仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
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「妄想の檻」の抜け方

3月28日(月) ※4月の講座日程は末尾にあります↓

4月15日発売の『これも修行のうち。実践!あらゆる悩みに「反応しない」生活』KADOKAWAのオーディオブックの収録終了。

今回は、全編、著者自身による朗読・語りかけバージョンの特別版。

本の朗読は、声優さんによるのが通例だが、中身は仏教の話、しかも魂魄【こんぱく】こめて言葉を紡いでいる著者自身の声のほうがよいだろうと、版元さんとアマゾン・オーディブルのお力添えを得て実現したもの(^人^)。

私としては、たとえば仕事帰りの電車やバスの中で、休憩中の喫茶店で、あるいはご自宅や入院中のベッドの中などで聞いてもらえたら……という思いでいる。「声」だからこそ伝わる何かがあるだろうし、「著者自らによる語りかけ」だからこそ汲みとれる微妙なニュアンスもあるはず。

とにかく、書くも、語るも、(当たり前の話だが)本人が、真心こめて、というのが、基本のはず。

3時間、3時間、そして今日は4時間かけて、最後まで朗読。じつは昨日行った埼玉での法事のあと、いきなり花粉症に。鼻水たら~~~と垂らしながらの朗読となった。さらに終盤は、空腹による激しい胃の音にも襲われつつの収録だった。

朗読中に、いきなり「ぐぅ~~~」と鳴るのである。その制御不可能な音を、拾わなくていいのに、好感度マイクが律儀に拾う。

「すいません、もう一度お願いします」と、ミキサーさん。

で、がんばって読み直す。ところが融通利かぬ胃袋が、また途中から派手にぐぅうぅぅ~~。すいません(汗)。

「もう一回、お願いします」とヘッドホンを通してミキサーさん(顔が見えないのが、いっそう恐縮を誘う)

「いや、たぶん鳴りますよ。絶対鳴りますよ――」「はい、キュー(録音)」「ぐぅううぅう」

こゆときは、息を思いっきり吸い込めばよいのか、むしろ吐き出せばよいのか――どちらもやってみたが効果なし。胃袋音の襲撃を恐れつつ、なんどかリテイクして、冷や汗たらたら鼻水だらだらの壮絶な収録を、おかげさまでなんとか終えたのであった……(疲れた)。何をするにしても「行」【ぎょう】になってしまう性分なのか。

本を書かせていただくのも、声を収録してもらうのも、「終わった」感じがしない点が共通している。というのは、ライブ(教室)とは違って、聞き手の「リアクション」がないからである。たとえるに、試験を受け終えた受験生、みたいな心境(やっぱり、苦労性なんだなT T)。

とにかく全力を尽くした。結果はいかに(さて、これから何をしたらよいのか)――という宙ぶらりんな感じ。あとは、本やオーディブルのご感想をお寄せいただくまで、待つしかない。

「さて気晴らしに何をしようか」と思ったが、結局、ヤクルトジョア(今回はプレーン味)でひとり晩酌して終わった(笑)。なんという無趣味な……いや、シンプルということである。いいじゃないか、出家だもの。
● ● ●

さて、まじめな仏教の話――

●「妄想の檻」の抜け方について、簡単に考えておこう(わりあい反響があったので)。

他者(親であれ上司であれその他の人間であれ)の「妄想」にこちらが囚われてしまったとき、

こちらは何一つ受容された感じがせず、ただ裁かれている。支配されている。干渉されている。上から見られている。バカにされている。抑圧されている。そんな感じがするものである。

なぜ物理的に違う脳の中の妄想に、こちらが心支配されてしまうかといえば、やはりこちらになんらかの「執着」があるからである。

わかってもらいたい。愛されたい。評価されたい。尊敬されたい。可愛がられたい。もう一度やり直したい――そういう願いを相手に向けた時、「相手の妄想」に自分が迎合する・合わせるしかなくなる。

執着の「進行状況」によって、いくつかの症状が出てくる可能性がある。

1、相手が何を妄想しているか(考えているか)わからない段階なら、「なぜわかってもらえないのだろう」「なぜ認めてくれないのだろう」とひたすら執着がかなわぬ現実に苦しみつづける。その心理は「若い頃の一方的恋愛」に似ているかもしれない(わかる人とわからぬ人がいるだろうが(笑))。

2、その次は、執着をかなえようとして、相手の妄想をなんとか理解しようと努力する。このとき見えてきた相手の妄想に、こちらは全力で応えようとする。これは、自分の世界しか見ていない親に、必死で迎合して「お利口さん」でいようと頑張る子供の心理である。

3、さらに、その「妄想への迎合」が強化されると、今度は、自分自身が、相手と同じ妄想の虜【とりこ】になっていく。相手(たとえば親)の期待や価値観をそっくりそのまま自分の内面に取り込んで、自分自身に同じ期待や価値観を向ける。相手がこちらを否定的に判断――裁いたり罰したり――する人間であれば、今度は、自分のほうから進んで同じように自らを裁いたり罰したりするようになる。

