仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

この夏の全国行脚、訪問地募集します!

こんにちは、草薙龍瞬です。
いよいよ、今年夏の全国行脚の準備をスタートします!

北は北海道、南は沖縄まで――お声かけていただけるところに、
草薙龍瞬がうかがいます。

○仏教に触れたい(法話・講演・勉強会・座禅会など)
○法事をやってほしい
○個人的に相談・聞きたいことがある


などなど、お気軽にお声がけください。

●応募方法

①お名前・住所・連絡先(電話番号※携帯が望ましい)・訪問希望日(複数可) をメールで登録。

 ※訪問可能日は下記日程をみてご確認ください。
 ※足代(新幹線・飛行機)あるいは車をご提供下さる場合は、日程に関係なく随時伺います。

②法話会・講座・法事などの「場所」を見つける。
  個人の質問・相談の場合は、相談内容・テーマを送る(メールで可)

 ※公共施設をご予約頂ければ、興道の里でも告知します。ご自宅・喫茶店等でもOK。

③興道の里・神楽坂と日時を調整。

③日時と場所が決まって、全国行脚カレンダーに「地名」が掲載されれば確定です。

●その他

※全国行脚中は、基本無料です。但し、テーマを決めての正式な講座・講演・座禅会として御主催になる場合は、参加費を集めていただければ、移動・里づくりに活かします。

(たとえば、最初に無料の法話会を開いて、その後、有志による講座・勉強会などに移行するという形もあります。初めての方にご負担にならない形を考えてみて下さい。)

※追記 全国行脚は、個人的な布施行として毎年実施するものです。平常の活動とは異なるので、講座の参加費や謝礼などは、「ご負担にならない範囲でのお餞別」と して承ります。車などでの移動の便宜や食事、宿泊場所のご提供などでも十分ですので、ご無理のない限度でご検討ください。

※少人数あるいは個人でのご連絡も、よろこんで承ります。相談内容・テーマをご用意の上、ご連絡下さい

旅の途中にふらり寄るという感じで足を運びますので、お気軽にご連絡下さい。


――お問い合わせ・お申し込みは、メールにて koudounosato@gmail.com

●訪問日程  ★は確定。それ以外は現在受付中。お近くにお住まいの方、お気軽にご連絡下さい。

7月19日~29日  関東【東京・神奈川・千葉・埼玉・栃木・群馬・山梨】+静岡

7月31日~8月2日 岩手・青森・北海道(いずれか) ⇒ 8月3日 宮城・福島・秋田(いずれか)

8月4日 山形 ⇒ 8月5日~9日 東北【岩手・青森・宮城・秋田・福島】 または 北海道

8月10日~16日  東京+関東6県+静岡

8月19日~22日  大阪 ※大阪近郊は場所によって訪問可 

8月23日広島

8月24日  広島・岡山・兵庫(いずれか)  
8月25日午前=名古屋 

8月25日午後から8月26日 東海・近畿・中部(いずれか)

8月28日~9月7日  中国・四国・九州・沖縄 ※熊本・大分での法事・法話の機会、ご協力ください。

★全国行脚のチラシ、ダウンロードできます⇒ JPG     PDF


​​――よき出会いを果たしたく。お気軽にお声がけください。夏にお会いしましょう!

「仏教」を学べば学ぶほど混乱してくるというあなたへ(見極め方)

こんにちは、草薙龍瞬です。今回はQ&Aのコーナー仏教編です。

Q
「仏教では、執着が苦を生むと教えています、わたくしも色々なものに執着し日々実感しております。

ところで、最近ふと気が付いたのです、苦を減らそうと思い勉強し始めた仏教の知識や方法、概念などに執着してしまい逆に苦を増やしてしまっていると。

例えどんなに良い教えや方法も執着した途端に苦しみになってしまうのだなと。と言うことは知識や方法にとらわれた時点でそれはもう、仏道ではないのでしょうね。如何でしょうか」


