仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
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サイの角はただの○○?【Q&A】『反応しない練習』の「私は私を肯定する」の意味


こんにちは、草薙龍瞬です。

最近、電車の中で見かけた広告にこんなものが――

「残念なおしらせ サイの角は、ただのイボ  『残念などうぶつ図鑑』」

そうだったのか! ということは、「犀の角のようにただ独り歩め」という原始仏典(スッタニパータ)の一節は、「ただのイボみたいにただ独り歩め」ということか!!!(なんだそれ)

「欲望の先にはマイナスがあることを見て、ただのイボのようにただ独り歩め」

「実践すべき道(方法)を得た者は、「もはや他者の言葉に振り回される必要はない」と知って、ただのイボのようにただ独り歩め」

うーむ。説得力激減ではないか。だがそれでも、半ばうならせるだけの説得力が残っているらしいところが、原始仏典のすごいところか。しかし、

「物音に動じない獅子のように、網につかまらない風のように、泥水に汚れない蓮の花のように、ただのイボのように、ただ独り歩め」

こうなると比喩つづきで、ワケがわからない。原始仏典をざんねんな言葉に変えてしまうとは、おそるべし、『ざんねんなどうぶつ図鑑』。


【Q&A】意外?「私は私を肯定する」は、謙虚さの別名

――というのは、余談で(それはそうだ)、今回はこんなご質問をいただきました。


Q せっかく『反応しない練習』と出会えた後も、不安になったり妄想の檻に入ったりしています。謙虚さが足りていないから、妄想好きな自分に執着して自分を変えられないのだと思いました。

 そういう毎日の葛藤の中で、少し混乱してしまったことがあります。反応しない練習の中で「私は私を肯定する」と唱えることが書いてありました。あれは、謙虚でない人が落ち込んだ時も唱えていいことなんでしょうか。それとも「肯定する」ということは「謙虚でない」ということになるのでしょうか」


A ご質問ありがとうございます。これはすべての人にとって、大事なテーマになりえます。

(謙虚さが足りないといえる人というのは、あまり多くありません。敬意を表します。)


「肯定する」というのは、「否定的に判断しない」ということ。つい自分を責めたり、落ち込んだりしてしまう原因である「判断グセ」を止めるための言葉です。

「自分はダメだ」「まだまだだ」「未熟」「失格」「資格なし」――と、ひとは、つい自分のことを判断してしまいます。

そうやって自分にダメ出しすることで、自らの自尊心を傷つけてしまう。落ち込んでしまう。少なくない人が、この自虐グセ・ダメ出しグセを持ってしまっているものですね。

ただ、このクセは、客観的に見ると、三つのマイナスがあります。



ひとつ――「判断」した時点で、雑念・妄想をひとつ増やしてしまっている。

ふたつ――「否定」した時点で、自分の承認欲が満たされないストレス・怒りを作っている。

みっつ――「ダメ出し」そのものは、誰にとってもメリットがない。


みっつめの「メリット」という点は、多少解説が必要かもしれません。

たとえば、誰かが「私はダメなんです」「失格です」と自分にダメ出しをするとしますね。

これは、本人は反省しているように思っているかもしれませんが、客観的に見ると「自分を守っているだけ」ということになります。

相手がいる関係において、「私はダメですね」と表明すると、相手は、「いやそんなことありませんよ」とかばうか、「はい、ダメです」という二者択一の態度表明を迫られることになります。

端的に「あなたをダメにしているのは、こちら側」ということ立場に立たされます。相手が悪者になってしまうのです。

仕事上の関係なら、「そんなことを言っているんじゃないのに。ちゃんとやってほしいだけなのに」と相手は思うでしょうし、

親子関係なら、「そんなことを言っているんじゃない。お母さん(お父さん)は、そうやってすぐ自分をかばって、私を悪者にする」と、(言語化できるかどうかは別として)内心思わされてしまいます(これが、子供の心を傷つけます)。


なので、人間関係において「私はダメなんだ」という自己否定は、基本的に、何ももたらしません。自分をかばって、相手を困らせてしまうだけ――特に、子をもつ親は、要注意です。


●さて、本題に戻りますが、「肯定する」というのは、「判断しない」ということ。ただ現実の自分を「理解する」ということです。

判断するのと、理解するのは、違います。理解するというのは、積極的に価値を見出すのでも、価値を否定することでもありません。


今現時点での自分を、ありのままに理解している。承知しているということ。


仮に「未熟」「失敗」といえるような自分であっても、まずは「そんな自分であることを理解します」ということなのです。


①理解する。理解する。理解する。そして、

②判断しない。判断を消す。妄想を消す。


実際には、①の「理解する」というところには、なかなか立ちにくいもの。

大抵の場合は、自分を否定するクセがついてしまっているので、その否定グセにストップをかけるために「わたしはわたしを肯定する」と唱えるのです。それでOKです。


まず避けるべきなのは、「自分はダメなんだ」と自己否定する負のスパイラルに歯止めをかけることです。

この自己否定のスパイラルは、何も生み出さない。自分を落ち込ませるだけだし、相手がいる関係なら、相手を困らせてしまいます。

とにかく、否定グセが出そうになったら、「わたしはわたしを肯定する」と何度も唱えて、その思考に歯止めをかけるのです。『反応しない練習』でお伝えしたのは、まさにこのこと。これは、心が沈んで行かないための防波堤になります。


●「肯定する」とは「判断しない」ということ。その先に何があるかといえば、「つつしみ(謙虚さ)」です。

「判断」というのは、それが「自分は正しい」という思いであれ、「自分はダメだ」という否定であれ、「慢」に当たります。

「自分は正しい」というのは、承認欲が作り出す判断。自分がエライとか、いいかっこしようとか。プライドも、見栄も、比べっこも、承認欲をエネルギー源とする判断です。

他方、「自分はダメだ」というのも、承認欲をエネルギー源とする判断であることに違いありません。この自己否定が「困る」のは、一度自分を否定して、みずからストレスを作り出しておいて、いざ「やり返せる」ときにやり返そうとしてしまうことです。

どうだ、見たか。ほら、私のほうが正しかった。あのときのことを謝ってください――といった仕返しとなって、後で出てきます。

これも、親子関係にはけっこう多いこと。子供が言うことを聞かない(子にはそれなりの言い分があるのに、親は聞いていない)。で、子供がいざ不利に立たされた時に(受験がヤバいとか)、ホラだから言ったでしょ、親に謝りなさい、といった形で「復讐する」ことが、しばしばあります。


つまりは、自分を否定する判断は、状況変われば、すぐに相手への「慢」に変わってしまうということ。

自分を過剰に肯定するのも、否定するのも、「承認欲が作り出す判断」という点では同じです。それは「慢」。

「慢」は、危なっかしいのです。自分を否定するか、関わる相手を否定するか。

自分も相手も肯定できるかも? それはありません(笑)。それができるのは、「慢」という判断ではなく、「理解」であり「慈悲」であり「つつしみ」です。


●なぜ仏教が「判断するのはおやめなさい」と説くかと言えば、「よく理解できるようにするため」です。

慢はいらない。自己否定もいらない。あれやこれやと、自分の思いや考えの正しさを裏付けようと、次々に妄想を重ねることもいらない。

なぜいらないかといえば、それは「理解」を遠ざけるからです。


あれこれ考えることより大事なのは、

自分の慢や、余計な判断グセや、自己満足に走ってしまう心のクセを「理解する」こと。

相手の思いや、立場や、こちらに求めていることを「理解する」こと。


人と人との関係性は、「理解する」ことが基本だし、それに尽きます。

ところが、人間は、さまざまな判断と、慢と、妄想グセがあるものだから、自分のことも、相手のことも、正しく、クリアに理解することができません。

理解できないみずからの心の状態。あるいは、理解することを拒む・おそれる心のクセ。

そこに囚われてしまうのです。


理解を拒むことで、何を守ろうとしているか――それは、「今の自分」です。ありのままの自分を理解すること、相手が求めていることを理解することは、自分が否定されてしまうようで恐いのです。

しかし、「自分が否定される」という思いこそは、「今の自分はイケている・正しい」と思いたい慢や妄想がつくりだしているもの。「恐い」というのも、「自分はもっといい人間」という妄想を壊されてしまうのが、恐いだけかもしれないのです。


ひとは、多かれ少なかれ自分に妄想を抱くことで、承認欲を満たしているもの。

ただ、それは別名「妄想の檻」でもあります。「仮想の自分」というイメージに必死でしがみついている状態かもしれません。

ただその状態だと、「壊される」ことに恐怖を感じます。となると、相手が伝えようとしていることにも過剰反応してしまって、ヘコんだり、自己弁護に走ったり、自分を悪者に仕立てたり(それは結局相手を悪者にしてしまうことなのですが)、というループにはまりこんでしまいます。

そして、関係がうまく行かなくなり、自分の中では自己嫌悪が募り、という悪循環におちいります。

そうなると、変われません。関係も変わらない。哀しいかな、ひとは、この「妄想の檻を壊されることを極度に恐れる」ループの中に閉じ込められてしまうことが、ままあるのです。


●この残念な輪廻から抜け出すための意外な方法――それが「謙虚になる」ことなのです。

謙虚になるというのは、自分自身を妄想しないということ。自分を正しいとかダメだとか、上とか下とか、資格があるとかないとか、いっさい判断しない。

人間なんて、あやまちは犯すし、未熟なものだし、性格も、行動範囲も、限定されたものです。小さな生き物です。

特に、ひととひととの関係というのは、互いに見ているものも、考え方も違うのだから、関わればかならずといっていいほど「穴」が生じます。

その穴――失敗・理解の食い違い――に、わざわざ承認欲で反応して、判断グセで判断して、あれこれと妄想し始めるから、ややこしくなってしまいます。


「穴」を解消しようと思えば、自身の妄想グセ・判断グセに、まず気づくこと。


相手の言葉・思いを正しく理解して、その相手の思いを「前提にして」、関係をもう一度作り直してみせることです。それで解決。

大人同士の関係であれ、親子関係であれ、これは真理です。


関係をややこしくしているのは、なぜなのか。たいていは、自分の妄想グセ・判断グセがあります。

しかし重ねて理解したいことは、すべての人間は、そんな妄想や判断を押し通していいほど、偉くないということです(笑)。

今の自分にこだわって、変わることを恐れて、理解することを怖がって、「私はやっぱりダメ」とか、逆に「私はこれでいい(開き直り)とか、

そういう承認欲にもとづく判断の檻、「私、私、私」という自意識の檻――に閉じこもるほどのことは、何もないのです。

そういう不毛な思い込み、自分への執着を、いさぎよく捨てられること。それが謙虚さです。



●だから、仏教の世界では「つつしみを念じる」ということを、練習=修行としてよくやります。

「行い、言葉、思いの三つで犯したあやまちがあります。私は、そのあやまちを懺悔いたします」という言葉です。

「懺悔」は、「ダメ出し」「反省」というのとは違います。「謙虚に、妄想もなく、判断もなく、しっかりと理解します」という意味です。

それは「理解して、前に進みます。私は変わること・成長することを恐れません」ということでもあります。

「理解する」という立場に立つ――そのとき、すべてはリセットです。恐れては、いけない。


その理解を相手に伝える勇気、誠実さを持てること――それも謙虚さの一つです。親ならば、子への本当の愛情ということになります。

相手が、慈悲や、友情や、プロ意識を持った人なら、あなたが伝える「理解」を受け止めることでしょう。子供なら、「わかってくれたんだ」と素直に喜ぶはず。


本来、人間関係は、なにひとつ問題はないはずなのです。

邪魔しているものは何なのか。難しくしているものは、何なのか。それは自分の中にあります。


自分はいったい何を恐れ、何を拒んでいるのか。よくよく考えてみたいものです。


「謙虚になる」ことと、「わたしはわたしを肯定する」は、最終的には同じです。

「理解」という心に道を開くための、出発点となる心がけです。


(興道の里会員へのメール通信より)

草薙龍瞬・夏の全国行脚、いざスタート!!

