仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

2016年最後の言葉〝慈しみを想う〟

12月30日――2016年最後の言葉として

【最古の原始仏典スッタニパータより】

慈しみを想う 

人生の目的をよく知る人が、
この安らぎの場所でなすべきことは、
次の通りです。

幸福に役立つ心の能力を保ち、
動じることなく、
人生の目的から逸れず、

言葉はやさしさに満ち、
心しなやかであり、
思いあがることのないように。

足ることを知り、
人に負担をかけず、

余計な物事を減らし、
簡素に暮らし、
体の感覚を穏やかに保ち、

物分りよく(素直であり)、
高ぶることなく、
人に求めすぎないように。

賢者たちが非難するような過ちを犯さないように。

生きとし生けるものが、

幸福であるように、

災いのないように、

安らかであるように。

いかなる生命であっても――

か弱きものも、
強きものも、
長きものも、

大きなものも、
中ほどのものも、
短いものも、

微小なものも、
巨大なものも、

目に見える命も、
見えない命も、

遠くに住む命も、
近くに住む命も、

すでに生まれた命も、
これから生まれようとする新しい命も、

生きとし生けるものは、
みな
幸せであるように。

どんなときも、
ひとを欺かないように。
軽んじないように。

悪意や怒りの思いで
苦しめ合うことのないように。

母親が、わがひとり子を命を尽くして守るように、

すべての生きとし生けるものに、

限りなき慈しみの心を向けるように。

上にも、下にも、横にも、
恨みや敵意といった
遮る思いのない、

開かれた心であるように。

立っている時も、
歩いている時も、
座っている時も、
横たわっている時も、

目覚めている間は、

この慈しみの心をしっかりと保つように。

これ以上の、
崇高な境地(心の持ちかた)はありません。

このように努めて、
誤ったものの見方に囚われず、
戒め・つつしみを保ち、

正しい理解につとめて、
求めるがゆえの不満から解き放たれた人は、

二度と
この命に
苦しみを宿らせることはありません。


――人生の・関わりの方向性をたしかめること。

その方向性にてらして、心の〝仕切り直し〟に努めること
(外れていないか、真逆の思いに執われていなかったか)。

ひとが静寂の中でなすべきことといえば、

正しい心がけに還ること。

あなたにとって、
新年が、よき一年でありますように。

草薙龍瞬祈念合掌
 
 
 

2016年お便り特集


12月25日
こんにちは、草薙龍瞬です。

昨日24日までのクリスマス特別期間(神楽坂も東武も東急も朝日カルチャーも)をもって、2016年の全講座が、終了いたしました。

今年は、法事も、個人相談も、夏の全国行脚も、その他の講演や勉強会も、さまざまな機会をいただきました。どれも、以前には想像つかなかった出会いがありました。「確実に前に進んだ」という方々とも、今年はたくさん出会うことができました(ここは『反応しない練習』ほか今年の本のおかげです。)

出会いそのものが可能性であり、そこで誰かが前に進めることも可能性。私がいちばん大事にしたいのは、その「よき可能性」です。その可能性だけをめざして、来年も精進することになるでしょう。

妥協はキライ(笑)。遊びもキライ(笑)。できることは、確実にもっとある。

だから、何を心がけるべきか――新年の抱負は何か――といわれたら、「緻密に」ということになると思います。可能性を広げたければ、「広く追いかける」というより、
「ていねいに、緻密に、正確に、ムダなく」ということになります。

これこそ、ブディズム的な成功の秘訣?です。(お参りに行ったら「緻密に」お参りするところからスタートしましょう(笑))

+++++++++++++++
◎おたより特集――今年送ってくれたお便り・感想から、最近のものをピックアップ。

○「今年は私にとって人生で2番目か3番目にたいへんな年でした。途方にくれて、でもとにかくできることをしながら、今日一日を生きていたような年でした。
先日○○美術館に行きましたら、アトリエに小さな額が。

善応諸方所(もろもろのこんなんに そうぐうしたとき もっともよきこたへがでる)

6月頃、反応しすぎなんだなーと気づいたら、目の前に『反応しない練習』が――こんどはこの言葉。びっくりしました。とてもうれしかったです。

というわけで、結局今年は忘れられない幸せな年になって暮れてゆきます。
人生は素敵です。ありがとうございました。」

○「神楽坂の教室、すごいですね。たくさんの人が集って、いろんな不安や苦しみを率直に話して・・・。
それだけ、自身が生きる道を探っておられるんだなと改めて感じ入りました。
その学びの場所が、神楽坂にはあるのだと、あたたかい気持ちになりました。

ブッダはすごいですね。
想像つかないほどの時代が流れているのに、現代に生きる私たちが生きる大切なことを教えて下さってる。
もちろん、直接はお聞きできないとしても、その間を取り持ってくださっている先生に感謝です。」

○「本日、座禅講座と仏教講座初めて参加させていただきました。
特に座禅は、今まで自分が行っていた瞑想方法がただの妄想でしかなく、
今回指導していただいて初めて、クリアな自分の心に集中してる感覚を味わうことができました。

私が実践していた瞑想法も、日頃の心の正しいあり方・使い方も、
すべて「真逆」だった事に気付くことができました。
全力で苦の方向に盲進してました…(恥)

今年一年、とても生きるのが辛くて暗中模索状態だったのですが、
そんな年の暮れに出会うことができて、本当に救われました。
これからも著書熟読させていただきます。今日はとても清々しい気持ちになれました。」

○「去年年末、自分にとって不快と思える状況があってモヤモヤグルグル闇路迷路で、どーすりゃ良いかわからず
今年正月2日、京都駅三省堂で“反応”に出会って新幹線で読んで

P31の“(ほんとに、それが一体何だというのでしょう)。”これにやられた!!!!

もう後ろから頭ブッたたかれてイメージとして入歯飛ぶみたいに、頭から雑念ぶっ飛びましたよ。関ヶ原のあたりで。犯人は承認欲か。慢か。ミツナリめぇ・・

あまりの衝撃で何度もその言葉繰り返して、放心状態でそれ以上暫く読み進められなかった。

で不安や妄想、欲はその後も頭をもたげて悩みは続き、その都度、反応読んだり、家族、修行と次々繰り出す先生の本はむさぼるように読んで

赤城生涯学習センターの前に4月2日、たちました。で、あまりの古さと昭和感、変な宗教だったらドーシヨーってもたげる妄想

で、やっぱ逃げるように神楽坂を飯田橋駅に向けて下りだしたら、咲いた桜が言うんだよ、「できることやんないのは、負け犬だ!って、それでいいのかっ!て」

で、春の生暖かき空気かき分け坂登って、戻ってB室。以下正解、大正解! 本や先生との出会いなければ、今、いなかったかも、私・・・。」

○イライラカリカリしたり、自慢したくなったり、こうでなければいけないと縛りつけたり、心はいつも忙しいけど、心はもともとそういうものだと理解して、感情の波に飲み込まれないように注意し続けること、心の反応や思考の繰り返しをとめるには感覚に注意を向けること。常に気づいていることは難しいけれど、マインドフルネスでいることが少しずつわかってきました。

1年前と比べると心の状態がとてもよくなったと思います。心の使い方の方向性が見えたというのは、こういうことなのかなと思いました。
来年も心の状態に気づきながら日々生活していきたいと思います(^^)。」


――みなさん、おたより・ご質問ありがとうございました。
 
ということで、2016年もいよいよ幕を閉じようとしています。いい機会なので、心機一転、手放せるものは手放して、新しい心がけで新年をスタートいたしましょう!

よき年越しを!
草薙龍瞬


仙台でクリスマス前夜祭?

12月13・14日 

◇16日午後7時の仏教講座(神楽坂)/◇22日午後2時の巣鴨/◇23日午後1時の坐禅会・午後6時の仏教講座/◇24日午後6時の仏教講座(23・24日はクリスマス&年納めスペシャル)――をもって、年内の講座は終了! その後は怒涛&沈黙の執筆行に突入します(はよ書き上げねば)。みなさん、よき年の瀬を!
○13日午後に、仙台到着。駅を出ると、凛と引き締まった冷気。仙台の人たちは、この空気を吸って暮らしているんだと思ってちょっと旅気分。

夏に出会ったHさんと再会。彼は、課題を抱えた十代・二十代の教育相談に長年携わっている。その彼がDJを務める地元FM局・FM太白【たいはく】のラジオ番組に、私を呼んでくださった。

この番組収録が、けっこう楽しく、かなり〝ゆるかった〟。何がゆるかったかといえば、まず収録場所がスープカレー屋さんだったこと。本日は休日とかで、お寿司の出前をいただいた(ここからゆるかった?)。

番組内のトークは、DJのHさんと、話し相手役をつとめる番組ディレクターNさんと、もうひとりの男性Hさん――共通するのは、悩み・問題を抱えた青年たちの相談相手を日頃務めていること。かなり真面目に教育の現場に携わっている人たち――との三人で進む。今回のゲストが私。世代も近いし、おそらく人間的に近い部分があるためだろうが、日頃とは違うカジュアルモードで楽しくおしゃべり(してしまった)。

この番組のゆるさを象徴していたのが、まとめ録りの4回目――私はすでにいない前提――のときに、3人のおじさんたちがおしゃべりしていて、「実は、草薙龍瞬さんも目の前にいるんですけどね~」と、ディレクターNさんがバラしてしまったこと(ええええええ~~~!?)。彼のことは、Hさんから事前に「真面目なノリを崩してしまう人」と聞いてはいたが、まさかここまで崩してしまうとは……。

「すみません、また草薙龍瞬ですぅ」とひとことだけ参加。で曲紹介へ(ゆるすぎる)。

今回は、『反応しない練習』KADOKAWAで出てきた、代々木公園の暴れホームレス男性の「その後」の話とか、上京した最初は神宮外苑をロッキーばりに朝ジョギングして牛乳パックを飲み干し、ひとりで勉強するぞと意気込んで図書館に通い始めたが、参考書の第一章で挫折して、フラフラと夜空の明るい方角に足を運んで、歌舞伎町にさまよいこみ、ダークサイドに落ちた頃の話とか、ふだんは語らないエピソードを、ゆるすぎる番組の雰囲気に任せてけっこう話してしまった(「なんだか、重大な戒律違反を犯した気分ですぅ(笑)」)。

興味のある方は、FM太白で毎週火曜午後2時半からやっている「自由学校に行こう!」を、12月20日、1月3日(その後も1月中は収録した話をオンエアする予定みたいです)と、聞いてみてください。

翌14日の午後は、地元の人たち――ふだんメールでやりとりしている人や、今年夏の全国行脚でめぐりあった人たち――とお茶会。ここ仙台は、人と人とが自然につながっている感じがする。今回のラジオ収録で出会ったお三人も、ふだんから仲いい友だちみたいだし、お茶会に来た人たちも、日頃つきあいのある人同士で、声かけあってきてくれた人たちがいた。

こうして出会えるのは、ブディズムをまじめに求め、学ぼうとしている、動機で通じ合っている人たち。これが楽しく、あたたかい。嬉しいつながりである。

帰り際にアルクというビルの展望階にみなで登った。窓をふちどるイルミネーションの向こうに、仙台の夜景が見える。ちょっとしたクリスマス前夜の趣。今回めぐりあえた仙台の人たちみんなに、心からありがとうである。

新幹線で帰京。2時間弱でついてしまう距離なのだが、ずいぶん遠い世界から旅して戻った気がする。あの街にも多くの人たちが(まだ見知らぬ人も、もう縁さずかっている人も)、そして仏教を求めている人たちが、生きている。旅情あふれる、暖かい二日間となりました。

よき年の瀬を。


親のつとめ、子のつとめ――京都介護殺人事件を素材として

こんにちは、草薙龍瞬です。

先週は、愛知にて病院関係者向けの講演会ののち、京都で打ち合わせ、その後大阪にいって子供たちと勉強会(国語(笑))、そして大阪近辺の「道の者」たち(仏教勉強中の人たち)と座談会をしてきました。お世話いただいた方々、ありがとうございました。どの場所も、とても楽しく充実したひとときでした。またやりましょう!

 今はふたたびヒリヒリモードに戻って執筆中。「これは面白くなるかも」と予感する部分もあれば、「これじゃ救われぬ」とひとり落胆することもあります(あえて反応、あえて執着(笑))。

というか、落胆は、そこで終わらずに内容アゲアゲ↑にしていくプロセスなので問題ないのですが(笑)。

苦しみで終わるのは執着ですが、そこから抜ける方法を実践し続けるのは、正しい思考(考え方)です。

正しい思考とは、よき方向性をみすえての、絶え間のない努力――プロセスへの集中・工夫――です。

+++++++++++++++++++

さて本題――先週の仏教講座で取り上げた、京都の介護殺人の話題について。

(◇部分は、ウェブ上の記事(デイリー新潮)。アンダーラインは、考えてみてほしいところ。私の言葉がそのあとに続きます。)

◇「地裁が泣いた介護殺人」10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末

一家は両親と息子の3人家族だった。1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症。10年後には週の3~4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。長男はどうにか続けていた仕事も休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが、「休職」を理由に認められなかった。

母親の症状がさらに進み、やむなく退職。再度の生活保護の相談も失業保険を理由に受け入れられなかった。母親の介護サービスの利用料や生活費も切り詰めたが、カードローンを利用してもアパートの家賃などが払えなくなった。長男は母親との心中を考えるようになる。

そして2006年真冬のその日、手元のわずかな小銭を使ってコンビニでいつものパンとジュースを購入。母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。やがて死に場所を探して河川敷へと向かった。

「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」という息子の力ない声に、母親は「そうか、あかんのか」とつぶやく。そして「一緒やで。お前と一緒や」と言うと、傍ですすり泣く息子にさらに続けて語った。「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」。

その言葉で心を決めた長男は、母親の首を絞めるなどで殺害。自分も包丁で自らを切りつけて、さらに近くの木で首を吊ろうと、巻きつけたロープがほどけてしまったところで意識を失った。それから約2時間後の午前8時ごろ、通行人が2人を発見し、長男だけが命を取り留めた。

◇京都地裁は2006年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡した。

裁判では検察官が、長男が献身的な介護を続けながら、金銭的に追い詰められていった過程を述べた。殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介すると、目を赤くした裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

判決を言い渡した後、裁判官は「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と長男に同情した。そして「お母さんのためにも、幸せに生きていくように努力してください」との言葉には、長男が「ありがとうございます」と応え、涙をぬぐった。

◇それから約10年後の2015年。毎日新聞大阪社会部の記者が、介護殺人に関するシリーズ記事の一環としてこの長男への取材を試みた。しかし……彼はすでに亡き人になっていた。

やがて判明した死因は自殺だった。

琵琶湖大橋から身を投げたという。所持金は数百円。「一緒に焼いて欲しい」というメモを添えた母親と自分のへその緒が、身につけていた小さなポーチから見つかった

厚労省によると、要介護(要支援)認定者数は620万人。要介護者を抱える家族が増える一方、後を絶たない介護苦による悲しい殺人事件。なぜ悲劇は繰り返されるのか。どうすれば食い止めることができるのだろうか……。 


――たいへん重たく、また気の毒な顛末です。なんとも、どうにかできなかったのか、と思わざるを得ない痛ましい出来事です。

この話題、まずは介護の現実への「告発」という形で取り上げられて、「同情」そして「行政対応の不備」という発想に入っていくのが、世間の声の主流のようです。

ただ、仏教的な眼でこの話題を見ると、いくつかの点で、きわめて奇妙です。というか、世間の反応、事件についての裁判官のコメント、さらには、殺された母親の最後の言葉や、自死を選んだ男性のふるまいにも、どこか見落としている大きな部分があるような気がします。

まず決定的におかしな部分――心中を決意して泣いている息子への「一緒やで」という母親の言葉です。この母親は、認知症を長年わずらっていたといいますが、その最後の行動は、「わしがやったる」と息子を殺そうというもの。これは、「認知の衰え」からのものなのでしょうか? そうは受け取りにくい部分があります。

母親は、息子を殺して、自分も死ぬ気だったのか。その可能性もありますが、正直、自分が死ぬ覚悟を決めていたとはなんとなく思えない部分があります。息子が完全に追い詰められて、仕事もなく、生きる希望も失って目の前で泣いている姿さえ、はっきり理解していなかったようにも感じられます。

もしかすると、自分は生きる(息子の人生は別として)、といっていいくらいの思いが、その心に蠢いていた……そんな印象を持つのはうがちすぎでしょうか。

○そんなことを思うのは、親の介護を理由に、あまりに過酷な日々を送っている子供たち(その大半は四〇代以上)の姿を見聞きするからです。

親が病弱、認知症、ひとりで暮らせない。だから子供が面倒を見る。面倒を見られる子供がいるのなら、という理由で、介護サービスは受けられない(あるいは、制限される)。子供は、面倒見ながらでも働ける仕事を、ということで退職して次の仕事を探す。あるいはパートに切り替える。しかし、介護の程度は徐々に重たくなる一方で、結局、パートさえおぼつかなくなる。気がついた時には、「身内」とされる子供しか残っていない……ことがけっこうあるのです。

すごく率直にいって、本当に介護が必要だったり、本当に病弱だったり、という場合ももちろんありますが、しかし現実の姿を見てみると、多少の違和感をいだくこともあります。

それはつまり、親の方で「子供がわたしの面倒を見るのは当たり前だ」という思いが、何となく透けてみえることがあるからです(もちろん受け手の印象でしかありませんが)。

もし、親の方で、子供に面倒みてもらうのは当たり前、という思いがあり、子供のほうに、親の面倒を見るのは自分の絶対の務め、という思いがあれば、親の側の事情は、まるごと子供に転嫁されてしまいます。

この介護殺人事件の中身を見聞きするにつれて、徐々に首をかしげざるをえなくなってくるのです。

もしかすると、この母親は、自分は生きる、そのためには子どもが犠牲になってもいい、という貪欲の業の持ち主ではなかったかと。

そして、子供の方は、その貪欲の業を刷り込まれて、幼い頃から「親のため」という価値観を刷り込まれて、何があっても自分が親を支えるのだ、という思いに呪縛されていたのではないかと。

○こういう関係は、この痛ましい事件の当事者にもし仮に当てはまらないとしても、世間には多いものです。そういう親の業――強欲だったり、自己中だったり、自分大好きで子供は二の次、三の次だったり、都合のいい妄想ばかり広げて子供をその内に取り込もうとあれこれと手を尽くして、その思いからちょっとでも外れると激昂したり、「誰のおかげでここまで大きくなれたと思っているんだ」と、過去をカサに着たりする、とにかく徹底して自分のことしか見えていない親――。