A おっしゃるとおりです。ブディズムとは、「心の状態が苦しみである」というところから始まります。

その苦しみを解消すること、克服すること――苦しみからの解放――それが「目的」です。

その「目的」だけは、けっして忘れないこと。それが、ブッダの教えをモノにする(つまりは自身の幸福に役立てる)最低限の条件になります。

「目的」があって、それに役立つ「方法」がある。

方法とは、たとえば「苦しみから抜ける方法」(四聖諦として指摘されたもの)としてのサティの修行や「八正道」の実践だったりします。 「智慧」――効果的な方法――と呼んでもいいかもしれません。

それを心がけて、自身の心の苦悩・渇き・満たされなさを越えていく――最後はそうした「解放」にまっすぐにつながっている――からこそ、「仏道」(ブディズムという心の使い方・生き方)たりうるのです。

だから、自分にとって「心の使い方・生き方」につながらないものは、自身にとって「道」にはなりません。それは、苦悩を抜けるという当初の目的には役に立たない。

その点で、「本」を通じて得る「知識」「理屈」というのもまた、「道」にはならぬのです。


仏教を学んでいく過程で、じつに多くの人が、あっという間に道を見失ってしまう――迷子になってしまう――ことが起こります。誰かさんの仏教書を読む。そこにたとえば「輪廻こそが仏教の根本だ」なんて書いてある。「ええ?そうなの?」とまともに受け取ってしまう。本当は、輪廻なるものがあるにせよないにせよ、「自身の苦悩を越えていく」ことだけが、ブッダの教えの「根本」であるはずなのに、そこをいとも簡単に忘れてしまう――。

「仏教」を語る多くの言葉は、①自らの苦しみを越えていくことを目的にせず、②自身が確かめたわけでもないことを、なぜか金太郎飴のごとく、「お釈迦さまの教え」「仏典に書いてある」ということだけを「根拠」にして発せられている。


どちらも、ブッダ自身が「あてにするな」と、厳に注意していたことなのに……(ブッダ最後の旅)。

そもそも――自身の目的にとってそれはどのような意味を持つのか。役に立つのか。確かめうることなのか。

そこがあいまい。というか、「思考の組み立て方」として、そうした(ブッダ本来の)視点が欠落しているように映る。

率直に言うなら――自身が苦しんでもない、苦しみを越えてもいない、そしてだれかひとの苦しみを本当にやわらげよう、抜けるきっかけにしてもらおうという動機のない「仏教を語る言葉」というのは、はて、どれくらい耳を傾けるに値するのだろうか?


ブッダ最後の旅(マハーパリニッバーナスッタ)から多少引用してみよう――

「智慧とともに成長した心は、さまざまな心の汚れ(反応)、すなわち欲望ゆえの汚れ、結生して続くに至った精神状態ゆえの汚れ、見解(≒知識・見解)ゆえの汚れ、無明(≒心の状態や原因が見えない)がゆえの汚れから解脱する(≒自由になる)」。

 ここで重要なのは、知識や見解――モノの見方――もまた「汚れ」(苦しみを作り出す反応)として挙げていること。なぜなら、「苦しみから抜けること」が目的である以上、特定の見解にとらわれることには「意味がない」からである。

「私は、教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって、心の清浄・安らぎに到達できるともできないとも説かない。そうした判断を捨て去り、こだわることなく、迷いの生存(≒あれこれと考えて、反応してさまよいつづける精神状態)を作らない」Suttanipāta838-839

 ここで重要なのは、「心の清浄・安らぎ」を目的として語っていること。その目的に役立つ、合理的な、効果的な「方法」のみこそが必要なことであって、それを欠いて、特定の教え・知識・見解・理屈を追いかけるのは無意味である、と語っている。

「どのような理屈であれ、心の苦しみを解くうえで役に立たないものは、無意味である」
それが、いかなる観念・知識にも頼らない・執着しない「めざめた人」の発想。


「ブッダの教え」なるものを語っている人・本が、何を語っているにせよ――その人がどれだけ学識豊かにみえて、「実践している」ことを自称し、「ブッダの教えとはこのようなものだ」と確信をもって語っているにせよ――

