仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
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●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

一年御礼!興道の里の2015年を振り返る

12月30日
こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ2015年もあと1日となりました。

みんなすっかり「巣ごもりモード」でしょうか。

家族で年を越すのも、ひとりで年を越すのも、乙なものです。

心を心機一転するのは、ブディズムでは一瞬一秒で、いつでもできるはずですが、社会全体がリニューアルするというのは面白い発想。年が明けた!感をそれぞれの場所で楽しみましょう。

●心を入れ替えるには、「21日間」ひとつのことを願い続け、実行しつづけることが効く、といくつかの本の中で読んだことがあります。私自身の体験だと、約ひと月、目覚めている間ひとつのことを念じ続けると、たしかに意識が根底からひっくり返っていきます(私の場合は、瞑想修行のときにそんな体験をしました)。

だから、元旦から21日間、「こうなりたい」と思う自分を思い描きつづけるとか、悲観的な人は、「自分はできる」とポジティブな判断を繰り返すとか、心にスキなく念じ続けると、意識は変わっていくかもしれません。

●ちなみに、受験生などから「ヤル気が出なくて困っている」なんて質問を受けることがありますが、ヤル気を出すのに根拠はいりません。「やる!」と今この瞬間に決意して、そこから先は余計な雑念を入れないようにすれば、それで解決です。

やるかやらないか。向こう岸に跳ぶか跳ばないか。結局はそれだけです。雑念に気を取られている(自ら使っている)うちは、人間変わりません。でも変わることに根拠はいりません。「余計なことは考えない」(集中する)しかない。これは決意の問題です。

決意したら、過去は吹っ飛びます。どんなに過去負け続きでも、「ここから先」は関係なくなる。それくらいの「切り替え」が、ほんとはできます。開き直ること。ある「一時点」から先は、その思いだけに集中特化すること。決意次第で可能です。

ということで、新年どんな決意をして21日間実行するか、考えてみてはいかがでしょう。

私はひとまずあと2週間は、今いただいている本の執筆に専念します(笑)。書きまくりの行(ぎょう)に突入します。

◎興道の里の1年を振り返ると――

★1月 インドツアー敢行! 

2017年に第2弾を実施する予定。仏教・生き方を真摯に学ぼうとする人のみの限定ツアーにします。まずは仏教を学んでくださいませ。その上でぜひ一緒に仏教の最前線を目撃しに行きましょう。

★7月末 KADOKAWA『反応しない練習』全国発売 

おかげさまで多くの人に支持していただきました。本というのは真心入ってナンボのもの。これからも心を尽くして良質の本をお贈りしてまいります。

★7・8月 初の全国行脚! 

福島、宮城、岩手、山形、群馬、埼玉ほか、北日本を主に廻りました。素ン晴らしい出会いと美しい景色。新しい人たちと仏道を分かち合うことができました。 やってよかったです。旅先で出会えた方々、今もご縁いただいている方々、どうもありがとうございました。

2015年夏も実施します。特に西日本・四国・九州の方、ぜひご準備下さい。

★神楽坂を拠点として、巣鴨、池袋、二子玉川、たまプラーザでの仏教講座&禅教室も無事完遂。

★そして出家の本道である法事の機会も授かりました。仏道というのは、己の修養に努めることと、人さまの役に立つことの二つに尽きますので、「機会下さる」こと自体がありがたく。どこまで、何か幸福に役立つことを差し出せるか、「働き」を果たせるか。それが僧にとっての「布施行」です。来年も謹んで頑張りたいと思います。

★来年は、いよいよ海竜社さんから家族論の本が刊行になります。人を苦しめる・家族を苦しめ合う原因としての「業」――人生を支配する力――を解き明かす。そして悩ましい関係に「希望」を見出す。新しくて難しいテーマです。そこをわかりやすく、役に立つ形で表現することが今回の任務。いい感じで仕上がってきているので、お楽しみに^^。

そして4月にはKADOKAWAさんから第2弾を出していただく予定です。今度のはかなり実践的で具体的な「練習法」(心の使い方)の紹介です。つきましては、

★『反応しない練習』を読んで「こういう仕事・生活の状況だと、どうすればいいの?」という具体的な疑問が出てきた人は、ぜひメールでお便りください。koudounosato@gmail.com 本の中でお答えしたいと思います。

――仏教はもっともっと、人々の役に立ちます。〝目覚めた人〟ブッダの破格の知性にもとづく合理的な「苦しみから抜ける方法」を、ごまかしのない言葉でお伝えしていきますので、ぜひご同行下さい。
ということで、一年お世話になりました。ありがとうございました。

ダンマ(幸せへの方法)とともにあらんことを! May the Dhamma be with you!


年の瀬のご挨拶&最近の話題「お坊さん便 アマゾン対全日本仏教会」について

12月27日(日)
こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ、みなさん年越しモードに突入されたのでしょう!

一年、お疲れさまでございました。みなさま、よう頑張ったのですね! めでたい、めでたい(?)。

●私は昨日26日で「講座納め」でした。一年の間、いろんな場所でいろんな方々と巡り逢えました。よきご縁をいただきました。

12月23、25日の年納め仏教講座・クリスマスバージョンでは、懐かしの人たちも来てくれました。久しぶりに再会できるのも、無上の喜びです。

この場所は「仏教の本質」を学ぶ場所ですので、形はいろいろあっていい。「メリークリスマス!」とお便りくださった方々、ゼンゼンOKでございます。

●「仏教の本質」といえば……最近、アマゾンが始めた「お坊さん便」――法事葬儀に一律金額でお坊さんを派遣するサービス――に全日本仏教会が猛反対しているとのニュースが、朝日新聞他に載っていましたね。

彼らがいつも言うのが「宗教行為をビジネス化してはいけない」ということ。

しかし、「宗教行為」と「ビジネス」というのは、まったく別物です。ビジネスというのは、

①対価を交換して、それぞれの活動を支える(これは双方に利益のある純然たる取引行為)

②過剰な利益を追求して、一方の側に受け取る価値以上の損失・出費がある

という二つの可能性があります。①は公平(フェア)で、②はやりすぎ(一方の貪欲が通ってしまっているシステムそのものに問題あり)。

もし「お坊さん便」が、①のフェアな取引であるなら、今や都市人口が増えて、昔ながらの檀那寺を持たない人にとっては、価値あるサービスになる可能性がある。

坊さんもその機会を活用すればいい。生活を支える経済活動そのものは、けして否定すべきものではない(むしろ不可欠)。

●最大の問題は、全日本仏教会の主張である。「宗教行為だから」と語りつつ、

○では、宗教行為とは何なのか?
○現在、仏教界で行なわれている寺・僧侶たちの活動(法事も含め)のどこに宗教行為としての意味・尊さがあるのか?

がはっきりしない点。

全日本仏教会は、「布施」は「六波羅蜜」(悟りに達するための六つの修行項目)の一つだから、ビジネスにしてはいけないという。

しかし「六波羅蜜」は、「僧侶にとっての」修行項目だ。僧侶たち自身が自らの修行として率先してやるべきもの。別に悟りをめざしていない市井の人たちに 「布施は修行だから、それをアマゾンなんぞを介するのはダメ」とはまったく言えない。主張がズレている。つまり彼ら自身が「布施」とは何か、「宗教行為」 とは何かが、わかっていないような印象を受ける。

だから一般の人たちがモノ申すとすれば、
「それ(修行としての布施)をやらなくちゃいけないのは、あなたたち。私たちは、葬儀・法事を、もっと心ある形でやってほしいのです。当たり前のように「布施」を求めてきて、何に使っているのか定かでなくて、その額もはっきりしなくて、ウチの田舎のお寺みたいに行事ごとに多額の布施を求めてくるというのは、納得いかないのです」ということだろう。

別に、法事の機会がネット上のシステムで生まれたって、そのこと自体が「宗教行為」を害することにはならないということだ。

もちろん数ある「商品」の一つにしか見えない今のサイトの作り方は、さすがに「世も末」というか、もう少し「宗教行為」面への敬意・配慮が欲しい気もする (笑)。法事には「ただのビジネス」ではない面も、というかそちらの面の方が強く、厳然としてある。そこを軽薄化してはいけない。「冒涜」というのは、ときにそういう思慮の不足から来る。

●今回の騒動の一番の問題は、仏教界が、ふだん自分たちが行っている法事・行事・その他僧侶たちの行い・生活が、あまりに「宗教行為」からほど遠いこと。それを自分たちが自覚していない点にある。

布施? 六波羅蜜? それを真摯に実践している僧侶たち(これは、あくまで僧侶の側の問題であって、市井の人は関係ない)は、どれくらいいるのだろうか。

彼らは二言目には「宗教行為」と語る。しかし、今の日本仏教界――寺をマイホームとし、ビジネス界以上の恩恵をこうむり(宗教法人は無税だとか)、酒・タバコその他「修行にまったく関係ない」物事に手を出して平気でいる僧たちのコミュニティ――に、その意味を知っている(真摯に受け止めている)人が、どれくらいいるのだろうか。

ちなみに、「宗教行為をビジネスにしている国は他にはない」とも全日本仏教会は主張している。だが、「ビジネス」に乗っかっているのは僧侶たち自身である。もし反対するなら、「お坊さん便」に登録している僧侶たちにモノ申すべきではないか。

●「宗教行為」は、経済活動では、けっして生み出されないものだ。

ひとの喜びと悲しみを思い、慈しみをもって、何かしら人の幸せに役立つ働きを果たすこと。

あるいは自身の心の清浄と、苦しみからの解放、世俗の世界にはない目的をめざす生き方のことだ。

そうした生き方・営みを、現実の世の中で、悩み葛藤しつつ、追求していくこと。「宗教行為」と訴えたいなら、まずそこを自らの行いをもって果たすことが先決になる。

もし僧侶たち、あるいは仏教界が、ビジネスや世俗の活動とは画然と違う、人が心洗われるような、あるいは死者を弔うことの本当の意味を感じとれるような、 人々が世俗の価値観や自らの生き方をふと問い直したくなるような、そういう真摯・誠実・真剣な活動を、「法事」という場で共有できれば、「宗教行為としての面を大切にしてくれ」という主張は、説得力を持つ。人々だって納得するだろう。そういう部分に、仏教に携わる者たちは努めるべきではないか。自戒もこめて、そう思う。

●重ねていうなら、「布施」は、僧侶たちが率先して行うべき修行の徳目(=働きを果たすためのメニュー)である。もし「布施」を求めるなら、「目的」を明示して、自分たちの身の上を支えるための「経済活動」とは別に募ることだと思う。もちろん最低限の「戒律」(自制)を保っていることが前提だろう。

心ある人たちは、そういう真摯な目的に共感して、そして僧たちの慈悲の思いに慈悲をもって感じ入って、できる協力をするだろう。それが「布施」である。

つまり「布施」を主張するなら、主張するに足る身の上を示さなければいけないということ。そこがはっきりしないかぎり、人々は納得しない。似たような話題はこれからも出てくるだろうと思う。

時代に振り回されない、これぞ仏教、これぞ道に立つ者と思える中身を、しっかり鍛え上げることか。謹んで精進したい。

――と、余談が膨らみすぎてしまいましたが、みなさま、よき年の瀬を!

一年、ありがとうございました。

草薙龍瞬敬白合掌



もうすぐ、インドへ


インド現地で配っているチラシだそうです
12月18日
師走も終盤、お元気でしょうか。

今日、インドゆきのビザ申請に行ってきました。毎回、通るかどうかドキドキします(笑)。

インド行きは、来年中旬から。行き先は、「龍の街」ナグプール(Nag=龍、pur=都・街)から車で一時間ほどのウダサ村と、その近くの広大な土地。

ウダサ村には、私の同士である地域の活動家たちがいます。そして創立6年目になる幼稚園も。

さらに、地元篤志家から寄進を受けた土地に、お寺の建設が始まっています。今回はその敷地でのスピーチがあります。前回以上に人々が集まると青年たちは言ってます。「一万人」とか(笑)。インド人がいう数字はたいてい数倍水増しされているものだけど。

私の役割は、その新築寺院の住職兼、地元の仏教徒たちを励ます役割――そもそも人として何が大切か、本来のブディズムとはどういう思想か、そして彼らアウトカーストのインド人たちを仏教に改宗したアンベドカル博士が何をめざしていたか、を改めて自覚するためのスピーチをします。

日本での活動とはまた色合いが違う。日本ではクール(ある意味、ライト(笑))ですむけど、インドでは熱血&重量モードにならないと、人々は感化されない。インドでは自分比1.5倍くらいに「熱度」が上がります。とにかく真剣モード。年に一度くらいしか今はインドに行けないので、その分、密度を上げないといけません。幼稚園のこと、お寺のこと、仏教のレクチャーや、活動家・地元の要人の人たちとの会合など、やることはたくさんあります。

自分の体力、というか心の熱量が試される場所です。覚悟していかねば、と毎回思います。

次回は、またインドツアーを組んで、日本の人たちを案内できればと思います。

とりあえず、23日と25日が、年内最後の仏教講座です。どんなテーマになるかはお楽しみに。お時間あったらいらしてください。


最近嬉しかったこと

神田・三省堂 表通りのウィンドウです
12月13日
●来年3月に出る新刊の原稿が、ほぼ完成に近づいた。最初に担当編集者さんに見てもらうときは、ドキドキである(笑)。しかし、はよ感想を聞きたくてウズウズもする。おほめの言葉をいただければ、よかったと素直に思うし、厳しいご指摘を受ければ、それもまたありがたいと思う。上々の反応をいただき、まずはひと安心(嬉しいときは素直に喜ぶのもまた仏道である^^)。

そして、前作と同様に、モニターさんに見てもらった。それぞれに目のつけどころがちがうので、予想もしなかった指摘をたくさん受ける^^。これがめちゃくちゃ勉強になる。

今度の本の目玉は、「親の業を知る」ための診断テスト――ちょっとおちゃらけて「業占い」と名づけてみたのだが(以前流行った『動物占い』っぽく)。でも本屋で立ち読みする人は、「占いの本」をイメージして、離れてしまうこともあるのでは、という指摘があった。たしかに。なるほど~である。

またこんなコメントも――多くの人は、書店での立ち読み時も含めて、「じっくり読み込む」というより、日常の忙しい合間に「目を通す感じ」。仏教にはほとんど興味のない人も多い。そんな人たちが一回読んでスッキリできるくらいのわかりやすさが必要とのこと。これもなるほど~である。

その他、いろんな感想・指摘・ツッコミをもらった。いや、ありがたい(笑)。

著者が何より幸せなのは、「世界最初の読者」である担当編集者さんから直接感想を聞けること。そして、ある意味、本と離れた日常を生きている読者さんたちの感想やリクエストを聞けること。感想や相談のお便りもいただく。これらすべてがありがたい。

こうしたやり方で作っていけば、確実に本の中身はよくなるだろう。血が通う。ある意味、スタジオにこもりっきりでスタッフさんとやり取りしながら収録する音と、ライブ会場での熱と情のこもった音とがミックスされてひとつの音になるような? そんなの、CDにもないかもしれない(笑)。本だからできる、否、担当編集者さんと興道の里のモニターさんとがいてはじめてできる、執筆スタイルである。このスタイルを今後の定番としたい。

●来年3月に出る新刊(海竜社『家族○○○○○○○』)では、

☆親子・家族に悩んでいる人たちに、その悩みを上手に解決するブッダ流の道すじを紹介する。

☆解決のカギは「業を知る」こと。業とはいわば、「心の中のこだわり・とらわれ」――怒りや支配欲や過剰な期待など、その人の心を支配している思いの数々のこと。それが親の性格・しつけ方に出る。子どもはモロその影響を受ける。

☆だから、「親の業」がわかれば、親がどんな人間だったのかわかる。自分が親からどんな影響を受けているのもわかる。「自分の業」がわかれば、「なぜ自分はこの人生を生きているのか」「いったいなぜ同じ問題・悩みを繰り返しているのか」がみえてくる。

☆それは、悩みの「原因」がよくわかるということ。原因がわかれば、「解決する方法」もわかる。「同じ悩みを繰り返さないために何が必要か(対策)」がわかるし、「こういう業のタイプの親と、どうやって付き合えばいいのか」あるいは「いっそのこと絶縁したほうがいいのか」といった長年のテーマにも、答えが出る。

これは画期的な「家族が抱える悩み」への対処法だ。職場などでの人間関係にも応用がきく。

●一般に、家族をテーマとする本は、精神科医の「分析」や、作家・エッセイストの思い出話や意見など「個人の思い」を語っていることが多い。

それで部分的に「わかった」と思える人や、「わたしも同じ体験をした・同じ思いでいる」と溜飲を下げられる人はいるかもしれない。

しかし、「家族一人ひとりの生き方」「家族との関わり方」を、実践可能な「方法」としてまとめた本は、あまりないといっていいのではないか。しかも、ベースは仏教。ただし現実から遠い「お釈迦様の教え」ではない。ブッダのきわめて合理的な視点にもとづく、「家族の悩みを解決する方法」が語られている (自画自賛もまた仏道である……ことはない(笑))。

ちなみに「業」というのは、古い仏教では「前世のカルマ」として説かれる。しかし原始仏典のブッダの言葉は、もっと合理的で洗練された「この人生を作る原因としての、行い・言葉・思い」という〝三つの業〟を語っている。そこに「前世」も「輪廻」も関係ない。そもそも「悩みを解決する」のに必要なことだけ、効果的な方法で伝えるのがブッダの方法・スタイルだった――それを臨機説法・対機説法と、古くは呼んできた。

ならば、そのブッダ原初の「発想」にもとづいて、家族の悩みを解決するための「理解のしかた」だけを考えればよい。その目的に照らして、「業」のとらえ方・活かし方も「洗練」させるべきである。それでようやく人それぞれの「救い」が見つかる。

こういう発想こそが、ブディズム――ブッダの智慧――ではないか。誰も確かめたことがなく、また現実の問題を解決する上でまったく役に立たない「輪廻」「前世のカルマ」なる理解に、いったいなにゆえに執着しているのだろうか。非合理極まりない。

●今回の本で何よりうれしいのは、担当者さんとの二人三脚、さらには読者さんとのつながりをもって、チームで本作りができていることだ。プロセスに充実・喜びがない仕事は、きっとどこか動機を間違えている。プロセスそのものが喜びである、プロセスそのものに自分が求める「結果」がすでにある――そういう道(やり方)こそが、本当の道である。そういう道を、今回、歩くことができている。そう、こういう本作りがしたかったのだ。

こうした作り方で楽しく進めていって、充実感と達成感と、関係する方たちへの感謝をもって、世間のひとさまに成果を問う。成果が出れば「よかった」と喜びを分かち合えばいいし、そうでなければ「次の成果をめざしてまた頑張ろう」ということになる。大切なのは「結果」ではない。というか、正確には、プロセスなくしての「結果」など、求めること自体がおかしいのである。むしろプロセスそのものがひとつの「結果」であること、プロセスそのものが喜びや誇りであること。感謝があり、礼節がある。ひととして大切にせねばならない美徳がちゃんとある――そういうプロセスが大切である。

なるほど、道元が言っていた「修証一如」とは、こうした文脈でも使えるのかと腑に落ちる――修行というプロセスも、悟りという結果も「一如」、つまり一つ、同じである。分離してはいけない。悟りという結果だけを求めて、ただの手段として(苦痛に耐えながら)修行するのは間違いである。修行そのものがひとつの結果であること。修行というプロセスの中に、ひとつの結果、すなわち納得・充実がなくてはいけない。そのとき、「今歩いているこの瞬間」こそが、すべてになるのである。正しい道・生き方においては、先を見る必要は、もはやなくなるのだ。

今回の本は、とても楽しく、美しい道の途中にある。

このまま今しばらく歩きつづけよう。






本を出せる喜びよ

岩手から「ワンワンクッキー」(正式名称いぬぱん 村上製菓さん )いただきました!
ワンワン!(がんばります!)
12月8日
●文章執筆も大詰めを迎えている。来年3月刊行予定の新刊。