こうした親の業は、客観的に見れば、貪欲、妄想、慢といったタイプで理解できます(詳しくは『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』をご覧ください)。

ただ、親に愛されたい、わかってもらいたい、承認されたい、仲良くしたいという思いでいっぱいの子供、そして幼い頃から、親の業を、その無防備・無自覚な心に全面的に浴びて、刷り込まれてしまう子供にとっては、その親の業の深さ・問題が「見えない」のです。

まったく、見えていない――親の業が自身の苦しみの原因となっていることを。

そういうケースは、驚くほど多いのです。今現在、私のところに相談にくる人たちも、親のことは、見事に発想外――気づいていない――ということが、かなりあります。

○この母親は、ほんとはどう発想すべきだったか。まずは、息子の困窮をきちんと察すること。自分自身が負担・足枷になってしまっていることを感じとるべきでした。

そうしていたら、すまないとか、ありがとうとか、「私のことはもういい、十分だから、せめてあなただけでも生きていきなさい」という言葉が出てきていたでしょう。もしそういう言葉が出てきていたのなら、この事件は、悲劇であり、世の中の何かしらの不備が作り出した哀しい親子の結末、という扱い方も可能だったかと思います。

しかし、そうではなかった。ひとり十年以上も頑張って策尽きて泣く息子に対して、「一緒やで」「わしがやったる」でした。はて、どういう発想に立っていれば、こうした言葉が出てくるのか――。

この息子は、裁かれてのち十年経って、結局自殺してしまいました。しかも「母親のへその緒」まで後生大事に持って……。

裁判官が最後に訓戒した「お母さんのためにも」というのは、率直にいって、正しい言葉ではないと思います。もう十二分に、母親のために生きてきたのです。これから先は、ひたすら自分自身のために、もうなにも背負うものはないのだから、せめて生きられるかぎり、生きたいように生きていくように、そのために頑張っていくように、という言葉が、正解だったのではないでしょうか。

彼にとっては「自分のために」といわれても、戸惑うしかできなかったかもしれません。人生の大半を、母親とともに――おそらく一度も分離したことなく――生きてきたのです。それ以外の「自分のための人生」なんて、もしかしたら想像もつかないかもしれません。

ただ、だからこそ、戸惑いながらも、自分の人生を、自分ひとりで生きていく体験をしてみてほしかったと思うのです。その道のりは、タフで険しいものかもしれないけれど、でも生きていく価値はある。そのことだけは、誰かが彼に、伝えるべきだったという思いが残ります。


○人間と人間が関わるうえで基本となるもの――それは〝自立〟です。

自分の肉体、自分の人生は、最後の最後まで、自分自身で背負えること。せめてその努力をしようという思いに立てること。

もちろん、ひとは、ひとの支え・つながりなくしては生きていけず、こうして生きている今も無数の人たちの世話となり、犠牲や負担のおかげ・たまものとして生きています。つながり合い、支え合い、助け合うことこそが、ひととひととのつながり、それが命の本然(本来の姿)です。

しかし、その一方で、ひとの心には、いろんな〝業〟も潜んでいます。少しでも貪欲が湧けば、相手に迷惑・犠牲を強いても平気になってしまう。ほんのちょっと慢が働けば、相手を苦しませても自分の正しさの方を優先させてしまう。ついわいた妄想――相手への期待・要求・かくあるべきと思う姿――にこだわって、その妄想に当てはまらない現実・相手に、不満を募らせる。

そして、こうした自身の業と、ひとへの依存心や、自身の甘え・怠惰が結びついたとき、その人生は、重たすぎる肉塊となって、誰かの心にのしかかるのです。その重たさといったら……背負わされた側にしかわからない、というのが悲劇です。

○子供は、自立すること。自分の足で立って、自分の人生を自分の力で切り拓いていくこと。それが原則。

親のつとめは、そんな子供の自立を促すこと。お金も、ご飯も、教育も、最終ゴールは、子供の自立であり、そこから始まる自由にしてみずからが納得いく、たったひとつの人生を子ども自身が生きていくこと。

親もまた、自立せねばなりません。子供の人生や、ありようが、自分自身の幸福をいつまでも左右していてはいけないのです。まして、子供がひとりで生きていかねばならぬ現実の中で、簡単に当てにしてはいけないのかもしれません。いつまでも当てにされていてもいけないのでしょう。


○もちろん、現実の関わり方は、圧倒的に現実に左右されます。どのような言葉も、現実の前には理屈でしかないのは、確かです。

それでも、心の原則とは、関わりの鉄則とはなにかを、なるべく早いうちから明確にしておかねばなりません。それは、絶対といっていい、すべての命が十二分に生きていくための前提です。

そのことで、防ごうと思えば防げたかもしれない苦しみを、防ぐことができるかもしれない。

最終ゴールはどこにあるか――つねに目を開いておきたいものです。


ひとが目醒めるべきこと――心の自由はいつでも取り戻せるということ

10月21日
こんにちは、草薙龍瞬です。

今、出家をテーマとする原稿を書いている最中です。今回は、孤独、せつなさ、生きづらさ、ヒリヒリした心の渇きや痛みを、自身の過去も振り返りつつ、情感たっぷり込めて語りたいと思っています。

○世間に出ている「出家」の本は、なぜか「宗派」「伝統仏教」の枠に収まったまま「どういうルートで出家するか」という発想で書かれている。

伝統を前提としてしまえば、どこそこの僧堂で何年修行して、住職資格をとって、どこかのお寺を預かって、そこで法務(寺の仕事)や作務や法事を頑張って、収入はどれくらい――みたいな、きわめて世俗的な話しか出てこない(笑)。

これは、テーラワーダ仏教国での出家を考えても、似たり寄ったりになる可能性が高い。どこでどうやって出家の儀式をやって、どんな生活をして、その先どんな人生が待っているかという話に。

ちなみに、僧侶(比丘・長老)が在家よりも「上」だという前提に立っている海外の仏教国でかりに僧侶になったとしたら、「特権」を享受できる立場に満足するか、あまり効果の上がらない中途半端な瞑想修行に長年を費やすか、宗教としての教義・しきたりに収まって生きて行くか、という、これまたあんまり夢のない話になってきたりする(日本人の場合、さらに日本社会への復帰が難しくなるというリスクもついてくる……)。

結局は、日本での出家にせよ、海外での出家にせよ、「どんなルート?」「どんな生活が?」という話になってしまうのが通例みたい。世に出回っている、出家関連の本というのは、やっぱりそういう内容が多い印象である。

ただ、それは実は「出家」でもなんでもない。日本でも、海外でも、「僧侶」というのは、ひとつの職業であり、社会的立場になってしまっている。既成の枠に収まるだけでは、「私は出家です」とはいえない。職業人としての僧侶であるというだけだ。

となると、誰かが「心を自由にしたい」と感じて、「出家」というテーマの本を手にしたとしても、そこには職業として僧侶になる方法が書いてあるだけだから、参考にはならない。

また「坊さんになりたい」という思いが高じて、本を探しても、すでに出来上がった体制・しきたりの中に身を収めるという選択肢しか書かれていなくて、気勢をそがれる(がっかりする)かもしれない――かつての私のように(笑)。

つまりは、「出家」を正面から語っても、面白くもなんともないし、現実を生きていくための参考にはならない……そうなってしまうおそれがある。


○となると、話をどこから始めるべきなのだろう? もし現代を生きる人が「出家」という生き方に関心を持つとすれば、それはどのような状況においてなのか。

原点は、おそらくシンプルである――生きることに、なんらかの苦難を感じていることだ。

今体験している人生・仕事・生活・人間関係・過去というものに、苦痛を感じている。

「この苦しみからほんの少し逃れたい、ラクになりたい」と思っている。

その思いがふとよぎったときに、「はい、出家という生き方がありますよ」という提案があれば、「ちょっと聞いてみようか」と思うかもしれない。

「出家」という(あまり馴染みのない)言葉の本質は、「苦しみから解放される生き方」のことである。

心を自由にすること。現実の中の苦難・困難が、苦しみにならないような心の持ち方を、手に入れること。

本来、心に苦悩はない(それが生まれつき持った心の性質である)。苦悩なき状態こそが、心本来の姿である。

なのに、そこに苦悩が宿るとすれば、そこにはたいてい執着――手放せない思い――がある。特に「心を自由にしてはいけない」という思いがある。

自由に生きるのは、親不孝? 世間に白い眼で見られる? もう少し頑張れば、自分が期待していたものが手に入る?――心はいろんな理屈をつけて、「これまでの自分をそのまま生きていきなさい」と語りかけてくる。

だが、その心の声に耳を傾けて生きてしまえば、結局、心の満たされなさ・渇き・弱さは、続いてしまう。これまでの自分を守ることで、余計な荷物も背負い込む。

「荷物を降ろす」ことには、勇気がいるかもしれないが、しかし降ろしてしまうほうが、心は自由になれる。

自由な心とは、苦しみのない心。解放された心。清浄な(クリーンな)心。ひとはそうした心を、もともと持っている。そうした心をとりもどすことは、実は何歳になっても、どんな状況に陥っても可能だったりする。

ひとはいつでも苦しみから自由になれるのだ、自身の心の持ち方次第で――その真実に「目覚める」ところまで語れたら、成功ということかもしれない。

多くの人にとって、「苦悩のない心の状態」こそが本来の心の状態、心の基本であり回帰点なのだ(思い出せ!)ということが伝わる本にしたいと思う。


○ブッダ自身が、そう語っていた。ブッダは、わが教えに帰依しろとも、寺に入れとも言わなかったし、出家するための儀式・条件を細かく定めることもしなかった。その当時の最も開かれた「心の自由を取り戻す方法」まで語れたらと思う。

そのことは、とりもなおさず、仏教の始原――仏教になる前のブディズムの根本精神をも解き明かすことになるだろう。

ブディズムとは何か。

人間にとって、何が最も大切なことか。

最も知らなければならない――目覚めねばならない――ことは何か。

その部分を明るみに出す。そして、ときに暗闇にさえ見える、私たち一人ひとりの現実の中にあって、自分自身が希望の灯火となる――そういう心の持ち方を語りたい。


光(可能性)は、自分自身の中にある。


鋭意執筆中です。お楽しみに。


出家、日本をゆく 2016年10月(仏教で子育てを考える)

10月15日
今日は、沼津にあるヨガ・スタジオで、坐禅瞑想と勉強会。三島市街を車で通ったのだが、以前伊豆のほうにバイクで出かけて、帰りに車にはねられたことを思い出した。私は、生涯で二度車に跳ねられている。いずれも横から当てられてふっとんで、車道に大の字に転がったが、しばしの静寂(気絶?)ののちにむくりと立ち上がって、「大丈夫ですから」とそのまま帰路についた(いずれの運転手も青ざめていたが、そりゃそうだ(笑))。

今思えば、あれほどの混沌を脳裏に抱えていて、よく交通事故死しなかったものだと思う(笑)。

ひとは、自分のことが見えているようで、かなり見えていないものだ。たいていの人は、「こうして生きていられているのだから、きっと見えている(自分のことがわかっている)」と思っていたりする。

ただ、「生きていられている」ことと「見えている」ことは、まったく次元が違う。生きるだけなら、見える必要はないかもしれない。ただ、見えていない状態なら、心に潜む苦悩や課題は、そのまま妄想や欲や不満(えてして不満の矛先は人間だったりする)をエサにして生き長らえる。

見えたときには、苦悩はなくなる。だから〝さとり〟(正しい理解)をめざすことで、苦悩は減っていく。そういうものかもしれない。


○今回招いていただいたヨガ・スタジオは、ポンテ・マル・スパッツィオという。オーナーさんの店でいただいた昼食――手づくりの酵素玄米と、けんちん汁の(具材の繊細な仕込みぶりと)絶妙な味つけ――に、感銘を受けた。

※沼津近くの人は、ランチタイムにぜひどうぞ。明るい店内で気持ちが晴れます:まるいちカフェ)。

そして皆への差し入れとして、山形米沢の喫茶室 C'z Cake&tearoom の特製シフォンケーキを持参。とてもやわらかで、雲を食べているような逸品。この夏の全国行脚でお世話になったお店からの、ありがたい差し入れだった。


○このスタジオは、ヨガ・インストラクターの女性4人が運営しているのだが、どの女性も、とても美しい動機を持って頑張っておられた。ヨガにしても禅にしても、結局、指南する側の動機というか、心がけているものが、モノをいう。

結局、学びの場所で一番伝わるのは「心」。だから、伝える側の心に、純粋なものが必要だ。

その点で、このスタジオなら、きっと美しい心持ちに触れられる。そうしてひとときを共にして、心が少し落ちついてクリーンになれば、とてもよい時間だったということになる。近所の人におすすめします。


○さて、最近、感じたことをいくつか。特に教育・子育てについて:

伝える(指導する)側に必要なのは、大きく二つ――「心」と「技術」である。

「技術」とは、スキルやノウハウ、「どうやればいいか」という具体的な部分。どんな場所であっても「学び」を標榜するからには、伝える側にたしかな「技術」がある必要がある。

ただ、もう一つ欠かせないものがある。それが「心」だ――思いやりがあるか。情熱があるか。何かを伝えようという明白な〝意志〟があるか。

いずれが大事かといえば、本当は、意志・心である。

技術というのは、場数を重ねていけば身に着くものだし、学ぶ側が自然に習得していく部分もある。

ただ、「心」というのは、指導する側から、受け取る側に流れる(その逆はあまりないと思うほうがよい)。

受け取る側以上の「心」――熱や愛情のようなもの――が、伝える側にある必要がある。

伝える・教える側の悩みも聞くことがあるが、なによりも――表面的な部分、たとえば技術的なことや世間向けの体裁などは全部取り払って――「心」だけを見るべきだ、と思う。

人間というもの、長く生きていれば、必ず伝えるべき何かを持っているものである。

「自分が伝えるべき・伝えられるものは、いったい何か」

「何が伝われば、自分自身が一番納得できるのか」

そういう部分だけを、純粋に考えてみたい。


○もうひとつ、世間のさまざまな情報に触れて、「うちの子は遅れているのでは(問題・障害があるのでは)」と惑わされてしまう親の話も、耳にする。

今は、先生の側も情報過多の時代である。子どもたち・生徒にレッテルを張り――成績とか成長度合いとか――、その子の良し悪しを判断したがる。その「判断」こそが、子の心を正しく見る眼をどんどん曇らせる。

親に「不安」を感じさせている時点で、その指導は失敗している。

なぜなら、「正しい理解」に立った言葉は、必ず「今後どうすればいいか」「なぜそうする必要があるか」を明瞭に、答えられるものだからだ。

もし、子どもの良し悪しを「判断」する言葉に出会ったら、それは「妄想」なのか「正しい理解」なのか、と考えてみてほしい。

「妄想」とは、その人個人の意見、感想、ただの評価・判断――現実には存在しないものである。ただの思い込み。

ひょっとすると、親が世間で聞く99%の言葉は、「妄想」でしかないのかもしれないのだ。というのは、「子の良し悪しを判断しているその人たちは、妄想を抜ける練習を、一度もしたことがない」人たちだからである。

「先生」たちは、一生懸命知識を詰め込み、判断の仕方を溜めこんで、「考える」ことを懸命にやり続けてきた人たちだ。その頭の中にあるのは、「思考(判断・評価・推測)」であって、「正しい理解」ではない。

「正しい理解」に立ってみれば、ほとんどの子供に、問題はない。その子それぞれが、他の子どもとは違う心をもっている。どだい、心と心を比較すること自体に、ムリがあるのだ。

唯一「問題」が生じるのは、その子自身が「苦」を感じているときである。そうではなく「元気で、笑っている」間は、まず問題なし、安心していい(そう考えられるように練習しよう。ここでも妄想を抜ける練習です)。


○子どもというのは、千差万別。というか、心そのものが、心の数だけ、違う。

「本当の愛情」とは、そういう心を、けして妄想せず、良し悪しを判断せず、ただありのままに「理解する」こと。ニュートラルであること。穏やかで「ただ理解する」という心に立てること。それで十二分。

大丈夫。妄想に負けるな――と伝えたい。


人生相談の作法~○○が残れば成功

こんにちは、草薙龍瞬です。

東京はしっとりと雨です。
「やだな~今日も雨か」と反応することなく、「空気のうるおい」として感覚に意識を向けましょう。雨の日は、サティにもってこいです^▽^。

最近相談を受けていて感じること――本人にとって切実な、根の深いテーマを抱えている場合にかぎって、「抵抗」も感じるらしいということ。それはそうですね。

『反応しない練習』や『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を読んで、相談してみようと思い立ってくるところまではいいものの、中には、今の自分を正しいと言ってほしい、後押ししてほしいと願っている(ある意味、答えをすでに自分で選んでしまっている)人もいたりする。


問題は、その「自分」こそが、悩みを作り出している「原因」である場合。そのときは、後押しはできない。むしろ降りる方向を考えてもらう必要が出てくる。

ただそれが、なかなか難しいことも、よくある。ひとはできれば、変わりたくないと思うもの。

そういうとき私は「どこまで伝えていいか、正直わからないところもあるけれど」と前置きをする。本当のところ、素直に「新しい道」を求める覚悟ができているか、心の準備ができているか。そこをよくよく見てから、お伝えしないと――と工夫の必要を強く感じる。

率直なところ、悩みの原因――つまりは解決策でもある――というのは、「これまでの自分に都合の悪い」ことのほうが多い。つまりは、聞いていて耳が痛いと感じるような(笑)。特にブディズムは、深いところまで見透してしまう。本人の語る言葉のごまかし・自己弁護に騙されたりはしない。

だから単刀直入に――しかしあくまで友愛をもって、友人として――語りかける。「そのままでもかまわない。しかし違う道もある。そちらの道を生きていくことであなたももっと幸せに、自分らしく生きていけるし、相手もまた幸せになれる。そちらの道を生きていくことを考えてみませんか」という思いで話をする。

個人的な感想だが、こういうとき、守るもののない「出家」という立ち位置が、いかにこういう相談事に大事な意味を持っているかに気づくことがある。もし自分の家とか、仕事とか、「生活のため」、さらには「自分のため(欲のため)」という思いが混じれば、その言葉は純粋ではいられなくなる。だが、出家というのは、そういう打算すべき要素を持たない。完全に自由な身の上で、ただ出会った相手の課題をよく理解して、原因を指示して、そこから自由になって行く道筋を、はげましの思いをもって伝える。

ビジネスとしての関係、あるいは宗教という衣装をまとった団体・個人の活動と、出家としての活動が違うところは、こういう点にある。出家という立ち位置に、「自分(の都合)」というものはない。

だからであろうか、私自身は、相手の問題・気の病に当てられてダウンするということがない。著名な精神科医でも年に一度は精神的にダウンする(熱を出すようなもの)というが、私の場合はそれはない。むしろすっきりとして、温かい気持ちで終われることがほとんどである。

唯一課題として残ったなと感じることがあるのは、相手の業・慢・思い入れがあまりに強くて、新しい道を受け容れる準備が整っていない場合。「もうしばらく時間が必要」という場合である。ただこれは相手の問題なので、私は追いかけない。ただ「よき道が開けますように」という願いをもって見送ることに尽きる。

だから結局はスッキリである。ブディズムの関わり方の本質は、「はげまし」ということもできる。

相談・カウンセリングにとどまらず、
人との関わり方のよしあしを見る時の、ひとつの目安といってもよい――〝スッキリ〟と〝はげまし〟である。

++++++++++++++++++

○さて、9月の日程:

9月17日(土)【満席】朝日カルチャー新宿 
上手に心を使う練習 「反応しない心のつくり方」プレ講座

⇒10月から3回の講座スタート。こちらはお申し込み可能。朝日カルチャーセンター新宿校 03-3344-1945 

★9月 18日(日)~20日(火) 広島・座禅合宿

前日まで参加申し込みを受け付けます。外部参加者は一泊6千円(食事・宿泊・布団代・資料費込み)。

18日初日は、午後2時スタートでガイダンス⇒坐禅会という流れ。夜は、法話・講座を交えつつ。
19日は、午前4時起床。午後2時から一般向けの講演会あり。テーマ~原始仏教に学ぶ「人生はココロの使い方次第」~ブッダが本当に伝えたかったこと【参加無料】
20日は、午前から集中座禅会。午後に法話会のあと午後3時頃散会。

※参加者の大半は大学生なので、雰囲気は若干違うかも。その分初歩から解説して、禅のスキルを積み上げていけます。貴重な体験ができるのでは?

