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ひとが目醒めるべきこと――心の自由はいつでも取り戻せるということ

10月21日
こんにちは、草薙龍瞬です。

今、出家をテーマとする原稿を書いている最中です。今回は、孤独、せつなさ、生きづらさ、ヒリヒリした心の渇きや痛みを、自身の過去も振り返りつつ、情感たっぷり込めて語りたいと思っています。

○世間に出ている「出家」の本は、なぜか「宗派」「伝統仏教」の枠に収まったまま「どういうルートで出家するか」という発想で書かれている。

伝統を前提としてしまえば、どこそこの僧堂で何年修行して、住職資格をとって、どこかのお寺を預かって、そこで法務(寺の仕事)や作務や法事を頑張って、収入はどれくらい――みたいな、きわめて世俗的な話しか出てこない(笑)。

これは、テーラワーダ仏教国での出家を考えても、似たり寄ったりになる可能性が高い。どこでどうやって出家の儀式をやって、どんな生活をして、その先どんな人生が待っているかという話に。

ちなみに、僧侶(比丘・長老)が在家よりも「上」だという前提に立っている海外の仏教国でかりに僧侶になったとしたら、「特権」を享受できる立場に満足するか、あまり効果の上がらない中途半端な瞑想修行に長年を費やすか、宗教としての教義・しきたりに収まって生きて行くか、という、これまたあんまり夢のない話になってきたりする(日本人の場合、さらに日本社会への復帰が難しくなるというリスクもついてくる……)。

結局は、日本での出家にせよ、海外での出家にせよ、「どんなルート?」「どんな生活が?」という話になってしまうのが通例みたい。世に出回っている、出家関連の本というのは、やっぱりそういう内容が多い印象である。

ただ、それは実は「出家」でもなんでもない。日本でも、海外でも、「僧侶」というのは、ひとつの職業であり、社会的立場になってしまっている。既成の枠に収まるだけでは、「私は出家です」とはいえない。職業人としての僧侶であるというだけだ。

となると、誰かが「心を自由にしたい」と感じて、「出家」というテーマの本を手にしたとしても、そこには職業として僧侶になる方法が書いてあるだけだから、参考にはならない。

また「坊さんになりたい」という思いが高じて、本を探しても、すでに出来上がった体制・しきたりの中に身を収めるという選択肢しか書かれていなくて、気勢をそがれる(がっかりする)かもしれない――かつての私のように(笑)。

つまりは、「出家」を正面から語っても、面白くもなんともないし、現実を生きていくための参考にはならない……そうなってしまうおそれがある。


○となると、話をどこから始めるべきなのだろう? もし現代を生きる人が「出家」という生き方に関心を持つとすれば、それはどのような状況においてなのか。

原点は、おそらくシンプルである――生きることに、なんらかの苦難を感じていることだ。

今体験している人生・仕事・生活・人間関係・過去というものに、苦痛を感じている。

「この苦しみからほんの少し逃れたい、ラクになりたい」と思っている。

その思いがふとよぎったときに、「はい、出家という生き方がありますよ」という提案があれば、「ちょっと聞いてみようか」と思うかもしれない。

「出家」という(あまり馴染みのない)言葉の本質は、「苦しみから解放される生き方」のことである。

心を自由にすること。現実の中の苦難・困難が、苦しみにならないような心の持ち方を、手に入れること。

本来、心に苦悩はない(それが生まれつき持った心の性質である)。苦悩なき状態こそが、心本来の姿である。

なのに、そこに苦悩が宿るとすれば、そこにはたいてい執着――手放せない思い――がある。特に「心を自由にしてはいけない」という思いがある。

自由に生きるのは、親不孝? 世間に白い眼で見られる? もう少し頑張れば、自分が期待していたものが手に入る?――心はいろんな理屈をつけて、「これまでの自分をそのまま生きていきなさい」と語りかけてくる。

