仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

もうすぐ春


こんにちは、草薙龍瞬です。

日射しが急速に春に近づいた気がします。市ヶ谷の御濠の桜も、鮮やかな紅の色を発していました。

神楽坂の講座は、5月から。4月からは各地のカルチャーでの講座が再開します。


○草薙龍瞬と興道の里の活動は、つねに最善の方向性――

この世界に、

幸福や、
心の痛みの軽減や、
相互への信頼など、

プラスの価値を創造すること――に向けられています(かなりベタな表現ですが(笑))。

その方向性を見すえて、仏教というひとつのツール(手段)を、


特定の立場に偏った「宗教」ではなく、

どこまでもオープンで共有可能な「方法」として、伝えていくこと。

そこに、私の活動の生命線があると心得ています。


○今の時代は、人間の心を暗い方向へと引きずり込もうとする、


曲解や悪意に満ちた言葉や、
虚偽の情報や、
悲観と猜疑を刺激するだけの事件・話題が、

溢れています。

しかし、そうした言葉がいくら広がっても、人類、社会、一人ひとりの生活や心が、いい方向に進むことはありません。

少なくとも、私自身の言葉は、そうした時流に巻き込まれないように、しっかり「純度」を守っていかねば、と思っています。

本の言葉も、一言一句、自分の言葉で。

メディアに掲載していただく言葉も、どれも私自身の、誰かに向けての励ましと善意を込めた言葉です。

この道を見出すまで、40年以上かかっています。なんども絶望しています(笑)。

その果てに紡ぎ出された真実の言葉だと思って、ぜひ受け止めてください。

 
○この世界に生きている誰かが、よき方向性を心に取り戻し、自分を立て直す「道」を、見つけられるように。

そのために、私は、本や講座を通して、真実であり役に立つ、と自ら確信できる言葉だけを、世俗に染まらぬ出家の立場で、徹底的に洗練させて、送り出していきます。




その、細く、小さな道を、しっかり先に延ばしていきたいと思います。



これを、共有可能な言葉におきかえるなら、

「いい人生を生きたいと願うなら、善き動機に立って、一日一日を地道に生きるしかない」


ということです。





興道の里、活動再開!

こんにちは、草薙龍瞬です。

日本に帰ってきてしばらく経ちましたが、まだ「ジャパンに来たんだなぁ」感がただよっています(笑)。

とてもきれいで、繊細で、お金持ちの国です。ただ、

繊細すぎて不必要に傷つけられたり傷つけたり、

世間を気にして自分らしさを見失ってしまったり、

気苦労を洗い流す時間的余裕や、生活の変化がなくて、よからぬ(不健康な)精神状態を引きずってしまったりと、

どんよりと低調気味に続いている心境も、いろんな場所から伝わってくる感じがします。


「世にあって、世に染まらない」生き方を。

それを実現するには、「今自分にできる、正しいこと」に戻るしかありません。「ダンマに立つ」です。



感覚を感じようとしていますか? 

自分のなかの執着や妄想に気づいていますか? 

ついつい湧いてくる怒りや記憶や妄想にしがみついて、自分から暗い精神状態に落ち込んではいませんか?


「目を醒ます」「心を洗う」ためには、多少の勇気というか、決意がいります。

ラクなほうを選んだら、心は「反応したいよ~」という性質にまかせて、暗い感情と妄想をどんどん作りだします。

ここは毅然と、反応の連鎖を断ち切らねばなりません。「いらないよ」と、宣言してください。
そして、今できること、なすべきこと、自分に有意義なこと、に帰ってください。


●さて、連休最後の3月20日は、日本での活動再開の始めとして、渋谷で、働く母親向けの講演会に出かけてきました。

楽しかったのが、1歳未満の乳幼児がふたり、ママと一緒に参加してくれたことです。

二人とも、すっごくいい子でした。グズらず、上機嫌に、静かに聞いてくれました。

ひとりは、話の後半に、私のほうをじいっと見入って、熱心に聞いてくれていました。目が合うとにっこり笑おうとする。

もうひとりは、最後の記念撮影のときに、ママが私の膝に乗せてくれました。嫌がることもなく、ニュートラルに身をあずけて、一緒に写真をとりました。

赤ちゃんは、肌がプニプニしていて、みずみずしい(笑)。みなさんも抱っこしているときは、まず肌を通して、赤ちゃんと会話をしてください。 カラダでしっかり感じとることです。