※参加希望者は、①お名前、②ご住所、③臨時連絡先(携帯)をkoudounosato@gmail.comまで。場所 清流の家 〒731-2204広島県山県郡北広島町大暮590 http://www.seiryu.info/ 

●9月 21日(水)10:30 ~ 12:00 東急BE二子玉川/13:30 ~ 15:00 東急BEたまプラーザ 
座禅エクササイズと「心がラクになる」仏教こばなし

★9月 22日(秋分の日) 神楽坂・赤城生涯学習館 和室
10:00 ~ 12:00 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき - 神楽坂・赤城生涯学習館A室 
18:00 ~ 20:00 生き方としての仏教講座【秋の始まり編】 ★本当の人生は「四つの真実」にめざめるところから


※清浄行と修験道の資料を持っている人はご持参ください。まとめをやります。
※25日と内容はほぼ同じです。都合よいほうにご参加下さい。
 
●9月 24日 10:00 ~ 12:00
東武カルチュア池袋校 生き方として学ぶ仏教入門(第2・4土曜午前) 03-3988-4855

★9月 25日(日) 神楽坂・赤城生涯学習館 和室
10:00 ~ 12:00 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき

18:00 ~ 20:00 生き方としての仏教講座【秋の始まり編】★本当の人生は「四つの真実」にめざめるところから

※清浄行と修験道の資料を持っている人はご持参ください。まとめをやります。
※22日と内容はほぼ同じです。都合よいほうにご参加下さい。

●9月 27日(火)10:00 ~ 12:00  ☆受付中
東武カルチュア池袋校 1日体験 座禅エクササイズと仏教こばなし
●9月 29日(木)10:30 ~ 12:00  ☆受付中
名古屋・栄中日文化センター 座禅エクササイズと仏教こばなし
〒460-0008 名古屋市中区栄4丁目1番1号 中日ビル4F  0120-53-8164

全国行脚終了(ありがとうございました)

こんにちは、草薙龍瞬です。

まだまだ暑さも続き、大雨・台風にも見舞われる日々が続いています。みなさまの平穏無事な暮らしを願っております。

1.
私のほうは、9月4日をもって、今年の全国行脚が終了いたしました。

北は青森・五所川原から、南は熊本・荒尾まで、全国?箇所、数百人の方々とご縁いただくことができました。

個人でお声をかけて下さった方、また大人数の講演・法話会を企画して下さった方、そして各会場に足を運んでくださった方々、いろんな人たちと巡り合い、またよきひとときを分かち合えました。つつしんで、心より感謝申し上げます^^。

法話会は、ちいさな町の会館で4名、というところもあったし、百人を優に超える場所もございました。朝日カルチャーや名古屋・中日文化センターでの講座も、たくさんの方々がきてくれました。

そして、個人やご家族で迎えて下さった方々も――一緒にドライブしたり、食事したりしつつ、生き方や仏教について語り合う時間は、とても有意義で楽しいものでございました。

そして、疾走する列車から見渡す夏の空や野山の景色、さらにはフェリー上でながめる夕陽(そうそう、愛媛の青島――通称「猫島」にも行って来たのでした^^)などなど、たくさんの美しき光の風景にも邂逅できました。

どの出会い・語らい・風景も、とてもせつなく、美しく……今なお語る言葉を持っていないというのが真実です。とてつもなく、大きな旅となりました。

(ちなみに、インドから帰った時も、余熱がしばし尾を引くのですが、今回もまた、有り余る余韻と感慨とで、しばし心の切り替えが利かぬ思いでおります。それくらいに充実した、鮮烈きわまる夏の旅になりました。)

2.
あえてひとつ言葉を紡げば、今回感じたのは、どの場所においても、心の影や悩みや一抹の淋しさを感じている人は、(今回めぐりあえなかったけれど)やはりたくさんいるのだということ。

それでも、正しい道――心の使い方――に触れる機会に恵まれれば、みな何かしらの希望を感じることができるのだということ。

独りでは前に進めなくても、ほんの少しのヒントや、励ましや、智慧を共有する機会があれば、その瞬間から、前に踏みだすことができることも多々あるということ。

心は、機縁(きっかけ・つながり・めぐりあわせ)によって、いかようにでも変わりうる。だからこそ、よき機縁を紡ぎ出すことが大事――その意味で、この「全国行脚」は、案外、実によい試みであったこと、改めて感じ入りました。

ぜ ひ、こうしためぐりあいのきっかけを、今後も育てていきたいと思います。この行脚のそもそもの目的、そして行動した先の成果をみるに、まぎれもなく、純粋 に〝善き行い〟です。これほどの美しさ(人の心も風景も)が生まれる試み・関係というのは、けっこう貴重かとも思います。ぜひ今後ともご同道ください。ご 協力お願いいたします(=人=)。

その一方で、めぐり逢いの数をはるかに超える、まだ見知らぬ人たちの苦悩や孤独、淋しさ、絶望というも のも、道中どこにいても、伝わってくる思いも致しました。ひとは、思いひとつで、闇をさまようことにもなれば、明るい陽射しの中を歩いていくことも可能に なります。願わくば、闇を創り出しているさまざまな思いや因縁を手放して、今いるその場所にあって希望を見出すような、そうした何かしらの変化への胎動 が、その日常の中に生まれれば、とも思います。

そうした方角に思いを向ける時、今回の行脚においても、私自身の中に、省みるべき部分、改 善していくべき部分は、たくさん見つかりました。ひとが見る方角によって、孤独から希望へと見えるものが切り替わるように、私自身の活動についても、満 足・喜びに留まらず、 自身が果たすべき務め・もっと果たしうる働きを、きちんと見すえて、成長させていかねばならぬと感じています。

3.
こうして東京に戻って来た――と、はて、いってよいのかどうか(笑)。帰るべき場所は、別のところにたくさんあるのではないか。出会いを求め てくれる人のところに赴くことこそが、私自身にとっての「帰る」なのではないか。今回の旅でご一緒したひとつひとつが楽しく、愛しい思い出であり、感謝 と、これから先も、みなそれぞれが、それぞれの場所で、幸せな日常を送って下さいますように――という願いとをもって振り返る、珠玉の記憶となりましたこ と、みなみなさまにつつしんでお伝えいたしたく存じます。

私のほうは、ここから次の本の執筆にとりかかります。「心の出家」をテーマとす る本と、耳で聴けるオーディオCDつきの法話集です。私は、どの本も、一字一句、まごころこめて、闇の中でも希望の光が見出せるようにと愚直・真面目に願 いつつ書いておりますので、時間はかかりますが、良質の作品を届けていきたい、と決意しております。お楽しみにお待ちください。

あらためて――、今回、皆さまが日々暮らしている生活の場所や、お仕事の現場に導いてくださいましたこと、言葉に尽きせぬ感謝と、感銘と、喜び・楽しさをもって、この胸に受け止めております。

ぜひこれより先も、つつがなき(平穏無事な)、善き日々を、それぞれの場所に育て、おすごしくださいますように、心から願っております。


ひとことでいえば、楽しかったのです(笑)。そして、美しく、せつなかった――出会えたおひとりおひとりが。さりげない日常の風景のひとつひとつが。ありがとうございました。

また来年の夏、お会いいたしましょう。

草薙龍瞬御礼合掌

追記:
●巣鴨は、9月8日と15日(8日は台風来たらどうしましょう(笑))
●神楽坂は、9月22日と25日に、座禅会と仏教講座を再開します。全国行脚の写真もお見せします。お時間合えばいらしてください。

戻って見上げた新宿の空。あの向こうに次の旅は広がっている。

全国行脚は西日本編に突入(感謝御礼申し上げます!)


 
こんにちは、草薙龍瞬です。

昨夜(8月17日)の東京は、かなりの蒸し暑さ。ほとんど反応しない(鈍い)私でさえ、「これはムシムシしてるんだな?」と感じたくらいだから、よっぽど蒸し暑かったのでは?(でも多くの人は冷房完備だから関係なかったのかも?)

私のほうは、全国行脚・東日本編が無事終わり、明日から西日本編が始まります。http://genuinedhammaintl.blogspot.jp/p/2016.html

まずは、宮城、青森、岩手、秋田、山形で出会うことのできた皆さまに、心からのあ¥りがとう!です。旅の記録をお伝えしたいところですが、まとめる時間がまったくなく(@@)。慌ただしく西へと旅立ちます(東洋経済オンラインに最新記事が載りました。読んでみて下さいhttp://toyokeizai.net/articles/-/130433)。

明日から大阪、兵庫、広島、名古屋、岡山、愛媛(今治・宇和島)⇒(フェリーで大分・別府入り)⇒福岡 ⇒熊本(荒尾市)へと行脚いたします。現地のみなさま、よろしくお願い致します(=人=)。

私がありがたく感じるのは、第一に、仏教に希望・救い・前に進む足がかりを求めている人たちとの出会いの機会をさずけてくれること……それが本当に一番ありがたいことです。

なので、この行脚は、私・草薙龍瞬のためではなく、またお声かけていただく方のみのためでもなく、私たちの出会いをひとつの機縁として、それがなければけして巡り合えない近郊・遠方の方々とも出会えること――。

なので、できれば、場所を見つけていただいて、告知して、一般の方々(飛び入りも含めて)にも扉開いていただけるような形が、一番ありがたいと思います。そのあたり、ぜひご尽力いただければ。

結局、私は、つらい思いをしている人、道に迷っている人、仏教に触れれば何かが変わるかもしれないと思っている方々とのご縁をこそ大事に致したい。そのご縁広げていけるように、ぜひぜひ皆さまにもお力添えいただきたく、お願いいたします。

行脚終わりましたら、あらためて御礼の挨拶を。そして、報告会も開きたいと思っています。夏の後半、ぜひご自愛しつつ、無事おすごしくださいますように。

草薙龍瞬合掌


全国行脚2016スタート! 「仏教ってドライ?」と感じているあなたへ



全国行脚・東日本編、おかげさまで実り多く終了致しました。お声かけてくださったみなさん、どうもありがとうございました。ひきつづき、西日本編に入ります。


7月30日(土)

外に出ると、弩夏【どなつ】であった。空が蒼く光っている。形のまとまった雲が輪郭を輝かせながら流れている。


東武の講座を終えて、残った作業を片付け、翌7月31日の朝、まずは東北仙台に向かって出発。

全国行脚は今年で二回目。今回は北は青森、南は熊本まで訪問させていただく予定。今も訪問地募集中なので、ぜひお声がけください。

仙台では、某会館にて勉強会。地元で主催してくださった女性の知人たちと、ネットで知った人たち。東洋経済オンラインの記事からたどり着いた人たちも。縁というのは、面白い形で広がっていく。

毎回、最初の場所は、初めてということもあり、若干空気が硬い^^*。まずはおひとりおひとりに、近況や今考えている(悩んでいる)ことなどを聞いてみる。話をうかがいながら、共有できそうな言葉・テーマを白板に書いていく。そこから話を組み立てていく――。

○さて、仏教の出発点とは?

私たちが生きている現実というのは、ほとんどの人にとって、得体のしれないもの。生きるとはどういうことか?ということさえ、はっきりさせる機会なく、年を重ねていきがちだ。

仏教的な「発想」によれば(発想という視点が大事なんだけど)――生きるとは「心を使う」ことである。反応すること。「意識」という心のエネルギーを、何か対象(見るもの・聞くものetc.)に使うこと。

もし意識を「不安」という名の妄想に「無自覚のうちに」使っていれば、「喜びの感情」は持てないし、生きている実感も湧かなくなる。というのは、「妄想」と「感情」は別モノであって、意識を妄想に使ってしまっては、感情という反応は生まれにくくなるからである。

また意識を「怒りという感情」に無自覚のうちに使っていれば、まともに考えることはできなくなるし、「自分が何をしているのか」さえわからなくなることがある(鬱はそのひとつの例かもしれない)。

というのは、「感情」と「思考」とは、これまた違うからである。(『これも修行のうち。』をご覧ください――心には五種類あるという第1章)

そして人は、それぞれに「心のクセ」があるから、「妄想」とか「感情」など特定の反応に心を(無自覚のうちに)使ってしまっている。その状態が「なんとなく気が晴れない」「生きづらい」ものに感じられる。


○もし心のクセにストップをかけようと思えば、自分のアタマの中(心の状態)を「正しく理解する」しかない。理解すれば、それだけで心の反応は収まる。止まる。抜けることも可能になる。あくまで「原理」としての話だけど(実践が要るので)。

妄想するのではなく、解釈するのではなく、感情で反応するのでもなく、ひたすら「心の状態を理解する」のである。この心がけって、かなり大事。


○「正しい理解」を育てるのが、サティ(気づき・マインドフルネス)。体の感覚を意識すること――吸っている・吐いている(ふくらみ・ちぢみ)の感覚に意識を向ける。その間は、妄想しない、解釈しない(考えてしまったら、思考という反応が湧いたと客観的に自覚する)。

こうして、とにかく「心の状態を見つめる」こと。これは「実践」。どれだけ練習するか。しなければ、わからないし、変わらない。アタマの中(思考)で考えて「こういうことだろう」というだけでは足りない。これはまだ「妄想」の中に踏みとどまっている姿である。

(理想は本を読むのと同じ時間を、サティの実践に使うこと……難しいかな。)

ヒトの心はとにかく妄想漬け

○最近とみに感じるのは、人間の心はどっぷりと妄想に浸かっているということ。妄想に浸かった状態で、人は考えたり、解釈したり、良し悪しを判断したりしている。それが日常生活になっている。

しかし、「妄想漬けのまま、日常をなんとなく過ごせる」ことと、「妄想を抜けてクリアな心境になる」ことは、まったく違う。海の中と陸の上くらいに、生きている実感が違ってくる。

ふつうに暮らしていても、それなりに楽しく、快適な生活、良好な人間関係は可能だろうと思う。でも、もし妄想を抜けていなければ、いろんな部分で不都合(不快)が出てくることがある。

人間関係でいえば、ひとの心が分からない、関わり方がみえない(モヤモヤが残る)というのは、じつは相手のせいではなく、自分自身の「妄想」が原因だったりする。(とくに親子、恋etc.)

