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「自分の務めは果たした。お疲れさま!」 最近のおたよりから

11月18日
●最近のおたよりから――
私は何度も御著書の『反応しない練習』KADOKAWAを開き、心を鎮めてきました。
先日も職場(小売業)で、心を乱されることがありました。
朝礼で行なう一分間のスピーチに私が指名されたので、日頃から、スタッフを褒めるどころか、会話もしようとせず、いつもダメ出しばかりの店長に、何か伝わることを願いつつ、こんなスピーチをしました。

『……私たち日本人はシャイで、気づいていても、なかなか口に出せないことがありますが、職場では、なるべくお互いを褒めあう、例えば、ディスプレイうまくできたね、接客が丁寧だね、髪形いいね、こんなことが躊躇なく言えるようになったら、もっと楽しく明るい職場になると思います。

特に、上司に褒められると、私たちの承認欲が刺激され、やる気が倍増することもありますので、店長、次長、どうか温かい目で私たちのいいところを探してみて頂けませんか?
私も、褒めて頂けるように頑張ります。』

と、このようなスピーチをしたところ、即座に店長が
『褒められない! こんなに売り上げが悪いのに、褒めるところなんかない! 褒めれば売り上げが上がるのか!』と、真っ向から否定されました。

少し前の私でしたら、頭に血がのぼり、大きな声で反論したかもしれません。しかし、その時は違ったのです。「前の心と後ろの心の存在」(※『反応しない練習』第2章)が意識できたお陰で、怒りに震えながらも、この店長を、哀れな人だなぁ、と冷静に見ていることができました。

しかし、その後に、あの時のことを思い返しては腹が立ち、あの人の部下である自分が情けなくなり、イライラしていましたが、『あ、これが記憶に怒っていることなのだ』と気づいてから、心を落ち着かせることができた気がしました。
>

この話題は、ビジネス系啓発書には決まって出てくる古典的なテーマですね。

「売り上げが悪いから、褒める理由がない」と、キビしくあたる上司――。

仏教的にいうと、こういう発想は、「目的」をかんちがいしているところから起こります。
「目的」は、まずは自分たちの職場を快適に過ごすこと。作業にきちんと専念して、できる工夫をして、まずは「自分たちの満足」を得ることなのです。そこが最初。

結果的に、その雰囲気がお客さんに伝わって、「活気があるな」「楽しそうだな」と感じて、「また来ようかな」と思う。その結果、売り上げが上がっていく、という、それが正しい成功の法則。

もっと言えば、売り上げが上がる・上がらないは、二の次。ほんとは、期待できることではありません。それは未来の領域。お客さんの領域だからです。

「売れる結果」が目的なのではない。プロセスそのものに納得ができること――それが絶対の基本。

私自身の持ち分でいえば、自分が納得できる、心のこもったよい内容の文章を書く。誇りに思えるクオリティを、編集者さんや、読者さんや、モニターさんのリアクションを通じて作っていく。こっちが基本です。

人間というのは、勘違いしやすいもので、つい「結果」、つい「自分」のほうを見てしまう。でもほんとはそうではない。むしろ、結果を捨て、自分をも捨てて、ただ目の前のモノゴトを、楽しみながらやる。楽しめるようにやる。そこに意識を集中して、結果的に「結果」がついてくる。そうなれるように、見るターゲット・心を向ける方向を、きりかえることがほんとは大事なのです。

今を見る。
足元を見る。

もっとも、勘違いしてしまっている相手に反応することは、なるべく避けたいですね。「哀れな人」「かわいそうな人」という見方も可能ですが、これはくやしさ(怒り)が作り出した「判断」です。怒ってしまったから、「慢」で反応して、相手を見下ろして、怒りを晴らそう、みたいな感じでしょうか。

できれば、とことん反応しないで、クールでいられるように頑張ってみることかもしれません。
 最終的には、人の心は人の領域。相手がどのような(愚かな)思いにとらわれていようと、それは相手の問題であって、自分には関係なし。反応しなければ、相手の思いは、相手だけが抱えることになりますね。

仏教の発想だと、相手に心を向けず(反応せず)、自分の役割に専念する。作業だけに心を向ける。
そして終わった後に「よし、自分の務めは果たした。お疲れさま」といって去っていく。そういうあり方が理想なのかもしれません。内なる誇りをもって。

