仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
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●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

興道の里2015年ファイナルに向かって^^ 家族論モニター他お知らせと近況報告

こんにちは、草薙龍瞬です。

今回は、告知と近況報告です。

●家族モニターさん、いろんな方が応募して下さっています。

いただいたお便りの内容に沿って、読んでもらう原稿を絞り込んで、テーマごとのグループ?みたいなものを作ることになるのかな、と思っています。

もし会合を開くとしたら、そのテーマごとになると思います。どのような形になるのか、まだ未定。原稿がある程度まとまってきたら、また告知しますね。

※たたき台として、11月22日(連休の日曜)夜に、「家族に反応しない練習」第2弾をやります。内容は前回とほぼ同じ(参加者それぞれのテーマによって変わります)。

「親の業・わたしの業占い」という診断シートを使います(親にどんな影響=業を受けているのかわかる!)。前回いらしていない方は、参考になるかもしれないので、ご都合よろしければご参加下さい(講座なので参加費をいただくことになります)。

●11月2日(火)の朝日新聞朝刊をご覧ください(何が出るのかはお楽しみに(笑))。

●11月9日にアマゾンから オーディオブック『反応しない練習』KADOKAWA が発売になります。著者としてキモチを一編収録させていただきました。聞いてみてくださいね。

●仏教そのものについて、解説的なメールもお届けしていきます。おそらく今書いている原稿(3月発売予定の家族論。その次は4月刊行予定)から、「言葉の切れ端」的なものをお届けしていこうかと。分量が多すぎてもいけないだろうし、クオリティが低くても……何よりネットにあまりアクセスできない環境のためもあって、なかなかタイムリーにお届けできない状態です。音信不通のときは「原稿書きに追われている(@@)んだろう」と思って、慈愛をもって見守ってくださいね(笑)。

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●最後に教室の告知です――※年内の講座は、以下がすべての予定です。

11月 3日(祝日・文化の日)
13:00 ~ 16:00 座禅と法話の会 座禅の解説ガイドブックつき 神楽坂
18:00 ~ 20:30 はじめての人のための仏教入門 神楽坂
※夜の入門講座は「初めて」の方が対象です。先日やった「〝ほんとの仏教〟を探して~仏教思想入門」(上級者向け)は、年が明けてから再開します。

11月 5日&19日(木)14:00 ~ 16:00
大人のための「仏教の学校」 巣鴨地域文化創造館 
――一休さんをやります!
(※巣鴨は12月3日、17日がラストです。17日は仏教だけどクリスマス会(笑))

11月 15日・22日(日)10:00 ~ 12:00
座禅と法話の会 座禅の解説ガイドブックつき 神楽坂・赤城生涯学習館 和室

11月 18日&12月16日
10:30 ~ 12:00 東急BE・二子玉川 座禅と「心がラクになる」仏教こばなし
13:30 ~ 15:00 東急BE・たまプラーザ 座禅と「心がラクになる」仏教こばなし

11月 22日(日)18:00 ~ 20:00(※月曜は祝日)
「家族」に反応しない練習 ブッダが教える家族内サバイバル術 ★お茶会つき 神楽坂

11月 23日(月・祝)13:00 ~ 15:30 と18:00 ~ 20:30(2回開催)
座禅と法話の会 座禅の解説ガイドブックつき 神楽坂

11月28日(土)18:00 ~ 20:30
12月6日 (土)18:00 ~ 20:30
12月 13日(日)18:00 ~ 20:30
座禅と法話の会 座禅の解説ガイドブックつき 神楽坂・赤城生涯学習館

12月 23日(祝・水)☆年内ファイナル! 18:00 ~ 20:00
Xマススペシャル 仏教ワークショップ 打ち上げお茶会つき 神楽坂

いよいよ11月。2015年もクライマックスに入っていきます。「反応しない」練習をしつつ、盛り上がってまいりましょう(?)。



家族をめぐる体験談・悩みのおたより募集

こんにちは、草薙龍瞬です。今回は大事な告知です。

●10月17日 岩手花巻での講演会
 (※17・18日は都内での講座はありません

健考館 〒028-3182 岩手県花巻市石鳥谷町松林寺3-81-13(JR花巻・新幹線・新花巻から無料送迎バスあり)
TEL:0198-46-1212

正午には到着します。「相談したいことがある」方は、午後に時間を作りますので、ショートメール(または電話)でご連絡下さい080-7004-0119.