その人が苦しんでおらず、また苦しみを越える道を成就しておらず、
あるいは(成就したかどうかは自己申告だから説得力がないので(笑))
苦しみを越える方法を、きちんと相手に伝える能力がない・効果がない

――つまり実際に、その言葉を追いかけても、苦悩は解けない――

のであれば、

それは、ブッダの教えを語る言葉として正しくはない。


ときおり聞く質問に、「輪廻を説く仏教」と、「輪廻を説かない仏教」とはどちらが本当は正しいのか?というものがある。

端的に言って、それはどちらでもよい(笑)。信じたければ信じればいい。あるいは、自身の苦悩を越えるうえで役に立つなら、それは自分にとっての真実たりうる。

めざめた者は、特定の見解にはこだわらない。ほんとうに、どうでもいい、というか、どっちでもいいのである。だって、言葉でしかないから。

「ナンダよ、かの修行者・バラモンたちはみな、見解(知識・解釈・ものの見方)によって、言い伝えの学問によって、戒律や宣誓の儀式によって、清浄になると説く。

だが彼らがそれに基づいて自らを律し、実践していたとしても、生老病死の苦しみを乗り越えたものではない、と私は言う。

そうしたさまざまな対象をすべて捨て、求める心Tanhaをよく見尽くして(完全に理解して)心に汚れのない(≒苦しみの反応を残さない)人々――彼らこそは“煩悩の流れを乗り越えた人”(=自由になった人)と私は説く」Suttanipāta

――そう、煩悩の流れを超えること・自由になることこそが、ほかならぬ本人にとって最も確かな目的のはず。結局、知識・観念から抜け切れていない人は、「これが仏教だ」という言葉を鵜呑みにして、そもそもの道(目的)を忘れてしまう。あるいは、「私は悟りました」とか「これが自分が実践・体験したことです」という言葉を、まともに受け止めてしまう(^ ^;)。

実際には、その「仏教」「悟り」「実践」「体験」なるものが、「思考(観念)の域をまったく越えていない」ことが問題なのである。思考から自由になった人には、「越えていない」ことはすぐにわかる。しかし「思考」に囚われてしまった人には、それが見抜けない。一見もっともらしく聞こえる理屈を、簡単に信じてしまう。

かくして、ただの理屈を追いかけたり、他人の言葉を盲信したり、「自分は一生懸命学び、実践しているつもり」なのに、心の渇きはいっこうに癒されないということが起こりうる。


言葉だけなら、なんとでもいえる。問題は、その言葉がもたらす現実の効果であり、その言葉を発する側・受け止める側の「目的」である。

「目的」が、苦しみからの解放・癒しであるのか、ただの「仏教の知識」であるのか――後者にいつの間にか囚われていないか――よくよく考えてみてほしい。


「みきわめるのが難しい」って? それはそうかもしれない(笑)。

そういう人は、数ある「仏教を語る言葉」について、ひとつだけ、「よく見つめてほしい」点がある。それは、その「仏教」が、本当に、ひとを苦しみから解放するという目的のために語られた言葉であるのか、である。そうであるなら、その言葉には真実味がある可能性がある。

真実の言葉とは、自身が苦悩を知り、苦悩を超え、またひとの苦悩を感じつづける努力のうえにしか開けないもののような気がする。

私はせめて、その努力を続けたい。仏教を語る言葉は多様であってよいと思うが、私自身の言葉は、「苦悩を癒す上で役に立ちそうだ――これは「智慧」の言葉だ」と感じてくれる人に届いてくれればよい。

仏教を学んで混乱してきた人がいたら、「自分にとっての仏道――ブッダの教えに基づく生き方――とはなにか?」を、自問してみてください。

いや、もっと正確にいえば、何が自身にとっての目的なのか。
そのための方法として確実に腑に落ちるものは何か。

それを問い続けて下さい。答えはそれほど難しくありません(笑)。

とりあえず、本やネットの時間以上に、「心を見る」時間を持つことです。


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「これから40年」を新しく生きよう

こんにちは、草薙龍瞬です。
そろそろ全国行脚の訪問地募集の時期がきました。近々お知らせします。

最近出会った幾人かの悩みを聞いて感じたこと――それは、ひとはみな「子ども」のまま、40歳を越えることが、ごくふつうなんだということ。

親への怒り、期待、愛されたかったという思い、執着――。ある人は、親に対する「生理的嫌悪感」が、「強迫性障害」なる心のクセ(世間では、障害・病気ととらえるようだが、それはあまり正確じゃない)を作り出していた。

