりました。今日発送したので、今週中には着いてくれるのではないでしょうか。

今号は、「見送るとき」という特集です。

誰かに先立たれたときに、どのような想いで見送ればよいのか――。

最近は、「葬式不要論」というものも出てきていますし、
無宗教・無宗派の葬儀を、という傾向も強くなってきている気がします。

ただ、誰かと死に別れるというのは、
残される側にとっては人生の大きな出来事ですし、
先立つ側にとっても、人生の一部であることに変わりはありませんね。
(どんな思いで先立つかによって、人生そのものの色さえ変わってくるのかもしれませんから。)

いずれにとっても、生きることの一部。ならば、そこにたしかな意味を創り出す必要があるように、個人的には思います。

「葬式は不要」と決めたところで、では、自身の人生の一部を意味づけることすら無くしてよいのか。

「無宗教の葬儀」とはいうけれども、しかしそれは、これまで葬儀という命の一部を、仏教やほかの宗教に委ねてきて、意味づける作業を怠ってきたから、そういう発想が出て来るともいえるわけで、

宗教行事として行うかどうかとは関わりなく、「見送るとき」は、人間誰にでも訪れる、避けられないものではないでしょうか。

その避けられない出来事に、ひとはどのような意味を見出すのか。見出
せばいいのか。

そこは、別に宗教でなくても、仏教でなくても、特定の宗派によらなくても、どのような形で行うにしても行わないにしても、
やはり考えなければならないことであろうと私は思います。

そうでないと、生きてあること、出会ったこと、今なおつながっていること、今そのもの、人生そのもの意味が希薄化してしまう。

それは、故人が生きていたことの意味をも希薄化してしまうことでもあるし、生きてある者たちの人生の意味をも希薄化してしまうことにならないでしょうか。

これまでの葬儀のしきたりをただ踏襲することが正しいわけではないし、
これまでのしきたりについて疑問・異議があるからといって、「では全部なしにしましょう」というのも正しい思考ではない。

死に別れることが人生に不可避の出来事であるならば、その必ず訪れる人生の一部に、自分たちはどのような意味を見出すのか、何をもって正解――自分たちにとって納得のいく見送り方――とするのか、

そこはやはりきちんと考えて、答えを出す必要があるかと思います。

宗教であろうがなかろうが、仏教によろうがよらなかろうが、そのようなことは本質ではないように思います。

あなたはどのような思いで、そのひとと出会ったこと、縁結ばれたことを受けとめるのか。

あなたは、どのような思いで、そのひとたちと出会い、縁さずかったことを振り返ろうと思うのか。

これ(葬儀)は、見送る側にとっても、先立つ側にとっても、お互いがこの世で交わしたつながりに、「ひとつの意味」を見出すための作業なのです。

怠るべきことではありません。むしろ前向きに、意識して取り組むべき、大切な出来事なのだろうと思います。

別れてなお、生前と変わらぬ、あるいはそれ以上の、友愛や愛情をもってつながりうるような、そういう生と死とを結ぶ行事というのは、ありえないものか――そういう思いで、僧侶として活動させていただいております。

今回の季刊誌は全部で44ページとちょっと大作になりました。その一部(3分の1弱)をおすそ分けさせていただきます(ご希望の方は、メールにてご連絡ください)。

今回は3人の方にご協力いただきました。ありがとうございます。

印刷したものは教室でお配りしております。

8月ももう終わり――また新しい季節、秋に入りますね。
日本は本当に季節に恵まれた国ですね。

草薙龍瞬合掌

この世界に「信頼」をもとう

8月23日
今日は日本仏教講座。久しぶりに復活した人もいて、お盆明けにふさわしい賑やかしい教室になりました。

今回は、法然の話。前回からの浄土信仰のつづきでした。

命閉じること、つまり死を、どのようなものとして受け止めるか。死をどのような現象として理解するのか。

死という未知の出来事について、どのような「理解」をこの心に置くかというのは、じつはたいへん大事。

もし誰かに先立たれたときに、それをどのような出来事として受け止めればよいのか。そのとき自分自身の答えを持っていなかったら、心は簡単に動揺し、また喪失に苦しむことになるだろう。

自分についても同じこと。もし「その先」についてひとつの理解を持っていなかったら、ひとは皆、これまで生きてきたのと同じ心と発想をもって、これから先も「ただ生きていく」だけになる。だけど、ゴールの見えない道のりというのは、どこか物足りない――というか、自分がどこに向かって進んでいるのか、最終ゴールが見えていないわけだから、「ただなんとなく歳を重ねていく」だけになってしまうことだろう。ひとによっては不安や怖れに駆られるかもしれない。

