仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
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ココロザシ――簡単だけど難しいもの

4月19日

●先週末から気にかかっていたのが、熊本そして大分のあい続く震災である。現地の人は、いまだ地震への不安・怯えから解放されていないだろう。そして、失ったもの・壊されたものの大きさもあるだろう。しかも、かの地には、これまでに知り合った仏教つながりの人たちがいる。

居場所を知っている人たちにメールを送って、返って来た人にはひとまず安堵。そして返ってこない人については、望ましくない可能性をも感じて、胸を痛めていたのだった。(おそらく、私が把握していない人たちで、メール通信や私の本を受け取っておられる方々もいるだろうと思う。とにかく、ご無事であってほしいと願います。)

もし機会あれば、この夏の全国行脚においてでも、かの地をおとずれて、せめて法事のひとつでも差し上げられたらと思う。場所はどこでもよい。なので、もしお力添えいただける方がいたら、ぜひご連絡ください。


誰が体験してもおかしくない、痛みともなう現実が、ある――。

まなじりすえて、見すえる。いたずらに動揺せず、妄想して痛み募【つの】らせず、ただこの身を使ってなしうることをなす。

置かれた状況は違えども、求められる心のもちかたは、普遍であるはずだ。

今よりもよき状況のみを見て、とにかく生きることか。目をとじれば、つねに安らぎ・救いは、胸の内にある。苦しいときには、ほんの少し目を閉じて、「希望在ること」を思い出すことだと思う。


●西の方に思いを寄せつつ、東北へ。盛岡にて仏教の学習会に参加。

今回は、青森、仙台、一ノ関、宮城その他から、本、ブログなどを通じて知った人たちが参加してくれた。

やはり気のすくのは、仏教というものを、自分自身の道として、苦悩から抜ける道として、幸福に近づく階梯として、真摯に、真面目に受け取ろうとしている人たちと出会い、語らうことである。

いわば、「道を求める人」たちが、いた。これは貴重なことである。

この夏は、いろんな場所で、勉強会、相談事、法事の機会を設けたいと思う。むずかしく考えていただく必要はない。どこか公共施設か、自宅か、お店などを見つけて、日時の見当をつけて連絡してもらい、日時が確定したら、それぞれに可能なかぎりで、掲示・告知して、人を集めていただければよい。

人数は多くなくてもまったくかまわないし、場所も問わない。数人集まってくれればそれで十二分だし、「ひとり」であってもよいのである。まじめに「仏教」に触れたいと感じる人から声をかけていただければそれでいい。旅の途中にぶらり寄るくらいの気軽さで訪問させていただきます。


●今回、ひとつ痛感したのは、

「道への志ある人」と、「志なき人」との差というものの、大きさである。

志というのは、けして難しいものではない。

「今の自分のままではいけない」「なにかが足りない」ということを感じとっていること。

そして、その思いが、ただ自己否定や、「もっと頑張れば、動けば、なんとかなるかもしれない」という自我への執着ではなく、

「自分を超えた何か」「自分以上の何か」を求めよう、真摯に学びを乞おう、というココロザシ(つまり、心をひとつの方向性に向けて指し示すこと)に、昇華していることである。

ココロザシとは、謙虚さの別名でもある。

たとえば「仏教を学ぼう」というココロザシには、みずからの、これまでの自分を越えゆく方向性と、積極的に、しかし謙虚に学ぼう、という意志とがある。

この心がけこそが、道をひらく。

そういう人たちには、仏教は、本人が想像する以上の、破格の効果・恩恵を今後もたらすだろうと思う。

たとえば、今回来てくださった人のなかには、私の本を読んで、人がどのような考え方によって心を止めてしまうか・苦悩のループに閉ざされてしまうかが「見えてきた」という人がいた。

そう、「見えてくる」というのが、最大の効果である。自分の心の無明(=理解しきれない・とらえきれないがゆえの苦悩の状態)がみえる。そして、ひとの心が、どのような理由・反応によって、「止まって」しまうかも見える。

完全に見えた――つまり、見切った心には、もはや苦悩は成り立たない。「さとり」とは、そういう心の状態・境地を意味することもある(ほかの意味ももちろんある)。

「見えてきた」人は、けしてもとの苦悩に戻ることはない。心は徐々に軽くなっていくはずである。

謙虚さをともなうココロザシこそが、「道心」の特徴である。

「道心」ある人は、確実に苦悩をこえていける。こういう人は、ある意味、安心していい。つまり、

「間違いない、きっとたどり着ける」と、自分の将来を「信頼」していい。


●他面、「志なき人」というのも、やはり大勢、たしかに存在する。

こうした人は、自分の思惑、欲求、期待、判断、妄想、慢、などでいっぱいで、何かを「学ぶ」というところに立とうとはしない。

そうした「我執」(自分へのこだわり・とらわれ)が、どれほどの毒――つまり、怒りや怨みや、ひとへの愚痴・中傷・悪口、悪意ある妄想――を吐き出し、みずからその毒を吸い、いっそう自分の心を苦しめているか、ということが見えない。

仏道というのは、心を清浄(クリーン)にすることを目標にすえ、そのために、正しい行い・言葉・思いを実践することを「道」にすえる。そのためには、自らの罪深さへの反省や、つつしみ・懺悔、というものが欠かせない。

それがない人も、やはり大勢いる。せっかくブッダの道(生き方)に触れる機会をさずかりながら、なおも自分自身の思いに拘泥して、同じ過ちを繰り返している、さまよえる魂も、やはりある。


そんなに、自分がかわいいか。それほどに自分とは、大した生き物なのか。


ひとは変わらねばならぬ。


少なくとも、本当に、みずからの苦悩の繰り返し、無明の闇路を抜けたいを願うならば――。


自らの無知・無明・罪に気づく度合は、さまざまであって、何も「土下座」するところまでいく必要はない。 しかし、少なくとも、自分のおろかさ・あやまちに気づくところまでは、進まねば、何も始まらない。

(ちなみに、出家とは、自らの過ちを受け止め、懺悔し、ひたいを大地につけて、それまでの身命【しんみょう】を捨てた者をいう。誰に詫びるかといえば、師となるブッダ――というよりも、この世界・天地に悠久にありつづける「真実」に対してである。)


自らのあやまちを思い知っている身の上、そして自らの苦悩に気づいている身の上と、

それらに気づこうとせぬ身の上とでは、まったく見えるものも、たどり着く場所も違う。

私が「志ある人」にオススメするのは、少なくとも、みずからの至らなさ――未熟さ・正しい理解からの遠さ――をいさぎよく見つめて、謙虚に、素直になることである。


「ああ、自分は、まだまだ、知らないこと・できないことのほうが、圧倒的に多い身の上だ。

小さく、小さく。謙虚に、つつしみをもって、素直に学び続けよう」

そう思えることである。

そのほうが、ラクになれる。そして、格段に成長が早くなる。


●仏道という、ひとつの道(生き方)を、自分の道として、真摯に学ぼう――

その思いひとつあれば、十分だ。そういう人たちに、この夏、声をかけていただければと思う。

7月19日より、
北は北海道、南は沖縄まで、足を運ぶつもりでおります。真摯に学び合う場所を、関係を――それを作ってくれる人たちと、喜びの出会いを果たしたく思います^^。