大人は、たくさん荷物――業とか、執着とか、妄想とか、雑事にまみれてのイライラ・ストレス・疲労感とか――を、すでに背負ってしまっています。重たすぎる。

その重たい心で、子供に向き合ったら、当然、イライラや「もうなにやってんの!!!」という反応になってしまいます。

でも、その反応は、子供が原因というより、自分が背負ってしまっている荷物ゆえなのです。
「子供に罪はないし、責任もない」というのが、実態だったりします。


また、子供の心は、感覚と感情くらいで、まだ「思考」レベルにまで知能が発達していません。

大人は「思考」をもって、アレコレと考えて、子供の言動を裁いたり、正したりしようとしてしまいがちですが、子供は、それを理解できません。

ただ、そういう(何を考えているのか子供にはわからない)大人の姿を見て、

恐がったり、怯えたり、もうちょっと成長すると反抗したり、

体が大きくなるともっともっと反抗して、逃げて、家に寄りつかなくなったり、親を軽蔑したり……という事態になってきます。

幼い子が「ウソをつくようになった」というのは、親が恐いから、という可能性が高いです。それくらい、大人の怒りを感じとっているということかもしれないのです。


●どうすればいいか?といえば、やっぱり「理解する」という心がけです。

勝手に怒ってないか、判断していないか、自分の都合を前提にして理屈や妄想をふくらませていないか。

「なにを感じているの?」

「なにをしているの?」

「どう思うの?」

「じゃ、これをしようか」


と、理解から入って、同じ立場に立って、「これからこうしよう」と呼びかけるだけで、ほんとはよかったりします。

人間の心というのは、「理解される」ことが、一番うれしいのです。子供にしてみれば、自分のことを怒らず、裁かず、押しつけず、まずは見ていてくれる、わかってくれる、聞いてくれる、と思えること。

そういう思いを持てたら、子供は大人を信用します。理解されると嬉しいから、期待に応えようと頑張ったり、助けてあげようとしたり、いろんなリアクションを返してくれるようになります。

これは、人間なら誰にでも当てはまります。だから、親のみならず、人と人とが関わる時の基本は、

①自分の心を理解し、②相手の心を理解する、ということが基本になるのです。


もし、自分の精神状態がよくないな、と感じていたら、そんな自分の状態を理解してください。そのうえで「何をすれば、気持ちがいいか」を、真面目に思い出してください。

もし、相手が言うことをきいてくれないな、わかりあえていないなと、感じたら、その時点で執着・妄想にストップをかけて、相手の心情をよく理解するように、心がけてください。

裁く、期待する、判断する、要求する、相手の姿に不満を持つ――ほんとは、どれも「執着」でしかありません。

そこを抜けるのは、簡単ではありませんが、でも「いやいや、自分が見えていないんだな」と、冷静に気づくことです。

そして、相手を理解して、うけとめる勇気をもつことです。


●親子関係なら、これから何十年も続くわけですから、先は長い。「相手を理解する」という心がけを基本にすえて、練習を始めることです。

妄想せず、反応せず、判断せず、執着せず、「ただ理解する」という心境を、理解できるようになるには、相当時間がかかるはずです。ほとんどの人は、練習したことがありませんから。

ただ、理解するという心がけを今後深めていくことは、必ずプラスの変化を、自分にも、相手にも、関係にも、もたらします。精進する道に、ソンはありません。頑張りたいものです。


●今後の講座日程

※4月末まで、個人相談・カウセンリングを優先的に受け付けます。ご希望の方はご連絡ください。

3月24日/31日(金)18:30 ~ 20:30
朝日カルチャー新宿 「反応しない心のつくり方~上手に心を使う練習」 全2回(3月24日・31日)

3月 25日(土)10:00 ~ 12:00
東武池袋 ★仏教ガイダンス 草薙龍瞬の『仏教とともに生きる』
――――――――――――――――――――――――
4月 8日/22日(土)10:00 ~ 12:00
東武カルチュア ★シリーズ講座 生き方として学ぶ仏教入門・第1回(第2・4土曜午前)

4月13日/27日(木)14:00 ~ 16:00
巣鴨・大人のための仏教の学校 - 巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り

4月18日(火)
名古屋栄中日センター 仏教講座「ほんとうの人生の始まり(道に立つ)」
 
4月19日(水)10:30 ~ 12:00/13:30~15:00
東急BE〝心の上手な育てかた&使いかた〟仏教解説と禅瞑想つき -東急BE二子玉川/東急BEたまプラーザ