※ちなみに――

○「妄想」は、ほぼ自動的に新しい妄想を作り出して、「正しい理解」をジャマしようとする。この「からくり」がときに、「仏教」をもカン違いさせることがある。

たとえば、最近聞いた興味深い言葉に、「妄想が抜けた心というのは、冷たくなるのではないか」というものがあった。「愛情」「共感」「協力」「きずな」が持てなくなるのではないかと。仏教を突きつめていくと、あまりにドライ、クールで、情のない人間になってしまうのではないかと。

とんでもない勘違い(笑)。これこそ「妄想」が作り出した、奇妙な発想(かんちがい)だといっていい。

考えてみたいのは、人が想像する「愛情」「共感」って、本当にその言葉通りの意味なのか?ということだ。

「愛情」を語りつつ、相手を知らず、理解しておらず、その心の中をただ一方的に妄想しているだけ、ということはないだろうか。妄想を語り、妄想にもとづいて動いているだけで、じつは相手の心に何も届いていない、役に立ってもいない、ということは、ないだろうか。

自分は、本当に、相手の心を正しく理解しているのか?――を考えてみる。そのときに真っ先にリセットすべきは、相手の過去も、相手の言動も、相手の動機も知らないまま、この人はこういう人だろう云々と詮索・解釈してしまっている姿である。それは「妄想」であって、「理解」ではない。

親でも、子でも、恋人でも、友人でも、他人でもよい――その相手の心を(妄想することなく)理解したうえで、どう関わるか、を考えるのが正道ではなかろうか。

そうしたステップをふむならば、その「愛情」が相手に届く・愛情を生かした関係が育つ可能性はある。

しかし、自分が妄想を抜けておらず、またそれゆえに現実の相手とどう関わるか、実際に関わる意欲(覚悟)があるのかも、はっきりしないまま、ただなんとなく「愛情」なるものを適当に「妄想」してしまっている状態も、案外多い気がするのだが、いかがだろう。

○そうした妄想を前提にして、(正しい理解を基本にすえる)仏教について考えると、「仏教ってドライでは?」という思いが出てくるのではないだろうか。

たしかなのは、妄想の中で考える「愛情」と、本当の愛情とは違うということ。前者の愛情は、結局妄想しているだけで、相手のことを本当の意味で愛せてはいない。わかっていないからだ。妄想の中で自己満足している状態とさえいえなくもない。

本当の愛情・思いやり・やさしさは、妄想からは出てこない。あくまで相手の心を、解釈せず、妄想せず、ひたすらクリアに理解するところから、生まれてくるものである。

「相手を理解することは難しい」(不可能)という声も、ときに耳にする。しかし、だからといって「妄想」のまま関わることを正しいとすることはできない。相手の心が見えていないからである。

最大公約数的な(これだけは間違いないといえる)ことをいえば、「相手の心を理解しようという誠実な心がけ」こそが、「愛情の必要成分」だということだ。

「仏教を突きつめると、感情がなくなってしまうのでは?」と妄想する人は、まずはその妄想自体を捨ててみることである。ちゃんと練習して、「ありのままを見る」という心境に立てるようにすることだ。そのとき、すべてが一変するはずである。

そのとき、本当の愛情、寛大さ、優しさ、思慮深さ、頼りがい、リーダーシップ、人と関わる上での責任感・勇気・覚悟……その他さまざまな「美徳」が自由自在になることを知るはずである。

本当の愛情は、正しい理解から始まる。けして妄想からではない――これもまた、ブディズムが教える真理である。(妄想にすがって、なんど失敗してきたことだろうか^^;)


○ブディズムとは一言でいえば何か、と聞かれたら、やはり「正しい理解」と答えることになる。

この言葉は、シンプルにすぎるが、実はすさまじく深く、汎用性(使い道)が広いのだ。「マインドフルネス」も「さとり」も、「理解する」という心がけのバリエーション(一部)である。

では、その「理解する心」をどうやって知るのか――といえば、「気づき」の修行を積むしかない。

やって、やって、やり続けて、いつしか凄まじく理解の力が強くなった――そのときに、

「ああ、私、(かつての苦しみを)抜けたんだ!」

「(妄想を)卒業したんだ!」

「最高の納得にたどり着いたんだ!」

と気づく。

「今を生きる」ということ、「人生の充実」「命の充溢」というのも、実感としてわかる。

ちなみに「理解の力が強くなる」とは、歩いているときの足の裏の感覚をクリアに感じ取れることでもある。「感覚を取り戻す」ことは、「理解力を取り戻す」ことでもある。だからこそ、その心がけで、禅・ヴィパッサナー、ヨガ、スポーツ、散歩、なんでも「感覚を意識する」レッスンをやってみることだ。

ぜひ精進していこうではないか。ブッダが語った言葉だが、「気づきこそ、苦しみを抜けるただひとつの道(方法)」なのである。


――というようなことを、今日の法話会でやったわけではないけど(笑)、でも3時間近く、みなさん熱心に聞いてくださいました。ありがとうございました。 

日本に帰ってきたときは、宇宙空間を浮遊するかのような孤独な日々であった。

今はこうして、かつて足を踏み入れたことのなかった杜の都にて、新しい人たちと自然に話している。人生は面白いものだ。どんどん違う星へと旅して、異空間を進んでいくような感慨がなくもない。

次の目的地は、青森である。


今年はどんな夏になるかしらん?

健康長寿の秘訣は気づきとお尻?(改め、熱き出家の世界)

+++++++++++++++++
●東洋経済オンライン最新記事  ――お役に立てれば幸いです

心が強い人は「無感情」を習慣にしている~簡単!マイナス感情はこうしてリセットする  http://toyokeizai.net/articles/-/126812


●全国行脚 7月31日(日)仙台からスタート! 
東北近郊の方は、カレンダーを見て足をお運びください^^。お会いできますように。

●7月27日(水)午後1時 東武・座禅と仏教講座 TEL03-3988-4855

●生き方としての仏教講座・神楽坂 8月11日・13日(内容同じ)+26日(特別篇) 
●座禅と法話の会・神楽坂 7月24日と8月14日 

※講座の時間はカレンダーをご覧ください。

+++++++++++++++++

7月18日
こんにちは、草薙龍瞬です。

7月連休の講座テーマは、清浄行(心をクリーンに保つ実践と山岳修験道)。

修験道――たとえば、吉野から熊野まで150キロを七日かけて縦断する行――の世界を垣間見ると、かつての日本には、命をかけて行をする熱い人間たちが溢れていたのだと実感する。

古(いにしえ)の仏教には、二種類の伝統があった――ひとつは、飛鳥時代の仏教伝来(蘇我氏主導)からつづく、朝廷や高野山・比叡山が権威を独占した〝仏教エスタブリッシュメント〟。

もうひとつは、その保守本流の仏教から逸脱し、あるいは異議申し立てを行った、行基や役小角(山岳修験道の開祖的存在)、さらには法然(浄土宗の開祖)らの〝仏教アウトロー〟の系譜。

仏教アウトローたちの魂の熱さ、既成の体制・権威に迎合しない勇気は、指摘するまでもない。ただ、仏教エスタブリッシュメントの枠の中でも、かつては、高野山・比叡山にて、命を賭けての激しい修行をしていた仏者たちが、一部いた。

明治時代に、「肉食妻帯」のお達しが来たとき、高野山や比叡山の一部の仏者たちは、「政治が口を出すな」と一喝したという。それくらいの「矜持」「求道の心得」を持っていた仏者は、仏教内の最も権威あり、贅沢・驕りをも許された場所にも、たしかに生きていたということだ。

残念ながら、明治以降の「近代化」、その一環としての廃仏毀釈の威力はすさまじく、またそれにあらがうだけの胆力が仏教界にすでに(江戸幕府の政策ゆえに)失われていたために、明治以降の仏教というのは、戒を失い、目的を失い、道を失った、腑抜けの仏教に化した部分は否めない。

寺を、自らの家族がすまうマイホームとし(つまりは私物化し)、酒やタバコを初めとする放恣・快楽に平気になり、ひとの死をとむらう法事は、寺の経営を支えるビジネスと化した感が否めぬ部分は、今の時代どうしてもある。

かつての、道を求め、それゆえに命を賭けて、仏教や修験の世界に足を踏み入れた、非合理や狂気ときに死さえ受け入れることを恐れなかった、ホンモノ正真の仏者たちというのは、正直、今の時代、今の寺や自称仏教の世界にどれほど残っているか――絶無(まったくない)とはいわないまでも、皆無(ほとんどない)といっていい現状かもしれない。(※ちなみに、凄まじい道をまっとうされている方々も私は存じ上げております。)


●話はそれるが、今夏の全国行脚中、会場に〝お寺関係者〟を呼ぶことは、ご遠慮願いたいと思う。

今回場所を開き、ときに無料で法話会を差し上げるのは、仏教になにかしらの救い・癒しを〝まじめに〟求める一般の人たちのためである。道を求めておらぬ自称僧侶方がやってくるにふさわしい場所ではない。

酒・タバコといった放恣になじんだ身の上をまずは改めることが、何よりも先であるべきだし、もし私が生きている世界に触れてくださろうというなら、「自身の寺に直接呼ぶ」ことが道理であろう。そもそも寺こそが修行・学問の場であるはずだからである。

そのあたりの道理見えぬところは、私は、端的にお断り申し上げる(笑)。筋を通すなら、それが当たり前の話。筋が見えぬこと自体が、仏教というもの、道というものを、簡単に見すぎていることの証左であろうと思う。


●本題に帰ろう――仏教を学ぶことの楽しさは、今の自分・時代を、他者の眼・異なる時代を知ることで「相対化」できることにある。

修験道の世界に触れること、古来の仏者たち、仏教思想というものを学ぶことで、今の時代、今の仏教に、何が根本的に欠けているか――ときにそれは、お遊び・理屈・形骸でしかないこと――を思い知ることである。

かつての仏教には、「合理」はなかったかもしれないが、しかしひとつの道に殉じる真剣さ・誠実さがあった。そういう世界に命をかけてまっとうした仏者たち・仏教の世界に触れることで、今のこの身が失っているもの、この時代が忘れてしまったものを思い出させてくれる。

もし誰かが「道を求める」覚悟を決めていたなら、その学び・発見が、自分にとっての最強のメッセージ、教えになってくれる。そうして、「また一歩この道を歩んでいこう」と思わせてくれるのである。


●この夏のテーマである清浄行は、心をクリーンにする考え方を、いくつかのステップ(段取り)に分けて解説する。と同時に、修験道の世界を資料にまとめて提供する。映像も見る。

この連休に映像の一片をみせて面白かったのは、リアクションが楽しそうだったこと。みな声をあげながら、どこかしら知的好奇心と「こんな世界もあるんだ」 という驚きをもって見ていたように感じた。あの山や崖に、もし自分が挑んだとしたら、そのとき何を思うか、何を見るか――そうやって肌で心で感じて、「自分にとっての意味」を探る。それこそが本当の学びである。


●以前、若い坊さん方が二人、神楽坂の教室にきていた。こういう人たちは、正真の道に立てる可能性がある。端的にいって、今の仏教、今のお寺にいて、悩まない人間のほうが、もしかしたらおかしいのである。真摯な動機、求道の心を持っていたら、切実に悩むのが道理であろう。

何が正しく、何が邪[よこしま]なのか、判断する眼をやしなうことである。そのためには、過去を学ぶこと、本物に触れること。そして仏教においては、ブッダの言葉の本質を、「原始仏教」の中に埋もれたブッダ本来の心の眼――いかに見て、いかに心使うか――を学ぶことである。

そうやって、自身の道を――つまり歩みつづければかならず納得が残る、そういう正真の道を、ダンマ(自身にとっての真実)を――つかんでゆくことである。 

そういう心得を持った者を、求道者といい、仏道を生きる者(仏者)という。

道を求めぬ者、道を失ったまま平気でいる者たちは、寺の内に捨て置くことだ。自らの道をゆくことである。時代は、もはやそういう本当の出家を可能とする時代にある。出家とは、寺の住職とか、ナントカ宗の肩書に収まった者たちのことではない。

出家とは、
自らにとっての真実(ダンマ)のみを胸にすえて、ただ独り生きる覚悟を決めた者をいう。

誰でもなりうる〝生き方〟のことである。

――ということで、講座で触れたのは、「心が年を取らない方法は、気づきとおしりの筋肉をきたえること」であった。これが今回のテーマだったはずのだが、講座の余韻が熱すぎて、熱い話題になってしまった。また機を改めてお話します(笑)。

訪問地、ひきつづき募集中!





「おまえ、新興宗教にハマったのか?」といわれたあなたへ(笑)

++++++++++++++++
●7月15・16・17日は、全国行脚・前夜祭 神楽坂
「清浄行――心をクリーンにする実践」をやります。日本仏教の話も少し(夏らしく、山岳修験道について。この世界がなかなか面白くてスゴイのです)。

●7月31日 仙台で茶話会(★参加者募集中)、8月1~3日は一関・岩手入りの予定。4日・秋田、5日・山形、6日・宮城、7日以降東北一帯です。訪問先、引き続き受付中です。

●8月28日から四国入り! まずは愛媛・今治へ(★座禅会・座談会をやりますので、希望者はメールでご連絡を。★四国の方、どこか場所を見つけてくれれば参上します。ご連絡下さい。
++++++++++++++

「おまえ、新興宗教にハマったのか?」といわれたあなたへ(笑)
 (「新興宗教」とブディズムの違いって?)


4月以降、各地で新しく仏教を学び始めた人たちと出会うようになった。

みな、わかりやすくて、合理的で、役に立つ「ブディズム」に触れて感じ入って下さっている様子である。熱心に通ってきてくれる人たちも増えてきた(ありがとう)。

その人たちから時折聞く話題が、「ウチの人(夫・妻)に話をしたら、『なんだおまえ、新興宗教にハマったのか』と言われた」ということ(^^;)。これがよくあるそうである。

「違うって説明しようとしても、よくわからないから、無視してます(笑)」とある女性はいう。

そうか――たしかに、ブディズムと、宗教との違いって、よくわからないかもしれない。はっきりさせてみよう。


●宗教というのは、「確かめようのない話」がたいてい混じっている。そもそも「宗教」の定義からして「超自然的・超人間的な絶対的存在を崇拝すること」みたいな説明が、辞書にも書いてある。
神さま、あの世、死後の世界、目に見えない力――「宗教」はいろんなことを語る。

特徴的なのは、「これこそが絶対」「これこそが究極」とよく語ること。

そして、「確かめようのない」物語・理屈が、必ず混じっている。

見えないもの・自分には確かめようのないものを「とにかく信じる」ことで、信仰を得たとする。

そして、信じない人を「導く」「救う」とか、「そのままだと悪いことが起きるぞ」とか「地獄に行くぞ」「世界は滅びるぞ(だから信じなさい)」みたいなことを言う(笑)。

もちろん、信じれば「真実」たりうるのだろうし、信じる人にとってはそれは究極で、絶対で、最高の真理といっていいのかもしれない。

ただ、その信仰は、他者には見えない、信じない人間にはやはり確かめようがない、という点で「限界がある」ように思う。「自分に見えるものが、他者には見えない」という限界である。「夜空の星が見える」というのと、「宗教的真理が見える」というのは、性質がまったく違う。「星」は、他の人でも確かめうるが、「宗教」は、見えない人には見えない。


●ここで大事なのは、「その見えないものが、存在するのか否か」ではない。

「他者に見えない以上、限界がある」という「見きわめ」なのである。見える人にとっては真実。だが見えない人にとっては、真実にはならない。

つまりは、真実というのは主観的なものだということだ。それを客観的に正しもの・存在するもの、と考えようとするからおかしくなってくる。

思想・信条・良心というのは、内面の自由としては絶対であるべきだろう。しかし、「他者との関わり」においてまで、絶対ということにはできない。

脳が物理的に異なる以上、「自分に見えるもの」を「他者も見るべきもの」と考えることはできない。というか、すべきではない。

真実は、人の数だけある。「自己の内面」における真実と、「関わり」における真実とは、もはや領域が違うのである。

こうした「見きわめ」(あきらめ)を、人間が持てるかどうか。宗教という名のエゴ・思い込み、それゆえの衝突が激化している今の時代には、そういう理解こそが本気で求められているのだと思う。

こうした「理解の仕方」をこそ共有しようということである。「一部の人間に見える真実」を共有(そのじつ、強要)しようと発想するのではなく――。


●と、ここまできて、「これでは結局、「新興宗教でしょ」というご家族に説明できないだろう」と思うので(笑)、もっとわかりやすく伝えよう。

「我欲」と「妄想」を引いたもの――それがブディズムである。あるいは、人の幸せに純粋に貢献しうる宗教の本質部分である。

他方、「自分の側の利益・権力・名声・規模」といった「内向き」の目的で「妄想」を語りだすのが、「限界ある宗教」である。

※ここで「悪しき宗教」「新興宗教」といわないのは、宗教そのものは「内面的真実」としては価値を持ちうるからである。他者にとってどれほど理解しがたい内容であっても、それを求める人にとっては、「その内面においては真実たりうる」はずである。

ただやはり「限界はある」。それは、「内向きの目的」を共有しない他者が、必ず存在するからである。この事実こそ、「絶対」といっていい。「すべての人間が、ただひとつの思想・人間を信じる」などということは、まずありえないと考えるほうがよい。

だが「宗教」というのは、えてしてこういうとんでもない「妄想」をしてしまう。「自分が正しいと信じるから、絶対で究極」と思い込んでしまうのである。

だが、他者に見えるものではない以上、それは「妄想」なのである。

どのような真実であっても「妄想でしかない」という理解こそが、大事なのだろうと思う。


●今日に至るまで、人間の歴史に登場してきた「宗教」は、「妄想」から自由ではなかったように映る。

「宗教」を信じる人たちは、「妄想」を共有している面があることは否めない。いわば「妄想共同体」である。「他者にとっては妄想にすぎない」という理解が持てない。「私たちにとっての真理は、他者にとっても真理」と思い込む。。その危うさをこそ、他者は警戒するのである。

「我欲」と「妄想」を引け――そこに残るのは何か?