「親」というのは、じつに千差万別で――だからこそ、子どもが抱える執着や怒りも、ほんとうにさまざまで――。

ただ、共通しているのは、みんな「苦しみつづけている」ということ。淋しがりつづけている。怒り続けている。自分を否定し続けている。「負けるものか」と親に張り合って、その結果プライドでガチガチになって、世間的には十二分に働けているのだけど、心は緊張して疲れている――いろんな「苦しみ」がある。

思いきり「記号化」すると、人はみな「子ども」なのである。親に何かを、いまだに期待し続けている。求めつづけている。それゆえに不満や淋しさを抱えている。

「執着」と「嫌悪」が同居している。だから、心は混乱したままだ。疲弊したまま。分裂したまま。苦しいのは道理である。

それでも「子ども」として、「理想の親」を夢見て生き続けてきて、あっという間に30年、40年を生きてきてしまう。ほんとうは「現実の親とは、ただの人間であって、自分が思い描いている親の姿というのは、ただの夢=妄想でしかない」と、はっきり見きわめてもいいはずなのだが、「夢見る子ども」にはそれができない。「そういうひと」として見ることができず、「子どもである自分の夢をかなえてくれる、うつくしく、ありがたく、感謝すべき親」を、心のどこかで夢見ている。

その「夢見る夢子」の状態が、得体のしれない「怒り」を作り出す。なぜか心は、どこか、いつも怒っている。憎んでいる。渇いている。

そして、なにもかもが「停滞」しはじめる。

●「親に対して夢見ること」は、30年、40年経っても、終わるものではない。「夢」はおそらく一生続くかもしれない。

ただ、「苦痛」「不満」のほうは、徐々に心を占領し、むしばみ、汚染し始める。それが「そろそろ耐えられない」と思い始めるのが、30代半ばから40代なのかもしれない。

私のところに相談にくる人の中には、40を過ぎている人がけっこういる。「苦しむことにかなりがんばってきた」人である。ほんとうは、「夢」を手放していいのに、あるいは、とっくの昔に見切りをつけていいのに、なぜかまじめに、律儀に「親への夢」を一生懸命引っ張って、40年以上生きて、どうしても逃げられない苦痛・重力・虚しさに気づき始めた――という感じ。

「あれから30年」というきみまろ師匠のネタがあるけど(笑)、

「あれから40年」というのは、「苦痛が閾値【いきち:限界】を超える」ひとつの時間の区切りなのかもしれない。

物心ついた時から苦痛を感じていた心は、そこから40年なんとか生きて、「やっぱり苦しい」と自覚する。そして「格闘」し始める。人によっては、そこからいろんな場所・人を訊ねて、「解決策」を探し始める。「ブディズム」に巡り合って、劇的に、短期間で変わる――苦痛を抜け始める――人もいる(考えればかなりラッキーな場合かもしれない)。

人によって苦痛を越える歳月は、さまざまである。もし、「いい子」だったり「親・過去を弁護」したり、自信過剰・勝気・プライドに執着したりすると、苦痛が長引くことがある。

