仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

年越し4コマ漫画のおすそわけ♪

2014年(仏歴2558年)も今日一日……

振り返れば、いいこともたくさんあったんじゃないかな。そう思いたいものですね^^。

季刊誌『興道の里』に連載中のマンガのおすそわけです。

みなさん、よいお年を。2015年も、あなたにいいことたくさんありますように……。


クリスマスは「仏教の言葉セレクション」 

12月22日
来年のインドツアー、準備はちゃくちゃくと進んでいます。
将来的には、だれか里の会の人が添乗員になって、日本からみなを連れて来てもらって、
それまで私はナグプールかブッダガヤで活動している、といった形になればいいと思っています。

今回は、インドツアーの第一弾。徐々に態勢をととのえていって、日本人が「仏教の本質」にめざめるきっかけとして育てていきたいと思います。

日本人がまず、ブッダの教えの本質を知ること。そして世界の現実を知ることが必要だと思っています。

そして日本という、世界でも稀有な、めぐまれた環境のなかで、仏教というひとつの純粋な思想を、世界に発信していく活動をしていく。そういう方向性を私は見ています。

●ブッダの教えの「本質」というのは、テーラワーダ仏教圏にも、中国・日本・ベトナム等を含む大乗仏教圏にも、じつはありません。

どの土地・国にも、すでに確立された伝統仏教(エスタブリッシュメント)というのがあって、それにそぐわない説を広めようとすれば、異端として排除されてしまうのです。

でも、どの仏教国においても、伝統仏教がほんとうに現地の人々を幸せにしているかというと、やはり疑問符がつく部分がたくさんあります。貧困、差別、非合理に満ちた現実……を追認することをうながす、後世に改ざんされた思想がけっこう混じっているのです。

ほんとは、伝統仏教に組み込まれた非合理を捨てて、今の時代、世界全体に向けて、宗教という色が抜けた、もっと普遍的で中立的な「幸福への方法」というものを発信しないといけないのです。

必要とされているのは、伝統的な、宗教としての仏教ではない。「幸福への方法」です。

その方法として、ではどんな思想がこの世にあるかな?と探したときに見えてくるのが、ブッダの教えなのです。

ブッダの教えに、「確かめようのない」説は存在しません。原始の、最も古いブッダの言葉からは、日本や南方アジア圏に伝わる伝統仏教が説く思想(たとえば輪廻)、儀礼や物語はみごとに削ぎ落とされています。

ブッダが語っているのは、心を浄化し、求めるがゆえの心の渇きを静める方法。努力の大切さ。慈しむことの尊さ。

とてもシンプルにして、だからこそ真理といいうる普遍性を持っている。これは「幸福への方法」であって、宗教ではありません。だからこそ、今の時代・世界にとって役に立つ可能性がある。

これからの時代に、もし仏教を学ぶ人たち、そして仏教を語る僧侶方がめざさねばならない方向性があるとしたら、それは、

このような中立的な「幸福への方法」として、仏教の最も純粋な「本質部分」を世界に発信することだと、私は考えます。

今はまだ離陸前の段階です。でも、日本でも、インドでも、着実に、この方向性に向っての芽――可能性――は育まれつつあります。

これから、ますます創造的で意義のある活動ができそうです。ご同行いただければ幸いです。

****

23日、27日の講座は、「仏教でクリスマス♪ 仏教の言葉セレクション」。さまざまな仏教書の一節を引いて、感想を語り合います。
「クリスマス」と銘打ってはいますが、ケーキもシャンパンも出ません(笑)。地味~~にやります。

PART1は「仏教の迷言」の部類。

前回20日に参加したある方は、「こういうカジュアルな文章のほうが読みやすいのでしょう」と言っておられました。

「カジュアル」――これはグッドな形容詞ですね(笑)。

ただ、カジュアルに気軽に読めても、「ブッダの教え」は一滴も出てこない――そういう言葉が前回けっこうありました。

こういう言葉をどう受け止めればいいか? 私たちは今後仏教をどう学んでいけばいいか?というのがテーマです。

PART2は、「名言」の部類。

PART1の言葉と対比するとくっきりと浮かび上がってくるのですが、やっぱり「名言」として挙がるのは、「原始仏典」に残るブッダの言葉です。

じつに洗練されていて、本質をきっちり伝えています。「よくこれだけ長い期間、オリジナルの言葉を温存できたと思います」と前回感想を述べた方がおられましたが、ほんとそうだと思います。