「人それぞれの幸福に役立つ方法の一つ」が残る、と私は思う。

「唯一の方法」ではない。「数ある方法の一つ」が残る。

「方法」は、正しい目的にかなうものだ。「正しい目的」とは、自分自身の幸福、あるいは苦悩からの解放であり、しかも他者に苦悩を与えないものである。

自分自身を苦しめること、あるいは他の誰かを苦しめることは、「正しい目的」ではない。その時点で間違っている。

自分が苦しむか、他の誰かが苦しむという帰結をもたらすものもまた、「正しい方法」ではない。その方法は間違っている。

その目的に、誰かの苦悩があってはならず、その方法が、誰かを苦悩させるものであってはならない。

もしそういう帰結をもたらす思想・宗教があるとすれば、そこには「我欲」か「妄想」がある――そうと気づいて、あきらめねばならぬ。でないと、世界はいっそう殺伐としたエゴとエゴの争いへ突入してゆくだろう。


●ちなみに、ブッダ自身が、人間を苦しめる心の現象(古くは煩悩と呼ぶが)として、貪りと怒りと妄想とを挙げたことは、ここに至って、まさに慧眼だったとわかる(こう書いてしまうと、ブディズム礼賛という危うさを警戒せねばならないが(笑))。

まさに欲と妄想とを、最初に引くべきなのである。そうすれば、「悪しき宗教」は成り立たない。そのとき残るのは、「現実をどう理解し、どう思考し、どう関わればよいのか」という「正しい」(役に立つ)知性ではあるまいか。

私が伝えたいブディズムは、まさにそうした「知性」の一つである。おそらくさまざまな思想・宗教の中に、こうした純粋な知性というのはあるはずだ。

人それぞれの真実を「洗練」させることである。我欲を引け。妄想を引け――合理的で、実用的で、誰かの幸福に役立ち、誰をも苦悩させない「方法」のみに立って生きよう。それで十分ではないか。



ということで、「おまえ、新興宗教にハマったのか」「あなた、やめて」と言われた人は(笑)、「大事なのは、人それぞれが納得いく人生にたどり着く方法。学んでソンはしないよ」と伝えてみよう。

「方法」は、あっていいのではあるまいか。



Q&A【子育て編】 子どもの承認欲との向き合い方

++++++++++++++++++++++
おしらせ

●7月31日(日)午後2時から、仙台で茶話会
参加ご希望の方は、①お名前と②携帯(臨時連絡用)をご連絡下さい。場所は公共施設。個別に連絡します。

朝日カルチャー大阪『ブッダの教えから学ぶ 人生をより快適に生きる方法』
8月 22日 (月), 16:00 ~ 17:30
朝日カルチャーセンター中之島教室(大阪市北区中之​島フェスティバルタワー18階) 06-6222-5222


名古屋・栄中日文化センター 「座禅エクササイズと仏教こばなし」
8月 25日 (木), 10:30 ~ 12:00
〒460-0008 名古屋市中区栄4丁目1番1号 中日ビル4F 0120-53-8164

 


●8月28日から四国・九州行脚。9月3日は熊本市で法話会。お声かけていただいたところに立ち寄ります。

++++++++++++++++++++++

Q&A 子どもの承認欲との向き合い方

ロンドン在住で、kindleで『反応しない練習』を読んでいるママさんから。
Q「5歳の娘のことで相談です。

「(お友だちの)○○は、良いものをもっている(羨ましい)。エミリーは可愛いスカートをはいていて、フェアじゃない。私は○○ができるけど、ジェイコブには○○ができない。わたしは難しい本をよむが、ミヒャエルは読めない――

などと、子供のレベルですがジャッジメンタルな(判断を含む・批判的な)表現で自慢したがったり、タイミングを見計らって、そのお友達と張り合うような会話をしようとします。

「くらべるのではない You are you, we are all different」という風に伝えますが、この資本主義社会、激しい情報化社会の中で、子供に心の持ちようを伝えたら良いでしょうか? 娘がいう自慢や 他人と比較する表現に、どのように対応したら良いのでしょうか?」


A 
子どもらしい様子が伝わってきますね(ほほえましい(笑))。

ひとことで言うなら、「まだあんまり気にしないでいいのでは」ということでしょうか。

ひとと比べてモノをいうというのは、たしかに承認欲から来ています。この承認欲が子ども時代に顕著に出てくるのは、おそらく2回――5歳から9歳くらいと、 14歳前後、じゃないだろうか(このあたりあくまで個人的な経験・印象で語っているので、適当に受け取ってください)。


●一番用心しないといけないのは、十四歳前後のいわゆる思春期の承認欲。この頃は「自意識」が急激に肥大し始める時期です。

この時期に、「妄想」(ボク・わたしはすごい・優秀といった自己イメージ)や、周囲への「怒り」があると、「承認欲」と結びついて、自意識のモンスターみたいな人格が育っていくこともある。たとえば、極度のナルシシズムや、傲慢・独善や、怒り型の性格など……。

※ちなみに「新型うつ」と呼ばれている現象は、すべてそうだとはいえないけど、けして病気ではなく、承認欲で周囲に怒りの反応をして、その怒りが蓄積されてヤル気が失せてしまう状態、と理解できなくもない。プライド・優越欲は高い、でも現実の自分は追いついていない、なので不都合な現実の前ではウツになり、 それ以外の娯楽などではヤル気復活、という姿も、なかにはあるみたい(もちろん全部じゃないよ)。プライド、は結局、自分を苦しめる。さっさと捨てて、素直になりましょう。


●その一方、5歳前後の「自意識」というのは、もっとシンプルで、親が肯定してくれれば、それで満足できたりする。学校が始まって、新しい友だちも増えて、多くの子どもは、それなりに元気にやっているが、やっぱり環境にどう 適応すればいいか(どうふるまえばいいか)は、子どもながらによく考えている。

もっと幼い頃なら、親の懐に飛び込んで、ひと安心。でもそれだけじゃ足りなくなった年頃の子どもは、それ以外の安心をなんとか得ようとする。そういう心情からの「比較」である可能性がある。

この「比較」が、クセになっちゃうと、本人のためにならない。「認められるためには、努力すること。貢献すること」が基本だから――ただ、それを理解してもらうのは、もう少し先のこと。そのときまでに親自身が、そういう価値観に立つ必要がある。

(準備して下さいね、ということ(笑)。下手な比較や、ご近所・周囲の視線・評価を気にしちゃうという発想に流れないように――親がそういう発想から自由でい れば、子どもは比較という発想をしなくなる。結局、親がどう返すか(対応するか)で、子どもが(家か外かで)学習してきた「比較」という発想がつづくかどうかが、決まる。)

――――――――――――――――――――――――

●積極的に話を逸らすなら、承認欲のライフサイクルって、以下のようなものかも――

①承認欲(親に見られたい・愛されたい・褒められたい)
   ↓
②単純にかわいがってもらって満足(乳幼児期)
   ↓
③頑張ること・ガマンすることを褒められて満足
   ↓
④社会的に価値あること(勉強・活動・仕事)を評価されて満足
   ↓
(それで生涯生ききる人もいれば、途中で限界を感じる人もいる)
   ↓
⑤お役に立てればよし(貢献)という思いで満足
   ↓
⑥(それすらも超越して)自分自身の価値観をもって満足
   ↓
⑦(さらには悟って?)いっさいの判断・期待をもたない状態で、〝事実上〟満足(ただ生きている・ただ活動している。それで十分という実感がある)


――①から④は、外(他者)の承認や、成果を必要とする。でも⑤から先は、自分自身が納得できていればそれでいい。前半は、まだ子どもの発想が残っているのに対し、後半は、完全に「自立」している。おとな(?)の境地。

――――――――――――――――――――――――

●本題に戻ると、5歳前後の「比較」というのは、まずは安心したい・親に認めてもらいたいという素朴な承認欲から来ている。だから、親としては、「比較」そのものにとらわれない(考えすぎない)で、子どもそのものを認めてあげることだろうと思う。 たとえば、

「○○(自分の子供のこと)は、こんなことができるんだね、すごいね」

「よくがんばったね」 (努力・辛抱をほめる)

「(子どもの友だち関係をよく聞いて)○○ちゃんにそう言ってあげたの?してあげたの? エライね」

――要は、子ども自身のこと・子供の言葉・ふるまい〝そのものだけ〟を褒める(そのためには、よく見て、よく聞いてあげる必要がある。親の最初の務めはやはり「正しい理解」Right Understandingである)。

とにかく、子どもというのは、褒めるときには、条件をつけず、百パーセント褒めてあげること。大事なのは、「親というひとりの人間が、完全に自分を認めてくれた・受け止めてもらえた」と子どもが実感できること。「褒める練習」もしないといけない。親に雑念・煩悩・我欲・期待があると、純粋に褒めることはできない。褒めるのも修行がいるのである。

――――――――――――――――――――――――

●これが基本。そのうえで「比較」という発想――子どもが学習しはじめた「判断」への受け止め方を、確立しよう。

子どもが示す「比較」の部分には、けっして反応しないこと。親自身も絶対に「比較」しないこと。

よ く「近所の○○ちゃんは、こんなことができるんだって(すごいね)」と、よその子を引き合いに出してしまう親がいる。これは厳禁。子どもからすれば「自分 を一番みてもらいたい」時期に、親が他の子どものことを語りだすというのは、あまりに不条理(笑)。なんでよその子の話をしているの???(⇒わたしのこ とはどうでもいいの?)ということになってしまう。

ここでも、子ども自身のふるまい・言葉・考え方そのものを、よく理解して褒めてあげることが、絶対の基本になる。まずはその練習。

そのうえで、子どもが、他の子を引き合いに出してきたら(はて、その比較は誰から学習したのか?気をつけたいものですが(笑))、

「比べなくていいのよ。あなたのことは、お母さん・お父さんが一番よくわかっているから」と言ってあげること。

もし、もう少し大きくなって、比べることでひとを見下したり、プライド・虚栄心を見せるようになったりしたら、

「そんなことを考えても、自分にプラスにならないからやめなさい(少なくとも親は聞かないし、ゼンゼンいいとは思わない)」と、はっきり伝えることかと思う。

比べたって、なんの足しにもならない――ということ。これは、十歳くらいから先、分別(思考)が身につきはじめて以降に、親が伝えるべきこと。

――――――――――――――――――――――――

●こう考えていくと、見えてくることがある。それは、親自身が、誰よりも一番、成熟・成長を求められている、ということ。

比べない。世間の価値観を真に受けない。自立する。

子どもの思い・言葉・ふるまい(だけ)を、正しく見つめて、正しく聞いて、褒めるべきところを大いに褒め、「子ども自身にとってマイナス」なことについては、人間として厳しく叱る――「わたしは、あなたにとってそれが正しい・プラスだとは思わない」とはっきり伝える。

これらは、なかなかできることじゃない。親といっても、まずは自分自身の修行・勉強が必要だということ。


●さいごにもうひとつ質問――

Q「お友だちから嫌なことを言われてしまった場合は、どのようにアドバイスすべきでしょうか?」

A「気にしないでいいよ」かな。

「○○ちゃんは、きっとイヤなことがあったのかもしれないね」(向こうへの理解と思いやり)

「(子どもに向けて)○○はどう? 心当たりあるかな? ないなら、気にしないでいいよ」

「○○が、いい子なのは、わたしがよく知っているから(笑)」と、サラリと流す。

ここでも、まずは「子供を肯定する」から入ることかもしれません。

他人・世間は「ひとさまの領域」。コントロールできないし、追いかけるだけ自分を消耗していく。他人の言葉・視線は「気にしない」が基本では。

だから、親が自分自身を肯定し、自立し、「ひとさま」を追いかけない。

それゆえ自然に、親は子供を肯定し、けして「ひとさま」の目で子供を判断しない。
(判断は不要です。理解すること。そして肯定すること。)

●つまりは、親としての心がけを確立すること――生きているかぎり、発見・学びの余地はあるということ。それって希望ですよね。

精進してまいりましょう。




命はどこに帰るか?&「こんなとき出家したい」おたより募集

++++++++++++++

生き方としての仏教講座・7月編 
7月15日(金)午後7時 神楽坂・B室/7月16日(土)午後6時 神楽坂・B室/7月17日(日)午後6時 赤城・A室
※7月は「心を洗う方法~清浄行」を予定。15・16日はいずれか1回のみ参加可(狭いB室のため)。17日は(連続)受講もOK。
座禅と法話の会
7月16日(土)午前10時/7月17日(日)午前10時/7月18日(祝)午後1時/7月24日(日)午前10時
<その他>
◎東武カルチュア池袋 7月9日・23日・30日 午前10時
◎東急BE 7月20日 午前:二子玉川/午後:たまプラーザ 
◎巣鴨 大人のための「仏教の学校」 巣鴨 - 巣鴨地域文化創造館 7月21日・28日(木)午後2時から(「睡蓮会」の教室へ)

●7月31日(日)~8月3日 全国行脚~宮城・福島・岩手・秋田で追加訪問地募集中!

+++++++++++++ 6月26日(日)

午後に足立区の老人ホームを訪問。とてもきれいな施設。スタッフさんも元気そう(仏教講座に来ていた青年が楽しそうに働いている姿をみて、なんだか感無量(笑)。みんな大人になっていく感じがして(笑))。

さすがに年を重ねると、肉体的に不自由が増えてくる。なので、長い話・むずかしい話はできない。テンポよく、わかりやすく、明朗で、不安にならない声音・口調で――を意識してお話。

パーリ語のお経がよかったみたい。おわって一人ずつ握手。みなさん、あったかい手だった。

その後お茶会をしたのだが、やっぱりみんな、いろんな思いを抱えている。胸の内の苦しみもあれば、別れたひと・これから別れていくひとへの思いもある。長い人生を夢中で自分なりに生きて来て、でもすべての人が、いつしか静かに立ち止まる時期を迎えて、その中でも流れ続けるこの思いを、どっちの方角に運んでいけばいいか、というところで、多少の迷い・とまどいみたいなものを感じ始める。

こういうときには、般若心経の朗読なんかがいい――ひとはみなやすらぎへと還っていく。この心のどこにも、じつは苦しみは存在しないのだ、という話。

執着ゆえのわだかまり――ひとによってそれは怒りだったり後悔だったり恨み節だったり恐れだったりするが――を手放しさえすれば、心には、実はなんの苦悩・渇きもないことを知る。

「この心はいつも安らぎとともに」――と念じてみるのもよいかもしれない。何にもしがみつくことも、追いかけることも必要なく――そして、ただほほえみつづけているだけでいい。

そんな思いを育てるためにこそ、般若心経の(訳の)朗読だったり、法話(心の持ちかたの話)だったりを、こういう場所でやっていくことには、おおきな意味があるだろう。

ひとはみな順繰りに、静かな時代へと入っていく。私もそうだし、みんなそうだ。そのときに正しい(苦のない)心の持ちかたを知っておくほうがよい。これは、旅の途中の正しい心がけであり、また旅立ちへの準備でもある。

みなさん、満足してくださった様子。涙してくださったり、笑って下さったり、元気に納得して下さったり……。

老人ホーム訪問は、これからも続けたい。聞いてやすらげればよいのだから、<お経の(翻訳詩の)朗読会>がいちばんよいかもしれない。今月は結婚式の機会を授かり、夏は子供との交流会が実現しそう(ジャータカ物語(絵本)の朗読会なんかよいかもしれない)。いろんな場所でいろんな役立ち方をさずかることができたら、こんなにありがたいことはない。

生きることは、ときに苦しみをともなう。

ただ、ひとはみな、やすらぎの世界へと還っていく。


★おたより募集!次の本のテーマは、「出家」です。ただ、仏教の世界限定の出家論ではなく、この世にあってこの世に染まらない生き方、という新しい可能性をさぐる本にする予定です。

そこで! 「こんなとき、出家したい」(あなたが「出家したい」と感じるのはどんな時?) というテーマでおたより募集します! お待ちしています。

 

「弱い親」として悩んだときは……

お知らせ
★6月23日(木)午後2時 巣鴨、6月25日(土)午後6時 神楽坂  
 生き方としての仏教講座(八正道の続き)

★東洋経済オンライン最新記事 心が強い人は「ムダな考え」を消している


★全国行脚、訪問地募集中です――特に岩手、福岡の方、近隣県にいきますので、お声がけください。

++++++++++++++++++

6月22日 ※長いし、やさしくはないので、ご興味ある方に……^^

ふたたび家族論――今回は、「子に弱い親」について考えてみたい。

子に弱い親というのは、けっこういる。つい子の依存・甘えを受け容れてしまう親。つい子の叱責・怨嗟・非難の言葉・暴力を受け容れてしまう親。

こんな親子関係はもうイヤだと思っている。疲れている。なんとかしてほしいと願っている。

だが、子の行動・性格・言葉・生活はいっこうに変わらず、泥沼のような親子関係が、ずっと続いて
いる――。

こうした関係の呪縛を断ち切る方法というのは、本当にあるのだろうか?――いくつか考えうる点を整理してみよう。


●まず子の心理から理解してみよう――子が親について抱く思いには、きまって期待と妄想がある。

「(親は)本当はこうあるべきである。こうあってほしかった」という思い。

その思いを、執拗に親にぶつけ続ける。子が生まれてから30年、40年、50年経ってもなお、である(親は親になった年齢から、その期待・妄想を向けられることになる)。

子の思いの正体は、シンプルである。最初は、愛されたい・面倒見てほしいという素朴な要求であったろう。ただ、それを受け止める側の親の「人間性」は千差万別である。素晴らしい親、比較的マシな親、けっこう問題ありの親、とんでもない親……それは致し方ない^^;。人間には特徴がある。人間は人間であって、「親」はあくまで二次的な姿である。

ただ、子は、親を「人間」として受け止めることはできない。生まれた最初から、期待・要求・願望を向ける。その願いに、際限はない。量も期間も、「これで終わり」ということはない。

もしある程度、その要求が満たされて、子の人生に、仕事や恋愛や結婚や、その他「外の世界」が入ってくれば、親への期待は減っていく。やがては「親離れ」していくようになる。

ただ、子どもの願望・要求がかなわない状態でとどまった時――たとえば、親が応えきれなかったり、子が何かに挫折してゆきづまったりした時――には、その願いは、不満としてくすぶることになる。ここが、最初の要注意ポイントである。


●子が親にもつ苦しみとは、自身にとって望ましい親の姿を描いて、そうではない親の姿に、怒り、落胆、動揺を抱くところに始まる。

その苦しみのみなもとは、求める心が作り出す妄想である。

その妄想が、いくつかの反応を作り出す。

ひとつは、憤懣。もうひとつは、和解・修復を期待しての迎合である。

後者(努力・迎合)の場合、苦悩するのは、子である。このとき親はトクをする。「権力」を握る。

前者(憤懣)の場合は、親の態度によって二手に分かれる。もし親が、子の憤懣を受け容れない「強い」親である場合、子は、その思いを(最終的に執着を手放して「大人になる」まで)抱え続ける。

この場合、「親を手放す」ことが一番よい。このとき逆に、親に執着して、親の近くに居座ってしまえば、親子は地獄を見る可能性が高くなる。

他方、もし親が、子の憤懣を受け容れてしまう(つまり聞き入れてしまう)「弱い」親の場合、出口の見えない袋小路に入り込むことがある。

というのは、子の憤懣の「原因」を、親は正しく理解できないことが多いからである。

●たとえば、子の憤懣というのは、実は親が想像しない点にあることもある。よくあるのは、子が、人生をうまく生きられていない場合。たとえば、進学、就職その他でつまずいて、「不本意」な思いを抱えている場合である。(あまり指摘したくはないが、結局、怠惰・快楽に執着している場合も、あることもある)

その「不本意」、つまり怒りがアタマに浮かんだ時、自分を責めるか、誰かを責めるか、という形で心は「発散」を求める。

ただ耐えるとか、前向きなモチベーションにつなげることも可能ではあるが、進展のみえない状況においては、難しい。手っ取り早く「責める」対象を探し出すことになる。

責める対象は、身近にいたりする――つまり、怒りを受け止めてしまう親である。あるいは、甘えを許容してくれる親。責めてもなじっても、じっと耐えている親。あるいは、自身の甘え(ときには親を心配させたり、迷惑をかけたり、トラブルを起こしたりという形で出てくることもある)に、あわてふためき、動揺し、なんとかしようと頑張ってくれる親。泣いて嘆いてくれる親。

そういう親が身近にいると、子にとっては、憤懣・怒りのはけ口にしやすい。場合によっては、自分自身のプライド・支配欲を、親に向けて満たしていることもある。

たしかに、子の憤懣の一端には、親がいることはある。だが、原因は親だけに限らない、ということころが、ミソ(注意したい点)である。

親とは哀しいもので――子に責められると、「そのとおりかもしれない」と思ってしまう。自分自身がよき親であったか、十二分にしてやれたか、という点において、自信をもって肯定できる親など、おそらくほとんどいないはずである。ほとんどは、「至らなかった自分」という思いがある。だから、そこを突かれると痛い。親は自分を責め、「せめてなんとか応えてあげよう」と思う。

責める子どもと、受け容れてしまう親――この二つがそろったときに、苦しみの呪縛が生まれる。

●さて、この呪縛を立つ方法とは、どういうものだろうか。

執着こそが苦しみの原因なのだ――という仏教の理解は、ここでも当てはまる。執着を断ち切れば、関係は変わる。

子の親に対する執着。親の子に対する執着。それを断ち切るとは、どういうことだろう?
 
