仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

命はどこに帰るか?&「こんなとき出家したい」おたより募集

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生き方としての仏教講座・7月編 
7月15日(金)午後7時 神楽坂・B室/7月16日(土)午後6時 神楽坂・B室/7月17日(日)午後6時 赤城・A室
※7月は「心を洗う方法~清浄行」を予定。15・16日はいずれか1回のみ参加可(狭いB室のため)。17日は(連続)受講もOK。
座禅と法話の会
7月16日(土)午前10時/7月17日(日)午前10時/7月18日(祝)午後1時/7月24日(日)午前10時
<その他>
◎東武カルチュア池袋 7月9日・23日・30日 午前10時
◎東急BE 7月20日 午前:二子玉川/午後:たまプラーザ 
◎巣鴨 大人のための「仏教の学校」 巣鴨 - 巣鴨地域文化創造館 7月21日・28日(木)午後2時から(「睡蓮会」の教室へ)

●7月31日(日)~8月3日 全国行脚~宮城・福島・岩手・秋田で追加訪問地募集中!

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午後に足立区の老人ホームを訪問。とてもきれいな施設。スタッフさんも元気そう(仏教講座に来ていた青年が楽しそうに働いている姿をみて、なんだか感無量(笑)。みんな大人になっていく感じがして(笑))。

さすがに年を重ねると、肉体的に不自由が増えてくる。なので、長い話・むずかしい話はできない。テンポよく、わかりやすく、明朗で、不安にならない声音・口調で――を意識してお話。

パーリ語のお経がよかったみたい。おわって一人ずつ握手。みなさん、あったかい手だった。

その後お茶会をしたのだが、やっぱりみんな、いろんな思いを抱えている。胸の内の苦しみもあれば、別れたひと・これから別れていくひとへの思いもある。長い人生を夢中で自分なりに生きて来て、でもすべての人が、いつしか静かに立ち止まる時期を迎えて、その中でも流れ続けるこの思いを、どっちの方角に運んでいけばいいか、というところで、多少の迷い・とまどいみたいなものを感じ始める。

こういうときには、般若心経の朗読なんかがいい――ひとはみなやすらぎへと還っていく。この心のどこにも、じつは苦しみは存在しないのだ、という話。

執着ゆえのわだかまり――ひとによってそれは怒りだったり後悔だったり恨み節だったり恐れだったりするが――を手放しさえすれば、心には、実はなんの苦悩・渇きもないことを知る。

「この心はいつも安らぎとともに」――と念じてみるのもよいかもしれない。何にもしがみつくことも、追いかけることも必要なく――そして、ただほほえみつづけているだけでいい。

そんな思いを育てるためにこそ、般若心経の(訳の)朗読だったり、法話(心の持ちかたの話)だったりを、こういう場所でやっていくことには、おおきな意味があるだろう。

ひとはみな順繰りに、静かな時代へと入っていく。私もそうだし、みんなそうだ。そのときに正しい(苦のない)心の持ちかたを知っておくほうがよい。これは、旅の途中の正しい心がけであり、また旅立ちへの準備でもある。

みなさん、満足してくださった様子。涙してくださったり、笑って下さったり、元気に納得して下さったり……。

老人ホーム訪問は、これからも続けたい。聞いてやすらげればよいのだから、<お経の(翻訳詩の)朗読会>がいちばんよいかもしれない。今月は結婚式の機会を授かり、夏は子供との交流会が実現しそう(ジャータカ物語(絵本)の朗読会なんかよいかもしれない)。いろんな場所でいろんな役立ち方をさずかることができたら、こんなにありがたいことはない。

生きることは、ときに苦しみをともなう。

ただ、ひとはみな、やすらぎの世界へと還っていく。


★おたより募集!次の本のテーマは、「出家」です。ただ、仏教の世界限定の出家論ではなく、この世にあってこの世に染まらない生き方、という新しい可能性をさぐる本にする予定です。

そこで! 「こんなとき、出家したい」(あなたが「出家したい」と感じるのはどんな時?) というテーマでおたより募集します! お待ちしています。

 