とてもいい感じで仕上がってきている(自分比)。新しさ、情感、方法のゆたかさ、そしてわかりやすく語られた仏教の本質、

そして、家族ゆえの苦悩から自由になること――その目的に向けての、正しい道のり、つまり「考え方」が見えてくる。そういう内容をめざしている。

『反応しない練習』も、素晴らしい作品にお陰さまでなったと思うが、今回の本も、色(スタイル)は違うが、かなりいい本になるように予感している。とにかく、著者なりの想いは入っているかな、という感じ。あとは、どれだけ読んで下さる人に届くか……。

文章を書くのは、本当に楽しい。「命を削っているのですね、お疲れさまです」とお気遣いのお便りをいただくことが多いのだが(そう聞こえるらしい(笑))、実際には「全身の細胞がピチピチ喜んでいる」状態である^▽^。たしかに心を絞って言葉を紡ぎ出すのは「行」[ぎょう]に近いところがあるが、けして殺伐とした過酷さはない。これで睡眠時間さえ確保できれば、究極の健康法ではないかと思えるくらいの快がある。

●最近、いい話をひとつ聞いた。

テレビキャスターを務める、ある超著名な方の話。編プロの人が企画を持ち込んで、資料を渡し、最初の原稿はライターが書きましょうかと持ちかけたところ、「一蹴された」とのことである。「自分で書く」と。しかもその中身が、やはりテレビの司会と同じくわかりやすいのだそうだ。けして他人には書けないわかりやすさがそこにある。本人だからこそ書ける奥行き、内容があるのだそうである。

ホンモノ、はやっぱり、ホンモノなのだろう。気骨がある。その世界に通暁している人間だけが持ちうる強みがある。その強みに達した人にとっては、他人の技など役には立たない。本人が作るほうが、中味があり、しかも早いのである。

めざすなら、そういう境地をめざしたい。そもそも、語るまでもないことで本来あったはずのことであるが。

●かつて、とある禅師はこう言った――「彼はこれ、われにあらず」

これは、中国・宋の時代にかの地に渡った道元[どうげん:日本曹洞宗の開祖]に、現地の寺の典座(てんぞ:寺の料理を作る係)が語った言葉である。

若き道元が、浜辺に買い出しに来た典座に出会った。本場中国の禅の話を聞きたい、今宵はぜひご教示いただきたい、寺の料理は若い衆に任せればよいではないですか、と言った道元に、「おまえさんは、禅なるものが何もわかっていないらしい」と一笑に付して発した言葉である。

他人に任せては、自身の道にはならない。
道に立たぬ者は、当然ながら道を失う。
道は、自分自身で歩まねばならない。

これは禅の世界の、そして仏道ほか、すべての「道」の基本中の基本である。

道元は、帰国後、己の道・生き方として「ただひたすら座れ」と説いた。

座ることのそのものが道、人生である。修行の道がそのまま悟りであるとも伝えた。

悟りと修行、結果とプロセス(過程)が、分離していること自体が、外道――間違っている――と、弟子たちを厳しく戒めている。それが禅の道――禅という道に立つ者の生き方――である。

禅の道をもてあそんではならぬ。道というからには、己自身がまず生き、学び、実践し、きわめ、その上で人々への慈悲の思いで、正真の言葉で、伝えていかねばならぬ。

その覚悟と、正覚(最高の理解)に立って、はじめて禅の言葉を語れるようになる。どだい素人には語りえぬ、そもわかりえぬ世界である。

今の時代、本質を踏み外すことは、難しくない様子である。そもそも禅とは何か、仏教とは何か、道とは何か、生きるとは何か、ひとに道を伝えるとはどういうことか、ことごとく忘れ去られた感のある時代である。

しかし、そうした時代に迎合するわけにはゆくまい。仏教という広大で深淵なる潮流を、穢すことなく、世界へ、次代へと伝えることが、すべての正真の仏者たちの使命であるはずだからである。

私にとって、仏道とはそういうものである。

決定[けつじょう]・草薙龍瞬


祈りをこめて

11月30日
来年3月出版予定の海竜社刊『○○(タイトルは秘密。家族ゆえの苦悩がテーマ(笑))』の原稿書きが佳境に入っています。

大体240ページくらいを想定。とりあえず2冊分くらい書いて、今ばっさりと枝葉を切り落としているところです。半分くらいまで。

私の本の書き方として、企画・テーマが決まったら、読者の人たちがどんなことを知りたいのか、考えているのかをリサーチします。で、目次や見出しなどをリストアップして、書けるところからメモ書きしていきます。全編バラバラの段階。

そこから、目次を構成しなおして、メモ書きを配置していきます。配置したメモ書きをその順序でプリントアウトして、それを土台にして文章を書いていきます。「読んで自然に心に入ってくるか」「聞くだけで理解してもらえるか」を理想としつつ――。

ひととおり文章を書きだしたときの分量が本2、3冊くらい。そこから「容赦なく(笑)」バッサバッサと切り落としていきます。パッと見て心に入ってこない、硬い表現はボツ。「生きてる文章」というのは、とても素直で、話し言葉に近いと感じられる、流れ、リズム感のある文章だと思う。もちろん全部とはいかないけれど、そういう文章がところどころ生まれてくると、書いていて楽しくなります。

目をつむって、心の内側を探って、言葉を紡いでいきます。そして、出会った人たち、まだ見知らぬ人たち、いろんな人たちのことを想いながら、ブッダが最後の旅で示したような「愛情と励まし」を込めて書こうと頑張ります。

本というのは、明日死ぬかもしれぬ著者にとっては、「最後の遺書」みたいなもの。真面目にそう思っています。悔いが残らぬように、思いのかぎりをこめて、その時点でのベストを出して終わりたいと思っています。

『反応しない練習』KADOKAWAを読んで、いろんなご感想・お便りを全国からいただいています。たいへん励みになるし、「衝撃を受けた」「こんなに読みこんだ本は初めて」という興奮の言葉を聞くと、贈りだせてよかったなぁと思います。

本というのは、中身だけでなく、タイトルや、装丁や、その他すべてに真心がこもっていることが、世に送りだす上での前提だと思っています。『反応しない練習』はその点で、すごく充実していました。これと同じくらいの完成度をもって、次の家族論も送り出したいと願っています。

「最後の遺書」(出せれば更新されていく(笑))のつもりで書いている人間って、どれくらいいるのだろうか。この私のせつなる思い、ぜひ大切にしてほしい。これは、私にとっては「祈り」です。多くの人たちに届くように。この時代、この社会を、それぞれに一生懸命生きている人たちに、ほんの少しお役に立てるように、心が明るくなれるように、工夫を凝らして自己ベストに挑戦して参りたいと思っているのです。

独りで書いていても、ひとりを感じない――そんな書き方をめざします。これからますます、いろんな人の感想・相談・質問を受けながら、この国のすみずみにまで届くようにと祈りつつ、みなさんと「一緒に」書いて参ります。

どんどんお便り、お寄せ下さいね!







「自分の務めは果たした。お疲れさま!」 最近のおたよりから

11月18日
●最近のおたよりから――
私は何度も御著書の『反応しない練習』KADOKAWAを開き、心を鎮めてきました。
先日も職場(小売業)で、心を乱されることがありました。
朝礼で行なう一分間のスピーチに私が指名されたので、日頃から、スタッフを褒めるどころか、会話もしようとせず、いつもダメ出しばかりの店長に、何か伝わることを願いつつ、こんなスピーチをしました。

『……私たち日本人はシャイで、気づいていても、なかなか口に出せないことがありますが、職場では、なるべくお互いを褒めあう、例えば、ディスプレイうまくできたね、接客が丁寧だね、髪形いいね、こんなことが躊躇なく言えるようになったら、もっと楽しく明るい職場になると思います。

特に、上司に褒められると、私たちの承認欲が刺激され、やる気が倍増することもありますので、店長、次長、どうか温かい目で私たちのいいところを探してみて頂けませんか?
私も、褒めて頂けるように頑張ります。』

と、このようなスピーチをしたところ、即座に店長が
『褒められない! こんなに売り上げが悪いのに、褒めるところなんかない! 褒めれば売り上げが上がるのか!』と、真っ向から否定されました。

少し前の私でしたら、頭に血がのぼり、大きな声で反論したかもしれません。しかし、その時は違ったのです。「前の心と後ろの心の存在」(※『反応しない練習』第2章)が意識できたお陰で、怒りに震えながらも、この店長を、哀れな人だなぁ、と冷静に見ていることができました。

しかし、その後に、あの時のことを思い返しては腹が立ち、あの人の部下である自分が情けなくなり、イライラしていましたが、『あ、これが記憶に怒っていることなのだ』と気づいてから、心を落ち着かせることができた気がしました。
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この話題は、ビジネス系啓発書には決まって出てくる古典的なテーマですね。

「売り上げが悪いから、褒める理由がない」と、キビしくあたる上司――。

仏教的にいうと、こういう発想は、「目的」をかんちがいしているところから起こります。
「目的」は、まずは自分たちの職場を快適に過ごすこと。作業にきちんと専念して、できる工夫をして、まずは「自分たちの満足」を得ることなのです。そこが最初。

結果的に、その雰囲気がお客さんに伝わって、「活気があるな」「楽しそうだな」と感じて、「また来ようかな」と思う。その結果、売り上げが上がっていく、という、それが正しい成功の法則。

もっと言えば、売り上げが上がる・上がらないは、二の次。ほんとは、期待できることではありません。それは未来の領域。お客さんの領域だからです。

「売れる結果」が目的なのではない。プロセスそのものに納得ができること――それが絶対の基本。

私自身の持ち分でいえば、自分が納得できる、心のこもったよい内容の文章を書く。誇りに思えるクオリティを、編集者さんや、読者さんや、モニターさんのリアクションを通じて作っていく。こっちが基本です。

人間というのは、勘違いしやすいもので、つい「結果」、つい「自分」のほうを見てしまう。でもほんとはそうではない。むしろ、結果を捨て、自分をも捨てて、ただ目の前のモノゴトを、楽しみながらやる。楽しめるようにやる。そこに意識を集中して、結果的に「結果」がついてくる。そうなれるように、見るターゲット・心を向ける方向を、きりかえることがほんとは大事なのです。

今を見る。
足元を見る。

もっとも、勘違いしてしまっている相手に反応することは、なるべく避けたいですね。「哀れな人」「かわいそうな人」という見方も可能ですが、これはくやしさ(怒り)が作り出した「判断」です。怒ってしまったから、「慢」で反応して、相手を見下ろして、怒りを晴らそう、みたいな感じでしょうか。

できれば、とことん反応しないで、クールでいられるように頑張ってみることかもしれません。
 最終的には、人の心は人の領域。相手がどのような(愚かな)思いにとらわれていようと、それは相手の問題であって、自分には関係なし。反応しなければ、相手の思いは、相手だけが抱えることになりますね。

仏教の発想だと、相手に心を向けず(反応せず)、自分の役割に専念する。作業だけに心を向ける。
そして終わった後に「よし、自分の務めは果たした。お疲れさま」といって去っていく。そういうあり方が理想なのかもしれません。内なる誇りをもって。

おたよりお待ちしています。勉強してまいりましょう。
koudounosato@gmail.com
 
 
 

こんな本を作っていきたい (草薙龍瞬の約束として)

11月15日(日)
さて、これから送り出す本の話――。

本とは、そもそも何なのか。

幼い子供が絵本の世界に胸ときめかせ、想像の翼を広げ、自由自在に内面世界を広げていくように、

大人が読む本もまた、「自分のアタマ」以外の世界に触れて、人生の可能性を広げていくためのきっかけであることだろう。

絵や写真がある。言葉がある。知識や情報、ノウハウがある。

みなそうしたものを目にして、何かを感じて考えて、つまりは自分の心を使って、新しい体験をする。

本を読むとは、心を使うことだから、命の一部を使うことである。

そして、本を読むことで、心は変わる。ときに、人生そのものが変わることだってある。

私も、世界がひっくり返って見えるくらいの鮮烈な体験を、本との出会いによってしたことがある。一度ではない。「世界が輝いて見える」ことが、本当にあった。

それくらい、本とは大事なものなのだ。本とは、その著者の心の現われ。その著者がその心を使って、可能なかぎり最も純粋な――真心に近い――言葉を紡ぎだす。そうして生まれてくるのが本である。

その言葉に触れて、人は心を変え、人生を変える。

ある意味、生の出会い・語らいだけでは体験できない、心と心の交流。そして大きな変化や成長や発見や癒しやときめきがある世界。それが本の世界である。

ならば、本を送り出す側は、どういう思いで作っていけばいいのだろうか。

今の時代・今の世の中を生きる人々の心を、自分なりに感じながら、人々は何を求めているのか、どういう形・言葉・ビジュアルなら、その心に届くのか、誠心誠意考えながら、感じ取りながら、作っていくことになるだろう。

本に現われた言葉は、言葉を紡ぐ「著者」の心に、かぎりなく近い、しかも読み手の心に響く言葉であるべきだろう。

本作りの現場にいる人なら、時代や社会に寄り添い、著者の心に寄り添い、上手に励まし、インスパイアして、新しい言葉や表現が出てくるように同伴する。そういうクリエイティブでサポーティブ(後押しになるよう)な関係が、理想だろう。

ときおり心痛むのは、「著者」と「書かれた言葉」とがあまりに離れてしまっている本を見かけることである。これは、私自身が著者としてというより、一読者として感じ取ることである。どうにも著者本人の言葉とは思えない、だれか他人が適当に書いたような気配がありありと感じられる、そういう不自然な、体裁(うわべ)だけの本が、けっこう見つかったりする。

私はおそらく嗅覚が鋭いので――いや、でも本をよく読んでいる人、本を愛する人であれば、感じていることだろうが――、こういう真実味のない言葉は、すぐに伝わってくる。

「活字」というのは、個性を平坦にする魔力を持っている。お粗末な言葉でも活字にすると立派に見えてくる。内容が薄くても活字にするとちょっと深いことを言っているように感じられる。そういうマジックが、活字にはある。

ただ、さすがの活字でも、ごまかせない部分はある。それはやはり、中身の部分。もっといえば、誠意の部分である。

ノウハウ・知識・情報を伝達する本であれば、中身はニュートラルだ。誰が書いてもさして変化はない。むしろ「伝わる書き方」があっていい。「書き手」にも幅が許される。

あるいは、スポーツ選手のインタビューとか現地取材とか、その人・その現場を見て、感じて、書き手が自身の理解を言葉として書き起こす。そのことで、本人が書くのとは別の「真実」が見えてくる。その真実には価値がある。定評ある『Number』の取材記事なんて、すごい密度である。選手自身が書いているわけではもちろんない。しかし本人の肉声・息づかいまで聞こえてくる。もちろん、取材・執筆した人の名前はちゃんと入ってる。

ひるがえって、仏教・自己啓発の世界は、どうなのだろう。心痛む話題であるが、どれくらい、「著者」とされる語り手の本当の声が、活字という媒体から伝わってくるだろうか。その「著者」は本当に著者なのだろうか。

ただ「上から目線」で、あるいは聞こえがいいだけのパターン化された言葉で、あまり頭を悩まさずに書いてしまって(書いてもらって)、それで何かを著した気になっていないだろうか。

そうやって、人の心に届かないばかりか、自分自身の心が、真心が、痩せていく。そういうリスクを伴う作り方をしてしまってはいないだろうか。

活字であれ、語りであれ、どんな分野においても、大切なのは、自分自身の〝道〟である。自分は何をめざしているのか。何をもって「よし」とするのか。振り返って何が残ったか。何を残したか。そこに「誇り」「満足」が残るか――。

書き手たる者、真心こめて、誠心誠意、この本を手に取るだろう、時間という命の一部を捧げるであろう、読者のことを想い、だからこそせめて自分自身の精一杯の思いを紡ぐ――それが出発点であろう。それはプロとしての基本。まして仏教という道に立っているはずの者ならば、なおさらである。

もちろんそれは簡単ではなく、時間もかかる作業である。担当の編集者さんやその他の人たち――私であれば、読者さんや、里の活動・執筆を応援してくれる方々――の力を借りて、「どう書けば伝わるか」、工夫を重ねていく。それは誠心誠意の証である。そういう作り方で作っていける本ならば、世に送り出す値打ちがあるだろう。

どこからアイデアが生まれてもいいと思う。ただその最初のアイデアが、本という形をとって世の人々に送り出される過程には、やはり関わる人々みんなの情熱・夢・誠意がなくてはいけないだろう。ラクに走らないこと。自分がなすべき作業を、ひとに委ねないこと。むしろこれからまったく新しい本が生まれるのだという夢、プロとしての矜持を感じて、ときめきながら作ること。

でないと、本作りは、ただ売るための手段になってしまう。そうなってしまっては、本の世界の可能性が枯れていく。

本作りは、どこまでも人としての誠実さ、情熱、夢――がほしい。それが本を支える「命」ではないか。

私には今、いくつかの幸いな出会いがある。夢とプライドを持てる楽しい本作りができる環境に、ほんの少し近づいている気がする。なんとも、ありがたい僥倖である。

ただひとつ、自戒をこめて言葉にするなら、私は仏道というひとつの道を生きる身の上である。だから、「本を送りだす」ことが人生の目的ではないのである。本を送ることで、創り出すことで、誰かが少し幸せになってくれるかもしれない、この殺伐とした、放っておけば闇が支配してしまうような時代・世の中にあって、自分自身が真実だと信じるところを言葉にすれば、何か新しい価値・生き方・希望のようなものが生まれてくるかもしれない。そういう思いをこめて、「著者」という身の上を、「本を出しませんか」というお声を、つつしんで承っている。

もし願いがかなうなら、ここからまた本の世界にたずさわらせていただけるのなら、これからも、いろんな人たちと、本や教室や手紙などを通じて出会い、交流し、その中で見えてくる人々のいろんな思いを、自分なりの誠意・情熱・愛情、そしてブッダの教えをもって、本人の幸福に少しでも貢献できるような内容・文体・方法をもって、本という形に著していきたい。

だから、草薙龍瞬の本を読む人たちは、ここから先、「この本には、草薙龍瞬の〝今〟が、今の思い・誰かへの語りかけが、書かれているのだ」と思って、私の肉声だと思って読んでほしい。私は一言一句、自分の手で、心で、全人生をこめて、書いていく。

残された人生・時間の中で、どれだけ本という形で思いを伝えられるか、それは定かではない。

ただ音楽にたずさわる人たちが、そのときどきの場所・季節・時代・状況に応じて、発する音色が変わるように、本にたずさわる私の言葉もまた、その時々に応じて、生きているかのように変わっていくだろう。

ブッダの教えという〝本質〟は変わらない。大事なことは、本の中で繰り返し伝えたい。

ただ一冊一冊、そこにあるのは草薙龍瞬の「生きた」、最新の、正真の言葉である。そういうつもりで、本を手に取ってほしい。そして、残された時間を、本を通じて語らい、ともに生きていければ幸せである。

(来年3月、家族・親子に悩んでいる人に向けて、画期的な「ブッダの考え方」家族の悩み編、をお届けします。お楽しみに。) 

草薙龍瞬の約束として















Q&A 妄想は伝えるべきか?――「理解してもらう」のはどこまで?

●おたより
 『反応しない練習』(キンドル版)を読ませていただきました。
ここ10年ほど、マインドフルネスや座禅を実践しており、心が作り出す感情や考えを客観的に観察し、反応しない練習を続けてきました。草薙様の本は、マインドフルネスや座禅より、一歩踏み込んで、その反応の原因にまで触れているところが、とても勉強になりました。 ありがとうございました。

ただ1点、疑問に思ったことがあります。

「反応しない練習」の中で、「自分自身の感情、思い、考えを相手に理解してもらうこと。これほど大切なことはありません。」(キンドルの179ページ)

とおっしゃっていますが、自分の感情や思いなどは、たいていの場合、「妄想」もしくは「妄想」に基づいた「心の反応」ですよね。

特に「怒り」などのネガティブな感情や批判的な考え、また相手にしてほしいこと・ほしくないことなどを相手に伝えることは、単に自分の「承認欲」を満たす行為ではないのでしょうか? ですから、人は、悩んだときに、他の人に話を聞いてもらうと、気分がよくなるんですよね?