今年もやります、日本全国行脚♪

こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ、今年も夏の全国行脚をスタートします!

北は北海道、南は沖縄まで――お声かけていただけるところに、草薙龍瞬がうかがいます。

○仏教に触れたい(講演・勉強会・座禅会など)
○法事をやってほしい
○個人的に相談・聞きたいことがある


などなど、お気軽にご応募ください。場所は問いません!

…………………………

●応募方法

①ご登録

・お名前
・住所
・連絡先 
(電話番号 ※携帯が望ましい。興道の里会員は、お名前のみでOK)
訪問希望日
 (※地域ごとに訪問期間を設定しました。下のスケジュール表を見て、希望日をメールで連絡下さい)

ご応募期間は、全国行脚終了(9月7日)まで。いつでもご連絡下さい(先約優先いたします)。

  ↓

②「場所」を見つける。

※一般向けの講座・勉強会をお世話して下さる方、大歓迎です。公共施設・ご自宅・喫茶店などでもOK。
※内容・タイトルなどは、下記の例をご参考ください。興道の里にもご相談いただけます。
※できる範囲で告知いただければ、幸いです。おひとりでもOKですので、お気軽に。

​●その他


※講座・勉強会などは、参加費無料でかまいません。地元の方が来やすい形をご検討ください。

※車などでの移動の便宜、お宿のご提供なども助けとなりますので、ご無理のない範囲でご協力いただければ幸いです。

※少人数あるいはおひとりでのご連絡も、よろこんで承ります。旅の途中にふらり寄るという感じで足を運びますので、お気軽にご連絡下さい。
 
…………………………

勉強会・講演などの一例 ​(転用可)

◎勉強会&お茶会 真夏の夜に学ぶ「心やすらぐ」原始仏教(喫茶店にて)


「人生はやすらぎへの準備期間」を基本テーマにして、原始仏教のこと、日々の暮らし方のことを参加者とみなさんと語り合う癒しのひととき。お気軽に足をお運びください。

◎法話会「風通しのよい暮らし方~ブッダに学ぶ心をラクにするヒント

◎講演「悩みの原因はただひとつ それは心の反応」(看護学校)

 どんな職場でも、一番の悩みは人間関係。解決の第一歩は、「ココロのルール」を決めること。2500年の歴史を持つ仏教心理学を、スライドを使ってわかりやすく解説。職場で実践すれば、はたらきやすい環境に変わるかも?

◎座禅会「座禅エクササイズと仏教こばなし」(カルチャー)

 ブッダの教えが、現代を生きる私たちの心に沁みこんで、効いていく。●『反応しない練習』の著者・草薙龍瞬が名古屋に登場。「これでいいと納得できる人生のつくりかた」「葬儀・法事の正しいありかた」「不安やストレスをためない、上手な心の使い方」「毎日気軽にできる座禅のやりかた」など、みんなが知りたかった「仏教のすべて」を、聞いて楽しい軽快な語り口でお話します。●幸せが近づく仏教読み物のおまけつき。仏教の智慧を楽しく学んで、今よりもっと快適な生活づくりを始めましょう。

【詳細】◆「快適暮らし」にはコツがある ~心をスッキリさせる仏教的「考え方」入門 ◆お寺の話・葬儀の話 ~先立たれてもなお一緒に生きていく「心のつながり方」 ◆ムダに反応しない練習 ~不安やストレスを洗い流す「自宅でできるプチ座禅」

◎仏教は「上手な生き方&心の使い方」

 心に悩みがなく、幸せに生きる――その方法が「仏教」には詰まっています。講座では、仏教を「心の上手な使いかた」という視点でとらえなおし、今の暮らしの中で幸福をつかむコツを学びます。ブッダが悟りを開いた瞑想法と、仏教の考え方を学ぶミニ講座をあわせて体験。「霧が晴れるように」生き方のヒントが見えてくることでしょう。

などなど。

●個人相談も承っております。①お名前、②携帯番号(臨時連絡先)、③ご希望の場所(○○駅の喫茶店・自宅など/こちらで手配も可能です)、④相談内容(簡単にお知らせください) 

…………………………
 
全国行脚スケジュール案 ​

※期間ごとに訪問地域をまとめましたので、その期間内でまずはご検討ください。

●7月11日~18日 近畿地方

 
7月 11日・12日・13日夜 大阪・個人相談

7月11日14:30 ~ 16:00
岸和田講演「心のお通じ」に抜群の効果!仏教式・お悩みスッキリ解消術 岸和田健老大学 〒596-0076 大阪府岸和田市野田町1丁目12−7 電話: 072-431-1575

7月12日 19:00 ~ 21:00        
NewsPicksアカデミア大阪 実践・仏教式メンタルヘルス - 本町・カーニープレイス館4F 〒550-0011 大阪市西区阿波座1丁目6-13 カーニープレイス本町ビ

7月 15日夜 経営者・組織リーダー対象セミナー 大阪【会員制・株式会社フラクル主催】

7月 16日 16:00~  心の出家をめざす会(自由参加の勉強会)岸和田

7月 18日 10:30 ~ 12:00        
名古屋「仏教は暮らしに役立つ「心の使いかた」
〒460-0008 名古屋市中区栄4丁目1番1号 中日ビル4F  中日文化センター


●7月20日~30日 関東

7月 20日 14:00 ~ 16:00        
駒込・仏教を学ぶ~草薙龍瞬と「仏教のすべて」をたどる講座 - 駒込地域文化創造館

7月25日 18:00 ~ 20:30        
座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき - 神楽坂・赤城生涯学習館 和室

7月 30日・31日 西東京(八王子他)


●7月31日~8月10日 東北・北陸・北海道 ※新潟・富山調整中です

●8月11日~16日 四国

8月14日 愛媛・宇和島

●8月17日~22日 九州・沖縄

● 8月 23日~ 関東

●8月27日~9月7日 全国どこでも


8月 28日 17:30 ~ 20:30        
大阪朝日カルチャー『生き方としての仏教』~悩みが消えるブッダの超合理的考え方 - 朝日カルチャー中之島

8月 29日 
10:30 ~ 12:00  名古屋「仏教は暮らしに役立つ「心の使いかた」 中日文化センター
18:00 ~ 20:00   関西生産性本部講演【非公開】

9月 10日 10:00 ~ 11:30/13:30~15:00          
静岡 ストレスにさよなら!仏教式「心の上手な使いかた」
SBS 学苑 遠鉄校 静岡県浜松市中区旭町12−1 /SBS 学苑 パルシェ校 静岡県浜松市中区旭町12−1


――その他、ご相談・お問い合わせは、メールでお寄せ下さい。随時返信いたします。 koudounosato@gmail.com
 

PHPくらしラク~る♪に連載中『ブッダと始める しあわせの作りかた』文・絵 草薙龍瞬 ※9月号=8月10日掲載予定のイラスト。最終版と本文は本誌にて。




心の自由を取り戻すレッスン


さて、前回(メール通信)の「見る景色を変えてみる」の続き。

とある方の感想は、

働き始めると、忙しくて瞑想の時間がとれず(いい訳ですね)、その代わり、職場の近辺で仕事前や昼休みに、歩く瞑想をしようとしましたが、やり方をどうしたらよいのか?

足の裏の感覚に集中…でも、電車の音、料理店からのいい匂い、木々の緑がきれいだなぁとか。それは雑念? 感覚だからいい? ラベリングする?
…どうなのかなぁと思っていました。

雑念がないとは「小さな子供がポカンとしている状態」と講座で言われていましたよね。

うつろいゆく関係性、私なりに感じ取ってリフレッシュしたいです。


二人めは、
>​
「今見ているのは、モノではない。うつろいゆく関係性を見ている」
------------ん    う------------------------ん 観念ではない、因縁。。。関係性・つながり。。。う-------
 
仏教を知る以前の私は、もっと飲みたい、買いたい、欲しいって言う絵の中に、完全に溺れ濡れてどっぷりと、そして疲れて どんより どぼーん としていました。

絵(≒目の前にあるモノへの衝動・反応)こそ私の全てでした。

でも仏教を知れば、その絵に「気づきの額縁」をハメてしまって「欲しがる絵」「怒る絵」「妄想する絵」みたいに、

簡単に額装して括りさえすれば、後はその額縁を簡単に外してしまえば何もない、反応すら短く消え去る無常さ!

って、今では以前と比べて嘘みたいにほとんど溺れず濡れずに楽々爆流の河を渡っちゃっています。。。ホントこんなに楽に渡っちゃって、いいの?っていうぐらいに。。

ただ、ただ、額を外した先に何があるのでしょうか?

ただの白壁? それを見つめる私? それも「白壁」「私」っていう「観念」の額縁を外したら、そこに何が在るの?いや「在る」も「観念」か、じゃぁ??「何?」 「何」、「?」・・・・・・・・

----------------------------------------------------------------------------------------

怖くなってきた!だめだ!寝よう!


 
はい、お答えします(笑)。

額(≒認識の枠組)を外してしまえば、何もありません。すっからかんの空っぽです。

「自分」を作っている煩悩――欲も妄想も怒りも――ナシ。

そのための、ラベリングであり、前回お届けした「関係性を見る」練習です。

うつろいゆく街の景色を、反応せず、判断せず、

「自分が移動すると、どう見えるかな? これは関係性を見ているんだな……」と、

自分を忘れて、光景をありのままに見つめるだけ。

そのときは、自分は消えて、関係性だけが見えてます。外の光景に完全に「自分」が溶けいった状態だといっていいかもしれません。

日の光は、日の光として。うつろいゆく街の景色も、そのままに、ただそこに在る。

でもふだんの「自分」は、もう存在しない。

このとき見えているのは、自分でも、外の何かでもなく、見られているモノと、見ている心との関係性が織りなす、ひとつの現象。

禅の世界では、「無」とか「空」とか「大我」とか「悟り」なる表現で語られます(これらの言葉は、他にいろんな解釈が可能なので、忘れてもらったほうがよいですが)。

「なんにもない。ただ因縁=関係性があるのみ」というのが、正解といえるかも。


でも、それは恐いものではなく。

だって、「自分」から解放されたら、その次にどこに進むかは、完全に自由になります。

過去の自分に戻るもよし。新しい自分をスタートするのもよし。

「さて、どんな働き・役割が可能かな」と思って、やってみる。

自由自在です。自由に自分を創り直せばいい。

つながりの中で、自由にこの命を使う。融通無碍、自由自在、縦横無尽。

過去の苦しい自分は、すでにリセット。

でも、かつての自分のよい部分、経験値、モチベーション、働き、スキルなんかは、そのまま使えばいい。

自由であることをベースにして、その都度、新しい「自分」を創る。

とらわれなし。こだわりなし。自我への執着なし。

そういう心境です。


恐くない。むしろ楽しい。素直。創造的。毎日が新しい――。

こういう自由な心境が、その先にあります。

この心境を、ただの観念(理屈)ととらえてほしくないし、「そんなのムリ」とも片づけてほしくない。

「我」を解体して自由になれる方法というのは、たしかにある。

その方法を活かしてみれば、着実に自由になれる。

自由になれる度合いは、ひとさまざま。でも、「自我」と「自由」の合間を、これまで以上に「自由」のほうへと近づけるのは、たしかでs。

だから、練習すると確実にプラス。

その意味で、「きょとん」とした目で歩きつつ、目の前の光景を、因縁=つながり=関係性として、じっくり見つめる時間は、とても有意義。

やってみてください。自分をリセットする時間。

今が、いい季節です――。



陽光盛(さか)る季節(神楽坂仏教講座スタート)