人生には必ず終わりがくるのだから――。ならば、

人生の先にあるもの、そしてその先の先にもつづくであろう、この世界――私たちが生きるこの世界――がどういう世界なのかを、きっちりと理解しておくことは、確かで大きな意味を持つだろうと思う。

今回やった浄土信仰の話は、いわば、死という人生の終わりに、ひとつの「理解」を見出すことを講義の目的としていた。

この世界とはどういう世界なのか――それは、つながりに基づいた、命を生み育む、豊饒なる力に満ち満ちた、恵みの世界――言葉にするなら、「慈愛に満ちた世界」といってよいだろうと思う。

ひとは、死んだのちに、この人生の苦を持っていくことなど、できようはずがない。苦の一つたりとも、死の先には持ってはいけない。

どの苦しみも、生きている間だけのものだ。

とするならば、死とは、生きてある間の苦を終わらせてくれるもの。苦から解き放ってくれる、ひとつの出来事だと理解してよいであろうと思う。

ひとは、命の完結をもって、人生にあったすべての苦から解放される。

その先にあるものは、つまりは、「安らぎ」なのである。

その安らぎの世界とは、私たち人間が生まれる前から、存在し続けており、また私たちが死したのちにも、永遠に続いていくだろう世界である。

ひとはなぜ苦しむのか。悲しむのか。それは、まさに心が作り出した迷妄・錯覚だとはいえまいか。

命の先には安らぎがあり、ひとはみな安らぎに向かって日々歩いている。怖れることなどない。遠ざけようとすることもない。

独りきりの人生であっても、その先には安らぎが待っていてくれているのであり、

もし自分の人生が安らぎに還ることを、知っていてくれる、受け止めてくれる、心やさしき縁者がいてくれれば、それはなお一層のすばらしい僥倖であるといえるだろう。

私は個人的に、ひとが命を閉じるときに、
「あなたが生きてきたことを私は受け止める、これからもあなたという命をちゃんと胸にとどめていきてゆく、だから安心してお還りなさい」――と伝えられるような仏者でありたいと思うし、そのような活動をつくっていきたいとも考えている。

大切なのは、この生の先に安らぎを見ることである。先立ってゆく命もまた、安らぎの世界へと還る。自分の命もまた、安らぎの世界へと還る。

この世界を、どのようなものとして「信頼」するか――それこそが私たちが考えるべき問いではないか。

悪意や疑念をもってみれば、殺伐たる世界にみえるかもしれない。悲しみをもってみれば、悲しみに満ちた世界にみえるかもしれない。

だが、この世界は本当は、命を生み、育て、次につないでゆく力に満ち満ちていている。

ひとはみなこの世界から生まれて、やがては生きてある間の苦しみのいっさいから解放されて、また安らぎの世界へと帰っていく。

この世界は「生きていきなさい」「生きていいのですよ」というメッセージに満ちた、無限のつながりと慈愛の世界である、と「理解」し「信頼」するのである。

これは、信じてよい理解であろうと思う。なぜなら、もしこの世界が、無限のつながりと慈愛とに満ちていない世界であるならば、宇宙開闢以来ここまで命の連鎖は続いてはいない。私たちは、この日ここまで生き永らえてはいないであろう。

すべての生命を育む力に満ちているからこそ、私たち生命の連鎖は、ここまで、果てしなく続いてきているのである。

だから、この世界を、もっともっと私たちは「信頼」していい。世界とはそういうものである、と「理解」すればよいのである。

浄土信仰では、世界に満ちた慈愛の力(はたらき)を、「阿弥陀仏」という無量の光として言い表した。
(※「阿弥陀仏」という言葉の原義には、「人格」はなかった。もともと阿弥陀仏とは、抽象的な、無限の寿命と光とを意味した。「はたらき(作用)」を象徴する言葉だった。)

阿弥陀仏は、時代を経るにつれて、だんだん人格化していって、人間の姿をした神様的な存在として思い描かれるようになっていった。だがもともとは、この世界に満ち満ちたひとつのはたらき・力を意味したと言っていい。そしてそのはたらき・力は、現代においてなお、この宇宙に存在する科学的真理のひとつでもある。

ひとの心に訴えかける「はたらき」としてとらえたとき、阿弥陀仏という言葉と、「慈愛に満ちた世界」という言葉とは、みごとに重なってくる。そのはたらきは、本質において共通している。