「弱い親」として悩んだときは……

お知らせ
★6月23日(木)午後2時 巣鴨、6月25日(土)午後6時 神楽坂  
 生き方としての仏教講座(八正道の続き)

★東洋経済オンライン最新記事 心が強い人は「ムダな考え」を消している


★全国行脚、訪問地募集中です――特に岩手、福岡の方、近隣県にいきますので、お声がけください。

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6月22日 ※長いし、やさしくはないので、ご興味ある方に……^^

ふたたび家族論――今回は、「子に弱い親」について考えてみたい。

子に弱い親というのは、けっこういる。つい子の依存・甘えを受け容れてしまう親。つい子の叱責・怨嗟・非難の言葉・暴力を受け容れてしまう親。

こんな親子関係はもうイヤだと思っている。疲れている。なんとかしてほしいと願っている。

だが、子の行動・性格・言葉・生活はいっこうに変わらず、泥沼のような親子関係が、ずっと続いて
いる――。

こうした関係の呪縛を断ち切る方法というのは、本当にあるのだろうか?――いくつか考えうる点を整理してみよう。


●まず子の心理から理解してみよう――子が親について抱く思いには、きまって期待と妄想がある。

「(親は)本当はこうあるべきである。こうあってほしかった」という思い。

その思いを、執拗に親にぶつけ続ける。子が生まれてから30年、40年、50年経ってもなお、である(親は親になった年齢から、その期待・妄想を向けられることになる)。

子の思いの正体は、シンプルである。最初は、愛されたい・面倒見てほしいという素朴な要求であったろう。ただ、それを受け止める側の親の「人間性」は千差万別である。素晴らしい親、比較的マシな親、けっこう問題ありの親、とんでもない親……それは致し方ない^^;。人間には特徴がある。人間は人間であって、「親」はあくまで二次的な姿である。

ただ、子は、親を「人間」として受け止めることはできない。生まれた最初から、期待・要求・願望を向ける。その願いに、際限はない。量も期間も、「これで終わり」ということはない。

もしある程度、その要求が満たされて、子の人生に、仕事や恋愛や結婚や、その他「外の世界」が入ってくれば、親への期待は減っていく。やがては「親離れ」していくようになる。

ただ、子どもの願望・要求がかなわない状態でとどまった時――たとえば、親が応えきれなかったり、子が何かに挫折してゆきづまったりした時――には、その願いは、不満としてくすぶることになる。ここが、最初の要注意ポイントである。


●子が親にもつ苦しみとは、自身にとって望ましい親の姿を描いて、そうではない親の姿に、怒り、落胆、動揺を抱くところに始まる。

その苦しみのみなもとは、求める心が作り出す妄想である。

その妄想が、いくつかの反応を作り出す。

ひとつは、憤懣。もうひとつは、和解・修復を期待しての迎合である。

後者(努力・迎合)の場合、苦悩するのは、子である。このとき親はトクをする。「権力」を握る。

前者(憤懣)の場合は、親の態度によって二手に分かれる。もし親が、子の憤懣を受け容れない「強い」親である場合、子は、その思いを(最終的に執着を手放して「大人になる」まで)抱え続ける。

この場合、「親を手放す」ことが一番よい。このとき逆に、親に執着して、親の近くに居座ってしまえば、親子は地獄を見る可能性が高くなる。

他方、もし親が、子の憤懣を受け容れてしまう(つまり聞き入れてしまう)「弱い」親の場合、出口の見えない袋小路に入り込むことがある。

というのは、子の憤懣の「原因」を、親は正しく理解できないことが多いからである。

●たとえば、子の憤懣というのは、実は親が想像しない点にあることもある。よくあるのは、子が、人生をうまく生きられていない場合。たとえば、進学、就職その他でつまずいて、「不本意」な思いを抱えている場合である。(あまり指摘したくはないが、結局、怠惰・快楽に執着している場合も、あることもある)