4月21日(金)18:30 ~ 20:30
朝日カルチャー新宿 反応しない心のつくり方~上手に心を使う練習 全4回・第1回(単回受講可)
 4月30日(日)10:00 ~ 12:00
仏教入門「悩みを溜めない心の使い方」★要予約/初めての方優先
神楽坂・赤城生涯学習館
――――――――――――――――――――――――
5月3日(祝水)18:00 ~ 20:30
生き方としての仏教講座 神楽坂 - 神楽坂・赤城生涯学習館

5月4日(祝木)
10:00 ~12:00 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき - 神楽坂・赤城生涯学習館
18:00 ~20:30 生き方としての仏教講座 神楽坂 - 神楽坂・赤城生涯学習館

5月5日(祝金)
13:00 ~15:30 人間関係特集「夫婦・子育て・職場で苦労しないコツ」 神楽坂・赤城生涯学習館

18:00 ~20:30 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき  神楽坂・赤城生涯学習館

5月6日(土)18:00 ~ 20:30
生き方としての仏教講座 神楽坂・赤城生涯学習館

5月7日(日)
10:00 ~12:00  座禅と法話のひととき 神楽坂・赤城生涯学習館
18:00 ~20:30 坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座 神楽坂・赤城生涯学習館

5月11日/25日(木)14:00 ~ 16:00
巣鴨・大人のための仏教の学校 - 巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り

5月12日(金)18:30 ~ 20:30
朝日カルチャー新宿 反応しない心のつくり方~上手に心を使う練習 全4回・第2回

5月13日(土)10:00 ~ 12:00
東武カルチュア 生き方として学ぶ仏教入門(第2・4土曜午前)

5月14日(日)18:00 ~ 20:30
坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座 神楽坂・赤城生涯学習館

5月16日(火)
名古屋栄中日センター 仏教講座「人間関係の基本(慈・悲・喜・捨の心)」

5月17日(水) 東急BE〝心の上手な育てかた&使いかた〟仏教解説と禅瞑想つき
10:30 ~12:00 東急BE二子玉川/13:30 ~15:00 東急BEたまプラーザ

5月21日(日)18:00 ~ 20:30
坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座 神楽坂・赤城生涯学習館












ふたたび、出家、日本をゆく(帰国報告^^)


こんにちは、草薙龍瞬です。ようやく日本に帰ってきました。

今回は、長かった~~~~というより、なんか中途半端?な感じが残りました。

なんというか、全体的に、のどか(笑)。いつものような、仏教徒の誰が自殺したとか、殺されたとか、そういう闘いを求められる場面に、直面しなかったというのが、ひとつです。


その代わりに、劇的な出会いがありました。


◎ひとつは、仏教が滅び、今やカースト差別がまかりとおる「ラージギル」(日本では「王舎城」)で、現地に生きる不可触カーストの仏教徒たちに出会ったこと。


◎ヴァイシャ―リーという、これもブッダゆかりの土地の近くで、「ブッダトラ」という地名の、純粋な仏教徒たちのコミュニティを発見したこと。

この区域は、ブッダに帰依した婦人アンバパーリ―の生まれ故郷です。彼女がブッダたちに寄進したとされるマンゴー園がありました。

ブッダはこの村はずれの洞窟で、ひと安居(雨季の滞在)を過ごしたのだとか。ここは、知られざる仏教スポットだったのです!


◎さらに、「パルヴァッティ」という土地では、ブッダがインドラ神からの42の問いに答えたという伝説がある洞窟がありました。その洞窟を管理する人たちもまた、純粋な仏教徒でした。


◎そして、久々に再会したナーランダ大学長のダンマジョーティ師が連れて行ってくれた、ブッダと同じシャカ族の末裔たちの部落も。あの「シャカ族」です。

中には、ブッダの像を隠して、代わりにその母マーヤを、ヒンズー教のラクシュミ―の姿に似せて、崇拝していた部落も。

ブッダを直接祀っていたら、ヒンズー教徒たちに破壊されるため、こういう戦略を取っていたのです。まるで江戸時代の隠れキリシタンみたいに。


――今回の大きな収穫は、ヒンズー教に侵蝕されていない、原始の仏教コミュニティが、見つかったこと。

ただ彼らは、仏教が何かを、ほとんど知りませんでした。パルヴァッティの村では、「いつもやってるお経言ってみて」といったら、「ブッダーン、サラニャーン、ガッチャ~ミ~……サードゥ!」でおしまい。