ほんとは、「このまま生きていても意味がない(しようがない)」という、あきらめ(諦念・自覚)が大事なのだろうけど――。

●相談に来る人の中には、「変わるのがコワイ」「あきらめてしまったら、虚しさ・寂しさが残る(宙ぶらりん)」と訴える人がいる。

その先、どちらの道をゆくかは、その人が選ぶこと。しかし――

「過去を繰り返して生きることに、本当に意味があるのか」

「これまでの40年を、残された40年、また同じように生きるのか」

「そのかなわぬ夢(親への思い)にしがみついて、この先何が生まれるのか」


というところを、何度も何度も、自問して、自答するしかないのだろうと思う。

ちなみに、私は、2歳から「格闘」しはじめて、「抜けた」のは40歳前後である。やっぱり「40年」かかっている。ただ「苦しみを抜ける方法」を知らなかったからそれだけの時間がかかったのであって、ブディズムというひとつの方法にめぐりあっている人(あなた)は、もっと早く抜け出せる可能性が高い。「踏み出してみれば」何かが変わる。そのことを恐れてはいけない。そのことに「希望」を見るべきである。【「でも……」「そうは言っても」といいたがる人は、それだけ「執着」が強いことを自覚しよう(笑)。ただ、どのような執着も、結局のところ、執着するに値しない、取るに足りぬものである。】

親であろうが、過去であろうが、かつての夢であろうが――いさぎよく手放せる時機(タイミング)を待ちたいものだ。それは「ただ待つ」のではなく、「このままでいてもしようがない」という自覚を繰り返すことで、徐々に近づいてくる。「あきらめ(手放すこと)」には、時間が必要だし、労力がいる。ときに心の痛み・つらさ・恐れをも伴う。

でも――「もう40年も」生きてきたのだ。十二分ではないか。


●ある人のお便り(『反応しない練習』を読んでの感想)――

「長年悩みたくて悩みたくて、しかも苦労をしたくて、苦労をしたくて、しょうがなかったのですが。そ
れが終わったようです。

52才とはいえ人生はこれからです。

長年したかったのにできなかった勉強もやっと出来るようになりました。」


――そう。40代、50代なんて、まだまだこれから。というか「子ども」であり「若者」。

これから、自分自身の人生を始めればよいのだ。楽しもうと思えば、楽しめるものである。生きてきた年数がどれくらいであろうとも、心が感じる喜び、というのは、あまり違いあるものではない。今日一日を自分なりの楽しみ方で楽しむというのは、いつからでも可能である。

「これから40年」を、今度は、自由に、楽しんで、生きよう。


http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E4%B8%88%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%82%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%81%AB%E6%82%A9%E3%82%93%E3%81%A0-%E8%8D%89%E8%96%99-%E9%BE%8D%E7%9E%AC/dp/4759314792/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1458975997&sr=8-1&keywords=%E5%A4%A7%E4%B8%88%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%81%AE
苦しみの業は越えられる


私が幸せでありますように???(慈しみの念じ方)

こんにちは、草薙龍瞬です。今回は「慈しみ」の育て方について――

(慈しみ、って仏教固有の言葉に聞こえるかもしれないけど、ひとの幸せを願うだけでなく、自身の心を成長させる・悩み苦しみを抜ける上で「合理的な心の使い方」でもあります。ちょっと触れてみましょう)

「慈しみを心がける」(慈悲の瞑想)というのは、仏教の基本中の基本。そのスタイルには、いくつかバリエーションがある。ときおり聞くやり方は、

「私が幸せでありますように」と念じる(想う)ところから始める、というもの。

ただ、これは、ブッダの心の使い方からすると、2つの点で「奇妙」。

ひとつは、「私」という主語を置いていること。そもそも、慈しみというのは、自我――「自分」を作っているさまざまな心の反応の総体――を抜けて(つまりは無我・無私)となってもなお残る、「他の命に向ける心がけ」のこと。

だから、自我を超えたブッダという人もまた、慈・悲・喜・捨の心は、保ちつづけていた。

およそ心が、他者・他人の命に向き合うときには、
「(反応しないで)正しい理解に努める」という心がけと、慈・悲・喜・捨の心がけが、基本になる。

(それ以外の向き合い方――たとえば欲・期待や、妄想、慢、というのは、もはやありえない)。

つまり、慈しみという心がけと、「私」というのは、究極のところは両立しない。

そもそも、「私が」という意識にとらわれているかぎり、他の命の幸福を純粋に願うところまではたどり着けない。そうした心がけでは、自我を越えることはおそらくできないだろうと理解することが正しい。

だから「私が幸せでありますように」というのは、正しい心がけではないということになる。そもそも、ブッダの言葉にはないし、慈しみの教え(慈経・スッタニパータ)にも、「幸せでありますように」は、「生きとし生けるもの」に向けた言葉として載っている。(その「生命」の一番最初に「自分」を置くというのは、発想としてはありうるけど、はてそれはブッダの考え方として合理的なのでしょうか?)