その「不本意」、つまり怒りがアタマに浮かんだ時、自分を責めるか、誰かを責めるか、という形で心は「発散」を求める。

ただ耐えるとか、前向きなモチベーションにつなげることも可能ではあるが、進展のみえない状況においては、難しい。手っ取り早く「責める」対象を探し出すことになる。

責める対象は、身近にいたりする――つまり、怒りを受け止めてしまう親である。あるいは、甘えを許容してくれる親。責めてもなじっても、じっと耐えている親。あるいは、自身の甘え(ときには親を心配させたり、迷惑をかけたり、トラブルを起こしたりという形で出てくることもある)に、あわてふためき、動揺し、なんとかしようと頑張ってくれる親。泣いて嘆いてくれる親。

そういう親が身近にいると、子にとっては、憤懣・怒りのはけ口にしやすい。場合によっては、自分自身のプライド・支配欲を、親に向けて満たしていることもある。

たしかに、子の憤懣の一端には、親がいることはある。だが、原因は親だけに限らない、ということころが、ミソ(注意したい点)である。

親とは哀しいもので――子に責められると、「そのとおりかもしれない」と思ってしまう。自分自身がよき親であったか、十二分にしてやれたか、という点において、自信をもって肯定できる親など、おそらくほとんどいないはずである。ほとんどは、「至らなかった自分」という思いがある。だから、そこを突かれると痛い。親は自分を責め、「せめてなんとか応えてあげよう」と思う。

責める子どもと、受け容れてしまう親――この二つがそろったときに、苦しみの呪縛が生まれる。

●さて、この呪縛を立つ方法とは、どういうものだろうか。

執着こそが苦しみの原因なのだ――という仏教の理解は、ここでも当てはまる。執着を断ち切れば、関係は変わる。

子の親に対する執着。親の子に対する執着。それを断ち切るとは、どういうことだろう?
 
たとえば、子が親への執着を斬って捨てるとは、こういうことである――「親にはなにも期待できないんだ、このヒトはこういう人間なのだ」と割り切ること。

そのときは「こういう人に期待を向けていてもしようがない」と思う。あるいは、「人間としてひどい」相手なら、「そんな人間と関わるべきかどうか」を考えるようになる。親への執着を斬って捨てて、「関係を選べる」心理状態に立った時、子は自由になれる。(捨てましょう(笑))

あるいは、子が、「自分の苦しみの原因は親のせいだ」という思いを断ち切ることである。子はときに「自分がこうなったのは親のせいだ」「あやまれ」「どうしてくれる」と親を責め立てることがあるが、その責任追及の連鎖――親を責め続けるという執着――が切れた時。

そのとき、子は解放され、親も解放される。

●ただ、こうした「解放」は難しい。理由のひとつは、子の側に執着することの快楽があるから(親を責めているかぎり、自分は責任を負わなくてすむ気がする)。

また親の心情として、子の執着を受け容れないことは、難しいからである。それは「愛情」なのか、「弱さ」なのか……たぶん両方である。

親がよくよく注意すべきこと。それは、子が親に向ける執着――憤懣も甘えも含めて――は、実は、親に理由がない場合もありうるということである。

たとえば、子が親に向ける不満の理由が、はるか昔の過去の出来事だったり、子ども自身のつまずきだったり、ふいに湧いてくる怒り交じりの妄想だったりする場合である。これらは「子どもの側の事情」であって、親はもはや関係がない。

(※ちなみに、怒り交じりの妄想というのは、部屋に閉じこもっていたりするときに、ごく自然に出てくる。これは、本人には正当な怒り・妄想に見えるものだが、本当はそうではない。事の本質は、「妄想しやすい環境」に留まってしまっている状況そのものにある。子を責めるのも間違いだし、親を責めるのも間違いである。この正しい理解に立つと、発想が変わってくる。そこまでここでは言及できないけれど(笑))

ただ哀しいことに、弱い親には、そのあたりのことが見抜けない。
見抜けたとしても、過去にさまざまありすぎた関係においては、指摘できない(すると逆効果になる)こともある。

親はえてして弱いもので、子が責め続ける限り――その関係に依存・執着してくる限り――なかなか拒めない。子も、そういう弱い(≒親なりの愛情をまだ持ってくれている)親の態度を見て、責めたり、甘えたり――つまりはその関係に依存――してくる。こうして、苦しみの袋小路――出口の見えない関係の輪廻――が回りだす。


