仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
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●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

一年御礼!興道の里の2015年を振り返る

12月30日
こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ2015年もあと1日となりました。

みんなすっかり「巣ごもりモード」でしょうか。

家族で年を越すのも、ひとりで年を越すのも、乙なものです。

心を心機一転するのは、ブディズムでは一瞬一秒で、いつでもできるはずですが、社会全体がリニューアルするというのは面白い発想。年が明けた!感をそれぞれの場所で楽しみましょう。

●心を入れ替えるには、「21日間」ひとつのことを願い続け、実行しつづけることが効く、といくつかの本の中で読んだことがあります。私自身の体験だと、約ひと月、目覚めている間ひとつのことを念じ続けると、たしかに意識が根底からひっくり返っていきます(私の場合は、瞑想修行のときにそんな体験をしました)。

だから、元旦から21日間、「こうなりたい」と思う自分を思い描きつづけるとか、悲観的な人は、「自分はできる」とポジティブな判断を繰り返すとか、心にスキなく念じ続けると、意識は変わっていくかもしれません。

●ちなみに、受験生などから「ヤル気が出なくて困っている」なんて質問を受けることがありますが、ヤル気を出すのに根拠はいりません。「やる!」と今この瞬間に決意して、そこから先は余計な雑念を入れないようにすれば、それで解決です。

やるかやらないか。向こう岸に跳ぶか跳ばないか。結局はそれだけです。雑念に気を取られている(自ら使っている)うちは、人間変わりません。でも変わることに根拠はいりません。「余計なことは考えない」(集中する)しかない。これは決意の問題です。

決意したら、過去は吹っ飛びます。どんなに過去負け続きでも、「ここから先」は関係なくなる。それくらいの「切り替え」が、ほんとはできます。開き直ること。ある「一時点」から先は、その思いだけに集中特化すること。決意次第で可能です。

ということで、新年どんな決意をして21日間実行するか、考えてみてはいかがでしょう。

私はひとまずあと2週間は、今いただいている本の執筆に専念します(笑)。書きまくりの行(ぎょう)に突入します。

◎興道の里の1年を振り返ると――

★1月 インドツアー敢行! 

2017年に第2弾を実施する予定。仏教・生き方を真摯に学ぼうとする人のみの限定ツアーにします。まずは仏教を学んでくださいませ。その上でぜひ一緒に仏教の最前線を目撃しに行きましょう。

★7月末 KADOKAWA『反応しない練習』全国発売 

おかげさまで多くの人に支持していただきました。本というのは真心入ってナンボのもの。これからも心を尽くして良質の本をお贈りしてまいります。

★7・8月 初の全国行脚! 

福島、宮城、岩手、山形、群馬、埼玉ほか、北日本を主に廻りました。素ン晴らしい出会いと美しい景色。新しい人たちと仏道を分かち合うことができました。 やってよかったです。旅先で出会えた方々、今もご縁いただいている方々、どうもありがとうございました。

2015年夏も実施します。特に西日本・四国・九州の方、ぜひご準備下さい。

★神楽坂を拠点として、巣鴨、池袋、二子玉川、たまプラーザでの仏教講座&禅教室も無事完遂。

★そして出家の本道である法事の機会も授かりました。仏道というのは、己の修養に努めることと、人さまの役に立つことの二つに尽きますので、「機会下さる」こと自体がありがたく。どこまで、何か幸福に役立つことを差し出せるか、「働き」を果たせるか。それが僧にとっての「布施行」です。来年も謹んで頑張りたいと思います。

★来年は、いよいよ海竜社さんから家族論の本が刊行になります。人を苦しめる・家族を苦しめ合う原因としての「業」――人生を支配する力――を解き明かす。そして悩ましい関係に「希望」を見出す。新しくて難しいテーマです。そこをわかりやすく、役に立つ形で表現することが今回の任務。いい感じで仕上がってきているので、お楽しみに^^。