●もうひとつ奇妙なのは、「幸せ」とは、自分自身の方向性に他ならないのに、「……でありますように」という婉曲表現を使っていること。

「……ように」というのは、執着できない対象――つまり他人か未来――について使う言葉。

「自分の幸せ」というのは、一見「未来」のことに思えるかもしれないけど、ただの未来ではない。自分自身が「必ずたどりつくぞ」と決意すべき「方向性」のこと。

仏教の世界には、「方向性を定めて、そこに向かって全力を尽くす」という発想がある。それを「決定」【けつじょう】といい、「信を持つ」ともいう。

その方向性として、仏教においては、「悟り」とか「涅槃」とか「安らぎ」「幸福」といったものを置く(※ちなみに、仏教全体の中で「人生の目的」とされるものは、十数個もある。「どれか一つ」に限定されるものではない。限定してしまえばそれはドグマ=教条と化し、凡庸な宗教のひとつになってしまう。目的は自分で選ぶことが基本)。

そもそもブッダ自身が「決定」の人だった。「究極の安らぎ」にたどり着くための最後の瞑想に入る時には、「肉もただれよ、骨も砕けよ、悟りを啓くまで、私はこの場所を立たないであろう」と悲壮な覚悟をしたといわれている。

そこに「私は悟りにたどり着けますように」というような、なまぬるい、お気楽な思いはない。(そもそも「方法」がはっきりしたときには、「必ずこの精進(努力)によって結果にたどり着ける」という不動の確信を持つものです)

ただの「願い」というのと、「決定」(決心)というのは、違う。

そして、「道」というのは「決定」を持ってのみ始まるものだ。

だから、もしひとが「幸せ」を本当に大切にしたいというなら、

「私は幸せに必ずたどりつきます」
「私は、幸せへの道を歩いています」
 
 
と、きっちり決意することが必要になる。

その一方、他の命・相手に対しては、けして執着できないし、相手には心の自由というのがあるので、「相手は・生きとし生けるものは幸せです」と断定することも、「幸せになれます」と約束することもできない。相手に誠実であろうとするなら、
「幸せでありますように
​ ​
May all living beings be happy」と願うしかない。ここは、心の底から願うことが、練習(修行)になる。

執着はしないが、純粋に相手の幸せを願う――それが「慈しみ」。この思いが、自身の心そのものを浄化してくれる・成長させてくれる、というのは、なんとなくわかる気がするのではない
​でしょうか――。

●さて、最近、家族・人間関係についての相談メール
​をいくつかもらったのだけど​(不和になった相手と和解するかどうか等)、

「相手が幸せでありますように」と願う心と、

「私は、私自身の幸せへの道をきちんと生きていきます」という決意を、

まずは分けること。そして、両方はっきりと念じる(心がけとして持つ)ことが、最初の作業になる。

前者は「慈しみ」であり、後者は、自分の幸福への決意。

それぞれの思いにしっかり立った時に、「相手を許す」「怒り・期待・妄想を手放す」という思いが自然に出てくる。(※逆に言うと、「許す」「手放す」とだけ、最初にアタマで念じてもあまり変われないかもしれないということ

相手がどのような応対を示そうとも、それはこちら側の・自身の「幸福への道」には関係がない。そのようなものに心動揺させても、役に立たない。

自身は、ひたすら幸福への道を歩くのみ。そこに意を注ぐこと。

その途中で、相手が思いを変えて、再び近づいてくるかもしれない。そのときは、また受け容れてあげればいい。

とにかく、まずは自身のめざす方向を見定めて、そこに近づけるような心がけだけを大切にする。それこそが、自分を大切にすること。「自分への慈しみ」である。

そして相手のことも、過去も、手放して、相手に向ける思いは、「幸せであれ」という慈しみだけ――そういう心の状態に純化していくことです。

それが、正しい慈しみの念じ方です。

また一緒に考えましょう。
 
 
 