4、かくして……相手の妄想の檻に完全に取り込まれてしまうか、自分自身が(相手とそっくり同じ)妄想の檻を築いて、その中に自らを閉じ込めてしまうか、という不思議な状態ができあがる。


●いずれにせよ、その妄想の檻から抜け出すには、二つの心がけが必要になる。

ひとつは、相手への執着を抜け出すこと――認められたいのか、愛されたいのか、受容されたいのか、それがどのような期待にしても、「この相手に期待・執着を向けることは、完全に間違い(勘違い)だ」と、どこかではっきり気づくことである。そして「相手を見ない(視野に入れない)」練習をすること。「心の中で追いかけない」ことである。

人によっては、執拗に、相手のことを想い、心の中で追いかけていることがある。しかしそれこそが、執着が作り出した妄想である。「これは執着にすぎない」「妄想にすぎない」「追いかけてはいけない」と、懸命に努力して「見ない」練習をすること。

これは、『大丈夫』に記した通り、最初は「闘い」になる。ラクにできることではない。ただ、つい追いかけてしまう・見てしまう・想ってしまうという心のクセを、どこかで手放すしかないのである。もともと「妄想の檻」状態が、心にとっては不正常な、もっといえば異常で病んだ状態なのだ。その状態には、本人が一縷の願いをかけているような「善い点」などひとつもない。

●そして、自分自身もまた「妄想の檻」に囚われていることに気づくこと。いつのまにか、相手の思惑・期待・判断をもって自分自身を見るようになっている。人によっては、相手の妄想を取り込んで、あるいは相手の妄想にとっぷりと浸かって、その他者の妄想を通して自分自身を「否定」していることがある――相手の妄想を基準にすれば、(それに適合できる人間など、本人以外にはいない以上、)本人以外の人間は苦しむに決まっている。

苦しむことがわかりきっているのに、なぜか心は他者の妄想に身を委ねてしまう。それほどに、執着――変わりたくないという心の性質――は、強く執拗なものなのだ。

他者の妄想しか、自分の心のうちにない状態――これは、苦痛であり、虚しくもあり、生きている実感がせず、自分が自分のままでいることが「許されない」と思えてくる状態である。「妄想に完全占領」された状態だと思ってほしい。

●ただ――この自ら作り上げた「妄想の檻」は、実はカギは開いている。扉さえないこともある。 案外、心は、自由のすぐそばにあったりするのである。

ただ、人によってその檻を出ることがコワイのは、慣れきった「妄想の檻」以外知らないからである。その浸かりきった妄想を抜けて、いったい今度は、何を持って心を埋めればよいのか……その戸惑いが、本人が感じる、恐怖だったり、ためらいだったり、虚しさ・心の空洞だったりする。

●その心の抵抗を抜け出すまでの時間は、人さまざまである。

ただ、檻の中の動物が、外の景色を見ることができるように、妄想の檻に閉ざされた心にも、案外、外の世界は見えているものである。

その体の感覚は、外に出てもそのままだ。感情も、思考も、意欲もまた、同じように湧いてくるはずだ。

変わりうる最大にして唯一のものは、その檻の中で見続けてきた「相手」だけである。

「妄想の檻」を抜けようとし始めた心からは、「相手」は消える。もう見えなくなる。それまでの「執着」は、もう通らない。「相手」も「執着」も、もうサヨナラである。

そのときには、新しい相手・新しい人・新しい世界が見えてくる。世の中は面白いもので、縁・つながりというのは、意外と見つけられるものである。

過去の相手の不毛な「妄想の檻」に執着せず、また築き上げたこちらの「妄想の檻」からも抜け出してみること。そのために、「妄想とは違うカラダの感覚をよく意識してみよう」と、仏教は伝えているのだ。

「もっと自由な場所で生きていい。こちらにおいで――」と、語りかけているのである。


●今、あなたがため息をついている日常の中で見ている景色を、もう一度よく見つめてほしい。

そこには、「光(視覚)」と別に、アタマの中の妄想・執着もまた混じっているはずである。 「クリアに見えていない」ことは、なんとなくわかることだろう。

目を閉じみよう。そのとき、アタマの中の妄想・執着が見える。

目を開いてみよう。妄想・執着は薄くなって、外の光が入ってくる。

毎日、ながめる景色を見つめながら、こう考えてみるのだ――「待てよ、妄想以外に今見えているものがある(視覚)。これは、妄想ではないのだ。「妄想の檻」以外の世界も、おそらくわたしが今見ている以上に、はっきりと存在するのだ」。

「妄想以外のモノをよく見るように努めよう」。がんばって、見るもの・聞こえるもの・匂うもの・味わうもの・そして肌で感じる感覚や温度を「よく意識する」練習をすることである。そのことで、心は目覚めていく。

「妄想の檻」以外の世界に、あなたはいつでも出られるということである。

● ● ●

4月2、9、23日(土)午後6時から これからの生き方を考えるための仏教講座  神楽坂
4月3日(日)午前10時から     座禅と仏教のはなし  神楽坂
4月7日(木)午後2時から      おとなのための仏教講座  巣鴨
4月16日(土)午後2時半から    興道の里いわて設立記念法話  岩手盛岡
4月22日(金)午前10時~       TOKYO FM (および全国JFN系列ラジオ) ※聴いてみてください