そのブッダの言葉を正確に訳しているのが、やっぱり中村元先生の言葉です。

正直にいって、日本で活動する僧侶も長老・比丘方も(もちろん私自身も)、中村元先生の知的遺産のうえに乗っかっているようなものです。

どの僧侶方の言葉も、中村元氏が訳した「ブッダの言葉」を超えてはいない。というか、自戒もこめて言いますが、世間にあふれる多くの「仏教的」言葉は、「ブッダの言葉」を踏み外してしまった個人の見解、ただの珍説だったりします。

ブッダの言葉か、それ以外の個人的見解か――それを区別する境界線を敷いてくれたのが、中村元先生の著作だと思います。彼の業績というのは偉大です。ナモナモ(≒帰依)すべきです。

23日、27日には、原始仏典以外の仏教書の「名言」も紹介します。心あるお坊さんもたしかにおられて、その方々の言葉というのは、やはりブッダの教えを学ぶに役立つ洗練さを持っています。

日本仏教の見取り図が見えてくる、ためになる講座です。ぜひ年納めもかねていらしてください。

今回のテーマは、「ブッダが示す正しい方向性」をあらためて見すえること。

そして巷にあふれる「仏教的言葉」のいずれが「幸福への方法」として役立ち、どれがそうでないかを、きっちりと見分けるための「視点」を持つことです。

教室ではざっくばらんに意見交換ができればと思います。

興道の里がめざすスタイルは、「ブッダの教えの本質」に立脚したうえで「カジュアル」に語るというものです。

「おおらかに、励ましをもって、明るく語る」といってもいいかもしれない。精進してまいります。

みなさん、よき年の瀬を!




クリスマスの仏教講座&親鸞「あるがまま」

12月20日
いよいよ2014年もあと2週間を切りましたね。かなりの風雪に見舞われている土地もあると聞きます。御無事を祈念しております。

●1月21日から29日までの興道の里初企画のインドツアー、順調に準備進んでいます。1月明けでも間に合うと思いますので、ご希望者はご連絡くださいね。

●今日20日と23日の午後6時からは、2014年総集編もかねての仏教講座です。クリスマスにちなんでちょっと趣向を変えます(ワークショップか映像か)。27日に先駆けて、仏教の言葉セレクションもやる予定です。

●前回のメール通信のあと、「アミダブツ」というものに違うイメージを持っていたが、ちょっと理解のしかたが変わったとおっしゃって下さった方がけっこういました。

日本(大乗)仏教はブッダ本来の教えから離れてしまっている、と感じている人は多いみたい。ですが、

今の日本人が知っている日本仏教というのは、かんちがいした坊さんたちが適当に説いているものでしかありません。これは坊さんのみならず、仏教学者とか仏教作家などが語る内容についても、同じことがいえます。

かんちがいした人たちの言葉を聞いて、わからない、難しい、役に立たない、という印象を持っている。つまり、学んでいるこちら側もかんちがいしているのです。

「勉強」にもスジのよい学び方と、スジの悪い学び方とがありますよね。学び方にセンスがないと、いつまでも勉強はわからないまま。

伸びるか伸びないかは、使う本や、学ぶ先生などによって決まります。
仏教もきっと似たところがあります。

ちなみに日本人は、学ぶセンスというのがあまりないのかもしれません(笑)。学校の勉強。英語。そして仏教――本筋から離れた教科書・参考書や先生にまじめにつきあって、「わからない」「キライ」と言っているような……そんな感じがしませんか。

やり方、変えてみればいいのに――?

「本質」は、テーラワーダであれ大乗であれ、けっこう共通しています。表現、見る角度がちがうだけ。

むしろきちんと共通する部分=本質がみえるように、伝える側は伝え、学ぶ側は学ぶ、という、そういうちょっとした工夫(智慧)が必要なのでしょう。

「共通する部分」がみえてくると、もう一つ不思議な思いがわいてきます――この2500年に語られた仏教の言葉というのは、案外ブッダの教えから一歩も出てない(オシャカサマの手のひらの上?)のだなあと思えてくること。

今日から教室でとりあげる、仏教の名言&珍言に触れても、そうした思いは湧いてくることでしょう。

この12月は、現代日本にあふれる仏教の言葉に触れてみましょう。
すると、日本の仏教がブッダの教えからいかに遠いか、もっと正確には、「仏教の本質からどれだけ離れているか」が見えてくると思います。