そして4月にはKADOKAWAさんから第2弾を出していただく予定です。今度のはかなり実践的で具体的な「練習法」(心の使い方)の紹介です。つきましては、

★『反応しない練習』を読んで「こういう仕事・生活の状況だと、どうすればいいの?」という具体的な疑問が出てきた人は、ぜひメールでお便りください。koudounosato@gmail.com 本の中でお答えしたいと思います。

――仏教はもっともっと、人々の役に立ちます。〝目覚めた人〟ブッダの破格の知性にもとづく合理的な「苦しみから抜ける方法」を、ごまかしのない言葉でお伝えしていきますので、ぜひご同行下さい。
ということで、一年お世話になりました。ありがとうございました。

ダンマ(幸せへの方法)とともにあらんことを! May the Dhamma be with you!


年の瀬のご挨拶&最近の話題「お坊さん便 アマゾン対全日本仏教会」について

12月27日(日)
こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ、みなさん年越しモードに突入されたのでしょう!

一年、お疲れさまでございました。みなさま、よう頑張ったのですね! めでたい、めでたい(?)。

●私は昨日26日で「講座納め」でした。一年の間、いろんな場所でいろんな方々と巡り逢えました。よきご縁をいただきました。

12月23、25日の年納め仏教講座・クリスマスバージョンでは、懐かしの人たちも来てくれました。久しぶりに再会できるのも、無上の喜びです。

この場所は「仏教の本質」を学ぶ場所ですので、形はいろいろあっていい。「メリークリスマス!」とお便りくださった方々、ゼンゼンOKでございます。

●「仏教の本質」といえば……最近、アマゾンが始めた「お坊さん便」――法事葬儀に一律金額でお坊さんを派遣するサービス――に全日本仏教会が猛反対しているとのニュースが、朝日新聞他に載っていましたね。

彼らがいつも言うのが「宗教行為をビジネス化してはいけない」ということ。

しかし、「宗教行為」と「ビジネス」というのは、まったく別物です。ビジネスというのは、

①対価を交換して、それぞれの活動を支える(これは双方に利益のある純然たる取引行為)

②過剰な利益を追求して、一方の側に受け取る価値以上の損失・出費がある

という二つの可能性があります。①は公平(フェア)で、②はやりすぎ(一方の貪欲が通ってしまっているシステムそのものに問題あり)。

もし「お坊さん便」が、①のフェアな取引であるなら、今や都市人口が増えて、昔ながらの檀那寺を持たない人にとっては、価値あるサービスになる可能性がある。

坊さんもその機会を活用すればいい。生活を支える経済活動そのものは、けして否定すべきものではない(むしろ不可欠)。

●最大の問題は、全日本仏教会の主張である。「宗教行為だから」と語りつつ、

○では、宗教行為とは何なのか?
○現在、仏教界で行なわれている寺・僧侶たちの活動(法事も含め)のどこに宗教行為としての意味・尊さがあるのか?

がはっきりしない点。

全日本仏教会は、「布施」は「六波羅蜜」(悟りに達するための六つの修行項目)の一つだから、ビジネスにしてはいけないという。

しかし「六波羅蜜」は、「僧侶にとっての」修行項目だ。僧侶たち自身が自らの修行として率先してやるべきもの。別に悟りをめざしていない市井の人たちに 「布施は修行だから、それをアマゾンなんぞを介するのはダメ」とはまったく言えない。主張がズレている。つまり彼ら自身が「布施」とは何か、「宗教行為」 とは何かが、わかっていないような印象を受ける。

だから一般の人たちがモノ申すとすれば、
「それ(修行としての布施)をやらなくちゃいけないのは、あなたたち。私たちは、葬儀・法事を、もっと心ある形でやってほしいのです。当たり前のように「布施」を求めてきて、何に使っているのか定かでなくて、その額もはっきりしなくて、ウチの田舎のお寺みたいに行事ごとに多額の布施を求めてくるというのは、納得いかないのです」ということだろう。