かつて新宿の街で、40すぎの若い女性が、伴侶を事故で亡くしてパニックになって私を訪れてきたとき、私が伝えたのは、原始仏教が説く「執著を手放せ」ではなかった。

「この世界は慈愛にあふれていて、ご伴侶はその世界に帰っていったのだから、安心していいのですよ」

という言葉だった。そのときの私の心には、浄土信仰の教えがあった。女性は安堵の笑顔になって帰っていかれた。

「極楽浄土」ではなく、「人生の苦から解き放たれた安らぎの世界」として伝えたのである。ひとが、その命に抱える苦から解放される・救われるという点においては、どちらの言葉をとっても同じである。そもそも仏教というのは、さまざまな表現・言葉の背後に横たわる、最も深く、共通する真実・真理を伝えるものだ。私は、原始仏教と浄土信仰がそれぞれにもつ思想の本質部分に心を下ろして、そこから出てきた言葉を伝えたのである。

この教室のように仏教を幅広く学ぶことの意義は、たとえば時代によって変わる仏教的な「言葉」の底を流れる、本当の意味の部分――ひとの心の苦をとりのぞく「はたらき」の部分――が徐々に見えてくることにある。

これはかなり難しい思索と洞察を必要とすることはたしかだ(それが自分独自のオリジナルの見解になってしまってはいけないのだから。あくまで仏教に根ざした「理解」でなければいけない。それが仏教に依って立つ者の流儀である)。

しかし、そもそも仏教思想というのは、ひとの苦しみ・悲しみをいやすことを目的とし、
その方法としては、けして非合理な物語によることなく、人間にとって合理的な、受け入れやすく、また現実にたしかな効果を持つ方法でなければならない。

そういう前提・作法に立ったときには、今回のような理解や表現もまた、仏教思想の流れからきちんと出てくるのである。

私たちは、死というものに、そして生まれまた帰っていくこの世界そのものに、ひとつの「信頼」を持つべきなのだ、という話。

世界はそもそも慈愛に満ちている。

命が還ってゆくのは、安らぎである。

そういう「信頼」を持てるかどうか。持っていい。これは人生観の問題である。宗教・信仰を信じることとは違う。世界観の問題である。

私は、そういう「信頼」にもとづいて、誰かの命終わるときを受けとめたいと願っているし、また自身の命終わるときについても、この信頼をちゃんと保って迎えようと思っている。

自分の人生に、その先に、この世界に、「信頼」をもつこと。

それが今回の結論でした。

※8月31日は夜の座禅会(午後6時~)です。

「わたしに座禅の才能ありますか?」

週末の日程
●8月 23日(土) 18:00 ~ 20:00   
日本仏教のすべてがわかる講座 「正しい命の閉じかた」(浄土信仰・法然・親鸞) 神楽坂
●8月 31日(日) 18:00 ~ 20:30   
日曜夜の座禅会  神楽坂 

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こんにちは、草薙龍瞬です。

お盆が明けて、東京も日頃のひとごみが戻ってきました。
私は、正月とお盆のいっとき、ひとがまばらになる街がけっこう好きです。

夏は自室にいるとエアコンもなく暑すぎるので、外のお店や電車の中で本を読んだり作業したりします。冷え冷えのクーラーがありがたいです(笑)。

●3冊目は、10月末発売になる予定です(あるいは11月)。

勉強法がテーマなのですが、英語や数学の話はさすがに難しすぎて売れないということなので(笑)、やはり生き方論がメインになりました。

前2作を「出してよかった」と思う理由は、一点だけです。それは、全国にいる、何か答えを探している、前に進むきっかけを必要としている、深い悩みに沈ん でいるひとたちとつながれたこと。

本を出していただいたからこそ生まれた出会いというのが、確かにあります。ごくごくわずかですが、ひとの幸せに役立っ た。だれかが幸せになる可能性が生まれた。

その一点でのみ、本を出してよかったと思います。とどのつまり、私の活動は、それだけが目的です。誰かの幸せに役に立てればいい。

本も、売れるのがもちろんベストなのですが、それもまた新しい出会いにつながるから。幸せの可能性が増えてくれるからです。

みなさんもぜひ、草薙龍瞬と誰かとの新しい出会いを応援してくださいませ。草薙龍瞬を応援するというよりも、幸せが生まれる可能性を後押ししてもらえたら、、、と願っています。