●さて、問題はここからである。苦しみの原因が執着にあるとして、その執着を断ち切る方法の「基本」とは何だったか――そう、正しい理解である。


まずは、子が自身の執着を理解することである。それは、今の生活・状況・関係への「執着」そのもの。持続してしまっている事実そのものを、よくよく理解することである。

そして、子の側でできること・努めるべきことは、「執着していても仕方がない」と目を覚ますことだろうと思う。出口が見えてない今を理解すること。そして新しい方向を見て舵を切ることである。

子がときに親に向ける怒り――その「不本意」な思い――も、同じである。その「不本意」が、自分に何をもたらすのかを、よく理解すること。

親の至らなさ・弱さ・甘さが、今の自分の不本意につながっていることは、たしかにあるかもしれない。

しかしありのままをいえば、それは、今の自分のありかたを決める理由にはならない。過去は過去にすぎず、親は他人にすぎない。過去に戻ったところで、親という他人に目を向けたところで、自身の今が変わるわけではない。

ほんとうは――親も過去も関係なく、このままでよいのか?という問いの一点にたどり着くしかない。

どのような思い・言葉をも、親に向けることはできるだろう。しかし、誰にいかなる思いを向けようとも、ひとつだけどうしても否定できない真実がある――それは、汝(自分自身)のためにならない、ということである。

「汝」(あなた)という言い方は、呼びかける相手を想定している。文字通り「汝」と呼びかけることになる人もいるだろうし、自分自身のことを「汝」と呼んでみるのもよい。自分自身を目の前において、たずねてみるのである。


●親もまた、気づかねばならぬことがある。自分自身がこれまでどのような人間であっても――どんな親として生きてしまったとしても――それは過去のことである。埋め合わせられるものは、埋め合わせよう。ただ、親である前に、小さな人間である自分自身には、どうしても埋められぬものもあるのである。けして「親としての自分」にばかり執着していてはいけない。「親であることをあきらめる」覚悟もまた、必要なときがあるのだろうと思う。

ひとが忘れてはいけないのは、「これは、相手(目の前のこの人)のためになるのだろうか」という発想である。

親もまた、「これは、あなた(子とは呼ばないほうがよい)のためになるのだろうか」を考える。胸を痛めて考える。「親としての自分(の至らなさ・価値・プライド)」に胸を痛めるのではない。苦しんでいるひとりの人間を想って、胸を痛めるのである。

それはときに、覚悟がいる。親が親でなくなる覚悟。そして子が子ではいられない覚悟。

これは案外難しいことだ。たとえば、自身の親――親自身の親も含む――を許すこと。親の業(影響)から自由になること。つまらぬメンツやプライド、世間体、優越欲・支配欲や劣等感などを、「愚かしい判断」とわきまえて、サッパリ捨てること。自身が成長することが先決である。自分が変わっていく勇気を持つ必要がある。


●子としては、こう考えよう――自分が見るべきは、親ではない。自身の人生である。結局は、この関わり・この生活・今日の過ごし方が、自分自身にとってためになるのか。そこを問う努力をしようう。「求めつづけてきた親の姿」は、淋しいことだけど、妄想だ。手放す準備を始めよう。

親としてはこう考えよう――親の自分が見るべきは、子ではない。子を何とかしようとか、子に何かしてあげようとか、いたらぬ自分を反省する・恥ずかしく思うとか、そういうことではない。

親も結局は、自分自身をよく理解するところから、踏み出すしかない。至らなさは至らなさとしていさぎよく受け止めるが、ここから先、よき関係を作っていくために、まずは自分自身が育っていくこと個を、自身と子の前に誓うしかない。

「育つ」とはどういうことか――やはり「正しい理解」を深めることである。自身の心をよく理解するように努めること。そして、子の心をよく理解するように努めること。

理解すべきことは、たくさんある――怒り。裁き(判断)。慢(自分の正しさへのこだわりや世間・近所を気にする心)。こうした思いがある状態で、よき関係を作れるはずがないではないか。

