仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
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①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
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全国行脚2016スタート! 「仏教ってドライ?」と感じているあなたへ



全国行脚・東日本編、おかげさまで実り多く終了致しました。お声かけてくださったみなさん、どうもありがとうございました。ひきつづき、西日本編に入ります。


7月30日(土)

外に出ると、弩夏【どなつ】であった。空が蒼く光っている。形のまとまった雲が輪郭を輝かせながら流れている。


東武の講座を終えて、残った作業を片付け、翌7月31日の朝、まずは東北仙台に向かって出発。

全国行脚は今年で二回目。今回は北は青森、南は熊本まで訪問させていただく予定。今も訪問地募集中なので、ぜひお声がけください。

仙台では、某会館にて勉強会。地元で主催してくださった女性の知人たちと、ネットで知った人たち。東洋経済オンラインの記事からたどり着いた人たちも。縁というのは、面白い形で広がっていく。

毎回、最初の場所は、初めてということもあり、若干空気が硬い^^*。まずはおひとりおひとりに、近況や今考えている(悩んでいる)ことなどを聞いてみる。話をうかがいながら、共有できそうな言葉・テーマを白板に書いていく。そこから話を組み立てていく――。

○さて、仏教の出発点とは?

私たちが生きている現実というのは、ほとんどの人にとって、得体のしれないもの。生きるとはどういうことか?ということさえ、はっきりさせる機会なく、年を重ねていきがちだ。

仏教的な「発想」によれば(発想という視点が大事なんだけど)――生きるとは「心を使う」ことである。反応すること。「意識」という心のエネルギーを、何か対象(見るもの・聞くものetc.)に使うこと。

もし意識を「不安」という名の妄想に「無自覚のうちに」使っていれば、「喜びの感情」は持てないし、生きている実感も湧かなくなる。というのは、「妄想」と「感情」は別モノであって、意識を妄想に使ってしまっては、感情という反応は生まれにくくなるからである。

また意識を「怒りという感情」に無自覚のうちに使っていれば、まともに考えることはできなくなるし、「自分が何をしているのか」さえわからなくなることがある(鬱はそのひとつの例かもしれない)。

というのは、「感情」と「思考」とは、これまた違うからである。(『これも修行のうち。』をご覧ください――心には五種類あるという第1章)

そして人は、それぞれに「心のクセ」があるから、「妄想」とか「感情」など特定の反応に心を(無自覚のうちに)使ってしまっている。その状態が「なんとなく気が晴れない」「生きづらい」ものに感じられる。


○もし心のクセにストップをかけようと思えば、自分のアタマの中(心の状態)を「正しく理解する」しかない。理解すれば、それだけで心の反応は収まる。止まる。抜けることも可能になる。あくまで「原理」としての話だけど(実践が要るので)。

妄想するのではなく、解釈するのではなく、感情で反応するのでもなく、ひたすら「心の状態を理解する」のである。この心がけって、かなり大事。


○「正しい理解」を育てるのが、サティ(気づき・マインドフルネス)。体の感覚を意識すること――吸っている・吐いている(ふくらみ・ちぢみ)の感覚に意識を向ける。その間は、妄想しない、解釈しない(考えてしまったら、思考という反応が湧いたと客観的に自覚する)。

こうして、とにかく「心の状態を見つめる」こと。これは「実践」。どれだけ練習するか。しなければ、わからないし、変わらない。アタマの中(思考)で考えて「こういうことだろう」というだけでは足りない。これはまだ「妄想」の中に踏みとどまっている姿である。

(理想は本を読むのと同じ時間を、サティの実践に使うこと……難しいかな。)

ヒトの心はとにかく妄想漬け

○最近とみに感じるのは、人間の心はどっぷりと妄想に浸かっているということ。妄想に浸かった状態で、人は考えたり、解釈したり、良し悪しを判断したりしている。それが日常生活になっている。

しかし、「妄想漬けのまま、日常をなんとなく過ごせる」ことと、「妄想を抜けてクリアな心境になる」ことは、まったく違う。海の中と陸の上くらいに、生きている実感が違ってくる。

ふつうに暮らしていても、それなりに楽しく、快適な生活、良好な人間関係は可能だろうと思う。でも、もし妄想を抜けていなければ、いろんな部分で不都合(不快)が出てくることがある。

人間関係でいえば、ひとの心が分からない、関わり方がみえない(モヤモヤが残る)というのは、じつは相手のせいではなく、自分自身の「妄想」が原因だったりする。(とくに親子、恋etc.)