別に、法事の機会がネット上のシステムで生まれたって、そのこと自体が「宗教行為」を害することにはならないということだ。

もちろん数ある「商品」の一つにしか見えない今のサイトの作り方は、さすがに「世も末」というか、もう少し「宗教行為」面への敬意・配慮が欲しい気もする (笑)。法事には「ただのビジネス」ではない面も、というかそちらの面の方が強く、厳然としてある。そこを軽薄化してはいけない。「冒涜」というのは、ときにそういう思慮の不足から来る。

●今回の騒動の一番の問題は、仏教界が、ふだん自分たちが行っている法事・行事・その他僧侶たちの行い・生活が、あまりに「宗教行為」からほど遠いこと。それを自分たちが自覚していない点にある。

布施? 六波羅蜜? それを真摯に実践している僧侶たち(これは、あくまで僧侶の側の問題であって、市井の人は関係ない)は、どれくらいいるのだろうか。

彼らは二言目には「宗教行為」と語る。しかし、今の日本仏教界――寺をマイホームとし、ビジネス界以上の恩恵をこうむり(宗教法人は無税だとか)、酒・タバコその他「修行にまったく関係ない」物事に手を出して平気でいる僧たちのコミュニティ――に、その意味を知っている(真摯に受け止めている)人が、どれくらいいるのだろうか。

ちなみに、「宗教行為をビジネスにしている国は他にはない」とも全日本仏教会は主張している。だが、「ビジネス」に乗っかっているのは僧侶たち自身である。もし反対するなら、「お坊さん便」に登録している僧侶たちにモノ申すべきではないか。

●「宗教行為」は、経済活動では、けっして生み出されないものだ。

ひとの喜びと悲しみを思い、慈しみをもって、何かしら人の幸せに役立つ働きを果たすこと。

あるいは自身の心の清浄と、苦しみからの解放、世俗の世界にはない目的をめざす生き方のことだ。

そうした生き方・営みを、現実の世の中で、悩み葛藤しつつ、追求していくこと。「宗教行為」と訴えたいなら、まずそこを自らの行いをもって果たすことが先決になる。

もし僧侶たち、あるいは仏教界が、ビジネスや世俗の活動とは画然と違う、人が心洗われるような、あるいは死者を弔うことの本当の意味を感じとれるような、 人々が世俗の価値観や自らの生き方をふと問い直したくなるような、そういう真摯・誠実・真剣な活動を、「法事」という場で共有できれば、「宗教行為としての面を大切にしてくれ」という主張は、説得力を持つ。人々だって納得するだろう。そういう部分に、仏教に携わる者たちは努めるべきではないか。自戒もこめて、そう思う。

●重ねていうなら、「布施」は、僧侶たちが率先して行うべき修行の徳目(=働きを果たすためのメニュー)である。もし「布施」を求めるなら、「目的」を明示して、自分たちの身の上を支えるための「経済活動」とは別に募ることだと思う。もちろん最低限の「戒律」(自制)を保っていることが前提だろう。

心ある人たちは、そういう真摯な目的に共感して、そして僧たちの慈悲の思いに慈悲をもって感じ入って、できる協力をするだろう。それが「布施」である。

つまり「布施」を主張するなら、主張するに足る身の上を示さなければいけないということ。そこがはっきりしないかぎり、人々は納得しない。似たような話題はこれからも出てくるだろうと思う。

時代に振り回されない、これぞ仏教、これぞ道に立つ者と思える中身を、しっかり鍛え上げることか。謹んで精進したい。

――と、余談が膨らみすぎてしまいましたが、みなさま、よき年の瀬を!