自分の心を、相手の心を、これからの関わり方を、「よく理解できるようになろう」と思えることが、出発点になる。それ以外の地点からは、きっと何も始まらない。

正しく理解する心に立てた時、自然にこう思えるようになるだろう――

あなたの気持ちはわかるし、受け止める覚悟もある。

しかし、それ(あなたがしていること・語ること)は、あなた自身のためにならない。

――今、これを言えば、逆ギレされるかもしれない(笑)。だとしたら、それだけあなたが、自分も、子の心も見えていないということである。きちんと見る・見える人間の言葉は、きっと届く。なぜなら、その言葉は、純粋な悲の心――相手の痛みを感じる心――から発しているものだからである。


これは、複雑で、深く、時間のかかるテーマである。ただ、ひとつだけ最後にまとめてみると、こうなる――

「これは相手のためにならない」という悲の心。

その心が相手に届くように、誰よりも自分自身が理解を深めること――。

(あなたの幸せを祈念しつつ^人^)

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家族に悩んだときは、きっと役に立ちます(クリック)

出家が夏に求めるもの

6月14日(火)

ひとまず東京に帰って来た。今回は、長野そして三重への小旅行。いずれも意義ありあまる訪問になった。

ひとの心はときに深い苦悩を背負うことがある。が、心とは無常、つまり形なきものである。

だから、どのような苦悩であれ、それ以上に反応を繰り返さなければ、ほぼ確実に消えていく。これは自分が納得できるか否かを問わず、心の性質にてらせばそうなる、という真実だと思っていい。

本来うつろいゆく形なき心に、なにゆえに苦悩が居座り続けるのか。よく考えれば不思議なことだが、その原因を仏教では〝執着〟あるいは〝業〟と表現するのである。

執着とは、さまざまな意味を持つ。繰り返す心。ひとつの反応に慣れている心。忘れようとしない心。迎合する心。元に戻ろうとする心――ひとは、「変わらない」自分に蜜(快)を覚える。ただ、それはなにゆえに快かといえば、単に「心は同じ反応を繰り返すものだから」である。

ひとはあれこれと理由をつけて、同じ自分を繰り返そうとしてしまうが――もちろんそれ自体がいけないということではない。それもまたひとつの選択たりうる――ただその場合に、たしかにいえることは、「これまでの苦悩も続いてしまう」ということである。

変わらぬ自分に蜜を感じるとともに、変わらぬ自分を生きることで苦しみも背負い続けることになる。ならば、どちらのほうが、冷静に考えてみて自分にとって正しい選択なのだろうか――変わる道を選ぶこと? 変わらぬ道を選ぶこと?

答えをあえて出すなら、「どちらも正解」である(笑)。どちらの人生も、生きていく価値はある。ひとはただひたすら、命続く限り生きていく。それだけでほんとうはよい。

ただ、「変わりたい」という思いがあって、変わらぬ道に留まり続ける自らの執着(生き慣れた心)を「手放していこう」と、道の途中で決意するなら、その決意に素直に沿って生き始めることである。

そのときは、「正しい道」――正しい生き方・心の使い方――をよく学び、自分にできる範囲で精一杯実践することだ。最初から「正しい道」そのものを生きられるわけじゃない(だって過去の自分もしっかり鎮座しているから)。でも「自分」とは違う「正しい道」を知ることで、少しずつ軌道修正が可能になる。「道に立つ」「道を学ぶ」ことは、そういう決定的な意味をもつ。道を知らなければ「自分」を繰り返すしかないが、道を知っていれば「自分」を改めて作っていくことができる。新しい人生が始まるのである。


●今回の訪問は、ちょうど夏を思わせる快晴・暑気だったせいもあって、なにかしら「全国行脚」の予行演習みたいな感じだった。列車に乗る。空を見渡す。野山を眺める。ひとが住まう家、小さな舗道、育ち始めた稲田、光うるおう河、ひとつひとつを心で触れながら飛んでいく。そしてその土地で生きている人たちに出会う。とても美しい時間【とき】がある。夏はひときわそうした旅を可能にしてくれる。