――講座内容・場所は、ブログ内のカレンダーをご覧ください。






虚無か、解放か――たまに見られる親の関係性

3月25日(金)

●今日のひとこと

たとえば、「妄想の囚人」は、人を理解することはまったくできない。

そういう囚人に、こちらが「認めてもらおう」と執着することで、

こちらが、向こうの妄想に囚われてしまう。

そのとき、相手の妄想だけが存在し、こちらは存在することを許されなくなる。

執着するこちら側は、完全に「無」となるか、

相手の妄想に完全に同化できない(合わせられない)自分に「罪の意識」を感じるか。

いずれにせよ、そこに存在するのは「妄想の檻」ひとつである。

一見、二つの肉体・二つの心があるように見えて、実は、妄想の檻ひとつしか存在しない。

この危うい関係性は、二つの「可能性」の周囲をめぐって、楕円を描いて動いている。
その可能性とは、

相手の妄想に完全に支配されて、こちらが「無きもの」とされてしまうか、

相手の妄想から抜け出して、こちらが別の存在として生き始めるか。その二つの可能性である。

親・子にたまに見られる関係性――。


●4月の新刊『これも修行のうち。』KADOKAWAの朗読を、今収録させてもらっています。

今回は、全編、著者による朗読――といっても、教科書的なおとなしい朗読ではなく、著者の思いをこめて、ときおり脱線・追加もありの、かなり教室での法話・ライブに近い朗読です(笑)。

活字ではけして伝えきれない、著者の気持ちをこめて、収録中です。

4月13日より、アマゾンオーディブルで聴いてみてください。


●3月26日(土)午後6時から、興道の里神楽坂の仏教講座再開。4月2日・9日・23日も。いずれも午後6時から神楽坂にて。内容は「仏教ガイダンス」を全4回の共通テーマとして、参加者の関心に応じてテーマを追加。

座禅会 4月3日(日)午前10時から/4月9日(土)午後2時から

巣鴨は、4月7日と21日(木)午後2時から。

●4月16日(土)岩手盛岡にて、「興道の里いわて」立ち上げ記念・仏教の話と相談会を実施。くわしくは、ブログ内のカレンダーをご覧ください。
 
 

世界に光も闇もなく、希望も絶望もない

3月24日(木)
巣鴨の教室が、昨年12月以来に再開。

スタート当時から通っている常連さん――ある意味、仏教を「道」として学びたしなんでいる人――と、最近通い始めた人と初めての人。仙台やバングラデシュからも寄って下さった方々が。

この教室では、月2回のペースで、真面目に原始仏教と日本仏教を学び続けてきた。

来てくれる人にとっては、仏教の本質に触れることができる場所。

一番大切な動機は、月2回の開催を守ることで、悩みを抱えている人がたまたまこの場所を見つけて足を運べる状況をつくるということ。わずか数人しか集まらないときもあったが、「場所を守ることが大事」ということで頑張ってきた。

今日は「仏性」の話――もともと、心に苦悩はない。そもそも清浄である。そういう心の状態を昔の言葉で「仏性」と呼んだという話。 (もちろん他にも意味はあるが、正確な話は教室にて^^)

日本仏教は、原典を確かめず、修行して自ら体得したことのない人たちが、「概念」(コトバ)だけで仏教を語る傾向がある。「仏性」という言葉の意味も、日本の本を読んでもきわめて曖昧である。

「本質」をきちんとつかんではじめて、「仏性」の意味もわかる。「仏性」がわかれば、「理趣経」の真意もわかる……ということで、理趣経の訳を朗読。

2時間以上たっぷり。みなさん、よく同伴してくださった。


●『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』、感想をいただくようになった。発売後一週間たって、読み通した方も出てきた様子である。

「あなたは、もっと幸せになっていい」というメッセージを、素直に受け入れられる人と、まだその心の準備ができていない(つまり、拒んでしまう)人がいることが見えてきた。

そうか――「幸せ」になることに恐れを感じる人もいるんだ……そういう発見もした^^。

●私自身は、「闇」の底までかつて見た覚えがあるので、人の「闇」に向き合うことは、最後までできるような気がしている。

ただ、苦悩の闇そのものを「本」という形で表現することは、難しいかもしれない。それは技術的に書けないというより、闇に触れる本というのは「売れない」という制約があるからである。

「本」は、ある程度の読者に受け入れられることを前提にするので、どうしても最大公約数的な、そして多くの人が求める「前向きな」「幸せになる」方向に向けて書くことになる。