一年、ありがとうございました。

草薙龍瞬敬白合掌



もうすぐ、インドへ


インド現地で配っているチラシだそうです
12月18日
師走も終盤、お元気でしょうか。

今日、インドゆきのビザ申請に行ってきました。毎回、通るかどうかドキドキします(笑)。

インド行きは、来年中旬から。行き先は、「龍の街」ナグプール(Nag=龍、pur=都・街)から車で一時間ほどのウダサ村と、その近くの広大な土地。

ウダサ村には、私の同士である地域の活動家たちがいます。そして創立6年目になる幼稚園も。

さらに、地元篤志家から寄進を受けた土地に、お寺の建設が始まっています。今回はその敷地でのスピーチがあります。前回以上に人々が集まると青年たちは言ってます。「一万人」とか(笑)。インド人がいう数字はたいてい数倍水増しされているものだけど。

私の役割は、その新築寺院の住職兼、地元の仏教徒たちを励ます役割――そもそも人として何が大切か、本来のブディズムとはどういう思想か、そして彼らアウトカーストのインド人たちを仏教に改宗したアンベドカル博士が何をめざしていたか、を改めて自覚するためのスピーチをします。

日本での活動とはまた色合いが違う。日本ではクール(ある意味、ライト(笑))ですむけど、インドでは熱血&重量モードにならないと、人々は感化されない。インドでは自分比1.5倍くらいに「熱度」が上がります。とにかく真剣モード。年に一度くらいしか今はインドに行けないので、その分、密度を上げないといけません。幼稚園のこと、お寺のこと、仏教のレクチャーや、活動家・地元の要人の人たちとの会合など、やることはたくさんあります。

自分の体力、というか心の熱量が試される場所です。覚悟していかねば、と毎回思います。

次回は、またインドツアーを組んで、日本の人たちを案内できればと思います。

とりあえず、23日と25日が、年内最後の仏教講座です。どんなテーマになるかはお楽しみに。お時間あったらいらしてください。


最近嬉しかったこと

神田・三省堂 表通りのウィンドウです
12月13日
●来年3月に出る新刊の原稿が、ほぼ完成に近づいた。最初に担当編集者さんに見てもらうときは、ドキドキである(笑)。しかし、はよ感想を聞きたくてウズウズもする。おほめの言葉をいただければ、よかったと素直に思うし、厳しいご指摘を受ければ、それもまたありがたいと思う。上々の反応をいただき、まずはひと安心(嬉しいときは素直に喜ぶのもまた仏道である^^)。

そして、前作と同様に、モニターさんに見てもらった。それぞれに目のつけどころがちがうので、予想もしなかった指摘をたくさん受ける^^。これがめちゃくちゃ勉強になる。

今度の本の目玉は、「親の業を知る」ための診断テスト――ちょっとおちゃらけて「業占い」と名づけてみたのだが(以前流行った『動物占い』っぽく)。でも本屋で立ち読みする人は、「占いの本」をイメージして、離れてしまうこともあるのでは、という指摘があった。たしかに。なるほど~である。

またこんなコメントも――多くの人は、書店での立ち読み時も含めて、「じっくり読み込む」というより、日常の忙しい合間に「目を通す感じ」。仏教にはほとんど興味のない人も多い。そんな人たちが一回読んでスッキリできるくらいのわかりやすさが必要とのこと。これもなるほど~である。

その他、いろんな感想・指摘・ツッコミをもらった。いや、ありがたい(笑)。

著者が何より幸せなのは、「世界最初の読者」である担当編集者さんから直接感想を聞けること。そして、ある意味、本と離れた日常を生きている読者さんたちの感想やリクエストを聞けること。感想や相談のお便りもいただく。これらすべてがありがたい。

こうしたやり方で作っていけば、確実に本の中身はよくなるだろう。血が通う。ある意味、スタジオにこもりっきりでスタッフさんとやり取りしながら収録する音と、ライブ会場での熱と情のこもった音とがミックスされてひとつの音になるような? そんなの、CDにもないかもしれない(笑)。本だからできる、否、担当編集者さんと興道の里のモニターさんとがいてはじめてできる、執筆スタイルである。このスタイルを今後の定番としたい。