●座禅の教室で、「わたしに座禅の才能がありますか?」という質問がありました。

「才能」ですかぁ・・・考えたことありませんでした。

座禅というのは、才能でやるものでも、趣味として取り組むものでもきっとなく――心の習慣ではないかな(であるべき)と思います。

体の感覚を意識すること。気づくこと。つねに感覚と心がつながっていること。それが心の本然(本来のあるべき姿)。

感覚とのつながりが抜けてしまうと、人間の心はあまりいいことを考えません。雑念・妄想にとられて大きく翻弄されてしまいます。

座禅をはじめて体験するひとは、座禅=気づきの習慣がないところでこれまで生きてきたので、アタマの中はきっとまだまだ落ち着かない、せわしない状態なのかもしれません。

次々に雑念がわいてきて、あまりにも集中できない。考えないということができない。だから「才能ないのかな」とつい思ってしまう。

でも心配することはないと思います。習いごとというのは、最初はだれもができないものですよね。

毎日練習することで徐々に身についてくるものなのです。

才能というより、「ああ、これは必要なことだなぁ」と思えるかどうか。

たとえば、3か月努力できるかどうか。

歯を磨いたり、お風呂に入ったりするのと同じように、心を落ち着かせることもまた、習慣になることが望ましいのだと思います。

まずは1日15分、ひとりの時間を作って、おなかのふくらみちぢみに意識を向けて、感じ取るようにしてみませんか。

1日15分の習慣。きっとそれで、何かが始まります。




お盆前の教室から

お盆入り前の8月9日(土)は、
午前は東武、午後は神楽坂で2つ教室がありました。

全部で8時間近く――充実した一日でした。

●シリーズ日本仏教講座では、法然、親鸞に代表される“浄土信仰”――“あの世”論――に突入。

といっても、この場所は、出来あいの思想をただ紹介するだけでなく、きわめてリアルな問題意識に立っているので、

最初に「まんが日本昔話」の映像(『和尚さんの地獄めぐり』)をみんなで見て(笑)、

五木寛之氏や、納棺士の青木新門氏(映画『おくりびと』のモデルになった方)、田口ランディ氏らの文章をとりあげて、現代人にとっての死を考え、

そこからさかのぼって平安末期の人々の「死後のイメージ」(おどろおどろしい地獄絵図――源信の『往生要集』)を紹介したのちに、

「死後の世界への恐怖」から人々を解き放った、日本仏教の革命家・法然の生い立ちに入る、という、

なかなか壮大な?構成になっています(法然の生い立ち編は次回8月23日)。

さらに、最近、理研研究員のS氏が自ら命を絶ったという、かなしい出来事をふまえて、

「原始仏教の世界では、自殺・自死というものをどう扱っているか?」をテーマに、とある仏典のエピソードを紹介。

けっこうディープな内容になりました。(そうそう、草薙龍瞬が少年だった頃に体験した、怖い話のおまけつき。)

●ひとは、死というものに、ついついとらわれてしまいがち。そのくせ、人の死にも自分の死にも、けっこう無頓着だったりする奇妙なところがある。

つまり、他人の死については、動揺する、憤る、悲しむ一方で、

今回の理研のSさんの例のように、騒ぐだけ騒いで、その実、そういう世の中のありよう(報道の仕方とか、そういう話題に飛びつく一般の人たちとか)こそが ひとを死に追いやっているかもしれないという自己反省はいっさいなかったりする。他人の死は、あくまで他人事の域を出ていない。そういう印象がある。

他方、自分自身の死についても、死するときに心に何を思うのか、あるいは死することを前提として、では今をどう生きて準備すればよいのか、という発想はあまりなく、ただ世間の話題・動き、日々の雑事に追い立てられて、なんとなく年を重ねているだけのように見えることもある。

ひとは、死についての態度が実に曖昧だ。盲点のように、なぜかそこだけ輪郭がぼやけてしまっている。

ちなみに法然が出現する前の日本人にとって、死は「地獄に落ちる」ことを意味していた。死することは恐怖であり、難題だった。

だが、法然が「念仏だけで救われる(浄土にゆける)」という新しい思想を打ち立てて以来、人々にとって救いはだんだん簡単になっていった。

そして今日では、地獄なるものはほとんど説得力を持たなくなり、死はますます軽くなった。

ひとは、「財産の生前整理」は熱心に考える。「お墓の維持・管理はどうしようか」と考える。その思考はじつに即物的(モノ本位)である。

昔の人のように「死んだらどこに行くのか」と真面目に考える人は少なくなった印象だし、「いずれ死すべきこの命を、いかなる役割のもとに、どのような動機のもとに生きるのか、使うのか」といった厳密な問いを考えている人は皆無のようにみえる。