※ちなみに――

○「妄想」は、ほぼ自動的に新しい妄想を作り出して、「正しい理解」をジャマしようとする。この「からくり」がときに、「仏教」をもカン違いさせることがある。

たとえば、最近聞いた興味深い言葉に、「妄想が抜けた心というのは、冷たくなるのではないか」というものがあった。「愛情」「共感」「協力」「きずな」が持てなくなるのではないかと。仏教を突きつめていくと、あまりにドライ、クールで、情のない人間になってしまうのではないかと。

とんでもない勘違い(笑)。これこそ「妄想」が作り出した、奇妙な発想(かんちがい)だといっていい。

考えてみたいのは、人が想像する「愛情」「共感」って、本当にその言葉通りの意味なのか?ということだ。

「愛情」を語りつつ、相手を知らず、理解しておらず、その心の中をただ一方的に妄想しているだけ、ということはないだろうか。妄想を語り、妄想にもとづいて動いているだけで、じつは相手の心に何も届いていない、役に立ってもいない、ということは、ないだろうか。

自分は、本当に、相手の心を正しく理解しているのか?――を考えてみる。そのときに真っ先にリセットすべきは、相手の過去も、相手の言動も、相手の動機も知らないまま、この人はこういう人だろう云々と詮索・解釈してしまっている姿である。それは「妄想」であって、「理解」ではない。

親でも、子でも、恋人でも、友人でも、他人でもよい――その相手の心を(妄想することなく)理解したうえで、どう関わるか、を考えるのが正道ではなかろうか。

そうしたステップをふむならば、その「愛情」が相手に届く・愛情を生かした関係が育つ可能性はある。

しかし、自分が妄想を抜けておらず、またそれゆえに現実の相手とどう関わるか、実際に関わる意欲(覚悟)があるのかも、はっきりしないまま、ただなんとなく「愛情」なるものを適当に「妄想」してしまっている状態も、案外多い気がするのだが、いかがだろう。

○そうした妄想を前提にして、(正しい理解を基本にすえる)仏教について考えると、「仏教ってドライでは?」という思いが出てくるのではないだろうか。

たしかなのは、妄想の中で考える「愛情」と、本当の愛情とは違うということ。前者の愛情は、結局妄想しているだけで、相手のことを本当の意味で愛せてはいない。わかっていないからだ。妄想の中で自己満足している状態とさえいえなくもない。

本当の愛情・思いやり・やさしさは、妄想からは出てこない。あくまで相手の心を、解釈せず、妄想せず、ひたすらクリアに理解するところから、生まれてくるものである。

「相手を理解することは難しい」(不可能)という声も、ときに耳にする。しかし、だからといって「妄想」のまま関わることを正しいとすることはできない。相手の心が見えていないからである。

最大公約数的な(これだけは間違いないといえる)ことをいえば、「相手の心を理解しようという誠実な心がけ」こそが、「愛情の必要成分」だということだ。

「仏教を突きつめると、感情がなくなってしまうのでは?」と妄想する人は、まずはその妄想自体を捨ててみることである。ちゃんと練習して、「ありのままを見る」という心境に立てるようにすることだ。そのとき、すべてが一変するはずである。

そのとき、本当の愛情、寛大さ、優しさ、思慮深さ、頼りがい、リーダーシップ、人と関わる上での責任感・勇気・覚悟……その他さまざまな「美徳」が自由自在になることを知るはずである。

本当の愛情は、正しい理解から始まる。けして妄想からではない――これもまた、ブディズムが教える真理である。(妄想にすがって、なんど失敗してきたことだろうか^^;)


○ブディズムとは一言でいえば何か、と聞かれたら、やはり「正しい理解」と答えることになる。

この言葉は、シンプルにすぎるが、実はすさまじく深く、汎用性(使い道)が広いのだ。「マインドフルネス」も「さとり」も、「理解する」という心がけのバリエーション(一部)である。