実は、先日主人のある行為に、心が反応して(怒って)しまい、辛い1~2日を過ごしました。でも、私は主人には、何も言わず、じっと自分の心の反応を観察し、その原因について考えてみました。

私の怒りの原因は、主人の行為ではなく、私の考え方(相手に対する期待、物事に対する良い・悪いなど)に原因があるのは百も承知していたからです。

勝手な妄想に基づいて反応している自分の怒りや思いを主人に話すべきだったと思いますか? 「相手に有益なこと」であれば、言うというブッダの教えと、相容れないような気がしてなりません。「家族」というテーマとして、多くの皆さんにも共通する問題だと思いますので、ぜひご教示いただけるとうれしいです。 


――とてもよい(=多くの人に役立つ)ご質問だと思います。ありがとうございます。(なおKADOKAWAさんから『反応しない練習』の続編として、もっと具体的で実践的な「心の使い方」の本をお届けいただく予定です。もちろん「二匹目のドジョウ」の類ではなく(笑)、メチャ新しいスタイルの、超役立つ中身になりそうです。お楽しみに)

一緒に考えてみましょうか。

「理解してもらう」ことが大事なのは、「よき関わりを作っていくため」です。まずは目的から入りましょう。

相手とよき関わりを作っていくためには、お互いの思惑・要求・期待・妄想による「不快な反応の応酬」は避けないといけませんよね。

でもときとして、関わりの中で不快なやりとりが繰り返されてしまうのはなぜか。それは不快な反応を作り出す「原因」があるからではないでしょうか。

問題は、「原因」は何か???というところです。

もし原因が、自分自身の一方的な要求・思惑・勘違い・妄想にあるとすれば、原因は自分の側にあります。このときは「よき関わりを作る」という目的に照らして、自分の中の思いを「リセット」してあげる必要がありますよね。(「自分がいけない(未熟・いたらない人間なんだ)」と判断するのではなく。自分を責めるのではなく、です)

もし一方的な思い――そこには「承認欲を満足させたい」(認められたい・認めさせたい)という欲求もあるし、こちらの勘違い・疑い・妄想もあるでしょう――が、こちらに湧いてしまったとしたら、そこは「正しい理解」に戻って、自分の考え・感情をリセットしなくては。これは、こちらの課題です。

その点で、ご質問のご理解は正しいと思います。もし怒りの理由が、相手の行動ではなく、こちらの一方的な思い(承認欲・あるいは妄想)にあるとすれば、おっしゃるとおり、確かに原因は、こちらの考え方にあります。勝手な妄想にもとづいて思いをぶつけることは、間違い。それは確かに「有益」ではありません。

ただし、もうひとつの「理解」を持っておく必要があるかもしれません。

それは、「一方的にこちらが原因を作っている」のではなく、「相手に原因がある」場合です。

「有益である(=役に立つ)」というのは、「相手にとって」だけでなく、「関わりにとって」という視点もあります。

二人の関わりにとって有益かどうか――その視点にてらせば、相手にやはり「理解してもらう」必要がある要素があります。

それは、不快感の原因となっている「行い」と「言葉」と「思い」という三要素です。

このうち、「相手の思い」(悪意とか傲慢とか)というのは、こちらが理解しようとすれば「妄想の領域」に踏み込んでしまいます。だから、なるべく避けるほうがよい。かわりに見るべきは、客観的に確かめうる事実であり、「関わり」を作っている要素である、相手の「言葉」と「行い」の二つ――そこに、自分が感じている不快の原因があるかどうか、です。

もちろん相手の言動に「不快」と反応するのは、自分の問題なので、「反応しないようにすればいい」と考えることは一見可能です。しかし、実際の関わりというのは、反応あって初めて成り立つもの。だから、「ムダな反応はしない」ことは大事だけれど(だから練習(笑))、反応そのものは必要。大事なのは「不快な反応の応酬にならない」そういう関わり方ですよね。

とすると、関わり方において、相手の言葉や行いが、ちょっと自分にとって不快を誘うような、ときにあまりに非合理・理不尽、「ひどい」と思ってしまうようなものである場合は、「わたしはあなたの言葉(または行い)で、こういうふうに感じた(反応した)のだけれど」と伝えることは、意味があることになります。「よき関わりのために必要・有益」ということです。

その反応を伝える――理解してもらおうと努力する――ことで、相手がどうリアクションを返してくるか。そこは相手の領域です。相手の反応は相手にゆだねること。

もし本当の信頼関係、愛情、「よき関わりをこれからも育てていこう」という前向きな目的を共にしている相手なら、きっと受け止めてくれるでしょう。「言葉」と「行い」に的をしぼって、改善・調整していくのが、一番建設的な、実りある関係なのだと思います。いかがでしょうか。

まとめると、

●一方的な妄想、怒り、要求というのは、たしかに間違い。それはぶつけてはいけない(ぶつけてしまったら、素直に謝りましょう)。

●ムダな反応はしないように心がけつつも、でも人間同士、ときには、行いで、言葉で、相手に不快な思いをさせてしまうこともあります。もし「行い」と「言葉」という客観的な物事によってそういう反応が生まれてしまったとしたら、その行いと言葉という「原因」は、正しく理解するようにしましょう。

その「原因」が自分の側にあるのなら、正しく理解する。素直に謝る。向こうから指摘してもらえたなら、「感謝」ですよね。

逆に、もし向こうに(客観的にみて)「原因」があるのなら、その「原因」にわたしは反応してしまったのだ、ということを「理解してもらう」ことです。

つまりは、①「内なる反応」と、②客観的な「行い」「言葉」とを分けて見る、ということでしょうか。

後者② は、自分の側の課題であるとはかぎらないのです。客観的に相手の問題であることもあります。区別する視点、は大事です。

ときどき、力関係のかたよった、一方の無理解がまかり通っている関係を見かけます。

聞く耳を持っていない親とか、一方が苦しんでいる夫婦の関係とか……。そういう関係には、たいてい、一方的な思惑・妄想・要求にもとづく「行い」と「言葉」とがあります。そこが原因なのだということを、客観的に突き止めることができるかどうか。

理解してもらえないことは、辛いのです。相手の「行い」と「言葉」で傷ついている。そのことは「理解してもらう」ことが大事なのです。

人によっては、「自分が我慢すればいいのだ」「悪いのは自分なのだ」と言い聞かせて、辛い思いをしていることがあります。そういう人は、ぜひ「不快な思いをしている原因は何か?」を冷静に考えてみてください。

相手の「行い」と「言葉」がたしかに存在するのなら、原因は自分ではなく、相手です。相手のどういう行い・言葉に自分は反応しているのか、「理解してもらう」ことは、関係にとって有益、大事なことなのです。

――ざっと、思い浮かんだことを挙げてみました。考えてみてください。

なお、家族のこと、人間関係のこと、「これはどう考えればいいの?」と思うことがあったら、どんどんお寄せ下さい。返事は(ほとんど?)できないかもしれませんが、必ず、メール通信やこれから出す本のなかで汲みとっていきます。 (今回のように、執筆の合間に気分転換に執筆?することもございます(笑))。

『反応しない練習』のラスト、「生きてまいりましょう」は、そういう思いで伝えました。これからブッダの考え方を、人生に、世の中に、もっと破格の効果をもって活かしていこう、という呼びかけでもあります。一緒に考えてまいりましょう。



思いをこめて言葉をつむぐ

☆アマゾンから『反応しない練習』朗読CDが発売になりました。著者・草薙龍瞬のメッセージを試聴できます(司馬遼太郎氏の下です)。ぜひ聞いてみてください⇒アマゾンAudible

11月10日(火)
こんにちは、草薙龍瞬です。

今、自室に「缶詰め」状態です(引きこもりとも言う?)。来年三月刊行予定の「家族」をテーマとする本の執筆が、本格化してきたからです。
全国から、いろんな方々からおたよりをいただいています。ご遠慮はいりません。思いつくままに言葉を書き連ねて、そのまま「えいや!」と投函してくださいね。

長く大量の、錯綜した記憶や感情や願いの「溜まり場」が、出てくると思います。

ご本人にとっては、「こんなの送っては失礼では?」と思う方もおられる様子です。でも私たちの関係には「ブッダの智慧」があります。複雑で混乱した想いの世界を、きれいに整理整頓して、解決の糸口を見つけだしていく。うけとる私のほうには、けして混乱はなく、ただクリアな心の眼で、どうしたらこの苦しみを「抜けて」いけるのだろう?というところを、誠心誠意考えていっております。

ほんとは、もっとお電話とか直接会って、お話しうかがいたいところですが、ここから先、かなり時間的にむずかしくなってまいります。まずは、おたよりという形で、お話しを聞かせてください。よい本にしたいと思います^^。

●最近のおたよりから

>「反応をしない練習」を拝読し、本当に救われました。暗いトンネルの先に明かりをみつけた心境でした。それは、草薙様の本を心から「ホンモノの本」だと感じ、そして「この教えに従って頑張ってみよう」と思えたからだと思います。

行間から草薙様の生き様を感じ、深い愛情を受け取りました。本当にありがとうございました。

また草薙様の他の本「ブッタの思考法でアタマすっきり! 消したくても消えない「雑念」がスーッと消える本」「悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法」も是非、拝読したいと思ったのですが、ネット書店では在庫切れ、10件以上、大型書店にも電話で問い合わせしてみたのですが「在庫がない」と言われてしまいました。

今、お手元に売っていただける上記の本はありますか?もし、お持ちでしたら、お譲りいただけますか。

――ありがとうございます。(今缶詰状態なので、おたよりは、とりわけ励みになります(笑))

最初の2冊は、私も持っていません(笑)。そのうち、タイトルなど若干変更して、リライトしたものを再刊できるかもしれません。そのときをお待ちください(私も待ちます(笑))。

●別のおたより(前回のメール通信について)

>あまりに真摯な内容で、私のチャラさをいさめておられるのかと、きゃあって、驚きました。サマネンちゃんの作者とはギャップがあって・・。

先生のご本は、やさしく、万人向きに書かれていますが、「言葉のブレがない」というのは、私も大昔は国語の先生でしたので、よく感じておりました。

それは、よほど勉強なさって、自分の論を練られて、生き方と重ねられて、深く落とし込んだ部分から発せられているためだろうと。

先生は35歳から今まで、どれほど苦労されたのだろう? どうやって生活されたのだろう?とかも、思いました。

――ありがとうございます。(今回は、著者寄りの話題となってしまい、多少恐縮を感じていますが)こうした著者の「人間」に向いて下さる感想も、個人的にはとてもありがたいです。理解してもらえる、というのはありがたいこと。

たまに、とっても厳しめのメール通信をお送りすることがあります(最近登録された方々は、びっくりするんじゃないかな~と案じつつ)。

ただその厳しさというのは、(いうまでもなく慢による言葉ではなく)透徹たる「正しい理解の眼」に立ったときにおのずと立ち上がってくる厳しさだろう(そう受け止めてくれたら幸い)と、思っています。

特に〝禅の言葉〟というのは、本来は、人間の心の曇り(煩悩と呼ばれることもあります)を一掃、一刀一断する強さ、鋭利さを持っています。自然と威儀(≒心の折り目)を正して、心が洗われていくような――。

だから、禅の言葉を扱った本というのは、それこそ読み進めるにつれて、心が凛とひきしまって、無色澄明になっていく、そういう妙力(≒不思議な力)を持っているものと思っています(本来は、です)。

仏教が目的とする「さとり(正しい理解)」というのは、不思議な境地です。相手・状況に応じて、かぎりなく優しくなることもあれば、切れ味するどい名刀のような鋭利さ・明快さを持つこともある。前回お届けした禅的言葉は、後者の例。仏教には、さまざまな文化・スタイルがあります。

面白いのは、原始仏典にみえるブッダの言葉もまた、ときにやさしく、あたたかく、ときに熱く激しく、ときにあまりに厳密・厳格に聞こえることがある点。ブッダという人は、(私以上に(笑))、妥協・迎合なく、「正しい理解」に立っていた破格の知性の持ち主だったようです。だから、その言葉にも、いろんな内容・姿が現われる。心とは、面白いものです。関わりによって、さまざまに姿を変える。生きている。

●「道を生きる」というのは、ときに辛く、寂しく、孤独なものです。私も人間として、長い間実感して生きてきたから、そう思います。

ただ、長い歳月を迷い・苦しみの中で生きてきて、「もうこれ以上、この生き方をつづけていてはいけない」という思いが募って、あるラインを越えたときに、「私はこの道を生きていかねば」という覚悟みたいなものができるような気がします。そのときに真実の道=生き方が見える。「出家する」とはそういう覚悟に立った上での儀式なのかもしれません。

と言っては、世俗から離れた特殊な生き方に聞こえてしまうかもしれないけれど、でも「心という聖域」に、きちんと自分なりの価値・考え方・心がけを置く、というのは、誰にとっても意味あることではないでしょうか。

「気づき」をもって心を見ること。慈しみを念じること。「苦しみは正しい方法――道――によって越えられる」という信頼を持つこと。こうしたことは、今生きているこの日常において、可能なはず。それぞれが心の中に「道」を持てるように、学んでいこうではありませんか。

(おたよりの続き)
>怠け者な私ですが、「雨天の友」で、ずっと応援いたしますから、ひきこもりの大将として、どうかめげないでください。

とことん嫌になったら、インドの幼稚園やお寺に行って、帰ってこないという手もあります。自由でいらっしゃってください。

――ありがとうございます。どこで生きていくことになるかは、因縁によることになるのでしょうね。正直、いつこの人生が終わるかもしれない(つまり、今回の本がみんなにお届けできる最後の本になるかもしれない)、いつインドのほうに命尽くすことになるかもしれない、という思いはいつもあります。せめて、人々にベストの誠実さを保って参りたい。苦労性といわれようと(笑)、もっとラクに生きたら?と突っ込まれようと(笑)、これが出家の生きる道、この命からかの命に向けて、次の本、わかりやすく、あたたかく、情感のかぎりをこめて、お贈りしたいと思います。ひきこもり大将としてがんばります(笑)。

そろそろ、お気楽りゅーしゅんに、戻ります(笑)。







久々の?Q&A 何事も「目的」から考えよう

こんにちは、草薙龍瞬です。

今朝の朝日の朝刊、ご覧いただいたでしょうか。ようやく出版社さんのお役に立ってきているようで、安堵しています^^。

そしてますます多くの人にブッダの教えを知っていただいているようで、善きかな、善きかな、と感じています。

台湾、韓国、マカオ、香港その他で翻訳出版が決まりました。将来的には「英語圏」が目標。宗教としての仏教ではなく、合理的な思考法としてのブディズムは、 今の時代に普遍的な価値を持つだろうと思うので。ブッダの教えを、宗教としての仏教から解放させたい。だって人間の幸福に役に立っていない(機能不全に陥っている)ように思うから。もちろん、その先には(来年1月に再訪する)「インドでの仏教復興」という大きな目的があります。

多くの方からご感想やご相談のお便りをいただいています。

明日(11月3日)の坐禅会と夜の学習会も、お時間あったらぜひいらして下さい。講座に関連したご質問を今回は取り上げましょう。

>草薙先生 
2ヶ月前に、たまたま書店で、先生の御著書に出会い、今まで自身が購入してきた仏教の本とは全く違うことに、 衝撃を受けた者です。
今まで、たくさんのお経の本や、別の方の初期仏教の本など買ってきましたが、 心の安寧を得られたことはありませんで、 煩悩が多いから自分はダメなのかと、諦めかけておりました。
先生の本は、温かみがあって、立ち読みするには、あまりに勿体ないので、早速、3冊購読し、理解しようとしているところです。(略)

Q1 日程によって、会の長さが2時間、2.5時間、3時間とありますが、内容に違いはございますでしょうか? 初心者は、3時間のほうがよろしいものでしょうか?

A いえ、内容は同じです(毎回話題はちがいますが、説明する座禅のイロハの部分は同じ)。
時間は気になさらないでください。日曜午前は2時間、夜だと3時間弱ですが、どちらもあっという間です。(夜のほうが今後はお茶会などがあるので楽しめるかもしれません)

Q2  途中で、お手洗いなどに行ってもよろしいでしょうか? 以前、原始仏教の権威とされている、ある外国人の長老のワークショップに出席しました際、 3時間でしたので、上述の医学的な理由で、 複数回、離席せざるを得ませんでした。しかし、その長老が、突然、私を指差し、「そこのあんた、今まで、人生、何ひとつ身につけてこなかっただろう。どう せ、いいかげんに生きてきて、 仕事もろくにせず、職を転々としているだろう」 と、怒りをぶつけてきました。(略) 私以外の方では、座り方が悪いとのことで怒られた方が複数、おられました。怒らないことという本を書いておられるよ うな、その長老が、あまりに怒っておられたので、 「途中で席をたつことは、もしかして原始仏教では、何か失礼にあたることだったのかもしれない。」と、不安になりましてお尋ね申し上げた次第です。

A デリケートな話題を含んでいるので、当たり障りのない?ところを申し上げますね。

結論からいうと、私の教室は、遅れて来てもいいし、途中退室でも、何度外に出ていただいてもよいです。

遅れてきた人には、「いらっしゃい」。何度も出入りしている人には、「大丈夫ですか?」と聞いてます。具合悪いのかな?と。

もちろんご事情教えてくれるのが一番わかりやすいですね。ともあれご安心ください。

ちなみに、頻繁に出入りすることは、原始仏教に照らしてというより、ひとによって反応してしまう方はいるでしょうね。
ただ、仏教というのはつねに「正しい理解」から入る――誤解・思い込み、慢による反応ではなく――ので、「大丈夫ですか?」という言葉が正解に近いのでは(慈悲+正しい理解)。ちなみに「いらっしゃい」は、個人的なノリです(笑)。

私も、勘違いする可能性はつねにあるので、気をつけます。

●ちなみに、興道の里で受け入れられないのは、教室で吸いたてのタバコの臭いをさせていたり、スマホやゲームを(必要なく)いじっている姿です(さすがに後者はいませんが(笑))。

学ぶという目的に照らして必要なこととそうでないことの見分けをつけるところから始めましょう、という意図です。

きちんと、「目的」から合理的に、なすべきことと、なすべきでないことを分けるというのは、ブッダの「正しい思考」の一つです。

ちなみに「坊さん」もまた、人生の目的に照らして、すべきことと、すべきでないことの峻別をつけなくてはいけない身。

もし「悟り」なる境地をめざして修行したいというなら、家族を持つことはできない。しばらくはめっちゃハードな修行に専念しなくてはいけないので、ムダなことには手を出せなくなります。難関試験合格をめざす受験生と同じです。

また、ひとの幸福のために身を捧げたい、という動機をもって生きる人もまた、「自分のためだけの」行いをしてはいけない、という戒を持つことになります。

だから、お酒も、タバコも、家庭も……その他もろもろ社会的な営みは、自然に選別されていくことになります。そうした生き方を一生続けるかどうかは、人それぞれでしょうが――でも、「目的に照らした」生き方の構築、という作業・視点は大事ではないかな。

「この行いは、自分の目的に照らして必要か、有益か(役立つか)」という視点。「気づき」の一つかも。すると、徐々にムダな物事は減っていくはずです。

その点にてらして、目的に無自覚な、名前・肩書だけの「お坊さん」は、本当はお坊さんではないし、誰の幸福にも役に立たない、理屈やおまじないめいた儀式だけの「仏教」は、仏教でもない。

どんな立場・身の上であっても、
あ くまで、おのれにとっての目的は何か? そのための正しい方法を「生きている」(心がけている)か? という点だけが「本質」ということになります。これがブディズム――ブッダの思考法――。今回の『反応しない練習』でほんの少し、その一端をお伝えできたようで、ありがたく思います。