洞窟の中で、一緒にパーリ語のお経を唱えたのですが、みな手を合わせて、一生懸命で――(涙)。


今の時代、純粋な仏跡や、仏教徒のコミュニティというのは、ほぼ死滅しています。ブッダガヤや、クシナガラといった、仏教ゆかりの場所でも、管理しているのは、実はバラモンたちです(かっこは坊さんなので、見分けがつかない)。

どの場所にいっても、ヒンズーの祠と、神々の像と、バラモンたちが、大事なところ(たとえば山の頂上とか、仏跡があった場所とか)を占拠してしまっています。


ところが、今回行ったところでは、そのヒンズー教の勢力をほとんど感じない場所が、いくつかあったのです。


インドは広いと感じました。まるで、昔の川口浩[かわぐちひろし]探検隊みたいな心境に(知らないか(笑))。

インドの森深くに、幻の仏教徒コミュニティ発見!!!!みたいな(笑)。


●今後は、ブディズムという思想を、現地の言葉に置き換えて伝えていくことになるでしょう。

力強く、明快なメッセージをもって、彼らの今後を励ましたいと思いました。


頑張れ。ダンマ――人間すべてが幸福になれる道――を、この場所で確保せよ、と。


日本の仏教講座で配っている資料を、まずは英語に。それを現地の仲間に翻訳してもらって、印刷して、彼らのコミュニティに配る。


輪廻などない。カーストもない。人間に苦しみを強いるいかなる理屈も、妄想でしかない。


そのブッダ本来のメッセージに目覚めよ、覚醒せよ。

そしてこの現実の世界のなかで、望みうる最高の生き方を実践せよ。

ブッダが伝えた正しい道に立つのだ――。


そんな思いでした。


とはいえ、現地にいけば、気のよい、純朴な人たちとの、喜の心の交流があるばかりなのですが(笑)。


ちょっと中途半端な思いが残った、というのは、出会いに留まり、その先のブディズムの分かち合い、というところまで、時間的に進められなかったからです。


●ただ今回は、日本でお寄せいただいたご声援と、自分自身の志をけっこう足して、かなりの慈悲、貢献を果たせたように思います。

ご協力いただいたみなさん、どうもありがとうございました。


ふだんは、ヤクルトジョアでさえ、大人買い(といっても2本)をためらうほどの倹約家です。

しかし、この地で人々に出会い、現地の問題を理解して、はて何ができるかを考えた時に差し出せるものというのは、とても自然に、自らの務めであり、友情の証として、出てきます。


そして今回ほど、お金が力になるということを実感したことはありませんでした(実感しなかったのは、発想が貧乏症だし、実際に貧乏だからですね(笑))。


日本に帰って最初の二年は、食いつなぐのに精いっぱい。

その後、本を出せたことで(お陰さまです)、教室に来られる人たちがちょっと増えてきて。その頃は、教室に「竹筒」を置いて、カンパを募っていました。

一年以上かけて、十万円ちょっとさずかったので、それを大事に、4年ぶりにウダサ村に持っていきました。


それが今回は……! 