だから、やっぱり、元気が出るとか、前に進めるとか、幸福が手に入るとか、そういうポジティブな話になってしまう。

でも、そうした明るさ・前向きさに「恐れ」を感じてしまう人も、現実にはいるのだ――。

そうなんだね……そういう「恐れ」の心も、大切に受け入れたいと思う。「本」という媒体では無理でも、個人的なやりとりは可能だからね。

忙しい毎日だけれど、そういうやりとりも(語弊あるかもしれないが「楽しく」)やっています。

人生、なにも、「幸せ」になることだけが道じゃない。「希望」にこだわる必要もない。

世界は広い。あなたが今いる場所は、あなたが生きていい場所だ。とにかく生きていくこと。

http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E4%B8%88%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%82%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%81%AB%E6%82%A9%E3%82%93%E3%81%A0-%E8%8D%89%E8%96%99-%E9%BE%8D%E7%9E%AC/dp/4759314792/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1458830214&sr=8-1&keywords=%E5%A4%A7%E4%B8%88%E5%A4%AB+%E3%81%82%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%82%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%81%AB%E6%82%A9%E3%82%93%E3%81%A0




親をあきらめる。虚しさが残る。でもそこで終わりじゃない【Q&A】

3月23日
今回は、あるお便り(質問)を受けて、考えてみたもの――

親に対する執着――たとえば受容されたい・愛されたいという願い――が、
「かなわぬ夢(妄想)」であり「無意味」だったとわかったとき、
人はどんな気持ちになるだろうか?

●ある人はいう――
> 身も心も空っぽでどこにも生き場が無い思いも同時に抱いてしまっているのが正直な感覚かもしれないと感じています。これは妄想でしょうか。


ストレートにお答えすると、「空っぽ」というのは、執着を手放し始めたときに起こる感慨。

それまで長年抱え続けてきた親への執着が、自分の胸の「外」に出始めてしまった。

あるいは長年苦しみ続けてきた「原因」がはっきりと見えてしまった。

そのときは、胸を占めていた苦悩は、外に放出しはじめる。心は自由になっていく。

「病巣」を取り除いた時に、肉体に「空洞」が確実に生まれるように、心もまた執着・苦悩の理由が抜け始めたときに、すこしスキマができる。

そのスキマは、最初は居心地が悪いもの。初めての体験だから。

●同じ人はこう訊ねる――
> 「今生きていられているということは、生きていてよい(私の言葉を引いて)」

何故生きるのでしょうか。

生きている意味が虚しく、母の自己満足の為に生きてきたような今までの人生にも意味も見出せ無い思いに、

ただただ感覚を体得する訓練が今世のテーマ。とは言え、あまりに虚しく感じてしまっております。


率直に答えよう――その「虚しさ」もまた、執着が作り出しているものだということ。

正確には、執着の「残滓」――残りかす――だ。それまで、しがみついてきた、心向け続けてきたモノが幻だったと気づき始めたのだ。となると、戸惑うし、すべてが虚しく感じられるはず。それが自然な反応だと思う。

「感覚から心を作り直す」というのが、『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』の第六章で明かした仏教的な「生まれ変わる」「新しい人生に踏み出す」方法。

これは、「執着」を手放しきれない人にとっては、「虚しい」ことに見えるのかもしれない^^。

しかし、まったくそうじゃない。「感覚」から心を蘇生していくのだ。その先に、新しい喜び・幸福が入ってくる。

たしかなのは、肉体の感覚をクリアに感じ取れずして、本当の喜びの感情は持つことはできないし、人生の充実感や納得というのもまた、本当の意味ではつかみきれないということ。

執着し続ける限り、感覚を意識すること――サティの練習――は、今一つ意味を感じられないかもしれない。ただ、その思いこそが、執着が作り出しているものだということを、ぜひ覚えておいてほしい。

●さらに、同じ人はこう訊ねる――
> 一人で生きる孤独。に耐えながら生きながらえるしかないのでしょうか。


「孤独」というのは、命の基本形だ。別にそれは恐れることでも、虚しいものと否定すべきものでもない。命はみな孤独なものだ。家族と一緒にいようと、親や子とともにいようと、本当は、ひとは「孤独」なのだと考えてみよう。

「孤独」とは、「心の自由」の別名でもある。人はみな孤独だから、「心の自由」をもっている。

しかし、その心に執着や、怒りや、妄想を詰め込んでいるから、「孤独」であることに気づかないとともに、「心の自由」にも気づけないままでいる。

もしそうした「詰め込んだ」状態をずっと生きてきたのなら、「孤独」という名の「心の自由」は、うろたえ、恐れ、できれば遠ざけたい対象になるだろう。

ただ、その恐れは、引き受けていいものだ。ひとはみな、孤独を知って、その期間を「待つ」ことで、徐々に、その「孤独」の本当の正体――「心の自由」――を知っていく。これは「慣れ」の問題である。