ちなみに、「必要か、ムダか」で私が悩むのは、充実した講座のあとや相談に来た方が元気に帰って行ったあとの、「ジョアによるひとり晩酌」です。

1本に留めるべきか、(大人買いして?)2本いっちゃっていいか、でほんの少し悩みます(笑)。

結果的に、2本呑んだことはございません。貪欲だなと思うし(笑)、あれは1本をちびちびチューと愛惜しつつ味わうのが快だからです。なんちゃって。

Q&A、まだあるので、追ってお届けします。
ではよき祝日を。
草薙龍瞬でした。

興道の里2015年ファイナルに向かって^^ 家族論モニター他お知らせと近況報告

こんにちは、草薙龍瞬です。

今回は、告知と近況報告です。

●家族モニターさん、いろんな方が応募して下さっています。

いただいたお便りの内容に沿って、読んでもらう原稿を絞り込んで、テーマごとのグループ?みたいなものを作ることになるのかな、と思っています。

もし会合を開くとしたら、そのテーマごとになると思います。どのような形になるのか、まだ未定。原稿がある程度まとまってきたら、また告知しますね。

※たたき台として、11月22日(連休の日曜)夜に、「家族に反応しない練習」第2弾をやります。内容は前回とほぼ同じ(参加者それぞれのテーマによって変わります)。

「親の業・わたしの業占い」という診断シートを使います(親にどんな影響=業を受けているのかわかる!)。前回いらしていない方は、参考になるかもしれないので、ご都合よろしければご参加下さい(講座なので参加費をいただくことになります)。

●11月2日(火)の朝日新聞朝刊をご覧ください(何が出るのかはお楽しみに(笑))。

●11月9日にアマゾンから オーディオブック『反応しない練習』KADOKAWA が発売になります。著者としてキモチを一編収録させていただきました。聞いてみてくださいね。

●仏教そのものについて、解説的なメールもお届けしていきます。おそらく今書いている原稿(3月発売予定の家族論。その次は4月刊行予定)から、「言葉の切れ端」的なものをお届けしていこうかと。分量が多すぎてもいけないだろうし、クオリティが低くても……何よりネットにあまりアクセスできない環境のためもあって、なかなかタイムリーにお届けできない状態です。音信不通のときは「原稿書きに追われている(@@)んだろう」と思って、慈愛をもって見守ってくださいね(笑)。

――――――――――――――――――――――――
●最後に教室の告知です――※年内の講座は、以下がすべての予定です。

11月 3日(祝日・文化の日)
13:00 ~ 16:00 座禅と法話の会 座禅の解説ガイドブックつき 神楽坂
18:00 ~ 20:30 はじめての人のための仏教入門 神楽坂
※夜の入門講座は「初めて」の方が対象です。先日やった「〝ほんとの仏教〟を探して~仏教思想入門」(上級者向け)は、年が明けてから再開します。

11月 5日&19日(木)14:00 ~ 16:00
大人のための「仏教の学校」 巣鴨地域文化創造館 
――一休さんをやります!
(※巣鴨は12月3日、17日がラストです。17日は仏教だけどクリスマス会(笑))

11月 15日・22日(日)10:00 ~ 12:00
座禅と法話の会 座禅の解説ガイドブックつき 神楽坂・赤城生涯学習館 和室

11月 18日&12月16日
10:30 ~ 12:00 東急BE・二子玉川 座禅と「心がラクになる」仏教こばなし
13:30 ~ 15:00 東急BE・たまプラーザ 座禅と「心がラクになる」仏教こばなし

11月 22日(日)18:00 ~ 20:00(※月曜は祝日)
「家族」に反応しない練習 ブッダが教える家族内サバイバル術 ★お茶会つき 神楽坂

11月 23日(月・祝)13:00 ~ 15:30 と18:00 ~ 20:30(2回開催)
座禅と法話の会 座禅の解説ガイドブックつき 神楽坂

11月28日(土)18:00 ~ 20:30
12月6日 (土)18:00 ~ 20:30
12月 13日(日)18:00 ~ 20:30
座禅と法話の会 座禅の解説ガイドブックつき 神楽坂・赤城生涯学習館

12月 23日(祝・水)☆年内ファイナル! 18:00 ~ 20:00
Xマススペシャル 仏教ワークショップ 打ち上げお茶会つき 神楽坂

いよいよ11月。2015年もクライマックスに入っていきます。「反応しない」練習をしつつ、盛り上がってまいりましょう(?)。



家族をめぐる体験談・悩みのおたより募集

こんにちは、草薙龍瞬です。今回は大事な告知です。

●10月17日 岩手花巻での講演会
 (※17・18日は都内での講座はありません

健考館 〒028-3182 岩手県花巻市石鳥谷町松林寺3-81-13(JR花巻・新幹線・新花巻から無料送迎バスあり)
TEL:0198-46-1212

正午には到着します。「相談したいことがある」方は、午後に時間を作りますので、ショートメール(または電話)でご連絡下さい080-7004-0119.

午後4時から講演 午後6時から懇親会(夕食) ※夜はすでに2件相談が入っています。

翌日以降も対応できると思いますので、ひとりで悩んでいることがある方はぜひご連絡ください。きっかけになるかもしれませんので。もちろんお代はいりません。この機会をぜひお使いください。


●家族をめぐる体験談・悩みのおたよりを募集します
親のこと、子どものこと、伴侶のこと……過去にあったことでも、現在進行中のことでもかまいません。あなたの体験・今の悩みをお寄せください。

なるべく具体的に語ってみてください(いつ頃、誰が何をした・言った/私はこう返した/結果、今はこうなっている/今こんな気持ちでいるなどなど)。対処の方法(どう考えるか)を見つけやすいので。

メールでも手紙でもOKです。きれいにまとめなくてよいので、思いつくままに書いて送ってください(自分で編集してしまうと、気づき・自己理解の可能性が減ってしまいます。遠慮は無用です^^)。

来年春予定の本のテーマとしてとりあげるかもしれません。もちろん個人として特定されるような記載の仕方はしませんので。そこは大丈夫^^。

相談をお寄せいただくメリットとしては、ブッダの考え方(仏教的な解決策)を、明瞭な言葉でまとめてもらえる点でしょうか。ひとりで悩んでいる状態だと、アタマはもやもや・分裂状態であることがほとんど、しかも出口は見えませんよね。そこで、仏教という切り口をもって「合理的な考え方」を組み立てみます。お寄せいただく方にとって、きっと役立つと思のですが、いかがでしょうか。

そして、ひとりの悩みが、本を通して、似た悩みを抱える多くの人にとっての「希望」になります。仏教には「功徳を積む」という言葉がありますが、みなさんがお寄せくださるお便り一つひとつが、大きな貢献になります。ぜひお力を貸してください。

お便り、お待ちしています。
koudounosato@gmail.comまで)

「親」が思い出さなくてはいけないこと(家族論)

10月5日
週末に西日本まで行ってきた。個人的な相談に応えるためである。

最近、「家族」(親子)をめぐる苦しみによく遭遇する。

どの人も、本当によく生き抜いてきた、と思うほどの苦悩を背負って生きてきている。

親子という、生んだ人間と、生まれた人間との関係がある。
それは「事実」でしかないが、しかしその事実が、なぜか凄まじい「重力」を持つことがある。

息苦しい、重たい、辛い、苦痛である、わたしはただ利用され、犠牲になってきたのだ、
愛されたい、分かってもらいたい、分かり合いたい、できれば笑い合える関係でいたい――

そういう思いを抱えて人は生きている。みんながみんな、切なくなるくらいの、たくさんの苦悩、辛さ、空しさ、屈辱、悲しみを抱えている。

ひとはみな、自分を生んでくれた〝大きな人間〟に、庇護を求める。無条件の受容を、寛容を求める。

そうして、自分自身が生きていることの価値を、生きることの意味を、〝大きな存在〟に確かめてもらいたがっている。

その相手が「親」という名の、生まれて以来最も身近な大人であることは、誰にとっても普遍的な事実である。生き物というのは、「親」にこそ、自身が生まれて、存在していることの意味を承認してもらいたい。それは、生まれ落ちて以来の根源的な思いなのかもしれない。仏教には渇愛(かつあい:求めてやまない心)という言葉があるが、親への思慕というのは、この渇愛の最も代表的で、最も強力な例かもしれないと思ったりする。

一方がそれほどに強い思慕を向け続けているにもかかわらず、
ときに「親」なる生き物は、とても冷酷で、強欲で、傲慢で、物わかりの悪い頑迷な生き物であることがある。

「親」は、「いや、それは子供の方だ、親がどれだけ子を想っているか、可愛がって、一生懸命育ててきたか」というかもしれない。もちろん、それも真実の一面であろう。しかし……

親子の関係がうまく機能しないとき、子どもから見る「悩み」と、親から見る「悩み」とは、質が違うような気がする。

子がたとえば「愛してもらいたい」と願うとき、その願いというのは、けっこう単純なものである。

自分のことをきちんと見てほしい、理解してほしい。独り立ちしていく自分を応援してほしい。大人になって親の面倒を見ることを、当たり前と思わないでほしい(少しはこちらの苦労も理解して、ねぎらいや感謝の言葉くらいかけてほしい)というようなものではないか。

親がこれらの子どもの願望を満たすことができれば、つまりきちんと無事を見つめて、相手の感情を(自分の思惑・偏見・一方的な期待を外して)よく理解して、子どもが成長していくさまを快く応援し、子がいかに親のことを気遣い、歓ばせてあげようと願っているかを「理解」できれば、子どもというのは満たされるものではないか。

たとえば、大人になった子供が、親の面倒を見る。仕送りをする。介護をする。

「すまないね」「ありがとうね」

「あんたも家のことたいへんだろうから、無理して来なくていいよ」

「仕送りなんていらないよ、自分のことに使いなさい」

なんて、親が言ってあげるとすれば、子どもにとっては理想の親である。そういう親と子であれば、別になんの苦労もなく、美しい関係が続くかもしれない。

しかし、中には、そういう理解がまったく持てない親というのもいる。

年をとっても、子どもがもう中年になっても、まだ「子どもは自分の思い通りに動いて当たり前」だと心のどこかで思っている。老いた親の介護は当たり前。仕送りなんて当たり前。「もっと送るのが当然だろ。わたしがどれだけ苦労してあんたを育ててやったと思っているんだい」なんて、本気で言ってみせたり、口には出さなくとも、子どもに本音見え見えの愚痴や皮肉をぶつけてみせる人間もいる。

子どもにとって、親というのは、根源的な思慕の対象だから、なんとか親の歓心・満足を買おうと、自分が年をとっても頑張ろうとする。きっとその心は、幼い頃のまんま、「お父さん、お母さんが喜んでくれている」と思いたいのかもしれない。

親にももちろん子供への愛情というのはあるであろう(ときおり、それすら枯渇している淋しすぎる人間もいるにはいるが)。

だが、そうした愛情とは別に、「子どもは自分に尽くして当たり前」と思っている親もまた、かなりいるらしいのである。

そういう親は、子どもに不満を持つ。愚痴・不満をぶつける。自分の人生の失敗を延々と語る(その失敗は「わたしのせいなんだ」だ、と子供が思ってしまうことには想像及ばずに)。自分が老いたら子供に面倒を見てもらおうと思っている。子どもを罵倒することは当然の権利(言いたい放題言っていい)と思っている。 それは、仏教でいえば「貪欲」である。

本来は――関わってくれているだけで奇跡

「本当にありがとう(あなたも大変だろうに)」と心から言わねばならない関係なのである。

ところが、生んだ時点から〝巨大な大人〟でありつづけた親には、そうした子供の苦しみが分からないことがあるらしい。

これは自覚の問題である。「父の日」「母の日」があるのなら、「子どもの日」がもう一つあってもいい。「わが子の日」である。大人になってもまだ関わってくれる、同居してくれる、ケンカしてくれる、なんだかんだいって老いる自分を心配してくれる、ありがたい「わが子」に感謝を伝える日。シニアの人たちは、そういう日が本来必要なのだと知っておくべきだし、それくらい、本当は、「なお子どもでいてくれる」大人たちに感謝しなければいけないはずだと思う。

人間というのは、ほんとうに自分の都合しか見えないものだ。自分の側の期待・思惑・傲慢・貪欲――そういうもので一杯で、本来「関わりそのものが奇跡的な奇跡」であることに気づかない。

その一日をある街ですごして、再び東京に戻るとき、これまで出会ってきたたくさんの「子どもたち」を思い出した。今日出会った人は四〇代後半。かつて出会った人には、十代、二十代、三十代、五十代、六十代、七十代、八十代――といた(ほぼ全世代ではないか)。

「親」を思慕し、親のことで心を痛め、今は亡き親への罪の意識や後悔を抱えて生きている人たちがたくさんいた。今車窓に見えている夜の町灯りの一つ一つにも、「親を想う子どもたち」が生きている。彼・彼女たちは、自分自身の人生を精一杯に生きて、自身の家庭を支え、子を育て、自身の老後の心配をしながら、なお「親」を想いつづける人々である。

世の中のお父さん・お母さんたちに、出家(家なき者)として私は伝えたい。

あなたにとって「子ども」は、一生涯「子ども」に映るのかもしれない。自分の思惑・期待をぶつけて当たり前の相手であると――だがその子供の内面を想像したことはあるだろうか。子どもは、あなたを愛しているから、あなたに理解してもらえない現実に怒りを感じ、それでもあなたを想いつづけて老いていく。ときにどんなに反発して、あやまちを犯して、家を離れて音信不通で、とんでもなく親不孝だと愚痴りたくなるような不肖の子どもだとしても、その子は、やっぱりあなたを「親」としてずっと想い続けるものだ。ひとつの人生にとって「親」は永遠の存在である。

命はみな、闇の中を生きて闇へと消えていく。しかしその闇の中に、最初から最後まで存在し続ける存在がある。それが「親」である。つまりはあなたである。

あなたは、その「奇跡」を想ったことがあるだろうか。ひとつの命が、闇の中で、何十年も独りで生きて、老いて死を迎えるまでなお「親」のことを想い続けて生きている事実を想像したことがあるだろうか。

あなたがもし、大きくなった子どもに対して、不満や愚痴をぶつけていたり、自分の面倒を見ることを当たり前だと思っていたり、心の片隅で「わたしより幸せになっちゃいけないよ」「あんたのせいで私の人生は犠牲になったんだ」なんて思っていたりするとしたら、それはとてつもない罪だと自覚したほうがいい。

子どもは子どもで精一杯生きている。その一杯一杯の人生の中で、今なお満たしきれない親への思慕を抱えている。思慕は生涯消えることはない。愛情も、恨みも、さみしさも、悲しみも、後悔も、……すべての思いは、あなたゆえに在る。その事実を厳粛に、一度でも考えてみることだと思う。

もし、子どもが親との関わりで幸せを感じていないとしたら、はっきり伝えよう――それは親の罪である。子どもは悪くない。子どものせいではない。

親であるあなたが「有罪」か、「無罪」か、仏教的に判断するすべは、次の通りである――

あなたが、子どもに対して、

ありがとう、

あなたが幸せであるように、

がんばって生きなさいよ――

そう思えているとしたら、あなたは無罪である可能性がある。よき親として子の心に残れるかもしれない。

もしこのような思いを忘れていたとしたら、ちょっと罪である(笑)。もう少し、この人生を頑張って生きてみようではないか。

人生にはまだ先がある。だから残りの人生を、少しでもよき親として生きられるように、そういう希望をもって生きていくこと。努力することを目標にすべきだと思う。

親もまた誰かの子ども。子どももまた誰かの親。

みんな、「これから」である。どんな関係にも、希望はあるから――。


※とはいっても、「見切り」をつけねばならない関係もある。苦悩しか生まない関わりの中で、人間は「このオレを無きものとしてくれ」(とある14歳の少年の言葉)と叫ぶか、親に「死んでくれ」「私の中から消えてくれ」と思いをぶつけるかの状態にたどり着くこともある。


そういう場合は、どう考えればよいか。前回のブログはその答えの一つでもあるし、さらにつきつめて考えるのが、来年出版予定の本のテーマでもある。

今一つだけ言えるのは――自分自身が苦しみから解放されること、そのことにのみ人は全力を尽くすべきだということだ。あなたはもっと幸せになっていい。

※家族・親子をめぐるお便り、募集しています。koudounosato@gmail.comまで。




















親子・家族の「罪悪感」から降りる方法

こんにちは、草薙龍瞬です。
9月25日の特別講座「家族に反応しない練習」は、参加者の方々に好評でした。

「業」(ごう)というものを、前世・来世という漠然とした物語で考えるのではなく、
あくまで「自分自身の人生を支配している・作っている力」として理解する。

そして、その業は一体いつ、どのような原因によって作られてしまったのかを、正しく理解する。

業の力は、「抜ける」ことができる。抜けるための方法がある。そして、人間はこの人生において苦しみのない、自分にとって「善」(よし)と思える生き方・生活を実現できる。

今回紹介した「業の作られ方~業はこうして伝染(うつ)る」という図解、
そして、親から引き継いでしまった「業の正体」を診断するチェックシートは、来年出版予定の本の中で掲載する予定です。

「ブディズム」という、ブッダに始まる正しい理解の仕方・考え方が、いかに現実の苦悩に対して役に立つか――草薙龍瞬の本を通じてみなみなさんが理解して(目覚めて)いっていただければ、それが一番価値がある展開です^^。宗教(という名の妄想)ではない。人間の苦悩を見すえようとしない学者・僧侶方が語る 「お釈迦様」「仏教」(≒その実、観念(知識)による知的自己満足))ではない。

そうではなく、リアルな苦悩を人が抜け出すための合理的な方法――智慧 ――というものを、著者自身の理解と思考と体験と、「ひとはもっと幸せであっていい」という動機をもとに、イチから新しい言葉で組み立ててゆきたい。その 結果としての作品・言葉が、結果的に「目覚めた人・ブッダの言葉」と正確に重なり合う。そして「仏教をお勉強」してきた人たちが、それまでただの活字・知識として触れてきたブッダの言葉が、「ああ、こういう意味(思考法)だったのか!」と、ようやくその真意にめざめられるような――そういうスタイルで、仏教を紹介していきたいと思います。よろしくお願いします(笑)。

さて、「家族・親子」をめぐる悩みの一つに「罪悪感」というのがあります。

生んでもらった恩、育ててもらった恩――これだけのことをしてもらったのに、私は親を遠ざけようとしている、裏切っている、今も苦しめている……「わたしはなんて罪な人間なんだろう」と自分を責めて、息が詰まりそうな思いをしている。

そういう悩み・心痛を聞くことが、よくあります。ここで私は、ひとつの立場・考え方というものを伝えておきたいと思います――

「自分を責めてしまう」気持ちというのは、それだけでは本当は、「根拠がない」と思ってみてください。考えなくていいということ。わざわざそう考えてしまうというのは、ほんとは何の必要も理由もない、自分自身の内発的な(=ひとりでに考えてしまうクセのような)思い込みであるということ。

一方的に自分だけが悪いということは、人間と人間の関わりにおいては、ない。

もちろん、自分が責めを負うべき場合も、相手が責めを追うべき場合もある。

しかし、一番最初に理解しなくてはいけないのは、「この関わりはうまく機能していない」という事実だけだ。この関わりは、今けして順調・潤滑ではない。うまく運ばない。会えば必ず争いになる。一方的に否定される。離れてもその苦痛な感情・不快感・嫌悪感、そして罪悪感が離れない……。