と同時に、こうした言葉に私たち現代の日本人は「どう向き合えばいいか」をも考えましょう。
「仏教の学び方」(方法)をあらためて構築しようというのが、今年最後のテーマです。

※親鸞の言葉を引用しておきます(やっぱりちょっと難しいかも。教室ではわかりやすく説明しています):

自然法爾[じねんほうに]の事(現代語訳)

  自然というのは、自はおのずからといい、行者のはからいではないこと。然とはしからしめるということばである。しからしめるというのは、行者のはからいで はなくて、如来の誓願によるのであるから、法爾という。法爾というのは、この如来の誓願であるがゆえにしからしめるのを、法爾と言うのである。法爾とは、 この御ちかいであったがゆえに、まったく行者のはからいをさしはさまずして、この法の徳のゆえにしからしめるというのである。すべてひとが、こちらからはからい【※作為・恣意・はたらきかけ:龍瞬注】を加えないのである。だから、義なきを義とする【※意味を求めないことをよしとする】と知るがよいと仰せられたのである。

 自然というのは、もともとしからしめるということばである。阿弥陀仏の御誓願は、もともと行者のはからいではなくて、南無阿弥陀仏とたのむものを迎えようと、仏のはからいたもうたものであるから、行者としては、よかろうとも、悪かろうとも思わない【※あれこれと詮索しない】のが、自然というものであるぞ、とわたしは聞いている。

  誓願のありようは、最高の仏となろうと誓われたのである。最高の仏というものは、かたちもないものであられる。かたちもあられないから、自然とはいうのである。かたちがあるときには、最高の涅槃とはいわない。かたちもないというありようを示さんがためにと、阿弥陀仏とはもうすのであると、わたしは聞きならっています。

 だから、阿弥陀仏というは、自然のありようを示さんがため【※いわば、すべての生命を育む世界の法則・摂理を表現するためである。この道理を心得たからには、もはや、この自然のことは、あれこれと思いはかるべきではないのである。――増谷文雄訳『親鸞』筑摩書房から

――阿弥陀仏とはいわば象徴・記号であって、人の姿をした像ではない。それが親鸞の理解です。

「問うな、考えるな。人間の分別が及ばぬ世界というのがある。それが“自然(じねん)”である」




お地蔵さん、似てますか?(「手放す」までの道のり)

こんにちは、草薙龍瞬です。

先週土曜の神楽坂は、「親鸞」がテーマでした。

親鸞――念仏による救済を説いた浄土真宗の開祖で、1173年生まれ。90歳まで生きた――の思想は、さまざまに語られていますが、一言でいうなら、

「仏さんがあなたを救ってくれることはもうずっと昔に決まってることなのだから、
今さらジタバタして自分で幸せになろう・救われようとあがいたりしないで、
すべてお任せなさい、身心ともに委ねてしまいなさい」
(自然法爾:じねんほうに)

ということかと思います。

何に身心を委ねるか――というところが、おそらく一番、理解するための根底になるポイント。

ゆだねる先はさまざまありうる。「因縁(つながり)」にゆだねる。「アミダブツ」にゆだねる。他の宗教なら、「神さま」にゆだねる。

自分以外のなにか大きな存在にゆだねるから、親鸞はこれを「他力」という。自分の力に頼らない、自分でなんとかしようとはしない。

伝統的には、親鸞の思想は、「自力で自分を救おう」とする一派――瞑想中心のテーラワーダ仏教とか、いろんな修行・苦行によって「さとり」をめざす他の日本仏教の宗派――とは対照的(発想がちがう)だと言われている。

だけど、「ゆだねる」「ラクになる」「手放す」という心境とはどういうものか――を、掘り下げて見つめてみると、ふたつは案外似ているのではないか、と思えてくる。

というのは、たとえば瞑想、座禅――これ、「自分の力でなんとかしよう」と遮二無二頑張っても、じつはほとんど先(心の成長)に進めない。

「心を成長させるぞ」とか「なにかひとつでも特別な体験をするぞ」という思い――親鸞的にいえば「はからい」――があるかぎり、修行はまったく進まない。

ところが、ある瞬間、弾みに、ふとなにかを手放したときに、アレ?これって……とちょっと不思議な、まったく新しい感覚に入ったりする。

なんというか、「自我」「自意識」からちょっとしたはずみで離れたときに、新しい体験をするのである。

これは、子どもが最初に自転車に乗れるようになったり、バック転ができるようになったり、という体験とちょっと似ているかもしれない。それまで知らなかった、想像もできなかった。それがふとしたきっかけで、できてしまえた!という感じ。自分でもびっくりする。