そして、あるとき、心が自由になるときがくる。そのとき、なぜかわけもなく、嬉しく、ほほえましく、心温かに感じられて、不思議に思えることだろうと思う。


●今「虚しさ」にとらわれているとしたら、あなたの前に二つの道があると思ってほしい。

ひとつは、これまでと同じように、執着に心を使い続けて、生きていく道――そこには「さみしさ」がずっとつきまとうことだろうと思う。

もうひとつは、執着を手放して――最初は戸惑うかもしれないが、徐々に慣れていって――新しい人生・幸福を少しずつ体験していく道である。

あなたが今感じている「虚しさ」は、多くの人が、くぐってきた「通過儀礼」である。その先を歩いてごらん、というのが、ブディズムからのメッセージだろうと思う。

あなたが今感じている以上に、新しい道は、わるくない道である。


※この点についての最上の答えは、『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』海竜社、特に第六章に書いてあります。率直に、本の言葉が最も洗練されているので、このテーマに興味がある方はぜひ一度読んでみてください。今後、家族・恋愛・男女関係で悩むことがあったら、「相手の業を理解する」という発想を持ってみていただければと思います。質問&感想もお待ちしています。

苦しくなったときの正しい考え方

3月19日
こんにちは、草薙龍瞬です。

今回は、「おたより」紹介と、その前にちょこっと近況報告です。

(ちなみに、日頃、メールや電話で、切実・深刻なご相談をうけることが、しばしばあります。
 

私としては、言い方はヘンですが、「歓迎」しております^^。なんらかのきっかけを求めて連絡をくれることほど、尊いことはありません。どうぞご活用ください。

その一方で(笑)、深刻でもない?ふつうのお便りや質問には、ありがたく頂戴できても、なかなか応えきれる状況ではなかったりします。拝読しても、返信にまでたどり着けないことも多く――そのあたり、ご了解ください。困っているときは、「困っています」というお便りをくださいね(笑)。事情、わかってもらえるだろうか……(笑))


いくつか、真面目にお答えしたいメールがあるのですが、こういうテーマに応えるのって、意外と神経を使います。答えを整理するのに時間もかかりますし……しばしお待ちください。


なので、定期的にメール通信を送ろうとすると、簡単に書ける「近況報告」に近づくことになります(笑)。すいません。そんな中でも、個別には真面目に対応していたりするので、真面目に答えを欲しい方は、ぜひ送ってみて下さいね。)



●さて昨夜、青山学院大学のロースクールに、ゲストスピーカーとして行ってきました。

「知的財産としての仏教をどのように守っているか」という、カタいテーマで講演させていただいたのです。

「守るもなにも……インドでは、ブッダの教えは、バラモンたちに換骨奪胎され、盗まれ、壊され、滅びてしまった。スリランカの仏教は、バラモンカーストの長老たちが寡占してしまったし、タイやミャンマーも、為政者に都合よく使われている部分がある。チベット密教は、もはや衰滅寸前――中国政府が傀儡【かいらい】を擁立たことを受けて、ダライラマ自ら、転生制度を否定せざるをえなくなっている始末。

どこにも、本来のブッダの教えなど、存在しないのではないか――」という問題提起だった。

権力者とサンガの特権を守るために、都合よく書き換えられた教義と体制

――そこには、カーストも、輪廻信仰も、比丘・長老の優越的な地位もすべて含まれるのだが――

それを打ち立てるや、今度はそれを、国をあげて、比丘・長老・僧侶ぐるみで、「お釈迦さまの教え」として固守しようとしている。そういう側面がある。

彼らが守ろうとしているのは、自分たちの権益であって、「ブッダの教え」ではない。

もし、慈悲や、心の清浄、苦しみからの解放という、本来のブッダの教えを守ろうとするなら、今のような仏教のあり方にはけしてならない。

彼らが、ブッダの教えを書き換えてしまったからこそ、人々は、今なお、貧困、差別、為政者による搾取・蹂躙というものを、「前世の業のせい」と考え、「ただ耐えて」「功徳を積んで」「よき来世に生まれ変わる」という発想の中に閉じ込められてしまっている。

守るべき知的財産とは、すべての人の苦しみを抜けるための「普遍的な方法」としてのブッダの教えだった。

そして今、批判的に作り直さなければいけない知的財産とは、ブッダ亡き後に歪められ、現在に至っている、伝統的な宗教としての「仏教」である。

――そういう話をしようと努めた。

世の中には、「仏教」を語る言葉が溢れているが、どれも、現実がほとんど見えていない、机上の空論、自己満足の観念的な議論にしか聞こえないことが正直多い。

「これが仏教なんだろう」という「なんとなくのイメージ」に浸かっているかぎり、人々は、苦しみから抜ける方法に「目覚める」ことはない。それは実に、愚かしく、意味のない姿である。

結局、なにゆえに、ブッダの開かれた、合理的にして斬新な教えが、みるみるうちに、バラモンの思想に汚染され、乗っ取られてしまったかといえば、「目的」にさかのぼって考えなかったからである。