では、その「理解する心」をどうやって知るのか――といえば、「気づき」の修行を積むしかない。

やって、やって、やり続けて、いつしか凄まじく理解の力が強くなった――そのときに、

「ああ、私、(かつての苦しみを)抜けたんだ!」

「(妄想を)卒業したんだ!」

「最高の納得にたどり着いたんだ!」

と気づく。

「今を生きる」ということ、「人生の充実」「命の充溢」というのも、実感としてわかる。

ちなみに「理解の力が強くなる」とは、歩いているときの足の裏の感覚をクリアに感じ取れることでもある。「感覚を取り戻す」ことは、「理解力を取り戻す」ことでもある。だからこそ、その心がけで、禅・ヴィパッサナー、ヨガ、スポーツ、散歩、なんでも「感覚を意識する」レッスンをやってみることだ。

ぜひ精進していこうではないか。ブッダが語った言葉だが、「気づきこそ、苦しみを抜けるただひとつの道(方法)」なのである。


――というようなことを、今日の法話会でやったわけではないけど(笑)、でも3時間近く、みなさん熱心に聞いてくださいました。ありがとうございました。 

日本に帰ってきたときは、宇宙空間を浮遊するかのような孤独な日々であった。

今はこうして、かつて足を踏み入れたことのなかった杜の都にて、新しい人たちと自然に話している。人生は面白いものだ。どんどん違う星へと旅して、異空間を進んでいくような感慨がなくもない。

次の目的地は、青森である。


今年はどんな夏になるかしらん?

健康長寿の秘訣は気づきとお尻?(改め、熱き出家の世界)

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●東洋経済オンライン最新記事  ――お役に立てれば幸いです

心が強い人は「無感情」を習慣にしている~簡単!マイナス感情はこうしてリセットする  http://toyokeizai.net/articles/-/126812


●全国行脚 7月31日(日)仙台からスタート! 
東北近郊の方は、カレンダーを見て足をお運びください^^。お会いできますように。

●7月27日(水)午後1時 東武・座禅と仏教講座 TEL03-3988-4855

●生き方としての仏教講座・神楽坂 8月11日・13日(内容同じ)+26日(特別篇) 
●座禅と法話の会・神楽坂 7月24日と8月14日 

※講座の時間はカレンダーをご覧ください。

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7月18日
こんにちは、草薙龍瞬です。

7月連休の講座テーマは、清浄行(心をクリーンに保つ実践と山岳修験道)。

修験道――たとえば、吉野から熊野まで150キロを七日かけて縦断する行――の世界を垣間見ると、かつての日本には、命をかけて行をする熱い人間たちが溢れていたのだと実感する。

古(いにしえ)の仏教には、二種類の伝統があった――ひとつは、飛鳥時代の仏教伝来(蘇我氏主導)からつづく、朝廷や高野山・比叡山が権威を独占した〝仏教エスタブリッシュメント〟。

もうひとつは、その保守本流の仏教から逸脱し、あるいは異議申し立てを行った、行基や役小角(山岳修験道の開祖的存在)、さらには法然(浄土宗の開祖)らの〝仏教アウトロー〟の系譜。

仏教アウトローたちの魂の熱さ、既成の体制・権威に迎合しない勇気は、指摘するまでもない。ただ、仏教エスタブリッシュメントの枠の中でも、かつては、高野山・比叡山にて、命を賭けての激しい修行をしていた仏者たちが、一部いた。

明治時代に、「肉食妻帯」のお達しが来たとき、高野山や比叡山の一部の仏者たちは、「政治が口を出すな」と一喝したという。それくらいの「矜持」「求道の心得」を持っていた仏者は、仏教内の最も権威あり、贅沢・驕りをも許された場所にも、たしかに生きていたということだ。

残念ながら、明治以降の「近代化」、その一環としての廃仏毀釈の威力はすさまじく、またそれにあらがうだけの胆力が仏教界にすでに(江戸幕府の政策ゆえに)失われていたために、明治以降の仏教というのは、戒を失い、目的を失い、道を失った、腑抜けの仏教に化した部分は否めない。

寺を、自らの家族がすまうマイホームとし(つまりは私物化し)、酒やタバコを初めとする放恣・快楽に平気になり、ひとの死をとむらう法事は、寺の経営を支えるビジネスと化した感が否めぬ部分は、今の時代どうしてもある。

かつての、道を求め、それゆえに命を賭けて、仏教や修験の世界に足を踏み入れた、非合理や狂気ときに死さえ受け入れることを恐れなかった、ホンモノ正真の仏者たちというのは、正直、今の時代、今の寺や自称仏教の世界にどれほど残っているか――絶無(まったくない)とはいわないまでも、皆無(ほとんどない)といっていい現状かもしれない。(※ちなみに、凄まじい道をまっとうされている方々も私は存じ上げております。)