「機能していない」という事実を、正しく理解すること。それだけ。「罪悪感」はいったん忘れること。

そういう関係が、もう何年も、十数年も続いているとしたら、その関係は、そのままの状態では意味がない、といったん正しく理解することが最初ということです。

ブディズムというのは、相手の「動機」というものを、つねに確かめるところから関係を考えます。

相手は、あなたのことを理解しよう、共感しよう、思いやろう、幸せを願おうとしているか。

そして、こちらの人間としての心情――苦痛・悲しみ・分かってもらえないという理不尽な思い――を理解しようという思いがあるか。

人間にとって最大の苦しみは、「分かってもらえない」という事実にあります。

さて、その相手は、こちらの事情や心情を「分かろう」としているのか。

人間関係の「基本」は、こういうところにあります。もし分かろうという発想がなく、一方的に人を断罪し、悪いのはあなたである(私はまったく悪くない)と決めつけて「慢」を押し通し、あるいは自分自身の要求や怒りの感情を一方的にぶつけて、「それが当然」と思っているようなのであれば……その人は「関わること」を求めていないということになります。

あなたが罪悪感を抱いているというその相手は……あなたを理解しよう(したい)と思っているのだろうか。そこを冷静に考えてみるべきではないだろうか。

理解しようと思っていない相手に、理解してもらいたい、仲良くしたい、分かり合いたいと一方的に思うことは、正しくない「執着」です。ひとは、自分自身のやさしさ、相手への愛情(その実は「愛されたい」というこちらの願望)ゆえに、相手の好意を期待する。特に生まれた時から一番近くにいた「親」に対しては、 分かり合えること、思い合えることを切望してしまう。「愛されている」と思えれば、それが人生最高の喜びになる。それくらい「親」というのは、大きな存在。そして「執着」の対象でもある。

人は、自身の願望・執着のフィルターをとおして「関わり」を見る。だから相手がどんなに自己中心的で、理不尽で、傲慢で、残酷で、暴力的で、非情で、わがままで、壊れていたとしても、「相手にはこうあってほしい」「こういう関わりでいてほしい」という 願いをもって、相手を見てしまう。だから、願望と現実との不整合に直面して、あまりに不協和な現実の前で苦しみの声を上げる。

「願望」から入ってはいけない。冷静になって(目を醒まして)、相手の動機、人間としての本質をよくよく見すえることである。その相手は、あなたの幸せを願っている 生き物だろうか。あなたの苦悩を感じ取って、「よき関わりを作っていく努力をしよう・せねば」と考える生き物だろうか。

もしそうでないとすれば、そういう生き物と「関わり続ける」ことを願うことは、本当に正解なのか、をこれからずっと自問していくことだろうと思う。

関わりにおいて、一方だけが悪い、罪を背負うべきということは存在しない。

まして、子と親という関係において、子が罪悪感を抱くというのは、そもそもおかしい(不合理)なのである。

生んだ者が育てるのは当然。そして養父・養母、あるいは親子以外の「他人が」、子どもや誰かを一時期「世話をした」事実があったとしても、それは両者が納得の上で成り立った「一過性の(期間限定の)関係」でしかない。

その関係が終われば、世話した一方には別の人生があり、世話してもらった一方にも別の人生がある。その新しい人生の中に、過去の「世話して・世話された関係」を持ち込むかどうかは、まったく別の新しい問題――関わるかどうかを事の最初に「それぞれが」決めていい――ことである。


真実は、どのような関わりであれ、「一時的」なものだということだ。夫婦であれ、親子であれ、一生涯「続けるべき」関係など存在しない。心が無常である以上、関わりも無常――つねに変わりうるもの、つまりはつねに新しいもの――である。それでいいのである。

そういう、関わりの本然(本来のあり方)に、一方は我欲や要求を、一方は期待や執着を、そして「人として非道では?」「子としてあまりに不義理では?」「この苦悩は自業自得(わたしが悪い)のでは?」といった思いを持ち込んでしまっては、関係はいっそう錯綜して(こじれて)しまう。

関わりは、つねに新しく作り直すものだ。

過去の関わりを、今に持ち込めば、
「恩を仇で返すなんて、ひどい」と、一方は言うかもしれない。
「恩を仇で返すなんて、私はなんてひどい人間」と、一方は思うかもしれない。

しかし、その「恩」を作っている関係そのものが、過去のものである。その一時的関係を、「恩」として意味づけるか、それ以外の思いで意味づけるかは、「今の問い」である。その問いにどう答えるか、どう意味づけるは、あなたが今自由に決めていいこと。「恩を感じなければ」というのは、思い込み・判断でしかない。

そもそも恩も感謝も、自分自身が授かったもの、関わり合った事実というものを「正しく理解」したときに〝自然に〟出てくる思いである。
もし苦しめ合う関係であるならば、そこに「恩」「感謝」という概念を持ち込むことは、残念ながら正しくない。
順番として、「自然な関係」を作れることが先でなければいけない。

その自然な関係を作るためには、「相手の苦しみを誠実に理解しよう」という思いが必要になるのだ。そもそも、よき関係、よき親子・家族というのは、そういうものではないのか。

もしも、あなたが親、家族、その他かつて世話になった相手のことで、「罪悪感」を抱いているとしたら、

「こうしなければ」「感謝しなければ」「恩があるのに何もしてない」という自責の念は、順序のズレた「非合理な思い込みである」と理解しよう(難しいのは私もよく承知しているつもりだが(笑))。いったん「忘れてみる」ことである。

大丈夫。心ある人なら、そんなあなたを責めることはない。

そして、ここから先、関わりを保つべき相手なのか、よき関わりが育つ可能性のある相手なのか――相手の心を冷静に見つめてみることにしよう。

残念だけど、その相手は、自分が罪悪感を持たねばならぬほどの相手ではないのかもしれない。哀しい事実だが、そういう相手も世の中にはいる。その相手が 「親」であることもざらにある。「他人」ではないだけに、いっそう残酷さ・非情さを出してしまえる関係なのかもしれない。

そういう相手との「関わり」は、いったんあきらめることである。「罪悪感」というのは、自分の心に染みついた必要のない習慣・思い込みであると自覚して、忘れる練習をすることである。

もし幸運にも、相手が、相手を思いやり、苦しめ合う関係ではなくて、いたわり合える関係を望んでいる人間だとすれば、そのときには素直に、過去を詫び、これからはこういう関係を育てていきたいのだと伝えることだ。そういう言葉が届く相手となら、関わりを育てていけばいい。

こちらの思い込み、執着(分かり合いたい)をこそ、あきらめること。
罪悪感さえも、一旦は手放すこと。

要の一点は、「よき関わり」を、「双方」が望んでいるかどうかである。

こちらはこちらで一つの立場を決めること。「罪悪感」ではなく、「関わっていきたいか」。

そして相手がどのような関わりを望むかは、相手にゆだねよう。相手が望んでいない、あるいは「理不尽な要求」を押し通そうという人間ならば、関わるのは「尚早」である。いさぎよく離れて、自分の生活の中で幸せを育てていこう。

最後に――ひとは、独りになっても幸せを手に入れることができる。

恐れる必要はない。ひとつの関係に囚われる必要はない。

ただ、自らの幸せと、そばにいる自分自身の快ある家族――愛おしさを感じ、また愛おしみを向けてくれる命――との関わりだけを、愛することである。今を生きるのだ。


賢治の里・岩手花巻で「講演+宿泊+温泉の会」開催!

きたる10月17日(土)に、
岩手花巻にて講演会をさせていただくことになりました。

場所は〝健考館〟http://www.kenkounoyakata.com/

ひとの心身の健康を探求してきたお医者さんが運営する、温泉つきのかなり本格的な総合施設です。

この夏の全国行脚がご縁となってたまわった企画です。(地元の皆さん、ありがとうございます^^)

午後4時から仏教の講演会、6時から懇親会・夕食、温泉、宿泊。もちろん日帰りも可。
小さな瞑想会と法事(パーリ語のお経つき)を予定。

その後は自由行動ですので、近くの宮沢賢治記念館や高村光太郎美術館、あるいは八幡平など紅葉の名所を散策できます。岩手は本当に自然がゆたかです。
私も訪問先は定かではありませんが、地元の人と御一緒にどこか回る予定です。ご希望者はご同伴ください^^)

車で来ることも可能なので、週末のミニ旅行として岩手県外のどこからでもご参加いただけます。空港もありますので遠方からもどうぞ。

講演会は、仏教の集大成的な話――原始仏典の世界や、慈悲喜捨、業、空の思想など――になると思います。そこに日本仏教のさまざまな話題をちりばめていくことになるでしょう。
楽しく、元気が出る講演らしい講演にしたいと思います。

一宿8000円(宿泊・温泉・食事+講演会その他一式込み)だそうです。

ぜひふるってご参加ください。楽しい旅になると思います^^。
お申込み・お問い合わせは、健考館まで

〒028-3182 岩手県花巻市石鳥谷町松林寺3-81-13
TEL:0198-46-1212
FAX:0198-46-1211

追記:講演日の前後に近郊の県に立ち寄ることも可能と思います。相談、法事、子育て、家族をめぐる悩み、仏教の学びなど――お足の便宜図っていただければ立ち寄りますので、ご希望の方はお気軽にお声がけ下さい。

台風に雨に津波にと、今年はいろんなことが起きています。
でも、現実に呑まれない心を作ることこそが、仏道という生き方。精進してまいりましょう。





「家族」に反応しない練習 〝クリアな心〟が仏教の目的


こんにちは、草薙龍瞬です。

先週は、よく雨が降り続きましたね。
週の前半は私は自室で静かに作業をしておりました。
茨城や北陸、東北ではかなりの被害があったそうですね。

私は、新聞もネット環境もない状況なので、世間の災難にけっこう疎いです。
特に本の執筆などで引きこもっている状態が続いて、久々に外に出ると、世の中の痛ましいニュースが続々と入ってきて、驚いてしまいます。現実ってこんなに不条理に満ちているのか……と。

世の中の不幸を追いかけると際限がなくなってしまう。だからとにかく「今できること」という境界線を引くわけですが……。

「妄想を広げないこと」が基本。「できること」に的を絞って、自分の務めを果たしていく。その道には、苦悩ではなく、意欲・充実・希望が出てくる気がします。私にとっての「インド」がそう(遅れましたがインドツアー報告記、もうじき会員さんに発送いたします)

「現実」の領域が広がっていくこと、広げていくことをめざしたい。私も広げてゆきたいと思います。

●仏教――というより、ブディズムという一つの作法・思考法――の特徴をひとことでいえば、「正しい理解」による「苦悩からの解放」に尽きます。

人が苦しむのは、自分自身の心を正しく理解する眼を持っていないから。

「心はこういう状況の時にこう反応する」
「その結果、こういう怒りの感情や、不安や後悔といった妄想が出てくる」
「だから心の苦しみを増やさないためには、こういう言葉・生活・考え方を心がけなくちゃいけない」

そう自覚できること。
自分自身の苦悩、その苦悩の原因を、きちんと見すえる勇気を持つこと。

そして苦悩をこれ以上増やさないために、正しい心の使い方を、学び、実践していくこと。

苦悩が心から生まれる以上、自らの心を新しく育て、そのことで自分の心を「乗り越えて」いくしかない。そういう立場に立てるかどうか、ではないでしょうか。残された人生の中において。

ひとは自らの心の苦悩、あるいはそれを理解しようとしない「無知」な状態に、なぜかしがみつこうとします。「できればこのまま生きたい」「そのほうがラク」と思う。

そうして、苦しみを繰り返し、周りの人を苦しめ、自分の子供・孫にもその苦しみを引き継がせてしまう。

よく親が、子どものことを親身に心配している様子を見かけることがあります。でも実際には、子どものことを心配するフリをして、自分自身の「宿題」から逃げていることも、けっこうあったりします。過去の挫折や失敗、今現在の苦悩、そういうものをたくさん抱えているのに、抱えていないフリをして、「子どものため」を語っている。子ども自身はそういう親のそばにいて、多くの「?」(疑問)に答えを出せないまま、年を重ねていく。

子どもが行き詰まっているとき、その原因は、実は親の「生き方」にあったりします。

正しい思考は、
まずは自分自身を「最上の」自分へと高めて(成長させて)いくこと――これって真実だと思います。

「親」であれ、どのような状況・立場の人間であれ、まずは、
①自分自身の心の状態を、
②苦悩の理由(みなもと)を、
③苦悩は取り除くことができるという可能性を、
④苦悩から抜けていくための方法(工夫)を、

「正しく理解する」という立場に立つこと……本当の人生はそこから始まるのでは? 

これは、ブッダが強調した「四聖諦」の言い換えバージョンですが、現代においても変わらぬ真理ではないでしょうか。

自身の心を正しく理解するための第一歩として「心の状態を見る」習慣(瞑想・禅)があります。「体の感覚」を意識すること。そして自己観察を妨げている心の状態を、「怒り」なのか「妄想」なのか「欲望・欲求」なのか……とちゃんと観察できるようにすること。

観察に徹すれば(本当に自己観察に徹すれば)、その瞬間、苦悩は消えます。
過去に繰り返してきた心の反応もまた、確実に減っていきます。
結果的に、心は、そして人生が変わってゆきます。

やるかやらないかで、見えてくる世界はゼンゼン違ってきます。なんでやろうとしないのでしょうね(笑)。

さて9月25日は、「業を越える方法」を神楽坂で特集します。苦悩を作り出す業[ごう]――怒りや悲しみや憎しみや――は、なぜか親から子供へと「遺伝」する傾向があります。

それはなぜか。どうすれば、苦しみを作り出す業を子に継がせず、自分の人生の内で「抜ける」ことが可能になるのか――仏教の叡智をフル活用して考えたいと思います。

もちろん、「業」なるものに、「前世」とか「過去世」は関係ありません。そういう発想に飛びつくと、改善できるテーマさえ改善できなくなってしまう。
自分自身の人生をつくっている・支配している心の力――それが「業」です。ブッダの教えの真髄でもある。正しく理解できれば、人生を画期的に変える力を持っています。

そのあたり、じっくりお伝えしたいと思っています。来年冬に出る新刊のテーマでもあります。

とにかく、クリアな心の状態――正しく理解できるクリアな心――を目標にすえること。
その目標をいつもいつも、心に確かめ続けることです。

精進してまいりましょう。

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●講座の日程 ※座禅会と巣鴨の教室日程は末尾にあります。

★新規
月 9月 21日 18:00 ~ 20:30/火 9月 22日 18:00 ~ 20:30
「現代に役立つブッダの考え方」 はじめての人のための仏教入門 神楽坂
「仏教は初めて」「ちょっと興味がある」人のための仏教入門講座。ブッダの言葉をわかりやすく翻訳したオリジナル資料を使って、2500年前の「ブッダの合理的な考え方」を学ぶ。仕事・家庭についての質問・相談コーナーも。宗教色がいっさいない、現代的で合理的なわかりやすい内容が好評。「使える」仏教講座です。★9月21日と22日夜(午後6時から8時半)の2回開催。ご都合よい回にご参加下さい。

金 9月 25日 18:00 ~ 21:00
特別講座★「家族」に反応しない練習 ブッダが教える家族内サバイバル術
神楽坂
離れたいけど、離れられない。離れたくないけど、離れてしまう――それが家族。親、子ども、兄弟など、それぞれの性格・思いが衝突する現場が家族。家族が「苦悩」になっているとき、人は「どう考えれば」心穏やかにすごせるのか。こじれてしまった関係を修復するにはどうすればいいか――。仏教の知恵をフルに発揮して、「家族に苦しめられない」心の持ちかたを考えます。心の自由度を診断する自己診断テスト――「自己ルーツ占い 親の業・わたしの業」を体験。★家族について悩んでいるすべての人(親・子ども他)対象。

土 9月 26日 18:00 ~ 20:30
★「ほんとの仏教」を探して 暮らしに即役立つ仏教思想入門・全3回 神楽坂
「仏教」はなぜわかりにくいのか? なぜ私たちの現実から遠いのか? それは僧侶・長老・学者たちの「カンちがい」にあるのかもしれません。2500年前の「ブッダの教え」と、その後の「仏教」には、決定的な違いがあります。その違いを明らかにし、本来の合理的で、人生に役に立つブッダの教えを明らかにしていきます。<最近話題になっている仏教書>の一節をとりあげ、どこが「本当の仏教」で、どこが「カンちがい」なのかを検討。めざすのは、一人ひとりの現実の人生に役立つ「心の持ち方・考え方」としての洗練されたブッダの教えです。
★全3回のシリーズ講座 9月26日(土)、11月3日(祝)午後6時から8時半、3回目は11月末の予定
☆単回・2回のみの受講も可。
☆予約は特に必要ありませんが、日程は直前に必ずブログカレンダーでチェックして下さい(メールアドレス登録者には事務局からお知らせします)。

水 10月 7日 13:00 ~ 14:30
東急BEたまプラーザ公開講座
「悩み解決!ココロがすっきりする仏教こばなしと座禅体験」 ※東急沿線の方はぜひお越しください。

座禅会 神楽坂
火 9月 15日 18:00 ~ 20:30
日 9月 20日 18:00 ~ 20:30
火 9月 22日 10:00 ~ 12:00
水 9月 23日 18:00 ~ 20:30
日 9月 27日 10:00 ~ 12:00

巣鴨・大人のための「仏教の学校」 巣鴨地域文化創造館
木 9月 17日 14:00 ~ 16:00
木 9月 24日 14:00 ~ 16:00
木 10月 8日 14:00 ~ 16:00

全国行脚、無事終了です

こんにちは、草薙龍瞬です。

夏の全国行脚、おかげさまで無事終了できました――。

今回は、埼玉、栃木への訪問&同地での法事に始まって、
東北仙台から、岩手、秋田、山形、
お盆前後の東京近郊訪問を経て、
8月下旬の名古屋、三重入りののち、東京に戻ってきたのでした。

たくさんの出会いをさずかりました。想像以上に実り多き旅となりました。

ほんとは、熊野に入って、吉野山を抜け、奈良公園で鹿さんと和む予定だったのです^^。

でも実際に旅してみると、ひととの出会いがたくさんあって、ある意味〝おなか満腹〟になりました。

やはり訪れる先に〝ひと〟がいないと面白くありません。ただ場所をめぐるだけの旅は、もうこの身には必要ないんだなあと感じました。

かつて二〇代の頃は、半ば現実から逃げるように、列車で、自転車で、思いつくかぎりの場所を旅していたものです。

 特に夏は、全国の花火大会めぐりに出かけて、その土地土地のひとにまぎれて、闇に一瞬またたいては消えていく色とりどりの火と光の踊りに、ひとり切なく涙するという、なんともおセンチな(それだけ切羽詰まっていたのでしょう(笑))旅をひとり続けていたのでした。

その頃は、見知らぬ土地を旅して、その場所で暮らしたときの〝もうひとつの人生〟を想い、自分が抱え込んでしまった現実をほんの一瞬忘れて心慰撫されるというのが、安らぎだったのでしょう。

でも今は、もうどこにも逃げる必要なんてありません。ある意味〝抜けて〟しまった身の上なので、もはやこの身この心のまま、ただ人々と出会って、ひとときを過ごして、その地にわたる風や暮しの雰囲気を感じるだけで、もう十分です。

もちろん、仏教というひとつの思想をお役に立てることが、何より大切なこと、この命の本懐です。


◎私たちは、当たり前のことですが、ここから先も生きていかねばなりません。

鳥が空を飛び続けるように、川が大地を流れ続けるように、

命つづくかぎり、生きていく。それが当たり前の前提。

だとすれば、きちんと「納得」が残るように。

振り返ったときに、生きてきたことの意味を、確かめられるように。

その意味とは、もちろん後悔とか罪の意識とか怒りといった思いではなく、

そうした〝心の履歴〟とはまた別のところに感じられる、よく生きたという「納得」であってほしい(あるべきだ)と私は思うのです。

そういう納得が最後に残るような「生き方」を、ここから始めようではありませんか。

今回の旅で巡り合った方々も、そしてこれまで関わって下さった方々も、これから出会うだろう人たちも、

みなそれぞれが〝ひとつの道〟を生きています。

そうした〝道〟を確かめ合い、ときに励まし合って、同じ時代を生きていけたら、これほど素晴らしいことはないでしょう。

そういう関わりを私は育てていきたいと感じています。

生きて参りましょう。
草薙龍瞬御礼


ただいま夏の全国行脚中!