午後4時から講演 午後6時から懇親会(夕食) ※夜はすでに2件相談が入っています。

翌日以降も対応できると思いますので、ひとりで悩んでいることがある方はぜひご連絡ください。きっかけになるかもしれませんので。もちろんお代はいりません。この機会をぜひお使いください。


●家族をめぐる体験談・悩みのおたよりを募集します
親のこと、子どものこと、伴侶のこと……過去にあったことでも、現在進行中のことでもかまいません。あなたの体験・今の悩みをお寄せください。

なるべく具体的に語ってみてください(いつ頃、誰が何をした・言った/私はこう返した/結果、今はこうなっている/今こんな気持ちでいるなどなど)。対処の方法(どう考えるか)を見つけやすいので。

メールでも手紙でもOKです。きれいにまとめなくてよいので、思いつくままに書いて送ってください(自分で編集してしまうと、気づき・自己理解の可能性が減ってしまいます。遠慮は無用です^^)。

来年春予定の本のテーマとしてとりあげるかもしれません。もちろん個人として特定されるような記載の仕方はしませんので。そこは大丈夫^^。

相談をお寄せいただくメリットとしては、ブッダの考え方(仏教的な解決策)を、明瞭な言葉でまとめてもらえる点でしょうか。ひとりで悩んでいる状態だと、アタマはもやもや・分裂状態であることがほとんど、しかも出口は見えませんよね。そこで、仏教という切り口をもって「合理的な考え方」を組み立てみます。お寄せいただく方にとって、きっと役立つと思のですが、いかがでしょうか。

そして、ひとりの悩みが、本を通して、似た悩みを抱える多くの人にとっての「希望」になります。仏教には「功徳を積む」という言葉がありますが、みなさんがお寄せくださるお便り一つひとつが、大きな貢献になります。ぜひお力を貸してください。

お便り、お待ちしています。
koudounosato@gmail.comまで)

「親」が思い出さなくてはいけないこと(家族論)

10月5日
週末に西日本まで行ってきた。個人的な相談に応えるためである。

最近、「家族」(親子)をめぐる苦しみによく遭遇する。

どの人も、本当によく生き抜いてきた、と思うほどの苦悩を背負って生きてきている。

親子という、生んだ人間と、生まれた人間との関係がある。
それは「事実」でしかないが、しかしその事実が、なぜか凄まじい「重力」を持つことがある。

息苦しい、重たい、辛い、苦痛である、わたしはただ利用され、犠牲になってきたのだ、
愛されたい、分かってもらいたい、分かり合いたい、できれば笑い合える関係でいたい――

そういう思いを抱えて人は生きている。みんながみんな、切なくなるくらいの、たくさんの苦悩、辛さ、空しさ、屈辱、悲しみを抱えている。

ひとはみな、自分を生んでくれた〝大きな人間〟に、庇護を求める。無条件の受容を、寛容を求める。

そうして、自分自身が生きていることの価値を、生きることの意味を、〝大きな存在〟に確かめてもらいたがっている。

その相手が「親」という名の、生まれて以来最も身近な大人であることは、誰にとっても普遍的な事実である。生き物というのは、「親」にこそ、自身が生まれて、存在していることの意味を承認してもらいたい。それは、生まれ落ちて以来の根源的な思いなのかもしれない。仏教には渇愛(かつあい:求めてやまない心)という言葉があるが、親への思慕というのは、この渇愛の最も代表的で、最も強力な例かもしれないと思ったりする。

一方がそれほどに強い思慕を向け続けているにもかかわらず、
ときに「親」なる生き物は、とても冷酷で、強欲で、傲慢で、物わかりの悪い頑迷な生き物であることがある。

「親」は、「いや、それは子供の方だ、親がどれだけ子を想っているか、可愛がって、一生懸命育ててきたか」というかもしれない。もちろん、それも真実の一面であろう。しかし……