最近は、著名な仏教学者さんが、「お墓や葬儀・戒名は、みな坊主がビジネスとして作ったものだから、不要である」なんて語っていたりする。

語るのは自由だ……しかし、こういう人たち(学者や、物書き僧侶さん、仏教系作家さん)たちというのは、「知識としての仏教」しか知らないように見える。個人的な「意見」しか語っていないように思える。

個人の意見だけ語ることと、「仏教のありよう」に一定の見解を語ることとは、厳密にはまったく違う行いだ。前者は自分を向いているが、後者は自分以外の命すべてを向いているはずだからである。

彼らは、個人の意見を語ることだけで満足してしまって、「では仏教とはいかにあるべきか」という具体的にして普遍的な思想・行いのレベルでは言葉を発していない(発想がない)ように見える。たとえば、

今の世の中、現実の人生の中で思い悩み、苦しみあがいている人たちにとって、どのような思想がふさわしいのか。

愛する人を不意に亡くしてしまったときに、どのようにして気持ちに整理をつけ、またこれからの日々をどんな思いで生きていけばいいのか。

求め求めて苦しむ心いっこうに止まず、これからどう生きればいいのか、またこのやり場のない満たされなさ、憤り、怒り、欲望をどう扱えばいいのか。


そういう切実な問いへの答えを探しあぐねている数多くの人たちに、

一体どのような理解のしかた、行い、形ならば、その人たちにとって最善の答えになるのか、というテーマについては、考えていないように映る。

仏教を語る声は、巷にあふれている。

しかし、仏教を語る人たちが語らねばならないのは、「自分はこう考えます」といった人生観や所信の表明では本当はなく、

むしろ、自分の意見という枠を超えたところで、もっと現実の世界をよく見て、感じて、人々にとって救いとなるような、新しい希望となるような、ものの見方や、具体的な行いについての提案のはずだ。そして、それを実際に自分自身がやってみるところまで歩を進めるべきである。

実際に、その言葉が、別の誰かにとっての答えとなりうるのか。実際にそれで救われたり、希望になりうるのか。そこまで実践的に考えることが必要のはずである。

ここまで視野を広げれば、仏教を語り、考え、生きる、ということは、じつは容易ならざることであると、察することができるのではないか。

●そういう厳密な、いわば、“(自分・ひとさまの)命のかかった”問題意識で、仏教を学び、語らうのが、この場所――そうありたいと思う。とある人が「毎回、 真剣勝負ですね」と感想を語っていた。それはそうである。私にとって仏教とは、人生そのものであり、また別の命に役立ちうる可能性だから、つまりは“命がかかっている” ものだからである。

法然を例にとれば、彼は、自身の死に方(往生のしかた)を、それまでとはまったく新しい形で見いだした。

それまでの日本仏教(天台、真言、奈良の南都仏教)が説く、高度な修行が必要とされる道ではなく、

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏ひとつで救われる、と信じた。

そして、それを自身の生き方とするにとどまらず、現実の苦難の中でもがき苦しみ、また悲嘆にくれざるをえない人たちにとっての「救いの方法」として、説き伝え、実際に多くの人々を救った。

人々は、法然の言うことを信じた。仏教をただ「語る」のではなく、仏教そのものを「生きる」身の上だからこそ、その言葉を信じたのであろう。

こういう仏教のあり方――「死」というものをとことん、自分のためだけではなく、死を前にうろたえ、あるいは死に向き合う心の態度が固まっていない多くのひとたちのために、考えつめる仏教。「死への向き合い方」を伝える仏教。ただの意見・言葉ではなく、人の心に確実に影響を与え、苦しみから救いへと、その心を変えうる力をもつ仏教。

そういう仏教こそが、本来の仏教であろうと思う。そういう仏教は、かつての時代にはあったし、今の時代にもあっていいはずである。

私自身、もっともっと仏教を学んで、実際の行い・カタチとして表していきたい。

――今回も楽しく充実したひとときとなりました。毎回、新しい話題が出てくるので、私自身とても勉強になるし、楽しいです。みなさんにも楽しんでいただけたら幸いです。

お盆休みに入られる人もいるでしょう。

よき日々をお過ごしください。