たとえば、子が親への執着を斬って捨てるとは、こういうことである――「親にはなにも期待できないんだ、このヒトはこういう人間なのだ」と割り切ること。

そのときは「こういう人に期待を向けていてもしようがない」と思う。あるいは、「人間としてひどい」相手なら、「そんな人間と関わるべきかどうか」を考えるようになる。親への執着を斬って捨てて、「関係を選べる」心理状態に立った時、子は自由になれる。(捨てましょう(笑))

あるいは、子が、「自分の苦しみの原因は親のせいだ」という思いを断ち切ることである。子はときに「自分がこうなったのは親のせいだ」「あやまれ」「どうしてくれる」と親を責め立てることがあるが、その責任追及の連鎖――親を責め続けるという執着――が切れた時。

そのとき、子は解放され、親も解放される。

●ただ、こうした「解放」は難しい。理由のひとつは、子の側に執着することの快楽があるから(親を責めているかぎり、自分は責任を負わなくてすむ気がする)。

また親の心情として、子の執着を受け容れないことは、難しいからである。それは「愛情」なのか、「弱さ」なのか……たぶん両方である。

親がよくよく注意すべきこと。それは、子が親に向ける執着――憤懣も甘えも含めて――は、実は、親に理由がない場合もありうるということである。

たとえば、子が親に向ける不満の理由が、はるか昔の過去の出来事だったり、子ども自身のつまずきだったり、ふいに湧いてくる怒り交じりの妄想だったりする場合である。これらは「子どもの側の事情」であって、親はもはや関係がない。

(※ちなみに、怒り交じりの妄想というのは、部屋に閉じこもっていたりするときに、ごく自然に出てくる。これは、本人には正当な怒り・妄想に見えるものだが、本当はそうではない。事の本質は、「妄想しやすい環境」に留まってしまっている状況そのものにある。子を責めるのも間違いだし、親を責めるのも間違いである。この正しい理解に立つと、発想が変わってくる。そこまでここでは言及できないけれど(笑))

ただ哀しいことに、弱い親には、そのあたりのことが見抜けない。
見抜けたとしても、過去にさまざまありすぎた関係においては、指摘できない(すると逆効果になる)こともある。

親はえてして弱いもので、子が責め続ける限り――その関係に依存・執着してくる限り――なかなか拒めない。子も、そういう弱い(≒親なりの愛情をまだ持ってくれている)親の態度を見て、責めたり、甘えたり――つまりはその関係に依存――してくる。こうして、苦しみの袋小路――出口の見えない関係の輪廻――が回りだす。


●さて、問題はここからである。苦しみの原因が執着にあるとして、その執着を断ち切る方法の「基本」とは何だったか――そう、正しい理解である。


まずは、子が自身の執着を理解することである。それは、今の生活・状況・関係への「執着」そのもの。持続してしまっている事実そのものを、よくよく理解することである。

そして、子の側でできること・努めるべきことは、「執着していても仕方がない」と目を覚ますことだろうと思う。出口が見えてない今を理解すること。そして新しい方向を見て舵を切ることである。

子がときに親に向ける怒り――その「不本意」な思い――も、同じである。その「不本意」が、自分に何をもたらすのかを、よく理解すること。

親の至らなさ・弱さ・甘さが、今の自分の不本意につながっていることは、たしかにあるかもしれない。

しかしありのままをいえば、それは、今の自分のありかたを決める理由にはならない。過去は過去にすぎず、親は他人にすぎない。過去に戻ったところで、親という他人に目を向けたところで、自身の今が変わるわけではない。

ほんとうは――親も過去も関係なく、このままでよいのか?という問いの一点にたどり着くしかない。

どのような思い・言葉をも、親に向けることはできるだろう。しかし、誰にいかなる思いを向けようとも、ひとつだけどうしても否定できない真実がある――それは、汝(自分自身)のためにならない、ということである。

「汝」(あなた)という言い方は、呼びかける相手を想定している。文字通り「汝」と呼びかけることになる人もいるだろうし、自分自身のことを「汝」と呼んでみるのもよい。自分自身を目の前において、たずねてみるのである。


●親もまた、気づかねばならぬことがある。自分自身がこれまでどのような人間であっても――どんな親として生きてしまったとしても――それは過去のことである。埋め合わせられるものは、埋め合わせよう。ただ、親である前に、小さな人間である自分自身には、どうしても埋められぬものもあるのである。けして「親としての自分」にばかり執着していてはいけない。「親であることをあきらめる」覚悟もまた、必要なときがあるのだろうと思う。

ひとが忘れてはいけないのは、「これは、相手(目の前のこの人)のためになるのだろうか」という発想である。

親もまた、「これは、あなた(子とは呼ばないほうがよい)のためになるのだろうか」を考える。胸を痛めて考える。「親としての自分(の至らなさ・価値・プライド)」に胸を痛めるのではない。苦しんでいるひとりの人間を想って、胸を痛めるのである。

それはときに、覚悟がいる。親が親でなくなる覚悟。そして子が子ではいられない覚悟。

これは案外難しいことだ。たとえば、自身の親――親自身の親も含む――を許すこと。親の業(影響)から自由になること。つまらぬメンツやプライド、世間体、優越欲・支配欲や劣等感などを、「愚かしい判断」とわきまえて、サッパリ捨てること。自身が成長することが先決である。自分が変わっていく勇気を持つ必要がある。


●子としては、こう考えよう――自分が見るべきは、親ではない。自身の人生である。結局は、この関わり・この生活・今日の過ごし方が、自分自身にとってためになるのか。そこを問う努力をしようう。「求めつづけてきた親の姿」は、淋しいことだけど、妄想だ。手放す準備を始めよう。

親としてはこう考えよう――親の自分が見るべきは、子ではない。子を何とかしようとか、子に何かしてあげようとか、いたらぬ自分を反省する・恥ずかしく思うとか、そういうことではない。

親も結局は、自分自身をよく理解するところから、踏み出すしかない。至らなさは至らなさとしていさぎよく受け止めるが、ここから先、よき関係を作っていくために、まずは自分自身が育っていくこと個を、自身と子の前に誓うしかない。

「育つ」とはどういうことか――やはり「正しい理解」を深めることである。自身の心をよく理解するように努めること。そして、子の心をよく理解するように努めること。

理解すべきことは、たくさんある――怒り。裁き(判断)。慢(自分の正しさへのこだわりや世間・近所を気にする心)。こうした思いがある状態で、よき関係を作れるはずがないではないか。

自分の心を、相手の心を、これからの関わり方を、「よく理解できるようになろう」と思えることが、出発点になる。それ以外の地点からは、きっと何も始まらない。

正しく理解する心に立てた時、自然にこう思えるようになるだろう――

あなたの気持ちはわかるし、受け止める覚悟もある。

しかし、それ(あなたがしていること・語ること)は、あなた自身のためにならない。

――今、これを言えば、逆ギレされるかもしれない(笑)。だとしたら、それだけあなたが、自分も、子の心も見えていないということである。きちんと見る・見える人間の言葉は、きっと届く。なぜなら、その言葉は、純粋な悲の心――相手の痛みを感じる心――から発しているものだからである。


これは、複雑で、深く、時間のかかるテーマである。ただ、ひとつだけ最後にまとめてみると、こうなる――

「これは相手のためにならない」という悲の心。

その心が相手に届くように、誰よりも自分自身が理解を深めること――。

(あなたの幸せを祈念しつつ^人^)

http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E4%B8%88%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%82%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%81%AB%E6%82%A9%E3%82%93%E3%81%A0-%E8%8D%89%E8%96%99-%E9%BE%8D%E7%9E%AC/dp/4759314792/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1458975997&sr=8-1&keywords=%E5%A4%A7%E4%B8%88%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%81%AE
家族に悩んだときは、きっと役に立ちます(クリック)

出家が夏に求めるもの

6月14日(火)

ひとまず東京に帰って来た。今回は、長野そして三重への小旅行。いずれも意義ありあまる訪問になった。

ひとの心はときに深い苦悩を背負うことがある。が、心とは無常、つまり形なきものである。

だから、どのような苦悩であれ、それ以上に反応を繰り返さなければ、ほぼ確実に消えていく。これは自分が納得できるか否かを問わず、心の性質にてらせばそうなる、という真実だと思っていい。

本来うつろいゆく形なき心に、なにゆえに苦悩が居座り続けるのか。よく考えれば不思議なことだが、その原因を仏教では〝執着〟あるいは〝業〟と表現するのである。

執着とは、さまざまな意味を持つ。繰り返す心。ひとつの反応に慣れている心。忘れようとしない心。迎合する心。元に戻ろうとする心――ひとは、「変わらない」自分に蜜(快)を覚える。ただ、それはなにゆえに快かといえば、単に「心は同じ反応を繰り返すものだから」である。

ひとはあれこれと理由をつけて、同じ自分を繰り返そうとしてしまうが――もちろんそれ自体がいけないということではない。それもまたひとつの選択たりうる――ただその場合に、たしかにいえることは、「これまでの苦悩も続いてしまう」ということである。

変わらぬ自分に蜜を感じるとともに、変わらぬ自分を生きることで苦しみも背負い続けることになる。ならば、どちらのほうが、冷静に考えてみて自分にとって正しい選択なのだろうか――変わる道を選ぶこと? 変わらぬ道を選ぶこと?

答えをあえて出すなら、「どちらも正解」である(笑)。どちらの人生も、生きていく価値はある。ひとはただひたすら、命続く限り生きていく。それだけでほんとうはよい。

ただ、「変わりたい」という思いがあって、変わらぬ道に留まり続ける自らの執着(生き慣れた心)を「手放していこう」と、道の途中で決意するなら、その決意に素直に沿って生き始めることである。

そのときは、「正しい道」――正しい生き方・心の使い方――をよく学び、自分にできる範囲で精一杯実践することだ。最初から「正しい道」そのものを生きられるわけじゃない(だって過去の自分もしっかり鎮座しているから)。でも「自分」とは違う「正しい道」を知ることで、少しずつ軌道修正が可能になる。「道に立つ」「道を学ぶ」ことは、そういう決定的な意味をもつ。道を知らなければ「自分」を繰り返すしかないが、道を知っていれば「自分」を改めて作っていくことができる。新しい人生が始まるのである。


●今回の訪問は、ちょうど夏を思わせる快晴・暑気だったせいもあって、なにかしら「全国行脚」の予行演習みたいな感じだった。列車に乗る。空を見渡す。野山を眺める。ひとが住まう家、小さな舗道、育ち始めた稲田、光うるおう河、ひとつひとつを心で触れながら飛んでいく。そしてその土地で生きている人たちに出会う。とても美しい時間【とき】がある。夏はひときわそうした旅を可能にしてくれる。

この夏の全国行脚に先がけて、ひとつ雑事を先にお伝えしておくなら、私は娯楽・快楽はいらぬ身である。仏道というひとつの道を、法話会にせよ、講座・講演にせよ、法事にせよ、個人的な相談にせよ、なにかしらの形をもって共有できること一点が、私自身の・興道の里の活動の目的である。

だからぜいたくはいらぬし、酒宴などもってのほかである(笑)。道を分かち合うことになんら役に立たぬからである。

そして、必ず「道をわかちあう」ことを最優先していただきたいと思う。たとえば観光地を訪問する等は、「道の後」におまけとして賜るのはよいのだが、そうした余興の方が先立ったり多くなったりすると、貧乏性の私は途端に疑問を抱いてしまう(笑)。

なるべく働かせて下さるほうがありがたい――どんな小さな相談事でもかまわない。そういう人たちが訪ねてきて下さること、あるいはそういう機会を作って下さることに努めて下されば、たいへんありがたい。

私がつねに想っていること――旅先で見るどの町並みにおいても、その一つひとつの屋根の下には、大なり小なりの苦悩があるものである。その苦悩に触れることはできないか。どうすれば、苦悩を越える〝可能性〟を作り出せるか。どうすれば可能性を求める人たちに出会えるか。どうすれば、可能性を分かち合った喜びをもって次の場所に旅立てるか――。

畢竟(とどのつまり)、私が求めるのは、道を求める人に出会って道を分かち合うことであって、娯楽・余興や、何かしらやった(やりたい)という自己満足ではない。私はそういう道を生きている厳格な出家である。ぜひそのあたり、心の片隅に置いて迎えて下されば、これほどありがたいことはない。


この夏、各地でお会いできるみなさまへ、

ぜひよきひとときを作れますよう、ご協力お願い致します(^人^=)。












最良の日

こんにちは、草薙龍瞬です。

最初に野暮用から(笑)――

坐禅会は、6月12,19日(日)の午後6時
仏教講座は、6月17日(金)午後7時/25日(土)午後6時 ★変則的に17日(金曜日)に実施。
巣鴨は、6月23日(木)午後2時

6月の仏教講座のテーマは〝八正道〟――人生を上手に作っていくための8つの実践メニュー――です。

全国行脚訪問地、ひきつづき募集中です。仏教を学びたい方、相談事がある方、ご連絡ください。

(さて、本題――)

+++++++++++++++++++++++
6月11日

この金・土曜に長野に行ってきた。

初日は長野のとある財団にうかがった。あえてどの場所かは、今は言葉にすべきではないと思う。あまりに感じるものが多かったからである。ただ、ひとつの場所 に根を下ろし、自らがさずかった縁(えにし)をただひたすらにまっとうする。その日々が積み重なると、たとえばこのような命充溢する空間を創ることができ るのだ、という証(あかし)を目の当たりにした気がする(よくわからないと思いますが、要は今はあまり言語化できないししたくない、善き出会いがあったと いうことです(笑))。
●今回言葉にできるのは、土曜の日のこと。

長野・明科【あかしな】で結婚式があった。私はその宣誓式をうけもつ牧師さん?(笑)的な役割をさずかって、足を運んだのだった。

昨日・今日と長野は暑いくらいの快晴だった。同じ列車に乗っていた新郎さんのご家族に、駅のホームで対面。参列者とご一緒にバスで八寿恵荘【やすえそう】と いう、カモミール畑に包まれた瀟洒な旅館へ。今日はここで結婚式をやるのであった。旅館にとっても初めての結婚式、私にとっても葬儀・法要以外につとめる 初めての結婚式、もちろん新郎新婦のお二人にとっても初めての結婚式なのであった。

新郎である青年は、仏教講座を通して知り合った。

青年は当時、仕事のこと、交際中の彼女(今日の新婦さん)のこと、まだ捨てきれない夢のことなど、いろんなことで悩んでいた。その半生の中でもしかしたら一 番重大な――人生を決するという意味で最も深刻な――悩みを抱えていた時期だったのかもしれない。彼は、私と一緒に仏教に触れ、そして神楽坂のファミレス でいろいろと語り合ったのだった。少しずつ、夢と現実との区別がつくようになり、そして現実のなかに充実や喜びを感じる生き方に目覚めていったような気がする。本当の人生を生き始めた、といってよい頃だったのかもしれない。

結局彼は、東京での仕事をやめて、地域振興に頑張る長野の池田町に、新天地を求めたのだった。そしていろんな苦悩、ひょっとしたら危機もあったかもしれないその女性――ヨーロッパのとある国の方――と、一緒に生きていくことをついに決意したのだった。

出会って九年目のお二人だという。そしてようやくこの日にたどり着いた。悩みの数々を一緒に乗り越えて、最高の結論にたどり着いた尊さは、やはり言葉では言い尽くしがたい。ただひたすら、「よかった(よかったねえ)」という気持ちしかない。

親族と知人だけを集めた小さな手作りの結婚式だった。屋外の敷地にしつらえた宣誓式(人前式)の会場で、私は二人の結婚を無事成就する小さな役割をつかさどった。


●二人が、生涯にわたる愛を成就しようと思えば、心がけるべきは四つ――

相手の喜び・幸せをわが喜び・幸せとして、ありのままに感じとること(喜の心)。

相手の悲しみ・苦しみをわが悲しみ・苦しみとして、感じとること(悲の心)。

そして、不満や不安その他、幸せに必要のない感情や思いは、よく自覚して(気づいて)手放すこと(捨の心)。

さらに、相手の幸せを心から願うこと――慈しみの心。



この四つを、いつも、つねに心がけること。その誠実な心がけを互いに向け合うことで、いつしか愛を成就する。「かわらぬ愛」というのは、道の先でふり返って 「変わらなかった愛」のことである。やがてたどり着けるかもしれない最高の愛に向かって、二人が努力すること――その心がけ・誠意の積み重ねの先に、生涯にわたる愛が実る。そういうものではないか。
四つの心がけを誓ったあとは、二人が、それぞれ、相手に向けてしたためてきた誓いの手紙を、みなの前で朗読。その言葉のきよらかさ、美しさに、そばで見守る人たちみなが感涙したのだった。みんななんでだか涙 ; ;)なのである。

精一杯の誠実さ、純粋さ、相手を思いやる気持ち、これから始まる新しい人生への誓い、相手への敬意、愛情、希望、楽観、覚悟……その他ありとあらゆる美しく 善き思いに、新郎新婦も、集った人たちも心注いで、他の物事をかえりみない。これほどに純粋なひとときというのは、人生の中でもそうそうない。というより 端的に、人生で最高の一日といっていい。その日の二人の姿を目の当たりにして、あまりのすがすがしさと、あたたかい愛情の通い合いに、みなが胸打たれるの である。結婚式とは、そういう日――。

指輪を交換して、誓いの儀式を経て、二人はみなのまえで正式な夫婦となりました。みんなで拍手!


