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生き方相談 ハラスメントへの対処法


草薙龍瞬先生、

GWに座禅エクササイズを受講した者です。毎日15分位座禅、あと日常歩く時は必ず「右」「左」とやっています。練習後は落ち着きます。感謝致します。

勤め先で複数の人からパワハラを受けています。わざと大きな音をたてて物を置く、伝達事項が回って来ない(無視)、等々…。
やはりつらく感じます。その瞬間の対処法等ありましたらご教示ください。

今のまま短い時間でも瞑想を続けて行けば心が強くなっていき、平気になるのでしょうか。


そうですか……たいへんですね。「平気になる」というのは、可能でしょうが、良し悪しあると思います。平気になることが解決策になるとは、いえないかもしれませんね。

相手がいる悩み(人間関係)というのは、二つに分けて考えるほうがよいかと思います。

ひとつは、反応して心を失わない、というテーマと、
もうひとつは、相手にどう向き合うか、というテーマです。

二つは、別の問いになります。

「パワハラ」を受けたその瞬間に心がけるべきは、「反応しない」ことだろうと思います。

「ただ、理解する」にとどめる。「ふむ、このひとは、こういうことをしてきた(言って来た)」と、ただ見つめる。

もちろん、すぐにそうできるわけではなくて、たいていは、反応してムッとしたり、動揺したり、怖くて委縮したりしてしまうものでしょう。それは自然ですよね。

ただ、そういう「小さな反応」については、「自分の心の内に湧いた反応をみる」ように心がけてください。基本的に「反応してしまって生じた心の波(動揺)」 は、正しく見つめて、それ以上に反応しないようにして、静めていくしかありません。静かになるまで、心がおさまるまで、深く呼吸して、歩く禅をすることか と思います。

――反応しないこと。もし反応してしまったら、呼吸や歩くという動きに生まれる「感覚」に意識を向けて、心を静めていくことだろうと思います。そこは間違いない対策です。

●その上で、もうひとつ考えるべきは、「パワハラ」をしてくる相手にどう向き合うかということです。自分はどのような心で向き合えばいいか。

ここでも、自分が心を失わない方法というのは、「正しい理解を共有する」ように努めることではないでしょうか。

わざと大きな音をたてて物を置くひとがいたら、「音が大きいのですが」とこちらの「理解」を伝えて、「静かに置いてもらえませんか」と伝えてみる。

伝達事項が回って来ない(無視)と感じたら、「回ってきていないように思うのですが」と確かめてみる。

もし事実だとしたら、「なぜそのようなことをするのでしょう?(苦痛なのですが)」と〝聞いて〟みる。

――ぜんぶ「理解」が目的です。これは誰にとっても難しいことではありますが、「感情(的反応)」と「正しい理解」とは、まったく別のものとして、「理解」をこそ目標にすえるという「考え方」が大事になるのかな、と思います。

「正しい理解」というのは、
「こちらの思いを相手に理解してもらう」ことと、
「相手の意図(なぜ大きな音を立てておくのか、無視するのか)を理解する」
ことの二つです。

「理解」に徹して、感情的反応はなるべく捨て置くように心がけること。

難しくても、これが正しい道であることは、確かなのではないでしょうか。

人間関係のなかで生じる悩みというのは、この「正しい理解」への途中で解決されるのではないかと思います。

●あと大事なのは、「相手に悲を向ける」という仏教的な心がまえです。

もし相手がハラスメントをしてくるようなひとだとしたら、そのひとの心には確実に「怒り」があります。

その怒りの理由が、もしかしたらこちらにあるのかもしれない。その場合は、聞いて理解することで解決できるはずです。こちらに改善できる点があるなら、そこは喜んで前向きに取り組んであげようではないですか。

もし別のことで怒りがあって、その矛先としてハラスメントに出ているとしたら、そのひとの怒りの「苦」を感じてあげてください。「つらいだろうな」と感じてあげるのです(見下すのではなく、共感です)。

関西弁でいうなら「なんちゅう……(なんでそんなことするんかいな)」という感じ。「困ったひとやなあ」と、ちょっと鷹揚に見ることができれば、こちらもラクになれますから。

状況が詳しくわからないので、詳しくはお伝えできませんが……でも、人間関係ゆえの苦痛に向き合うときというのは、こんな感じかと思います。

※7月に出る新刊『反応しない練習』KADOKAWAに、詳しい内容が載っています。お役に立てるかもしれません。

質問コーナー続き 悟りの状態と赤ちゃんの状態は同じ?ちがう?