おたよりお待ちしています。勉強してまいりましょう。
koudounosato@gmail.com
 
 
 

こんな本を作っていきたい (草薙龍瞬の約束として)

11月15日(日)
さて、これから送り出す本の話――。

本とは、そもそも何なのか。

幼い子供が絵本の世界に胸ときめかせ、想像の翼を広げ、自由自在に内面世界を広げていくように、

大人が読む本もまた、「自分のアタマ」以外の世界に触れて、人生の可能性を広げていくためのきっかけであることだろう。

絵や写真がある。言葉がある。知識や情報、ノウハウがある。

みなそうしたものを目にして、何かを感じて考えて、つまりは自分の心を使って、新しい体験をする。

本を読むとは、心を使うことだから、命の一部を使うことである。

そして、本を読むことで、心は変わる。ときに、人生そのものが変わることだってある。

私も、世界がひっくり返って見えるくらいの鮮烈な体験を、本との出会いによってしたことがある。一度ではない。「世界が輝いて見える」ことが、本当にあった。

それくらい、本とは大事なものなのだ。本とは、その著者の心の現われ。その著者がその心を使って、可能なかぎり最も純粋な――真心に近い――言葉を紡ぎだす。そうして生まれてくるのが本である。

その言葉に触れて、人は心を変え、人生を変える。

ある意味、生の出会い・語らいだけでは体験できない、心と心の交流。そして大きな変化や成長や発見や癒しやときめきがある世界。それが本の世界である。

ならば、本を送り出す側は、どういう思いで作っていけばいいのだろうか。

今の時代・今の世の中を生きる人々の心を、自分なりに感じながら、人々は何を求めているのか、どういう形・言葉・ビジュアルなら、その心に届くのか、誠心誠意考えながら、感じ取りながら、作っていくことになるだろう。

本に現われた言葉は、言葉を紡ぐ「著者」の心に、かぎりなく近い、しかも読み手の心に響く言葉であるべきだろう。

本作りの現場にいる人なら、時代や社会に寄り添い、著者の心に寄り添い、上手に励まし、インスパイアして、新しい言葉や表現が出てくるように同伴する。そういうクリエイティブでサポーティブ(後押しになるよう)な関係が、理想だろう。

ときおり心痛むのは、「著者」と「書かれた言葉」とがあまりに離れてしまっている本を見かけることである。これは、私自身が著者としてというより、一読者として感じ取ることである。どうにも著者本人の言葉とは思えない、だれか他人が適当に書いたような気配がありありと感じられる、そういう不自然な、体裁(うわべ)だけの本が、けっこう見つかったりする。

私はおそらく嗅覚が鋭いので――いや、でも本をよく読んでいる人、本を愛する人であれば、感じていることだろうが――、こういう真実味のない言葉は、すぐに伝わってくる。

「活字」というのは、個性を平坦にする魔力を持っている。お粗末な言葉でも活字にすると立派に見えてくる。内容が薄くても活字にするとちょっと深いことを言っているように感じられる。そういうマジックが、活字にはある。

ただ、さすがの活字でも、ごまかせない部分はある。それはやはり、中身の部分。もっといえば、誠意の部分である。

ノウハウ・知識・情報を伝達する本であれば、中身はニュートラルだ。誰が書いてもさして変化はない。むしろ「伝わる書き方」があっていい。「書き手」にも幅が許される。

あるいは、スポーツ選手のインタビューとか現地取材とか、その人・その現場を見て、感じて、書き手が自身の理解を言葉として書き起こす。そのことで、本人が書くのとは別の「真実」が見えてくる。その真実には価値がある。定評ある『Number』の取材記事なんて、すごい密度である。選手自身が書いているわけではもちろんない。しかし本人の肉声・息づかいまで聞こえてくる。もちろん、取材・執筆した人の名前はちゃんと入ってる。

ひるがえって、仏教・自己啓発の世界は、どうなのだろう。心痛む話題であるが、どれくらい、「著者」とされる語り手の本当の声が、活字という媒体から伝わってくるだろうか。その「著者」は本当に著者なのだろうか。

ただ「上から目線」で、あるいは聞こえがいいだけのパターン化された言葉で、あまり頭を悩まさずに書いてしまって(書いてもらって)、それで何かを著した気になっていないだろうか。