こんにちは、草薙龍瞬です。

◎今日の午後、たまたま小学1年の下校場面に遭遇しました(都内の超名門女子小学校?)。

新品のランドセルを背負って、先生に引率されて、ポカポカ陽気の中を歩いていました。 

まさにピカピカの一年生です。

新入社員も、よく見かけます。やはり表情が若々しい(笑)。まっさらの未来があるというのは、よいものです。

でも、心を磨き、妄想――記憶も判断も予測も――を捨てれば、何歳であっても、心はピカピカになれます。これは、ほんとです。

この春は、何も考えずに、ただ歩き、ただ見つめる、ということに挑戦してみてくださいね。


いよいよ、陽光盛(さか)る季節です。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・

◎4月30日より、神楽坂での仏教講座がスタートします。

4月30日 午前10時から 仏教入門「悩みを溜めない心の使い方」
初めての方&仏教を学びたての方向け。

昨年途中から神楽坂に通い始めた人も、参加可能です。お時間合いましたらどうぞ。


●5月3日から通常講座です。

*仏教講座のほうは、昨年終われなかった「正しい理解」PART3の教材(新たに配布)と、新規の方向けの「道」の両方をやります。新資料も配布。

*昨年の資料「仏教のエッセンス 道」を持っている方は、ご持参ください。

*日曜夜にシリーズで開催される 「坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座」 は、1時間の瞑想と、40分ほどの講義を合わせて行います。教材は、毎月の仏教雨講座と同じです(5月は「正しい理解」と「道」)。

昨年来ていた方も、今年が初めての方も、新しいことが学べる内容です。ご都合よいときに、いらしてください。

5月 3日(水祝) 
18:00~20:30 生き方としての仏教講座 

5月 4日(木祝) 
10:00~12:00  座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき
18:00 ~ 20:30 生き方としての仏教講座 

5月 5日(金祝)
13:00 ~ 15:30 人間関係特集「夫婦・子育て・職場で苦労しないコツ」
18:00 ~ 20:30 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき

5月 6日(土)
18:00 ~ 20:30 生き方としての仏教講座 

5月 7日(日)
10:00 ~ 12:00 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき
18:00 ~ 20:30 坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座(※GW中の他の回と配布資料は同じです(「正しい理解」PART3と「道」)。

5月 11日(木)
14:00 ~ 16:00 巣鴨・大人のための仏教の学校 - 巣鴨地域文化創造館 

5月 12日(金)
18:30 ~ 20:30 朝日カルチャー新宿 反応しない心のつくり方~上手に心を使う練習 全4回・第2回(単回受講可)

5月 13日(土)
10:00 ~ 12:00 東武カルチュア 仏教は「上手な生き方&心の使い方」 - 東武カルチュア 池袋校

5月 14日(日)
18:00 ~ 20:30 坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座 神楽坂

5月 16日(火)
10:30 ~ 12:00 名古屋「仏教は暮らしに役立つ「心の使いかた」 その2人間関係は「4つの心がけ」で始めよう

5月 17日(水)
10:30 ~ 12:00 東急BE二子玉川 仏教で幸せな心を育てよう~仏教講座と禅瞑想
13:30 ~ 15:00 東急BEたまプラーザ 仏教で幸せな心を育てよう~仏教講座と禅瞑想

サラの春


昼下がりに、脱力ものの光景を見た。

事務所近くの公園で、白い躰のサラを見かけた。その目の前には、小さなネズミがチョロチョロと動き回っていた。

どうも不器用なネズミらしく、道から公園への段差を上がれない。逃げようと必死なのか、右に駆けたり左に走ったりと慌ただしい。その様子を、興味津津の体(てい)でサラが見つめている。

眺めているサラも呑気なものなら、ネズミの動きも妙に間が抜けている。巨体の猫がすぐ背後にいるというのに、片方の段差を越えられないと知るや、サラのほうに近づき、サラを通り過ぎ、逆方向の段差をまた試してみる、という無防備なことを繰り返している。

私に気づいたサラが、こっちを見やりながらニャアという。その合間にネズミが再び方向転換して、なんとサラの四肢の間を通り抜けた。

すると、サラは「キャッ!」という風体でその場でぴょんと飛び上がった。おいおい、君はネズミに触られてビビる猫なのかい……。

その後もネズミの様子を、サラは右へ左へと追いかける。そばまで寄って白い手を伸ばそうとする。ネズミも呑気なもので、サラを恐がっているのか、相手にしていないのか、サラの至近距離で右往左往している。サラのフトコロを通り抜けることを、まるで躊躇しないのである。

サラが私のほうを見ている間に、ネズミは公園の段差の下をつたって、駆けていってしまった。ほんの数秒サラが視線を離したスキに、いなくなったのである。

その後のサラの驚きようと淋しがりようといったら――ニャァオ。ニャァオ。とはっきり区切りをつけて鳴き続けた。「戻ってきてよ、どこ行ったのよ」と訴えているらしい。

いや、けして俊敏な動きのネズミではなかった。追いかけようと思えば簡単にできたはず。ひとえにキミの悠揚さが、喪失の理由である。

しかし、ネズミのおもちゃ相手なら、野生本能むき出しに飛びかかって、バキバキと噛み尽くすのに、本物のネズミを見てびっくりするとは……まあ、私と縁ある猫なくらいだから、そんなものなのか。殺生しない猫である。偉いものだ。慈悲の実践だ。

そんな出会いがあるからなのか、サラは最近は公園で一日中遊んでいる。昼も夜も、ほとんど事務所には帰ってこない。休みたいときに帰ってきてクウクウ寝るか、食べたいときに帰ってきてカリカリ食べるか。

で、用事がすんだら速攻で外に遊びに行く。なんだか私は、都合のいい愛人みたいな?ものであろうか。

私も夜に公園に出かけることがある。チョッチョッと舌を鳴らすと、やぶの中からニャアと顔を出してくる。

広い場所でネズミのおもちゃを振り回すと、持ち前の運動能力を発揮して、ダイナミックに宙返りして捕獲する。

最近はすべり台も覚えた。ツルツルはあまり好きじゃないらしいが、ネズミのおもちゃを滑り台の上でチョロチョロ動かすと、砂地から駆けあがって口にくわえる。そのまま四足で踏ん張りながら、するする滑り落ちていく。

さらにネズミのおもちゃで誘惑して、すべり台の階段を上がらせる。ネズミのおもちゃを垂らすと、滑るのがイヤなサラは、うらめしそうに上から眺めている。

それでもちょんちょんと動かすと、捕獲本能にスイッチが入って、すべり台に踏み込んでしまう。で、そのままお尻を上に向けたまま、また哀しげに滑り落ちていく。その様子をみて、私はハハハと笑う。

近所の人たちが犬を連れてやってくる。サラに興味を持って近づいてくる犬もいる。サラはビビッてこんもりとしたコンクリ山の上に駆けあがって、フゥ~と威嚇してみせる。

公園には、犬も、見知らぬ人たちも出入りする。サラはビクビクしながら、私についてくる。幼い子が母親を安心のよりどころにするように、サラにとっても、私が安全の目印になっているらしい。愛らしいものである。

ネズミのおもちゃで遊んでいたら、サラの動きが突然止まった。何かなと思ったら、灌木の中を近づいてくる物体が。モンタ君(ハクビシン)だった。

神楽坂は、ハクビシンが意外と多いそうである。サラは唸るでも、毛を逆立てるでもなく、モンタ君をじっと見つめている。モンタ君のほうは、「ううう」とうなって見せる。そして走って逃げていくのだが、ご執心のサラはそのうしろを追いかけていく。途中であきらめて、またニャァオ!(戻ってきてよ)と鳴く。

サラにとっては、ネズミもハクビシンも、お友だち候補の様子である。こんな遭遇が楽しいから、サラは、昼間でも公園の灌木の中でじっとしていたりするのであろう。

いろんな出会いの中で、それなりに楽しんでいるらしいサラの春である。
 
 
すべり台の下でネズミを待ち構えるサラ。でも本物にはビビる。

サラの帰還(写真のみ)

久々に外で遊んで戻ってきたサラちゃん
よく帰ってきてくれました
いつの間にかモフモフボックスに棲みついていたモンタ君

もうすぐ春


こんにちは、草薙龍瞬です。

日射しが急速に春に近づいた気がします。市ヶ谷の御濠の桜も、鮮やかな紅の色を発していました。

神楽坂の講座は、5月から。4月からは各地のカルチャーでの講座が再開します。


○草薙龍瞬と興道の里の活動は、つねに最善の方向性――

この世界に、

幸福や、
心の痛みの軽減や、
相互への信頼など、

プラスの価値を創造すること――に向けられています(かなりベタな表現ですが(笑))。

その方向性を見すえて、仏教というひとつのツール(手段)を、


特定の立場に偏った「宗教」ではなく、

どこまでもオープンで共有可能な「方法」として、伝えていくこと。

そこに、私の活動の生命線があると心得ています。


○今の時代は、人間の心を暗い方向へと引きずり込もうとする、


曲解や悪意に満ちた言葉や、
虚偽の情報や、
悲観と猜疑を刺激するだけの事件・話題が、

溢れています。

しかし、そうした言葉がいくら広がっても、人類、社会、一人ひとりの生活や心が、いい方向に進むことはありません。

少なくとも、私自身の言葉は、そうした時流に巻き込まれないように、しっかり「純度」を守っていかねば、と思っています。

本の言葉も、一言一句、自分の言葉で。

メディアに掲載していただく言葉も、どれも私自身の、誰かに向けての励ましと善意を込めた言葉です。

この道を見出すまで、40年以上かかっています。なんども絶望しています(笑)。

その果てに紡ぎ出された真実の言葉だと思って、ぜひ受け止めてください。

 
○この世界に生きている誰かが、よき方向性を心に取り戻し、自分を立て直す「道」を、見つけられるように。

そのために、私は、本や講座を通して、真実であり役に立つ、と自ら確信できる言葉だけを、世俗に染まらぬ出家の立場で、徹底的に洗練させて、送り出していきます。




その、細く、小さな道を、しっかり先に延ばしていきたいと思います。



これを、共有可能な言葉におきかえるなら、

「いい人生を生きたいと願うなら、善き動機に立って、一日一日を地道に生きるしかない」


ということです。





興道の里、活動再開!

こんにちは、草薙龍瞬です。

日本に帰ってきてしばらく経ちましたが、まだ「ジャパンに来たんだなぁ」感がただよっています(笑)。

とてもきれいで、繊細で、お金持ちの国です。ただ、

繊細すぎて不必要に傷つけられたり傷つけたり、

世間を気にして自分らしさを見失ってしまったり、

気苦労を洗い流す時間的余裕や、生活の変化がなくて、よからぬ(不健康な)精神状態を引きずってしまったりと、

どんよりと低調気味に続いている心境も、いろんな場所から伝わってくる感じがします。


「世にあって、世に染まらない」生き方を。

それを実現するには、「今自分にできる、正しいこと」に戻るしかありません。「ダンマに立つ」です。



感覚を感じようとしていますか? 

自分のなかの執着や妄想に気づいていますか? 

ついつい湧いてくる怒りや記憶や妄想にしがみついて、自分から暗い精神状態に落ち込んではいませんか?