●話はそれるが、今夏の全国行脚中、会場に〝お寺関係者〟を呼ぶことは、ご遠慮願いたいと思う。

今回場所を開き、ときに無料で法話会を差し上げるのは、仏教になにかしらの救い・癒しを〝まじめに〟求める一般の人たちのためである。道を求めておらぬ自称僧侶方がやってくるにふさわしい場所ではない。

酒・タバコといった放恣になじんだ身の上をまずは改めることが、何よりも先であるべきだし、もし私が生きている世界に触れてくださろうというなら、「自身の寺に直接呼ぶ」ことが道理であろう。そもそも寺こそが修行・学問の場であるはずだからである。

そのあたりの道理見えぬところは、私は、端的にお断り申し上げる(笑)。筋を通すなら、それが当たり前の話。筋が見えぬこと自体が、仏教というもの、道というものを、簡単に見すぎていることの証左であろうと思う。


●本題に帰ろう――仏教を学ぶことの楽しさは、今の自分・時代を、他者の眼・異なる時代を知ることで「相対化」できることにある。

修験道の世界に触れること、古来の仏者たち、仏教思想というものを学ぶことで、今の時代、今の仏教に、何が根本的に欠けているか――ときにそれは、お遊び・理屈・形骸でしかないこと――を思い知ることである。

かつての仏教には、「合理」はなかったかもしれないが、しかしひとつの道に殉じる真剣さ・誠実さがあった。そういう世界に命をかけてまっとうした仏者たち・仏教の世界に触れることで、今のこの身が失っているもの、この時代が忘れてしまったものを思い出させてくれる。

もし誰かが「道を求める」覚悟を決めていたなら、その学び・発見が、自分にとっての最強のメッセージ、教えになってくれる。そうして、「また一歩この道を歩んでいこう」と思わせてくれるのである。


●この夏のテーマである清浄行は、心をクリーンにする考え方を、いくつかのステップ(段取り)に分けて解説する。と同時に、修験道の世界を資料にまとめて提供する。映像も見る。

この連休に映像の一片をみせて面白かったのは、リアクションが楽しそうだったこと。みな声をあげながら、どこかしら知的好奇心と「こんな世界もあるんだ」 という驚きをもって見ていたように感じた。あの山や崖に、もし自分が挑んだとしたら、そのとき何を思うか、何を見るか――そうやって肌で心で感じて、「自分にとっての意味」を探る。それこそが本当の学びである。


●以前、若い坊さん方が二人、神楽坂の教室にきていた。こういう人たちは、正真の道に立てる可能性がある。端的にいって、今の仏教、今のお寺にいて、悩まない人間のほうが、もしかしたらおかしいのである。真摯な動機、求道の心を持っていたら、切実に悩むのが道理であろう。

何が正しく、何が邪[よこしま]なのか、判断する眼をやしなうことである。そのためには、過去を学ぶこと、本物に触れること。そして仏教においては、ブッダの言葉の本質を、「原始仏教」の中に埋もれたブッダ本来の心の眼――いかに見て、いかに心使うか――を学ぶことである。

そうやって、自身の道を――つまり歩みつづければかならず納得が残る、そういう正真の道を、ダンマ(自身にとっての真実)を――つかんでゆくことである。 

そういう心得を持った者を、求道者といい、仏道を生きる者(仏者)という。

道を求めぬ者、道を失ったまま平気でいる者たちは、寺の内に捨て置くことだ。自らの道をゆくことである。時代は、もはやそういう本当の出家を可能とする時代にある。出家とは、寺の住職とか、ナントカ宗の肩書に収まった者たちのことではない。

出家とは、
自らにとっての真実(ダンマ)のみを胸にすえて、ただ独り生きる覚悟を決めた者をいう。

誰でもなりうる〝生き方〟のことである。

――ということで、講座で触れたのは、「心が年を取らない方法は、気づきとおしりの筋肉をきたえること」であった。これが今回のテーマだったはずのだが、講座の余韻が熱すぎて、熱い話題になってしまった。また機を改めてお話します(笑)。

訪問地、ひきつづき募集中!