そうやって、人の心に届かないばかりか、自分自身の心が、真心が、痩せていく。そういうリスクを伴う作り方をしてしまってはいないだろうか。

活字であれ、語りであれ、どんな分野においても、大切なのは、自分自身の〝道〟である。自分は何をめざしているのか。何をもって「よし」とするのか。振り返って何が残ったか。何を残したか。そこに「誇り」「満足」が残るか――。

書き手たる者、真心こめて、誠心誠意、この本を手に取るだろう、時間という命の一部を捧げるであろう、読者のことを想い、だからこそせめて自分自身の精一杯の思いを紡ぐ――それが出発点であろう。それはプロとしての基本。まして仏教という道に立っているはずの者ならば、なおさらである。

もちろんそれは簡単ではなく、時間もかかる作業である。担当の編集者さんやその他の人たち――私であれば、読者さんや、里の活動・執筆を応援してくれる方々――の力を借りて、「どう書けば伝わるか」、工夫を重ねていく。それは誠心誠意の証である。そういう作り方で作っていける本ならば、世に送り出す値打ちがあるだろう。

どこからアイデアが生まれてもいいと思う。ただその最初のアイデアが、本という形をとって世の人々に送り出される過程には、やはり関わる人々みんなの情熱・夢・誠意がなくてはいけないだろう。ラクに走らないこと。自分がなすべき作業を、ひとに委ねないこと。むしろこれからまったく新しい本が生まれるのだという夢、プロとしての矜持を感じて、ときめきながら作ること。

でないと、本作りは、ただ売るための手段になってしまう。そうなってしまっては、本の世界の可能性が枯れていく。

本作りは、どこまでも人としての誠実さ、情熱、夢――がほしい。それが本を支える「命」ではないか。

私には今、いくつかの幸いな出会いがある。夢とプライドを持てる楽しい本作りができる環境に、ほんの少し近づいている気がする。なんとも、ありがたい僥倖である。

ただひとつ、自戒をこめて言葉にするなら、私は仏道というひとつの道を生きる身の上である。だから、「本を送りだす」ことが人生の目的ではないのである。本を送ることで、創り出すことで、誰かが少し幸せになってくれるかもしれない、この殺伐とした、放っておけば闇が支配してしまうような時代・世の中にあって、自分自身が真実だと信じるところを言葉にすれば、何か新しい価値・生き方・希望のようなものが生まれてくるかもしれない。そういう思いをこめて、「著者」という身の上を、「本を出しませんか」というお声を、つつしんで承っている。

もし願いがかなうなら、ここからまた本の世界にたずさわらせていただけるのなら、これからも、いろんな人たちと、本や教室や手紙などを通じて出会い、交流し、その中で見えてくる人々のいろんな思いを、自分なりの誠意・情熱・愛情、そしてブッダの教えをもって、本人の幸福に少しでも貢献できるような内容・文体・方法をもって、本という形に著していきたい。

だから、草薙龍瞬の本を読む人たちは、ここから先、「この本には、草薙龍瞬の〝今〟が、今の思い・誰かへの語りかけが、書かれているのだ」と思って、私の肉声だと思って読んでほしい。私は一言一句、自分の手で、心で、全人生をこめて、書いていく。

残された人生・時間の中で、どれだけ本という形で思いを伝えられるか、それは定かではない。

ただ音楽にたずさわる人たちが、そのときどきの場所・季節・時代・状況に応じて、発する音色が変わるように、本にたずさわる私の言葉もまた、その時々に応じて、生きているかのように変わっていくだろう。

ブッダの教えという〝本質〟は変わらない。大事なことは、本の中で繰り返し伝えたい。

ただ一冊一冊、そこにあるのは草薙龍瞬の「生きた」、最新の、正真の言葉である。そういうつもりで、本を手に取ってほしい。そして、残された時間を、本を通じて語らい、ともに生きていければ幸せである。

(来年3月、家族・親子に悩んでいる人に向けて、画期的な「ブッダの考え方」家族の悩み編、をお届けします。お楽しみに。) 

草薙龍瞬の約束として















Q&A 妄想は伝えるべきか?――「理解してもらう」のはどこまで?