質問2.について

これはね、はっきり言えちゃいます。「さ○○」の状態というのは、心(無常であり、実体がなく、生滅を迅速に繰り返す、それゆえに虚空=無我としか形容しようがないもの:あくまで観念的な説明しかできませんが)に「気づいている」状態を、「一瞬超えた」状態です。

(※カン違いしたがるひとが、世の中にはいっぱいいるので、ここは適当に聞いてください。ここで語れるのは、あくまで言葉でしかない。ほんとは「その先」に、ある世界=境地がある、ということです)

「気づき」(サティ・中立心)というのは、最後の最後まで必要です。それは、たしか。

「赤ちゃん」は、たぶん「気づき」よりも、「反応」の状態だろうと思います。

「気づき」と「反応」って、究極のところは両立しません。

赤ちゃんは、生まれてから「反応」を積み重ねて、それを感覚、感情、思考……と(あまりに大ざっぱな表現です。本当はもっと緻密、複雑ですよね)分化、発展させていきますね。

サティの修行(禅・ヴィパッサナー)というのは、その反応を「無化」して(さかのぼって)いく作業です。ただ、その道程には、最後の最後まで「気づき」(サティ)が残ります。

「気づき」が最後まで続くのが、「さ○○」への修行で、
(※「さ○○」は誤解するひとがあまりに多いので、使いたくないのです(笑))

「気づき」ではなく、「未分化の反応」があるのが、赤ちゃんの状態かもしれません。

ちなみに……「胎児」はいっそう未分化です。カラダを知らない。視覚も、聴覚も、区別ができない。となると「認知」(これは見ている状態、これは音、と識別できる状態)が成り立たない。この状態における「意識」は、赤ちゃんとも(たぶん)別です。

(※これは瞑想修行のディレクション=方向性をちょっとずらすと、体験できます。入りすぎると、「自分」には戻れなくなりますが)。

お寄せいただいたイメージはきっと、「赤ちゃんには自我がない」=自由・ラク、というご印象があるのかもしれませんね。たしかに、自我(=いわば、いろんな反応の仕方・パターン、結生した反応が蓄積された状態)はないから、「本来必要のない苦しみ」はないのではないでしょうか(大人になると、「本来必要のない苦しみ」をたくさん抱えてしまいますね、内側から自発的に?)。

赤ちゃんは、反応の世界で生きてますね。とても自然に反応している状態です。しかもまだ、「自我」がない。イコール、貪りや、尾を引く怒りや、暗い妄想もない(たぶん)。

そういう状態に、サティの修行で近づけるかといえば、近づけると思います。ラクになれます。自由になれます。それはたしかだと思います。

もちろん、現実の世界に帰れば、「赤ちゃん」ではいられず、いろんな反応を寄せ集めた「自我」を生きざるをえないわけですが……。

でも、膨らみすぎて、重たくなった「自我」を、できる範囲で軽くしていくというのは、日々必要な作業だ、と私は思ってます。みんなも、そう思いますよね?

とりあえず、こんな感じでいかがでしょうか。また考えましょう。

お便り・ご質問、お待ちしております。

※追伸 「結生した反応」――わからないひとは、ぜひ次の草薙龍瞬の新刊をごらんください(笑)。←こゆのが「自我」的反応です(笑)。


質問コーナー 悟りの状態と赤ちゃんの状態は同じ?ちがう?