「目を醒ます」「心を洗う」ためには、多少の勇気というか、決意がいります。

ラクなほうを選んだら、心は「反応したいよ~」という性質にまかせて、暗い感情と妄想をどんどん作りだします。

ここは毅然と、反応の連鎖を断ち切らねばなりません。「いらないよ」と、宣言してください。
そして、今できること、なすべきこと、自分に有意義なこと、に帰ってください。


●さて、連休最後の3月20日は、日本での活動再開の始めとして、渋谷で、働く母親向けの講演会に出かけてきました。

楽しかったのが、1歳未満の乳幼児がふたり、ママと一緒に参加してくれたことです。

二人とも、すっごくいい子でした。グズらず、上機嫌に、静かに聞いてくれました。

ひとりは、話の後半に、私のほうをじいっと見入って、熱心に聞いてくれていました。目が合うとにっこり笑おうとする。

もうひとりは、最後の記念撮影のときに、ママが私の膝に乗せてくれました。嫌がることもなく、ニュートラルに身をあずけて、一緒に写真をとりました。

赤ちゃんは、肌がプニプニしていて、みずみずしい(笑)。みなさんも抱っこしているときは、まず肌を通して、赤ちゃんと会話をしてください。 カラダでしっかり感じとることです。


大人は、たくさん荷物――業とか、執着とか、妄想とか、雑事にまみれてのイライラ・ストレス・疲労感とか――を、すでに背負ってしまっています。重たすぎる。

その重たい心で、子供に向き合ったら、当然、イライラや「もうなにやってんの!!!」という反応になってしまいます。

でも、その反応は、子供が原因というより、自分が背負ってしまっている荷物ゆえなのです。
「子供に罪はないし、責任もない」というのが、実態だったりします。


また、子供の心は、感覚と感情くらいで、まだ「思考」レベルにまで知能が発達していません。

大人は「思考」をもって、アレコレと考えて、子供の言動を裁いたり、正したりしようとしてしまいがちですが、子供は、それを理解できません。

ただ、そういう(何を考えているのか子供にはわからない)大人の姿を見て、

恐がったり、怯えたり、もうちょっと成長すると反抗したり、

体が大きくなるともっともっと反抗して、逃げて、家に寄りつかなくなったり、親を軽蔑したり……という事態になってきます。

幼い子が「ウソをつくようになった」というのは、親が恐いから、という可能性が高いです。それくらい、大人の怒りを感じとっているということかもしれないのです。


●どうすればいいか?といえば、やっぱり「理解する」という心がけです。

勝手に怒ってないか、判断していないか、自分の都合を前提にして理屈や妄想をふくらませていないか。

「なにを感じているの?」

「なにをしているの?」

「どう思うの?」

「じゃ、これをしようか」


と、理解から入って、同じ立場に立って、「これからこうしよう」と呼びかけるだけで、ほんとはよかったりします。

人間の心というのは、「理解される」ことが、一番うれしいのです。子供にしてみれば、自分のことを怒らず、裁かず、押しつけず、まずは見ていてくれる、わかってくれる、聞いてくれる、と思えること。

そういう思いを持てたら、子供は大人を信用します。理解されると嬉しいから、期待に応えようと頑張ったり、助けてあげようとしたり、いろんなリアクションを返してくれるようになります。

これは、人間なら誰にでも当てはまります。だから、親のみならず、人と人とが関わる時の基本は、

①自分の心を理解し、②相手の心を理解する、ということが基本になるのです。


もし、自分の精神状態がよくないな、と感じていたら、そんな自分の状態を理解してください。そのうえで「何をすれば、気持ちがいいか」を、真面目に思い出してください。

もし、相手が言うことをきいてくれないな、わかりあえていないなと、感じたら、その時点で執着・妄想にストップをかけて、相手の心情をよく理解するように、心がけてください。

裁く、期待する、判断する、要求する、相手の姿に不満を持つ――ほんとは、どれも「執着」でしかありません。

そこを抜けるのは、簡単ではありませんが、でも「いやいや、自分が見えていないんだな」と、冷静に気づくことです。

そして、相手を理解して、うけとめる勇気をもつことです。


●親子関係なら、これから何十年も続くわけですから、先は長い。「相手を理解する」という心がけを基本にすえて、練習を始めることです。

妄想せず、反応せず、判断せず、執着せず、「ただ理解する」という心境を、理解できるようになるには、相当時間がかかるはずです。ほとんどの人は、練習したことがありませんから。

ただ、理解するという心がけを今後深めていくことは、必ずプラスの変化を、自分にも、相手にも、関係にも、もたらします。精進する道に、ソンはありません。頑張りたいものです。


●今後の講座日程

※4月末まで、個人相談・カウセンリングを優先的に受け付けます。ご希望の方はご連絡ください。

3月24日/31日(金)18:30 ~ 20:30
朝日カルチャー新宿 「反応しない心のつくり方~上手に心を使う練習」 全2回(3月24日・31日)

3月 25日(土)10:00 ~ 12:00
東武池袋 ★仏教ガイダンス 草薙龍瞬の『仏教とともに生きる』
――――――――――――――――――――――――
4月 8日/22日(土)10:00 ~ 12:00
東武カルチュア ★シリーズ講座 生き方として学ぶ仏教入門・第1回(第2・4土曜午前)

4月13日/27日(木)14:00 ~ 16:00
巣鴨・大人のための仏教の学校 - 巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り

4月18日(火)
名古屋栄中日センター 仏教講座「ほんとうの人生の始まり(道に立つ)」
 
4月19日(水)10:30 ~ 12:00/13:30~15:00
東急BE〝心の上手な育てかた&使いかた〟仏教解説と禅瞑想つき -東急BE二子玉川/東急BEたまプラーザ

4月21日(金)18:30 ~ 20:30
朝日カルチャー新宿 反応しない心のつくり方~上手に心を使う練習 全4回・第1回(単回受講可)
 4月30日(日)10:00 ~ 12:00
仏教入門「悩みを溜めない心の使い方」★要予約/初めての方優先
神楽坂・赤城生涯学習館
――――――――――――――――――――――――
5月3日(祝水)18:00 ~ 20:30
生き方としての仏教講座 神楽坂 - 神楽坂・赤城生涯学習館

5月4日(祝木)
10:00 ~12:00 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき - 神楽坂・赤城生涯学習館
18:00 ~20:30 生き方としての仏教講座 神楽坂 - 神楽坂・赤城生涯学習館

5月5日(祝金)
13:00 ~15:30 人間関係特集「夫婦・子育て・職場で苦労しないコツ」 神楽坂・赤城生涯学習館

18:00 ~20:30 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき  神楽坂・赤城生涯学習館

5月6日(土)18:00 ~ 20:30
生き方としての仏教講座 神楽坂・赤城生涯学習館

5月7日(日)
10:00 ~12:00  座禅と法話のひととき 神楽坂・赤城生涯学習館
18:00 ~20:30 坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座 神楽坂・赤城生涯学習館

5月11日/25日(木)14:00 ~ 16:00
巣鴨・大人のための仏教の学校 - 巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り

5月12日(金)18:30 ~ 20:30
朝日カルチャー新宿 反応しない心のつくり方~上手に心を使う練習 全4回・第2回

5月13日(土)10:00 ~ 12:00
東武カルチュア 生き方として学ぶ仏教入門(第2・4土曜午前)

5月14日(日)18:00 ~ 20:30
坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座 神楽坂・赤城生涯学習館

5月16日(火)
名古屋栄中日センター 仏教講座「人間関係の基本(慈・悲・喜・捨の心)」

5月17日(水) 東急BE〝心の上手な育てかた&使いかた〟仏教解説と禅瞑想つき
10:30 ~12:00 東急BE二子玉川/13:30 ~15:00 東急BEたまプラーザ

5月21日(日)18:00 ~ 20:30
坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座 神楽坂・赤城生涯学習館












ふたたび、出家、日本をゆく(帰国報告^^)


こんにちは、草薙龍瞬です。ようやく日本に帰ってきました。

今回は、長かった~~~~というより、なんか中途半端?な感じが残りました。

なんというか、全体的に、のどか(笑)。いつものような、仏教徒の誰が自殺したとか、殺されたとか、そういう闘いを求められる場面に、直面しなかったというのが、ひとつです。


その代わりに、劇的な出会いがありました。


◎ひとつは、仏教が滅び、今やカースト差別がまかりとおる「ラージギル」(日本では「王舎城」)で、現地に生きる不可触カーストの仏教徒たちに出会ったこと。


◎ヴァイシャ―リーという、これもブッダゆかりの土地の近くで、「ブッダトラ」という地名の、純粋な仏教徒たちのコミュニティを発見したこと。

この区域は、ブッダに帰依した婦人アンバパーリ―の生まれ故郷です。彼女がブッダたちに寄進したとされるマンゴー園がありました。

ブッダはこの村はずれの洞窟で、ひと安居(雨季の滞在)を過ごしたのだとか。ここは、知られざる仏教スポットだったのです!


◎さらに、「パルヴァッティ」という土地では、ブッダがインドラ神からの42の問いに答えたという伝説がある洞窟がありました。その洞窟を管理する人たちもまた、純粋な仏教徒でした。


◎そして、久々に再会したナーランダ大学長のダンマジョーティ師が連れて行ってくれた、ブッダと同じシャカ族の末裔たちの部落も。あの「シャカ族」です。

中には、ブッダの像を隠して、代わりにその母マーヤを、ヒンズー教のラクシュミ―の姿に似せて、崇拝していた部落も。

ブッダを直接祀っていたら、ヒンズー教徒たちに破壊されるため、こういう戦略を取っていたのです。まるで江戸時代の隠れキリシタンみたいに。


――今回の大きな収穫は、ヒンズー教に侵蝕されていない、原始の仏教コミュニティが、見つかったこと。

ただ彼らは、仏教が何かを、ほとんど知りませんでした。パルヴァッティの村では、「いつもやってるお経言ってみて」といったら、「ブッダーン、サラニャーン、ガッチャ~ミ~……サードゥ!」でおしまい。

洞窟の中で、一緒にパーリ語のお経を唱えたのですが、みな手を合わせて、一生懸命で――(涙)。


今の時代、純粋な仏跡や、仏教徒のコミュニティというのは、ほぼ死滅しています。ブッダガヤや、クシナガラといった、仏教ゆかりの場所でも、管理しているのは、実はバラモンたちです(かっこは坊さんなので、見分けがつかない)。

どの場所にいっても、ヒンズーの祠と、神々の像と、バラモンたちが、大事なところ(たとえば山の頂上とか、仏跡があった場所とか)を占拠してしまっています。


ところが、今回行ったところでは、そのヒンズー教の勢力をほとんど感じない場所が、いくつかあったのです。


インドは広いと感じました。まるで、昔の川口浩[かわぐちひろし]探検隊みたいな心境に(知らないか(笑))。

インドの森深くに、幻の仏教徒コミュニティ発見!!!!みたいな(笑)。


●今後は、ブディズムという思想を、現地の言葉に置き換えて伝えていくことになるでしょう。

力強く、明快なメッセージをもって、彼らの今後を励ましたいと思いました。


頑張れ。ダンマ――人間すべてが幸福になれる道――を、この場所で確保せよ、と。


日本の仏教講座で配っている資料を、まずは英語に。それを現地の仲間に翻訳してもらって、印刷して、彼らのコミュニティに配る。


輪廻などない。カーストもない。人間に苦しみを強いるいかなる理屈も、妄想でしかない。


そのブッダ本来のメッセージに目覚めよ、覚醒せよ。

そしてこの現実の世界のなかで、望みうる最高の生き方を実践せよ。

ブッダが伝えた正しい道に立つのだ――。


そんな思いでした。


とはいえ、現地にいけば、気のよい、純朴な人たちとの、喜の心の交流があるばかりなのですが(笑)。


ちょっと中途半端な思いが残った、というのは、出会いに留まり、その先のブディズムの分かち合い、というところまで、時間的に進められなかったからです。


●ただ今回は、日本でお寄せいただいたご声援と、自分自身の志をけっこう足して、かなりの慈悲、貢献を果たせたように思います。

ご協力いただいたみなさん、どうもありがとうございました。


ふだんは、ヤクルトジョアでさえ、大人買い(といっても2本)をためらうほどの倹約家です。

しかし、この地で人々に出会い、現地の問題を理解して、はて何ができるかを考えた時に差し出せるものというのは、とても自然に、自らの務めであり、友情の証として、出てきます。


そして今回ほど、お金が力になるということを実感したことはありませんでした(実感しなかったのは、発想が貧乏症だし、実際に貧乏だからですね(笑))。


日本に帰って最初の二年は、食いつなぐのに精いっぱい。

その後、本を出せたことで(お陰さまです)、教室に来られる人たちがちょっと増えてきて。その頃は、教室に「竹筒」を置いて、カンパを募っていました。

一年以上かけて、十万円ちょっとさずかったので、それを大事に、4年ぶりにウダサ村に持っていきました。


それが今回は……! 