●おたより
 『反応しない練習』(キンドル版)を読ませていただきました。
ここ10年ほど、マインドフルネスや座禅を実践しており、心が作り出す感情や考えを客観的に観察し、反応しない練習を続けてきました。草薙様の本は、マインドフルネスや座禅より、一歩踏み込んで、その反応の原因にまで触れているところが、とても勉強になりました。 ありがとうございました。

ただ1点、疑問に思ったことがあります。

「反応しない練習」の中で、「自分自身の感情、思い、考えを相手に理解してもらうこと。これほど大切なことはありません。」(キンドルの179ページ)

とおっしゃっていますが、自分の感情や思いなどは、たいていの場合、「妄想」もしくは「妄想」に基づいた「心の反応」ですよね。

特に「怒り」などのネガティブな感情や批判的な考え、また相手にしてほしいこと・ほしくないことなどを相手に伝えることは、単に自分の「承認欲」を満たす行為ではないのでしょうか? ですから、人は、悩んだときに、他の人に話を聞いてもらうと、気分がよくなるんですよね?

実は、先日主人のある行為に、心が反応して(怒って)しまい、辛い1~2日を過ごしました。でも、私は主人には、何も言わず、じっと自分の心の反応を観察し、その原因について考えてみました。

私の怒りの原因は、主人の行為ではなく、私の考え方(相手に対する期待、物事に対する良い・悪いなど)に原因があるのは百も承知していたからです。

勝手な妄想に基づいて反応している自分の怒りや思いを主人に話すべきだったと思いますか? 「相手に有益なこと」であれば、言うというブッダの教えと、相容れないような気がしてなりません。「家族」というテーマとして、多くの皆さんにも共通する問題だと思いますので、ぜひご教示いただけるとうれしいです。 


――とてもよい(=多くの人に役立つ)ご質問だと思います。ありがとうございます。(なおKADOKAWAさんから『反応しない練習』の続編として、もっと具体的で実践的な「心の使い方」の本をお届けいただく予定です。もちろん「二匹目のドジョウ」の類ではなく(笑)、メチャ新しいスタイルの、超役立つ中身になりそうです。お楽しみに)

一緒に考えてみましょうか。

「理解してもらう」ことが大事なのは、「よき関わりを作っていくため」です。まずは目的から入りましょう。

相手とよき関わりを作っていくためには、お互いの思惑・要求・期待・妄想による「不快な反応の応酬」は避けないといけませんよね。

でもときとして、関わりの中で不快なやりとりが繰り返されてしまうのはなぜか。それは不快な反応を作り出す「原因」があるからではないでしょうか。

問題は、「原因」は何か???というところです。

もし原因が、自分自身の一方的な要求・思惑・勘違い・妄想にあるとすれば、原因は自分の側にあります。このときは「よき関わりを作る」という目的に照らして、自分の中の思いを「リセット」してあげる必要がありますよね。(「自分がいけない(未熟・いたらない人間なんだ)」と判断するのではなく。自分を責めるのではなく、です)

もし一方的な思い――そこには「承認欲を満足させたい」(認められたい・認めさせたい)という欲求もあるし、こちらの勘違い・疑い・妄想もあるでしょう――が、こちらに湧いてしまったとしたら、そこは「正しい理解」に戻って、自分の考え・感情をリセットしなくては。これは、こちらの課題です。

その点で、ご質問のご理解は正しいと思います。もし怒りの理由が、相手の行動ではなく、こちらの一方的な思い(承認欲・あるいは妄想)にあるとすれば、おっしゃるとおり、確かに原因は、こちらの考え方にあります。勝手な妄想にもとづいて思いをぶつけることは、間違い。それは確かに「有益」ではありません。

ただし、もうひとつの「理解」を持っておく必要があるかもしれません。

それは、「一方的にこちらが原因を作っている」のではなく、「相手に原因がある」場合です。

「有益である(=役に立つ)」というのは、「相手にとって」だけでなく、「関わりにとって」という視点もあります。

二人の関わりにとって有益かどうか――その視点にてらせば、相手にやはり「理解してもらう」必要がある要素があります。

それは、不快感の原因となっている「行い」と「言葉」と「思い」という三要素です。

このうち、「相手の思い」(悪意とか傲慢とか)というのは、こちらが理解しようとすれば「妄想の領域」に踏み込んでしまいます。だから、なるべく避けるほうがよい。かわりに見るべきは、客観的に確かめうる事実であり、「関わり」を作っている要素である、相手の「言葉」と「行い」の二つ――そこに、自分が感じている不快の原因があるかどうか、です。