「おまえ、新興宗教にハマったのか?」といわれたあなたへ(笑)

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●7月15・16・17日は、全国行脚・前夜祭 神楽坂
「清浄行――心をクリーンにする実践」をやります。日本仏教の話も少し(夏らしく、山岳修験道について。この世界がなかなか面白くてスゴイのです)。

●7月31日 仙台で茶話会(★参加者募集中)、8月1~3日は一関・岩手入りの予定。4日・秋田、5日・山形、6日・宮城、7日以降東北一帯です。訪問先、引き続き受付中です。

●8月28日から四国入り! まずは愛媛・今治へ(★座禅会・座談会をやりますので、希望者はメールでご連絡を。★四国の方、どこか場所を見つけてくれれば参上します。ご連絡下さい。
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「おまえ、新興宗教にハマったのか?」といわれたあなたへ(笑)
 (「新興宗教」とブディズムの違いって?)


4月以降、各地で新しく仏教を学び始めた人たちと出会うようになった。

みな、わかりやすくて、合理的で、役に立つ「ブディズム」に触れて感じ入って下さっている様子である。熱心に通ってきてくれる人たちも増えてきた(ありがとう)。

その人たちから時折聞く話題が、「ウチの人(夫・妻)に話をしたら、『なんだおまえ、新興宗教にハマったのか』と言われた」ということ(^^;)。これがよくあるそうである。

「違うって説明しようとしても、よくわからないから、無視してます(笑)」とある女性はいう。

そうか――たしかに、ブディズムと、宗教との違いって、よくわからないかもしれない。はっきりさせてみよう。


●宗教というのは、「確かめようのない話」がたいてい混じっている。そもそも「宗教」の定義からして「超自然的・超人間的な絶対的存在を崇拝すること」みたいな説明が、辞書にも書いてある。
神さま、あの世、死後の世界、目に見えない力――「宗教」はいろんなことを語る。

特徴的なのは、「これこそが絶対」「これこそが究極」とよく語ること。

そして、「確かめようのない」物語・理屈が、必ず混じっている。

見えないもの・自分には確かめようのないものを「とにかく信じる」ことで、信仰を得たとする。

そして、信じない人を「導く」「救う」とか、「そのままだと悪いことが起きるぞ」とか「地獄に行くぞ」「世界は滅びるぞ(だから信じなさい)」みたいなことを言う(笑)。

もちろん、信じれば「真実」たりうるのだろうし、信じる人にとってはそれは究極で、絶対で、最高の真理といっていいのかもしれない。

ただ、その信仰は、他者には見えない、信じない人間にはやはり確かめようがない、という点で「限界がある」ように思う。「自分に見えるものが、他者には見えない」という限界である。「夜空の星が見える」というのと、「宗教的真理が見える」というのは、性質がまったく違う。「星」は、他の人でも確かめうるが、「宗教」は、見えない人には見えない。


●ここで大事なのは、「その見えないものが、存在するのか否か」ではない。

「他者に見えない以上、限界がある」という「見きわめ」なのである。見える人にとっては真実。だが見えない人にとっては、真実にはならない。

つまりは、真実というのは主観的なものだということだ。それを客観的に正しもの・存在するもの、と考えようとするからおかしくなってくる。

思想・信条・良心というのは、内面の自由としては絶対であるべきだろう。しかし、「他者との関わり」においてまで、絶対ということにはできない。

脳が物理的に異なる以上、「自分に見えるもの」を「他者も見るべきもの」と考えることはできない。というか、すべきではない。

真実は、人の数だけある。「自己の内面」における真実と、「関わり」における真実とは、もはや領域が違うのである。

こうした「見きわめ」(あきらめ)を、人間が持てるかどうか。宗教という名のエゴ・思い込み、それゆえの衝突が激化している今の時代には、そういう理解こそが本気で求められているのだと思う。

こうした「理解の仕方」をこそ共有しようということである。「一部の人間に見える真実」を共有(そのじつ、強要)しようと発想するのではなく――。


●と、ここまできて、「これでは結局、「新興宗教でしょ」というご家族に説明できないだろう」と思うので(笑)、もっとわかりやすく伝えよう。

「我欲」と「妄想」を引いたもの――それがブディズムである。あるいは、人の幸せに純粋に貢献しうる宗教の本質部分である。

他方、「自分の側の利益・権力・名声・規模」といった「内向き」の目的で「妄想」を語りだすのが、「限界ある宗教」である。

※ここで「悪しき宗教」「新興宗教」といわないのは、宗教そのものは「内面的真実」としては価値を持ちうるからである。他者にとってどれほど理解しがたい内容であっても、それを求める人にとっては、「その内面においては真実たりうる」はずである。