目的は、「仏教」ではない。「お釈迦さまの教え」ではない。そんなものはどうでもいい。
 

目的は、人間の幸福である。苦しみから解放されることである。一人ひとりがよりよき人生を送ることである。

そうした目的に資するものが、「ダンマ」であった。「ダンマ」は、人間が苦しみから抜けるための手段であった。ブッダは「ダンマ」を説いたのである。

「ダンマ」こそを、純粋な形で語り伝え、守るべきだったのだ。

「ダンマ」が歪められてしまったのは、「目的」を忘れてしまったから。

すべての思想も宗教も、本来は「人間ひとりひとりの幸福」という目的への「手段」でしかない。

手段は、けして特別なものではない。絶対視するべきではないし、権威づける必要もない――。

目的を見失うから、道を見失うのだ。これは、仏教のみならず、社会の在り方や、国と国との関係や、法制度や、あらゆる分野で起こりうることだ――そういう思いを伝えようと頑張ってみた(笑)。

参加者の方々は、大学の先生とか、弁護士とか、その道の専門家の方々。最初に「みなさん、ふだんはハードワーカーで、仏教なんてあまりに縁が遠いかもしれません。でももし人生に疲れたり、将来リタイアして心にちょっとスキマ風が吹いたりしたら、ぜひ仏教を思い出してみてください。ワタシのところに来ていただければ、安らぎへと導いてさしあげますので^▽^)と、冗談で言ってみたが、「シーン……」(ウケなかった)。

「えー、本日唯一笑いをとれそうな部分を外してしまいましたので、さっそく本題に入りたいと思いマス」と、本題へ――。で、上記の話題に。楽しい体験だった。


●19日の教室に、さっそく『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を持ってきてくれた方々がいた。昨日、予約したのが届いたそうな。

この本に書いてある「業」は、世間でテキトーに語られている「カルマ」なるものとは、まったく違う。
自分が苦しみつづけてきた理由や、分かり合えなかった肉親のことを「理解」するための、ブッダだからこそ語れる、合理的で明快な、確実に幸せに近づくためのツールである。
(「親の業を知る診断チェックテスト」、やってみてください)

今回ほど、悩んでいる人に読んでもらって感想・質問を聞きたいと強く願う本はない。全力を尽くした。それくらい、「大事なことを書ききった」と思っているので――。

●おたよりを一通紹介――

先月、今の仕事が得意先の影響で、3月末にて突然終了することになってしまい、新しい仕事先を探さなくてはならなくなってしまいました。

数日前には、これからずっと続くと上司から言われた矢先のことで、急展開な状況に悔しくも心に大波が発生してしまいました(汗

突然仕事を失う不安、得意先への怒り、上司への失意などなど。これから先の自分への不安と恐怖。。。。告知された日、その翌日は心の統制がとれなく、「もうダメだ、結局ダメだ」などと。。

そして2日目の夜(というより、たった2日で(驚))、ふと気づいたのです。

「そうだ、執着だ!執着から苦を抱えようとしている!」

「ダメだ、ここからまた苦の連鎖を自分で作り出してしまう!」

「考えよう、認めよう!・・・そうだ!もう一度あの運命の本を読み返そう!」

と、「反応しない練習」を3日目に読み返しました~。

認められたい、この場にとどまりたいという、何も得るものはない執着を捨て、今できること、今すべきこと、これからすべきこと、これからしたいこと。。

それを念頭に、今日生きよう!今日満足できる日を目指そう!

今、新たな職場を探しつつ、満足な一日を過ごせるよう、再び励んでいます。


――今回、私がぜひ紹介したいと思ったのは、

自分が苦しくなったときに、自身の「執着」に気づいた場面がみごとだと感じたから。

「苦しい⇒執着⇒認めよう」と、「正しい考え方」を、みごとに実践していることに感激したからです(笑)。

これこそが「正しい考え方」。やみくもな反応の迷路におちいることなく、「正しく心を使って」、自身の力で、苦しみを抜け出している。

すごい人。仏教をちゃんと実践して、役に立てていることが伝わってきます。

ありがたい話でございます(笑)。


信じなくていいんです。心の使い方・考え方をモノにできれば、多くの苦難は越えていけますから。

http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E4%B8%88%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%82%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%81%AB%E6%82%A9%E3%82%93%E3%81%A0-%E8%8D%89%E8%96%99-%E9%BE%8D%E7%9E%AC/dp/4759314792/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1458830214&sr=8-1&keywords=%E5%A4%A7%E4%B8%88%E5%A4%AB+%E3%81%82%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%82%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%81%AB%E6%82%A9%E3%82%93%E3%81%A0


無料相談会のこと&春に出る本のこと

3月15日
こんにちは、草薙龍瞬です。

無料相談会、終了しました。

やはり、やってみるもので、ふだん教室に来られない人が、続々といらしてくれました。

中には、広島から来られた方も。いい御縁をさずかりました。

40分という短めの時間ですが、しかし「何かを得る」には、十分な時間です。

かなりコアな理解にたどり着いた人が大勢いたし、みなさん、今後の指針となるものを持って帰ってくれた印象でした。

お役に立てて良かったです。またやりましょう。

本を書いている間は、なかなか貢献できていない思いがあります(もちろんその分、本を通して働きを果たそうと頑張っているわけですが)。

なので、恩返しでもあり、せめてもの奉仕行でもあります。本当に困った時には、電話でもかまいません。そういう方もいらっしゃいます。

ご活用いただければと思います。


●今日午前に、編集者さんが、刷り上がった本 『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』 海竜社 を持ってきてくれました。

若葉色のあざやかなカバーです。今回は、タイトルも、カバーのイラストレイターさんも、全部、著者の意向を汲んで作ってくださいました。

春にぴったりの色合いを希望したのですが、みなさん、気に入ってくれますでしょうか――。3月21日には全国書店に並びます。
 
見た目はもっと鮮やかです(笑)

●今回、「家族」をめぐる苦悩について、「まずはココを理解してほしい」という部分を、この本に出し切った感じがします。

「業の診断テスト」で、親の業と自分の業――人生を支配している・作っている力――を知る。
 
「罪悪感・後ろめたさ」を卒業する方法とは?
 