この夏の全国行脚に先がけて、ひとつ雑事を先にお伝えしておくなら、私は娯楽・快楽はいらぬ身である。仏道というひとつの道を、法話会にせよ、講座・講演にせよ、法事にせよ、個人的な相談にせよ、なにかしらの形をもって共有できること一点が、私自身の・興道の里の活動の目的である。

だからぜいたくはいらぬし、酒宴などもってのほかである(笑)。道を分かち合うことになんら役に立たぬからである。

そして、必ず「道をわかちあう」ことを最優先していただきたいと思う。たとえば観光地を訪問する等は、「道の後」におまけとして賜るのはよいのだが、そうした余興の方が先立ったり多くなったりすると、貧乏性の私は途端に疑問を抱いてしまう(笑)。

なるべく働かせて下さるほうがありがたい――どんな小さな相談事でもかまわない。そういう人たちが訪ねてきて下さること、あるいはそういう機会を作って下さることに努めて下されば、たいへんありがたい。

私がつねに想っていること――旅先で見るどの町並みにおいても、その一つひとつの屋根の下には、大なり小なりの苦悩があるものである。その苦悩に触れることはできないか。どうすれば、苦悩を越える〝可能性〟を作り出せるか。どうすれば可能性を求める人たちに出会えるか。どうすれば、可能性を分かち合った喜びをもって次の場所に旅立てるか――。

畢竟(とどのつまり)、私が求めるのは、道を求める人に出会って道を分かち合うことであって、娯楽・余興や、何かしらやった(やりたい)という自己満足ではない。私はそういう道を生きている厳格な出家である。ぜひそのあたり、心の片隅に置いて迎えて下されば、これほどありがたいことはない。


この夏、各地でお会いできるみなさまへ、

ぜひよきひとときを作れますよう、ご協力お願い致します(^人^=)。












最良の日

こんにちは、草薙龍瞬です。

最初に野暮用から(笑)――

坐禅会は、6月12,19日(日)の午後6時
仏教講座は、6月17日(金)午後7時/25日(土)午後6時 ★変則的に17日(金曜日)に実施。
巣鴨は、6月23日(木)午後2時

6月の仏教講座のテーマは〝八正道〟――人生を上手に作っていくための8つの実践メニュー――です。

全国行脚訪問地、ひきつづき募集中です。仏教を学びたい方、相談事がある方、ご連絡ください。

(さて、本題――)

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6月11日

この金・土曜に長野に行ってきた。

初日は長野のとある財団にうかがった。あえてどの場所かは、今は言葉にすべきではないと思う。あまりに感じるものが多かったからである。ただ、ひとつの場所 に根を下ろし、自らがさずかった縁(えにし)をただひたすらにまっとうする。その日々が積み重なると、たとえばこのような命充溢する空間を創ることができ るのだ、という証(あかし)を目の当たりにした気がする(よくわからないと思いますが、要は今はあまり言語化できないししたくない、善き出会いがあったと いうことです(笑))。
●今回言葉にできるのは、土曜の日のこと。

長野・明科【あかしな】で結婚式があった。私はその宣誓式をうけもつ牧師さん?(笑)的な役割をさずかって、足を運んだのだった。

昨日・今日と長野は暑いくらいの快晴だった。同じ列車に乗っていた新郎さんのご家族に、駅のホームで対面。参列者とご一緒にバスで八寿恵荘【やすえそう】と いう、カモミール畑に包まれた瀟洒な旅館へ。今日はここで結婚式をやるのであった。旅館にとっても初めての結婚式、私にとっても葬儀・法要以外につとめる 初めての結婚式、もちろん新郎新婦のお二人にとっても初めての結婚式なのであった。

新郎である青年は、仏教講座を通して知り合った。

青年は当時、仕事のこと、交際中の彼女(今日の新婦さん)のこと、まだ捨てきれない夢のことなど、いろんなことで悩んでいた。その半生の中でもしかしたら一 番重大な――人生を決するという意味で最も深刻な――悩みを抱えていた時期だったのかもしれない。彼は、私と一緒に仏教に触れ、そして神楽坂のファミレス でいろいろと語り合ったのだった。少しずつ、夢と現実との区別がつくようになり、そして現実のなかに充実や喜びを感じる生き方に目覚めていったような気がする。本当の人生を生き始めた、といってよい頃だったのかもしれない。