だが、その心の声に耳を傾けて生きてしまえば、結局、心の満たされなさ・渇き・弱さは、続いてしまう。これまでの自分を守ることで、余計な荷物も背負い込む。

「荷物を降ろす」ことには、勇気がいるかもしれないが、しかし降ろしてしまうほうが、心は自由になれる。

自由な心とは、苦しみのない心。解放された心。清浄な(クリーンな)心。ひとはそうした心を、もともと持っている。そうした心をとりもどすことは、実は何歳になっても、どんな状況に陥っても可能だったりする。

ひとはいつでも苦しみから自由になれるのだ、自身の心の持ち方次第で――その真実に「目覚める」ところまで語れたら、成功ということかもしれない。

多くの人にとって、「苦悩のない心の状態」こそが本来の心の状態、心の基本であり回帰点なのだ(思い出せ!)ということが伝わる本にしたいと思う。


○ブッダ自身が、そう語っていた。ブッダは、わが教えに帰依しろとも、寺に入れとも言わなかったし、出家するための儀式・条件を細かく定めることもしなかった。その当時の最も開かれた「心の自由を取り戻す方法」まで語れたらと思う。

そのことは、とりもなおさず、仏教の始原――仏教になる前のブディズムの根本精神をも解き明かすことになるだろう。

ブディズムとは何か。

人間にとって、何が最も大切なことか。

最も知らなければならない――目覚めねばならない――ことは何か。

その部分を明るみに出す。そして、ときに暗闇にさえ見える、私たち一人ひとりの現実の中にあって、自分自身が希望の灯火となる――そういう心の持ち方を語りたい。


光(可能性)は、自分自身の中にある。


鋭意執筆中です。お楽しみに。


出家、日本をゆく 2016年10月(仏教で子育てを考える)

10月15日
今日は、沼津にあるヨガ・スタジオで、坐禅瞑想と勉強会。三島市街を車で通ったのだが、以前伊豆のほうにバイクで出かけて、帰りに車にはねられたことを思い出した。私は、生涯で二度車に跳ねられている。いずれも横から当てられてふっとんで、車道に大の字に転がったが、しばしの静寂(気絶?)ののちにむくりと立ち上がって、「大丈夫ですから」とそのまま帰路についた(いずれの運転手も青ざめていたが、そりゃそうだ(笑))。

今思えば、あれほどの混沌を脳裏に抱えていて、よく交通事故死しなかったものだと思う(笑)。

ひとは、自分のことが見えているようで、かなり見えていないものだ。たいていの人は、「こうして生きていられているのだから、きっと見えている(自分のことがわかっている)」と思っていたりする。

ただ、「生きていられている」ことと「見えている」ことは、まったく次元が違う。生きるだけなら、見える必要はないかもしれない。ただ、見えていない状態なら、心に潜む苦悩や課題は、そのまま妄想や欲や不満(えてして不満の矛先は人間だったりする)をエサにして生き長らえる。

見えたときには、苦悩はなくなる。だから〝さとり〟(正しい理解)をめざすことで、苦悩は減っていく。そういうものかもしれない。


○今回招いていただいたヨガ・スタジオは、ポンテ・マル・スパッツィオという。オーナーさんの店でいただいた昼食――手づくりの酵素玄米と、けんちん汁の(具材の繊細な仕込みぶりと)絶妙な味つけ――に、感銘を受けた。

※沼津近くの人は、ランチタイムにぜひどうぞ。明るい店内で気持ちが晴れます:まるいちカフェ)。

そして皆への差し入れとして、山形米沢の喫茶室 C'z Cake&tearoom の特製シフォンケーキを持参。とてもやわらかで、雲を食べているような逸品。この夏の全国行脚でお世話になったお店からの、ありがたい差し入れだった。


○このスタジオは、ヨガ・インストラクターの女性4人が運営しているのだが、どの女性も、とても美しい動機を持って頑張っておられた。ヨガにしても禅にしても、結局、指南する側の動機というか、心がけているものが、モノをいう。