真心こもった旅館の手料理や、新郎のご友人の音楽演奏(プラスお笑い芸)や、今日に力を添えてくださった方々の挨拶や、新郎新婦手製の写真上映や、参列者み なが自由にトッピングを飾るケーキや、いろんな気持ちが詰まった披露宴を終えて、バスで会場を後にする。二人はこの明科の地で、新しい人生に踏みだしたの である。ほんとうにすごいこと。そして今日立ち会うことができたことに、心から感謝。よかった、よかったである。


ひとつの場所に三年がんばれば、ひとつタネをまける。五年がんばれば、芽が生える。

そして十年がんばれば、もう折れない太い幹になる。枝葉も茂り、花も咲く。

そういうものではないだろうか。ほんとうの人生が始まったんだ――。


おめでとうございます。

これからの日々を、おふたりお幸せに――。


『世界しあわせ紀行』対談(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

6月8日(水)
こんにちは、草薙龍瞬です。

今回はお知らせ:
まもなく、早川書房(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)から、『世界しあわせ紀行』が出ます。



内容紹介――「不幸な国ばかリ取材してきたアメリカ人ジャーナリストが、人々が最も幸せに暮らす国を探して旅に出た。訪れるのは、国民の幸福度が高いスイスとアイスランド、逆に低いモルドバ、富裕国カタール、国民総幸福量を国是とするブータン、多くの西洋人を魅了するインドなど1O力国。各地で出会った人々や風習、哲学をユーモラスに紹介しながら、幸せになるために必要なものとは何かを探る。草薙龍瞬Xたかのてるこ特別対談収録」


●この本の面白さはね、私なりにいえば、「ちょっと(かなり?)暗い、神経症的な中年男性が、それでもなんとか『しあわせ探すぞ』と意を決して、いろんな国を旅して、帰る頃にはなんとなく(ほかの人にはわからないかもしれないけど、本人にとってはかなり劇的に)『しあわせ』に近づいている」というところにあるような気がします。

笑えなかった人が、ちょっと笑えるようになった、みたいな(笑)。なんとなくウディ・アレン――「50億年経ったら太陽が膨張して、地球は滅んでしまう」という病的ニヒリズムを劇中の少年に語らせた映画監督(作品名忘れました(笑))――とキャラクターは似てます。

私がお勧めするのは、これだけ自己否定感が強くて、楽しむことの不器用な男性が、旅の途中でもとにかくなんでもかんでも考え込んでしまうのだけど、ときおりふと「感情のヨロコビ・安堵」を感じているシーンを本の中に見つけること。

「ああ、この人、今、解放されている(やすらいでいる)んだ」と思える場面を見つけることです(ウォーリーを探せみたいな?)。

というのは、語り口が地味な作家だからね。その語りにマジメにつきあうと、こちらもマジメになってきます。(もちろんマジメ路線が好きな人も楽しめる本です。というか、そちらが正統派かも。「幸せ」について、十か国を旅して、インタビューしたり、統計データをひもといたり、哲学・思想・心理学を引いたり、と「学べる」本になっているので。)

この作家エリック・ワイナー氏が、もともとネガティブ思考を抱えていて、一所懸命「考えて」しあわせを探そうとして、でも案外旅先でみつかる幸せって、「感覚」や「感情」の快だったりする――これは仏教的なとらえ方ですが――というところを見つけていくと、この本の面白さがわかってくる気がしました。(欧米人だと「知的ユーモア」を感じとれるのかもしれないが――それゆえにアメリカではベストセラーになったらしいのだが――日本人には、彼のユーモアはわかりにくいかもしれない。なので、彼の素朴な(人間的な)喜びを発見してやるぞう、的な読み方をすると、面白さがみえてくるかもしれない。)

●もうひとつのオススメは、「対談」が載っていることです。たかのてるこさん――あの衝撃の名作『ガンジス河でバタフライ』の著者さん――と対談させていただきました。

てるこさんのバイタリティというか、パワー、明るさというのは、次元がちがいます(笑)。本を通じて以前から知っていたので、お話いただいたときは、「どうなるかな(なんで???)」と思っていたのですが、お目にかかると、なんというか、懐かしい感じがしました。今の時代は、わりあい人と距離を置くつきあいをよしとする人が多い気がするので……彼女はその真逆です。壁を破ってどこまでも人の心に入っていくたくましさがあります。まさに「地球の広報」さんです。

私は今は持戒の身の上なんで、一緒に踊る(?)ことも飲むこともできませんが、しかし楽しいひとときでした。

その対談が巻末に載っています。対談って、かみ合わないものになることもあるけど、今回の対談は、語り合いの中で新しい発見とか意味づけとかをどんどん作り上げていく、「理想の対談」みたいな感じになってます。あったかい対談です。お話いただいてよかったと思いました。しかも、この本そのものの面白さ・読み方みたいなものもわかります。

オランダ、スイス、ブータン、カタール、アイスランド、モルドバ、タイ、イギリス、インド、アメリカ――を旅したい人・旅する予定の人は、下準備にどうぞ。「幸せとは何か」というテーマを決めて旅に出る。そういう「テーマから入る旅」の作法も教えてくれます。

http://www.amazon.co.jp/dp/4150504660/ref=dp_ob_title_bk
楽しい対談でした


この夏の全国行脚、訪問地募集します!

こんにちは、草薙龍瞬です。
いよいよ、今年夏の全国行脚の準備をスタートします!

北は北海道、南は沖縄まで――お声かけていただけるところに、
草薙龍瞬がうかがいます。

○仏教に触れたい(法話・講演・勉強会・座禅会など)
○法事をやってほしい
○個人的に相談・聞きたいことがある


などなど、お気軽にお声がけください。

●応募方法

①お名前・住所・連絡先(電話番号※携帯が望ましい)・訪問希望日(複数可) をメールで登録。

 ※訪問可能日は下記日程をみてご確認ください。
 ※足代(新幹線・飛行機)あるいは車をご提供下さる場合は、日程に関係なく随時伺います。

②法話会・講座・法事などの「場所」を見つける。
  個人の質問・相談の場合は、相談内容・テーマを送る(メールで可)

 ※公共施設をご予約頂ければ、興道の里でも告知します。ご自宅・喫茶店等でもOK。

③興道の里・神楽坂と日時を調整。

③日時と場所が決まって、全国行脚カレンダーに「地名」が掲載されれば確定です。

●その他

※全国行脚中は、基本無料です。但し、テーマを決めての正式な講座・講演・座禅会として御主催になる場合は、参加費を集めていただければ、移動・里づくりに活かします。

(たとえば、最初に無料の法話会を開いて、その後、有志による講座・勉強会などに移行するという形もあります。初めての方にご負担にならない形を考えてみて下さい。)

※追記 全国行脚は、個人的な布施行として毎年実施するものです。平常の活動とは異なるので、講座の参加費や謝礼などは、「ご負担にならない範囲でのお餞別」と して承ります。車などでの移動の便宜や食事、宿泊場所のご提供などでも十分ですので、ご無理のない限度でご検討ください。

※少人数あるいは個人でのご連絡も、よろこんで承ります。相談内容・テーマをご用意の上、ご連絡下さい

旅の途中にふらり寄るという感じで足を運びますので、お気軽にご連絡下さい。


――お問い合わせ・お申し込みは、メールにて koudounosato@gmail.com

●訪問日程  ★は確定。それ以外は現在受付中。お近くにお住まいの方、お気軽にご連絡下さい。

7月19日~29日  関東【東京・神奈川・千葉・埼玉・栃木・群馬・山梨】+静岡

7月31日~8月2日 岩手・青森・北海道(いずれか) ⇒ 8月3日 宮城・福島・秋田(いずれか)

8月4日 山形 ⇒ 8月5日~9日 東北【岩手・青森・宮城・秋田・福島】 または 北海道

8月10日~16日  東京+関東6県+静岡

8月19日~22日  大阪 ※大阪近郊は場所によって訪問可 

8月23日広島

8月24日  広島・岡山・兵庫(いずれか)  
8月25日午前=名古屋 

8月25日午後から8月26日 東海・近畿・中部(いずれか)

8月28日~9月7日  中国・四国・九州・沖縄 ※熊本・大分での法事・法話の機会、ご協力ください。

★全国行脚のチラシ、ダウンロードできます⇒ JPG     PDF


​​――よき出会いを果たしたく。お気軽にお声がけください。夏にお会いしましょう!

「仏教」を学べば学ぶほど混乱してくるというあなたへ(見極め方)

こんにちは、草薙龍瞬です。今回はQ&Aのコーナー仏教編です。

Q
「仏教では、執着が苦を生むと教えています、わたくしも色々なものに執着し日々実感しております。

ところで、最近ふと気が付いたのです、苦を減らそうと思い勉強し始めた仏教の知識や方法、概念などに執着してしまい逆に苦を増やしてしまっていると。

例えどんなに良い教えや方法も執着した途端に苦しみになってしまうのだなと。と言うことは知識や方法にとらわれた時点でそれはもう、仏道ではないのでしょうね。如何でしょうか」


A おっしゃるとおりです。ブディズムとは、「心の状態が苦しみである」というところから始まります。

その苦しみを解消すること、克服すること――苦しみからの解放――それが「目的」です。

その「目的」だけは、けっして忘れないこと。それが、ブッダの教えをモノにする(つまりは自身の幸福に役立てる)最低限の条件になります。

「目的」があって、それに役立つ「方法」がある。

方法とは、たとえば「苦しみから抜ける方法」(四聖諦として指摘されたもの)としてのサティの修行や「八正道」の実践だったりします。 「智慧」――効果的な方法――と呼んでもいいかもしれません。

それを心がけて、自身の心の苦悩・渇き・満たされなさを越えていく――最後はそうした「解放」にまっすぐにつながっている――からこそ、「仏道」(ブディズムという心の使い方・生き方)たりうるのです。

だから、自分にとって「心の使い方・生き方」につながらないものは、自身にとって「道」にはなりません。それは、苦悩を抜けるという当初の目的には役に立たない。

その点で、「本」を通じて得る「知識」「理屈」というのもまた、「道」にはならぬのです。


仏教を学んでいく過程で、じつに多くの人が、あっという間に道を見失ってしまう――迷子になってしまう――ことが起こります。誰かさんの仏教書を読む。そこにたとえば「輪廻こそが仏教の根本だ」なんて書いてある。「ええ?そうなの?」とまともに受け取ってしまう。本当は、輪廻なるものがあるにせよないにせよ、「自身の苦悩を越えていく」ことだけが、ブッダの教えの「根本」であるはずなのに、そこをいとも簡単に忘れてしまう――。

「仏教」を語る多くの言葉は、①自らの苦しみを越えていくことを目的にせず、②自身が確かめたわけでもないことを、なぜか金太郎飴のごとく、「お釈迦さまの教え」「仏典に書いてある」ということだけを「根拠」にして発せられている。


どちらも、ブッダ自身が「あてにするな」と、厳に注意していたことなのに……(ブッダ最後の旅)。

そもそも――自身の目的にとってそれはどのような意味を持つのか。役に立つのか。確かめうることなのか。

そこがあいまい。というか、「思考の組み立て方」として、そうした(ブッダ本来の)視点が欠落しているように映る。

率直に言うなら――自身が苦しんでもない、苦しみを越えてもいない、そしてだれかひとの苦しみを本当にやわらげよう、抜けるきっかけにしてもらおうという動機のない「仏教を語る言葉」というのは、はて、どれくらい耳を傾けるに値するのだろうか?


ブッダ最後の旅(マハーパリニッバーナスッタ)から多少引用してみよう――

「智慧とともに成長した心は、さまざまな心の汚れ(反応)、すなわち欲望ゆえの汚れ、結生して続くに至った精神状態ゆえの汚れ、見解(≒知識・見解)ゆえの汚れ、無明(≒心の状態や原因が見えない)がゆえの汚れから解脱する(≒自由になる)」。

 ここで重要なのは、知識や見解――モノの見方――もまた「汚れ」(苦しみを作り出す反応)として挙げていること。なぜなら、「苦しみから抜けること」が目的である以上、特定の見解にとらわれることには「意味がない」からである。

「私は、教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって、心の清浄・安らぎに到達できるともできないとも説かない。そうした判断を捨て去り、こだわることなく、迷いの生存(≒あれこれと考えて、反応してさまよいつづける精神状態)を作らない」Suttanipāta838-839

 ここで重要なのは、「心の清浄・安らぎ」を目的として語っていること。その目的に役立つ、合理的な、効果的な「方法」のみこそが必要なことであって、それを欠いて、特定の教え・知識・見解・理屈を追いかけるのは無意味である、と語っている。

「どのような理屈であれ、心の苦しみを解くうえで役に立たないものは、無意味である」
それが、いかなる観念・知識にも頼らない・執着しない「めざめた人」の発想。


「ブッダの教え」なるものを語っている人・本が、何を語っているにせよ――その人がどれだけ学識豊かにみえて、「実践している」ことを自称し、「ブッダの教えとはこのようなものだ」と確信をもって語っているにせよ――

その人が苦しんでおらず、また苦しみを越える道を成就しておらず、
あるいは(成就したかどうかは自己申告だから説得力がないので(笑))
苦しみを越える方法を、きちんと相手に伝える能力がない・効果がない

――つまり実際に、その言葉を追いかけても、苦悩は解けない――

のであれば、

それは、ブッダの教えを語る言葉として正しくはない。


ときおり聞く質問に、「輪廻を説く仏教」と、「輪廻を説かない仏教」とはどちらが本当は正しいのか?というものがある。

端的に言って、それはどちらでもよい(笑)。信じたければ信じればいい。あるいは、自身の苦悩を越えるうえで役に立つなら、それは自分にとっての真実たりうる。

めざめた者は、特定の見解にはこだわらない。ほんとうに、どうでもいい、というか、どっちでもいいのである。だって、言葉でしかないから。

「ナンダよ、かの修行者・バラモンたちはみな、見解(知識・解釈・ものの見方)によって、言い伝えの学問によって、戒律や宣誓の儀式によって、清浄になると説く。

だが彼らがそれに基づいて自らを律し、実践していたとしても、生老病死の苦しみを乗り越えたものではない、と私は言う。

そうしたさまざまな対象をすべて捨て、求める心Tanhaをよく見尽くして(完全に理解して)心に汚れのない(≒苦しみの反応を残さない)人々――彼らこそは“煩悩の流れを乗り越えた人”(=自由になった人)と私は説く」Suttanipāta

――そう、煩悩の流れを超えること・自由になることこそが、ほかならぬ本人にとって最も確かな目的のはず。結局、知識・観念から抜け切れていない人は、「これが仏教だ」という言葉を鵜呑みにして、そもそもの道(目的)を忘れてしまう。あるいは、「私は悟りました」とか「これが自分が実践・体験したことです」という言葉を、まともに受け止めてしまう(^ ^;)。

実際には、その「仏教」「悟り」「実践」「体験」なるものが、「思考(観念)の域をまったく越えていない」ことが問題なのである。思考から自由になった人には、「越えていない」ことはすぐにわかる。しかし「思考」に囚われてしまった人には、それが見抜けない。一見もっともらしく聞こえる理屈を、簡単に信じてしまう。

かくして、ただの理屈を追いかけたり、他人の言葉を盲信したり、「自分は一生懸命学び、実践しているつもり」なのに、心の渇きはいっこうに癒されないということが起こりうる。


言葉だけなら、なんとでもいえる。問題は、その言葉がもたらす現実の効果であり、その言葉を発する側・受け止める側の「目的」である。

「目的」が、苦しみからの解放・癒しであるのか、ただの「仏教の知識」であるのか――後者にいつの間にか囚われていないか――よくよく考えてみてほしい。


「みきわめるのが難しい」って? それはそうかもしれない(笑)。

そういう人は、数ある「仏教を語る言葉」について、ひとつだけ、「よく見つめてほしい」点がある。それは、その「仏教」が、本当に、ひとを苦しみから解放するという目的のために語られた言葉であるのか、である。そうであるなら、その言葉には真実味がある可能性がある。

真実の言葉とは、自身が苦悩を知り、苦悩を超え、またひとの苦悩を感じつづける努力のうえにしか開けないもののような気がする。

私はせめて、その努力を続けたい。仏教を語る言葉は多様であってよいと思うが、私自身の言葉は、「苦悩を癒す上で役に立ちそうだ――これは「智慧」の言葉だ」と感じてくれる人に届いてくれればよい。

仏教を学んで混乱してきた人がいたら、「自分にとっての仏道――ブッダの教えに基づく生き方――とはなにか?」を、自問してみてください。

いや、もっと正確にいえば、何が自身にとっての目的なのか。
そのための方法として確実に腑に落ちるものは何か。

それを問い続けて下さい。答えはそれほど難しくありません(笑)。

とりあえず、本やネットの時間以上に、「心を見る」時間を持つことです。


http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%8D%E5%BF%9C%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E7%B7%B4%E7%BF%92-%E3%81%82%E3%82%89%E3%82%86%E3%82%8B%E6%82%A9%E3%81%BF%E3%81%8C%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8F%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%81%AE%E8%B6%85%E3%83%BB%E5%90%88%E7%90%86%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%80%8C%E8%80%83%E3%81%88%E6%96%B9%E3%80%8D-%E8%8D%89%E8%96%99%E9%BE%8D%E7%9E%AC/dp/4041030404/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1463382544&sr=8-1&keywords=%E5%8F%8D%E5%BF%9C%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84










「これから40年」を新しく生きよう

こんにちは、草薙龍瞬です。
そろそろ全国行脚の訪問地募集の時期がきました。近々お知らせします。

最近出会った幾人かの悩みを聞いて感じたこと――それは、ひとはみな「子ども」のまま、40歳を越えることが、ごくふつうなんだということ。

親への怒り、期待、愛されたかったという思い、執着――。ある人は、親に対する「生理的嫌悪感」が、「強迫性障害」なる心のクセ(世間では、障害・病気ととらえるようだが、それはあまり正確じゃない)を作り出していた。

「親」というのは、じつに千差万別で――だからこそ、子どもが抱える執着や怒りも、ほんとうにさまざまで――。

ただ、共通しているのは、みんな「苦しみつづけている」ということ。淋しがりつづけている。怒り続けている。自分を否定し続けている。「負けるものか」と親に張り合って、その結果プライドでガチガチになって、世間的には十二分に働けているのだけど、心は緊張して疲れている――いろんな「苦しみ」がある。

思いきり「記号化」すると、人はみな「子ども」なのである。親に何かを、いまだに期待し続けている。求めつづけている。それゆえに不満や淋しさを抱えている。

「執着」と「嫌悪」が同居している。だから、心は混乱したままだ。疲弊したまま。分裂したまま。苦しいのは道理である。

それでも「子ども」として、「理想の親」を夢見て生き続けてきて、あっという間に30年、40年を生きてきてしまう。ほんとうは「現実の親とは、ただの人間であって、自分が思い描いている親の姿というのは、ただの夢=妄想でしかない」と、はっきり見きわめてもいいはずなのだが、「夢見る子ども」にはそれができない。「そういうひと」として見ることができず、「子どもである自分の夢をかなえてくれる、うつくしく、ありがたく、感謝すべき親」を、心のどこかで夢見ている。