2015年・夏の全国行脚のお知らせ ※下に日程表があります。

※期間中は、ブログはお休みです。旅の報告・最新情報は「メール通信」で配信しています(koudounosato@gmail.comまでご登録ください)

あなたの町・村を、草薙龍瞬が、おうかがいします。

こんな人は、お気軽にご連絡下さい
●仏教に触れたい……法話・お茶会・サークル・個人
●悩みを聞いてほしい・相談したいことがある
  ……人生相談、仕事、家庭、子育て、病院見舞いなど
●法事・読経をしてほしい
●本の内容について質問したい・学びたい
●地元の活動・名所・ひとを紹介したい など

○お代は不要です。
○青春18きっぷの鈍行列車  またはバス・徒歩で参ります。
○車での移動・食事・餞別・一宿など、ご協力いただければありがたくたまわります。

目的は、よき出会いと、仏教をほんの少し役立てること  
――実りある旅づくりに  ご協力頂ければ幸いです。

※ひとりで答えが見つからなくて悩んでおられる方は、ぜひご連絡くださいね。

「ワタシの所にも来てほしい」と思ったら 
①お名前 ②頼みたい内容 ③県名と最寄り駅 ④電話番号を、メールで koudounosato@gmail.com まで

※ご登録いただいた方とは電話連絡も可能です。
期間中は随時(いつでも)受け付けています。お気軽にご連絡ください。

全国行脚日程表(確定分)

7月18日(土)~20日(月) 栃木・福島
7月20日~22日(水)    宮城・仙台
7月26日(日)  神奈川(新百合ヶ丘) 
7月29・30日  栃木・宇都宮、久喜 (30日午後は巣鴨の仏教講座)
8月1~3日  岩手一関、盛岡、陸前高田ほか
8月3・4日      岩手、秋田ジュンク堂訪問

8月5日(水)午後3時半~5時半
日頃の悩み・疑問が晴れる!実用的な”仏教”の話

山形県河北町総合交流センター サハト紅花・会議室
 (山形県西村山郡河北町谷地所岡3丁目1-10)

8月7日(土)  宮城・仙台 ★ランチ会参加者募集中
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お盆の坐禅会
8月11日(火) 午後6時  神楽坂・座禅会
8月15日(土) 午前10時  神楽坂・座禅会
8月15日(土) 午後6時  神楽坂・座禅会

8月12、13,14,22日
★出版記念イベント
『反応しない練習』著者による朗読&質問・座談会

『反応しない練習』持参の方は参加無料!(当日会場で購入できます)

8月12・13・14日 午後1時~5時  神楽坂・赤城生涯学習館
8月22日(土) 午後6時~8時半   神楽坂・赤城生涯学習館

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8月23日(日)  東京・玉川上水    
東大和市芋窪集会所 家族・老いをテーマとする座談会 

8月29日(土) 午後1時から4時
座禅だがや!  
禅と仏教を学ぶ会 草薙龍瞬イン名古屋

場所: 465-0024 愛知県名古屋市名東区本郷1-23-8
本郷コミュニティセンター 和室
地下鉄東山線藤ヶ丘駅または本郷駅から徒歩7分

8月30日(日) 名古屋近辺滞在 ★ご連絡ください
8月31日(月) 三重県津市訪問
9月1日~8日まで  三重県熊野⇒奈良・吉野&高野山⇒和歌山⇒大阪横断

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本来の仏教とは、現実の暮らしに役立つもの、人の悩みを解決できるもの。
「これまでいろんな本を読んだが、仏教がわからない……」
という人は、ぜひ一度ご覧ください。




 

それぞれにとっての希望となるように……最新刊発売日決定

こんにちは、草薙龍瞬です。

暑くなってきましたね。今年の夏は長くなりそうです(夏が得意な私にとっては歓迎すべき?かもしれません。クーラーないけど大丈夫だろうか……)。

●KADOKAWAさんから出る最新刊『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超合理的考え方』

発売日は 7月24日(金) に決定しました!

今回は、最高傑作、です。最後に編集者さんに頼んで「入魂」させていただきました(ありがとうございます)。気持ち、入りました^^。本来のブッダの教えが持つ、実用性、合理性……宗教という、あるイミ融通の利かないワクを超えて、働くひと、生きているひと、みなにとって役に立つだろう「ブッダの考え方」を、とりあげてみました。「原始仏教」のわかりやすい翻訳も、ふんだんにちりばめています。
 
「実用書」であり、「仏教入門書」として、きっとお役に立てる一冊になったと感じています。
 
カバーは、この国に生きている人たちが日常見ている街の風景と、その上に広がる青空をモチーフにした、すばらしいデザインです。「ジャケット買い」する人もいるだろうと思うくらいのクールな表紙です。

7月に入ったら、ぜひ書店で予約してください。8月に一度神楽坂で「朗読会&質問会」を入場無料でやりたいと思います。

●6月27日(土)から、神楽坂で3回のシリーズ講座をやります。

近頃お休みになっている原始仏教と、大乗仏教の「オイシイところ」だけをピックアップした、ハイクオリティな講座です。

いくつかの、「これだけは欠かせない」原始仏典のテキスト(過去未配布)も、多めに配布します。

以前神楽坂に来られていた人も、今仏教を勉強中の人も、これから始めようという人も、ぜひご参加ください。

●私はそのあと、7月18日から「全国行脚」に旅立ちます。

喫茶店での個人的な語らいもよし、ご近所やお友達を集めての小さな勉強会でもよし、法事・座禅会もよし、

どんな形でもかまいませんので、お気軽にお声をかけてください。

今決まっているのは、8月1・2日 岩手、8月3・4日 秋田、8月5・6日 山形です。

栃木、静岡、千葉などの関東近郊の方は、7月21日以降、東京から時間を見つけてうかがいますので、ご都合のよい日にちをご連絡ください。

委細、またお知らせします。


みなさん、よき夏を(まだ早いか……)


生き方相談 ハラスメントへの対処法


草薙龍瞬先生、

GWに座禅エクササイズを受講した者です。毎日15分位座禅、あと日常歩く時は必ず「右」「左」とやっています。練習後は落ち着きます。感謝致します。

勤め先で複数の人からパワハラを受けています。わざと大きな音をたてて物を置く、伝達事項が回って来ない(無視)、等々…。
やはりつらく感じます。その瞬間の対処法等ありましたらご教示ください。

今のまま短い時間でも瞑想を続けて行けば心が強くなっていき、平気になるのでしょうか。


そうですか……たいへんですね。「平気になる」というのは、可能でしょうが、良し悪しあると思います。平気になることが解決策になるとは、いえないかもしれませんね。

相手がいる悩み(人間関係)というのは、二つに分けて考えるほうがよいかと思います。

ひとつは、反応して心を失わない、というテーマと、
もうひとつは、相手にどう向き合うか、というテーマです。

二つは、別の問いになります。

「パワハラ」を受けたその瞬間に心がけるべきは、「反応しない」ことだろうと思います。

「ただ、理解する」にとどめる。「ふむ、このひとは、こういうことをしてきた(言って来た)」と、ただ見つめる。

もちろん、すぐにそうできるわけではなくて、たいていは、反応してムッとしたり、動揺したり、怖くて委縮したりしてしまうものでしょう。それは自然ですよね。

ただ、そういう「小さな反応」については、「自分の心の内に湧いた反応をみる」ように心がけてください。基本的に「反応してしまって生じた心の波(動揺)」 は、正しく見つめて、それ以上に反応しないようにして、静めていくしかありません。静かになるまで、心がおさまるまで、深く呼吸して、歩く禅をすることか と思います。

――反応しないこと。もし反応してしまったら、呼吸や歩くという動きに生まれる「感覚」に意識を向けて、心を静めていくことだろうと思います。そこは間違いない対策です。

●その上で、もうひとつ考えるべきは、「パワハラ」をしてくる相手にどう向き合うかということです。自分はどのような心で向き合えばいいか。

ここでも、自分が心を失わない方法というのは、「正しい理解を共有する」ように努めることではないでしょうか。

わざと大きな音をたてて物を置くひとがいたら、「音が大きいのですが」とこちらの「理解」を伝えて、「静かに置いてもらえませんか」と伝えてみる。

伝達事項が回って来ない(無視)と感じたら、「回ってきていないように思うのですが」と確かめてみる。

もし事実だとしたら、「なぜそのようなことをするのでしょう?(苦痛なのですが)」と〝聞いて〟みる。

――ぜんぶ「理解」が目的です。これは誰にとっても難しいことではありますが、「感情(的反応)」と「正しい理解」とは、まったく別のものとして、「理解」をこそ目標にすえるという「考え方」が大事になるのかな、と思います。

「正しい理解」というのは、
「こちらの思いを相手に理解してもらう」ことと、
「相手の意図(なぜ大きな音を立てておくのか、無視するのか)を理解する」
ことの二つです。

「理解」に徹して、感情的反応はなるべく捨て置くように心がけること。

難しくても、これが正しい道であることは、確かなのではないでしょうか。

人間関係のなかで生じる悩みというのは、この「正しい理解」への途中で解決されるのではないかと思います。

●あと大事なのは、「相手に悲を向ける」という仏教的な心がまえです。

もし相手がハラスメントをしてくるようなひとだとしたら、そのひとの心には確実に「怒り」があります。

その怒りの理由が、もしかしたらこちらにあるのかもしれない。その場合は、聞いて理解することで解決できるはずです。こちらに改善できる点があるなら、そこは喜んで前向きに取り組んであげようではないですか。

もし別のことで怒りがあって、その矛先としてハラスメントに出ているとしたら、そのひとの怒りの「苦」を感じてあげてください。「つらいだろうな」と感じてあげるのです(見下すのではなく、共感です)。

関西弁でいうなら「なんちゅう……(なんでそんなことするんかいな)」という感じ。「困ったひとやなあ」と、ちょっと鷹揚に見ることができれば、こちらもラクになれますから。

状況が詳しくわからないので、詳しくはお伝えできませんが……でも、人間関係ゆえの苦痛に向き合うときというのは、こんな感じかと思います。

※7月に出る新刊『反応しない練習』KADOKAWAに、詳しい内容が載っています。お役に立てるかもしれません。

質問コーナー続き 悟りの状態と赤ちゃんの状態は同じ?ちがう?

質問2.について

これはね、はっきり言えちゃいます。「さ○○」の状態というのは、心(無常であり、実体がなく、生滅を迅速に繰り返す、それゆえに虚空=無我としか形容しようがないもの:あくまで観念的な説明しかできませんが)に「気づいている」状態を、「一瞬超えた」状態です。

(※カン違いしたがるひとが、世の中にはいっぱいいるので、ここは適当に聞いてください。ここで語れるのは、あくまで言葉でしかない。ほんとは「その先」に、ある世界=境地がある、ということです)

「気づき」(サティ・中立心)というのは、最後の最後まで必要です。それは、たしか。

「赤ちゃん」は、たぶん「気づき」よりも、「反応」の状態だろうと思います。

「気づき」と「反応」って、究極のところは両立しません。

赤ちゃんは、生まれてから「反応」を積み重ねて、それを感覚、感情、思考……と(あまりに大ざっぱな表現です。本当はもっと緻密、複雑ですよね)分化、発展させていきますね。

サティの修行(禅・ヴィパッサナー)というのは、その反応を「無化」して(さかのぼって)いく作業です。ただ、その道程には、最後の最後まで「気づき」(サティ)が残ります。

「気づき」が最後まで続くのが、「さ○○」への修行で、
(※「さ○○」は誤解するひとがあまりに多いので、使いたくないのです(笑))

「気づき」ではなく、「未分化の反応」があるのが、赤ちゃんの状態かもしれません。

ちなみに……「胎児」はいっそう未分化です。カラダを知らない。視覚も、聴覚も、区別ができない。となると「認知」(これは見ている状態、これは音、と識別できる状態)が成り立たない。この状態における「意識」は、赤ちゃんとも(たぶん)別です。

(※これは瞑想修行のディレクション=方向性をちょっとずらすと、体験できます。入りすぎると、「自分」には戻れなくなりますが)。

お寄せいただいたイメージはきっと、「赤ちゃんには自我がない」=自由・ラク、というご印象があるのかもしれませんね。たしかに、自我(=いわば、いろんな反応の仕方・パターン、結生した反応が蓄積された状態)はないから、「本来必要のない苦しみ」はないのではないでしょうか(大人になると、「本来必要のない苦しみ」をたくさん抱えてしまいますね、内側から自発的に?)。

赤ちゃんは、反応の世界で生きてますね。とても自然に反応している状態です。しかもまだ、「自我」がない。イコール、貪りや、尾を引く怒りや、暗い妄想もない(たぶん)。

そういう状態に、サティの修行で近づけるかといえば、近づけると思います。ラクになれます。自由になれます。それはたしかだと思います。

もちろん、現実の世界に帰れば、「赤ちゃん」ではいられず、いろんな反応を寄せ集めた「自我」を生きざるをえないわけですが……。

でも、膨らみすぎて、重たくなった「自我」を、できる範囲で軽くしていくというのは、日々必要な作業だ、と私は思ってます。みんなも、そう思いますよね?

とりあえず、こんな感じでいかがでしょうか。また考えましょう。

お便り・ご質問、お待ちしております。

※追伸 「結生した反応」――わからないひとは、ぜひ次の草薙龍瞬の新刊をごらんください(笑)。←こゆのが「自我」的反応です(笑)。


質問コーナー 悟りの状態と赤ちゃんの状態は同じ?ちがう?

こんにちは、草薙龍瞬です。
今日は、ご質問へのお答えです。

ご質問 (よいご質問、ありがとうございます。まとめてお答えしてみますね)

1)心が読めることについて
三年ほど前に神楽坂にて開催された2555年仏教講座に参加させていただいたときに
草薙先生は、心が読めるのだなと私は勝手ながら感じました。
講座中に何度か確認してみたのですが、やはり心が読めているようでした。
心が読めてしまう事実(だと思っている)は、瞑想により自我(エゴ)を取り除いていくと
わたしがわたしである感覚が薄れる・・・ということに関係しているのでしょうか?

2)悟りの状態と赤ちゃんの状態
瞑想により自我(エゴ)を取り除いていくとわたしがわたしである感覚が薄れる・・・
ということがYESである場合、
悟りの境地というものは、自我が芽生える前の赤ちゃんの状態ということになるのでしょうか?

最近出版された
勉強の仕方の本も大変参考になりました。
これからも俗っぽくない本を楽しみにしております。


面白い(視点がユニークな)質問ですね(笑)。仏教的に考えてみましょう。

1.
「心が読める」というのは、仏教=私の立場でいえば、「理解できる」状態だと言えるかもしれません。2つは、微妙にちがうんです。(以下の話は、私について持っていただいたご印象とは関係なく、ということで^^)

「読む」というのは、「読む主体=わたし」がいますが、
「理解する」というのは、「主体=わたし」はいません。

ただ「見ている・感じ取っている」だけです。自分は「透明」……反応してない状態のような気がします。

私の場合、もちろんひとと向き合っているときには、その場を作るために適度に反応しながら聞いていますが、それでも、心には、「ただ理解している(しようとしている)」状態だけがあるような気がします。

そういう状態を意識しながら(現実にはひとがいるので、完全にそういう状態にはなれませんが)向き合おうとしています。

喩えるに、もしかしたら、お寺のお堂に、その相手がひとりでいて、自身の心を語っている――そういう状況が理想なのかもしれません(こちらはただの「空間」)。あ、でも、やっぱり適度に反応して、反応してもらって、その中でそのひとの心を理解していかないといけない部分もあるので、やっぱり「あなたとわたし」の二人が、必要なのかも……そんなことを考えます。

「わたし」にも、感覚とか、感情とか、記憶(体験)とか、期待とか、想像とか、判断とか、いろんな要素があるので……たぶん仏教的な関わり方(教室での私?ということでいいのかな)では、自分の心の動き、相手の心の動きが、どういう心の動きなのかを、(たぶん普通には想像できないくらい、細かく、ち密に、しかも迅速に)理解しつつ、応答していく――その結果「正しい理解」にたどりつくということなのかもしれません。

(私が大事にしたいと思っているのは、上に書いた、感覚、感情、記憶――といった心の反応=思いをなるべくリアルに、深く、意識化する=覚えておきたいし、耳を澄ませたい、ということです。一つ一つの思いが、深くなればなるほど、ひととも通じ合えるし、それは本に書く言葉や、だれかに伝える言葉にもつながってくると思うので。)

そして「正しい理解」(それはかなり遠大な目標――たどり着くべき境地――であって、ほとんどの現実は、その一歩も、二歩も、数百歩、数千歩も前に留まっているわけですが)のあとに、

「正しい思考」というのが出てくると思います。つまり、どう返せばいいのか、関わればよいのか(相談ごとであれば、どう提案すれば一番よいのか)をそこで考える。

正しい理解の上に、正しい思考が成り立つ――その2つがそろった状態を、「智慧」と呼んでるのだと、私は理解しています。

たぶん、仕事でも、人間関係でも、相談事でも、こうした心の使い方(理解プラス思考)は、必要なのではないでしょうか。「理解」に「わたし」は、ほんとはいらないのです。

私も、そういう大きな心の働かせ方を意識して、関わらせていただこうと努力しています(でも教室での私は「ザル」です。かなり力抜いてやらせてもらっています^^)。

という意味でご質問(1)のご理解は、正しいと思いますよ(私についてのご印象はノーコメントで^^)




(つづく)

よきGW連休を!

こんにちは、草薙龍瞬です。

(ひとりごと: ネパールの大地震、気になります。私も旅したことがあるので、
あの地の家屋の脆弱さ(土とブロックで固めた程度の、本当に質素な作り)は分かります。M7.8なんて、カトマンズの家々は簡単に崩れてしまったでしょう……。

一番よいのは、隣接するビハール州に仏教徒たちがいるので(あのナーランダも含めて)、彼らと一緒に現地に入って、活動すること。むろん今は難しいので、現地向けの寄付くらい。大きな組織だとムダも増えるのは現地での体験上わかっているので、使い方を特定している小さめのところがいいかと思ってます。)

さて、

●みなさんは、GWの連休はどうされるのでしょうね。私は「勤労&休日」という生活からかなり長い間遠ざかっているので、「わーい、連休だ」という感覚が分からなくなっています。また、一つの現場で「働く」という感覚も、遠くなっているかもしれません。

最近、望郷の念に近い思いとしてあるのは、「働きたい」という思いです(笑)。

名前を変えて派遣社員として働くとか、ボランティアスタッフとして勤めるとか(昔は、四国の福祉施設でボランティアをしてたこともあります。30才になりたての頃ですが)。

要は、ひとつの「はたらき」「役割」を果たしたいのです。

もちろん、お坊さんとしての働きは勤めさせてもらっているけど、やっぱり固定されてしまう。しかも戒律とかいろんな制約があるので、どうにも動きにくいところがあります。

わたしは、ひとつの役割に固まってしまって、アタマが固定してしまうこと、そして「わかったつもりになってしまう」ことに、かなり抵抗があります(もともとひねくれ者ですから笑)。

ちょっと違うはたらき、役割も果たしたいなあ、みんなと一緒に仕事できたらなあ、なんて思う気持ちも今ちょこっと出て来ています。

とはいえ、現実は、ひとりきりの修行みたいな毎日です(笑)。今年に入ってから、電話もかなり時間制限して、数時間のみ(仕事用に)オンにしているくらい。もちテレビもなし、メールチェックは外の公共スペースにて、という具合。静寂、沈黙というのを、今かなり大事にしてます。やはり、心見つめる時間というのは、とても大事。

ある人は、1日15分だけ、暗闇でロウソクの火を見つめるという時間を半年続けて、「心が入れ替わる」体験をしたのだそうです(ある本の話)。心をリセットするにはけっこういいみたいです。試してみては?