「たいへんよくできました」です。来年以降も、しっかり持っていかなければ。


そのためにも、ここから日本でまた、しっかり活動したいと思います。


まずは、次の本の原稿を完成させなければ(まだやってないって? 真心こめて作るなら、本は年に多くて数冊です(笑))。


今は連載を二本いただいている(NewsPicksとPHP暮らしラク~る♪)ので、インドでも、帰りの空港内でも、文章を書いていました。

どこでも、ヒマがあれば、何か書いている。それがなんだか、自然にできるようになってきました。


きちんと命を燃やすこと。そのためには、正しい動機と、正しい行いと、正しい方向性とが、必要になるでしょう。

この三つがそろえば、毎日が、ごく自然に回っていける。

十二分に生きていながら、疲労しない、そんな毎日が可能になるように思います。


帰国後は、3月20日の講演会から早速スタート。4月からはカルチャー(東武、東急、朝日)です。神楽坂は、どうするか考えます(笑)。


●とにかく! ブディズムを、ただの宗教、観念、知識、妄想で終わらせないことです。

これは生き方の問題なのです。
自分自身が苦悩を抜け、心の自由を、最高の納得を引き出すための、実践なのです。


勘違いしている言葉が、世の中にはあまりに多い。多すぎます……。


大事なのは、何が仏教か、というより、その仏教で自分の現実がいかに変わるのか、という問題のはず。

おのれのめざすところ、自分自身によしといえる生き方は、一体どこにあるのか?という問題。


そこに答えを出せるなら、仏教じゃなくていい。なんだって、正解です。


そこまで開かれた、突き抜けた、目覚めた発想を、持てぬものか――そんなことも、暗い言葉が飛び交う、せちがらい日本の実情を見るにつけ、感じることがあります。


どのような人生も、やすらぎと自由と喜びと、思いやりと、励ましを、そのゴールに据えること。

そのゴールだけを思い出して、曇りがちな心の眼を醒ますこと。



明るい方向へ、心を立て直すことです。

道は、もうすでにあなたの足元にあるのだから。

歩き出すだけでよいのです。


もうすぐ日本!


【出家、インドをゆく】 ブッダ静寂の旅路


ブッダ静寂の旅路

 車は、煤煙を噴き散らす大型ダンプに挟まれて、ガンジスが小さく見えるほど高くを走る陸橋の上にあった。

 私は、パトナを越えて、ブッダが死期を予感したというヴァイシャーリーという町に向かっていた。

 できることなら、舟でガンジスを渡りたかった。かつてブッダは、マガダ国の商業都市パータリプトラ(現パトナ)の外縁をなぞるガンジス河を、舟で再三渡ったとされる。
 
 原始仏典の中に、八〇歳になったブッダが、今生の最後と自覚して旅した記録が残っている(ブッダ最後の旅=マハーパリニッバーナ・スッタ)。

 ガンジスを越えるときに、ブッダがふと漏らした言葉が伝わっている。

 水に身を浸すことなく橋をかけて、海や湖を渡る人びともある。

 木切れや蔓草を結えた筏をつくって渡る人びともいる。

 智慧ある人が、その智慧をもって渡る河(≒人生)もある。

 今もガンジスは、波なみと水を湛えて、穏やかに豊潤に流れ続ける。岸辺で水を呑む鳥もいれば、飛翔して足を洗う鳥たちもいる。その流れの上を、ブッダは人々に交じって、アーナンダとともに舟で渡った。

 その頃ブッダが使った船着き場は、昔は、ゴータマ・ガート(ゴータマ渡し)と呼ばれていたという。

 だが、異教に酷薄なインドである。そのような名の船着き場は今はどこにもなく、私が知る小さな渡しは、ガンジー・ガートと呼ばれている。高い確率で、この数十年の間にすり替えられたはずである。

 岸に降りたブッダとアーナンダは、再び砂の原を北に向かって歩いて行った。

 ヴァイシャ―リーに延びるこの渋滞の道は、二千五百年の昔も、人々が往来する幹線道路だったと思われる。

 私は、ブッダが見ていた風景が、道中垣間見えることはないかと心働かせながら、車窓の外を眺めていた。

 ふと心が反応するポイントがあった。私は急いで、ドライバーに車を止めさせた。

 道の両脇を、背の高い砂地の土手が遮っている。その斜面を上がった。すると、広々とした緑の地平が見えた。

 棕櫚[しゅろ]の木やマンゴーの林、インド独特の背の低い灌木――だだっ広い砂の原に、緑の木々が点在しながら広がっていた。

 ブッダが近い――私のなかで、そんな感興が湧いてきた。長くインドを旅してきて、はじめて抱いた感慨だった。




 ブッダは、どのような空気を呼吸し、どのような大地を踏みしめて、歩いていたのか。私はその感覚に近づきたくて、しばし緑の灌木の合間をひとり歩いた。

 茅葺[かやぶき]の小屋が、林の合間に点在している。水牛がいる。私の姿を見つけた婦人や子供が、静かに声をかけてくる。



 旅人には食や床の施しをするというのが、インド古来の文化である。おそらく私が訊ねれば、なにかしらの供養を自然に図ってくれるやもしれない。この地で精神修行者が旅することは、難しいことではない。

 ブッダとアーナンダは、ときにひとの厚意を受けながら、ときに樹木の影に憩いながら、この平坦な砂の原を、ひたすら歩き続けたに違いない。

 二人の旅路に、無駄な会話はなかった。ともに心の清浄を基本とする道の者である。互いに距離をとりつつ、サティ(気づき)に務め、ひとの姿や風景に遭遇した時には善き言葉を交わしあった。