ただやはり「限界はある」。それは、「内向きの目的」を共有しない他者が、必ず存在するからである。この事実こそ、「絶対」といっていい。「すべての人間が、ただひとつの思想・人間を信じる」などということは、まずありえないと考えるほうがよい。

だが「宗教」というのは、えてしてこういうとんでもない「妄想」をしてしまう。「自分が正しいと信じるから、絶対で究極」と思い込んでしまうのである。

だが、他者に見えるものではない以上、それは「妄想」なのである。

どのような真実であっても「妄想でしかない」という理解こそが、大事なのだろうと思う。


●今日に至るまで、人間の歴史に登場してきた「宗教」は、「妄想」から自由ではなかったように映る。

「宗教」を信じる人たちは、「妄想」を共有している面があることは否めない。いわば「妄想共同体」である。「他者にとっては妄想にすぎない」という理解が持てない。「私たちにとっての真理は、他者にとっても真理」と思い込む。。その危うさをこそ、他者は警戒するのである。

「我欲」と「妄想」を引け――そこに残るのは何か?

「人それぞれの幸福に役立つ方法の一つ」が残る、と私は思う。

「唯一の方法」ではない。「数ある方法の一つ」が残る。

「方法」は、正しい目的にかなうものだ。「正しい目的」とは、自分自身の幸福、あるいは苦悩からの解放であり、しかも他者に苦悩を与えないものである。

自分自身を苦しめること、あるいは他の誰かを苦しめることは、「正しい目的」ではない。その時点で間違っている。

自分が苦しむか、他の誰かが苦しむという帰結をもたらすものもまた、「正しい方法」ではない。その方法は間違っている。

その目的に、誰かの苦悩があってはならず、その方法が、誰かを苦悩させるものであってはならない。

もしそういう帰結をもたらす思想・宗教があるとすれば、そこには「我欲」か「妄想」がある――そうと気づいて、あきらめねばならぬ。でないと、世界はいっそう殺伐としたエゴとエゴの争いへ突入してゆくだろう。


●ちなみに、ブッダ自身が、人間を苦しめる心の現象(古くは煩悩と呼ぶが)として、貪りと怒りと妄想とを挙げたことは、ここに至って、まさに慧眼だったとわかる(こう書いてしまうと、ブディズム礼賛という危うさを警戒せねばならないが(笑))。

まさに欲と妄想とを、最初に引くべきなのである。そうすれば、「悪しき宗教」は成り立たない。そのとき残るのは、「現実をどう理解し、どう思考し、どう関わればよいのか」という「正しい」(役に立つ)知性ではあるまいか。

私が伝えたいブディズムは、まさにそうした「知性」の一つである。おそらくさまざまな思想・宗教の中に、こうした純粋な知性というのはあるはずだ。

人それぞれの真実を「洗練」させることである。我欲を引け。妄想を引け――合理的で、実用的で、誰かの幸福に役立ち、誰をも苦悩させない「方法」のみに立って生きよう。それで十分ではないか。



ということで、「おまえ、新興宗教にハマったのか」「あなた、やめて」と言われた人は(笑)、「大事なのは、人それぞれが納得いく人生にたどり着く方法。学んでソンはしないよ」と伝えてみよう。

「方法」は、あっていいのではあるまいか。



Q&A【子育て編】 子どもの承認欲との向き合い方

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おしらせ

●7月31日(日)午後2時から、仙台で茶話会
参加ご希望の方は、①お名前と②携帯(臨時連絡用)をご連絡下さい。場所は公共施設。個別に連絡します。

朝日カルチャー大阪『ブッダの教えから学ぶ 人生をより快適に生きる方法』
8月 22日 (月), 16:00 ~ 17:30
朝日カルチャーセンター中之島教室(大阪市北区中之​島フェスティバルタワー18階) 06-6222-5222


名古屋・栄中日文化センター 「座禅エクササイズと仏教こばなし」
8月 25日 (木), 10:30 ~ 12:00
〒460-0008 名古屋市中区栄4丁目1番1号 中日ビル4F 0120-53-8164

 


●8月28日から四国・九州行脚。9月3日は熊本市で法話会。お声かけていただいたところに立ち寄ります。

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Q&A 子どもの承認欲との向き合い方

ロンドン在住で、kindleで『反応しない練習』を読んでいるママさんから。
Q「5歳の娘のことで相談です。

「(お友だちの)○○は、良いものをもっている(羨ましい)。エミリーは可愛いスカートをはいていて、フェアじゃない。私は○○ができるけど、ジェイコブには○○ができない。わたしは難しい本をよむが、ミヒャエルは読めない――