『これも修行のうち。』KADOKAWA解説漫画冊子

書店に足を運んでみて下さい。

いくつかの書店で、著者(私)描きおろしの『これも修行のうち。』KADOKAWA のマンガ解説冊子を、立ち読みできます。

今回の本は、「心をととのえる」練習の、基本中の基本から、ちょっと上級編までを「プチ修行50」としてまとめました。

結局、仏教を語る声は世の中にたくさんあるけど、
心の中のムダな反応を上手にリセットして、クリーンな状態に持っていく
ことが、仏教という思想の基本的発想です。

欲とか妄想とか、慢――承認欲がつくりだす判断:自分が上」もあれば「自分が下」もある――さらには、知識・観念も、

自分の心にとって、お荷物・さまたげ・こだわりになってしまうようなら、きれいに洗い流すこと。

そのことで、自身の快(ここちよさ)を、自分の中に作ること。これは、自己の内側で完結する道(心の成長コース)です。

自己の中で完結できる道。だからこそ、みなが実践できる。「普遍性」を持ちうる。

ブディズムとは、みなが共有できる、普遍的な「方法」のことです。

「方法」として、ブッダの考え方を活かしていきましょう。私の本は、そういう明るい方向性をみて、一冊一冊、一字一句、自分の言葉でつむいでいます。

『これも修行のうち。』では、「声」も届けさせていただいています。聞いてみてください(Amazonオーディブル)。

心の自由、幸せ、というのは、アタマでわかっているようで、その「目的」に向かってまっすぐ進んでいくことは案外難しいもの。仏教の目的をはき違えず、忘れないで、自身の幸せ・誰かの幸せ――それ以外の思いは正しい考え方ではない――を想いながら、正しく学んでいきましょう。
全16ページ。著者本人による描きおろしです(書店限定)

本体(本)のほうもご覧になってみてください。実用的仏教、きっと役に立つと思います。

ほんとの人生とは「心の脱皮」&質問コーナー(講座日程つき)

5月1日
こんにちは、草薙龍瞬です。

私は、テレビもネットも新聞も、日ごろほとんど見る機会がないので、事態把握していないのですが、熊本・大分のほう、地震まだ続いているのでしょうか。尋常ではないですね。

せめて夏の行脚にて、現地を訪れることができたらと思います。心の持ち方というのは、どのような状況にあっても左右されるものではないと思うので――そのあたりわかちあえれば。お役に立てるとしたら、心の持ち方とこの体。まだまだ元気に使えるので、日にち許せばボランティアもやらせてもらいます。問題は場所……見つかりますように。


●さてちっちゃなQ&A:

Q『反応しない練習』では、「感情は快、不快の二者択一であり、快を大事にする」ような旨が記述されていたのですが、その後の二冊では、二者択一ではなく、「ニュートラルが大切」と言う内容に変わっていましたが、どう捉えたらよろしいのでしょうか。
 
A 『反応しない練習』にも快でも不快でもなく、の状態は書いてあります。ただニュートラルの話にまで持っていくと、その章のバランスを失ってしまうので、世俗の人たちのふだんの感覚に近い、快か不快かという二者択一に合わせて書いた次第。

ただ、本当は、ニュートラルな状態そのものに慣れてもらうことも大事なのです。そのあたりのことを続編である『これも修行のうち。』に書かせてもらいました。『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』も、傷を癒すことが第一なので、そのあたりを突っ込んで書きました。

快を増やし、不快を減らす、というのは多くの人に当てはまる真実だろうし、ニュートラルを基本にする、というのも真実だろうと思います。どちらか一方のみが真実という話ではなく、「心の使い方」として、どちらが今の自分に効果的・必要かです。(ちなみに私の場合は、出家僧なのでニュートラルを基本にすえています) 

これに対しての感想(リプライ):
常に苦を減らすと言う立場に立って、状況に合わせて臨機応変に対応することなんですね。納得です!