 その二人の旅の姿が、仏典に残っている。

 ブッダはアーナンダに告げた。「アーナンダよ、では、お前は随意にすごすがよいYou may spend you own time」

「かしこまりました」と答えて、座から起って敬礼し、右肩を向けてめぐって、近くにある一本の樹の根もとに坐った。


 二人がいかに静寂を、そしてそれぞれの務めを大事にしていたかが、伝わるエピソードである。

 日が落ちれば、木の下にそのまま留まる。座っている時も、横になっている時も、気づきを保つ。外の世界が明るくてもたそがれても、心を観るという務めに影響することはない。


 私が今目の当たりにしている風景は、おそらくブッダが歩いていた頃の景色とそれほど変わらないはずである。だが唯一違っているとすれば、それは音である。

 街道を走る烈しい車のホーンやエンジンの音。気兼ねするという発想のないインド人らしい、ドラムの効いた大音量の音楽。その無秩序にして無節操な音の鳴動が、私の頭上を通り越して、白くかすむ大空となだらかな平地へと浸透していく。

 だが――二五〇〇年の歳月をさかのぼっていくにつれ、これらの音は消えていく。

 もしこの大地から、現代的な音を消去したとすれば、何が現出するだろうか。

 それは、無音の世界である。この果てしなく広く平坦な大地には、音を響かせる渓谷や巌はない。むしろ一切の音を静かに吸い込む、砂と木々があるばかりである。

 音も、風もない。その静寂の世界を歩き続ける二つの命には、俗な人間が作り出す無駄な言葉も動きも、いっさいない。

 さながら大地の一部であるかのように、あたかも樹木のひとつであるかのように、無の心で、遠くから見ればひとか自然か判然とさえしない、小さく二つの影が、音もなく歩いていく――そういう姿であっただろう。

 今私の目に映る、あの遠方の木々の下で、夕暮れに腰を下ろし、気づきを保ち、夜の静寂の帳[とばり]のなかで体を休め、深く心を見つめて、やがて白々と明けてゆく朝もやの中で、新しい一日の始まりを知る――そんな旅路を重ね続けたら、ひとは、どんな心境になりうるであろうか。

 おそらくブッダも、アーナンダも、現代人が想像つかないほどの静寂と澄明の心境のなかで、旅していたのではなかったか。



「道に立つ者」にとって、旅することと、一所に止まることとは、一抹の違いもない。

 命つづくかぎり気づきを保って、心の清浄を心がける。歩く。人に出会う。生き物と遭遇する。そのときは、慈しみと悲と喜の心で交流する。

 その心に、なにひとつ患うことは、ない。



 ヴァイシャ―リーへと一目散に疾走する車でさえ、相当な距離を感じさせる遠い道のりである。

 この道のりを歩いて旅したブッダの末期の眼には、過去の月日は、どのように見えたのであろうか。

 激しい苦行に身を投じた森のこと。悟りをひらいた樹の下のこと。ビンビサーラたち心通い合う友のこと。最初に教えを説いた鹿の園。弟子たちが修行に励んだ竹の林のこと――

 いっさいの思い出が、旅人がふりかえる青々しい山なみのように、はるか遠く霞むように見えていたことであろう。

 ブッダは、自身の肉体の死を予感したとき、住み慣れたラジギールに留まることではなく、旅することを選んだ。おそらく彼は、どこにたどり着こうとも、たどり着けるとも、思っていなかったのではなかったか。 

 人生の最後に彼が選んだのは、この風も音もなく、ただどこまでも穏やかでなだからな大地を、ひたすら歩き続けることであった。

 どこまで歩けるか定かではないが、それは目的ではない。

 過去たしかに生きたという感慨はあっても、記憶の中のいかなる風景にも、執着はしない。

 ただ今ここに生きている命という名の現象を、ひたすら気づきをもって見つめて、いっさいの濁りを心つくらない。

 まるで空を飛ぶ鳥の軌跡のように、何も後に引いて残さない。

 そういうかぎりなく透き通った心境における旅である。

 アーナンダよ、心の向上に努めた者が、一切の思い(こだわり)を留めず、

 苦しみの感情を抱かず、とらわれのない心境にあるとき、

 その者は最上の瞬間にいるのだ。

 これ以上の人生のゴールはない、ということである。

​ いくら想いを馳せても、旅するブッダの澄んだ心は、この世界の、もうどこにも存在しない。

 届きようのない宙[そら]を仰ぎ見ているような気がして、不意にせつなくなった。