もちろん相手の言動に「不快」と反応するのは、自分の問題なので、「反応しないようにすればいい」と考えることは一見可能です。しかし、実際の関わりというのは、反応あって初めて成り立つもの。だから、「ムダな反応はしない」ことは大事だけれど(だから練習(笑))、反応そのものは必要。大事なのは「不快な反応の応酬にならない」そういう関わり方ですよね。

とすると、関わり方において、相手の言葉や行いが、ちょっと自分にとって不快を誘うような、ときにあまりに非合理・理不尽、「ひどい」と思ってしまうようなものである場合は、「わたしはあなたの言葉(または行い)で、こういうふうに感じた(反応した)のだけれど」と伝えることは、意味があることになります。「よき関わりのために必要・有益」ということです。

その反応を伝える――理解してもらおうと努力する――ことで、相手がどうリアクションを返してくるか。そこは相手の領域です。相手の反応は相手にゆだねること。

もし本当の信頼関係、愛情、「よき関わりをこれからも育てていこう」という前向きな目的を共にしている相手なら、きっと受け止めてくれるでしょう。「言葉」と「行い」に的をしぼって、改善・調整していくのが、一番建設的な、実りある関係なのだと思います。いかがでしょうか。

まとめると、

●一方的な妄想、怒り、要求というのは、たしかに間違い。それはぶつけてはいけない(ぶつけてしまったら、素直に謝りましょう)。

●ムダな反応はしないように心がけつつも、でも人間同士、ときには、行いで、言葉で、相手に不快な思いをさせてしまうこともあります。もし「行い」と「言葉」という客観的な物事によってそういう反応が生まれてしまったとしたら、その行いと言葉という「原因」は、正しく理解するようにしましょう。

その「原因」が自分の側にあるのなら、正しく理解する。素直に謝る。向こうから指摘してもらえたなら、「感謝」ですよね。

逆に、もし向こうに(客観的にみて)「原因」があるのなら、その「原因」にわたしは反応してしまったのだ、ということを「理解してもらう」ことです。

つまりは、①「内なる反応」と、②客観的な「行い」「言葉」とを分けて見る、ということでしょうか。

後者② は、自分の側の課題であるとはかぎらないのです。客観的に相手の問題であることもあります。区別する視点、は大事です。

ときどき、力関係のかたよった、一方の無理解がまかり通っている関係を見かけます。

聞く耳を持っていない親とか、一方が苦しんでいる夫婦の関係とか……。そういう関係には、たいてい、一方的な思惑・妄想・要求にもとづく「行い」と「言葉」とがあります。そこが原因なのだということを、客観的に突き止めることができるかどうか。

理解してもらえないことは、辛いのです。相手の「行い」と「言葉」で傷ついている。そのことは「理解してもらう」ことが大事なのです。

人によっては、「自分が我慢すればいいのだ」「悪いのは自分なのだ」と言い聞かせて、辛い思いをしていることがあります。そういう人は、ぜひ「不快な思いをしている原因は何か?」を冷静に考えてみてください。

相手の「行い」と「言葉」がたしかに存在するのなら、原因は自分ではなく、相手です。相手のどういう行い・言葉に自分は反応しているのか、「理解してもらう」ことは、関係にとって有益、大事なことなのです。

――ざっと、思い浮かんだことを挙げてみました。考えてみてください。

なお、家族のこと、人間関係のこと、「これはどう考えればいいの?」と思うことがあったら、どんどんお寄せ下さい。返事は(ほとんど?)できないかもしれませんが、必ず、メール通信やこれから出す本のなかで汲みとっていきます。 (今回のように、執筆の合間に気分転換に執筆?することもございます(笑))。

『反応しない練習』のラスト、「生きてまいりましょう」は、そういう思いで伝えました。これからブッダの考え方を、人生に、世の中に、もっと破格の効果をもって活かしていこう、という呼びかけでもあります。一緒に考えてまいりましょう。



思いをこめて言葉をつむぐ

☆アマゾンから『反応しない練習』朗読CDが発売になりました。著者・草薙龍瞬のメッセージを試聴できます(司馬遼太郎氏の下です)。ぜひ聞いてみてください⇒アマゾンAudible