私のほうは、このGWは、新刊原稿のいよいよ総仕上げです! 頑張ります。

●けっきょく、人生は、ひとの役に立ってナンボですよね。自分の心のバランスを保つためでもあると感じています。私も、将来もっと自由に動けるように(ビハール、ネパールにもできれば長く滞在できるように)していくのが希望です。でも、そのためには、月に4度のカルチャーとか(これは今のところ動かせないTT)、原稿執筆とか、一見「自分寄り」の作業をせねばならない状況です。もちろんこれも、お役に立つことの一部ではあるのですが。

うけとることと、差し出すこととのバランスに気をつけないといけませんね。

そうそう、昨年一年の活動を振り返る時間が最近あったのですが、とにかくみなさんには多くの支え・助けをいただいているのだと、あらためて実感し、慎みを感じました。ほんとうにありがとうです。あまり御恩返しできていないような思いにもになりました……ありがとうございますです。

そういう思いもあってのことですが、この夏の<全国行脚>では、いろんな場所を回る予定です。特にみなさんには、ご近所や御縁者の方で、ちょっと困っていること、悩んでいること、あるいは単純に仏教について話を聞きたい人などにお声をかけておいていただければ嬉しく思います。純粋に、ひとが前を向くときの希望というか、喜びをたたえた表情を目の当たりにしたいです。それが一番うれしいこと。

今はそれくらいしか役に立てることがないので……よろしくお願いいたします。

●かつてのブッダの人柄を語った仏典を引用します(こんなふうになれたらいいな、という個人的な目標でもあります(笑))

「修行者ゴータマは、実に〈さあ来なさい〉〈よく来たね〉と語る人であり、親しみあることばを語り、喜びをもって接し、しかめ面をしないで、顔色はればれとし、自分のほうから先に話しかける人である。」長部経典 中村選集12巻

みなさん、よき連休を!



5月の無料相談会のおしらせ

こんにちは、草薙龍瞬です。

今年の桜は短かったですね。すぐに風に散ってしまって――。

日が強さを増して、急速に新緑が育ってきている印象です。

今、講座の準備で、西行の和歌をたどっています。あの松尾芭蕉って、西行の影響を受けて俳諧の旅に出たと一説にあります。種田山頭火にもつながっているらしい……

この夏の全国行脚では、できればいろんな場所をめぐって、いろんな人々と会って、自分なりの旅情と風流を堪能できたらと思います。(そのうち、あらためて告知いたしますね)

++++++++++++++

●ゴールデンウィークは、坐禅会のみです。ブログでチェックしてご参加ください(最近は、トークの時間が増えつつありますので、仏教の学びとしてもご活用くださいね)

6月6日(土)午後に、新刊の内容も踏まえて「生活改善のアイデア集・仏教版」という、単体の講座を開きます。3時間たっぷりやるので、いろんなやりとりできると思います。興味ある方はいらしてください。

●さて、神楽坂での無料相談会を5月16日(土)に実施します。

今後定期的に開催していきますので、里からの案内をご希望される方は、メールにてご連絡下さい。必ずお名前を添えてくださいね。

テーマはなんでもかまいません。ご気軽にご利用ください。

もし周りになんらかのきっかけを求めている方がいらしたら、こういう場所があること、教えてあげてくださいね。

 
春の日差しに感謝しつつ

草薙龍瞬


















文章執筆の基本 「心で書く」

こんにちは、草薙龍瞬です。

4月11日(土)の無料相談会は、よきひとときでした。

おひとりずつ時間を共にすると、やっぱりその状況に合った実のある会話が生まれてきます。

お役に立てたかなという満足感もあるし、語らいの楽しさもあります。また実施しますので、ご活用くださいね。

●「本を書いている」という方から書き方についてのご質問があったので、それにちなんだ報告を。

私の場合は、パソコンで書き綴っていきます。で、定期的にプリントアウトして、赤字を書き込んでいきます(この手作業が私にはかなり大事です)。

書く順序としては、「誰に伝えるのか?」という相手を明確にイメージすること……これは、私自身にとっても課題なのですが(難しい)、たとえば講座のときや、手紙を書くときと同じように、相手を想定して、語りかけるように書いていきます。

それでもいつの間にか「独り言」になっていく傾向があるので(これは書き言葉には避けられない宿命かも)、「ですよね」「ではないでしょうか」といった問いかけを意識的に盛り込んでみたり、声に出して読んでみたりして、なるべく「通い合う」表現にしようと工夫してます。

そしてつねに「現実」から入ること――ひとが日常で悩むこと、考えていることを想像して、それを入口にしよう(そこから書き始めよう)と努力しています。

とはいえ、その努力が実っているとはまだまだ言えないとは思います。私もまた文章修業中です。

ただ、過去3冊(特に2冊目の『雑念本』まで)と較べると、やはり書き慣れてきている印象はあります。抽象的ではなく、具体的に。理屈に走るのではなく、感情や情緒も大切に――ということで、二年ぶりの仏教啓発書になるのですが、これまででベストの文章になりそうです。

KADOKAWAさんから7月出版予定です。


●書き方として何より大切にしているのは、「心で書く」こと。

道元の「典座教訓」のなかに、道元が宋で出会った典座(料理係)のセリフ――彼はこれ我に非ず――というのが出てきます。料理という修行は、代わりがきかない。自分自身でやってはじめて修行になる、という意味。

本を書くこと、文章をつむぐこともまたそうあるべきだと思う。読む側は、その著者自身の肉声だと思って、信頼して読むのだから。

だから、私は、どんなにしんどくても、ときにつたない言葉になっても、あくまで自らの心の底から出てくる言葉にこだわります。

つねに、人間が感じ、悩み、求めている心に触れて、また自分自身の苦悩をも振り返って、
本物の、心から発する、心に届く言葉というものを大事にしたい。

だから、一年に出せる本の数は少なくても、「草薙龍瞬の本にはホンモノの言葉がある」という信頼を持っていただけるようにしていきたいと思いマス。


●季刊誌のほうも、早く送って差し上げたいのだけど、遅れ気味です。メール通信を受け取っていない方々もたくさんおられるので、ほんとにすみませんです(たぶん私は脳幹が細すぎて、同時進行というのができないのです(@@))。

ともあれ、みなさんからのメール&おたよりは、いつも励みになります。ありがとうございます。

おたよりの一節:
「最近、今この瞬間に気づくことがこころを軽くして、三毒が減っていくということがこころと身体でわかるようになりました。
三毒にこころが支配されている状態は、無駄なエネルギーを使っているということですね。
自分が正しいという錯覚に固執するというか、執着することが如何に自分を苦しめているのかもわかってきました。
一歩一歩、ダンマの道に沿って精進してゆきたいと思っております。」

すばらしいですね^^。

みなさま、よき日々を。いつも〝励まし〟を祈念いたしております。

草薙龍瞬でした。
こんにちは、草薙龍瞬です。

光ほころぶ春――がやってきたようです。

今日は外に出ると、神楽坂はひとでいっぱい。外堀通りの桜もいっきに開いてもう3、4分咲き。靖国通りの桜並木もいっせいに白く輝いていました。

今は次の本の原稿書きで忙しくやっています。テーマは「反応しないでいい」といったものになりそう。

「反応」というのは、心動かすこと。とくに、欲や怒りや妄想や慢などの不幸な心の状態を作ってしまうこと。

外の見るもの、聞くものに反応して、こういう不健康な心の状態に陥らないようにする。そういう「発想」(心がけ)を持っておこうという話。

ひとは、身だしなみにはかなり気を使っている。今日の服はヘンじゃないかとか、体臭はどうかとか。

それと同じように「心の状態を見る」という習慣も身につけようという話。

昨日の座禅会で、「反応しない境地に達したとして、その先には何があるのですか?」という質問があった。

「それはその人次第。自由自在」とわたしは答えた。

古い仏教の世界には、「悟り・涅槃に到達すれば、いっさいの苦しみは解消される」みたいな神話があるけど、それは正確じゃない。

「いっさい反応が止まった精神状態」はたしかにある。それは言える。でもそれは、山のてっぺんに一度上ることができた、というだけで、その状態がずっと続くわけじゃない。やっぱり、それぞれの場所での生活・人生が待っている。それを生きるには「反応」するしかない。

反応は避けられないし、避ける必要もないと思う。そして、その反応には個性や価値観が出る。結局戻ってくるのは、この反応=自分だったりする。

ならば、仏教の修行や勉強はしなくていいのかといえば、それは明らかに違う。

結局、人間は「反応」を避けては通れない以上、その「反応の仕方」を学ぶのである。無駄な反応をなるべく防いで、またもし反応が湧いてしまったらそれをなるべく早くリセットする能力を身につけるのである。

そういう、反応を消す、あやつる、育てることが上手になったときに、反応の集積である「人生」そのものが好転していく。それは真実。

仏教というのは、心の状態を見る、反応を見る、反応をコントロールできるようになるための基本ツールだと思ってはいかがだろう。

そのツールをちゃんと使いこなせることを目標に、日々学び、実践していく道を生きる。それは正しい生き方に違いない。

昨日は、「反応しない心の先には、またこの生活がある」という話をしたけど、ひとつだけ言い忘れたようが気がする。

それは、反応を仮に乗り越えられるようになったとして(つまり、苦しまなくなったとして)、その先には、「ではこの命をどう活かすか」という大きな問いが待っているということ。

自分自身を乗り越えることは、最終ゴールじゃない。やっぱり、この命をどう使うか、だれに何を残すか、という貢献・働きがテーマになってくる。

そういう部分をも考えて生きられるようになったら、そのときひとは「成熟」を見るのではないだろうか。きっと「納得」も深まるに違いない。

ともあれ、よい季節がめぐってきました。よき反応^^を楽しみましょう。


最近あった”よかったこと”

3月6日(金)
こんにちは、草薙龍瞬です。

教室、メール通信ともごぶさたしている感がありますが、お元気のことと思います。

3月の講座は、
3月15、29日(日)午後2時から 座禅会 (神楽坂・赤城生涯学習館)
3月19日(木)午後2時から    道元のことば・思想 (巣鴨地域文化創造館)

その後3月30日から、私はふたたびインドに行ってきます(×▽×)。

正直かなり体力を使います。そのうえ、インドの現実について自分は何をすればいい?という自問が毎回どっさり増えるので、「消化」するのに日数を要するのです。

ただ、将来的にはもっとインドでの活動量を増やしていかないといけないので(理想は日本とインドを半分半分)、これくらいは慣れていかねばなりません。

特 に、仏教が滅亡して以降、カースト差別と貧困にあえぐビハール州に仏教のお寺をつくって、現地で教育を施していくというのは、歴史的にもかなり大事な仕事。今回は台湾の尼僧さんたちをご案内するのですが、こうしていろんな人たちを現地にお運びして、ちょっとずつ変化を作り出していくというのはとても大切なこと。頑張らねばなりません。

最近あった、善かったこと。

○紅梅が早くも咲いていたこと。

○とある教室で、ウツでダウンしちゃっていた人が、予想より早く復活できたこと(以前は半年くらいダウンしていたのが、今回はかなり早く……ちょっとずつ仏教・道心が育ってきているのかもしれない)。

○4冊目の執筆が始まった(始まっちゃった)こと。締め切りは4月末で、刊行は7月(はて十二万字もあとひと月半で本当に書けるのか? 尊敬する手塚治虫を見習ってチャレンジしてみたいと思います)。

7月に無事出版の運びとなったら、その本をもって、「全国行脚」をスタートすることになるでしょう。みなさん、準備のほどよろしくお願いします。

○季刊誌が届いたらしく、おたよりをちらほらいただけるようになったこと。

毎回お待たせしてしまって申しわけないのですが……しかし毎回、「力作」でしょう?(笑)。魂魄と美と善を託して、全文オリジナルで書き下ろしているのです。インドツアーの激白は次号にも続きます。お楽しみに。

○ 季刊誌新作にちなんで、82歳のご婦人からさっそくおたよりが。電話でお話したのですが、「毎晩、毎晩、ああ有り難い、有り難いと思って眠りについているんです。(季刊誌の文章)やっぱりご僧侶様の文章が素晴らしいです。まさかこの年になってこんな本当の仏法に巡り合えるなんて、夢にも思いませんでした。 人生で今が最高に幸せです」と、とてもハリのある声でおっしゃっていました。(脚色してません(笑))。私は毎回、「心に録音する」つもりで、彼女のお声を聞いています^^。

世の中、何が一番素晴らしいかといえば、善き心で交流できる関わりをさずかれることがひとつではないでしょうか。善意の関わり。善意のひととき。

歩き続ければ、道はできてくる。
道とは、ひとつは、「関わり」のことを意味しているのでしょう。

今回、善き関わりをたくさんさずかっていることを改めて認識いたした次第です。ありがたいかぎりです。

そろそろ春でございます。

見送るとき

2月19日
とある方が、急逝された。

私が日本に戻ってきて四年半になる。これまで、教室で多くの方々と知り合ってきた。

これは奇跡に近いと思うが、その間、ひとりとしてその人の人生の終わりを見ることのないまま、ここまで来ていた。

だが――ついに、その日がきた。

今回見送った男性は、教室で出会い、言葉も交わし、その人の存在感が私の記憶のなかにくっきりと残るおひとりだった。娘さんと一緒に、教室に来ていた。

彼は健康というものに相当なこだわりを持っていた。田舎で野菜・果物を無農薬で育て、笑いヨガをこなし、退職後に始めた水泳は、マスターズのバタフライ部門で金メダルをとるくらいの、とにかく前向きでタフな八〇代だった。

昨年暮れの教室で、病気で通うのが辛くなってきたとおっしゃって、通うことは中断した。だがそれ以後も、自分で育てたはっさくや蜜柑、紫蘇とはちみつで作ったドリンクなどを、娘さん経由で届けてくれていた。

二日前、彼が急きょ入院したと娘さんから連絡があった。ここ一、二日が山だろうと医者は言っていたという。

私も、連絡が届き次第、すぐにでも病院に行くつもりだった。

だが、時機を見ている時間もなく、彼は旅立っていった。看取る時間もほとんどなかった、あっという間の命の閉じ方だった。

その彼と再会したのは、都内某所の斎場(火葬場)だった。

白い棺の中に、彼の姿があった。その額に手のひらを載せた。冷たい。だが、その肌はとてもやわらかく、表情は、生前のおだやかさ、やわらかい笑みをそのまま湛えていた。

読経をし、ご遺族が焼香を捧げ、それぞれが手向けの言葉を念じた。

そして、お茶をご一緒しながら待機した。今は火力も向上しているとかで、40分ほどでお骨になるのだという。

出てきたお骨は、とても白かった。先ほどまでは生前の姿のままだったのに、今は白い舎利として小さくたたずんでいるばかりである。ひとが目の当たりにできる「無常」の最たる光景なのかもしれない。

骨壺にご遺骨を納めて、布に包んで、儀式は終了した。

斎場には、他のご遺族や僧侶方がけっこういた。禅宗のお坊さんや、髪を生やした浄土真宗のお坊さんなど。こういう場所に僧侶たちのたたずまいがあると、やはりほっとする。

若いご僧侶と目があった。私のほうをずっと見ていた。日本とは違う出で立ちが珍しかったのかもしれない。

ご遺族の自宅までタクシーをご一緒する。昨日までの雪交じりの冷たい雨はすっかり上がって、春を思わせる澄んだ陽光に街は輝いていた。

私は車窓の外を見つめながら、不思議な心境を感じていた。

――すべてが色、形を持っていながら、色も形も、じつはない。今目の前に流れている光景はみな、因縁によって成り立っている無色の現象である。いや、成り立っているというより、目の前にあるものは、すべて因縁そのものである。つながりが世界をつくっている。つながりが世界そのものである。

そして、私は今目にしているすべてのものに、今日見送った彼の姿を見ているのだった。

彼は、このつながりの中で、ひとつの時代、場所に生まれ落ちて、幼子、少年、青年と生きて、夫となり、父となり、いろんな出会いや思いを重ねに重ねて、八十二年という歳月を生きた。そして、肉体という因縁を解かれて、この目の前に広がる大きな因縁の世界に戻っていった。

ひとの体も、思いも、みなつながりによって支えられて成り立つ、ひとつの現象・すがたである。

病気、寿命、事故、災難――生命を支えるひとつの因縁が失われる機縁は、さまざまであろう。だが、ひとつの因縁としての人生が、そのままでは続けられなくなったとき、そのひとつの因縁は解かれて、次の位相(姿)へと移りゆくのである。

彼の肉体は、きれいにちがう姿へと移っていった。今残っているのは、白い遺骨だけである。そしてその身の内側を流れていたものは、きれいに水となって、今私たちが目にしている空の青や雲となって、果てしないこの世界のどこかを巡っている。

肉体も思いもまた無常である――因縁が解かれれば、風へと還る。

そして、彼という姿を作っていた生命のエネルギーは、ふたたび、この世界に満ち満ちている生命そのものへと帰ってゆくのであろう。すでに先立っていった無数の命も、今この地上に生きている命も、これから生まれようとしている新しい命も――すべての生命が充満しているひとつの世界に。

ひとは、ひとつの世界へと溶けて、帰っていく。溶けて、ひとつになる。

タクシーは昼前のしずかな陽光のなかを静かに走っていく。不思議にも、執着が解かれた眼には、映るものみなが「意味」を持たなくなる。ビルも、信号も、舗道を歩くひとも、車も、街を包む陽の光も、透明な風も、みな意味を解かれて、ただあえて言葉にするなら、因縁(つながり)とでも呼ぶしかないような、無色の、「ひとつ」のものとして見えはじめる。

そのときには、見ている「自分」すらもない。自分はどこまでも「無」であり、見えている世界そのものと「ひとつ」である。そして、その「ひとつ」の世界のどこをみても、旅立っていった「彼」という存在を見るのである。

彼はこの世界にどこにも生きている。彼はいま世界そのものである。どこをみても、どこまでいっても、彼はこの世界とともに、今日見送った遺族の人たちとともにある。どこにも彼とこの世界を隔てる壁はみえない。もはや彼とも世界とも人間たちとも区別のつかない「ひとつ」が、ただどこまでも広がっている。

そういう思いを感じていた。

今朝、彼の体に触れたとき、彼の心はきれいに世界へと溶け込んでいって、きれいな空気だけが残っていることを感じた。白い遺骨の周りにも、浄化された気の広がりを感じた。

斎場には俗の空気が少ない。そのせいか清々しい奇妙に明るい雰囲気であった。ただその中でも、棺に眠る彼の顔、そして白く変わった姿は、ひときわ清浄な気に包まれているのだった。

今朝の空はあまりに青くて、広々としていた。そして集ったご遺族の間にも、血のつながりと長い歳月を経た間柄だからこそ持ちうる、信頼といおうか善き空気が流れているのを感じた。この日、彼がめぐり合わせてくれた、不思議な幸福を感じていた。

どこまでも、澄明で、清浄な時間がそこにあった。そして「ひとつ」があった。

不思議な日だったといってよい。

彼は、帰ったのである。

旅の記録2 熱の中へ――寺院起工式


1月22日。午前6時40分発のナグプールゆきの飛行機(インディゴ航空)に乗る。

ナグプールのアンベドカル空港には、ウダサ村のNGOリーダーであるラケシュが整髪して待っていた。来ていたのは仲間のディパックとミリンとスバッシュ。

6人乗りのバンに乗って空港近くのホテルへ。郊外にあり清潔な外観。ホットシャワーも出る。参加者のみなもすこぶる満足した様子。軽い朝食(チャイとトースト)を食べて市内のWESTERN UNIONで両替(ここがレートが一番よい)。

そしてインド仏教徒の聖地ディクシャ・ブーミへ。ここは一九五六年、アンベドカル博士(不可触カースト出身にして、インド共和国憲法を起草し戦後の初代法務大臣を務めた偉人)が、カースト差別からの解放を訴え六〇万人の不可触民とともに仏教に改宗した記念碑的な場所。八百年近く滅びていたインド仏教が奇跡的に復活した場所である。

聖堂の中には、アンベドカル博士の生涯をたどったスチール写真が展示されている。ひと通り見た後、日本からの参加者二人が手を合わせて祈ってくれた。アンベドカル博士の苦難に満ちた道のりと、彼がこの地にもたらした奇跡の偉業とが伝わったのであろうか。ありがたい光景だった。