「たいへんよくできました」です。来年以降も、しっかり持っていかなければ。


そのためにも、ここから日本でまた、しっかり活動したいと思います。


まずは、次の本の原稿を完成させなければ(まだやってないって? 真心こめて作るなら、本は年に多くて数冊です(笑))。


今は連載を二本いただいている(NewsPicksとPHP暮らしラク~る♪)ので、インドでも、帰りの空港内でも、文章を書いていました。

どこでも、ヒマがあれば、何か書いている。それがなんだか、自然にできるようになってきました。


きちんと命を燃やすこと。そのためには、正しい動機と、正しい行いと、正しい方向性とが、必要になるでしょう。

この三つがそろえば、毎日が、ごく自然に回っていける。

十二分に生きていながら、疲労しない、そんな毎日が可能になるように思います。


帰国後は、3月20日の講演会から早速スタート。4月からはカルチャー(東武、東急、朝日)です。神楽坂は、どうするか考えます(笑)。


●とにかく! ブディズムを、ただの宗教、観念、知識、妄想で終わらせないことです。

これは生き方の問題なのです。
自分自身が苦悩を抜け、心の自由を、最高の納得を引き出すための、実践なのです。


勘違いしている言葉が、世の中にはあまりに多い。多すぎます……。


大事なのは、何が仏教か、というより、その仏教で自分の現実がいかに変わるのか、という問題のはず。

おのれのめざすところ、自分自身によしといえる生き方は、一体どこにあるのか?という問題。


そこに答えを出せるなら、仏教じゃなくていい。なんだって、正解です。


そこまで開かれた、突き抜けた、目覚めた発想を、持てぬものか――そんなことも、暗い言葉が飛び交う、せちがらい日本の実情を見るにつけ、感じることがあります。


どのような人生も、やすらぎと自由と喜びと、思いやりと、励ましを、そのゴールに据えること。

そのゴールだけを思い出して、曇りがちな心の眼を醒ますこと。



明るい方向へ、心を立て直すことです。

道は、もうすでにあなたの足元にあるのだから。

歩き出すだけでよいのです。


もうすぐ日本!


【出家、インドをゆく】 ブッダ静寂の旅路


ブッダ静寂の旅路

 車は、煤煙を噴き散らす大型ダンプに挟まれて、ガンジスが小さく見えるほど高くを走る陸橋の上にあった。

 私は、パトナを越えて、ブッダが死期を予感したというヴァイシャーリーという町に向かっていた。

 できることなら、舟でガンジスを渡りたかった。かつてブッダは、マガダ国の商業都市パータリプトラ(現パトナ)の外縁をなぞるガンジス河を、舟で再三渡ったとされる。
 
 原始仏典の中に、八〇歳になったブッダが、今生の最後と自覚して旅した記録が残っている(ブッダ最後の旅=マハーパリニッバーナ・スッタ)。

 ガンジスを越えるときに、ブッダがふと漏らした言葉が伝わっている。

 水に身を浸すことなく橋をかけて、海や湖を渡る人びともある。

 木切れや蔓草を結えた筏をつくって渡る人びともいる。

 智慧ある人が、その智慧をもって渡る河(≒人生)もある。

 今もガンジスは、波なみと水を湛えて、穏やかに豊潤に流れ続ける。岸辺で水を呑む鳥もいれば、飛翔して足を洗う鳥たちもいる。その流れの上を、ブッダは人々に交じって、アーナンダとともに舟で渡った。

 その頃ブッダが使った船着き場は、昔は、ゴータマ・ガート(ゴータマ渡し)と呼ばれていたという。

 だが、異教に酷薄なインドである。そのような名の船着き場は今はどこにもなく、私が知る小さな渡しは、ガンジー・ガートと呼ばれている。高い確率で、この数十年の間にすり替えられたはずである。

 岸に降りたブッダとアーナンダは、再び砂の原を北に向かって歩いて行った。

 ヴァイシャ―リーに延びるこの渋滞の道は、二千五百年の昔も、人々が往来する幹線道路だったと思われる。

 私は、ブッダが見ていた風景が、道中垣間見えることはないかと心働かせながら、車窓の外を眺めていた。

 ふと心が反応するポイントがあった。私は急いで、ドライバーに車を止めさせた。

 道の両脇を、背の高い砂地の土手が遮っている。その斜面を上がった。すると、広々とした緑の地平が見えた。

 棕櫚[しゅろ]の木やマンゴーの林、インド独特の背の低い灌木――だだっ広い砂の原に、緑の木々が点在しながら広がっていた。

 ブッダが近い――私のなかで、そんな感興が湧いてきた。長くインドを旅してきて、はじめて抱いた感慨だった。




 ブッダは、どのような空気を呼吸し、どのような大地を踏みしめて、歩いていたのか。私はその感覚に近づきたくて、しばし緑の灌木の合間をひとり歩いた。

 茅葺[かやぶき]の小屋が、林の合間に点在している。水牛がいる。私の姿を見つけた婦人や子供が、静かに声をかけてくる。



 旅人には食や床の施しをするというのが、インド古来の文化である。おそらく私が訊ねれば、なにかしらの供養を自然に図ってくれるやもしれない。この地で精神修行者が旅することは、難しいことではない。

 ブッダとアーナンダは、ときにひとの厚意を受けながら、ときに樹木の影に憩いながら、この平坦な砂の原を、ひたすら歩き続けたに違いない。

 二人の旅路に、無駄な会話はなかった。ともに心の清浄を基本とする道の者である。互いに距離をとりつつ、サティ(気づき)に務め、ひとの姿や風景に遭遇した時には善き言葉を交わしあった。

 その二人の旅の姿が、仏典に残っている。

 ブッダはアーナンダに告げた。「アーナンダよ、では、お前は随意にすごすがよいYou may spend you own time」

「かしこまりました」と答えて、座から起って敬礼し、右肩を向けてめぐって、近くにある一本の樹の根もとに坐った。


 二人がいかに静寂を、そしてそれぞれの務めを大事にしていたかが、伝わるエピソードである。

 日が落ちれば、木の下にそのまま留まる。座っている時も、横になっている時も、気づきを保つ。外の世界が明るくてもたそがれても、心を観るという務めに影響することはない。


 私が今目の当たりにしている風景は、おそらくブッダが歩いていた頃の景色とそれほど変わらないはずである。だが唯一違っているとすれば、それは音である。

 街道を走る烈しい車のホーンやエンジンの音。気兼ねするという発想のないインド人らしい、ドラムの効いた大音量の音楽。その無秩序にして無節操な音の鳴動が、私の頭上を通り越して、白くかすむ大空となだらかな平地へと浸透していく。

 だが――二五〇〇年の歳月をさかのぼっていくにつれ、これらの音は消えていく。

 もしこの大地から、現代的な音を消去したとすれば、何が現出するだろうか。

 それは、無音の世界である。この果てしなく広く平坦な大地には、音を響かせる渓谷や巌はない。むしろ一切の音を静かに吸い込む、砂と木々があるばかりである。

 音も、風もない。その静寂の世界を歩き続ける二つの命には、俗な人間が作り出す無駄な言葉も動きも、いっさいない。

 さながら大地の一部であるかのように、あたかも樹木のひとつであるかのように、無の心で、遠くから見ればひとか自然か判然とさえしない、小さく二つの影が、音もなく歩いていく――そういう姿であっただろう。

 今私の目に映る、あの遠方の木々の下で、夕暮れに腰を下ろし、気づきを保ち、夜の静寂の帳[とばり]のなかで体を休め、深く心を見つめて、やがて白々と明けてゆく朝もやの中で、新しい一日の始まりを知る――そんな旅路を重ね続けたら、ひとは、どんな心境になりうるであろうか。

 おそらくブッダも、アーナンダも、現代人が想像つかないほどの静寂と澄明の心境のなかで、旅していたのではなかったか。



「道に立つ者」にとって、旅することと、一所に止まることとは、一抹の違いもない。

 命つづくかぎり気づきを保って、心の清浄を心がける。歩く。人に出会う。生き物と遭遇する。そのときは、慈しみと悲と喜の心で交流する。

 その心に、なにひとつ患うことは、ない。



 ヴァイシャ―リーへと一目散に疾走する車でさえ、相当な距離を感じさせる遠い道のりである。

 この道のりを歩いて旅したブッダの末期の眼には、過去の月日は、どのように見えたのであろうか。

 激しい苦行に身を投じた森のこと。悟りをひらいた樹の下のこと。ビンビサーラたち心通い合う友のこと。最初に教えを説いた鹿の園。弟子たちが修行に励んだ竹の林のこと――

 いっさいの思い出が、旅人がふりかえる青々しい山なみのように、はるか遠く霞むように見えていたことであろう。

 ブッダは、自身の肉体の死を予感したとき、住み慣れたラジギールに留まることではなく、旅することを選んだ。おそらく彼は、どこにたどり着こうとも、たどり着けるとも、思っていなかったのではなかったか。 

 人生の最後に彼が選んだのは、この風も音もなく、ただどこまでも穏やかでなだからな大地を、ひたすら歩き続けることであった。

 どこまで歩けるか定かではないが、それは目的ではない。

 過去たしかに生きたという感慨はあっても、記憶の中のいかなる風景にも、執着はしない。

 ただ今ここに生きている命という名の現象を、ひたすら気づきをもって見つめて、いっさいの濁りを心つくらない。

 まるで空を飛ぶ鳥の軌跡のように、何も後に引いて残さない。

 そういうかぎりなく透き通った心境における旅である。

 アーナンダよ、心の向上に努めた者が、一切の思い(こだわり)を留めず、

 苦しみの感情を抱かず、とらわれのない心境にあるとき、

 その者は最上の瞬間にいるのだ。

 これ以上の人生のゴールはない、ということである。

​ いくら想いを馳せても、旅するブッダの澄んだ心は、この世界の、もうどこにも存在しない。

 届きようのない宙[そら]を仰ぎ見ているような気がして、不意にせつなくなった。







【出家、インドをゆく】子供たちもすくすく

1月27・28日

 ウダサ村の幼稚園&小学校(G.D.Scholor Convent Udasa)の8回めの創立記念祭に出席。

 最初は3歳半からの幼稚園児だけだった。その子らが小学校に上がった。もうすぐ中学校に進む。

 子供たちは毎年、入学してくる。だから、年を追って教室が足りなくなる。現在179名。今後、2階=6教室を増やす予定。

 今回の日本からの応援は、その増設に使う(みなさん、ご声援をお願いします(笑))。

 ちなみに、40人が乗れる中古バスを、もうすぐ調達する予定。小さなバンだと、2往復せねばならず、遅刻を避けられないし、なにより今の状態では、子供たちがかわいそう(↓彼らにその自覚はないのだが(笑))。

【写真】これが現状です(笑)。


まだ乗ります(笑)
このあと運転手のお兄さんも乗ります。
後ろから見るとこんな感じです……。50度に近づく夏はどうするの?
でも元気です(笑)