――きわめて正しい理解が返って来たので、感銘を受けました(笑)。「苦を減らす」という目的に沿って「方法」として使い分けること。「ブッダの考え方」をナチュラルに咀嚼してくれているように感じました。

いただくお便り・感想の中には、「ブッダの考え方」をすごく柔軟に吸収して、自分のモノにしていることが伝わってくるものがけっこうあります(笑)。こういう「考え方」が多くの人の発想として定着していくことって、かなりすごいかも。伝える側としてもありがたい話です。


●他の方の質問:
「確認なのですが、手をお腹に当てて膨らみと縮みを感じ取る方法と、鼻で呼吸をし、鼻孔から空気が出たり入ったりすることを感じ取る方法で、なんら問題はないでしょうか」

最初の段階では問題ありません。まずは「感覚」を意識してください。そして徐々に、「細かく、緻密に、持続的に」意識できるように、馴らしていってください。「細かく――」というのは、実践していくうちに徐々に見えてきます。


●今後の仏教講座について

4月のテーマは「道」でした。5月は「慈しみ」です。テキストが変わります。

今後は、毎月1テーマを設定して、月共通のテキストを配布します。ひと月の中の仏教講座は、原則「土曜の夜」(連休中は別)。講座の内容は、参加者の問題意識に合わせてそのつど変わるし、毎回新しいトピックを用意しますが、共通(重複)する部分も出てきます。

なので、続けて仏教に触れたい人は、とりあえず、毎月一回、神楽坂にくるようにしていただければ。内容重複してもいいという人は、月2、3回と来てもらってもよいです。

12月で、いったん今年度の仏教講座は修了ということに。私はその後インドに行ったり、他の務めに専念したり、という形にしようと考えています。

なので、みなさんも、4月から12月までが1シーズンだと思って、頑張っていただければと思います!

●とにかく、「志」、つまりココロを指す方向性を、固めていくことです。承認欲の満足とか、過去にかなわなかった思いへの未練・執着とか、変わらぬ相手への期待などに心を乱されないで、自分の心の内側だけを見つめた時に見つかる、本当の目的、自分がたどり着くべき方向性というものを、自分で選んで、それだけは忘れないようにすることです。


ムダな思いを手放して、心をクリーンにしていくだけでも、見える景色や世界が変わってきます。必要のないことを考えない心というのは、それだけでもタフで強くなれる。

「ほんとうの自分」「ほんとうの人生」という言い方をよく聞きますが、それは、ムダな思いをそぎ落としていく中で自然に見えてくるものです。だから、正しい生き方というのは、「消去法」――新しいモノ・失ったモノを追いかけるのではなく、自身の中のムダな思い・未練・執着・不満その他……を「捨てていく」ことなのです。

「捨てていく」とは、もはや思い出さなくなるということ。思い出しても、反応しなくなるということ。「心の脱皮」ともいえるかも。その心地よさを、味わうことも、人生の楽しみのひとつです。

●5月の講座日程
5月 3日(祝火)
10:00 ~ 12:00 座禅と法話の会 神楽坂
13:00 ~ 17:00 生き方としての仏教講座・5月編と新刊トーク   神楽坂

※正規講座の後、新刊2冊を素材としてフリートーク(座談会)をやります(参加任意)。本をご持参ください(★持参者には描き下ろし漫画冊子を進呈。質問したいところ&朗読してほしいところなどピックアップしておいていただければ歓迎します)。
18:00 ~ 21:00 座禅と法話の会 神楽坂


5月 4日(祝水)
13:00 ~ 17:00 生き方としての仏教講座・5月編と新刊トーク 神楽坂
18:00 ~ 21:00 座禅と法話の会 神楽坂
5月 5日(祝木)
13:00 ~ 16:00 座禅と法話の会 神楽坂
5月 7日(土)
18:00 ~ 20:30 生き方としての仏教講座・5月編と新刊トーク 神楽坂


★巣鴨 5月 19日(木)と26日(木)14:00 ~ 16:00
大人のための「仏教の学校」 巣鴨 - 巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り


5月 28日(土)
18:00 ~ 20:30 これからの生き方を考えるための仏教講座  神楽坂
5月 29日(日)
18:00 ~ 20:30 座禅と法話の会 神楽坂