結局、学びの場所で一番伝わるのは「心」。だから、伝える側の心に、純粋なものが必要だ。

その点で、このスタジオなら、きっと美しい心持ちに触れられる。そうしてひとときを共にして、心が少し落ちついてクリーンになれば、とてもよい時間だったということになる。近所の人におすすめします。


○さて、最近、感じたことをいくつか。特に教育・子育てについて:

伝える(指導する)側に必要なのは、大きく二つ――「心」と「技術」である。

「技術」とは、スキルやノウハウ、「どうやればいいか」という具体的な部分。どんな場所であっても「学び」を標榜するからには、伝える側にたしかな「技術」がある必要がある。

ただ、もう一つ欠かせないものがある。それが「心」だ――思いやりがあるか。情熱があるか。何かを伝えようという明白な〝意志〟があるか。

いずれが大事かといえば、本当は、意志・心である。

技術というのは、場数を重ねていけば身に着くものだし、学ぶ側が自然に習得していく部分もある。

ただ、「心」というのは、指導する側から、受け取る側に流れる(その逆はあまりないと思うほうがよい)。

受け取る側以上の「心」――熱や愛情のようなもの――が、伝える側にある必要がある。

伝える・教える側の悩みも聞くことがあるが、なによりも――表面的な部分、たとえば技術的なことや世間向けの体裁などは全部取り払って――「心」だけを見るべきだ、と思う。

人間というもの、長く生きていれば、必ず伝えるべき何かを持っているものである。

「自分が伝えるべき・伝えられるものは、いったい何か」

「何が伝われば、自分自身が一番納得できるのか」

そういう部分だけを、純粋に考えてみたい。


○もうひとつ、世間のさまざまな情報に触れて、「うちの子は遅れているのでは(問題・障害があるのでは)」と惑わされてしまう親の話も、耳にする。

今は、先生の側も情報過多の時代である。子どもたち・生徒にレッテルを張り――成績とか成長度合いとか――、その子の良し悪しを判断したがる。その「判断」こそが、子の心を正しく見る眼をどんどん曇らせる。

親に「不安」を感じさせている時点で、その指導は失敗している。

なぜなら、「正しい理解」に立った言葉は、必ず「今後どうすればいいか」「なぜそうする必要があるか」を明瞭に、答えられるものだからだ。

もし、子どもの良し悪しを「判断」する言葉に出会ったら、それは「妄想」なのか「正しい理解」なのか、と考えてみてほしい。

「妄想」とは、その人個人の意見、感想、ただの評価・判断――現実には存在しないものである。ただの思い込み。

ひょっとすると、親が世間で聞く99%の言葉は、「妄想」でしかないのかもしれないのだ。というのは、「子の良し悪しを判断しているその人たちは、妄想を抜ける練習を、一度もしたことがない」人たちだからである。

「先生」たちは、一生懸命知識を詰め込み、判断の仕方を溜めこんで、「考える」ことを懸命にやり続けてきた人たちだ。その頭の中にあるのは、「思考(判断・評価・推測)」であって、「正しい理解」ではない。

「正しい理解」に立ってみれば、ほとんどの子供に、問題はない。その子それぞれが、他の子どもとは違う心をもっている。どだい、心と心を比較すること自体に、ムリがあるのだ。

唯一「問題」が生じるのは、その子自身が「苦」を感じているときである。そうではなく「元気で、笑っている」間は、まず問題なし、安心していい(そう考えられるように練習しよう。ここでも妄想を抜ける練習です)。


○子どもというのは、千差万別。というか、心そのものが、心の数だけ、違う。

「本当の愛情」とは、そういう心を、けして妄想せず、良し悪しを判断せず、ただありのままに「理解する」こと。ニュートラルであること。穏やかで「ただ理解する」という心に立てること。それで十二分。

大丈夫。妄想に負けるな――と伝えたい。