●来年3月に出る新刊(海竜社『家族○○○○○○○』)では、

☆親子・家族に悩んでいる人たちに、その悩みを上手に解決するブッダ流の道すじを紹介する。

☆解決のカギは「業を知る」こと。業とはいわば、「心の中のこだわり・とらわれ」――怒りや支配欲や過剰な期待など、その人の心を支配している思いの数々のこと。それが親の性格・しつけ方に出る。子どもはモロその影響を受ける。

☆だから、「親の業」がわかれば、親がどんな人間だったのかわかる。自分が親からどんな影響を受けているのもわかる。「自分の業」がわかれば、「なぜ自分はこの人生を生きているのか」「いったいなぜ同じ問題・悩みを繰り返しているのか」がみえてくる。

☆それは、悩みの「原因」がよくわかるということ。原因がわかれば、「解決する方法」もわかる。「同じ悩みを繰り返さないために何が必要か(対策)」がわかるし、「こういう業のタイプの親と、どうやって付き合えばいいのか」あるいは「いっそのこと絶縁したほうがいいのか」といった長年のテーマにも、答えが出る。

これは画期的な「家族が抱える悩み」への対処法だ。職場などでの人間関係にも応用がきく。

●一般に、家族をテーマとする本は、精神科医の「分析」や、作家・エッセイストの思い出話や意見など「個人の思い」を語っていることが多い。

それで部分的に「わかった」と思える人や、「わたしも同じ体験をした・同じ思いでいる」と溜飲を下げられる人はいるかもしれない。

しかし、「家族一人ひとりの生き方」「家族との関わり方」を、実践可能な「方法」としてまとめた本は、あまりないといっていいのではないか。しかも、ベースは仏教。ただし現実から遠い「お釈迦様の教え」ではない。ブッダのきわめて合理的な視点にもとづく、「家族の悩みを解決する方法」が語られている (自画自賛もまた仏道である……ことはない(笑))。

ちなみに「業」というのは、古い仏教では「前世のカルマ」として説かれる。しかし原始仏典のブッダの言葉は、もっと合理的で洗練された「この人生を作る原因としての、行い・言葉・思い」という〝三つの業〟を語っている。そこに「前世」も「輪廻」も関係ない。そもそも「悩みを解決する」のに必要なことだけ、効果的な方法で伝えるのがブッダの方法・スタイルだった――それを臨機説法・対機説法と、古くは呼んできた。

ならば、そのブッダ原初の「発想」にもとづいて、家族の悩みを解決するための「理解のしかた」だけを考えればよい。その目的に照らして、「業」のとらえ方・活かし方も「洗練」させるべきである。それでようやく人それぞれの「救い」が見つかる。

こういう発想こそが、ブディズム――ブッダの智慧――ではないか。誰も確かめたことがなく、また現実の問題を解決する上でまったく役に立たない「輪廻」「前世のカルマ」なる理解に、いったいなにゆえに執着しているのだろうか。非合理極まりない。

●今回の本で何よりうれしいのは、担当者さんとの二人三脚、さらには読者さんとのつながりをもって、チームで本作りができていることだ。プロセスに充実・喜びがない仕事は、きっとどこか動機を間違えている。プロセスそのものが喜びである、プロセスそのものに自分が求める「結果」がすでにある――そういう道(やり方)こそが、本当の道である。そういう道を、今回、歩くことができている。そう、こういう本作りがしたかったのだ。

こうした作り方で楽しく進めていって、充実感と達成感と、関係する方たちへの感謝をもって、世間のひとさまに成果を問う。成果が出れば「よかった」と喜びを分かち合えばいいし、そうでなければ「次の成果をめざしてまた頑張ろう」ということになる。大切なのは「結果」ではない。というか、正確には、プロセスなくしての「結果」など、求めること自体がおかしいのである。むしろプロセスそのものがひとつの「結果」であること、プロセスそのものが喜びや誇りであること。感謝があり、礼節がある。ひととして大切にせねばならない美徳がちゃんとある――そういうプロセスが大切である。