仏教の世界では「執著を手放す」とよくいう。これって、世間でいわれる意味とはちがうだろうけど、瞑想の世界でも実感できる。「手放す」という心の動きがどういうことか、わかったかも!と思えることがある。

その「わかった!」感は、それこそ言葉で説明することはできない。自分で体験してみるしかない。不立文字(ふりゅうもんじ:文字では説明できない)。教外別伝(きょうげべつでん:教えることでは伝えられない真実がある)。

ひとは、みんな「手放したい」と思っている。過去を。かなわぬ願いを。自分の性格を。たまってしまった感情を。あるいは誰かを。

でもなかなか手放せない。ひとはみな、手放したい何かをたくさん抱えていて、それをひっくるめて手放して、ラクになって、ああ心が軽い、もう安心だ、と思いたい。

ただ実際には、手放せるひとと、結局さいごまで手放せないひととが出てくる。そのちがいはどこからくるのだろう?

手放す体験をするルート――道・なりゆき――というのは、いくつか挙げることができる。特殊なところからいえば、信仰。瞑想。親鸞が言う「他力本願」、アミダブツの慈悲にすがって「おまかせ」すること。

そこまで特殊でなくても、ちょっとしたきっかけで手放せることもあるかもしれない。旅。新しいひととの出会い。新しい仕事・環境……。

ひとによっては、「苦しみのどん底」で、ああもう生きていけない……と絶望したときに手放せるということだってあるだろう。

きっかけはさまざま。でも境地は共通だ――

手放す。自由になる。ラクになる。過去を忘れてしまう。自分が何にしがみついていたのかさえ、忘れてしまう。新生する。

そんな瞬間にたどりつくまでの道のりには、「ひとつの共通項」があるように思う。

それは、「手放したい(手放さなきゃ)」という思いが心の底にずっとあることだ。

手放したい。自由になりたい。安心(あんじん)したい。と思っていること。

そういうひとから、ふとしたきっかけで、ほんとにそういう世界に入っていける。(しがみついてる人は、たぶんずっとそのまま行く。)

結局は、あきらめないこと。求めつづけることなんだと思う。

親鸞の場合は、9歳で比叡山に入って、「20年」も激しく修行しつづけて、ようやく「限界」を感じて、「アミダブツにおまかせ」という新しい信仰に入っていった。20年である。

恐縮ながら自分ごとを引かせてもらえば、「自力」頼みの格闘のはてに、ようやく自分そのものを手放そう(手放さないともう生きていけない)と私自身が覚悟を決めるまで、30年以上費やしている。

ほんとの救い、安心(あんじん)、安らぎ、そして自分の人生への「深い納得」が得られるようになるには、やっぱり歳月の積み重ねが必要なのだと思う。

積みに積んで、重ねに重ねて、ようやく見えてくるものというのがある。

私は仏教の道に入ってそろそろ十年だけど、やっぱり今だに新しい発見というか、「いっそう深い真理」にたどり着いた、というか掘り当てたような思いを持つことがある。それは今も続いている。というか、それが「増えてきている」ような気さえする。

なぜ増えているかと言えば、それはやはり仏教を学びつづけているから。日本に帰って来た4年前は、日本仏教のことはほとんど知らなかった。その後学びつづけて、さまざまな日本の仏教者の思想に触れていくうちに、どんどん新しい理解がみえてくる。見えてきている。

発見とか、救い、といったものはそういうものだと思う――今はまだ見えてない。でも続けていけば、いつか見えてくる。そして、その瞬間は、ほんと不意におとずれる。

1年、2年なにかをやったからといって、その本質がみえてくるわけじゃない。

座禅も、仏教も、仕事も、人生そのものも。とにかく生きてみること。つづけていくこと。

降りなければ、きっと「安心(あんじん)」はえられる。

そのとききっと、多くの仏教者たちが語る、「手放す瞬間」「救い」の意味が、ほんとの意味でわかる。

なにかひとつ、求めつづけること。実践しつづけること。それを「生きつづける」こと。
そうすれば、なにかが生まれる。

そのとき、そのひとはちがう人間になれる。

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お知らせ
★インドツアー2015、ご希望される方には資料をお送りしました。「遠足みたいで楽しくなってきた♪」というお声をいただいています。私も楽しくなってきました^^。
年内にビザ申請まで行ければ十分間に合うので、今からでも参加可能です。まずはメールで連絡ください。