 記念祭では、子どもたちに3つのことを伝えた。ひとつは、他の子どもたちに優しくすること、いじめないこと。二つは、先生を助けること。三つめは、学校をきれいに扱うこと(まだゴミ箱がなかったので、大きなダストボックスを設置するようにスタッフに伝える)。

 これから、この学校をもっと美しい場所に作っていく。カラフルなペンキを一緒に塗ろう!(会場拍手)。

 日本の人たちも応援している。私も毎年来る。ご両親は、もし悩みやリクエストがあったら、私のところに直接くるように。

(※ちなみに一番多いのが「子供が勉強しない」という相談。どこも同じ(笑))

 私のスピーチに続いて、「ウェルカム・ダンス」。子どもたちが、仏教歌に合わせて踊りを披露する。

踊りに始まり、踊りに終わる(笑)。手前にババサブ(アンベドカル博士)とインド初の女性教師の写真。

 この一週間、子どもたちはダンスの練習一辺倒。勉強が嫌いな子、学校に馴染めない子、先生を恐がる子もいるのだが、このダンス・ウィークで自信をつけて、学校にすっかり馴染む子も多いらしい。

 その後は、午後3時くらいまで、絶え間なく子供たちのダンスのお披露目。ビートの利いた仏教ソングと、ボリウッド映画などのヒット曲。

 インドの歌というのは、情熱的、抒情的で、抑揚豊かでスケールが大きい。文字化するなら「アァアアァアアア~♪」という感じ(?)。

 この地では、お祭りも葬式も、きまって歌を大音量で流す。とにかく歌の国。「しめやかに」という発想はない。

 その子供たちのお披露目を、地元の人たちが見物に来る。父兄だけではない。屋台も並ぶし、遠方の知人たちも、この機会にやって来る。子供たちの可愛らしいダンスを、心底楽しんでいる風情で眺めている。つまりは、これは村の余興である。


みんな楽しんでます^^。
 


●2日目も、ダンスで始まる(笑)。この日は、生徒たちが作った図画工作を見せてもらった。

 水が蒸発して雨になって地面に降りて川になって、という循環を、大きな紙に英語で描いた子は、まだ6歳半。この学校では、教科書は全部英語。日本の教育より進んでいるかも?

 噴火口のついた火山を作って、中にソーダ水を入れて見せる子がいたり、「ドリーム・ハウス」と題して、自分が将来住む家を作った少年がいたり――

彼の家には、衛星テレビのアンテナがあり、庭には若くてきれいな女性たちがはべっている(笑)。幼いのに、もう煩悩が(笑)。

 壇上で私が品評。ぜひとことん想像しよう。夢を描こう。「ドリーム・オブ・インディア(インドの夢)」をテーマに、絵でも工作でもアイデア(社会・環境のあり方)でも、自由に発表してほしい。来年は日本から景品を持ってくるからね、という話。

 その後は、再びダンス(笑)。3歳半の子どもたちの踊る様子が愛らしい。 

よくわかってないながらに飛び跳ねる姿が花マルです(笑)

椅子に座って眺めていると、大人も子供も「グッドモーニング」とか「ジャイビーム(こんにちは)」と挨拶してくる。

 インドでは、若い命がどんどん育っている。大人たちが、それを手助けする。子どもたちは、大人たちとの触れ合いに慣れているし、年に関係なく遊んだり、コミュニティの活動を手伝ったりしている。つながりが自然なのである。

 日本を明るい国にしようと思えば、子供たちを増やすことだ。子供が多い社会が、当たり前のなること。年寄りが、子供のことを「うるさい」といい、自分たちにお金をかけすぎている社会の構図は、ほんとはなんとかしたほうがいい。

 午後4時頃、全プログラムが終了。地べたにみなで座って食事会。ここでも地元の青年・子供たちが、よく働く。


社会奉仕は、当たり前。

●トライブ(移動部族)の女の子が、ひとりぽつんと隅っこに座っていた。姉妹を呼んでくるようにと伝えたら、両親もやってきた。

 女の子は、ダンス大会の間、最前列でじっと同い年の子どもたちが踊っている姿に見入っていた。ほんとは就学してよい年齢だが、学校には行っていないらしい。村外れの空き地にテントを張って、朝から晩までそこにいる。

 親子そろってご飯を食べている姿に、少し安堵した。


ひとり座っていたトライブの女の子
どう、おいしい?

 夜7時くらいまで、何回かに分けて数百人分の食事をふるまう。

 かなりの大仕事だが、ラケシュ、ミリン、プラヴィン、ナレシュら、日頃の仲間はもちろん、14歳のプラジワルや、17歳のダトゥらも、積極的に手伝う。

 婦人たちも、自然と集まってきて、食事の準備。こういうのは、居心地が悪いとできない。日本のPTAが不評なのは、互いへの関わり方を知らないからではないか。

 会場の解体作業が、深夜まで続いた。みんな、ほんとによく働く。

ダトゥは17歳。食べるの大好き。「将来を全然考えてない」と家族に文句いわれてます(笑)。
女性たちもよく手伝ってくれます。

●砂の道を歩いて、ラケシュの新居に向かった。今は冬だから、オリオン座やその他の星々が、みずみずしい光を放って見える。

 十年前にこの地にはじめてやってきて、ラケシュ、ディパック、ワスの三人と、バイクでこの星空の下を走った夜を思い出した。

 村の青年たちの多くは、まだ30代。だが、着実に年を重ねている。

 この活動は、彼らがいるからこそ回っている。もし私たちが一人ずつ、この星々の下から消えてしまったら、今ある活動も、静かに消えていくだろう。

 ここには稀有な善意をもって、社会に尽くしている人たちがいる。私もまた、その貴重な輪の中に遇している。

 考えてみれば、居場所というものを生まれてはじめて感じたのは、この土地だったかもしれない。

この場所には、求めるより与えることを自然に優先できる人たちがいる。私はそのことに敬意をもつ。

【出家、インドをゆく】あの時、ブッダは何に喜んだのか?


 夜、ナグプールからウダサ村へ、坊さんと初老の男性がやってきた。こうやってひとを呼んで私と交流させるのは、「人間フェイスブック」の異名をとるワスの算段だと決まっている(笑)。


とにかく交流大好きなおじさんワス(40代半ば)

 聞いてみると、二人とも、輪廻はブッダの教えだと頑なに信じている様子。はて、話が続くものかと思いつつ、会話を進めていった。

 原始仏典の話、瞑想修行の話、合理的な理解と思考の方法……相手の言葉を受けて、けして迎合することなく、ニュートラルに話を進めていく。

 すると、徐々に二人のリアクションが、私への異議や疑問ではなく、納得へと変わっていくことが、伝わってきた。

「輪廻とは妄想にすぎない。妄想から抜ければ、そのような物語は必要なくなる」

「苦しみには、さまざまな原因がある。心の苦しみの原因は、心にあるが、社会的な苦悩の原因は社会の側にある。

 政治・経済におけるシステムさえ変えれば解消できる苦しみもある。そこに輪廻は関係がない」

 そんな話になっていく。

 正しい道を実践すれば、来世を待つまでもなく、この人生において苦しみを抜けることができるのだ。そのクリアな道を説いたのがブッダである。

 妄想さえ抜ければ、苦しみも抜けられる。そして輪廻などの根拠なき妄想に縛られ続けることも止まる。

 そのときこそ、人間が悟った One’s got enlightened 時である。そのために気づきの修行をするのである。そういう話になっていった。

 面白かったのは、最初は輪廻こそがブッダの教えなんだと不機嫌そうに言い張っていた坊さんが、そのうち黙って、やがて目を輝かせて、私の話に耳を傾け始めたことだ。

 初老の男性も、最初とは明らかに違って、表情が生き生きしてきた。

「あなたは正しい You are right」

 と最終的に坊さんは言った。納得したらしい。


 彼が、伝統的な仏教への固執(思い込み)を抜け出し、短時間で新しい理解の可能性に目ざめていったのは、彼が不可触カーストの一員だからだろう。

 差別の苦しみの原因は、社会制度にある。その制度を作っているのは人間の心、特に妄想である、という話は、彼自身の過去の体験にてらして、「そうか!」と納得しやすいものだった。

 カーストも輪廻も「妄想」でしかない――これは、新しい理解であり、人生を根底から変えうるものであり、社会をも変えていく力を持つ真実である。

 その真実に立ちえた人間には、「汝は悟りに達したYou’ve got enlightened!」と声をかけるにふさわしい。

 かつてブッダは、輪廻の苦しみから抜ける方法を五人の修行者に説いた。苦しみつづける原因は、輪廻ではなく、心にあるのだと、ブッダは語った。

 ひとりの修行者コンダンニャが、そのとおりだと納得したとき、ブッダは「コンダンニャが悟った!」と喜びの声をあげた(サンユッタ・ニカーヤ)。

 そのときの光景に重なる思いがした。

 もし彼らモンク(職業僧侶)が、この現代インドにおいて、

「輪廻など幻想に過ぎない。
 人間の苦しみは、この一度きりの人生の中で越えることができる。
 その真実を悟った自分は、もはや世の不条理に支配されない」

 と高らかに宣言するに至れば、世の中は確実に変わっていくだろう。

 僧のみならず、すべての人々が、カースト? 輪廻? そんなものは、私にとってのダンマではない。It’s not my truth.と超然といえるようになるだろう。

 そういう〝抜けた人〟が増えていけば、それに感化される人も増えてくる。

 結果的に、社会は確実に変わっていくだろう。


 この日の体験は、私にとって新しい目を啓かせてくれるものであった。もしかすると、ひょっとすると、ブッダが試みたのは、こういうことだったのではないか、とふと感じた。

 それくらいに、劇的な変化を見た。正しい理解による喜びでひとの表情が輝いていく姿を、このインドの地ではじめて見た。

 二人とも、満足そうな顔をして帰って行った。

 そうか。そうなのか。この命の役割は、この地で、彼らが長らく支配されてきた「妄想」から抜けるすべを伝えることなのだ。

 この世界の不合理が、なにゆえに不合理なのか。その原因は何なのか。いかにすればその原因を抜けられるのか。それをクリアな言葉で伝えることが、使命なのだ。

 実に、これこそが、ブディズム(目覚めに至る方法)ではないか。

 自身のこの地での使命が、いっそう明確になった感のある夜の出来事であった。

サードゥ(善きかな)である。

州医師会での講演。ブディズムとは、妄想を抜ける道である。 

ジョルダンが悟った!と喜ぶ龍瞬(笑)。

【出家、インドをゆく】最高の快哉


 2017年2月9日、午後3時45分、ラケシュとその奥さんシタールの間に、子供が生まれた。

 2500グラムの小さな赤ちゃん。

 その日の午後に、シタールが、うんうんと苦しみ始めた。予定日は28日と聞いていたので、まさか今日出生するとは思っていなかった。

 ラケシュが車に病院に運んで――その午後、電話があった。

 その電話を受けたのは、車の中。後ろに乗っていた、私たちの学校の校長先生(ラワン)だった。

 That is a good news!(それはよい知らせだ)と、寡黙なラワンが珍しく英語で叫んだ。Second Rakesh is coming! (ラケシュ2世が来た)とも。