などと、子供のレベルですがジャッジメンタルな(判断を含む・批判的な)表現で自慢したがったり、タイミングを見計らって、そのお友達と張り合うような会話をしようとします。

「くらべるのではない You are you, we are all different」という風に伝えますが、この資本主義社会、激しい情報化社会の中で、子供に心の持ちようを伝えたら良いでしょうか? 娘がいう自慢や 他人と比較する表現に、どのように対応したら良いのでしょうか?」


A 
子どもらしい様子が伝わってきますね(ほほえましい(笑))。

ひとことで言うなら、「まだあんまり気にしないでいいのでは」ということでしょうか。

ひとと比べてモノをいうというのは、たしかに承認欲から来ています。この承認欲が子ども時代に顕著に出てくるのは、おそらく2回――5歳から9歳くらいと、 14歳前後、じゃないだろうか(このあたりあくまで個人的な経験・印象で語っているので、適当に受け取ってください)。


●一番用心しないといけないのは、十四歳前後のいわゆる思春期の承認欲。この頃は「自意識」が急激に肥大し始める時期です。

この時期に、「妄想」(ボク・わたしはすごい・優秀といった自己イメージ)や、周囲への「怒り」があると、「承認欲」と結びついて、自意識のモンスターみたいな人格が育っていくこともある。たとえば、極度のナルシシズムや、傲慢・独善や、怒り型の性格など……。

※ちなみに「新型うつ」と呼ばれている現象は、すべてそうだとはいえないけど、けして病気ではなく、承認欲で周囲に怒りの反応をして、その怒りが蓄積されてヤル気が失せてしまう状態、と理解できなくもない。プライド・優越欲は高い、でも現実の自分は追いついていない、なので不都合な現実の前ではウツになり、 それ以外の娯楽などではヤル気復活、という姿も、なかにはあるみたい(もちろん全部じゃないよ)。プライド、は結局、自分を苦しめる。さっさと捨てて、素直になりましょう。


●その一方、5歳前後の「自意識」というのは、もっとシンプルで、親が肯定してくれれば、それで満足できたりする。学校が始まって、新しい友だちも増えて、多くの子どもは、それなりに元気にやっているが、やっぱり環境にどう 適応すればいいか(どうふるまえばいいか)は、子どもながらによく考えている。

もっと幼い頃なら、親の懐に飛び込んで、ひと安心。でもそれだけじゃ足りなくなった年頃の子どもは、それ以外の安心をなんとか得ようとする。そういう心情からの「比較」である可能性がある。

この「比較」が、クセになっちゃうと、本人のためにならない。「認められるためには、努力すること。貢献すること」が基本だから――ただ、それを理解してもらうのは、もう少し先のこと。そのときまでに親自身が、そういう価値観に立つ必要がある。

(準備して下さいね、ということ(笑)。下手な比較や、ご近所・周囲の視線・評価を気にしちゃうという発想に流れないように――親がそういう発想から自由でい れば、子どもは比較という発想をしなくなる。結局、親がどう返すか(対応するか)で、子どもが(家か外かで)学習してきた「比較」という発想がつづくかどうかが、決まる。)

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●積極的に話を逸らすなら、承認欲のライフサイクルって、以下のようなものかも――

①承認欲(親に見られたい・愛されたい・褒められたい)
   ↓
②単純にかわいがってもらって満足(乳幼児期)
   ↓
③頑張ること・ガマンすることを褒められて満足
   ↓
④社会的に価値あること(勉強・活動・仕事)を評価されて満足
   ↓
(それで生涯生ききる人もいれば、途中で限界を感じる人もいる)
   ↓
⑤お役に立てればよし(貢献)という思いで満足
   ↓
⑥(それすらも超越して)自分自身の価値観をもって満足
   ↓
⑦(さらには悟って?)いっさいの判断・期待をもたない状態で、〝事実上〟満足(ただ生きている・ただ活動している。それで十分という実感がある)


――①から④は、外(他者)の承認や、成果を必要とする。でも⑤から先は、自分自身が納得できていればそれでいい。前半は、まだ子どもの発想が残っているのに対し、後半は、完全に「自立」している。おとな(?)の境地。