★山形のお友だち(里びとさん)からお写真をいただきました。龍瞬に似ているお地蔵さんだそうです。似てるでしょうか。おすそわけとしてお届けします。

★12月20日、23日は「クリスマスに仏教で『愛』を考える」。27日は「仏教ベストセラーの名言セレクション」。28日の坐禅会でシメです。

よき年の瀬を――

笑っちゃった・・・












坐禅・ヴィパッサナーQ&A 「ヨコになる瞑想」ってありですか?

質問
 サマネンのおすそ分けありがとうございます。只今、布団の中から失礼しております。と言いますのは、先月末頃、30kgの米袋を担いだ時、腰というか背中にグキッ!と嫌な痛みを感じました。いわゆるぎっくり腰だと思って数日で回復するとタカをくくっていたら、痛みが取れず整形外科でレントゲンを撮りました。結果、脊椎の一つが変形して潰れているとのことでした。ショックでした。でも昨日、少し痛みが和らいだので結跏趺坐で瞑想したのですが翌朝、脈打つ背骨の痛みに見舞われました。結構、この姿勢は背骨に圧力掛かるのでしょうか?
 そこで質問ですが、横になりながらの瞑想は可能でしょうか? 方法や注意点が有りましたら教えて頂きたいと思います。それと脈打つ痛みに対して痛み痛みとラベリングする事は有効でしょうか? ご指導よろしくお願いいたします。
おすそわけ
回答
 まずは同情申し上げます。「30キロの米袋」、担ぐのはもうやめましょう(笑)。あなたも私もトシを重ねているのですから(笑)。

●3つご質問がありますね。ひとつめの「結跏趺坐」(両足の甲を反対側の太ももに載せる、かなりタイトな座り方)ですが、サティ(気づき)を向上させるという禅・ヴィパッサナーの最初の目的にてらせば、必然的な理由はありません。中には「結跏趺坐じゃないと坐禅をやった気がしない」とか「あの苦痛がないと物足りない」という方がおられますが、前者はカタチにとらわれて本質から離れた見解、後者は坐禅に抑制(苦行)的効果を求めてしまっている(私が知るかぎりでは、あまりに落ち着きがない)人の感想のような気がいたします。

 ここは多くの人が勘違いしているところなのではっきり伝えておきたいと思いますが、サティというのは「意識続くかぎり継続してやる」のが基本です(八正道にいう正精進とは「継続」のこと)。だから、ご飯を食べていても、歩いていても、トイレに入っていても、つねに気づき続けることが基本。座っている間だけ努めて済むものではないのです。とにかく継続してサティを入れる(働かせる)ことが基本なのですから、「結跏趺坐して座り込む」という発想に合理的理由はないのです。だから好きに座ってください。というか、座らなくてもいいから、とにかく気づきを保つ訓練を積んでください。「座る」は、長時間気づきを働かせるための方便(まさにカタチ)でしかありません。

 なお座るときのカタチについては、「自分の骨格に聞く」というのが一番だろうと思います。結跏趺坐で難なく座れる人はそれでいい。でも半跏趺坐であっても、あぐらであっても、あるいはイスであってもよいのです。自分にとって一番長時間座れる形で座ること。正念(気づき)、正定(集中)、正精進(継続)の三つを自分が最も満たせる形で座ればよいということになります。

 付言しておくと、多少カラダが痛くなっても「ガマンして動かない」ことは大事です。多くの人は簡単に動きすぎです。苦痛でも、退屈でも、とにかくその不快に耐えてじっとしていること。不思議なのですが、安易な反応を止めると、意識は別の、ふだんの肉体の感覚とは違うところに向かうのです。「禅定」と呼ばれる状態に入るのは、たいてい苦痛に耐えた後です。

●二つ目の質問ですが、横になってのサティ・瞑想は可能です。禅であれば「行住坐臥」と言いますね。あの「臥」が伏している状態、つまり横になっている状態です。ヴィパッサナーでも「横になる瞑想」はあります。結局、気づきを働かせていればどんな姿勢でもよいのです。