その「夢見る夢子」の状態が、得体のしれない「怒り」を作り出す。なぜか心は、どこか、いつも怒っている。憎んでいる。渇いている。

そして、なにもかもが「停滞」しはじめる。

●「親に対して夢見ること」は、30年、40年経っても、終わるものではない。「夢」はおそらく一生続くかもしれない。

ただ、「苦痛」「不満」のほうは、徐々に心を占領し、むしばみ、汚染し始める。それが「そろそろ耐えられない」と思い始めるのが、30代半ばから40代なのかもしれない。

私のところに相談にくる人の中には、40を過ぎている人がけっこういる。「苦しむことにかなりがんばってきた」人である。ほんとうは、「夢」を手放していいのに、あるいは、とっくの昔に見切りをつけていいのに、なぜかまじめに、律儀に「親への夢」を一生懸命引っ張って、40年以上生きて、どうしても逃げられない苦痛・重力・虚しさに気づき始めた――という感じ。

「あれから30年」というきみまろ師匠のネタがあるけど(笑)、

「あれから40年」というのは、「苦痛が閾値【いきち:限界】を超える」ひとつの時間の区切りなのかもしれない。

物心ついた時から苦痛を感じていた心は、そこから40年なんとか生きて、「やっぱり苦しい」と自覚する。そして「格闘」し始める。人によっては、そこからいろんな場所・人を訊ねて、「解決策」を探し始める。「ブディズム」に巡り合って、劇的に、短期間で変わる――苦痛を抜け始める――人もいる(考えればかなりラッキーな場合かもしれない)。

人によって苦痛を越える歳月は、さまざまである。もし、「いい子」だったり「親・過去を弁護」したり、自信過剰・勝気・プライドに執着したりすると、苦痛が長引くことがある。

ほんとは、「このまま生きていても意味がない(しようがない)」という、あきらめ(諦念・自覚)が大事なのだろうけど――。

●相談に来る人の中には、「変わるのがコワイ」「あきらめてしまったら、虚しさ・寂しさが残る(宙ぶらりん)」と訴える人がいる。

その先、どちらの道をゆくかは、その人が選ぶこと。しかし――

「過去を繰り返して生きることに、本当に意味があるのか」

「これまでの40年を、残された40年、また同じように生きるのか」

「そのかなわぬ夢(親への思い)にしがみついて、この先何が生まれるのか」


というところを、何度も何度も、自問して、自答するしかないのだろうと思う。

ちなみに、私は、2歳から「格闘」しはじめて、「抜けた」のは40歳前後である。やっぱり「40年」かかっている。ただ「苦しみを抜ける方法」を知らなかったからそれだけの時間がかかったのであって、ブディズムというひとつの方法にめぐりあっている人(あなた)は、もっと早く抜け出せる可能性が高い。「踏み出してみれば」何かが変わる。そのことを恐れてはいけない。そのことに「希望」を見るべきである。【「でも……」「そうは言っても」といいたがる人は、それだけ「執着」が強いことを自覚しよう(笑)。ただ、どのような執着も、結局のところ、執着するに値しない、取るに足りぬものである。】

親であろうが、過去であろうが、かつての夢であろうが――いさぎよく手放せる時機(タイミング)を待ちたいものだ。それは「ただ待つ」のではなく、「このままでいてもしようがない」という自覚を繰り返すことで、徐々に近づいてくる。「あきらめ(手放すこと)」には、時間が必要だし、労力がいる。ときに心の痛み・つらさ・恐れをも伴う。

でも――「もう40年も」生きてきたのだ。十二分ではないか。


●ある人のお便り(『反応しない練習』を読んでの感想)――

「長年悩みたくて悩みたくて、しかも苦労をしたくて、苦労をしたくて、しょうがなかったのですが。そ
れが終わったようです。

52才とはいえ人生はこれからです。

長年したかったのにできなかった勉強もやっと出来るようになりました。」


――そう。40代、50代なんて、まだまだこれから。というか「子ども」であり「若者」。

これから、自分自身の人生を始めればよいのだ。楽しもうと思えば、楽しめるものである。生きてきた年数がどれくらいであろうとも、心が感じる喜び、というのは、あまり違いあるものではない。今日一日を自分なりの楽しみ方で楽しむというのは、いつからでも可能である。

「これから40年」を、今度は、自由に、楽しんで、生きよう。


http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E4%B8%88%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%82%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%81%AB%E6%82%A9%E3%82%93%E3%81%A0-%E8%8D%89%E8%96%99-%E9%BE%8D%E7%9E%AC/dp/4759314792/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1458975997&sr=8-1&keywords=%E5%A4%A7%E4%B8%88%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%81%AE
苦しみの業は越えられる


私が幸せでありますように???(慈しみの念じ方)

こんにちは、草薙龍瞬です。今回は「慈しみ」の育て方について――

(慈しみ、って仏教固有の言葉に聞こえるかもしれないけど、ひとの幸せを願うだけでなく、自身の心を成長させる・悩み苦しみを抜ける上で「合理的な心の使い方」でもあります。ちょっと触れてみましょう)

「慈しみを心がける」(慈悲の瞑想)というのは、仏教の基本中の基本。そのスタイルには、いくつかバリエーションがある。ときおり聞くやり方は、

「私が幸せでありますように」と念じる(想う)ところから始める、というもの。

ただ、これは、ブッダの心の使い方からすると、2つの点で「奇妙」。

ひとつは、「私」という主語を置いていること。そもそも、慈しみというのは、自我――「自分」を作っているさまざまな心の反応の総体――を抜けて(つまりは無我・無私)となってもなお残る、「他の命に向ける心がけ」のこと。

だから、自我を超えたブッダという人もまた、慈・悲・喜・捨の心は、保ちつづけていた。

およそ心が、他者・他人の命に向き合うときには、
「(反応しないで)正しい理解に努める」という心がけと、慈・悲・喜・捨の心がけが、基本になる。

(それ以外の向き合い方――たとえば欲・期待や、妄想、慢、というのは、もはやありえない)。

つまり、慈しみという心がけと、「私」というのは、究極のところは両立しない。

そもそも、「私が」という意識にとらわれているかぎり、他の命の幸福を純粋に願うところまではたどり着けない。そうした心がけでは、自我を越えることはおそらくできないだろうと理解することが正しい。

だから「私が幸せでありますように」というのは、正しい心がけではないということになる。そもそも、ブッダの言葉にはないし、慈しみの教え(慈経・スッタニパータ)にも、「幸せでありますように」は、「生きとし生けるもの」に向けた言葉として載っている。(その「生命」の一番最初に「自分」を置くというのは、発想としてはありうるけど、はてそれはブッダの考え方として合理的なのでしょうか?)

●もうひとつ奇妙なのは、「幸せ」とは、自分自身の方向性に他ならないのに、「……でありますように」という婉曲表現を使っていること。

「……ように」というのは、執着できない対象――つまり他人か未来――について使う言葉。

「自分の幸せ」というのは、一見「未来」のことに思えるかもしれないけど、ただの未来ではない。自分自身が「必ずたどりつくぞ」と決意すべき「方向性」のこと。

仏教の世界には、「方向性を定めて、そこに向かって全力を尽くす」という発想がある。それを「決定」【けつじょう】といい、「信を持つ」ともいう。

その方向性として、仏教においては、「悟り」とか「涅槃」とか「安らぎ」「幸福」といったものを置く(※ちなみに、仏教全体の中で「人生の目的」とされるものは、十数個もある。「どれか一つ」に限定されるものではない。限定してしまえばそれはドグマ=教条と化し、凡庸な宗教のひとつになってしまう。目的は自分で選ぶことが基本)。

そもそもブッダ自身が「決定」の人だった。「究極の安らぎ」にたどり着くための最後の瞑想に入る時には、「肉もただれよ、骨も砕けよ、悟りを啓くまで、私はこの場所を立たないであろう」と悲壮な覚悟をしたといわれている。

そこに「私は悟りにたどり着けますように」というような、なまぬるい、お気楽な思いはない。(そもそも「方法」がはっきりしたときには、「必ずこの精進(努力)によって結果にたどり着ける」という不動の確信を持つものです)

ただの「願い」というのと、「決定」(決心)というのは、違う。

そして、「道」というのは「決定」を持ってのみ始まるものだ。

だから、もしひとが「幸せ」を本当に大切にしたいというなら、

「私は幸せに必ずたどりつきます」
「私は、幸せへの道を歩いています」
 
 
と、きっちり決意することが必要になる。

その一方、他の命・相手に対しては、けして執着できないし、相手には心の自由というのがあるので、「相手は・生きとし生けるものは幸せです」と断定することも、「幸せになれます」と約束することもできない。相手に誠実であろうとするなら、
「幸せでありますように
​ ​
May all living beings be happy」と願うしかない。ここは、心の底から願うことが、練習(修行)になる。

執着はしないが、純粋に相手の幸せを願う――それが「慈しみ」。この思いが、自身の心そのものを浄化してくれる・成長させてくれる、というのは、なんとなくわかる気がするのではない
​でしょうか――。

●さて、最近、家族・人間関係についての相談メール
​をいくつかもらったのだけど​(不和になった相手と和解するかどうか等)、

「相手が幸せでありますように」と願う心と、

「私は、私自身の幸せへの道をきちんと生きていきます」という決意を、

まずは分けること。そして、両方はっきりと念じる(心がけとして持つ)ことが、最初の作業になる。

前者は「慈しみ」であり、後者は、自分の幸福への決意。

それぞれの思いにしっかり立った時に、「相手を許す」「怒り・期待・妄想を手放す」という思いが自然に出てくる。(※逆に言うと、「許す」「手放す」とだけ、最初にアタマで念じてもあまり変われないかもしれないということ

相手がどのような応対を示そうとも、それはこちら側の・自身の「幸福への道」には関係がない。そのようなものに心動揺させても、役に立たない。

自身は、ひたすら幸福への道を歩くのみ。そこに意を注ぐこと。

その途中で、相手が思いを変えて、再び近づいてくるかもしれない。そのときは、また受け容れてあげればいい。

とにかく、まずは自身のめざす方向を見定めて、そこに近づけるような心がけだけを大切にする。それこそが、自分を大切にすること。「自分への慈しみ」である。

そして相手のことも、過去も、手放して、相手に向ける思いは、「幸せであれ」という慈しみだけ――そういう心の状態に純化していくことです。

それが、正しい慈しみの念じ方です。

また一緒に考えましょう。
 
 
 

『これも修行のうち。』KADOKAWA解説漫画冊子

書店に足を運んでみて下さい。

いくつかの書店で、著者(私)描きおろしの『これも修行のうち。』KADOKAWA のマンガ解説冊子を、立ち読みできます。

今回の本は、「心をととのえる」練習の、基本中の基本から、ちょっと上級編までを「プチ修行50」としてまとめました。

結局、仏教を語る声は世の中にたくさんあるけど、
心の中のムダな反応を上手にリセットして、クリーンな状態に持っていく
ことが、仏教という思想の基本的発想です。

欲とか妄想とか、慢――承認欲がつくりだす判断:自分が上」もあれば「自分が下」もある――さらには、知識・観念も、

自分の心にとって、お荷物・さまたげ・こだわりになってしまうようなら、きれいに洗い流すこと。

そのことで、自身の快(ここちよさ)を、自分の中に作ること。これは、自己の内側で完結する道(心の成長コース)です。

自己の中で完結できる道。だからこそ、みなが実践できる。「普遍性」を持ちうる。

ブディズムとは、みなが共有できる、普遍的な「方法」のことです。

「方法」として、ブッダの考え方を活かしていきましょう。私の本は、そういう明るい方向性をみて、一冊一冊、一字一句、自分の言葉でつむいでいます。

『これも修行のうち。』では、「声」も届けさせていただいています。聞いてみてください(Amazonオーディブル)。

心の自由、幸せ、というのは、アタマでわかっているようで、その「目的」に向かってまっすぐ進んでいくことは案外難しいもの。仏教の目的をはき違えず、忘れないで、自身の幸せ・誰かの幸せ――それ以外の思いは正しい考え方ではない――を想いながら、正しく学んでいきましょう。
全16ページ。著者本人による描きおろしです(書店限定)

本体(本)のほうもご覧になってみてください。実用的仏教、きっと役に立つと思います。

ほんとの人生とは「心の脱皮」&質問コーナー(講座日程つき)

5月1日
こんにちは、草薙龍瞬です。

私は、テレビもネットも新聞も、日ごろほとんど見る機会がないので、事態把握していないのですが、熊本・大分のほう、地震まだ続いているのでしょうか。尋常ではないですね。

せめて夏の行脚にて、現地を訪れることができたらと思います。心の持ち方というのは、どのような状況にあっても左右されるものではないと思うので――そのあたりわかちあえれば。お役に立てるとしたら、心の持ち方とこの体。まだまだ元気に使えるので、日にち許せばボランティアもやらせてもらいます。問題は場所……見つかりますように。


●さてちっちゃなQ&A:

Q『反応しない練習』では、「感情は快、不快の二者択一であり、快を大事にする」ような旨が記述されていたのですが、その後の二冊では、二者択一ではなく、「ニュートラルが大切」と言う内容に変わっていましたが、どう捉えたらよろしいのでしょうか。
 
A 『反応しない練習』にも快でも不快でもなく、の状態は書いてあります。ただニュートラルの話にまで持っていくと、その章のバランスを失ってしまうので、世俗の人たちのふだんの感覚に近い、快か不快かという二者択一に合わせて書いた次第。

ただ、本当は、ニュートラルな状態そのものに慣れてもらうことも大事なのです。そのあたりのことを続編である『これも修行のうち。』に書かせてもらいました。『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』も、傷を癒すことが第一なので、そのあたりを突っ込んで書きました。

快を増やし、不快を減らす、というのは多くの人に当てはまる真実だろうし、ニュートラルを基本にする、というのも真実だろうと思います。どちらか一方のみが真実という話ではなく、「心の使い方」として、どちらが今の自分に効果的・必要かです。(ちなみに私の場合は、出家僧なのでニュートラルを基本にすえています) 

これに対しての感想(リプライ):
常に苦を減らすと言う立場に立って、状況に合わせて臨機応変に対応することなんですね。納得です!

――きわめて正しい理解が返って来たので、感銘を受けました(笑)。「苦を減らす」という目的に沿って「方法」として使い分けること。「ブッダの考え方」をナチュラルに咀嚼してくれているように感じました。

いただくお便り・感想の中には、「ブッダの考え方」をすごく柔軟に吸収して、自分のモノにしていることが伝わってくるものがけっこうあります(笑)。こういう「考え方」が多くの人の発想として定着していくことって、かなりすごいかも。伝える側としてもありがたい話です。


●他の方の質問:
「確認なのですが、手をお腹に当てて膨らみと縮みを感じ取る方法と、鼻で呼吸をし、鼻孔から空気が出たり入ったりすることを感じ取る方法で、なんら問題はないでしょうか」

最初の段階では問題ありません。まずは「感覚」を意識してください。そして徐々に、「細かく、緻密に、持続的に」意識できるように、馴らしていってください。「細かく――」というのは、実践していくうちに徐々に見えてきます。


●今後の仏教講座について

4月のテーマは「道」でした。5月は「慈しみ」です。テキストが変わります。

今後は、毎月1テーマを設定して、月共通のテキストを配布します。ひと月の中の仏教講座は、原則「土曜の夜」(連休中は別)。講座の内容は、参加者の問題意識に合わせてそのつど変わるし、毎回新しいトピックを用意しますが、共通(重複)する部分も出てきます。

なので、続けて仏教に触れたい人は、とりあえず、毎月一回、神楽坂にくるようにしていただければ。内容重複してもいいという人は、月2、3回と来てもらってもよいです。

12月で、いったん今年度の仏教講座は修了ということに。私はその後インドに行ったり、他の務めに専念したり、という形にしようと考えています。

なので、みなさんも、4月から12月までが1シーズンだと思って、頑張っていただければと思います!

●とにかく、「志」、つまりココロを指す方向性を、固めていくことです。承認欲の満足とか、過去にかなわなかった思いへの未練・執着とか、変わらぬ相手への期待などに心を乱されないで、自分の心の内側だけを見つめた時に見つかる、本当の目的、自分がたどり着くべき方向性というものを、自分で選んで、それだけは忘れないようにすることです。


ムダな思いを手放して、心をクリーンにしていくだけでも、見える景色や世界が変わってきます。必要のないことを考えない心というのは、それだけでもタフで強くなれる。

「ほんとうの自分」「ほんとうの人生」という言い方をよく聞きますが、それは、ムダな思いをそぎ落としていく中で自然に見えてくるものです。だから、正しい生き方というのは、「消去法」――新しいモノ・失ったモノを追いかけるのではなく、自身の中のムダな思い・未練・執着・不満その他……を「捨てていく」ことなのです。

「捨てていく」とは、もはや思い出さなくなるということ。思い出しても、反応しなくなるということ。「心の脱皮」ともいえるかも。その心地よさを、味わうことも、人生の楽しみのひとつです。

●5月の講座日程
5月 3日(祝火)
10:00 ~ 12:00 座禅と法話の会 神楽坂
13:00 ~ 17:00 生き方としての仏教講座・5月編と新刊トーク   神楽坂

※正規講座の後、新刊2冊を素材としてフリートーク(座談会)をやります(参加任意)。本をご持参ください(★持参者には描き下ろし漫画冊子を進呈。質問したいところ&朗読してほしいところなどピックアップしておいていただければ歓迎します)。
18:00 ~ 21:00 座禅と法話の会 神楽坂


5月 4日(祝水)
13:00 ~ 17:00 生き方としての仏教講座・5月編と新刊トーク 神楽坂
18:00 ~ 21:00 座禅と法話の会 神楽坂
5月 5日(祝木)
13:00 ~ 16:00 座禅と法話の会 神楽坂
5月 7日(土)
18:00 ~ 20:30 生き方としての仏教講座・5月編と新刊トーク 神楽坂


★巣鴨 5月 19日(木)と26日(木)14:00 ~ 16:00
大人のための「仏教の学校」 巣鴨 - 巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り


5月 28日(土)
18:00 ~ 20:30 これからの生き方を考えるための仏教講座  神楽坂
5月 29日(日)
18:00 ~ 20:30 座禅と法話の会 神楽坂