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●本題に戻ると、5歳前後の「比較」というのは、まずは安心したい・親に認めてもらいたいという素朴な承認欲から来ている。だから、親としては、「比較」そのものにとらわれない(考えすぎない)で、子どもそのものを認めてあげることだろうと思う。 たとえば、

「○○(自分の子供のこと)は、こんなことができるんだね、すごいね」

「よくがんばったね」 (努力・辛抱をほめる)

「(子どもの友だち関係をよく聞いて)○○ちゃんにそう言ってあげたの?してあげたの? エライね」

――要は、子ども自身のこと・子供の言葉・ふるまい〝そのものだけ〟を褒める(そのためには、よく見て、よく聞いてあげる必要がある。親の最初の務めはやはり「正しい理解」Right Understandingである)。

とにかく、子どもというのは、褒めるときには、条件をつけず、百パーセント褒めてあげること。大事なのは、「親というひとりの人間が、完全に自分を認めてくれた・受け止めてもらえた」と子どもが実感できること。「褒める練習」もしないといけない。親に雑念・煩悩・我欲・期待があると、純粋に褒めることはできない。褒めるのも修行がいるのである。

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●これが基本。そのうえで「比較」という発想――子どもが学習しはじめた「判断」への受け止め方を、確立しよう。

子どもが示す「比較」の部分には、けっして反応しないこと。親自身も絶対に「比較」しないこと。

よ く「近所の○○ちゃんは、こんなことができるんだって(すごいね)」と、よその子を引き合いに出してしまう親がいる。これは厳禁。子どもからすれば「自分 を一番みてもらいたい」時期に、親が他の子どものことを語りだすというのは、あまりに不条理(笑)。なんでよその子の話をしているの???(⇒わたしのこ とはどうでもいいの?)ということになってしまう。

ここでも、子ども自身のふるまい・言葉・考え方そのものを、よく理解して褒めてあげることが、絶対の基本になる。まずはその練習。

そのうえで、子どもが、他の子を引き合いに出してきたら(はて、その比較は誰から学習したのか?気をつけたいものですが(笑))、

「比べなくていいのよ。あなたのことは、お母さん・お父さんが一番よくわかっているから」と言ってあげること。

もし、もう少し大きくなって、比べることでひとを見下したり、プライド・虚栄心を見せるようになったりしたら、

「そんなことを考えても、自分にプラスにならないからやめなさい(少なくとも親は聞かないし、ゼンゼンいいとは思わない)」と、はっきり伝えることかと思う。

比べたって、なんの足しにもならない――ということ。これは、十歳くらいから先、分別(思考)が身につきはじめて以降に、親が伝えるべきこと。

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●こう考えていくと、見えてくることがある。それは、親自身が、誰よりも一番、成熟・成長を求められている、ということ。

比べない。世間の価値観を真に受けない。自立する。

子どもの思い・言葉・ふるまい(だけ)を、正しく見つめて、正しく聞いて、褒めるべきところを大いに褒め、「子ども自身にとってマイナス」なことについては、人間として厳しく叱る――「わたしは、あなたにとってそれが正しい・プラスだとは思わない」とはっきり伝える。

これらは、なかなかできることじゃない。親といっても、まずは自分自身の修行・勉強が必要だということ。


●さいごにもうひとつ質問――

Q「お友だちから嫌なことを言われてしまった場合は、どのようにアドバイスすべきでしょうか?」

A「気にしないでいいよ」かな。

「○○ちゃんは、きっとイヤなことがあったのかもしれないね」(向こうへの理解と思いやり)

「(子どもに向けて)○○はどう? 心当たりあるかな? ないなら、気にしないでいいよ」

「○○が、いい子なのは、わたしがよく知っているから(笑)」と、サラリと流す。

ここでも、まずは「子供を肯定する」から入ることかもしれません。

他人・世間は「ひとさまの領域」。コントロールできないし、追いかけるだけ自分を消耗していく。他人の言葉・視線は「気にしない」が基本では。

だから、親が自分自身を肯定し、自立し、「ひとさま」を追いかけない。

それゆえ自然に、親は子供を肯定し、けして「ひとさま」の目で子供を判断しない。
(判断は不要です。理解すること。そして肯定すること。)

●つまりは、親としての心がけを確立すること――生きているかぎり、発見・学びの余地はあるということ。それって希望ですよね。

精進してまいりましょう。