 実は、私はそのとき、ナグプール空港に向かう車の中だった。12日までにブッダガヤに入るため、移動中だったのである。

 私は、そのまま空港に送ってもらって、飛行機に乗った。しかし……機内で、どうにも静まらない気持ちを感じ始めた。

 90分ほどで、デリーに到着。ここから8時間待って、カルカッタに行き、そこからガヤへと乗り継ぐ予定だった。

 だが、空港内を移動しながら、よくよく考えた。私は何をしているのだろうと。

 今日、新しい命が生まれた。それだけで劇的な瞬間である。新しい歴史の最初の日である。

 しかも、その赤ちゃんは、あのラケシュの子どもなのだ。

 このままガヤに行ってしまえば、その子に会えるのは、ほぼ間違いなく、一年後の一月になる。

 一年もの間、ラケシュの子に会う時間を見過ごすのか? 新しい世界の始まりに、今一番近い位置にいながら、離れていってしまうのか。

 ――そう考えると、今自分が取り返しのつかないミスを犯しつつあるような、落ち着かない気持ちになってきた。

 12日までにガヤに着かねばならぬ理由はあった。だが、ナグプールで今起きていることの只中へと戻ること以上に、大事なことは、おそらく全生涯にわたっても、ふたつと無いような気がしてきた。

 国内線の乗り継ぎへと向かう途中で、気持ちは固まった――「戻ろう」。

 で、エアインディアのカウンターに行き、ガヤへのチケットをキャンセルし、新しいチケットを買った。不慮の出費だが、今していることの意義に値段はつけられまい。

 そして10日の午前5時15分の飛行機で、ナグプールに戻った。

 そして、ウダサ村から10分ほどの、ウムレッドという区域にある、産婦人科へ。

 部屋に入ると、母親になりたてのシタールがベッドに座っていた。まだ脱力状態のようで、表情に乏しい。出産に際して手術をしたらしく、痛みがあり、高い熱も発していた。

 その反対側の入り口手前のベッドに、毛布がたたんであった。

 付き添いの女性がその毛布を開いた中に、赤ちゃんがいた。恐ろしいほど、小さかった。

 まったく動くことなく、呼吸している気配さえほとんどない姿で、眠っていた。

 私はシタールの額に手のひらをあて、彼女の苦労と、この偉業に、ねぎらいと敬意とを送った。

 そして、生まれたての小さな命にも、手のひらを当て、生まれてきたことへの祝福と、これからの3人の幸福で善き日々を、心の底から祈念した。

「バンテジーに会いたくて、予定より早く生まれてきたんだと思う」と、ラケシュがいった。

 ふだんは合理のみを伝える私も、その説に同意したくなった。よく生まれてくれたものである。

 この子が急いで生まれ出てくれなかったら、私はこの子に会うチャンスを逸して、次の場所に移っていただろう。ギリギリ間に合っての、生涯最初の対面だった。

はじめまして


 ラケシュとは、2006年に、佐々井師の一団がブッダガヤへと向かう途中の、数ある車の中の一台に、本当に偶然に隣り合わせに座ったことが、縁である。

 そのとき、ラケシュは、はじめて髪を剃り、坊主の恰好をしていた。正式な出家ではなく、佐々井師の活動を演出するための「数日出家」団(笑)のひとりとして同行していた。

 私には、彼が「生まれ変わっても、僕は農民たちのために生きたい」と語った言葉が、深く印象に残った。

 今になって彼がいうのは、当時の彼は、まだ何をすべきか見えておらず、恰好だけ坊主にしてもらったものの、疑問も感じていた最中だったそうである。

 その彼は、私と出会って、ようやく道が見えて今に至っていると、言ってくれている。

 だが、私にしてみれば、彼との出会いがなければ、まず確実にインドには戻ってきていない。戻る理由は、ほぼないといっていい。

 仏教が本来持っていたはずの意味に、私が近づいてこられたのも、つまり――

 輪廻もカーストも、人間が我欲と妄想を持ってつくりだした物語でしかない。

 それは「正しい理解」に目を醒ましたときに、すべてわかる。そのとき人間は解放される――

 という理解が見えてきたのも、

 また、ブッダの教えの破格の合理性と、そこに秘められた社会を変えていく潜在的な力とを、私がつかみとることができたのも、

 ラケシュたちが、インドの現状を熱心に教えてくれて、私自身が啓蒙を受けたことが大きい。

(※なお、ブディズムというのは、非合理が蔓延していた古代インドにあって、人間が苦しみから解放されるための新しい思想・方法であったと思われる。

 この理解におそらく間違いは少ないと、私は感じている。これは、仏教以前のインドと、仏教滅亡後のインドを見渡したときに、そして現代における宗教の実態を見た時に抱く、私自身の確信である。)

 そして、人間的には、俗な言い方だが、かなわんなぁと思うところが、彼の中にはたくさんある。

 おそらく百年インドを旅し続けても、彼のような、聡明さと人徳と社会的な動機を持ちあわせた人間に出会うことは、ほぼ不可能であろう。

 それくらいの、すごい人である。

 その彼が、この十年、さまざまなつらい思いをしてきたこと、今も少なからぬ苦悩と孤独を抱えていることを、私はよく知っている。

 あの物静かな、尊敬という念を持つしかない、無二の友人であるラケシュが、これまでの私たちの出会いの物語のはてに、ついに父親になったのである。

 これほどの快哉があろうか。

 ちょうど、ゴータマが生まれ落ちたときに、アシタ仙人がわざわざカピラバストゥの城を訪れたように(笑)、私もまた、この歴史的な子供の誕生を、この目で確かめるために、龍の街(ナグプール)に戻ってきたのであった。

 私にとって、これほどの因縁を重ねた上で、その命のまさに始まりを目撃したという体験は、かつてない。

 私もまた、幸せな命のひとつなのであろうという、静かな感慨が湧いてきた。

 戻ってよかった。

新しい父と母

 産院のお医者さん夫婦に食事をいただき、その帰りに、学校への追加の寄付として、飲料水タンクを買った(50リットル用と、壺タイプ)。そろそろ猛暑の夏季である。 8人の女先生と176名の子供たちのために。

 さらに、翌朝5時半に、再び産院に行って、この旅最後の面会をした。

 母親のシタールが、朦朧とした顔で横になっていた。唇が白く渇き、額と手のひらに触れると、火傷をするかと思うくらいの高熱だった。

 泊まり込みで産後の手伝いをしていたのは、ウダサ村のディパックとミリンという名の青年たちの母親だった(看護師ではなく。インドではこうした互助の文化が、今も自然に生きている)。

 その二人に、水をたくさん飲ませるようにと伝えた。死んでしまうのでは、と思った。

 新しい命の、細く小さな指に触れると、握り返してきた。

 そして、なんと目を開いて、こちらを見た。大きくて黒い瞳であった。

 もちろんまだ、人の姿が映っているわけではないだろう。だが、まるでぎこちない動きのアニメかパペット人形のように、一所懸命、眼(まなこ)を動かして、外の世界に視線を送ろうとしていた。その先に、私の姿があった。

 そして、あむあむと口をも動かすのである。

 私は再び、その額を手のひらで包み、そして新しい父親と母親のために、念を送った。

「毎年、僕らは年を取る。Every year, we are getting old」と、この旅中のとある夜の村の道で、ラケシュと二人で立ち話をした。

 出会いから十年経って、確かに、着実に、私も、ラケシュも、村の人々も、動物たちも、年を取っている。

 そう遠くない未来に、きっとひとり、またひとりと、この世界から旅立っていくことになる。

 歳月は無常である。いつか、私も含めて、今生きている、この地の親しい人たちの、誰ひとりとして残っていないときが来る。

 それでも、そうした歳月の中に、こうした喜ばしい瞬間も、ときに起こる。無常だからこそ生まれる、新しい可能性の瞬間である。

 実に喜ばしいことであった。実に、歓ぶべきことであった。



 君の未来が、喜びと幸せに包まれるように――。


私も一緒に見守りますよ

























【出家、インドをゆく】インド版・アルプスの少女ハイジ?


2月第1週
外を歩く時には、カメラは欠かせない。この地では、必ず何かが起きているからだ。

近所の家には茶色の子牛がいる。行くときまって、母親の乳にすがりついている。

だが母親の乳房はすでに萎びていて、子牛は要求を成就できない。背丈も大きくなっているので、角度的に母親の腹の下に入りきれない様子。

つまりは母も子も、肉体的に乳離れ(自立)せねばならぬ時期らしい(うまくできている(笑))。

そろそろ離乳の時期らしいです

おはよう、と寄ってきます

向かいの家の少年ダトゥ(17歳)が飼っている黒い子犬は、ジョルダンという。

最初に会った時は、初見数秒でダッシュしてきて、お腹を見せて「撫で撫でして」とせがんできた。

病的な人懐こさである。

ジョルダンは、盛りのついた犬という形容を越えて、とにかく落ち着きがない。会うたびに一目散に飛び込んでくる(私の周りで踊り回ってひとりでコケたりしている。なにやってんだか)。


ニュートラル・ハンドの威力をみよ(笑)

仲良しだった犬のサンディは、なんと数カ月前に亡くなったという(!)。

同じ家に、今はラッキーという名の白い子犬がいる。この犬もすぐに懐いた。ビスケットをあげると、ハグハグと夢中で食べる。

ラッキーも、私のニュートラル・ハンドに味を占めたのか(笑)、すぐ腹を見せて撫で撫でを要求してくるようになった。


(※後日、ジョルダンとラッキーがダブルで「撫で撫でして~」と襲来してきた時があった。恐怖であった(笑)。)


近所の少年は、白い子ウサギを飼っていて、朝から膝に乗せて焚き火を手入れしていたりと、仲睦まじい。つないでいないのだが、逃げようとしない。


気になったのは、バイクに引かれて後ろ足が使えなくなった黒犬。最初は警戒して吠えていたが、チャイとビスケットを差し入れてやると、すぐ間近で食べるようになった。去ろうとすると後ろ足を引きずって、ついてこようとするのがせつない。

後ろ足不随の犬と近所の子供たち(PPAPやって!とせがんできます(笑))

ある日の午後には、隣の家の屋上に3匹の野ザルが出現。天干していた農家の収穫物を食べている様子。インドというのは、このあたりに余裕があって、動物が食べてしまうとわかっているのに、野ざらしのままにしている。

サルたちは全身灰色で体長が一メートル近くある。人間に姿が似ているので、近くで見ると存在感がものすごい。まるで宇宙人に遭遇したみたい(笑)。

野ザル3匹。この州ではヒョウも出没するとか。

そうそう、十年前に居候していたパワン氏の飼い犬ブーノも、昨年亡くなったのだそうだ。

トライブ(移動部族)のキャンプ地にいる生後数か月ほどの子犬は、すでに後ろ足を損傷しているし、全身に蠅がたかっていて、よく生きていられるなと思うくらいの弱弱しい風情である。

それでも私の姿を見ると、力なげに尻尾を振る。明らかに微笑んでいる。チャイを手酌であげると嬉々として飲む。無事大きくなれますように。


トライブの子たちと村の子供たち。右端に子犬。
お皿持参でチャイをあげました
不死身を思わせる健在ぶりが、ダトゥの家のニワトリである。黒を基調としたボディに、真紅、黄色、青、緑とカラフルな羽をよそおって、我が物顔で闊歩している。他の家に平然と穀物を食べに来るし。

ひょっとして村で最強?(と本人は思っているかも)

今回の訪問で、ずいぶん新しい友だちが増えた気がする(笑)。

いつの間にか旅立っていた友もいれば、新しい友もいる。

明らかにこの村の動物たちは、人間慣れしていて気さくである。

だから毎日、村を歩くのが楽しい。さながらアルプスの少女ハイジになった気分?である。

その頃、日本のサラちゃんは……とあるご家庭のコタツでぬくぬく

【Q&A】どうすれば「出家」できますか? その1

※3月中旬から日本での活動を再開します。

こんにちは、草薙龍瞬です。せめてこの週末は、感覚を意識して〝雑念落とし〟に挑戦しましょう(笑)。

さて今回のテーマは、
「出家したい」と思ったときの、現実的な選択肢(ルート)につい
てです。


Q あるひといわく――

「私は、親としての責任を果たしてから出家したいと思ってきまし
た。でも色々調べても、簡単にはなれません。まずは出家させてもらい、尊敬できるお坊さんのもと教えを聞き、仏陀の本を読み、選んだお寺の草とりや掃除などできることをして過す、これは出家といわないのでしょうか?