こんにちは、草薙龍瞬です。
今日は、ご質問へのお答えです。

ご質問 (よいご質問、ありがとうございます。まとめてお答えしてみますね)

1)心が読めることについて
三年ほど前に神楽坂にて開催された2555年仏教講座に参加させていただいたときに
草薙先生は、心が読めるのだなと私は勝手ながら感じました。
講座中に何度か確認してみたのですが、やはり心が読めているようでした。
心が読めてしまう事実(だと思っている)は、瞑想により自我(エゴ)を取り除いていくと
わたしがわたしである感覚が薄れる・・・ということに関係しているのでしょうか?

2)悟りの状態と赤ちゃんの状態
瞑想により自我(エゴ)を取り除いていくとわたしがわたしである感覚が薄れる・・・
ということがYESである場合、
悟りの境地というものは、自我が芽生える前の赤ちゃんの状態ということになるのでしょうか?

最近出版された
勉強の仕方の本も大変参考になりました。
これからも俗っぽくない本を楽しみにしております。


面白い(視点がユニークな)質問ですね(笑)。仏教的に考えてみましょう。

1.
「心が読める」というのは、仏教=私の立場でいえば、「理解できる」状態だと言えるかもしれません。2つは、微妙にちがうんです。(以下の話は、私について持っていただいたご印象とは関係なく、ということで^^)

「読む」というのは、「読む主体=わたし」がいますが、
「理解する」というのは、「主体=わたし」はいません。

ただ「見ている・感じ取っている」だけです。自分は「透明」……反応してない状態のような気がします。

私の場合、もちろんひとと向き合っているときには、その場を作るために適度に反応しながら聞いていますが、それでも、心には、「ただ理解している(しようとしている)」状態だけがあるような気がします。

そういう状態を意識しながら(現実にはひとがいるので、完全にそういう状態にはなれませんが)向き合おうとしています。

喩えるに、もしかしたら、お寺のお堂に、その相手がひとりでいて、自身の心を語っている――そういう状況が理想なのかもしれません(こちらはただの「空間」)。あ、でも、やっぱり適度に反応して、反応してもらって、その中でそのひとの心を理解していかないといけない部分もあるので、やっぱり「あなたとわたし」の二人が、必要なのかも……そんなことを考えます。

「わたし」にも、感覚とか、感情とか、記憶(体験)とか、期待とか、想像とか、判断とか、いろんな要素があるので……たぶん仏教的な関わり方(教室での私?ということでいいのかな)では、自分の心の動き、相手の心の動きが、どういう心の動きなのかを、(たぶん普通には想像できないくらい、細かく、ち密に、しかも迅速に)理解しつつ、応答していく――その結果「正しい理解」にたどりつくということなのかもしれません。

(私が大事にしたいと思っているのは、上に書いた、感覚、感情、記憶――といった心の反応=思いをなるべくリアルに、深く、意識化する=覚えておきたいし、耳を澄ませたい、ということです。一つ一つの思いが、深くなればなるほど、ひととも通じ合えるし、それは本に書く言葉や、だれかに伝える言葉にもつながってくると思うので。)

そして「正しい理解」(それはかなり遠大な目標――たどり着くべき境地――であって、ほとんどの現実は、その一歩も、二歩も、数百歩、数千歩も前に留まっているわけですが)のあとに、

「正しい思考」というのが出てくると思います。つまり、どう返せばいいのか、関わればよいのか(相談ごとであれば、どう提案すれば一番よいのか)をそこで考える。

正しい理解の上に、正しい思考が成り立つ――その2つがそろった状態を、「智慧」と呼んでるのだと、私は理解しています。

たぶん、仕事でも、人間関係でも、相談事でも、こうした心の使い方(理解プラス思考)は、必要なのではないでしょうか。「理解」に「わたし」は、ほんとはいらないのです。

私も、そういう大きな心の働かせ方を意識して、関わらせていただこうと努力しています(でも教室での私は「ザル」です。かなり力抜いてやらせてもらっています^^)。

という意味でご質問(1)のご理解は、正しいと思いますよ(私についてのご印象はノーコメントで^^)




(つづく)