なるほど、道元が言っていた「修証一如」とは、こうした文脈でも使えるのかと腑に落ちる――修行というプロセスも、悟りという結果も「一如」、つまり一つ、同じである。分離してはいけない。悟りという結果だけを求めて、ただの手段として(苦痛に耐えながら)修行するのは間違いである。修行そのものがひとつの結果であること。修行というプロセスの中に、ひとつの結果、すなわち納得・充実がなくてはいけない。そのとき、「今歩いているこの瞬間」こそが、すべてになるのである。正しい道・生き方においては、先を見る必要は、もはやなくなるのだ。

今回の本は、とても楽しく、美しい道の途中にある。

このまま今しばらく歩きつづけよう。






本を出せる喜びよ

岩手から「ワンワンクッキー」(正式名称いぬぱん 村上製菓さん )いただきました!
ワンワン!(がんばります!)
12月8日
●文章執筆も大詰めを迎えている。来年3月刊行予定の新刊。

とてもいい感じで仕上がってきている(自分比)。新しさ、情感、方法のゆたかさ、そしてわかりやすく語られた仏教の本質、

そして、家族ゆえの苦悩から自由になること――その目的に向けての、正しい道のり、つまり「考え方」が見えてくる。そういう内容をめざしている。

『反応しない練習』も、素晴らしい作品にお陰さまでなったと思うが、今回の本も、色(スタイル)は違うが、かなりいい本になるように予感している。とにかく、著者なりの想いは入っているかな、という感じ。あとは、どれだけ読んで下さる人に届くか……。

文章を書くのは、本当に楽しい。「命を削っているのですね、お疲れさまです」とお気遣いのお便りをいただくことが多いのだが(そう聞こえるらしい(笑))、実際には「全身の細胞がピチピチ喜んでいる」状態である^▽^。たしかに心を絞って言葉を紡ぎ出すのは「行」[ぎょう]に近いところがあるが、けして殺伐とした過酷さはない。これで睡眠時間さえ確保できれば、究極の健康法ではないかと思えるくらいの快がある。

●最近、いい話をひとつ聞いた。

テレビキャスターを務める、ある超著名な方の話。編プロの人が企画を持ち込んで、資料を渡し、最初の原稿はライターが書きましょうかと持ちかけたところ、「一蹴された」とのことである。「自分で書く」と。しかもその中身が、やはりテレビの司会と同じくわかりやすいのだそうだ。けして他人には書けないわかりやすさがそこにある。本人だからこそ書ける奥行き、内容があるのだそうである。

ホンモノ、はやっぱり、ホンモノなのだろう。気骨がある。その世界に通暁している人間だけが持ちうる強みがある。その強みに達した人にとっては、他人の技など役には立たない。本人が作るほうが、中味があり、しかも早いのである。

めざすなら、そういう境地をめざしたい。そもそも、語るまでもないことで本来あったはずのことであるが。

●かつて、とある禅師はこう言った――「彼はこれ、われにあらず」

これは、中国・宋の時代にかの地に渡った道元[どうげん:日本曹洞宗の開祖]に、現地の寺の典座(てんぞ:寺の料理を作る係)が語った言葉である。

若き道元が、浜辺に買い出しに来た典座に出会った。本場中国の禅の話を聞きたい、今宵はぜひご教示いただきたい、寺の料理は若い衆に任せればよいではないですか、と言った道元に、「おまえさんは、禅なるものが何もわかっていないらしい」と一笑に付して発した言葉である。

他人に任せては、自身の道にはならない。
道に立たぬ者は、当然ながら道を失う。
道は、自分自身で歩まねばならない。

これは禅の世界の、そして仏道ほか、すべての「道」の基本中の基本である。

道元は、帰国後、己の道・生き方として「ただひたすら座れ」と説いた。

座ることのそのものが道、人生である。修行の道がそのまま悟りであるとも伝えた。

悟りと修行、結果とプロセス(過程)が、分離していること自体が、外道――間違っている――と、弟子たちを厳しく戒めている。それが禅の道――禅という道に立つ者の生き方――である。