それが、私の二十年思い続けた生活。定年後に趣味の生活すること
は経済的に可能なのに、仏陀の教えだけを学ぶ生活が、かなえられない。出家させてくれる場所やお坊さまがいません」。

Q またあるひといわく――

「正直、私としては少しでも早く得度出家したいと思っています。
これは仏道に真剣に向き合い、実践していくにあたって、私には必要だと思うからです。

5年ほど前に考えたときは、日本の仏教宗派での出家に違和感(就
職という感が否めないなど)を感じて考え直してしまいました。先生に出会い、本来の仏道を知り、出家という道がはっきり自身の道として見ることが出来ました。

ですが私はまだ、働いてお金を頂くという生活は続けなければなり
ません。

それを踏まえて考えたのですが、労働は当分これまで通り行い、そ
れ以外の時を仏道に集中し、また人のお役に立てることに使うということです。この考えは可能でしょうか」。

――――――――
A

実は、けっこうな数の方々から「出家したい」というおたよりをい
ただいてきました。年末年始のお便りにもありましたので、今お答えできるところをまとめておきましょう。

※以下はあくまで、草薙龍瞬=興道の里に見えている「出家の方法
」です。

1<日本で出家するコース>

もし日本の宗派の僧籍を得たいなら、どこかの仏教カレッジに入
って僧侶と仏縁もってその道に入るとか、仏教系の大学に入ってから僧堂で修行して住職資格を手に入れるとか、正規の(?)ルートがあります。順調にいっても、五年くらいかかるみたいです。

もちろん、このルートは、既成の日本仏教の枠組に完全に沿ったも
のです。どこぞのお墨付きは得られるかもしれませんが、それが「自身の道」として納得しうるかは、わかりません。

また大きなお寺に配属されれば、娑婆の世界以上の人間関
係が待っている様子です(笑)。
小さな末寺に単身配属されれば、一日中作務が待っています。

収入源は、檀家さん頼み……でも今はそれだけでは生計むずかしく
、副業・兼業している人が多いといいます。

どの宗派にも、確立された規矩(きく:作法)があるし、学ばねばならぬ
ものがあります。ただそれは、

・「寺(親)の後を継ぐために必要」だから

・「坊さんの生活/仏教とは、そういうものだ」と割りきれている
(ある意味、達観している?)

から続けていける(耐えられる)、という面がある様子です。

「自身の救いのため」というような、真面目な求道心を持った人は
、はたしてどのルート・場所なら、納得できるのか――というところは、私には、正直今も分かりません(だからインドまで行ったわけだし、今は独立派(笑))。


2<海外で出家するコース>

○ミャンマーなどで一時出家というのは、比較的簡単です。最初に
どこか瞑想道場に入って、地元の比丘・尼さんと知り合って相談してみれば、道は開ける可能性が高いと思います。

タイやスリランカでも可能ではあります――ただ少なくとも英語が
話せる必要があり、最低一年間は見習いとして生活して、その後、しかるべき人たちに受け容れてもらえれば、手ほどきを受けられるのではないでしょうか。ミャンマーよりは敷居が高い印象があります。


女性の出家は、ミャンマーが一番やりやすい。ただテーラワーダで
は、正式な「比丘尼」は廃止されています。

○いずれにせよ、現地の伝統・しきたりと教義にきっちりはまらな
ければいけないし、国とサンガの管理下に〝生涯〟きっちりおかれます。生き方や思想の自由はもちろんのこと、活動の自由もありません。また現地で説かれている仏教は、輪廻信仰とか、お守り代わりの読経とか、現代の日本人からすると相当に古く「非合理」に映るかとも思います。

生活も楽ではありません。東南アジアで比較的めぐまれているのは
、タイでしょうが、それでも十年続く出家は、十人にひとりもいないと言われています(要は、退屈・苦痛なのです)。

瞑想だけをやっていく覚悟なら、彼の地でもやっていけるかもしれ
ません。ただ、真剣に瞑想三昧、というのは、高い確率で「飽き」がきます。そもそも何年も(だらだらと)やるべきものではありません。

(自己満足レベルの瞑想ならそれでもよいでしょうが、涅槃とか解脱とかいう特殊な体験をしたければ短期決戦です。その意味で、「長年出家」というのは、厳密に言うと合理性がないのかもしれません)。

真摯な求道心を持つ人々と、形式・伝統が日常と化してしまった人々――
職業僧侶も含む――との間には、けっこう温度差があるのです。これは日本も海外も同じです。体温(求道心)が本当に高い人というのは、海外に出たところで多くありません

その点で、いざ「仏教」の世界に入ることになれば、モチベーショ
ンの維持が難しくなるだろうことは、今から見ておくべきかもしれません。(うーん、仏教ってそんな世界なのか……と改めて思ふ(笑))

あるいは、台湾に行ってみるか――おそらく世界で唯一、女性の出家が認められている国です。

日本の仏教とベースは共通しているので、違和感はミャンマーより少ないかもしれない。ひとつの道になるかも? 私自身体験していないので、あくまで見聞の範囲ですが。少なくとも、よい体験にはなると思います。


◎総じて――「仏教」の世界を、どこかで見聞深めて、体験してみるというのは、自身の納得という点でかなり大事です。その世界で一生生きていくかというのは、別の問題。

私も納得できたから、その後、日本で活動しています。

だから、もし「出家したい」という気持ちが強いのなら、思いきっ
て海外に出てみることも選択肢かもしれません。
(現実的な話ですが、経済的には日本より安くすみます)。

あ、台湾は、60歳をすぎると門戸は閉まります――なんだか、ど
の場所も形式的だなあ……(笑)。


次回は、私=草薙龍瞬がたずさわることのできるオリジナル出家コースについて





【出家、インドをゆく】綿の花

1月22日(日)
ウダサ村から車で20分ほど、サレーという区域で一年ぶりの記念祭。ここは私たちの新しい寺が建ちつつある場所である。

まず午前中に、お寺の落慶法要を務める(とは言え、日本人が想像するお寺の法要とはかなり違う(笑))。

行ってみると、小さな白いお堂が建っている。去年は何もなかったが、みなでお金を出し合って、一年以内にここまで作り上げたそうである。大きな仏像も置いてある(寄贈した男性が誇らしげだった(笑))。

現地の習慣で足を洗っていただきます

白くてきれいな新しい寺で法要
どんどん地元の行事に活用してほしいと伝える。一週間に一度くらい、ここでみんなでお茶会をするのはどうだろう。勉強会とか家事フリーのお昼寝会(笑)とか。どんな行事が可能かみなで話し合ってみれば、という話。そして昼食。

インドでは、食事も現場で作ってしまう。運び込んだレンガを積み上げて即席のかまどを作り、そこに大きな鉄鍋を置いて、ご飯を炊いて、ダール(豆を摺って作った汁物で、日本でいえばカレー)を作る。それを大きな葉っぱに盛って、手匙で食べる。

私の皿にはお匙つけてくれてます

●午後からは、記念祭。何の記念かというと、この場所で始まった、仏教にもとづく社会改善運動を祝うものである。


仏教旗を掲げるところからスタート。青空がきれいでした。
事の発端は、私とラケシュら地元の青年たちで、2009年にNGO (GENUINE DHAMMA INTERNATIONAL)を立ち上げたこと。

そのうち、地元で人望を集めるラケシュのところに、お寺を建てるための敷地を提供したいと言って来た男性3人が現われた。

寺の代表は私(草薙龍瞬)で、寺と施設の建立資金は、地元の人たちが出し合う。形だけの寺では意味がないので、インド社会をよき方向に変えていく活動の前線基地にしようと話をしていた。

最初に行ったときは、何もない草原だったが、今回は、白いお寺が建っていた(日本でいえば集会所的な作り)。

みんな、農民でけして裕福ではないのだが、懐を分け合って着実に形を作りつつある。このあたりの篤実さには、毎回感銘を受ける。

毎年1月の第4日曜が記念祭という形で定着しつつある。大きなバナー(横断幕)を掲げて、演壇を作って、そこで数人のゲストスピーカーがスピーチをする。

●私も話(仏教の話なのだから、ダンマ・スピーチ、つまり法話ということになる。だがなぜ日本語に置き換えるといかめしくなってしまうのだろうか(笑))。


今回は、ニュートラルの話をする。感情には三種類あって、快か不快かニュートラルか。人間はニュートラルを苦痛に感じて、快か不快かの往復を始めてしまう(ここで実際に反復横跳びをして見せてウケをとる(笑))。

ブッダもババサブも過去の偉人たちはみんなニュートラルだったという話。

しかしその快というのが、ただの娯楽や怠惰や飲酒(現地ではアルコール中毒者がかなり多い)というのでは、あとに何も残らない。

快に流れることに慣れてしまうと、心は快か不快かの刺激だけを追いかけるようになってしまって、どんどん疲弊し混乱していく。

そもそもそうした心は、刺激に反応しているだけで「快」でもなかったりする(むしろ苦痛な)のだが、反応に慣れてしまうと、そのことがわからなくなる。

ほんとは、ニュートラルが心の基本になればいい。快か不快かの感情の「真ん中」に立つこと。心を動かさないことに慣れること。それが「喜び」だと思えること。

たとえあなたの夫(会場の6割くらいは女性だった)が飲んだくれのアホな男でも(笑)、反応するだけならこちらも不快になってしまう。これは仏教でいえば「負け」を意味する。

あなたもブッダやババサブ(アンベドカル博士)のようにニュートラルでい続けよう――という話。

ニュートラルになる方法として、瞑想の仕方をガイダンス。音楽担当のプロのDJ(とはいえ丸顔のおじさんだが)の男性に壇上に上がってもらって、瞑想をやってもらう。

DJにも上がってもらって瞑想の実演。体張ってます(笑)。
今後は、この場所に大きめの講堂を作って、瞑想や仏教の教室を開く予定(寄付を呼びかけると早速少年がお金もって壇上へ)。

まずは、現地で増えているというアルコール依存症の男たちに1、2週間の療養キャンプを開きたいという提案があった。

4月から6月の間がベストという(来年以降、日程調整をせねばなるまい。体が3つくらいあれば、とこういう時に限って思う(笑))。

ウダサと、ナグプールと、ナーランダに、それぞれ小さなゲストハウスを作ろうという話も。そしたら、日本人など外国人が各地で長期滞在できる。どの場所にも拠点が必要だ。それが整えば、実のある活動を起こしやすくなる。

外から会場を見るとこんな感じ。

●私がインドにきてから十年が経ったが、ここまで私が貢献できた時間はあまりに少なかった。まずは日本での活動を軌道に乗せれば、インドに長期滞在することも可能になるだろうと思って頑張ってきた。

その甲斐あって、日本を2カ月離れても差し支えの少ない状況になってきた。もう少しであろう。(この点で、どこでも仕事ができる文筆業をいっそう軌道に乗せることが意味を持つ。今年は物書きとしてもプロになりきれるように精進せねばならぬ。)

一年ぶりのインドは、やはり体力を要する。快適な日本での暮らしに馴染みすぎると、こちらでの生活が重くなる。

出家はどこまでも無一文、無一物の心がまえでいなければならぬ。喩えるに、このインドの地でホームレスになっても路上のゴミ掃除から黙々と始められるような、それくらいの道心でいなければならぬ。

会場の外は綿花畑。今年は豊作だそう。それでも、インドでは毎年農家の自殺者は数万人を越える(地代を払えないため)。