11月10日(火)
こんにちは、草薙龍瞬です。

今、自室に「缶詰め」状態です(引きこもりとも言う?)。来年三月刊行予定の「家族」をテーマとする本の執筆が、本格化してきたからです。
全国から、いろんな方々からおたよりをいただいています。ご遠慮はいりません。思いつくままに言葉を書き連ねて、そのまま「えいや!」と投函してくださいね。

長く大量の、錯綜した記憶や感情や願いの「溜まり場」が、出てくると思います。

ご本人にとっては、「こんなの送っては失礼では?」と思う方もおられる様子です。でも私たちの関係には「ブッダの智慧」があります。複雑で混乱した想いの世界を、きれいに整理整頓して、解決の糸口を見つけだしていく。うけとる私のほうには、けして混乱はなく、ただクリアな心の眼で、どうしたらこの苦しみを「抜けて」いけるのだろう?というところを、誠心誠意考えていっております。

ほんとは、もっとお電話とか直接会って、お話しうかがいたいところですが、ここから先、かなり時間的にむずかしくなってまいります。まずは、おたよりという形で、お話しを聞かせてください。よい本にしたいと思います^^。

●最近のおたよりから

>「反応をしない練習」を拝読し、本当に救われました。暗いトンネルの先に明かりをみつけた心境でした。それは、草薙様の本を心から「ホンモノの本」だと感じ、そして「この教えに従って頑張ってみよう」と思えたからだと思います。

行間から草薙様の生き様を感じ、深い愛情を受け取りました。本当にありがとうございました。

また草薙様の他の本「ブッタの思考法でアタマすっきり! 消したくても消えない「雑念」がスーッと消える本」「悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法」も是非、拝読したいと思ったのですが、ネット書店では在庫切れ、10件以上、大型書店にも電話で問い合わせしてみたのですが「在庫がない」と言われてしまいました。

今、お手元に売っていただける上記の本はありますか?もし、お持ちでしたら、お譲りいただけますか。

――ありがとうございます。(今缶詰状態なので、おたよりは、とりわけ励みになります(笑))

最初の2冊は、私も持っていません(笑)。そのうち、タイトルなど若干変更して、リライトしたものを再刊できるかもしれません。そのときをお待ちください(私も待ちます(笑))。

●別のおたより(前回のメール通信について)

>あまりに真摯な内容で、私のチャラさをいさめておられるのかと、きゃあって、驚きました。サマネンちゃんの作者とはギャップがあって・・。

先生のご本は、やさしく、万人向きに書かれていますが、「言葉のブレがない」というのは、私も大昔は国語の先生でしたので、よく感じておりました。

それは、よほど勉強なさって、自分の論を練られて、生き方と重ねられて、深く落とし込んだ部分から発せられているためだろうと。

先生は35歳から今まで、どれほど苦労されたのだろう? どうやって生活されたのだろう?とかも、思いました。

――ありがとうございます。(今回は、著者寄りの話題となってしまい、多少恐縮を感じていますが)こうした著者の「人間」に向いて下さる感想も、個人的にはとてもありがたいです。理解してもらえる、というのはありがたいこと。

たまに、とっても厳しめのメール通信をお送りすることがあります(最近登録された方々は、びっくりするんじゃないかな~と案じつつ)。

ただその厳しさというのは、(いうまでもなく慢による言葉ではなく)透徹たる「正しい理解の眼」に立ったときにおのずと立ち上がってくる厳しさだろう(そう受け止めてくれたら幸い)と、思っています。

特に〝禅の言葉〟というのは、本来は、人間の心の曇り(煩悩と呼ばれることもあります)を一掃、一刀一断する強さ、鋭利さを持っています。自然と威儀(≒心の折り目)を正して、心が洗われていくような――。

だから、禅の言葉を扱った本というのは、それこそ読み進めるにつれて、心が凛とひきしまって、無色澄明になっていく、そういう妙力(≒不思議な力)を持っているものと思っています(本来は、です)。

仏教が目的とする「さとり(正しい理解)」というのは、不思議な境地です。相手・状況に応じて、かぎりなく優しくなることもあれば、切れ味するどい名刀のような鋭利さ・明快さを持つこともある。前回お届けした禅的言葉は、後者の例。仏教には、さまざまな文化・スタイルがあります。