結局彼は、東京での仕事をやめて、地域振興に頑張る長野の池田町に、新天地を求めたのだった。そしていろんな苦悩、ひょっとしたら危機もあったかもしれないその女性――ヨーロッパのとある国の方――と、一緒に生きていくことをついに決意したのだった。

出会って九年目のお二人だという。そしてようやくこの日にたどり着いた。悩みの数々を一緒に乗り越えて、最高の結論にたどり着いた尊さは、やはり言葉では言い尽くしがたい。ただひたすら、「よかった(よかったねえ)」という気持ちしかない。

親族と知人だけを集めた小さな手作りの結婚式だった。屋外の敷地にしつらえた宣誓式(人前式)の会場で、私は二人の結婚を無事成就する小さな役割をつかさどった。


●二人が、生涯にわたる愛を成就しようと思えば、心がけるべきは四つ――

相手の喜び・幸せをわが喜び・幸せとして、ありのままに感じとること(喜の心)。

相手の悲しみ・苦しみをわが悲しみ・苦しみとして、感じとること(悲の心)。

そして、不満や不安その他、幸せに必要のない感情や思いは、よく自覚して(気づいて)手放すこと(捨の心)。

さらに、相手の幸せを心から願うこと――慈しみの心。



この四つを、いつも、つねに心がけること。その誠実な心がけを互いに向け合うことで、いつしか愛を成就する。「かわらぬ愛」というのは、道の先でふり返って 「変わらなかった愛」のことである。やがてたどり着けるかもしれない最高の愛に向かって、二人が努力すること――その心がけ・誠意の積み重ねの先に、生涯にわたる愛が実る。そういうものではないか。
四つの心がけを誓ったあとは、二人が、それぞれ、相手に向けてしたためてきた誓いの手紙を、みなの前で朗読。その言葉のきよらかさ、美しさに、そばで見守る人たちみなが感涙したのだった。みんななんでだか涙 ; ;)なのである。

精一杯の誠実さ、純粋さ、相手を思いやる気持ち、これから始まる新しい人生への誓い、相手への敬意、愛情、希望、楽観、覚悟……その他ありとあらゆる美しく 善き思いに、新郎新婦も、集った人たちも心注いで、他の物事をかえりみない。これほどに純粋なひとときというのは、人生の中でもそうそうない。というより 端的に、人生で最高の一日といっていい。その日の二人の姿を目の当たりにして、あまりのすがすがしさと、あたたかい愛情の通い合いに、みなが胸打たれるの である。結婚式とは、そういう日――。

指輪を交換して、誓いの儀式を経て、二人はみなのまえで正式な夫婦となりました。みんなで拍手!


真心こもった旅館の手料理や、新郎のご友人の音楽演奏(プラスお笑い芸)や、今日に力を添えてくださった方々の挨拶や、新郎新婦手製の写真上映や、参列者み なが自由にトッピングを飾るケーキや、いろんな気持ちが詰まった披露宴を終えて、バスで会場を後にする。二人はこの明科の地で、新しい人生に踏みだしたの である。ほんとうにすごいこと。そして今日立ち会うことができたことに、心から感謝。よかった、よかったである。


ひとつの場所に三年がんばれば、ひとつタネをまける。五年がんばれば、芽が生える。

そして十年がんばれば、もう折れない太い幹になる。枝葉も茂り、花も咲く。

そういうものではないだろうか。ほんとうの人生が始まったんだ――。


おめでとうございます。

これからの日々を、おふたりお幸せに――。


『世界しあわせ紀行』対談(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

6月8日(水)
こんにちは、草薙龍瞬です。

今回はお知らせ:
まもなく、早川書房(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)から、『世界しあわせ紀行』が出ます。