禅の道をもてあそんではならぬ。道というからには、己自身がまず生き、学び、実践し、きわめ、その上で人々への慈悲の思いで、正真の言葉で、伝えていかねばならぬ。

その覚悟と、正覚(最高の理解)に立って、はじめて禅の言葉を語れるようになる。どだい素人には語りえぬ、そもわかりえぬ世界である。

今の時代、本質を踏み外すことは、難しくない様子である。そもそも禅とは何か、仏教とは何か、道とは何か、生きるとは何か、ひとに道を伝えるとはどういうことか、ことごとく忘れ去られた感のある時代である。

しかし、そうした時代に迎合するわけにはゆくまい。仏教という広大で深淵なる潮流を、穢すことなく、世界へ、次代へと伝えることが、すべての正真の仏者たちの使命であるはずだからである。

私にとって、仏道とはそういうものである。

決定[けつじょう]・草薙龍瞬


祈りをこめて

11月30日
来年3月出版予定の海竜社刊『○○(タイトルは秘密。家族ゆえの苦悩がテーマ(笑))』の原稿書きが佳境に入っています。

大体240ページくらいを想定。とりあえず2冊分くらい書いて、今ばっさりと枝葉を切り落としているところです。半分くらいまで。

私の本の書き方として、企画・テーマが決まったら、読者の人たちがどんなことを知りたいのか、考えているのかをリサーチします。で、目次や見出しなどをリストアップして、書けるところからメモ書きしていきます。全編バラバラの段階。

そこから、目次を構成しなおして、メモ書きを配置していきます。配置したメモ書きをその順序でプリントアウトして、それを土台にして文章を書いていきます。「読んで自然に心に入ってくるか」「聞くだけで理解してもらえるか」を理想としつつ――。

ひととおり文章を書きだしたときの分量が本2、3冊くらい。そこから「容赦なく(笑)」バッサバッサと切り落としていきます。パッと見て心に入ってこない、硬い表現はボツ。「生きてる文章」というのは、とても素直で、話し言葉に近いと感じられる、流れ、リズム感のある文章だと思う。もちろん全部とはいかないけれど、そういう文章がところどころ生まれてくると、書いていて楽しくなります。

目をつむって、心の内側を探って、言葉を紡いでいきます。そして、出会った人たち、まだ見知らぬ人たち、いろんな人たちのことを想いながら、ブッダが最後の旅で示したような「愛情と励まし」を込めて書こうと頑張ります。

本というのは、明日死ぬかもしれぬ著者にとっては、「最後の遺書」みたいなもの。真面目にそう思っています。悔いが残らぬように、思いのかぎりをこめて、その時点でのベストを出して終わりたいと思っています。

『反応しない練習』KADOKAWAを読んで、いろんなご感想・お便りを全国からいただいています。たいへん励みになるし、「衝撃を受けた」「こんなに読みこんだ本は初めて」という興奮の言葉を聞くと、贈りだせてよかったなぁと思います。

本というのは、中身だけでなく、タイトルや、装丁や、その他すべてに真心がこもっていることが、世に送りだす上での前提だと思っています。『反応しない練習』はその点で、すごく充実していました。これと同じくらいの完成度をもって、次の家族論も送り出したいと願っています。

「最後の遺書」(出せれば更新されていく(笑))のつもりで書いている人間って、どれくらいいるのだろうか。この私のせつなる思い、ぜひ大切にしてほしい。これは、私にとっては「祈り」です。多くの人たちに届くように。この時代、この社会を、それぞれに一生懸命生きている人たちに、ほんの少しお役に立てるように、心が明るくなれるように、工夫を凝らして自己ベストに挑戦して参りたいと思っているのです。

独りで書いていても、ひとりを感じない――そんな書き方をめざします。これからますます、いろんな人の感想・相談・質問を受けながら、この国のすみずみにまで届くようにと祈りつつ、みなさんと「一緒に」書いて参ります。

どんどんお便り、お寄せ下さいね!