面白いのは、原始仏典にみえるブッダの言葉もまた、ときにやさしく、あたたかく、ときに熱く激しく、ときにあまりに厳密・厳格に聞こえることがある点。ブッダという人は、(私以上に(笑))、妥協・迎合なく、「正しい理解」に立っていた破格の知性の持ち主だったようです。だから、その言葉にも、いろんな内容・姿が現われる。心とは、面白いものです。関わりによって、さまざまに姿を変える。生きている。

●「道を生きる」というのは、ときに辛く、寂しく、孤独なものです。私も人間として、長い間実感して生きてきたから、そう思います。

ただ、長い歳月を迷い・苦しみの中で生きてきて、「もうこれ以上、この生き方をつづけていてはいけない」という思いが募って、あるラインを越えたときに、「私はこの道を生きていかねば」という覚悟みたいなものができるような気がします。そのときに真実の道=生き方が見える。「出家する」とはそういう覚悟に立った上での儀式なのかもしれません。

と言っては、世俗から離れた特殊な生き方に聞こえてしまうかもしれないけれど、でも「心という聖域」に、きちんと自分なりの価値・考え方・心がけを置く、というのは、誰にとっても意味あることではないでしょうか。

「気づき」をもって心を見ること。慈しみを念じること。「苦しみは正しい方法――道――によって越えられる」という信頼を持つこと。こうしたことは、今生きているこの日常において、可能なはず。それぞれが心の中に「道」を持てるように、学んでいこうではありませんか。

(おたよりの続き)
>怠け者な私ですが、「雨天の友」で、ずっと応援いたしますから、ひきこもりの大将として、どうかめげないでください。

とことん嫌になったら、インドの幼稚園やお寺に行って、帰ってこないという手もあります。自由でいらっしゃってください。

――ありがとうございます。どこで生きていくことになるかは、因縁によることになるのでしょうね。正直、いつこの人生が終わるかもしれない(つまり、今回の本がみんなにお届けできる最後の本になるかもしれない)、いつインドのほうに命尽くすことになるかもしれない、という思いはいつもあります。せめて、人々にベストの誠実さを保って参りたい。苦労性といわれようと(笑)、もっとラクに生きたら?と突っ込まれようと(笑)、これが出家の生きる道、この命からかの命に向けて、次の本、わかりやすく、あたたかく、情感のかぎりをこめて、お贈りしたいと思います。ひきこもり大将としてがんばります(笑)。

そろそろ、お気楽りゅーしゅんに、戻ります(笑)。







久々の?Q&A 何事も「目的」から考えよう

こんにちは、草薙龍瞬です。

今朝の朝日の朝刊、ご覧いただいたでしょうか。ようやく出版社さんのお役に立ってきているようで、安堵しています^^。

そしてますます多くの人にブッダの教えを知っていただいているようで、善きかな、善きかな、と感じています。

台湾、韓国、マカオ、香港その他で翻訳出版が決まりました。将来的には「英語圏」が目標。宗教としての仏教ではなく、合理的な思考法としてのブディズムは、 今の時代に普遍的な価値を持つだろうと思うので。ブッダの教えを、宗教としての仏教から解放させたい。だって人間の幸福に役に立っていない(機能不全に陥っている)ように思うから。もちろん、その先には(来年1月に再訪する)「インドでの仏教復興」という大きな目的があります。

多くの方からご感想やご相談のお便りをいただいています。

明日(11月3日)の坐禅会と夜の学習会も、お時間あったらぜひいらして下さい。講座に関連したご質問を今回は取り上げましょう。

>草薙先生 
2ヶ月前に、たまたま書店で、先生の御著書に出会い、今まで自身が購入してきた仏教の本とは全く違うことに、 衝撃を受けた者です。
今まで、たくさんのお経の本や、別の方の初期仏教の本など買ってきましたが、 心の安寧を得られたことはありませんで、 煩悩が多いから自分はダメなのかと、諦めかけておりました。
先生の本は、温かみがあって、立ち読みするには、あまりに勿体ないので、早速、3冊購読し、理解しようとしているところです。(略)

Q1 日程によって、会の長さが2時間、2.5時間、3時間とありますが、内容に違いはございますでしょうか? 初心者は、3時間のほうがよろしいものでしょうか?