内容紹介――「不幸な国ばかリ取材してきたアメリカ人ジャーナリストが、人々が最も幸せに暮らす国を探して旅に出た。訪れるのは、国民の幸福度が高いスイスとアイスランド、逆に低いモルドバ、富裕国カタール、国民総幸福量を国是とするブータン、多くの西洋人を魅了するインドなど1O力国。各地で出会った人々や風習、哲学をユーモラスに紹介しながら、幸せになるために必要なものとは何かを探る。草薙龍瞬Xたかのてるこ特別対談収録」


●この本の面白さはね、私なりにいえば、「ちょっと(かなり?)暗い、神経症的な中年男性が、それでもなんとか『しあわせ探すぞ』と意を決して、いろんな国を旅して、帰る頃にはなんとなく(ほかの人にはわからないかもしれないけど、本人にとってはかなり劇的に)『しあわせ』に近づいている」というところにあるような気がします。

笑えなかった人が、ちょっと笑えるようになった、みたいな(笑)。なんとなくウディ・アレン――「50億年経ったら太陽が膨張して、地球は滅んでしまう」という病的ニヒリズムを劇中の少年に語らせた映画監督(作品名忘れました(笑))――とキャラクターは似てます。

私がお勧めするのは、これだけ自己否定感が強くて、楽しむことの不器用な男性が、旅の途中でもとにかくなんでもかんでも考え込んでしまうのだけど、ときおりふと「感情のヨロコビ・安堵」を感じているシーンを本の中に見つけること。

「ああ、この人、今、解放されている(やすらいでいる)んだ」と思える場面を見つけることです(ウォーリーを探せみたいな?)。

というのは、語り口が地味な作家だからね。その語りにマジメにつきあうと、こちらもマジメになってきます。(もちろんマジメ路線が好きな人も楽しめる本です。というか、そちらが正統派かも。「幸せ」について、十か国を旅して、インタビューしたり、統計データをひもといたり、哲学・思想・心理学を引いたり、と「学べる」本になっているので。)

この作家エリック・ワイナー氏が、もともとネガティブ思考を抱えていて、一所懸命「考えて」しあわせを探そうとして、でも案外旅先でみつかる幸せって、「感覚」や「感情」の快だったりする――これは仏教的なとらえ方ですが――というところを見つけていくと、この本の面白さがわかってくる気がしました。(欧米人だと「知的ユーモア」を感じとれるのかもしれないが――それゆえにアメリカではベストセラーになったらしいのだが――日本人には、彼のユーモアはわかりにくいかもしれない。なので、彼の素朴な(人間的な)喜びを発見してやるぞう、的な読み方をすると、面白さがみえてくるかもしれない。)

●もうひとつのオススメは、「対談」が載っていることです。たかのてるこさん――あの衝撃の名作『ガンジス河でバタフライ』の著者さん――と対談させていただきました。

てるこさんのバイタリティというか、パワー、明るさというのは、次元がちがいます(笑)。本を通じて以前から知っていたので、お話いただいたときは、「どうなるかな(なんで???)」と思っていたのですが、お目にかかると、なんというか、懐かしい感じがしました。今の時代は、わりあい人と距離を置くつきあいをよしとする人が多い気がするので……彼女はその真逆です。壁を破ってどこまでも人の心に入っていくたくましさがあります。まさに「地球の広報」さんです。

私は今は持戒の身の上なんで、一緒に踊る(?)ことも飲むこともできませんが、しかし楽しいひとときでした。

その対談が巻末に載っています。対談って、かみ合わないものになることもあるけど、今回の対談は、語り合いの中で新しい発見とか意味づけとかをどんどん作り上げていく、「理想の対談」みたいな感じになってます。あったかい対談です。お話いただいてよかったと思いました。しかも、この本そのものの面白さ・読み方みたいなものもわかります。

オランダ、スイス、ブータン、カタール、アイスランド、モルドバ、タイ、イギリス、インド、アメリカ――を旅したい人・旅する予定の人は、下準備にどうぞ。「幸せとは何か」というテーマを決めて旅に出る。そういう「テーマから入る旅」の作法も教えてくれます。

http://www.amazon.co.jp/dp/4150504660/ref=dp_ob_title_bk
楽しい対談でした