親子の関係がうまく機能しないとき、子どもから見る「悩み」と、親から見る「悩み」とは、質が違うような気がする。

子がたとえば「愛してもらいたい」と願うとき、その願いというのは、けっこう単純なものである。

自分のことをきちんと見てほしい、理解してほしい。独り立ちしていく自分を応援してほしい。大人になって親の面倒を見ることを、当たり前と思わないでほしい(少しはこちらの苦労も理解して、ねぎらいや感謝の言葉くらいかけてほしい)というようなものではないか。

親がこれらの子どもの願望を満たすことができれば、つまりきちんと無事を見つめて、相手の感情を(自分の思惑・偏見・一方的な期待を外して)よく理解して、子どもが成長していくさまを快く応援し、子がいかに親のことを気遣い、歓ばせてあげようと願っているかを「理解」できれば、子どもというのは満たされるものではないか。

たとえば、大人になった子供が、親の面倒を見る。仕送りをする。介護をする。

「すまないね」「ありがとうね」

「あんたも家のことたいへんだろうから、無理して来なくていいよ」

「仕送りなんていらないよ、自分のことに使いなさい」

なんて、親が言ってあげるとすれば、子どもにとっては理想の親である。そういう親と子であれば、別になんの苦労もなく、美しい関係が続くかもしれない。

しかし、中には、そういう理解がまったく持てない親というのもいる。

年をとっても、子どもがもう中年になっても、まだ「子どもは自分の思い通りに動いて当たり前」だと心のどこかで思っている。老いた親の介護は当たり前。仕送りなんて当たり前。「もっと送るのが当然だろ。わたしがどれだけ苦労してあんたを育ててやったと思っているんだい」なんて、本気で言ってみせたり、口には出さなくとも、子どもに本音見え見えの愚痴や皮肉をぶつけてみせる人間もいる。

子どもにとって、親というのは、根源的な思慕の対象だから、なんとか親の歓心・満足を買おうと、自分が年をとっても頑張ろうとする。きっとその心は、幼い頃のまんま、「お父さん、お母さんが喜んでくれている」と思いたいのかもしれない。

親にももちろん子供への愛情というのはあるであろう(ときおり、それすら枯渇している淋しすぎる人間もいるにはいるが)。

だが、そうした愛情とは別に、「子どもは自分に尽くして当たり前」と思っている親もまた、かなりいるらしいのである。

そういう親は、子どもに不満を持つ。愚痴・不満をぶつける。自分の人生の失敗を延々と語る(その失敗は「わたしのせいなんだ」だ、と子供が思ってしまうことには想像及ばずに)。自分が老いたら子供に面倒を見てもらおうと思っている。子どもを罵倒することは当然の権利(言いたい放題言っていい)と思っている。 それは、仏教でいえば「貪欲」である。

本来は――関わってくれているだけで奇跡

「本当にありがとう(あなたも大変だろうに)」と心から言わねばならない関係なのである。

ところが、生んだ時点から〝巨大な大人〟でありつづけた親には、そうした子供の苦しみが分からないことがあるらしい。

これは自覚の問題である。「父の日」「母の日」があるのなら、「子どもの日」がもう一つあってもいい。「わが子の日」である。大人になってもまだ関わってくれる、同居してくれる、ケンカしてくれる、なんだかんだいって老いる自分を心配してくれる、ありがたい「わが子」に感謝を伝える日。シニアの人たちは、そういう日が本来必要なのだと知っておくべきだし、それくらい、本当は、「なお子どもでいてくれる」大人たちに感謝しなければいけないはずだと思う。

人間というのは、ほんとうに自分の都合しか見えないものだ。自分の側の期待・思惑・傲慢・貪欲――そういうもので一杯で、本来「関わりそのものが奇跡的な奇跡」であることに気づかない。