A いえ、内容は同じです(毎回話題はちがいますが、説明する座禅のイロハの部分は同じ)。
時間は気になさらないでください。日曜午前は2時間、夜だと3時間弱ですが、どちらもあっという間です。(夜のほうが今後はお茶会などがあるので楽しめるかもしれません)

Q2  途中で、お手洗いなどに行ってもよろしいでしょうか? 以前、原始仏教の権威とされている、ある外国人の長老のワークショップに出席しました際、 3時間でしたので、上述の医学的な理由で、 複数回、離席せざるを得ませんでした。しかし、その長老が、突然、私を指差し、「そこのあんた、今まで、人生、何ひとつ身につけてこなかっただろう。どう せ、いいかげんに生きてきて、 仕事もろくにせず、職を転々としているだろう」 と、怒りをぶつけてきました。(略) 私以外の方では、座り方が悪いとのことで怒られた方が複数、おられました。怒らないことという本を書いておられるよ うな、その長老が、あまりに怒っておられたので、 「途中で席をたつことは、もしかして原始仏教では、何か失礼にあたることだったのかもしれない。」と、不安になりましてお尋ね申し上げた次第です。

A デリケートな話題を含んでいるので、当たり障りのない?ところを申し上げますね。

結論からいうと、私の教室は、遅れて来てもいいし、途中退室でも、何度外に出ていただいてもよいです。

遅れてきた人には、「いらっしゃい」。何度も出入りしている人には、「大丈夫ですか?」と聞いてます。具合悪いのかな?と。

もちろんご事情教えてくれるのが一番わかりやすいですね。ともあれご安心ください。

ちなみに、頻繁に出入りすることは、原始仏教に照らしてというより、ひとによって反応してしまう方はいるでしょうね。
ただ、仏教というのはつねに「正しい理解」から入る――誤解・思い込み、慢による反応ではなく――ので、「大丈夫ですか?」という言葉が正解に近いのでは(慈悲+正しい理解)。ちなみに「いらっしゃい」は、個人的なノリです(笑)。

私も、勘違いする可能性はつねにあるので、気をつけます。

●ちなみに、興道の里で受け入れられないのは、教室で吸いたてのタバコの臭いをさせていたり、スマホやゲームを(必要なく)いじっている姿です(さすがに後者はいませんが(笑))。

学ぶという目的に照らして必要なこととそうでないことの見分けをつけるところから始めましょう、という意図です。

きちんと、「目的」から合理的に、なすべきことと、なすべきでないことを分けるというのは、ブッダの「正しい思考」の一つです。

ちなみに「坊さん」もまた、人生の目的に照らして、すべきことと、すべきでないことの峻別をつけなくてはいけない身。

もし「悟り」なる境地をめざして修行したいというなら、家族を持つことはできない。しばらくはめっちゃハードな修行に専念しなくてはいけないので、ムダなことには手を出せなくなります。難関試験合格をめざす受験生と同じです。

また、ひとの幸福のために身を捧げたい、という動機をもって生きる人もまた、「自分のためだけの」行いをしてはいけない、という戒を持つことになります。

だから、お酒も、タバコも、家庭も……その他もろもろ社会的な営みは、自然に選別されていくことになります。そうした生き方を一生続けるかどうかは、人それぞれでしょうが――でも、「目的に照らした」生き方の構築、という作業・視点は大事ではないかな。

「この行いは、自分の目的に照らして必要か、有益か(役立つか)」という視点。「気づき」の一つかも。すると、徐々にムダな物事は減っていくはずです。

その点にてらして、目的に無自覚な、名前・肩書だけの「お坊さん」は、本当はお坊さんではないし、誰の幸福にも役に立たない、理屈やおまじないめいた儀式だけの「仏教」は、仏教でもない。

どんな立場・身の上であっても、
あ くまで、おのれにとっての目的は何か? そのための正しい方法を「生きている」(心がけている)か? という点だけが「本質」ということになります。これがブディズム――ブッダの思考法――。今回の『反応しない練習』でほんの少し、その一端をお伝えできたようで、ありがたく思います。

ちなみに、「必要か、ムダか」で私が悩むのは、充実した講座のあとや相談に来た方が元気に帰って行ったあとの、「ジョアによるひとり晩酌」です。

1本に留めるべきか、(大人買いして?)2本いっちゃっていいか、でほんの少し悩みます(笑)。

結果的に、2本呑んだことはございません。貪欲だなと思うし(笑)、あれは1本をちびちびチューと愛惜しつつ味わうのが快だからです。なんちゃって。

Q&A、まだあるので、追ってお届けします。
ではよき祝日を。
草薙龍瞬でした。