 ただこの姿勢では、…… ※続きは季刊誌12月号でお届けします。


★12月20日、23日夜のテーマは、「クリスマスに仏教で『愛』を考える」です。タメになる仏教の言葉のオンパレード。ぜひご一緒下さい。

★インドツアー2015、年内までなら受付可能です。希望者はメールにてご連絡くださいね。


よき年の瀬となりますように――

ジュンク堂『書標(ほんのしるべ)』今月号に著書紹介

こんにちは、草薙龍瞬です。
いよいよ師走突入ですね。

一年の終わりをこうして意識したときにきまって出てくるのが、「なんて時間が経つのが速いんだ! 一年てあっという間!」というもの。

これ、時間の終わりを意識すると、心が「その先」ではなく「これまで」に向かうからかもしれない。

で、考える。「わたし、なにしてたんだろう?」

これ、人生の終わりにも同じように思うんだろうな……とふと思いました(笑)。

そのとき、納得いく理由を見つけておきたいものですね。
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★お知らせ

『独学でも東大に行けた超合理的勉強法』サンマーク出版の「著書紹介」が、全国ジュンク堂で配られる『書標(ほんのしるべ)』今月号に載っています。

もちろん著者である私自身が文章を書き下ろしました。

タイトルは「中学中退のヒネクレ者が夢中で勉強して東大に合格した“もうひとつの”勉強法」。

今回の本は、「もっと上へ」「もっとスマートに」という実利一辺倒の今の時代に、「もっと夢のある学び方(生き方)」ってないものかな?という思い、そして学ぶことに夢や希望をもってがんばっている人たちへのエールとして書かせていただきました。

今回の本に託した本心(メッセージ)が伝わるといいけど――ぜひ伝わってほしい。

今回の文章は、ある意味もっとも自分が伝えたい思いをこめることができた気がします。ぜひ読んでください。
http://www.junkudo.co.jp/user_data/hon/pdf/syohyo201412.pdf
本を買うならジュンク堂(^▽^)。画像をクリックすれば冊子をダウンロードできます
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 ★年内の仏教講座スケジュールです

12月 11日(木) 14:00 ~ 16:00
巣鴨・おとなの仏教塾~仏教のすべてとその魅力   巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り

12月 13日(土) 18:00 ~ 20:30
日本仏教のすべてがわかる講座 土曜クラス - 神楽坂・赤城生涯学習館 
テーマは浄土真宗の開祖・親鸞その他。

12月 14日(日) 18:00 ~ 20:30
夜の座禅会 - 神楽坂・赤城生涯学習館 

12月 20日(土) 18:00 ~ 21:00
★仏教でクリスマス  興道の里2014年総集編  神楽坂・赤城生涯学習館 
12月 23日(祝) 18:00 ~ 21:00 ※23日と内容は重なります。ご都合よいほうにご参加ください。
仏教でクリスマス 興道の里2014年総集編  神楽坂・赤城生涯学習館

(内容)2014年の仏教講座の総集編。この一年でとりあげた仏教の名言や講座内容、クリスマスにちなんだ映像をプロジェクターで紹介。★インドでの活動報告や、なんでも聞ける質問コーナーも。クリスマスミニプレゼントつき。

12月 25日(木) 14:00 ~ 16:00
巣鴨・おとなの仏教塾~仏教のすべてとその魅力 ★クリスマススペシャル  巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り

12月 27日(土) 18:00 ~ 20:30
年納め 仏教の名著&ベストセラーの名言セレクション  神楽坂・赤城生涯学習館 
(内容)

 数ある仏教の名著&ベストセラーから、ココロ打たれる名言や、ユーモアあふれる笑える言葉、ちょっとクビをかしげてしまう言葉などをセレクトして発表していく仏教情報満載のトークライブ。知的に楽しみながら、仏教全体の「見取り図」が見えてくる。
 仏教とはなにか?数ある仏教のことばを、日常にどう活かしていくか?――マジメな動機で、誠実に考えていきます。一年のしめくくりとして、知的で役に立つ仏教タイムをご一緒しませんか?


12月 28日(日) 18:00 ~ 21:00
年納め座禅会(2014年打ち上げスペシャル)  神楽坂・赤城生涯学習館



季刊誌『興道の里』年末特集号はクリスマス前後発送の予定です。