その一日をある街ですごして、再び東京に戻るとき、これまで出会ってきたたくさんの「子どもたち」を思い出した。今日出会った人は四〇代後半。かつて出会った人には、十代、二十代、三十代、五十代、六十代、七十代、八十代――といた(ほぼ全世代ではないか)。

「親」を思慕し、親のことで心を痛め、今は亡き親への罪の意識や後悔を抱えて生きている人たちがたくさんいた。今車窓に見えている夜の町灯りの一つ一つにも、「親を想う子どもたち」が生きている。彼・彼女たちは、自分自身の人生を精一杯に生きて、自身の家庭を支え、子を育て、自身の老後の心配をしながら、なお「親」を想いつづける人々である。

世の中のお父さん・お母さんたちに、出家(家なき者)として私は伝えたい。

あなたにとって「子ども」は、一生涯「子ども」に映るのかもしれない。自分の思惑・期待をぶつけて当たり前の相手であると――だがその子供の内面を想像したことはあるだろうか。子どもは、あなたを愛しているから、あなたに理解してもらえない現実に怒りを感じ、それでもあなたを想いつづけて老いていく。ときにどんなに反発して、あやまちを犯して、家を離れて音信不通で、とんでもなく親不孝だと愚痴りたくなるような不肖の子どもだとしても、その子は、やっぱりあなたを「親」としてずっと想い続けるものだ。ひとつの人生にとって「親」は永遠の存在である。

命はみな、闇の中を生きて闇へと消えていく。しかしその闇の中に、最初から最後まで存在し続ける存在がある。それが「親」である。つまりはあなたである。

あなたは、その「奇跡」を想ったことがあるだろうか。ひとつの命が、闇の中で、何十年も独りで生きて、老いて死を迎えるまでなお「親」のことを想い続けて生きている事実を想像したことがあるだろうか。

あなたがもし、大きくなった子どもに対して、不満や愚痴をぶつけていたり、自分の面倒を見ることを当たり前だと思っていたり、心の片隅で「わたしより幸せになっちゃいけないよ」「あんたのせいで私の人生は犠牲になったんだ」なんて思っていたりするとしたら、それはとてつもない罪だと自覚したほうがいい。

子どもは子どもで精一杯生きている。その一杯一杯の人生の中で、今なお満たしきれない親への思慕を抱えている。思慕は生涯消えることはない。愛情も、恨みも、さみしさも、悲しみも、後悔も、……すべての思いは、あなたゆえに在る。その事実を厳粛に、一度でも考えてみることだと思う。

もし、子どもが親との関わりで幸せを感じていないとしたら、はっきり伝えよう――それは親の罪である。子どもは悪くない。子どものせいではない。

親であるあなたが「有罪」か、「無罪」か、仏教的に判断するすべは、次の通りである――

あなたが、子どもに対して、

ありがとう、

あなたが幸せであるように、

がんばって生きなさいよ――

そう思えているとしたら、あなたは無罪である可能性がある。よき親として子の心に残れるかもしれない。

もしこのような思いを忘れていたとしたら、ちょっと罪である(笑)。もう少し、この人生を頑張って生きてみようではないか。

人生にはまだ先がある。だから残りの人生を、少しでもよき親として生きられるように、そういう希望をもって生きていくこと。努力することを目標にすべきだと思う。

親もまた誰かの子ども。子どももまた誰かの親。

みんな、「これから」である。どんな関係にも、希望はあるから――。


※とはいっても、「見切り」をつけねばならない関係もある。苦悩しか生まない関わりの中で、人間は「このオレを無きものとしてくれ」(とある14歳の少年の言葉)と叫ぶか、親に「死んでくれ」「私の中から消えてくれ」と思いをぶつけるかの状態にたどり着くこともある。


そういう場合は、どう考えればよいか。前回のブログはその答えの一つでもあるし、さらにつきつめて考えるのが、来年出版予定の本のテーマでもある。

今一つだけ言えるのは――自分自身が苦しみから解放されること、そのことにのみ人は全力を尽くすべきだということだ。あなたはもっと幸せになっていい。

※家族・親子をめぐるお便り、募集しています。koudounosato@gmail.comまで。