車は国道を一時間ほど南下して、寺院起工式の会場へ。

会場入り口には、私の顔を入れた大きな横断幕が掲げられていた。私も参加者もびっくりした。

会場のゲートにはたくさんの村人たちが待っていた。現地の慣習に沿って足を洗ってもらい、花輪を首にかけてもらって会場へ。数百人もの近郊の村人たちが集まっていた。

真ん中の花道を歩いて壇上へ。ブッダの像とアンベドカル博士の像が置かれ、壁には日本人全員の名前を掲げた大きな横断幕。この地での活動が少し実りつつあるということかと感じた。

インド初の仏教テレビ「ロード・ブッダTV」の創始者バヤ・ジーが開幕スピーチ。彼の話が面白いらしく、会場の人々がよく笑う。彼の自宅には、何年か前に友人のワスと一緒に訪れたのだが、そのときはステテコ姿でベッドにあぐらをかいてハナくそをほじっていた。ヘンなおじさんだと思ったが、今日は白のインド式スーツをまとって男前である。インド人は見かけでは判断できない。凶悪犯みたいな顔の男が有名な俳優だったり、聖者みたいな顔立ちの人が思いきり欲まみれの悪人だったりする。

その次は私のスピーチ。この一帯はウダサやヘオティなど近郊のいくつかの村のちょうど中間に位置する。そこに地元の有志たちが土地を寄進してくれて、新しい寺院を建てることが決まった。今日この日が、寺院建立へと動き出す最初の日。それを受けてのスピーチである。

最初に行ったのは「追悼の儀」――二つの事件で犠牲になった人たちの苦しみ・悲しみを会場の人々とともに想う(悲=カルナーを送る儀式)。ひとつは昨年十月の事件。とある村の4名の不可触民(ダリットと呼ぶ)が村びとに殺され、体を切り刻まれて井戸に捨てられたという凄惨な事件。もうひとつは、8年前に起きたカイランジ事件。このときは村でたった一軒の仏教徒の五人家族のうち、父親が遠出している間に母親と長男として娘2人が村びとに殺害された。このときは抗議する群衆が街中で車や店に火をつけたり、列車を爆破したりするなど、全インド規模の大暴動になった。ナグプール市内にも戒厳令が敷かれて、その頃ちょうど佐々井師のもとで修行生活を始めた私は、居候先のパワン氏宅で安静していた。

犠牲者一人一人の名を読み上げ、私は手を合わせて、彼らの苦と悲しみに心を向ける。会場の人々もみな胸に手を当てて黙とうする。その人々に私は語りかける――8年前、みなさんに初めて出会った頃、カイランジ事件という痛ましい出来事がこの地で起きた。そして昨年十月にもまた悲惨な事件が発生した。同じような過ちがまた起きた。インドではこのような愚かな出来事がずっと繰り返されている。一体いつまで繰り返すのか。やってはいけないことは絶対にやってはいけない。このような事件は二度と起きてはならない。なぜわれわれは止められないのか。

インドにはカースト差別や貧困など根深い問題がたくさん転がっている。こうした現実を変えた「奇跡」がインドにはじつは二つある。ひとつはブッダの出現。二五〇〇年前に彼は世界で初めて人間の平等を説いた。生きものを苦しませる行いはけしてしてはいけないということを明確に説いた。そして二つめの奇跡が、アンベードカル博士。みなさんもご存じのとおり、彼は憲法を書き上げ、戦後インドの政治体制を作り、最後はみなさんを仏教へと導いて生涯を閉じた。もし彼が出現しなければ、インドではもっと悲惨な差別が今もまかり通っていたはずだ。

われわれ仏教徒は、インドが世界に誇れる二つの奇跡をさずかっている。ブッダとアンベードカル博士。この二人の天才が興した奇跡、社会変革への熱い挑戦を、われわれは受け継いでいるのだ。

だがこの二つの奇跡のあと、事態は好転しているだろうか。カイランジ事件が起き、昨年の事件が起きた。インドでは差別も貧困もいまだ未解決のままだ。次の奇跡はいつ来るのかいつまで待てばいいのか。三つめの奇跡はいったいいつ起きるのか?

私はみなさんに伝えたい――その三つめの奇跡こそがこの新しい寺院である。この寺院を、インドを変える三つめの奇跡にしようではないか。

この寺院は仏教徒の寺(ビハール)だ。しかし宗教的に閉ざされた場所にするつもりはない。この場所は、インド社会変革への前線基地だ。どんな宗教や思想を持つ人でも来ることができ、集い、寝泊まりできる。そしてこのインド社会でどんな問題が起きているか、どうすれば解決できるか、みなが智慧を寄せ合って議論できる、そういう場所にしたい。この場所から新しいアクションを起こす。そうしてこのインド社会を変えていく。

われわれは、ブッダとババサブ(アンベドカル博士)が起こした奇跡に続いて、この場所から三つめの奇跡を起こす。今から五〇年先、百年先、五百年先に、人々が「あの寺が三つめの奇跡だった」と振り返ってくれるような場所にしようではないか――。

「ジャイビーム」(ババサブ万歳という現地仏教徒の挨拶の言葉)を三唱してしめくくる。

日本からの女性参加者が言葉を求められて、「私からはひとことだけ――サッベー・サッター・バワントゥ・スキタッター(生きとし生けるものがみな幸せでありますように)」と会場のみなに伝える。今回目の当たりにした善き光景の一つであった。

そのあとは人々が礼拝しにくる。僧侶の前に額[ぬか]づいて三拝するのである。その一人一人に慈しみの言葉を向ける。彼らへの敬意と慈愛とを一心に念じるのである。彼らにとっては敬虔なひとときであり、私にとっては慈悲に心尽くす瞬間である。純粋な心の交流がある時間。次から次へとやってくる。汗に湿った5ルピーを託してくる人。現地のサフランの花を供えてくる人。二百人弱が礼拝に来た様子。

「お客様は神様」というのがインド人の風習。だから今回の参加者に礼拝する村びともいた。こういうときは謙虚に合掌して「ありがとうございます。御幸せでありますように」と心一杯に念じて差し上げることである。

人々と堅く握手しながらゲート外の車へと向かう。会場敷地内に露店が並んでいたのには笑った。日本の縁日と同じようなお祭り行事になっていたらしい。

寺院起工式にて 「第三の奇跡」につながりますように

インド・ダンマツアー2015旅の記録1 旅の始まり

インド・ダンマツアー2015旅の記録1
旅の始まり
1月21日(水)

 飛行機はヒマラヤ山脈の南を、ちょうどガンジス河の真上を飛んでいた。白銀きらめく峰々が窓の遠くに雄大に列をなして見える。ここに来る途中、中国南部からミャンマー北部にわたるまで峻険な山脈を越えてきた。ルートはまるで違うものの、あの山々を7世紀の玄奘さながらに馬と徒歩で旅したらどれほど険しい旅になるかと想像していた。

 ニューデリーのインディラ・ガンディー国際空港に到着した。さあここからがインドである。両替して外に出ると、顔立ちも肌色も濃く深い異国の人間がわんさと待ち構えていた。数人の男たちが近づいてきた。ホテル名を確認しないまま我々のバッグを取って歩き始める。ホテルの送迎だと思ってついて行ったら別のホテルに連れて行かれたというのは、よくある話。キャブに乗る前に名刺をもらい、予約先のスタッフだとなんとか確認できた。だがそのときには今回のツアー参加者三名が後ろの車に連れていかれていた。いきなり離れ離れである。「大丈夫かなぁ?」と思いつつ車に乗り込む。

 オレンジの外灯の中、車とタクシーとオートリクシャ―とバイクとが、信号のほとんどない道をホーンを鳴らし互いを牽制しながらわれ先にと激しく走る。しょっぱなから喧騒と無秩序の異世界に突入である。後ろの3人は無事ついてきているのだろうか。インドの道路は左側通行(イギリスに倣った点は日本と同じ)だが、やにわ道路の右端を思いっきり「逆走」し始めた。前方から車が突っ込んでくる。そのレーンを真っ向から突き進んで行く。そのまま妖しい繁華街を思わせるけばけばしい赤やピンクのネオンが乱舞する一角へ突入。ここはどこだと思ったが、ネオンはみなホテルの看板だった。路地の奥に今日宿泊するホテルの看板を発見。

 もう一台に分乗した三名も無事合流。地下のレストランに集合してチャイを飲んだ。ツアーの日程を簡単に確認して就寝。と思ったら急に、ビートの利いた音楽が間近で鳴り響き始めた。ディスコも経営しているのかと思うくらいの大音量。外を見てみると、表通りにスピーカーを載せた車と若者が二名。ホテルマネジャーに伝えて音を止めさせる。

部屋には一応ACはあったが暖房機能はなし。インドで「ACつきの部屋」を予約してもあまり意味はないということだろうか。蛇口をひねっても温水が出ないのでそのまま寝ることにした。

ともあれこうしてインドでの濃く烈しい旅が始まったのであった。

ひとまわり大きくなるための旅に出よう(興道の里インドツアー2015)

こんにちは、草薙龍瞬です。
本日29日早朝に日本に戻ってきました。今回のツアー参加者と一緒です。

今回も烈しい旅になりました……^^)。
インドという地は、毎回感じることですが、とにかく「濃い」のです。

街の喧騒、人間の熱さ、貧しさや汚さ、差別といった社会の現実が、いたるところから目に飛び込んでくるので、そのたびに日本での快適さや、いつの間にか固まってしまった自己意識が揺さぶられてしまうのです。

今回は、デリー夜の街のキャブでの道路逆走に始まって(笑)、ウダサ村や龍樹連峰遺跡地、佐々井師の寺院(龍樹菩薩大寺)見学、沐浴で有名なベナレス、ブッダが最初に教えを説いたサルナート、悟りの地ブッダガヤ、伝道の拠点となったラージギル、そしてあの玄奘三蔵も学んだ仏教大学跡ナーランダと回って、ブッダが最後の旅路で渡ったパトナを流れるガンジス河を舟で渡り、最後は走って飛行機のドアクローズ5分前というギリギリセーフの状態で日本への帰路についたのでした(笑)。

今回参加した方は、本当によく頑張ってくれたと思います。どんな感想が教室で聞けるか、楽しみです^^。

今回感じたことの一つは、「旅先での流儀」というもの。

旅というのは、本来、従来の自分をただ持ち込むことじゃないのですね。

むしろなるべくこれまでの自分を少なくして、アタマを空っぽにして、謙虚に、「新しい現実の世界をただ理解しよう」と心がけて移動する。

ありのままを見る。よく聞く。尋ねる――そこに徹する。

自分を持ち込むことではない。過去の体験と比較することではない。自分の意見や判断を語ることではない。

旅先で言葉が増えれば増えるほど、目の前の新しい現実を見る心の眼は曇ってゆく。

また豪華なホテルに泊まって、おいしい料理を食べて、有名な観光スポットを回って……というのは、日ごろの快楽の延長でしかない。

そういう旅行ももちろんありだけど、でもそれは日ごろの自分の延長であって、旅(トリップ)じゃない。

トリップというのは、日常からの脱出。自分という、小さな、ちっぽけな、閉ざされた世界からの脱出。

インドというのは、まじめに向き合うならば、この「脱出」をかなえてくれる最良の土地になりうる。何もかもが違うから。異質の星だから。

特に私が知っているインドというのは、ただの喧騒や混沌ではなく、貧困や差別やいさかいという生々しい社会的現実と、それを乗り越えようという強靭な社会変革の意志とによってできている。

もし今後このツアーに参加する人がいたら、その人たちは、インドの過酷な現実と、それに負けない果敢な意志との両方を見ることができるだろうと思う。

現実に負けない意志。現実を変えてゆこうとする意志――これは人間が持ちうるもっとも美しい資質だ。そして、この資質はめったに見られるものではない。

ツアーに参加する人たちがラッキーだと感じるのは、こういう稀有な資質、社会変革への美しい意志を目の当たりにできること。

今回の日本からの参加者は、あのウダサ村の幼稚園創立記念式典、そして寺院起工式の会場にひしめく人たちの、明るさ、熱というものを垣間見た。これは人生に一度あるかないかというくらいの稀有な体験ではないか。

ウダサ村近くの寺院起工式にて宗教にとらわれない社会変革の前線基地にする予定。
私は今回、日本の人たちをあの熱の中に案内できたことをもって、このツアーの最上の意義としたい。それくらいに貴重な光景だった。

本当の旅というのは、未知の現実・体験に、自分の心を揺さぶられ、おのれの反応を問われ、その反応のパターンを破壊し覆していくことが魅力なのではないか。

もし自身の反応に囚われてしまえば、旅は苦しくなるだろう。目の前には、圧倒的な、自分の力ではなんともできない巨大な現実・他者がある。

それを前にしてなおこれまでの自分を貫こう(守ろう)とすれば、すればするだけ、外に反応して心は力を失い弱っていくか、あるいは自分に見えるもの・聞こえるものだけを都合よく取り込んで終わりになってしまうだろう。

前者であれば、訪れた世界とは断絶されてしまうし、後者であれば、自己満足だけが残ることになる。いずれも旅の成果の一つだろうが(旅は正直に自分を映し出す)、本来の旅というのは、上手に過去の自分をリセットして、ほんのちょっと新しい自分に目覚めることなのだろうと私は思う。

新しい自分に目覚めるというのは、しんどいものだ。もちろん言葉なんて出てこなくなる。宿に泊まるとき、帰国の途についたとき、アタマの中には、旅先で目の当たりにした現実の記憶だけが、音として、映像として漂っている。その映像をなんども反芻して、ちょっとずつ過去の小さな自分を忘却して、抜け出して、ちょっと大きな自分になっていくのである。そういうものではないか。

私は、インドに行くたびに圧倒されている。車で移動するときには、心で田園のあぜ道を歩き、土壁の家の中にもぐりこみ、マンチャ(インド式のベッド)に横たわる老婆となり、砂埃まみれのワンピースをまとった少女になってみる。もし自分があの老女であれば、もしあの少女であれば、もしあの農夫であれば、どんな生活が、時間が、この身を包むのであろうと思いを巡らせる。

あの道を歩む人生を想え
もちろん私は出家だから、地べたに座り込んでいるあの物乞いの一人となり、極限の貧しさや絶望をいつ引き受けるやもしれないという思い、心の準備というものもある。

毎回毎回、「自分」を捨てるリハーサルを、車中で、訪れる場所でやっている。

だから疲れるし、圧倒される。その分、心が引き締まって帰ってくる。

今回も、いく先々で、出会う人たちの苦しみを見た。インドの人たちの日常を垣間見た。私はどの土地を訪れても、「この場所で生きるとしたらどんな人生が待っているか」と考える。そして「一体この土地に何をもたらせるか(作り出せるか)」という宿題をもらう。今回もたくさんの体験をもらった。ありがとうである。

このインド仏教を知る旅、もうひとつの現実・人生を体験するツアーは、これから育てていきたいと思う。工夫・改善できるところはつつしんで行おう。だが、ただの観光ツアーにはしない。これは目の前の現実を見すえる旅であり、自身の生き方を見つめる旅、ふだんの自分の心の使い方(反応のしかた)を知る旅である。社会見学とか研修旅行といった言葉では片付かない、もっともっと大きくて深い体験ができる旅。

今回の旅は、初めての日本人にはタイヘンだったと思う。でもだからこそ、9日にも及ぶ旅を完遂してくれた人たちには感謝と敬意を表したい。

このツアーは、ふだん仏教を学んでいる人たちには、最高の実践、テストになる旅だ。

圧倒的な現実の前に、どう反応するか、どう向き合うか。やっぱり、つつしみ・慈悲の心を大切にすることが、一番旅を実りあるものとするための心がまえのようである。

来年以降も続けたい。仏教を続けて学ぶ、志ある人たちと一緒に、ひとまわり大きくなるための旅に出ようと思う。


2015年とし初めの願い事(=人=)

新年あけましておめでとうございます。興道の里の草薙龍瞬でございます。

そろそろお正月休みも終わりということで、みなさん初仕事のご準備(あるいはすでに始まっている?)をなされているのかもしれませんね。

私のほうは、久方ぶりの日本での年越しでした。(昨年はインド・ムンバイにいたため)

といっても、テレビもないし、新聞もとってないし、
出家である以上、家族で団らんということもないので、静かなものでした。

この三が日と大晦日は、たっぷりと修養(勉強)に浸りました。
外の世界が正月休みで、それぞれの住み処に戻っていることもあって比較的安心して自身の修養に専念することができます。よい時間でした。

季刊誌のほうに書きましたが、結局、終わりを善くむかえるためには、「納得できる理由」を一つ一つ増やしていくしかないのでしょうね。

今年は、これまで以上にいっそう「納得できる理由」を増やせるように、というのがわたしの新年の誓いでございます。

あと小さな誓願としては、漫画のほうの生産性を上げることでしょうか。
連載中の漫画を楽しみにしてくれている人も多い様子なので……^^。

ときどき手塚治虫の漫画を「おさらい」するのですが、やっぱり彼は不世出の天才なのですね。

彼の作品のなかでは、けっこうな人間や動物たちが殺されたり、別れたり、傷つけられたりします。自然破壊についても相当訴えているし、権力への懐疑も語っている。どなたかの評論家が、手塚漫画には「虚無」を感じるといったことを述べていましたが、私は彼の作品に虚無を感じるというより、大きな「悲」を学びます。自然への悲。生きもの・人間への悲。

思えば小学3年くらいのときに『ブラックジャック』と『ブッダ』を読んで以来、人間の心の暗部とか、悲しみとか苦しみとかを彼の作品を通じてたくさん疑似体験してきたような……。「なんとかしなければ!(プンプン)」と手塚漫画を読んでは憤っていた思い出があります(笑)。

登場人物の多様さ、複雑さ、ストーリー展開の手法や、絵の構図のつかまえ方、ペンの強弱の入れ方など、溜息がつくほど勉強になります。
そして古今東西の物語や時代を縦横無尽にとりあげて、ストーリ化する視野の広さと、教養の豊かさ。

すごい人だなあと思うのです。

漫画というのは、ゼロから有を作り出す、しかも真似事がきかない、ある意味、一番厳しくて「本物」しか生き残れない世界。

他にも何人もの「天才」を知ってます。挙げ始めると必ず取りこぼす人が出てくるので挙げませんが(笑)。
とにかくあの世界は、すごい人がたくさんいる。

季刊誌に連載中の小僧さん漫画も、ストーリー性のある別バージョンがあるのですが、画力も時間もないので「来世」に持ち越しかなぁと感じています(笑)。「お役に立てること」を一つ一つ、積み上げていくことしかできませんよね。体はひとつ、人生は短い……。

それでも、作業のクオリティを上げて、時間を短縮して、仏教の話、本の執筆、漫画の制作、インドでの活動と、とにかく「お役に立てること」を、求められる順番に沿って、頑張って参りたいと思います。

仏教が教える一番確かな価値は、「お役に立てること」。それであるなら、なんでもいいということになります。

その意味で明日以降また始まる多くの人のお仕事も、みんな「お役に立てる」確かなこと。

問題は……お役に立てている自分に「納得する・できる」ことなのでしょう。

どんなにつらい状況でも、満たされなくても、ひとつだけ心の内側に「納得できる理由」を作っておく。その理由だけは忘れないようにする。(お役に立てることもその理由の一つになりますよね)

そしたら、嫌な記憶が過ぎ去ったあとでも、納得できる理由だけは残ってくれるかもしれない。それが誇りになってくれる。

とにかく何が一番大切かと言えば、自分の今日に「納得できる理由」を作ること。

結局、納得できる明日、人生というのは、その積み重ねの先にしかないのでしょう。

この自覚を一年最初の誓願として、精進してまいりたいと思います。

みなさんの一年がよきお年でありますように。

本年もよろしくお願いいたします。
草薙龍瞬多幸祈念合掌