別れたあとの、傷んだ心の癒し方――心は、実は作り直せる。
 
「親」と思うな、「そういうひと」(そういう生き物)として見よ。

などなど、家族をめぐる悩みを解決する上で、絶対必要(まずはコレだけ)という考え方を、まとめあげました。

「仏教」はこんなふうにも活かせるんだ、ということを、感じていただければありがたく思います。

そして、今抱えている家族をめぐる悩みについて、抜け出す糸口を見つけていただければ本望です。きっと見つかるのではないか、と感じています。

そして、今回言葉にした「ブッダの考え方」をベースにして、それでも解決できない悩み、「こういう問題はどうすればいいんだ?」というところを、メール・手紙で送ってもらいたいのです。それを今後、一緒に考えていきましょう。


●心が作り出す苦しみは、かならず解消できます。

もし私が、「信じる」という言葉を使うとしたら、その可能性についてです。私は、「可能性」を信じています。

――日射しが春になりました。明日もよき日でありますように。

草薙龍瞬
 
 
 

今生きていられているということは、生きていてよいのだということ。

3月11日
こんにちは、草薙龍瞬です。

時折、苦悩の極みに達した声を、電話でいただくことがあります。

みんな、よく生きている、と思います。

ただ、心の苦悩は、心が作り出している以上、それを越える道(可能性)はある。

心には、苦悩の一切がない領域が、今この瞬間にもある。

必要なのは、その真実につながるためのきっかけなのですが……。

ひとは、実は、苦悩の只中にいても、苦悩とは無縁の清浄な心を持っている。そのときの本人にはまだわからないだけで……。

ともあれ、苦悩に支配されてしまわないように。

今生きていられているということは、生きていてよいのだということ。

生きてください。生きられるかぎりは、生きつづけてよいのです。

 

――3月11日が再びめぐってきました。

痛ましい出来事は、毎日のように起きているものです。

痛みというのは、ほんとうに、当事者にしかわかりえぬ部分があります。

まずは、生かされている今の場所で、十二分に生きること。

見えないつながりによって存在しているこの世界です。一人ひとりが十分に生きるだけで、何かしらの役割を果たしているのだということ、覚えておきたいと思います。

草薙龍瞬合掌

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★無料相談会を3月中旬に開催します(詳しくはメール通信にて)
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気合い入れて何が悪いか

3月6日(近況報告)
さて、いよいよ、3月の新刊『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(海竜社)と、

4月発売の『これも修行のうち。』(KADOKAWA) の校正作業が、佳境に入ってきた。

「佳境」といっても、まだ終わりそうな感じはしない(笑)。

毎回のことだけど、いちど原稿を書き上げた後の詰め&直しの時間が長いのである。連日の徹夜状態が続いている。規則正しい生活というのが、この時期には崩壊する(笑)。これはもはや「行」【ぎょう】である。

私自身の本作りは、かなり「緻密」だと自分でも思う。緻密を超えて、緻密。具体的にどう緻密か説明する気力も今はないけど(笑)、とにかく一字一句にまでこだわる(それでも漏れが出てくる(笑))。小数点何桁までの計算間違いがないように、的な神経の使い方。俗な譬えで申し訳ないけど、受験勉強を今回思い出した(笑)。とにかくギチギチに、スキなく計算や知識や答案の書き方を詰めていく。それくらいに精魂込める、という感じがする。

もちろんそういう取り組み方が、出てくる言葉を良くしてくれるとは限らない。むしろもっと気軽に書き連ねていく方が、読みやすい文章になるのかもしれない……いや、やっぱりそれはナイ。読みやすさ・届きやすさを目標に、できるかぎりの工夫・努力をするというのが、私なりの本の作り方である。

今、それができている状況、めぐり逢わせ(縁)に感謝したい。

なぜこんなに精魂込めてしまうかといえば、あえてひとことでいえば――

命かかってる

という思い。誰の命か?――わかりません(笑)。ただ自分自身の心の持ち方として、この作業に命がかかっている、という、なんだかずいぶんと(笑)思い詰めた感じがあるのは確か。これは性分かもしれない。

私の本に出てくる物語というのは、実際に、仏教によって少し救われた・癒されたと言ってくれる実在の人たちを反映している。そういう人たちに向けて、本だからこそ伝えられる深みや広がりというのがある。かつて出会った人たちのことを思い出しながら、できれば再会して直接語り合っているような、そういう息づかいを感じられる言葉をめざしている。

それに、こうして現代的なテーマに沿ってブッダの思想を組み立て直して、人のもとに届けることで、誰かがそれを受け取り、自分なりに感じて、考えて、人生にほんの少し、ラクになるヒントや、前に進むためのきっかけ、智慧みたいなものを得てくれることもある――というのは、事実としてつねに覚えているつもりである。

ストレートに言えば、私は、自身が真心・魂魄をこめた言葉を、ブディズムという明快にして深遠なる思想を、きちんと、必要とする人たちに届けたい。そして、役に立ててもらいたいのである。

そのための言葉ならば、それは自身の心の一番深いところから出てくるものでなければいけない。

その言葉を掘り起こすことに毎回全力を尽くして、自身でも、想像しなかった一冊分のストーリーが生み出される。これは、自分の心からの語りかけであり、いわば「出家からの恋文」なのである。

「道求める人たちに、届いてください」という思いなのである(笑)。

この言葉が、きちんと相手に届いたときに、それまで存在しなかった〝つながり〟がこの世に生まれる。これは、本という形でしか、作り出せないつながりである。

届く。響く。広がる。つながる。もしかしたら、何かが変わるかもしれない。誰かの日常が、今よりほんの少しラクに、幸福になってくれるかもしれない。

としたら、これほど、かけがえのない、貴重な機会があろうか――。

命を尽くすことは当たり前である。

私は、仏教という道で励んだ「精進」を、今は、授かった本づくりの機会においてやっているのである。だから「行」【ぎょう】なのである。

ただ、仏教独自の修行と違う点がある。

修行そのものは、正直、広がりを持たぬ自分のための行いである。(それを、人々のためと語る言葉――「この功徳を回向する」とか――もあるが、現実と合致していない)

他方、本の言葉を紡ぐというのは、誰かひとさまの役にきっと立つ。というか、役に立つような言葉を紡ぐことが、本として成り立つ最初の条件である。そういう、ごまかしの利かぬ条件と、自分以外の誰かの役に立つことを存在意義とする点が、閉ざされた仏道修行との一番の違いであろう。

誰かの役に立つ可能性があるからこそ、その可能性を最大限にしたいと思う。「本」というのはかけがえのないものだ。著者にとっては魂の現われであり、受けとる人にとっては、ひとときを共にする友である。本は、恋文であり、新しいつながりのきっかけであり、ほんの少しよき将来への希望でもある。「たかが本」というな(笑)。送り手は、一冊一冊、夢をもって、情熱込めて、ていねいに作るべきだと思う。

そのために、自身にできうる限りのことをやる。しかも、密度濃く、効果的に、掘り下げられるかぎり掘り下げて――である。身を削って何が悪いか(笑)。

必要としている人に、届いてほしいと願っています。※こんな本でございます↓




『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』


今の感想は、
とにかく、早く届けたいという感じです(笑)。
きっと、役に立つと思うから

本文「はじめに」から一部抜粋 ※内容は変わる予定です


はじめに――家族に〝希望〟を見つけよう

よく、ここまで生きてきたね――。

〝家族〟に悩み、苦しみ続けてきた人の話を聞くたびに、心からそう思う。

聞く耳を持たない相手に、わかってもらおうとあがいて、疲れ果てた人。

キレる、怒鳴る、暴力をふるう相手に、傷つき、怯えながら生きてきた人。

家族を心配し、尽くしてきたのに、報われない空しさ、淋しさに襲われている人。

その他、家族との間で、さまざまな満たされなさ、くやしさ、淋しさ、悲しみ、後悔、対立などの苦悩を抱えている人たちが、世の中には大勢いる。

なぜ、家族って、こんなにも大きなテーマになるのだろうか。

道を見失ったとき、ひとは地図を見るだろう。ならば、家族のことで悩んだときは「家族の基本」を考えてみればいい。

家族の基本とは、みなが平穏に暮らせること。できれば楽しく、少なくとも険悪にならずに、普通の生活をともにできること。家族はみんなの生活の基盤であり、子どもにとっては人生の出発点。とすれば、そこに「苦しみがない」ことが、本来の姿のはずだ。

それなのに、実際には、家族だから苦しめ合っている現実がある。

他人なら遠慮するのに、「家族だから」、期待や要求をぶつけ、干渉し支配しようとする。
他人なら我慢するのに、「家族だから」、罵り、傷つけ、暴力をふるう。
他人には見せないのに、「家族だから」、残酷さや支配欲、身勝手さをさらけだす。

どうして、ふつうの家族でいられないのだろう。どうして、家族であるがゆえに苦しんでいるのだろう。
ただの他人なら悩まなくてすむことが、「家族だから」悩んでしまう。奇妙な話だ。

その「理由」は何なのか。どうすれば平穏で幸福な関係でいられるのか。そこを一緒に考えようというのが、この本の目的だ。

結論のひとつを最初に言ってしまおう――家族が抱える悩みには〝業〟という大きな理由が潜んでいる。(つづく)